
明日までというので強引に 笑)渋谷のユーロスペースで見てきました。
東西ドイツ統一後、旧東ドイツでの国家保安局、いわゆるシュタージという組織のやってきたことにより、東ドイツの人々は疑心暗鬼に囚われました。さまざまなTVドキュメンタリーなどでも知られているように、このシュタージという組織は、東ドイツで反体制的な人間をスパイし、一般の人々にも密告を奨励したということで、ドイツはナチスの時代のゲシュタポと東ドイツのシュタージと二つの悪名高い公安組織を生み出した国とみなされています。
というわけで、今日渋谷のユーロスペースで見てきた「グンダーマン」という映画、1970年台から東ドイツで活躍したシンガー・ソングライターのゲルハルト・グンダーマンという人を描いたものでした。むろん、僕はこの人のことを知りませんでしたが、生まれたのが僕より1年前で、20世紀末に40代前半で死んでいます。 Gundermann で YouTube で検索すれば、当時の歌がたくさんヒットします。
この人、おそらくミュージシャンとしてプロ活動ができたはずなのに、炭鉱の掘削機のドライバーとしての仕事をし続けたんですね。つまりプロレタリアートであることをやめなかったわけ。筋金入りの共産主義者だった。だからこそ、なんでしょうけど、シュタージのスパイとして自分の周囲の人間の動向を当局に伝えていたのでした。
先日の
「ハイゼ家 百年」でもシュタージのことは出てきたけど、なにかかなり恐ろしい組織で、人の弱みに漬け込んでスパイにして密告させていたという印象があったけど、この映画を見るとそうしたイメージとはちょっと違います。この主人公グンダーマンの場合は、共産主義の理想を信じていて、国家に協力することがその理想を実現するために役に立つのだと信じていたのでした。グンダーマンは党のお偉方に対して労働者の立場から耳の痛いことを言うし、自らの理想を国家の現実に対して合わせようとはしません。「国家」に、あるいは「現実」に妥協しないわけ。だからドイツ統一後に、シュタージに協力したことも、単純に自己否定できないのでしょう。
これって単純に善悪を言える問題ではないですね。ナチスの時代のアイヒマンの「凡庸な悪」やオウム事件を連想しますが、信じたことが嘘だった時、その信じたと言うことの純粋さを自分で否定できるのかな、と思ったりします。
映画はドイツ統一後のシュタージのスパイだったことを友人たちに告白しなければならないシーンから始まり、1970年台から80年代と統一以後とが行ったり来たりして、最初の方ではとてもわかりづらかったです。途中で眼鏡で時代を見分けられることがわかって、すこし話がわかってきましたが 笑)特に奥さんになる女性が最初は髭面の男のパートナーで、あれ?この人誰?状態になりました 笑)
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ヴィム・ヴェンダース監督の1993年の映画。1987年の「ベルリン・天使の詩」(ベル天)の続編ということで、公開当時から見たかったんだけど、なんかタイミングが合わないまま見ることあたわず、気がついたら中古ヴィデオでも1万近い値段がついてて、ツタヤにもなかった。少し前にCS放送でやってたのを録画しておいて、やっと見ることができた。
前作のベル天が1987年というベルリンの壁崩壊の2年前の映画で、最後にソルヴェイグ・ドマルタンがカメラ目線で私たちはみんな決断しなければいけないの、みたいなことを延々と言う(説教する 笑)シーンがあったけど、ベルリンの壁が崩壊した後から見れば、東西ドイツ統一へ向けたとても強いメッセージだったんだと思える。

僕はこの映画、主人公のブルーノ・ガンツや相棒のオットー・ザンダーがベルリンの街を徘徊して人々の心の声を聞き取っていくところがむちゃくちゃ好きだ。特に、前にも書いたけど、道路上で交通事故で瀕死のおっさんが、ああすれば良かった、こうすればよかったと後悔しているところへやってきた天使のガンツが頭をゴッツンコすると、そのおっさんの思いが綺麗な詩句の断片のような言葉に変わっていくシーンは、これだけで映画史に残るシーンなんじゃないかと思うぐらい。
