まあね、こういうブログをやれば、いろんな人といろんな形で接触することになるだろうという予感はあったし、こちらも自転車レースだけでなく、どうしても政治的社会的なことも書くつもりだったし、自分の関心に基づいて読書メモや自己流料理の話も書きたかったから、いろいろな反論はむろん覚悟の上で書いているし、正面から反論のコメントをしてくださる方は大切にしたいと思っている。だけどぼくのあずかり知らぬところで憂さ晴らしのように呟かれるのはまっぴらである。もっとも、そんなのぼくの知らないところで呟かれたって、たいていはぼくが知ることはないんだろうけど...
だけど、きょう、ひょんなことから、ぼくのだいぶ前に書いた記事を取り上げてツィッターでこんな風に呟いている人がいることを知った。
-----以下引用
こういう文化(みたいなもの)と言語を(簡単に)結び付けたい人はよく金谷本にひっかかる印象がある。
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-121.html 惨憺たるアンコウ 金谷武洋「日本語は亡びない」
引用終わり---
つぶやいたのは大学の若い先生らしいが、ぼくの記事にコメントをつけずに、仲間内のツィッターでこんなふうに呟いて憂さを晴らす。
みっともないと思う。
金谷の本が専門家の間で不評なのは聞いたことがある、特に生成文法(ってなに?)の専門家が特に批判しているらしいとは聞いたことがあるけど、ぼくは全くの門外漢なので金谷の本を正面から、素人にも分かるように批判したものを読んだことがない。金谷もその本の中で反論を期待すると言っているのに、残念ながら反論本は聞いたことがない。ネットを検索すればあるのかもしれないけど、だったら、そのアドレスをコメントして欲しいものだ。これでは金谷に対する嫉妬以外何も感じられない。実際ぼくの最初に感じた印象は上記の「みっともない」だった。
そもそも、この方が専門の学問でどういう業績を上げているのか、ぼくは知らないし興味もない。あたりまえだ、興味もないことに興味を持つほど暇人ではない。ただ、金谷の本は圧倒的なおもしろさがあった。それをぼくは書いたつもりだ。ところがこの方はぼくが「ひっかかった」という(この見下ろすような物言いのなんとすばらしいこと!)。さらにはぼくに安直に日本語と文化(のようなもの)をくっつけたがる奴だとレッテルを貼る。ぼくはチョウチョじゃないからかってにレッテルを貼らないで欲しい。
だが学問って、文化や社会、言葉を変えれば生身の人間の生とつながらないところでやっていたら単なるオタクだろうと思う。ま、これもあまりに安直な断定だけどね。
上記のつぶやきをした方がこの記事を読む可能性はあまりないだろうけど、こういうことを書かれたことを知ってしまった以上、やはり書いておきたい。上記のツィッターに登録して抗議しようかとも思ったけど、わざわざ直接けんかを売りに行くのもどうかと思うので、ここで間接的に抗議しておく。もし、この方がこの記事を読んで何らかの反応をしてくだされば、あとはそれからの話だろう。
今回はマルティンの日記を読みに来ていただいたのに、個人的な鬱憤にお付き合いしてくださり、誠に申し訳ありませんでした m(__)m どうやらマルティンの最終日の日記はなしのようです。
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