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映画「ザ・ウェイブ」(ほぼネタバレ)

2017.08.22.18:22



非常にわかりやすい映画だし、現代社会のいろんなケースを連想することは容易だろう。原作者はアメリカ人で、自分自身の経験をもとにしたものらしいが、それを現在のドイツに置き換えてある。

高校の体験授業で独裁制について教えることになった教師が、まず、授業中だけ、自分のことを苗字に「さん」づけで呼ぶこと、というルールを決めると、最初のうちは面白がっていたり反抗的だった生徒たちが、徐々にクラスの一体感を感じ始めて、どんどん暴走する。

確かにクラスがまとまって、それまでクラスの中では異端とみなされていたトルコ系の生徒も差別感を感じないようになれる。それまでいじめられていた生徒がそうした一体感の中でどんどん気が大きくなり、エスカレートしていく。

みんなで白いシャツとジーンズという「制服」や、挨拶のポーズを決めて、HPを立ち上げ、シンボルマークまで作って、街中のあちこちにいたずら書きを始める。

ちょっとしたカリスマ性があれば大衆操作なんてチョロいチョロい。しかも教師が言わなくても、生徒たちがどんどん忖度して、ユニフォームを着てなければ仲間はずれにしたりする。

仲間で団結するということは、仲間でないものに対しては排除したり敵意を見せたりしがちなのである。

しかもこの映画では、主人公の教師は最初から人望があったり、カリスマ性があったわけではない。最初の授業で自分のことを「さん」付けの苗字(それまではファーストネームで呼んでいた)で呼び、発言するときは立ち上がってすること、と決めたことから、自然と教師に権威ができてくる。

昔、日韓W杯で最優秀選手になったドイツのGKオリバー・カーンが、TV番組?で日本人の小学生たちを相手にアドバイスした時、日本人小学生たちの行儀の良さに呆れたとコメントしていた。ドイツの小学生たちはもっと行儀が悪いし、おしゃべりはうるさいし、話を聞いてないやつもたくさんいるのに、日本の小学生はすごい!と、半分呆れながら感心していた。ある意味、ドイツから見たら日本の学校なんてのはかなりの管理教育に見えるんだろうね。

それはともかく、こうしてクラスに一体感が出てくるとともに生徒たちの学習意欲も高まるし、不良たちと付き合っていた生徒も真面目になる。管理する側が独裁的な手法をとると、人は容易にそれに快感を覚え、生きがいを感じるとともに、管理する側もとても楽ちんになるわけだ。権力者が独裁制に憧れる理由もよく分かる。安倍さまを支持するネトウヨ、なんていうのが簡単に連想できるシチュエーションではある。

俳優は教師役が「エーミールと探偵たち」で悪役をやったユルゲン・フォーゲル。「エーミール」では歯並びの悪い、いかにも悪党そうな、一種吸血鬼じみた雰囲気を出していた。

あまり他の映画で見ないな、と思っていたんだけど、少し前に見た「ローゼン・シュトラッセ」に出ていた。

主人公の生徒もどこかで見たなと思ったら、「ナポラ」の主役。そういえば監督も「ナポラ」の監督だった。




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映画「哭声(コクソン)」を解釈する(完全ネタバレ)

2017.08.15.23:48



いやぁ、12日にツタヤディスカスで見たんですが、見終わってから、いったい今のは何だったんだ?と圧倒されました。で、14日にもう一度見ました。でも、やっぱり話がわからんわぁ、というわけで、今3度目を見終わりました。

普通そういうわけのわからん映画は途中退屈するものなんでしょうけど、この映画はテンポが良くて約2時間半もあるんだけど、三回見ても全く退屈しません。圧倒的な面白さ、これは間違いありません。

色々と解釈を誘う餌がたくさん撒かれています。伏線もあちこちにあるようで、だけど、どうもそれがよくわかりません。そもそもが國村準の怪しい日本人が釣りをして餌をハリに付けているシーンから始まり、それがこの映画のテーマにも繋がるようです。キリスト教のイメージがあちこちに出てきます。

以下、この映画を見た方だけ読んでくださいませ 笑)

お話は韓国のコクソンという田舎の村で身内による一家惨殺事件が連続して起こります。主人公はこの村の警官で、10歳ぐらいのおしゃまな娘がいます。一家惨殺事件は犯人が捕まるけど、動機も何もわからず、毒キノコのせいだとされますが、村人は、山間にいついた日本人が悪霊で、彼が何かしているのではないかと噂しています。そもそもがフンドシ一丁で山の中で死んだシカに食らいついているのを見たという者もいたりします。また、その日本人の住む家には悪魔崇拝と思しき道具が祀られ、事件で殺された人たちの写真がたくさん重なるように壁に貼られています。主人公たちがそこへ行こうとすると、その目撃証言をした男は突然の雷に打たれて瀕死で病院に担ぎ込まれます。

事件現場を始め、血まみれで汚くおどろおどろしく、ホラー映画やスプラッターが苦手なので、見始めてしばらくはどうも僕の好きなタイプの映画ではなさそうだな、と思ったんですが。。。しかも、韓国映画特有の騒々しさ(病院で患者が発作を起こしたって、看護師たちはあんなに慌てて大騒ぎで叫び回るはずはない)も、ちょっとなぁ、と思ったんですが。。。

主要登場人物は主役の警官とその家族(主に娘)、國村隼演じる悪霊と噂される日本人、悪霊払いの呪術師、それに白服の若い女で、國村、呪術師、白服女の三人が何かの象徴とか比喩のようなんですが、それがまるで一筋縄でいかない。

主人公の警官の娘が突然悪霊に取り憑かれたかのように豹変します。もう誰もが連想するのがエクソシストでしょう。どうやら噂の悪霊國村準と会ったようで、しかもノートに描かれている絵などから推測すると、國村隼に暴行されたのではないか、と思われる節もあります。

そこで、悪霊を払うために高名な呪術師が呼ばれ、悪魔払いを行い、國村隼に「殺(さつ)」を打ちます。つまり呪い殺そうとするわけです。このシーン、韓国の呪術的なものなのでしょうか、ナイフを手にいかにも韓国風の衣装を身につけて、音楽に乗って踊りながら、犠牲の鶏や羊を殺して血まみれになりながら、最後は丑の刻参りのように木造に釘を打ち付けていきます。

これに対して山奥のあばら家に住む國村隼の方は仏教のお坊さんのような風体で、こちらも鶏?を天井からぶら下げて、ろうそくを立てて、羊の頭に向かって呪文を唱えます。明らかに悪魔崇拝のイメージです。韓国対日本の呪術合戦だか超能力合戦のようで、ここまでは悪い日本人の悪霊を良い呪術師が退治するような感じですし、國村も呪術合戦に敗れて気を失ったように見えます。ところが、一番苦しんでいるのが娘本人で、見かねた主人公は呪術師の「殺」を打つのをやめさせてしまいます。あ〜、もう少しで悪霊國村隼をやっつけることができるところだったのに。

で、主人公はカトリックの神父見習いら、友人たちと一緒に國村隼を追い詰めて殺そうとしますが、ここで何故か村で起きた第三の殺人事件の、森の車の中で死んでいた犯人がゾンビのように彼らに襲いかかってきます。エクソシストからゾンビ映画と、まあホラー系が次々登場 笑) 

で、何かよくわからないまま、主人公たちはゾンビをやっつけた後、トラックに乗って帰る途中で山から?落ちてきた?國村隼に衝突、死体を崖から落として証拠隠滅します。これまたなぜかそれを山の中で見下ろしている白服の女。
(追記8/23、昨日車を運転しながら、突然國村隼が落ちてきたシーンを思い出しました 笑) あれは白い服の女に追われて逃げていたんじゃないだろうか?で、山から落ちて、下を走っていた主人公のトラックのフロントガラスに突っ込んだ。結局、國村も韓国の呪術師(祈祷師)も白服の女にはかなわない存在なのでしょう。)

主人公が病院に戻ると娘は回復していて、家族で泣きながら喜びます。ところがこれと前後して、呪術で占いをしていた呪術師が、愚か者め、餌に食らいつきやがって、と笑みを浮かべながら謎のセリフを吐きます。

何れにしても、これで事件は終わったかと思うと、主人公の同僚の警察官が第四の一家皆殺し事件を起こします。あれ? 國村隼は死んだのに?

一方、呪術師はと言うと、白服の女に会って、突然大量の鼻血を出したかと思うと、続けて赤と白の液体をとめどなく(文字通りポンプのように)嘔吐し、大慌てで村を逃げていきますが、途中突然車のフロントガラスが鳥の糞で見えなくなるほどになり、パニックを起こしながらも、主人公に電話で連絡して村に戻っていきます。その際、主人公に、自分は見誤っていた、白服の女こそ悪霊で、國村は悪霊ではなく、あの女を退治して村人を助けようとしていたのだと言います。

この辺りからいくつものシーンの切り返しがテンポ良く同時進行していきます。一つは家から再び失踪した娘を追う主人公が白服の女と会って、鶏が3度泣くまでに家に帰ると一家皆殺しされると言われます。鶏が3度泣くっていうのは、聖書の有名なペテロの否認を連想させます。バッハのマタイ受難曲の有名なアリアになっているところですね。

一方國村隼が住んでいたあばら家へ向かった神父見習いは、なぜか生き返っている國村隼と、十字架を手にしながら対決しています。ここで國村が言うセリフが聖書の中でキリストが復活した後、それを信じない弟子に言うセリフで、しかも手を出すと手のひらに聖痕(キリストが磔にされた時の傷)があります。え?國村はキリスト? と思う間も無く、突然カメラを構えると怯えている見習いの写真を撮り始めます。同時に彼の姿はいわゆる完全な悪魔の姿に変貌。

主人公の家では、明らかに悪霊に取り憑かれた様子の娘が、驚き呆然とする母と祖母と向き合っています。

祈祷師は車に乗りながら電話で主人公に、早く家に戻れと、女とは真逆のことを言います。女は國村と呪術師は悪霊でグルだと言います。

もうこうなると誰が善玉でどいつが悪魔なのかが見当もつきません。女は主人公を何とか引きとめようとしますが、結局家に戻ってしまい、そこで見たものは血まみれの室内で死んでいる妻と母と、包丁を手に血まみれで立っている娘。

最後土砂降りの雨の中、呪術師が主人公の家にやってきて、死者や瀕死の?主人公を写真に撮って帰っていきます。彼の車の中には以前國村準の家の壁に貼られていた殺された人々の写真がたくさんあります。最後、瀕死?の主人公がうわ言のように娘を気遣うシーンで映画は終わります。