今回の「時の翼にのって」はベルリンの壁崩壊から4年、冒頭ゴルバチョフが出てきてびっくりさせられるけど、ベルリンの壁がなくなったのはゴルビーのおかげだとも言えるから、出てくるのは当然か。前回のベル天でガンツの同僚天使だったオットー・ザンダーが主役で、人間になったブルーノ・ガンツはピザ屋になり、空中ブランコ芸人のソルヴェイグ・ドマルタンとの間に子供がいたり、元天使のピーター・フォークが相変わらず本人役で出てきたり、完全な前作の続きになっている。
ベル天で出てなかったのは、天使のナスターシャ・キンスキーと、人間になったザンダーの誘惑者となる堕天使役のウィレム・デフォー。前回、昔のベルリンを知っていたホメーロス役で出てきたクルト・ボワは残念ながらすでに鬼籍に入っていたので、代わりに昔のベルリンを知っていた役どころとして91歳のハインツ・リューマンというサイレント時代からのドイツ映画の伝説が、一見91歳には見えない元気さで出ている。
で、この映画ではウィレム・デフォーが良い。この人いつ出てきても存在感があるし、そもそもが前衛劇団の俳優だったので、なんか雰囲気がアングラ 笑)元天使のくせにザンダーを悪の道へと誘う。ただ、正直に言って後半のストーリーは馬鹿馬鹿しい。面白くない。人間になったザンダーは生きるために武器商人の秘書になるが、歌の歌詞に目を覚まされて密輸された武器を廃棄しようとする。。。
で、この武器商人、どこかで見たことあるような気がしてしょうがなかったんだけど、「荒野の7人」で出てきたホルスト・ブーフホルツだった。
まあ、今回思ったんだけど、ベル天もこの映画も天使の設定がいいんだと思う。実際の人間の危機になんの手出しもできず(もっとも今回のオットー・ザンダーは手出しできちゃうんだけど 笑)、ただ悲しんでいる人の心の声を聞いて、そばにいて頭をごっつんこして美しい言葉を吹き込もうとするだけしかできない。
前作のベル天に比べると図書館でのシーンがなくなり、老ホメーロスもおらず、主人公が天使であるシーンが前半3分の1ぐらいで個人的には、やっぱりベル天の方が好きだな、と思ったけど、前作同様白黒画面の美しさと構図の良さ、ときどき出てくるカラーのシーンの色の美しさ(ヴェンダース映画のカラーの美しさはベル天前の「パリ・テキサス」で実証済み)に、後半の武器密輸品をめぐるつまらんストーリーなんかどうでもよくなる。
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今日は(ってもう昨日になっちまったか)仕事が夕方からだったので、渋谷はイメージ・フォーラムであるドイツ人一族の歴史を描いた3時間半以上にわたる淡々としたドキュメンタリー映画を観てきました。
100年前の1912年に、14歳の監督の祖父が書いた強烈な反戦詩から始まり、それにつづけて、第一次大戦開始直後に同じ祖父が描いたとても微妙な愛国的な詩が朗読される。
この映画は監督のトーマス・ハイゼの祖父母、父母と三代にわたる一族の家族史を描いたドキュメンタリーである。一家の遺品である手紙や日記を、現代のドイツの旧東ドイツに属す地域のモノクロ画面にのせて(時々遺品の中の写真も映るが)、朗読するだけの映画である。
20世紀のドイツは第一次世界大戦、敗戦後の共産主義革命とその失敗、ハイパーインフレ、ヒトラーの台頭、第二次世界大戦と国土を戦場にした末の敗戦、そして戦後は東西に分けられ、特に東ドイツでは社会主義への理想が潰えていき、独裁体制下で密告社会となり、さらに冷戦の終結とその後の東西格差から排外主義的なネオナチの台頭、と20世紀の歴史の主役だったわけだけど、このドキュメンタリーではそうした歴史の決定的な瞬間はほとんど出てこない。
ベルリンっ子の祖父は共産党員で、ウィーンのユダヤ人の娘と結婚する。祖父は教師、祖母は彫刻家だったが、ナチスが政権を取るとユダヤ人はご存知の通り強制収容所へ送られ、多くが殺される。祖母はユダヤ人だったが夫がドイツ人だったために収容所送りは免れるが、父母や一族郎党はみな収容所へ送られる。この経緯が、収容所へ送られたユダヤ人の名簿を延々と移しながら、祖母の日記と祖母に宛てて書かれた親類の悲痛な手紙で語られていく。ドイツ人の祖父も妻がユダヤ人だったために公職追放される。そのときの不服申請嘆願書の手紙が下書きの形で、書き直した文面もかぶせるようにしながら、朗読される。
父はおそらく二分の一ユダヤ人としてかなり辛い思いをしたと思われるが、強制労働収容所を生き残り、戦後、恋多き女だった母と結婚して監督のトーマス・ハイゼが生まれることになる。しかし父は祖父の影響で共産主義者だったから東ドイツにとどまり、ベルリン大学で教鞭を取ることになる。
東ドイツも社会主義・共産主義の理想をお題目に唱えながら、ただの独裁国家、密告国家になっていき、父は徐々に政権から睨まれ、大学を辞めざるを得なくなるとともに、シュタージ(国家保安省。ナチス時代のゲシュタポみたいなものと考えれば遠くないでしょう)に監視される。
特に父はベルリン大学で哲学教授だったこともあり、旧東ドイツの著名な作家たち(主に反体制的)とも交流があった。そうした有名な作家も、東西ドイツ統一後には、シュタージの協力者だったと言われたけど、実は母も一時シュタージの協力者とならざるを得なかったことも、朗読された手紙からわかる。
そして映画は2014年、父はすでになく、母も介護施設にいる。おそらく今年中に亡くなるだろうと、淡々と監督のナレーションが入る。
最後のシーンを除き、ほとんどが手紙や日記、公的な履歴書の写しなどを、監督自身が読み上げていくという構成で、そこに流れるシーンは主に廃墟となっているかつての東独の廃墟と化した建物や、巨大な風力発電用の風車、鉄道や駅、無数のレールが並ぶ転轍場などで、ときどき語られている人物の写真がはさまる。
いろんな映画を思い出した。特に去年見た
「ある画家の数奇な運命」は時代と場所が完全に被るし、また、後半のドイツ統一後の旧東側の人々の心情は
「希望の灯り」(これもいい映画でした)を思い出した。
普通のドキュメンタリーなら、この映画に出てくる一族の日記や手紙の朗読に被せて、その時代の記録映像などをながすのだろうけど、それを全くやってない。上にも書いたように、祖母の兄弟が明日は強制収容所に送られるのかもしれないという不安を書いた手紙の朗読では、収容所に送られたユダヤ人たちの名簿が延々と(おそらく20分以上?)映し出される。普通ならアウシュヴィッツとかの、たとえば現在の映像とか、あるいはヒトラーの映像とか、当時のユダヤ人を映す映像とか、そんなものがでてきそうなものだが、まったくない。だから、20世紀のドイツのことを知らなければ、わかりづらいというのは間違いない。だけど、なんとも言えない余韻が残る。特に監督のトーマス・ハイゼは1955年生まれ。ほぼ僕と同じ年齢だし、祖父の生まれたのは1898年だというから、僕の祖父とこれまた同じ(僕の祖父は97年)。ただ父母は僕の父母より少し年上だけど、やはり自分の一族のことを連想せざるを得ない。
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ヴィスコンティの1957年の映画です。晩年のヴィスコンティは自らの出自もあって、なんとなく絢爛豪華な金ピカセットのイメージがありますが、この映画は敗戦後の娼婦やホームレスがいる白黒の風景です。
若い頃マリア・シェルが大好きでした。「居酒屋」はTVですけど、何回も見ました。笑顔も魅力的だけど、泣き顔がとても綺麗で、悲劇向きの女優ですね。
ジャン・マレーはけっこう歳だと思うけど、まあ、格好いいです。撮り方なのかもしれないけど、肩幅が結構広く、大男のように見えます。子供の頃、「トリスタンとイゾルデ」を映画化した「悲恋」という映画がNHKで放映されたことがあって、若い頃のジャン・マレーってまるで美術室にあった石膏像みたいだと思ったものでした。対するマストロヤンニも美男だし、タイプとしてジャン・マレーと同タイプの顔だと思うんだけど、ジャン・マレーに比べるとちょっとコミカルかなぁ 笑)
いずれにしても、この映画、マストロヤンニが可哀想過ぎるけど、原作のドストエフスキーってマゾヒストだからね 笑)
運河と橋が重なる構図の美しさと、最後の雪のシーンが悲劇を盛り上げます。ラストは知っていても魅せられます。
回想シーンへの転換も印象に残りました。マリア・シェルがマストロヤンニと一緒に廃墟の片隅に座って、カメラがパンするとそこにジャン・マレーとマリア・シェルが一緒にいる回想シーンに展開したり(ワンカットではありませんが、ワンカットかと思わされます)、振り向くと同様に回想シーンに入るところなんかもとてもおしゃれです。
戦後すぐのイタリアが舞台で爆撃?にあった廃墟と思しき瓦礫のような建物があちこちにあり、時代を感じさせます。
ストーリーはまあ、あれですね。大抵の人はマリア・シェルの自分勝手さに怒ることでしょう 笑)ラストのマストロヤンニが雪の明け方、とぼとぼと歩いていると犬が彼に絡むんですよね。おみごと!
でもやっぱり、どんなに自分勝手でもマリア・シェルだもんね 笑)
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アマゾンプライムで見ました。この映画、途中で見るのをやめる人もいるでしょうけど、この映画を忘れられなくなる人もきっといるでしょう。わたし? もちろん。。。苦笑)
今回も多少ネタバレしてますが、アマゾンプライムの説明ではすでに「ほとんどの人々が消えていく中、遂に(主人公の)ターニャは(アンドロイドの)レオナに見守られながら最期の時をむかえることになる」とあるし、そもそも題名が題名だし、ネタバレに怒る人は、たぶん途中で見るのをやめる人でしょう 笑)
近未来の話。いくつもの原発が爆発して日本は住めなくなっている。人々は順次受け入れてくれる海外へ難民となって出ていくことになっていて、現時点では第七次の海外移住を許可された人が発表されている。この順番は政府が発表するもので、どういう基準かははっきりしないが、貧乏人や前科のある者、一人暮らしの者などは後回しにされているのではないかと、人々はうすうす感じている。
主人公は10歳の時に両親と共に南アフリカから難民としてやってきた30代(?)の白人女性ターニャで、両親はすでになく自らも病気に苦しみながら、身辺の世話をしてくれるアンドロイドのレオナを話し相手に人里離れた一軒家に住んでいる。そんな彼女を心配してくれる友人のバツイチ女性の佐野さん(知らない女優だけどこれがとてもいい)と、恋人の在日韓国人のサトシが時々彼女を訪ねてくれる。説ブログとしては、サトシが人のいなくなった街のことを語る回想シーンでリカンベント(寝そべるように乗る自転車)に乗っているっていうのもポイントが高くなるところ 笑)
この映画はアンドロイドが出演したことで有名になったようだけど、途中ほとんどそれはどうでも良いことのように思われた。ただ、ラストのシーンではこのアンドロイドに泣かされる。
映画全体が、ターニャの住む家の窓辺に置かれたソファ、その窓から見える荒涼としたセピア色の風景、動きの少ない長回しのシーンと自然の音を強調していて寂しい雰囲気だし、ボソボソとモノローグのようなセリフが語られ、ときどきアルヴォ・ペルトを意識したような(一瞬ペルトの音楽かと思った)悲痛な音楽が流れる。
放射能に汚染された土地で、ターニャは病気もあってまもなく自分は死ぬということを知っている。佐野さんもサトシもいなくなり、避難も拒否した絶望的な状況の中、アンドロイドのレオナは日本語、フランス語、ドイツ語の詩をターニャに読んで聞かせる。この設定がとてもいいとおもうけど、途中の詩を読むシーンがそれほど多くのないのが残念。もっといろんな詩を読んでほしかった。
でも、最期の方で、瀕死のターニャに詩を聞かせるシーンがある。このシーンは画面が歪んで、ジャンプカットも交えながら、すでにあの世の世界なのではないかとおもわせる痛ましさがある。ヴィム・ベンダースの「ベルリン 天使の詩」でも、事故で瀕死の男が周囲の人に対する悪態や後悔を考えているところへ、天使が頭をゴッツンコすると、男の独白が詩句の断片のような美しい言葉だけになるシーンがあるけど、僕もその時が来たら、ぜひ天使に頭ゴッツンコをしてほしいと思う。
その後、ラストへ向かう窓辺のソファーで裸で横たわるシーンは、色調も構図もワイエスのヘルガの絵のようで、窓からの風でレースのカーテンが揺れるところなども、おそらくワイエスの絵を意識しているんだろう。とても美しいシーンだった。
「被害者かどうかということなら、被害者だと思います、でもだから加害者じゃないかどうかは、すいません、こたえられません。」
これはアンドロイドが発するもので、ターニャが難民となった理由として南アフリカでの逆差別と白人虐殺があったと語るシーンでのもの。それを聞いた恋人の在日韓国人のサトシが、それって本当なの?といいながら気を悪くして帰った後に、南アフリカでの白人であった自分たちは被害者だったのかと問われてアンドロイドはこう答える。
これは最近流行りの歴史相対主義で、だから在日韓国人のサトシは気を悪くしたのだろう。だけど、このセリフは差別のことだけでなく、原発そのものに対する日本人への言葉としても当てはまるのかもしれない。
***追記 2021,4/26, 12:30
うーん、見てから3日経ってるんですが、ときどきふと思い出しています。けっこう忘れられない映画の一つになってるかも。。。
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ソ連ロシア映画ってのはとんでもないのが目白押しです。節ブログでも紹介したアレクセイ・ゲルマン監督の
「神々のたそがれ」や
「フルスタリョフ、車を」なんかは、なにか映画の画面に写ってないものも映画の一部であるかのような、メタ映画的なものを感じさせられたし、ヴィターリー・カネフスキー監督の
「動くな、死ね、甦れ!」は、逆に映画の中に監督が介入していく逆の意味でのメタ映画的なものがありました。
また、最近見た中では一番衝撃的だったアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の
「ラブレス」などはもっと映像美追求形で、画面作りに厳格さが感じられて、タルコフスキーの系譜につながるのかもしれませんが、内容的には暗澹たるもの。
というわけで、この映画もなんと言ったらいいか。。。どこまで演技なのかなと思えるところがたくさんありますが、セックスシーンなんか本当にXXXんだろうと思われます。出ている俳優はすべて素人だそうで、ほとんどが映画のために作られたソ連時代を復元した町の中で2年間生活し、当時の衣装を着て、当時の料理を食べ、当時の酒を飲んだそうです。その街の中ではソ連時代の紙幣が使われ、新聞すら当時のものが毎日届けられ、出演者たちもそんな環境の中でお互いの信頼関係を築いて、愛し合い憎み合ったと。しかもその間もカメラは至る所で撮影していたということで、そこまでやらないとカメラの前であんなのあり得ないでしょう。
いや、セックスシーンだけでなく、飲んだり食ったりするシーンも本当にウォッカをがぶ飲みして完全に酩酊、挙げ句の果てに娘がカメラの前で嘔吐します。手持ちカメラでスタビライザーをわざと効かせないのか、細かく揺れるしピントもときどき会ってなかったりして、ドキュメンタリーを連想するかもしれないけど、俳優は決してカメラを見ませんし、特に後半はドキュメンタリー的要素は全くありません。
この映画、前半と後半で雰囲気が一変します。時代は1952年ですから、まだスターリン独裁の時代ですね。以前書いたけど、タルコフスキーの「鏡」の中で印刷所に勤める母親が「誤植」に怯えるシーンがありましたが、実際スターリンの綴りを間違えただけで強制収容所に送られたそうですからね。
主役は40代のウェイトレスで、ソ連の兵器開発のための秘密都市の食堂で、科学者たちを相手に料理を提供し、仕事を終えると20代の同僚と二人で高級酒やキャヴィアをこっそり開けて酒盛りをし、恋バナしたり喧嘩したり、挙句取っ組み合ったりします。そしてある晩、科学者たちを招いたパーティーでソ連に招かれた50代のフランス人科学者と主人公の女がデキちゃいます。
科学者たちの研究とやらも、なんだか怪しげなものなんですが、後半、主役の40代の女がある日突然KGBに呼び出され、外国人と寝たことが反逆罪だと非難され、さらにフランス人科学者がスパイだと言う報告書を書くよう命じられます。このシーンがすごい。暴力は一回だけですが、KGBのおっさんの言葉によるイタブリが尋常じゃない。酒を与えて油断させたと思うと、突然防音室へ連れて行って素っ裸にさせ、屈辱的な脅しをかけ、さらに自分で殴っておきながら、それをいたわるようなやり方で懐柔、ついには女を自分の言う通りの報告書を書かざるをえない状況へ追い詰めていきます。それどころか、いたわられた女はおっさんに好意すら感じているようなコケットリーを見せ始めます。
このあたりも、なんか演技ではないような気がします。そして解放された女は同僚の若いウェイトレスに対してマウントを取ろうとするような命令を発して映画は終わります。他人を自分の思い通りにさせようとすることの「悪」というのは、まあ、誰にでもあるものなんでしょう。ソ連時代はそれを権力を使ってやっていたわけで、そんな社会で生きていた人たちは、さぞかし大変だったことでしょう。
うーん、例によってこの映画を面白いと思う人はどうかしてますね(天に唾する文句ですな 笑) DAUナターシャという題名ですが、ナターシャは主役の女の名前です。監督自身は2年かけて撮影した膨大なフィルムを使って、全部で16本のDAUシリーズを発表すると言っています。監督の意図はソヴィエト時代の再現ということのようですが、次のを見るかどうかは、なんとも。。。苦笑)
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いや、自転車レースを見ていて時々全く違うことで「わっ!」となることがあります。昨日のティレノ〜アドリアティコ第二ステージではゴール前15キロのあたりで突然サンガルガーノ修道院が空撮で大きく説明付きで出てきました。屋根がなくなった修道院ですが、この修道院は僕にとってはこれですね。

タルコフスキー監督の「ノスタルジア」のラスト、ロシアとイタリアを強引に融合させた不思議なシーンでした。このポスターだいぶ昔に買ってそのまま丸めておいたのでよれてますが、映画ではこの画面がそのままカメラが引いていって最後はこんな感じになります。

タルコフスキーについては以前に書いたこともあるけど、「鏡」という映画が僕にとっては生涯ベストの映画です。現時点ではという言葉は不要だな、きっと。そしてそれ以外のタルコフスキーが撮った7本の映画はどれも、「2,30本ある生涯ベスト2」のうちの一本です 笑)
ただ、この「ノスタルジア」以前はタルコフスキーは自分のことだけ考えて映画を作っていたんだろうと思うんだけど、「ノスタルジア」からはテーマが「世界平和」になります。こういう言葉を使うとどうも軽くなっちゃうんですが、「惑星ソラリス」や「鏡」のラストは明らかに自分の人生に対する後悔(ある意味で「ソラリス」は父との葛藤、「鏡」は母とのそれ)を、映画によって解消しようとしていたのに対し、次の「ストーカー」では「世界」に視線が向き始めます。そしてこの「ノスタルジア」では最初の方で「自分だけのための美はもういらない」というセリフがあり、ラストもおまじないじみた形で「世界平和」を祈る願掛けになり、最後の「サクリファイス」も同様に、自分の家を燃やすという犠牲を捧げることによって、起きてしまった核戦争を起きなかったものにします。
タルコフスキーの映画は以前にも書いたけど連続性があります。タルコフスキーについては何度か書いてきたので、よろしければどうぞ。
「地球が滅びるときに見ていたい映画」映画「惑星ソラリス」を見た映画「鏡」を見た映画「アンドレイ・ルブリョフ」を見た(完全ネタバレ)映画「サクリファイス」その他を見た(ネタバレ)映画「ストーカー」を見た(ネタバレ注意)よければ、下の各ボタンをポチッとお願いします(まあ、大した意味ないですので、ポチッとしなくても構いません。おまじないみたいなもんです 笑)

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前にも書いたように、このところYouTubeでサイレント映画の名作をいくつも見ています。1903年の世界初の西部劇映画「大列車強盗」、1913年の最初の怪奇劇映画「プラハの大学生」などはクローズアップもないし、カメラもほとんど動かないし、ある意味では壮大な舞台での演劇の延長みたいな感じがしますが(とは言っても「プラハの大学生」はドッペルゲンガーの話で二重露出で演劇ではできないようなことをやってますが)、1916年の「イントレランス」になるとかなり複雑なストーリーと場面転換が繰り返され、現在リメイクしてもあまり変わらないものができるだろうと思えるぐらいレベルが高いです。先に書いた
「霊魂の不滅」や
「死滅の谷」も今見ても十分感動します。初期の映画っていうのは結局演劇ではできないことを常に探していたんでしょうね。
だから、サイレント映画を見るというのは、こちらの集中力も要求されます。受動的にぼんやり見ていてもよくわからなくなります。そういう意味ではそれなりの覚悟で見ないといけません 苦笑)
さて、数日前に見たのは1924年のドイツサイレント映画の傑作とされる「最後の人」。主演はエーミール・ヤニングスという戦前の名優、というか戦前のドイツで一番有名な俳優かもしれません。通常はマレーネ・ディートリヒ主演の「嘆きの天使」でディートリヒに翻弄される高校教師ウンラート教授をやった人です。また、アメリカに渡って、第一回アカデミー賞の主演男優賞を取っています。ただ、なにしろこの時代の人ですから、ナチ政権下では積極的に宣伝映画に出演して終戦後は否ナチ化の影響で映画に出ることはなくなり失意のうちに65歳で亡くなります。
お話はベルリンの高級ホテルで、金ピカモールの立派な制服を着たドアマンが、年齢による衰えからトイレの番人に配置換えされます。彼は安いアパートにめいと一緒に住んでいるんですが、ドアマンの制服で帰宅し、出勤する彼は住民たちから非常に尊敬されています。しかし配置転換により、立派な制服はホテルに返さなければなりません。翌日は一緒に住んでいるめいの結婚式。なんとかして制服姿で出席したいと考えた彼はこっそり制服を盗み出して参加し対面を保つのですが、翌日、もうドアマンではなくトイレの番人であることがばれてしまい、常々彼を尊敬していたアパートの人々から総スカンをくらいます。
トイレの番人としてうなだれた寂しげな彼の姿で映画は終わります(上のジャケットの写真)。というか、終わるはずだったんですね。ところが、ここでこの映画唯一の字幕が出ます。映画製作者は主人公に対して同情を禁じ得ないので、彼はトイレで急死した大金持ちの遺産を受け継ぐことにしたと。。。そしてその後くだんのホテルの食堂で、彼に配置換え辞令を出した支配人にかしづかれながら高級食材に舌鼓をうち、かつて制服を盗み出した時に助けてくれた夜警の老人とともにホテルの従業員たちにチップを振り撒きながら馬車に乗って去っていきます。
この取ってつけたようなラストは評判が悪かったらしいですが、無茶苦茶皮肉が効いていて、おそらくハリウッド流のハッピーエンドを馬鹿にする意味があるんだろうと思うけどどうでしょうかね。
それはともかく、この映画、実に面白いことをいくつもやっているんです。まず配置換えの辞令を読むシーンは大きな文字で、配置換えの理由は年齢による衰えだという文字をカメラがパンしながら写しますが、最後のところで突然画面がぼやけます。つまりカメラはドアマンの目なんですね。涙で文字が滲んだわけでしょう。さらに街を歩いてホテルの新しい若いドアマンを遠くからこっそり眺めるシーンでは突然高層ホテルが湾曲して彼の頭の上にのしかかってきます。他にも結婚式でしこたま酔ったときの酩酊ぶりが映像が二重になることでわかるようになってます。窓の中にいる人に外からカメラが近づいていき、窓ガラスを通り抜けてアップになるなんていう、のちになればオーソン・ウエルズの「市民ケーン」でもっと巧妙にやられたり、ヒッチコックの映画なんかでもなんどか出てくるシーンもあります。
主役のエーミール・ヤニングスの演技は、正直に言えば現代ではやりすぎでしょう。彼がドアマンではなくなった途端に彼を嘲り笑うアパートの住民たちの演技も、今の映画ではまずお目にかからないでしょう。それもこれもサイレント映画、セリフで心情を表現できませんからおのずと大袈裟な身振りが必要になるわけでしょう。
内容についても、いろんなことを考えさせられます。制服というものの持つ権威と、それに対する人々の変なありがたがりようは、
以前ここに書いた「ちいさな独裁者」でも、一兵卒の脱走兵だった主人公が大尉の制服を着るとプチ独裁者に豹変しました。
むかし読んだクラカウアーの「カリガリからヒットラーまで」という映画評論では、制服が一つの権威として機能し、人々がその権威に敬意を抱きありがたがるというのを、後のナチスにつなげて解釈していましたが、たしかにそういう文脈で考えれば、上の「ちいさな独裁者」もわかりやすくなります。さらに人々の権威に盲従する真理というのも、
以前書いたハンス・ファラダの小説「ベルリンに一人死す」にでてきた人々の「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」なんていうセリフを思い出させます。
というわけで、YouTubeに日本語版はないようですが、アマゾンでは購入可能ですね。淀川さんの解説付き。買っちまおうかな 笑)
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先日の「霊魂の不滅」に続くサイレント映画の傑作シリーズ 笑)
いや、不肖わたくし、実はサイレント映画って普通の映画ファンの中ではかなりたくさん見ている方だと自負しております。そんな私が断言します。
すごいものを見てしまった!!
調べたら「死神の谷」という題名で日本語字幕付きが出ていたんですね(現在絶版)。
もともとの原題は「疲れた死神」。死神っていうと大きな鎌を持って人々の命を笑いながら刈り取っていくというイメージで、怖く恐ろしく悪意のある者という印象がありますが、ここで出てくる死神は、人々の命を刈る自分に嫌気を感じています。人の生死を司るのは神であって自分ではない、死者を黄泉の国へ迎え入れる自分の役割にうんざりしているという役どころ。なので、主人公の娘にいろいろな条件を出してくれますが。。。
原題の「疲れた死神」というのはここから来ているし、実際そう言います。だから憂鬱な顔をしたまま表情が変わりません。この死神役の役者がものすごく良いです。ベルンハルト・ゲツケという人で、調べるとナチスの時代を生き延び1960年代まで生きた俳優で、ヒッチコックの最初期の映画で主役を演じたこともあるそうです。ふと先日亡くなった切られ役の福本清三を思い出しました 笑)が、こんな感じで出てきます。

それはともかく、お話が非常に古典的寓話風で、最後は手塚治虫の火の鳥のような感動を呼び起こします。あやうく泣きそうになりました 笑)
監督は
拙ブログでも以前書いたことのある「メトロポリス」のフリッツ・ラング。死の壁の前に佇む死神の姿はものすごく絵になります。

また、蝋燭で人の寿命をあらわすシーンなんかはその後何百と真似されたイメージですね。

ところで、死の壁のシーンは最初の方だけなんだけど、もっと出てきてもよかったですね。ほかにも最初の方に出てくる街の有力者たちが、最後の方でもう一度出てきてなにか役割を担って欲しかったかなぁ。
まあ、現代の見る人を飽きさせないテンポのよい映画を見慣れた目にはいろいろ文句も言えるでしょうけど、間違いなく傑作です。
しかし、まだまだYouTubeにはサイレント映画がたくさんありますね。今夜は何にしよう? 「ゴーレム」? 「プラハの大学生」? 笑)
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1920年、100年以上前のスウェーデン映画ですね。もちろんサイレントです。 ウィキペディアにも載ってますが、映画史上最初期の傑作の一つです。少し前にAmazonプライムで見つけて見たんですが、映像としてのすばらしさに対して、字幕の日本語が10年前の自動翻訳でもここまでひどくないだろうと言うぐらいの酷さ。意味不明なだけでなく、男が話しているのに女言葉になっていたりします。ただ、映像が面白いのでなんとか最後まで見ましたが。
そうしたらYouTubeにもあったので、これも同じバージョンなのか確かめたくて見てみました。結果、日本語訳がまるで違います。無論こちらの方が比べ物にならないくらい良いです。間違ってもAmazonプライム版を見てはいけません。確認のためと思っていたのに、見始めたら一気に最後まで見直してしまいました。Amazonプライムではよくわからなかったところがはっきりしました。
(最初YouTubeを埋め込んでいたんですが、どうもうまく機能しないのでここにリンクを貼っておきます。)
YouTube「霊魂の不滅」へ同じくYouTubeでは100年以上前のサイレント映画の傑作をたくさん見ることができます。たとえば「イントレランス」や「カリガリ博士」、「戦艦ポチョムキン」や「メトロポリス」なんかは日本語の字幕付きでアップされています。
「イントレランス」なんかは3時間近いですが、セットがすごいだけでなく最後の方の説明なしのカットバックなんかは圧倒されます。そして話自体も最後の方はかなり感動的。今見ても普通に感動します。
こういう最初期の映画を見ると、映画っていうジャンルは発明されて四半世紀も経たないうちにほぼ完成形にまで到達していたんだなと思いますね。この「霊魂の不滅」では二重露光と呼ぶらしいですが、死神や霊魂は透けて見えて、自分の魂が自分の体から離れたり、壁やドアも通り抜けたりして、だけど普通の人には見えないっていう撮り方をしていて、まあ、今見ればちゃっちいと思うかもしれないけど、すでに100年前にやられていたわけです。
内容は、酒に溺れて妻子を捨て、不実を繰り返し、たまに反省したかのように見えながら、人々の善意を嘲笑い踏みにじってきた中年男が死神を前にして自分の人生を反省する話。まあ、ベタです。最後はキリスト教信仰が、いわゆるデウス・エクス・マキーナってやつになってて、それによって救われるってのも、現代の人間にはなかなか付いていけないかもしれません。
でも、見終わって心に残るんですよ、これが。大晦日の晩に死んだ罪人は、つぎの1年間、死神となって死者の魂を回収する馬車の御者にならなければならないという設定で、その死神と馬車の絵柄が幻想的で美しいんですね(上の写真がそれで、よく見ると馬や馬車が透けているのがわかるでしょう)。まあ、100年前の映画だと言う意識が評価を上乗せしている面もあるでしょうけど。
監督はヴィクトル・シェーストレムで、主役の男(ちょっと私は渡辺謙を連想しました 笑)も演じていますが、この人は僕としてはベルイマン監督の「野いちご」の主役の老人として印象に残っています。つまり1920年に中年男の役をやった俳優が1960年ごろの映画では老人役で出ている。そうか、1920年って僕にとってはとんでもなく大昔の印象があるわけですが、よく考えてみれば40年。僕の歳になると40年の年月というのがどのぐらいの時間かのイメージがあるわけで、二十や三十の時には40年ってとんでもない長い年月の気がしたでしょうけどね。
まあそれはともかく、YouTubeには版権切れなんでしょうか? ずいぶんたくさんの昔の映画がアップされてます。どれも画像が良いし、しばらくハマりそう。
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Amazonプライムで見た2001年のドイツ映画です。
昔、ドイツ映画で「ベルリン忠臣蔵」という、日本大好きなドイツ人たちが作った映画がありました。だけどいろいろかなりヘンでした。あの映画でも最後のクライマックスで突然日本語を話すんですよね。「オイ ニンジャ オレハオマエノコトヲ シッテイルゾ」というんだけど、字幕がついていました。この映画でも日本かぶれのドイツ人が出てきて、時々日本語を口走るんですが、やっぱり字幕がついていました 笑)
旧東ドイツの田舎町で相撲の世界選手権が開かれることになり、失業中のトルコ系のただのデブが、幼なじみの悪友とデブのいじめられっ子と、その美人の母親、そして何より日本かