昨夜の朝日新聞に載っていた池澤夏樹のコラム。共感を持って読んだ。国歌を教師に歌わせることが思想・良心の自由を侵害しないとした高裁の判決を批判したコラムである。侵害していないわけないだろう。ぼくがもし国歌を歌うよう強制された教師だったら、強制されることに屈辱と恥辱を感じながら、やっぱり歌うだろう。そして自己嫌悪に陥るだろう。これが良心の自由を侵害していないわけはない。国民の生き方や考え方をある方向へと強制するのはファシズムである。
さて、池澤夏樹のコラムは、ここに映画「キャバレー」の有名なシーンをつなげる。この映画を見た人なら、絶対に印象に残っているシーンだろう。ただ、一人苦々しげな顔をして歌を歌わない老人はユダヤ人だという解釈なのだが、うーん、記憶が定かではないのだが(たしかに黒っぽい服を着ていたしユダヤ系だったのかもしれないと思いだしたが)、個人的にはあれはユダヤ系ドイツ人ではないとしたいところだ。あの歌わない老人をユダヤ人としてしまったら、なにかそれだけで説明ついてしまって、色分けもできちゃって、おもしろくないと思う。
国旗国歌法が決まったとき、時の小渕総理は決して強制するようなことはしませんからと言った。しかし少なくとも東京都ではこんな口約束は完全に反故にされた。
これまでにも書いたかもしれないが、僕は憲法を変えること、特に9条を変えることに絶対反対である。この国旗国歌法に代表されるように、なにか一度決まれば絶対になし崩し的に強制されることになるのは間違いないからだ。前にも書いたが、なんとかして国歌を歌わせたがっている人たちが理想としている国は北朝鮮みたいな国なんじゃないだろうか。国を大切に思うとか、国のためにというとき、僕ら一般人はこの国という言葉にどんなものをイメージしているんだろう??国という言葉に郷土とか故郷という情緒的なものをイメージしているんじゃないだろうか。だけど、国歌を歌わせたがっている人たちがイメージしている国は、そんなものではないと思う。
これまで何度も引用してきた文句を、久しぶりにまたコピペしておきましょう。ここの社会という言葉は国という言葉に代えることができます。
「社会は強い者がより強くなるように、富める者がより富むように、力をかざす者がより強い力をかざすことができるように、そのようなことのためにあるのではありません。弱い人間を排除する社会は、私たちに必要な社会ではありません。弱い人間のためにこそ社会はあります。私たちは、そうでないときにはそうであるように社会を変えてゆかなければなりません。」(八尋 光秀「障害は心にはないよ社会にあるんだ」解放出版社)
ところで、池澤夏樹ですが、わたしはこの人の父親の福永武彦が学生時代に大好きでした。全集だか選集だかもまだどこかにあるはず。でも、いまでもまだ読めるんでしょうかね?
-----追記 2011,2/2, 16:55
いや、朝日新聞もねぇ、まったく信用できない新聞で、やめようと何度も思うんだけどねぇ。下の愛読ブログも実に同感。
意外にも朝日とネトウヨは親和性がある、
ただねぇ。こういうコラムがあるからどうもやめられないんだなぁ。
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