え〜? 白服の女はどうなった? 神父見習いと國村隼の対決は? というわけで、この後は、一応僕なりの解釈です。

白服の女が言うことが正しいのでしょう。國村と呪術師はグルなのでしょう。最後にこの二人は写真を撮っていますから、國村に写真を撮られた神父見習いは、この後殺されるのでしょう。この二人が悪の象徴だろうと考えていいような気がします。しかし、悪魔払いの儀式で呪術師は國村を呪い殺そうとし、一方國村も対抗防衛呪文を唱えていたではないか、と思うのですが、実は國村の呪文は死者復活の呪文だったのではないかと思われるのです。その後のシーンで森の中の車の中で死んでいた第三の殺人事件の犯人の死体を確認に行き、そこにいなくなっているのを見ていますから、あれは自分の死者復活の呪文の効果を確認しに行ったのではないか。

そして、呪術師の儀式で苦しんでいたのは実は國村ではなく娘だったのではないかと思われます。確かに悪魔払いの時に取り付いた悪魔が苦しむ=娘が苦しむ、というのはエクソシストでもそうでしたが。。。では、國村はなぜあのとき苦しみ気を失うのか? ところがさすがに3度も見ると、このシーンの直後に白服の女がチラッと映るのに気がつきます。つまり、この後、呪術師もこの女と会うと大量のゲロを吐いて大慌てで逃げていきますから、國村と呪術師にとってはこの女は大敵ということなのでしょう。

では白い服の女が善を象徴するのか、というと、どうもそうでもなさそうです。彼女は何もしないし、そのサゼスチョンも結局何の役にも立ちませんでしたから。ふと思ったのが黒澤明の「乱」の最後、あまりの悲劇にピーターが泣きながら神も仏もありゃしないと神を呪うと、お付きの武将が、いや、違う、神はただ泣いているのだ、愚かな人間どもを見て泣いているのだ、とか言うシーンを思い出しました。白い服の女はそういう意味での無力な神かな?と。

あちこちにまだまだいろんなイメージがばらまかれています。國村の周りにはカラスや黒犬がいますが、ベルイマンの「処女の泉」にも出てくるように、カラスは悪の使いですし、黒犬はひょっとしたら「ファウスト」の悪魔メフィストフェーレスが黒いムク犬の姿で登場すること(ちなみに黒澤明の「生きる」でもこのシーンを思わせる伊藤雄之助のセリフがあります)を暗示しているかもしれません。まだまだ見落としがあるかもしれませんが、まあ、このくらいでおしまいにします。最後まで読んでくださった方には感謝します。また、この映画を見た方のご意見もコメントいただければ嬉しいです。

8月15日、73回目の敗戦の日に。

……追記 8/18 23:03……
先ほど町山智浩さんの「映画むだ話」にあるこの映画の解説がなかなかいいという方のブログを読んで、200円強で購入してみました 笑)僕の解釈と同じ方向性だし、白服の女は神だというのは、やっぱり、と嬉しかったですね。それはともかく、さすがに映画解説を生業としている人は細かいところの見方が違いますね。聖書の「ヨブ記」を出してくるのなんか、なるほどねぇ、と感心しました。ただ一箇所事実誤認があります。町山さん、あれは白い蛾じゃなくて大量の鳥の糞だよ 笑) まあ、それはご愛嬌としても、いろんなところで、なるほどね、と自分の解釈に付け加えるべきことを考えさせられました。有料ですが、オススメです。



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映画「ヒトラーへの285枚の葉書」(いろいろネタバレ)

2017.07.22.22:54

昨日は仕事の後に「ベルギー奇想の系譜展」を見て、さらに夕方この映画を見てから、日本最年長DJのいる餃子屋さんで痛飲。 

というわけでこの映画、以前その原作「ベルリンに一人死す」について書きました。原作は傑作だと思います。映画はこの原作を知っていると、登場人物がかなり「映画的」になっています 笑) つまり、小説より人間関係がわかりやすくなっているし、かなりマイルドです。



密かに反ヒトラーのビラを配る主人公クヴァンゲル夫妻は、自分たちはナチスの共犯者にならなかった、自らの主体性を放棄しなかったと言って、満足して刑死し、彼らの生き様に心を打たれたゲシュタポのエシュリッヒは押収した葉書をもう一度ばらまくわけで、非常に感動的になっています。

たとえば、これも少し前にブログに書いた「ヒトラー暗殺、13分の誤算」でも、ヒトラーを暗殺しようとして捕まるエルザーの態度に心打たれた検察官ネーベ(名優ブルクハルト・クラウスナーがやってました)は、のちのワルキューレ作戦という軍部のヒトラー暗殺計画に加わって刑死することになっていました。つまり、彼らがやったことは決して犬死ではなかった。一粒の種は地に落ちて死ななければ、一粒のままだが、落ちて死ねば多くの実を結ぶという聖書の言葉をなんとかつなげたいという「いじましさ」を感じてしまうんですね。拙ブログのモットーにしているガンジーの言葉を思い起こしてもいいでしょう。

「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです」

映画のような展開なら、これでいいんですが、原作はこんなに美しく死なせてくれません。原作では映画に出てこなかった、まるで無関係の親類まで巻き込まれていきます。これは辛い。同時にナチスの、まるで白土三平の「カムイ伝」に描かれる話のように、一族郎党がみんな同罪にされてしまうような残虐な社会では、反抗することイコール自分の死であるだけでなく、無関係のものも含めた死になってしまう。

また、夫妻が置いた葉書を読んだ人たちの反応があまり出てこないですが、原作ではナチのような監視密告社会では人々がどう反応するかがとてもうまく描かれています。

原作にはヒトラーユーゲントの青年が語る印象的な言葉があります。「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」というもので、これに対して、主人公夫婦はまさに自ら考えて、従うことをやめたわけですが、それが無関係の人まで巻き込んで死なせてしまう。ナチスのように残虐悪辣な社会で、自らの精神の自由を守ることはどういうことか、なかなか簡単に解決つかない問題でしょう。

映画としては当時のベルリンの雰囲気や、アパートの様子、戦争だから大量に必要になる棺桶製造工場の雰囲気など、とてもリアリティがあり、さらに主役の二人がものすごい存在感です。特に夫のブレンダン・グリーソンという俳優。無口で実直、頑固で表情を表に表すことのない職人という役そのもので、妻のエマ・トンプソンも良いし、前半で出てくるヒトラーユーゲントの青年なんか、僕がイメージするそのまんま 笑) タレコミやの男やユダヤ人の老婦人なんかも素晴らしいです。

ただゲシュタポの警察官をやったダニエル・ブリュールは「グッバイ・レーニン」の好青年やドイツにサッカーを伝えたコッホ先生役のイメージが強すぎて、口ひげつけてもやっぱり童顔だし、僕としてはもっと強面(こわもて)の役者の方が良かったんじゃないかって思うんですけどね 笑)

最後に、まあ、どうでもいいのだけど、やっぱり一言。ドイツを舞台に、出てくる新聞や、キーになる葉書の文字も、そして遠くでスピーカーから流れる言葉もすべてドイツ語なのに、会話だけが完全に英語というのは、やっぱりかなり違和感です。まあ、字幕に集中しちゃえば、あまり気にならないんですけどね 笑)



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映画「おみおくりの作法」(ちょっとだけネタバレ)

2017.06.13.22:59



2ヶ月ほど前にTVでやったのを録画しておいて、昨夜みました。いい映画ってこういうやつをいうんだなぁと、しみじみ思いました。

主人公は、身寄りもなく孤独死した人たちの連絡先を調べたり、遺品を整理したりする民生課の公務員。死んだ人たちを「数」にせず、一人一人の生きた証を求めて、関係者を訪ねたり、葬儀にただ一人参列したりして、書類を作っていく。一方、若い上司は効率化の名の下に、ようするにもっと手抜きをしろと言って、主人公に解雇通告する。

最後の仕事として主人公は、孤独死した、あまりまともな人生だったとは思えない男の娘を探し、葬儀に参列するよう説得し、上等な墓石を準備し、挙句に自分のための墓地を譲ってしまう。そう、この主人公自身が、そもそも孤独な身寄りのない人間で、それは何度か繰り返される寂しい食事のシーンでもわかる。

最後に娘と葬儀の後にお茶する約束をして、そこでそれまで無表情だった彼が少し笑う。これからこの娘と幸せになれるのかな、と思っていると。。。

もう、最後は、え〜っ?!! ひっど〜い!! と思っていると、その最後の最後に奇跡が!

最後の30秒で一気に涙が止まらなくなりましたね。夜中に一人で見てたんだけど、声あげて泣きそうになりました 苦笑) まあ、作り手が見てるものを泣かそうとしているのが露骨にわかる映画って、結構あるわけですけど、この映画は、そういう作り手の「あざとさ」をあまり感じさせません。

主演のエディ・マーサンという俳優が、かなり癖のある顔立ちで、普通あまり好きになれそうにない顔してるんだけど 笑)、それが最後は本当に素敵な顔に思えてきます。同じ街角を同じように歩くシーンがなんども繰り返され、彼の人生が寂しい単調なものであることが暗示され、その顔もず〜っと表情が暗くて無表情なのに、最後の方で笑うんですよね。そして。。。

絶対にオススメです。



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映画「ストーカー」を見た (ネタバレ注意)

2017.05.16.00:01

「ソラリス」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「鏡」、「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、「サクリファイス」ときて、これで最後。昨日は友川カズキライブの打ち上げで午前様、睡眠時間が足りてないので、むちゃくちゃ不安だったんですが、今日の仕事は午前中だったので、1時半からの回で見てきました。先に正直に言っておくと、途中、3人が休憩しているシーンで一瞬意識を失いました 苦笑)

タルコフスキー映画でおなじみのシーンや物がたくさん出てきます。ガサガサした壁や円形に対するこだわり。登場人物たちは例によってやたらと転ぶし、のたうちまわる女の姿はソラリスやサクリファイスでもおなじみです。事物がまるで偶然のように落下するし、主人公らに忠実な犬の姿もおなじみ。

よくわからないものが浮遊している水たまりや、首まで浸かりながら渡る池、焚き火や風、ソラリスでも鏡でもノスタルジアでも出てくる丘から見下ろす川と森の風景。そしてサクリファイスで最初と最後に流れるバッハのマタイ受難曲のアリアが、突然口笛で吹かれたりします。さらに、「ルブリョフ」の冒頭のエピソードや「ソラリス」のステーションでもおなじみの男3人組。

今回久しぶりに見て、舞台の背景に原子力発電所がなんども出てくるのに気がつきました。この映画ができたのはチェルノブイリの6年前、フクシマの30年以上前のことです。

ストーリーは広範囲に汚染された?ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域の奥に人間の願いを叶える部屋があると言われ、そこへ、案内役のストーカーと作家と教授の3人が向かうという話。

この3人を今回こんな風に見立ててみました。つまり、ゾーンは神でストーカーは聖職者。神なるゾーンの信奉者であるとともに伝道者でもある。それに対して、そんなものはありゃしないと絶望している作家と、そんなものは権力者に悪用されるだけだから破壊すべきだと主張する教授という図式。宗教的なイメージなのは、ラスト近くで作家が頭にいばらの冠をかぶるシーンでも、おそらく間違いないだろうと思うのですが、こういう風に決めてしまうのは、愚かなことだと言われるのは承知の上で、あえて遊びで 笑)

映像的には、セピア色の白黒、まるで墨のようなコントラストの強い最初のシークエンスと、ゾーンに入ってからの目に鮮やかな緑の自然の対比もすごい。トロッコに乗ってゾーンへ向かう3人のアップの白黒画面が終わると、バアンと音でもしたかのように鮮やかな緑の風景が、突然映し出される時の衝撃。さらに、ゾーンの建物に入った後の色彩を抑えた室内の画面。ただし、そのどのシーンもが、非常にゆっくりとしたテンポで眠気を誘ってきます 笑) 

しかし、願いを叶える部屋が近づくと緊張感が高まり、眠気は吹っ飛びましたね。 暗く不気味な丸い廊下から、非常に印象的な砂丘のような不思議な広間を超えて、大小のフラスコ状のものがたくさん浮いた水たまりのあるゾーンの前室。そしてそこに座り込む3人の前に広がる水たまりの願いを叶える部屋に雨が降り出すシーン。どのシーンを切り取っても映像としての美しさがあるし、どの事物にも意味ありげな謎めいた魅力があります。

最後のシーンの奇跡は、タルコフスキー映画では最初の「ローラーとバイオリン」からこの「ストーカー」まで一貫しています。どの作品でも最後には奇跡が起きます。 「ローラー〜」は家から出られなくなった少年は想像の中で青年に会いに行き、「僕の村〜」ではイワンは妹と水辺でかけっこをします。「ルブリョフ」は無言の行を終了して、傑作イコン群を残すし、「ソラリス」では過去をもう一度やり直そうとするし、「鏡」では死んだ小鳥が生き返り幼年時代へ飛んでいきます。

その意味では「ノスタルジア」と「サクリファイス」はちょっと変わったと思えますね。 「ノスタルジア」の最初の方で自分だけのための美はもういらない、と言うシーンがありますが、これがある意味で象徴的なセリフではないかと思えます。 そして、この「ストーカー」の前と後で、タルコフスキーの「願い」が個人的なものから、もっと全人類的なものに変わっているのではないでしょうか。

こんな風にシーンを言葉にしても詮無いものがあるし、話を何かのアレゴリーだと解釈するのも、この映画をつまらないものにしてしまうのかもしれません。映画というものを言葉で語ることの虚しさを強烈に感じさせる、ものすごい映画だと思います。



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映画「サクリファイス」その他を見た(ネタバレ)

2017.05.13.18:53

例によって東京の渋谷でやっているタルコフスキー監督特集。昨日は「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、今日は遺作の「サクリファイス」と見てきました。少しメモしておきます。

ローラーとバイオリンは最初の作品だけど、短編映画で、すでにタルコフスキー哲学が出てます。ラスト、思いは現実を超えるという暗示でしょうか。晩年の「ノスタルジア」や「サクリファイス」の人類救済のおまじない見たいな話につながるように思います。

「僕の村は戦場だった」は冒頭の樹木のアップ。カメラがだんだんアップの樹木を登っていくシーンで始まるんですが、遺作の「サクリファイス」のラストが全く同じように、カメラがアップの樹木を登って終わります。タルコフスキー映画の円環が閉じたような形で、すでに癌で余命幾ばくもないことを知っていたタルコフスキーは多分意図的にやっているんじゃないかと思います。この映画は主役のニコライ・ブルリャーエフという少年がいいんですね。思い出の中と現在との顔がまるで別人のように違う。思い出(=夢)のシーンも疲れ切ったブルリャーエフが爆睡、その間、遠くで常に雫がポタン、ポタンとリズムを刻んでいます。ブルリャーエフのベッドからはみ出た手がアップになると、なぜかその手から水の雫が落ちています。あれ?と思う間もなくカメラが上に向くと、そこは井戸の底、上から母親とブルリャーエフが覗き込んでいます。何度見てもゾクゾクします。

この映画は、偵察のためにドイツ軍の様子を伺いに行き、殺された少年の話が原作のようですが、映画の最後に死んだゲッベルスの6人の子供達の遺体や、家族を道連れにして自殺したナチの将軍?の子供達が出てきます。メッセージは明らかで、戦争で一番大きな被害を受けるのは子供達だ、と言っているのでしょう。ただ、これはソ連が願う戦争の描き方とは違っていたのでしょうね。

さて、「サクリファイス」です。何しろワンカットが長い。冒頭のシーンからして、計ってないから正確にはわかりませんが、おそらく10分近くワンカットだったんじゃないでしょうか。カメラがあきれるぐらいゆっくりと移動し、登場人物たちが移動していくのに合わせて、少しずつ横に移動しながら近づいて、最初は人物の顔もはっきりわからないぐらい遠いところから始まり、10分近くかけて、気がつくと、すぐそばまで近づいています。全編そんな調子で、カメラは気がつかないぐらいわずかずつ近づいたり横移動したりしますが、そのリズムがなんとも眠気を呼びます 笑) 

ストーリーを言うと、あまりにバカバカしさに笑っちゃうかもしれません。世界戦争が始まり、主人公は神に、もし全てをなかったことにしてくれたら、全てを犠牲に捧げると祈ります。翌朝、目がさめると、全ては何もなかったかのような世界に戻っています。そこで主人公は神との契約通り家に火を放ちます。最後の家に火をつけてからの、約10分のワンカットシーンは、おそらく映画史上に残るものすごいシーンです。全てが計算し尽くされているように家は燃え上がり、煙を吐き、横の車が爆発し、煙が止まって炎だけになり、崩れ落ちる。その前を人々が右往左往し、カメラもそれを追って移動していきます。そのスペクタクルに圧倒されます。

さて、あと月曜に「ストーカー」を見れば、今回のタルコフスキー特集で上映された映画を全制覇になります。「ストーカー」は、多分、また書きます 笑)



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映画「アンドレイ・ルブリョフ」を見た(完全ネタバレ)

2017.05.09.22:03

この映画については前にもちょっとだけ触れたことがあった。 初めて見たのは1981年。その時は予備知識もほとんどなく、映像の美しさやゆったりとしたテンポの心地よさに魅了されたけど、悲惨な時代に芸術家であることの意味に苦しんだ画家が、いわば「飢えた子の前で文学に何ができるか」というサルトル的な絶望を感じ、一旦は筆を折りながら、それにもかかわらず再び絵を描くことを決意する話だと思った。多分、それは外れてないと思うが。

ただ、その後なんども見てきて、主人公ルブリョフはタルコフスキー自身が、かなり露骨に投影されていることがわかってきた。例えば、ルブリョフに対する同僚の批判「確かに絵は上手だ、しかし彼には信仰心が欠けている、単純さが足りない」などという言葉は「確かにいい映画を作るが、彼には政権に対する従順さが欠けている、そして映画も単純さが足りない」という意味だろう。たぶんタルコフスキーの第1作「僕の村は戦場だった」に対するソ連当局の批判であったことは間違いない。

この映画を見ると、いつも、「乏しき時代の詩人」という言葉が思い浮かぶ。ハイデガーという哲学者の本の題名だけど、内容はともかくも、この題名には心惹かれるものがある(昔アマゾンレビュでこの映画について書いた時にもこの題名を使ったことがある)。

この時代の悲惨さは映画全体を通して繰り返し描かれる。最初の旅芸人のエピソードでも、ちょっとでも反権力的な言動を人前で行えば、すぐに捕まってしまう。また、権力者の兄弟げんかに端を発して、弟がタタール人に援軍を頼んだせいで、町は蹂躙され、一般市民が虐殺される。教会に逃げ込んだ市民が虐殺されるシーンは、この映画の20年前に、現実にナチスの手で同じようなことが行われたことを思い出させる(「炎628」)。このエピソードは、スターリンが自分の権力を守るために粛清の嵐を吹き荒れさせている間にナチスが攻めてきたことを、見た人に連想させたことだろう。

異教の祭?(=反体制運動)の翌朝、村人たちは官憲に一網打尽にされる。その時、前夜ルブリョフを助けてくれた女は裸で川に飛び込み、いわば「亡命」していく。それを芸術家の特権で川の上を船で下っていくルブリョフが暗い顔で見送る。プロローグの気球で飛ぶ男も、ある意味で「亡命」未遂の暗示かもしれない。僕は1980年代初めに、タルコフスキーが亡命したというニュースを聞いた時、思わず、タルコフスキーも裸で川を渡ってしまったのだなぁ、とこのシーンを思い出した。

こうした中世ロシア(=スターリン時代・ソ連邦時代)の悲惨な状況の中で、体制の命令によって絵を描く(映画を作る)芸術家の苦悩を考えれば、この映画は分かりやすくなるだろうと思う。しかも、同じ芸術家同士の間でも嫉妬や妬みがあり、また師匠は筆洗いしかさせず、なかなか絵を描かせてくれない。この師匠はフェオファン・グレクという実在のイコン画家だけど、タルコフスキーを当てはめると、エイゼンシュテインあたりになるのだろうか?

最後の鐘を作る少年のエピソードでは、この少年がタルコフスキー自身なのではないか? 少年をはじめとする職人集団は文字通り映画を作るスタッフの集団だろう。様々な内輪での争いがあっても、最終的に少年の元で結束して巨大な鐘を作ることに成功する。その鐘は確かに権力者のために作ったものではあるが、それは結果に過ぎない。同時に、この少年が全て終わった後、実は自分は誰からも鐘の作り方を習っていなかったと告白するけど、これも、タルコフスキーはソ連の監督からは何も学ばなかったという意味に解釈できそう。こじつければ、先の師匠のフェオファン・グレクも史実ではギリシャ人、つまり外国人だ。すると、彼はエイゼンシュテインというよりも、むしろイングマール・ベルイマンや黒澤明あたりをイメージした方がいいのかもしれない。タタールが街を襲うシーンなどは七人の侍を意識しているだろうと思われる。

かくして、ルブリョフは、誰のためでもない、鐘を作ることそのものを目的にしたかのような少年の姿を見て、自らも、長い無言の行の後、再び絵を描くことを決意する。おそらく神のために描くことを。最後、これでもか、と言うぐらい長い時間をかけてルブリョフが残したイコン画が、延々とアップになって映った末に、映画の冒頭倒れた馬が、雨の中で平和そうに水辺で草を食むシーンで終わる。

だけど、こうやって何でもかんでもこじつけて、一つの比喩に固定してしまうことで、この映画がつまらないものに見えてきそうな気もする。むしろ、あちこちに出てくる映像のすばらしさだけに集中してもいいんだろう。例えば、旅芸人が捕らえられて連れて行かれるシーン、手前に3本の木があって川むこうを官憲の馬が3頭歩き、手前をルブリョフたち3人が歩いていくシーンの美しさ! あるいは想像の中で、雪の(!)ゴルゴダの丘へ向かうイエスとマリアらの、ブリューゲルの絵のような風景。あちこちで出てくる俯瞰のアングルの映像。焼けた教会の中に降る雪。その焼けた教会の中で師匠のフェオファンの幽霊?との会話シーンの、画面の外を意識させるような不思議な雰囲気。

主人公をやったアナトリー・ソロニーツィンや仲間の画家をやったニコライ・グリニコは、この後の「ソラリス」「鏡」「ストーカー」でも出てくる(グリニコは前の「僕の村は戦場だった」でも出てくる)し、その他の旅芸人も裏切り者のキリール役の俳優もみんなものすごい存在感だったが、特に知恵遅れの娘と、タタール族の首領が、それぞれ強く心に残る。



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映画「鏡」を見た

2017.05.06.21:42

先日「地球が滅びる時に見ていたい映画」を書いた時に書いた「鏡」、先日のソラリスに引き続き渋谷の映画館で見てきました。今回は一昨日すでにネット予約しておいたので、ど真ん中の席を確保できました。ほぼ9割がたいっぱいでしたね。

デジタルリマスター版ということで、画面がとても綺麗なのと同時に、字幕が以前見たのとは違っていました。以前に比べてちょっと説明していて、分かりやすくなったかなぁ。例えば、以前なら、リビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、わかるわよね? フィヨードル・ミハイルヴィッチ? というシーンが「悪霊」のリビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、ドストエフスキーよ。となっていました。

冒頭の吃音症の少年の画面はいうまでもなく「私は話せます」という言葉がキーだし、冒頭の夢のあと、母からの電話で謝ろうとすると母が電話を切ってしまう後のシーンは主人公の母に対する気持ちがそのまま映像になっているシーンだと思います。つまり母に腹を立てているから、突然雨を降らせて母をずぶ濡れにし、リザベータに母を批判させ、最後はシャワーの水も出してやらない。途中も夢のような空想のようなシーンが次々に出てきますが、主人公以外の登場人物、例えば息子のイグナーツの空想だったり、時空を超えて現れた謎の女性がいるところへ老いた母が訪ねてきて、あら、部屋を間違えたわ、というシーンはまさに母が時代を間違えて現れてしまったということでしょう。こういう時空を超えたことは、映画だからこそできるのです。

最後のシーンは、そうした様々な悔恨を抱え込んで寝込んでいる主人公が、それでも、どうにかなるさと言いながら、死んだ小鳥を投げ上げると、小鳥は蘇って幼年時代へ戻っていく。このシーン、バッハのヨハネ受難曲が流れ、何度見ても目頭が熱くなります。今回もそうでした。最後の森の中へと引いていくのだって、フロイト的だと言われるかもしれないけど、母体回帰のイメージです。

それにしても、普通はどうにかなるさ、と言ってもどうにもならない、死んだ小鳥は生き返らない。それなのに、どうにかなるさ、と言って小鳥を生き返らせることができるタルコフスキーはなんとも幸せな人だな、と思います。



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映画「惑星ソラリス」を見た

2017.05.04.23:32

渋谷の映画館、満席の中、最後から3人目の順番で見ることができた。

この映画を初めて見たのは1978年の夏のことだった。その時は先に原作を読んでいて、すっかり原作に参っていたから、メモには、原作の雰囲気はあるけど、よく分からない変な映画だったとある。その後、20世紀に6回映画館で見た。21世紀に入ってからは、おそらく映画館では見ていない。TVやCSでは何度か見ていると思うが。。。

2001年宇宙の旅と並び称される古典的SF映画の金字塔というのが、この映画に貼られたレッテルである。でも今回見てみて、この映画にSF映画のレッテルを貼るのは間違いだろうと思う。原作の設定がものすごく観念的なニューウェーブSFなんだろうけど、この映画はタルコフスキーの個人的な事情がかなりはっきりと出ている。このSF小説をネタに、監督は自分の個人的な思い出を語っている。

確かに、ソラリスステーションにいる(いた)4人は過去に対して人はどう対応するか、を示す4つのタイプに分類できそうだ。1)自殺したギヴァリャンは過去(罪)に耐えられなかったタイプ 2)過去(罪)を科学的な態度と称する客観的な見方で分析して乗り切ろう(やり過ごそう)とするサルトゥルリウスのタイプ 3)過去(罪)を仕方がないものとして諦めるスナウトのタイプ 4)過去(罪)を受け入れ、やり直そうとする主人公ケルヴィンのタイプ。

変な連想だけど、少し前に読んだ清水潔の南京事件の本のことを思い出した。単純にレッテルを張るつもりはないけど、南京事件の証言をした(しなかった)元兵士たちはどのタイプなんだろう? そしていうまでもなく、僕は??

あるいは前半の延々と長すぎるのではないか、と思えるような地球の自然描写。そしてやはり長すぎるんじゃないかと思える首都高速。タルコフスキーがわざわざ日本まで来て撮影したのだとソ連当局にアピールのために、あれだけ長く、あの単調な映像を入れたことが、タルコフスキーの日記から分かるそうだが、でも、結果的には、自然から文明(高速道路)に移り、文明の末路のようなゴミだらけの汚い宇宙ステーションに移動した末に、作り物の自然へ戻っていくという図式を考えると、あの高速道路の単調な映像も必要だったのだろうと思える。

だけど、そんなことより、今回見てて、後のタルコフスキーの映画をいくつも連想させるシーンが、すでにこの映画の時点で満載なのが気になった。例えば、あの故郷の家の感じはサクリファイスの燃える家に似ていたし、その庭から見える谷の風景はノスタルジアに出てくる思い出の風景に似ていた。それは鏡の風景にも通じるものがあった。この映画の本題とはまるで関係なさそうな母親と妻との葛藤の話題も、そしてその二人が似ているのも、鏡の中で描かれるのと同じだ。

つまり、タルコフスキーという監督は極めて個人的なことを、作る映画の中に押し込んでいて、それが普遍性をもつように作っているのである。

全くむちゃくちゃな連想だが、この極めて個人的なことを作品に込めて、それが普遍性をもつ、誰もがそれを自分のことのように感じるようにできる点で、友川カズキを思った。

至福の数時間だった。



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映画「エル・スール」(ネタバレ)

2017.04.15.00:26

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ビクトル・エリセが「ミツバチのささやき」から10年後に作った第二作目の映画。この映画を見たのは30年前だった。当時は独身だったし、父親と娘の関係なんてよくわからなかった。父役のオメロ・アントヌッティは随分老けている印象だった。今、自分がこの時のアントヌッティよりもずっと年上になり、娘もいる身になった。でも、見方が何か変わったかと言われると、よくわからない。ただ、見終わって胸潰れる思いがしたのは、映画の内容だけではなく、この30年の年月を思ったからだろう。

父と娘の関係を描いた映画だが、娘は7、8歳の時と15、6歳の時で俳優が変わる。特に幼い時の父は魔術師である。振り子を使って、生まれてくる自分を女の子だと言い当てたり、荒野の中を水脈を探し出したりできるし、部屋にこもって何かの実験をしている。

だけど娘は、父がどうやら過去にスペイン内乱のせいで別れた女性を未だに忘れられないらしいことに気がついてしまう。そして父がそれに悩み続けていることも知る。

この後、この7、8歳の娘が自転車で並木道を去っていき、その同じ画面で今度は向こうから15、6歳になった彼女が戻ってくるというシーンの素晴らしいこと。この映画はこれ以外にも、シーンの転換場面が素晴らしい。

15、6歳になった娘はクラスの男の子に恋されている。子供の頃によく遊んでいた庭のブランコもすでにない。父の魔術の象徴のような振り子も、すでに使わなくなったと言われている。ここら辺の娘の父親を見る目の変化の表し方が素晴らしい。彼女はすでに父親を魔術師ではなく、普通の人間、過去の恋に苦しめられている一人の人間として見ている。そして、最後、少女は父が決して戻ろうとしなかった南の地、つまり父の過去へ向かう決意をするところで終わる。

映画の各シーンの密度の高いことは、「ミツバチのささやき」以上だと思う。室内のシーンでは微妙に光加減が変化して行き、実に美しい。聖体拝領のシーンで、教会を嫌っていた共和派の父親が柱の陰から姿を表すシーンの光と影のコントラストなんか、ものすごい立体感のあるシャープさ。

「ミツバチのささやき」でも、舞台にはスペイン内乱が影を落とし、父親は共和派の支持者だったことが暗示されるシーンがあるが、「エル・スール」ではもっとはっきりと、父が共和派の支持者で、そのせいで監獄に入れられたことがあると言われている。

この映画の続編として、亡き父の足跡を辿る娘の話が映画になっても良かったんじゃないかと、そんな気がした。



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最悪のトラウマ映画「ポゼッション」

2017.03.22.15:37

「エイリアン」は怖かった。生涯であれほど怖かった経験はあまり思い浮かばない。

1970年台後半。当時「スターウォーズ」や「未知との遭遇」、さらに「2001年宇宙の旅」のリバイバルがあったり、ちょっとこれらとは一線を画するけどタルコフスキーの「惑星ソラリス」なんかもあって、SFブームみたいな感じだった。そんなSFの一環として、ほとんど予備知識を持たずに映画館に入ったら、これがものすごいホラー映画じゃないの。怖くて怖くて、もう映画が終わって映画館を出たら首が回らないぐらいカチカチになっていました。

その後もしばらくは普通の映画でも、静かなシーンで登場人物たちが耳をすませているような場面では心拍数が異常に上がったものでした。私ホラー映画って全くダメなんですよ。

だけど、今回の「最悪」トラウマ映画は「エイリアン」ではありません。ポーランドの監督アンジェイ・ズラウスキーが作った「ポゼッション」という映画です。イザベル・アジャーニが体当たりの演技をしたことで有名ですが、まあ、あまり見たことのある人はいないでしょう。同じ題名の実話ホラー映画もあるようですが、ここで取り上げるのはホラーとは全く銘打ってません。

長期出張から帰ったらアジャーニ演じる妻がどうも男を作ったようだ、というわけでそれを追う夫の話なんですが、舞台は壁があった時代のベルリン。イザベル・アジャーニというのは、私の世代だと「世界一の美人女優」と言っても賛成する人は結構いたと思います。清楚でフランス人形みたいな「超」の字を付けていいような美人。この美人が、エイリアン?ウェルカム!って言いたくなるような、ものすごいぐちゃぐちゃの、イカかタコか宇宙人か、それとも何か巨大な動物の血まみれ脂肪まみれの臓物か?っていうような、もう筆舌に尽くしがたい気持ちの悪い怪物と H するんですよ。

それだけじゃないっすよ、この美人女優が地下通路で頭を振り乱し暴れまくりながらゲロを吐く。それもとめどなく。。。完全に私のイザベル・アジャーニのイメージがガラガラと音を立てて崩れ落ちていきました 笑)まあ、もっともこの人「アデルの恋の物語」とか、憑かれた女をやる人ではあったけど。。。ポゼッションというのも憑かれることだし。。。

私が大ファンの町山智浩さんのYouTubeにあった有料解説、出だしのところだけしか聞けませんが、ここに貼っておきます。


映画そのものは何か愛の不毛みたいな高尚なテーマか、と思って見ていたら、何の前振りもなく、突然グロテスクという言葉を絵にするとこうなるか、っていうようなバケモンが出てくるんだもの。ぶっ飛びました。その後も、あのバケモンがまたいつ出てくるか、と怯えながら見ていると、あっさり出てこなくなっちゃうんですよ。

最後のシーンなんかを含めて、あちこちにもう一度見てみたいというようなものがあるんですが、あのバケモンを見るのは金輪際ごめんです。貼り付けたYouTubeにアジャーニと絡む怪物のスチール写真が二つちらっと移りますが、はっきりわかる方の写真は映画に出てきたのとはかなり違います。これは撮影用じゃないかなぁ。。。何れにしても映画の中で出てくるのはこの角度ではないです。まあ、こちらも数十年前に一度見ただけなので、記憶がかなり捏造されているかもしれませんが 笑)



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地球が滅びるときに見ていたい映画

2017.03.14.23:59

いやぁ、忙しくて、その忙しさに輪をかけたのがスマホ購入。ずっとガラ携だったんですが、先週末1日潰して変えたんですよね。そしたらその日の夜から忙しくなって、何も手につかず、メールも送れないまま、というかアップルIDも取得できないまま。。。やれやれ、どうなるんだ??

というわけで、そういう忙しい時にはあえて、表題のようなことを書いてみようというわけで、私の一番好きな映画は何?と言われたら即座に、タルコフスキー監督の「鏡」です、と答えます。最初に見たのは1980年の6月。岩波ホールでした。最初に見たときはなんだかよく分からないけど、やたら綺麗だった、という感じでした。風と土と水、そして何より火がこれほど意味ありげに出てくる映画はないでしょうね。

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タルコフスキーは、その前に「惑星ソラリス」を見ていて、これもまた不思議な雰囲気の映画なんですが、これは原作を先に読んでいて、映画ではラストが全く違い衝撃を受けました。その監督が作った映画ということで、かなり気合が入っていたと思います。

一度見て、なんかよく分からないと思いながら気になって気になって、一週間経たないうちに、当時よく一緒に映画を見ていた友人が見に行くというので、じゃあ、俺ももう一度見る、とついて行ったのでした。

二度目に見たとき、台詞の中に「リヴャートキン大尉の姉でスタヴローギンの奥さん」という言葉に、たまたまその少し前に読んだばかりのドストエフスキーの「悪霊」の登場人物だ、ということがピンときて、この映画には、ただぼんやりと映像美といって済ましてはいけない、かなりたくさんの不思議な謎かけがある、と思ったのでした。

冒頭の、映画の中身とは何の関係もないTVを見るシーン、吃音の青年が「私はしゃべれます」という言葉で始まり、最後の「どうにかなるさ」と言って死んだ(?)スズメを投げ上げると生き返って幼年時代の故郷へ飛んでいくシーンまで、冒頭のバッハのオルガンコラールの「古き年は過ぎ去りぬ」から最後の「ヨハネ受難曲」の冒頭の合唱まで、もう今思い出していても、気持ちが高ぶります。

この映画の大きな枠は、「私」という現実には病気で臥せっている男の夢と思い出と想像からできていて、「私」の気分によって夢の中の出来事もいろいろと改ざんされていきますし、思い出もそうなのだと思います。何しろ不思議な映像がたくさん出てきて、いろんな謎解きに誘います。

この映画はビデオなどなかった時期、ぴあという情報誌をいつもチェックしていて、都心でやると必ず見に行きました。多分映画館で20回ぐらい見ていると思います。法政大学の学園祭にまで見に行きました 笑) 今パンフレットを見たら、半券が9枚貼り付けてありましたが、他にもまだ京王笹塚や池袋文芸座などのビラが挟まってました。

IMG_4596_convert_20170315003029.jpg

その後21世紀になってDVDを買ったんですが、これを見たのは結局の所1回か2回か。。。やっぱり映画館で見たいですね。というわけで、地球が滅びるときにはこの映画を見ていたいんですが、地球が滅びるときに映画館が果たしてやっているかどうか。。。

1984年、タルコフスキーが亡くなり、それとほぼ同じ頃、池袋のデパートの地下にあったスポーツ用品コーナーのエンドレスビデオでツール・ド・フランスの映像が流れていたのでした。5分ぐらいの映像でしたが、その前におそらく2、30分立ち止まったまま、呆然と繰り返し見ていました。今から思えば、あれはアルプスで、ロバート・ミラーだったんじゃないかと思うんですね。華奢な金髪をなびかせたその姿にウットリしましたね。こうして、僕の映画の時代が終わり、自転車に夢中の時代が始まったのでした 笑)

というわけで、タルコフスキーの映画については、「鏡」に限らず、いずれまたもっと詳しくご紹介してみたいと思っています。


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映画「誰がため」

2017.02.23.23:57

やれやれ、恒例のぎっくり腰をまたやってしまいました。土曜日の夜、ツタヤで借りてきたデンマーク映画「誰がため」を見終わって、ソファから立ち上がろうとしたらピキッ! あっ、と思ったらもう遅い、いや〜な違和感が骨盤のあたりに、階段を上って寝室へ行こうとするも、途中からなんとも言えない痛みが。。。なんでしょうね。腰の蝶番が外れて、骨盤が横滑りしちゃうような力の入らない感じ。そして痛み。。。最後の二段は四つん這いになって登ってベッドに転がるように横になりました。

なにしろベッドの上に横になってるしかないし、できれば横向きで寝返りだって打ちたくない。というわけでできることは本を読むしかない。前回は一昨年の11月で、武田泰淳なんかの小説がずいぶん読めたんですが、今回は去年の暮れから寝る前に少しずつ読んでいた電話帳みたいな上下二段組650ページの「昭和の名作名探偵」なんてのが読み終わっちゃいました 苦笑)



で、恨みのデンマーク映画。デンマークってナチスドイツが攻めてきた時1日で降伏しちゃうんですね。この映画はこの時代の二人のレジスタンスの暗殺者を描いた映画です。彼らはドイツ人を直接は狙わないんですね。下手にドイツ人を殺すと報復がひどいから。まあ、デンマークって文化的にも人種的にもドイツ人と近いから被占領国と言っても、スラブ系のポーランドとかベラルーシやウクライナみたいなひどいことはされなかったみたいなんですけど、それでもドイツ人一人殺されれば、無実の一般デンマーク人がまとめて何人も殺されちゃいかねない。なので国内のナチシンパのデンマーク人を暗殺する。だけど、どうもその指示を出している奴が、イギリスからの指示だと言いながら、私腹を肥やし、それを知る者の口封じに彼らを使っているんじゃないかという疑いが出てくる。自分たちが暗殺したデンマーク人たちは本当にナチスのシンパだったのか、敵はどこに? とまあ悩む話です。

暗殺者というと、私などはアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」のマチェク、ポーランドのジェームス・ディーンなんて言われたズビグニェフ・チブルスキーを思い出すんですけどね。もっともこちらは終戦直後で、暗殺の対象はソ連の要人です。これも説明をサラっとしておくと、ポーランドの反ナチレジスタンスには、ソ連の肝いりの共産主義者たちによるものと、ポーランド民族主義者たちによるものがあったんです。ナチという共通の敵がいた間は問題なかったけど、敵がなくなり、今度はこの二つの勢力が争うことになる。マチェクは民族主義者たちのグループの暗殺者というわけです。



この映画はもう古典で、マチェクが暗殺したソ連の要人がマチェクに倒れ掛かり、それを抱えたマチェクの背後で花火が打ち上がるシーンとか、廃墟の教会の中の逆さづりのキリスト像とか、もちろん最後のゴミ捨て場に干してあるシーツのシーンとか、映画の教科書に載りそうなシーンがたくさんあるんですが、何より、あの時代にレジスタンス崩れの反ソ連の暗殺者の悲劇なんていう映画がよく作れたものだという映画です。

で、デンマーク映画に戻ると、二人の暗殺者が片方は有名なマス・ミケルセンで、この人の映画はこのところ「ザ・ドア」というドイツ製のSF映画と「バトル・オブ・ライジング」という歴史物を続けてみていて、結構お気に入りの俳優なんですが、もう一人の方、トゥーレ・リンハートという赤毛の役者がやった暗殺者がものすごく良かったですね。落ち着き払っていて、立ち居振る舞いが、なんかフランスのフィルムノワールの殺し屋、まあ有名なところではアラン・ドロンとかでしょうかね、そんな雰囲気がありました。

さらには、ドイツのゲシュタポの将校をやったクリスチャン・ベルケルという俳優も、非常に特徴的な強面のドイツ人なんですが、「ヒトラー最後の12日間」では比較的まともな軍医の役、「エス」では主人公とともに大活躍する役で、今回もなかなか深い役どころです。比較的得な役柄の多い人のような気がします。顔はかなり怖いけどね 笑)


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映画「エゴン・シーレ 死と乙女」覚書き (ネタバレ)

2017.01.31.00:59



破戒なのか革命なのか
関節のゴツゴツした音は
たまげた構図の中で休む
エゴンシーレは誰なのか(友川カズキ「一人ぼっちは絵描きになる」)

というわけで、土曜日(初日)に見てきたんですが、忙しくてやっと覚書き程度にまとめました。エゴン・シーレという画家が好きかと言われると、嫌い、でも気になる、と答えますかね。

1979年に池袋の西武デパートの上の方にあった美術館で本邦初のシーレの展覧会があった時には見に行きました。その時の印象は死体みたいなグロテスクな色のヌードの女や自画像、しかも陰部を強調するかのように赤く塗ってあって、言葉として最初に思い浮かんだのが「痛ましい」っていう言葉でした。

その後マチュー・カリエールという、「陰鬱」っていう言葉を顔にするとこういう顔か、っていう俳優がやった「エゴン・シーレ」の映画も見に行きました。これは一回目に見たときには人物関係がよく分からなくて、多分その後も2、3回見たはずです。映画自体もあちこち話が飛んでわかりづらかった記憶がありますね。シーレの悲劇的な人生を描いたものでしたが、主役のカリエールの陰鬱な表情と枯れたヒマワリ以外、出てくる風景も女性たちもきれいだし、シーレのあの陰惨な絵のイメージがあまりなく、むしろシーレという人の悲劇性が強く前面に出ていたような印象があります。特に、有名な未成年女児誘惑事件で留置されたシーレが解放された時のシーンが、最後の、エゴンが死んじゃった、と叫ぶ妹の声の後に繰り返され、シーレにとってこの世とは留置場のようなものだったという暗示なのでしょう、そんな終わり方をしてました。

今回の「エゴン・シーレ 死と乙女」では、シーレを囲む女性たちを大きく扱っていて、前の映画では出てこなかった妹ゲルティとの関係や、踊り子モアも重要な登場人物です。特に妹ゲルティとの近親相姦じみた関係は前の映画にはなかったものです。前回の映画もそうですが、今回のはさらにシーレの人生を正確になぞっているようです。この画家が、描く事を何よりも大切にしていて、それこそ「コト」の最中にも、鏡を見てスケッチを始めちゃうような困った人であったことがよくわかります。そもそもが、自分にとって最も大切なはずの、長年連れ添ったモデルのヴァリーを捨てて別の娘エディットと結婚してしまい、あろうことかヴァリーには愛人でい続けてくれ、と頼んじゃうような非常識さ(しかも現実にはエディトの姉とも関係があった可能性が高い)。

このヴァリーという女性もクリムトのモデルだったのに、シーレに「払い下げられて」専属モデルになり、長年連れ添った挙句、シーレは別人と結婚し、第一次大戦の従軍看護婦として23歳で戦病死してしまうかわいそうな人ですし、シーレが結婚したエディトもシーレの死ぬ直前に同じスペイン風邪で死んでしまうわけで、お気の毒な方です。しかもその瀕死のエディトのスケッチをシーレは高熱に苦しみながら描くというすさまじさ。

映画は、シーレがまさに今瀕死の状態にあるところから始まります。瀕死のシーレを救おうと奔走する妹のゲルティと、それと交錯するように、10年ほど前の、妹のゲルティをモデルにしてヌードを描くシーレから始まり、踊り子モアと画家仲間たちと芸術家コロニーを作ろうとして失敗したエピソードが続きます。その後、クリムトから譲られたモデルのヴァリーとの生活、そして家出少女を泊めたことから未成年の少女誘拐・強姦の疑いをかけられた裁判という有名なエピソードが描かれます。この裁判は結局無罪になったけど、ポルノ画家扱いされて、作品の一つを燃やされてしまうわけです。その後、第一次大戦が近づく頃、エディトとアデーレの姉妹と知り合い、エディトと結婚して、兵役に就いた後、間もなくスペイン風邪で死ぬという始まりのところへ戻ってきて輪が閉じたように終わります。

歴史的事実としては死の半年ほど前に開かれた展覧会で大成功を収めるんですが、映画ではそれはあまりわからないですね。

シーレが好きなら、いろんなシーレの絵が出てくるし、「死と乙女」というシーレの有名な絵の題名の由来もわかって面白いのではないでしょうか。ただし、あの絵の成立と題名の由来が本当に史実に基づいているのかどうかは知りません。何れにしても、ネットででも予備知識をつけていった方が楽しめると思います。


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映画「アイヒマンを追え」覚書き(ちょっとネタバレ)

2017.01.23.00:16


このところ、フリッツ・バウアーという、戦後ドイツでアイヒマンを追いかけ続けた検事の出てくる映画を3つ見た。ここでも紹介した「顔のないヒトラーたち」、ツタヤで借りてきた「検事フリッツ・バウアー ナチスを追い詰めた男」

そして今上映中の上の映画。

これらの映画を見て思うのは「顔のないヒトラーたち」でも書いたことだけど、やっぱり日本にはフリッツ・バウアーがいなかったというのが残念だった、ということだ。東西冷戦の中、アメリカは共産主義ソ連に対抗するために、西ドイツでも日本でも保守的な政権を望んだ。それに乗じてドイツではナチ残党が、日本でも軍国主義者たちが政府や民間企業でも要職に就くことができたわけである。そんな中で南米へ逃げたアイヒマンを逮捕する術(すべ)を模索し、アウシュヴィッツで残虐行為を行った者たちを裁く裁判を始めたのがフリッツ・バウアーだった。あえて強引に日本に当てはめれば、例えば、人体実験で細菌兵器の開発を目指した731部隊の関係者を訴追したようなものだろうか。

「顔のないヒトラーたち」では主人公の若い検事が、周囲の敵意の中、孤軍奮闘しながら、アウシュヴィッツの死の天使と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレを捕まえようとする。そして、主人公の上司として登場し、主人公に、徹底的にやれ、と後押しするのがフリッツ・バウアーだった。

さらに「検事フリッツ・バウアー」ではまさにバウアー自身が主人公で、アイヒマンを捕まえるために東ドイツ検察やイスラエルの諜報局モサドとつかず離れずの微妙な位置を確保しながら、ナチスの残党が跋扈するドイツの検察や情報部と対決し、さらには首相アデナウアーの側近で元ナチの大物グロプケを裁判にかけようと奮闘する。

「アイヒマンを追え」でもほぼ同じで、アイヒマンを捕まえようとするフリッツ・バウアーがモサドと駆け引きするが、こちらでは東ドイツ検察との関係は出てこない。むしろ、「検事フリッツ・バウアー」より以上に元ナチの連邦刑事局や検察内部の元ナチの悪辣さが強く出ている。

この二つの映画はほぼ同じ時代を扱っていて、登場人物にも事件の推移にも、バウアーのセリフにも重なるところがいくつも出てきて、その点でも面白い。そしてどちらの映画でも(「顔のないヒトラーたち」も)バウアーが信頼する部下がフィクションである点も共通している。

「検事フリッツ・バウアー」では検察の腹心の部下が実はドイツ情報局に情報を流していたという設定で、「アイヒマンを追え」では、同じく腹心の部下が同性愛者(バウアーもそうであることはどちらの作品でも大きく扱われているが、当時同性愛は法律上禁じられていた)で、その情報が連邦刑事局に知られることになる。

東西冷戦体制の中、ナチス時代には何度も殺されそうになった反ナチスのアデナウアー首相は、元ナチスの大物グロプケを確信的に側近にしていた。東ドイツはここを突いて、保守派のアデナウアーを失脚させようと目論む。アメリカも、アデナウアーが失脚して東ドイツに付け込まれるのは困るので、元ナチを断罪するどころではない。

一方、国が出来て間もないイスラエルも、アラブとの戦いで手一杯で、元ナチを追求することに熱心ではない。むしろ、ドイツから援助金や武器を提供してもらいたがっているから、変にアデナウアーを刺激したくないわけである。

前に書いた「ジェネレーション・ウォー」で、主人公の5人組の一人だった歌手志望の娘を弄んだ挙句に収容所送りにして殺したナチの高官が、戦後アメリカ軍の元で仕事をしているシーンが出てきた。結局この男は映画の中では何らお咎めなしだった。あのシーンは、つまり、実際の戦後ドイツの姿だったわけだ。そして、このフリッツ・バウアーをはじめとした若手の検察官たちによって、アウシュヴィッツ裁判と呼ばれる一連の元ナチの親衛隊員たちのアウシュヴィッツでの残虐行為を裁く裁判が行われて、ドイツ人は過去と向き合うことになり、現代のドイツがある、ということになる。では日本は?

ただし、これでドイツすごい! フリッツ・バウアーすごい! と手放しで称賛するわけにはいかない。少し前に紹介したティモシー・スナイダーの「ブラックアース」によれば、アウシュヴィッツ以外の方がユダヤ人やポーランド人、スラブ人の殺害数は圧倒的に多かったという。「ドイツにとってアウシュヴィッツは、なされた悪の実際の規模を著しく小さなものに見せるので、比較的扱いやすい象徴であり続けている」。アウシュヴィッツだけを問題にするのなら、その他の犯罪的行為を不問にすることになる。ただ、それでも日本と比べれば雲泥の差なのは言うまでもない。



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映画「炎628」

2017.01.05.15:30



この映画のことは以前に死刑制度に反対の立場からちょっとだけ書いたことがあったけど、その時は見てからだいぶ経っていたのであまり細かいことまで覚えてなかった。今回見るチャンスがあって見直したけど、ロシア映画らしさ全開の、やっぱりものすごい映画だった。

多分ロシア映画って、古典的な芸術性が常に問われているんだろうという気がする。この映画も戦争のリアリティばかりが強調されているけど、それ以上に、ロシア映画特有の叙情性や、画面の内と、その外で見ている観客の関係を、いわゆる異化効果のように示すようなシーンが印象的だ。

冒頭に見られるような、アップの後頭部越しに写すシーンなどロシア映画ではお馴染みだし(ちなみにここで話されるセリフ、「遊びじゃないんだぞ」はこの映画のこととして考えたい)、走る人を後ろから手持ちカメラで追いかけたり、カメラ目線で語りかけてくるのも非常に印象的である。禍々しい死神のような双胴の偵察機や、不安をかきたてる鶴のような鳥の悠然と歩く姿、あるいは断末魔の牛の目のアップが次の瞬間照明弾の明るい円になるシーン、爆撃で吹き飛ぶ森の木々、跳弾する曳光弾や教会堂に村人を閉じ込めて燃やすシーン、煙たなびく村、そしてロシア映画特有の森林。そのどのシーンもが、叙情的であるとともにものすごく美しい。

ところで、初めて映画館で見た時から、気になっていたのはナチスの残虐行為に加担するロシア語を話す連中のことだった。ナチスが、占領した地域のファシストたちを大量虐殺の実行者として雇い、彼らはそれをドイツ人以上に熱心に行ったという話を幾つかの本などで読んでいたから、これがそういう奴らなんだな、と思っていた。

ところが、最近読んだティモシー・スナイダーの「ブラッドランド」と「ブラックアース」で、ポーランド東部からラトヴィア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナの地域が、戦争前にはスターリンによって意図的に飢饉が引き起こされ、餓死させられた。同時に、その地で我が身を守るために、ポーランド系市民や反ソ分子と目された人々の殺害に加わった連中が、今度はナチスに占領された時には、やはり我が身を守るためにナチスの元でユダヤ人虐殺に積極的に加わったということを知った。つまり、ドイツとソ連に挟まれた地域はソ連による飢饉やソ連秘密警察による虐殺が横行した時代にはドイツ軍がソ連に攻めてくることを願ったが、実際にドイツ軍がやってきたら、もっとひどいことになったわけで、ナチスにもソ連にも希望が見出せないひどい場所だったわけである。彼らの多くは決してファシストだったわけではなかった。





拙ブログで何度も繰り返してきたクレヨンしんちゃんのパパのセリフ、「正義の反対は悪ではない、別の正義だ」を借りれば、「悪の反対は正義ではない、別の悪だ」だ。うん、なかなかいい文句を思いついた 笑)

ソ連製の対ファシズム戦争映画というのは、例えば「ヨーロッパの解放」なんていう5部作ぐらいの映画もあるが(中学の時、クラスの戦争映画好きが集まって7、8人で一緒に見に行ったもんだった)、そこには祖国を裏切ったソ連人は出てこない。他のこの種の映画でも、ソ連の人間たちは皆、ファシズムに雄々しく立ち向かったことになっている。ある意味、ジョン・ウェイン映画と同じ単純さ。

その点、以前ちょっと触れたゲルマンの「道中の点検」は、ドイツ軍に寝返った後に再びソ連軍に戻ってくる男の話だった。だからこそ、長い間上映禁止になったのだろう。つまり、ソ連の権力者たちにとってはナチスのために働いたソ連人がいては都合が悪かったし、一方で、実際にナチスのために働いたソ連人にとっては、それをなかったことにしたい。そういう点で利害関係が一致した、見事なうぬぼれ鏡としての国策映画が出来上がる。

ところで、監督のエレム・クリモフという人は2003年まで生きていたのに、1985年のこの映画を最後に映画を撮っていないのが不思議である。そもそもが劇映画としては「ロマノフ王朝の最後」と「別れ」とこの「炎628」だけ。「別れ」は大昔NHKでTV放送したことがあった。ダム建設に反対する村人たちの話だったように記憶している。手持ちカメラが激しく動き、やたらとゴウゴウ火が燃えて、俳優たちの表情豊かな顔のアップが多く、その点では「炎628」と似ていた。

もう一つの「ロマノフ王朝の最後」も今は無くなってしまった巣鴨の三百人劇場で見た。こちらも確か公開差し止めか何かで、ソ連国内では上映されなかったんだったと思う。ロシア帝政末期の皇帝ニコライとその妻に取り入る怪僧ラスプーチンの話で、ものすごく立派な堂々たる映画だった。特にラスプーチンが殺される凍結した川の上のシーンは結構はっきり記憶にある。

上映できなかったのは皇帝ニコライが憎い圧制者ではなく、妻やラスプーチンに何か言われると、逆らうことも怒ることもできない、ただの気弱な泣き虫の男として描かれていて、見ている方が同情してしまうからだったんだろう。そういう監督だからこそ、「炎628」みたいな叙情性豊かでありながら、作る方も悪魔にならなければ作れそうにないような冷徹で残酷な映画が作れたんだろう。そういう意味ではこの監督の撮った映画をもっと他にも見たかった。

しかし、正月早々こんな映画の紹介かよ、という声も 笑)



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NHKのドラマ「東京裁判」

2016.12.17.01:47

昨日の第4回をリアルタイムで観られず、ビデオに撮っておいたので、今見終わりました。

うーん。よくできたドラマだし、面白かったんですが、在日ドイツ人のピアニストや竹山道雄はどういう意味合いを持っていたのかなぁ。。。オランダ人判事が主役の扱いで、彼と接触があった人たちだから出てきたのかなぁ。こんなところではなく他の、検察と弁護側、さらには被告人たちの弁論や発言をもっと詳しく扱って欲しかったな、という気持ちは強いですね。いや、ドラマとしてすごく面白かったのは認めるのですけど。

しかし、いみじくも劇内で誰かが言っていたように、天皇(皇族)を訴追しないで、その下っ端だけを死刑にするなんておかしいっていうのはその通りだと思います。さらに言えば、もっと下っ端のBC級戦犯が1000前後死刑になっているのを思い出せば、「悪い奴ほど良く眠る」という現代社会(だけではないかもしれませんが)につながってくると思います。

そして先日書いたけど、ドイツ映画の「顔のないヒトラー」のことと思い比べると、いろんな事情があったにしても、やっぱり日本人が自分たちで、当時の責任者たちの戦争責任を問わなかったというのが決定的なんだろうと思います。結局、この東京裁判で全て片が付いたことになってしまったわけで、ドラマの中でも予言されていましたが、安倍の爺さんのA級戦犯被疑者岸信介なんかが、あっさり首相になってしまったわけで、万が一あの裁判でパル判事が主張したように全員無罪にしていたら、東条英機が再び首相になっていたかもしれません。ところで、パル判事を顕彰する碑が靖国神社にはあるそうですが、彼が主張したのは被告たちは当時の国際法では罪は問えないというだけで、もし仮に彼が今も生きていて靖国神社に自分の碑があるなんて知ったら、絶対喜ばないでしょう。



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映画「顔のないヒトラーたち」

2016.11.28.23:17



戦後のドイツと日本の戦争に対する対応の違いがよく言われる。しかし、この映画に描かれる1958年ごろ、ドイツでもナチス追及の気配はほとんどなかった。ナチ時代のことをほじくり返そうとすると、売国奴となじられたのである。この映画の主人公はフランクフルト地方検察庁の若い検事。アウシュヴィッツにいた武装親衛隊員が小学校の教師をしていることを知り、彼を起訴しようとする。

昔、1990年ごろの映画に「ナスティ・ガール」というドイツ映画があって、ドイツの女優としては珍しく可愛らしいレナ・シュトルツが主役の高校生で、地元の町のナチ時代を調べ始めると、町の人々から村八分にされるという、ちょっとコメディ・タッチの映画があった。

少し前に読んだ「ヒトラーに抵抗した人々」でも、あるいは先日紹介した「ヒトラー暗殺、13分の誤算」でも、ヒトラー暗殺を企てた彼らの名誉が回復され、ドイツの良心として賞賛されるようになるのは、かなり経ってからだ(特に後者のエルザーはドイツ統一後まで待たなければならなかった)。

映画は主人公の検事が地元の元アウシュヴィッツの看守だった男たちを探し出すと同時に、アウシュヴィッツの悪名高い「死の天使」と呼ばれたドクター・メンゲレを逮捕してドイツで裁判にかけようと努力する。

ただ、この時代のドイツ、人々はアウシュヴィッツを知らないし、知っていても記録映画で見せられただけで、しかもそれは戦勝国によるプロパガンダだと思い込んでいる。それはそうだ。町の気のいいパン屋の親父が戦争中、アウシュヴィッツで残虐行為に励んでいたとは誰も思わない。ひょっとしたら、自分自身だって思わないのかもしれない。そして、戦後の東西冷戦体制のなか、ソ連が解放したアウシュヴィッツは西側にはあまり伝わらず、アメリカとしては対ソ連の政策としてナチの大物を反共に利用できると考えた(もっとも、これは日本でも731部隊なんかを思い出せば同じだったことがわかる)。

その合間を縫うように、メンゲレを始め、ナチの大物が、ナチ体制崩壊後のドイツでも堂々と逃げおおせたのである。彼らを守ったのが一部のローマカトリック教会の司祭たちだったというのは、映画「ホロコースト、アドルフ・ヒトラーの洗礼」(原題「アーメン」)でも描かれていたが、この映画ではもっと別のルートからも彼らを守る勢力があったことが暗示されていて(アメリカ?)、アイヒマンがイスラエルのモサドによって拉致され、裁判にかけられたのも、かなりの困難の末のまれなことだったのがわかる(実際メンゲレは訴追されることなく逃げ切った)。

つまりこの時期のドイツはニュルンベルク戦犯裁判で、ナチズムは全て裁かれ、ケリがついたものとされていたのである。そして「ヒトラー暗殺、13分の誤算」のところで書いたように、当時のドイツ人にとって、ナチス党員であるのが普通のことであり、むしろナチス党員にならなければ、様々な不利益を被ったのだから、それをほじくり返すことは、当時のドイツ人、つまり主人公の父の世代全てを敵に回すことだったわけである。アウシュヴィッツの看守たちが行った残虐行為は「兵士としての義務」として免罪され、収容者の誰をガス室送りすべきかの選別は、選別してガス室送りを免れさせたと強弁される。

ただ、映画の中で主人公は、当時の全てのドイツ人がナチなら、その中の一部の悪を裁くことの意味があるのかということに苦しむのだが、ちょっと違うような気がした。つまり、ナチであることと、自らのサディズムのままにユダヤ人を殺したこととは別だと思うのだが。。。それに、もし自分だったら、と考え出したら検事という職業はやっていけないだろう。この辺り、映画の中での説得力がやや足りないような気がする。

ところで、少し前に70年の沈黙を破って、ドイツの精神医学学会がナチス時代のT4作戦(障害者の安楽死計画)の謝罪と反省を発表した。なぜ70年も経ってなのか、という問いに対して、会長は、自分たちの恩師が生きている間は、彼らを断罪することはできなかったと言ったそうである。

それを思いあわせる時、この映画の主人公の検事たち(実在のモデルがいる)の凄さには頭がさがる。彼らは関係者たちがまだ生きている間に、ドイツの法律で裁きたいと思ったのである。こうした姿勢が戦後のドイツと日本の大きな違いになっているんだろう。現在、ドイツ人でナチスがやったことを肯定するような若者はまずいないだろう。アウシュヴィッツはなかったなんていうドイツ人はほとんどいない。それに対して日本は???

映画の中で主人公の背広の腕が鉤裂きになって、それが修復できるかが、主人公と恋人の、そして主人公の世代と親の世代の関係修復の比喩になっているのだが、それ以外にも、映像的に面白かったのは、アウシュヴィッツへ向かう主人公たちが乗る車が、一瞬戦時中の車に変わるシーン。ほんの一瞬のシーンなんだけど過去を今に蘇らせようということだろうか。

ただ、最近読んだ「ブラッドランド」という本によれば、強制収容所で死んだユダヤ人の数は、実は戦争中に殺されたユダヤ人の総数のうちのおおよそ三分の一にすぎなかったそうである。



アウシュヴィッツはホロコーストのシンボルに過ぎない。そこに関わったアイヒマンやメンゲレは、さらにそのアウシュヴィッツのシンボルに過ぎない。実際にはポーランド東部からソ連西部(ウクライナやベラルーシ)ではもっとすごいこと、とんでもないこと、想像を絶することが行われていたというのは忘れてはならないし、そうした虐殺作戦に参加したドイツ人たちの多くは、文字どおり、「兵士の義務」として墓場まで口をつむんで行ったのだろう。当時の虐殺舞台のドイツ人兵士が、自らの行為を懺悔したような話はあまり聞いたことがない。あるのかもしれないが。。。

こうして考えると、主に中国で、自分の行いを真摯に見つめて、戦後になってそれを悔い、謝罪しようとしたたくさんの元日本兵の方がまだマシなのかな、と思ったりもするが、そうした良心的な日本人を嘘つき呼ばわりする人たちもいるのが、現在の日本である。



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エルザーの自転車は下っていく

2016.11.22.01:47


映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」は、以前拙ブログで紹介した「ヒットラーを狙え! 運命の7分間」と同じ、第二次大戦前夜にヒトラー暗殺を企てたゲオルク・エルザーを描いた映画。13分と7分っていう誤差が気になるけど 笑)

まあ、比べる必要もないほど、こちらの方が映画としてレベルがずっと上だ。だけど辛い。これもナチスに反対した大学生たちの裁判の様子を描いた「白バラの祈り」のような辛さ。どちらもなんの救いもないし、特に「白バラ」の最後はあまりの無残さにショックを受けるので、一般の映画ファンにはお勧めできません。

最初の方で捕まってしまう点も「白バラ」と似ているけど、「白バラ」は検事とのやりとりにサスペンスがあるのに対して、ここでは尋問=拷問の合間にエルザーの過去の追憶が挟まれていく。ドイツのどこにでもあるような田舎の村が徐々にナチス色に染まっていく経緯が恐ろしい。

普通の飲み屋の親父が突然ナチスの突撃隊の制服を着るようになる。子供達はヒトラーユーゲントのいでたちになり、村の収穫祭はナチスのお祭りになっていく。村の入り口にはいつの間にやらユダヤ人は入るなの警告が掲げられ、ユダヤ人の伴侶がいた女は首から「私はユダヤ人と関わった豚です」という看板をぶら下げて晒し者になる。

あまり知られていないけど、ヒトラーは政権を取るとすぐに、公務員にナチスに従順なものだけを雇用し、そうでないものやユダヤ人を解雇する法律を制定し、同時に、ナチスに入党しない労働者は賃金を下げられたり、職にあぶれたりするようにした。      

こうなれば普通の人はナチスに入党するだろう。そして映画の中でもそうだけど、ロクでもない奴らが威張り散らす社会が出来上がる。普通の人たちは何かおかしいと思いながらも、自分に関係ないと知らんぷりを決め込む。戦争に向かっていることは明らかなのに、戦車製造の映画を見て喜び、戦争の悲惨さを何も考えていない人々。

結果から見ると、ナチスなんて、当時のドイツ人はどうかしていたんだ、と思うけど、そこに至るためには実に巧妙にことが進められていたわけだ。同時に、一般の人々にとっては、日々の生活が一番で、ナチスが国をどの方向へ向かって導いていくかなんて、関心がなかったんだろう。つまり、戦争になるまでは、ナチスに従順であれば生活は保障され、恐怖とは比較的無縁に生きられたわけである。そして戦争になってからも最初のうちは連戦連勝で、特に東ヨーロッパでの略奪行為によってドイツ国内の生活は潤ったわけ。

そんな中で、エルザーは共産党員の友人がいたとはいえ、戦争になると直感して、一人孤独に、誰にも明かさず、ヒトラーの爆殺(ナチスから見ればテロだ)を企て、失敗して逮捕され、拷問にも屈せず黙秘を貫こうとするが、捨てた恋人のために尋問に屈する。

ナチスとしてはユダヤ人でも共産党員でもない、腕のいい職人の生粋のドイツ人がそんなことをするなんて信じるわけには行かず、何としてでも背後にイギリスがいる、エルザーはイギリスの差し金で働いたのだという筋書きを作ろうとする。以前にもちょっとだけ紹介した「ヒトラー暗殺」という本によると、ドイツがイギリスに勝利した暁には、イギリスのヒトラー暗殺計画の証人として利用するために、終戦直前まで処刑されなかった。

エルザーを取り調べる刑事が、のちのワルキューレ作戦に関与し、刑死したネーベという人物だというのは作り話だと思うけど、その表情が少しずつ変化していくのが、とてもうまい。エルザー役の役者共々、最近どこかで見てると思ったら、先日見た「白いリボン」の教師と牧師だった。

というわけで、今回の映画は結末も最初から分かっているし、かなり意地悪な言い方をしてしまえば、戦後も東西冷戦のあおりを受けて、ずっと無視され続けてきたエルザーに対するドイツ人の負い目から作られた映画です。でもね、日本だって当時の軍国主義の中でそれに反対して捕らえられ、獄死した者もいるのに映画にはならない。

あ、表題は、やっぱり自転車好きとしてはこの映画で出てくる自転車のシーンが気になります。村には坂道がいっぱいあるんだけど、自転車がそれを登るシーンが全くない。エルザーは降ってばかりいるので、なんとなく彼と国の運命に引っ掛けたくなっただけです 笑)


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映画「白いリボン」覚書き(完全ネタバレ)

2016.11.18.01:42



白黒の映像の美しい映画。第一次世界大戦が始まる1年前からほぼ1年間にわたる北ドイツの村の話。主な登場人物はやもめの医者と愛人の産婆、小作人家族、牧師一家、村を治める男爵一家、家令一家、それぞれに子供達がいる。厳格なプロテスタントの村で、子供達にはあまり笑顔が見られないし、大人達もあまり楽しそうではない。唯一の例外が語り手の村の学校教師で、彼はエーファという17歳の娘に恋している。

この村で次々と事件が起きる。(1)馬に乗った医者が、何者かが張った針金に引っかかり落馬して大怪我を負う。(2)その翌日小作人の妻が事故で死亡する。(3)その遠因を男爵に見た小作人の長男が男爵の畑をメチャメチャにして、小作人が職を失う。(3)男爵の息子が何者かに虐待される。小作人の長男が疑われるが、アリバイがある。(4)小作人は自殺する。(5)放火により村の倉庫が焼失する。(6)医者の愛人のダウン症の息子が襲われて大怪我をする。(7)医者と愛人の一家が失踪する。

針金を張ったのが誰か、男爵の息子を虐待したのは誰か、放火したのは誰か、ダウン症の息子を襲ったのは誰か、すべて犯人は暗示すらされない。あえて、そうかな、と思えるのは、医者の落馬事故の後に、牧師の息子が教師の制止を振り切って危険な橋の上を歩き、その理由を、神様が自分を罰するチャンスを与えたのだが、神様は自分を罰しなかったというシーン。子供達がみんな一癖も二癖もありそうで、医者の14になる娘は綺麗な顔立ちなんだけど、何か目に生気のない、不思議な顔をしているし、牧師の息子と娘もとても特徴的な顔をしている。

やもめの医者と40になる産婆の愛人関係も、完全に壊れていて、医者はどうやら娘と謹慎相関関係にあるのではないかと思わせるシーンもあり、男爵夫婦も破局を迎える直前である。何か村全体が不穏な雰囲気に包まれていて、最後にサラエヴォで皇太子が暗殺されたニュースが伝わり、戦争が始まる。だから、そうした不安な時代の雰囲気を、敏感な子供達が集団的に感じ取り、次々と事件を起こしたのだ、とも考えたくなるのだが、少なくとも映画の中では真相は全く明らかにされない。

上にあげたこと以外にも、エーファが男爵の子守の職をクビになったのはなぜなのかもわからないし、男爵の息子から笛を奪った家令の息子が父親から半殺しの目にあうようなのだが、それがどういう結末になったのかとか、同じく家令の娘がダウン症の子の襲われる夢を見たとされ、警察に調べられた挙句、どうなったのかもわからない。映像的にとても美しいシーンがたくさんあるが、そうした一つに、自殺した小作人の雪の中での葬式のシーン(自殺だから教会ではできないで、馬車に乗せて家族が後をついていく)があるけど、この小作人一家もどうなったのだろう? こうして、様々なシーンがその結末がはっきり示されないまま、宙ぶらりん状態で終わる。特に最後の医者と愛人の一家の失踪に至っては、何がどうなったのか、全くわからない。

監督はミヒャエル・ハネケ。拙ブログでは以前に「愛、アムール」について書いたけど、あの映画はわかりやすかったし、ごく一般的な意味で感動的だったけど、この映画はそうした感動とは全く無縁。ただし、事件が次々と起こるから、2時間半近い時間は長いとは感じない。

うーん、何だろうなぁ。映画っていうのはカメラが切り取った部分しか描いてないのであって、実はカメラの見ていないところで様々なことが行われているのだ、と、監督が開き直っているような、そんな感じもする。何れにしても、謎解きがテーマじゃないし、謎解きしてみろと挑発しているわけでもないだろう。わけのわからない迷宮に迷い込んだような気分ではある。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと努力しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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