新聞でこのニュースを知ったときの気持ちは、言いしれぬ悲しさだった。そして今、
犯人が障害児の若い母親だと発表された。悲しさはさらに深まった。
とんでも無い女だ、なんという母親だ、とみんな思うんだろう。また、女の供述「他の児童と差をつけられて悔しかった」という言葉から、当該障害児施設にたいして疑惑を向ける人もいるんだろう。
むろん、施設からカメラを盗んで加工してプリントしてばらまくっていう行為そのものを擁護するつもりなどない。でも、彼女がそこに至らざるをえなかった事情を思うとき、実はニュースを告げるアナウンサーが眉をしかめて語ることとは違うこの国の社会福祉の貧しさが見えるような気がする。
たとえば、北欧では障害を持った子供を産んだ母親の元には役所からすぐにカウンセラーがやってきて、母親に対する手厚いカウンセリングをしてくれる。障害があろうがなかろうが、子供を社会全体がバックアップしていくシステムがあり、カウンセラーは親に、行政がバックアップしていくから一切の心配は必要はないと明確に告げるそうである。
しかし、日本では個人に任されてしまう。一昔前よりはずっと良くなったとは言え、ひどいときにはそもそも地方自治体の職員がそうした施設の存在を知らなかったりする。さらに昨今の自己責任論で、国連の障害者権利条約なんてどこ吹く風、親に向かって障害児を産んだおまえの責任だと言わんばかりのことをいう人までいる。
だから、障害児の親が一番心配するのは、親亡き後の子供の行く末である。たとえば、今手元にそれがないので、記憶便りだが、山本譲司の「累犯障害者」だったとおもうが、後書きに住居不法侵入で裁判にかけられている知的障害の青年の話があった。彼は一緒に暮らしていた母親が死んだ後、すでに別人が住んでいるかつての母親と住んでいた家に不法侵入したのである。もちろんなにか悪意があったわけではない、単にかつて自分が愛する母と一緒に住んでいた家に戻りたかっただけだ。青年にはそこに自分と母ではなく、他人が住んでいるという事が理解できなかったのである。この話を読んで不安に駆られない障害児の親はいないだろう。
逮捕された母親の暗い怨念を支えてやることのできない日本という国のシステムと、彼女とその子供の事を考えると、ほんとうに暗澹たる思いである。
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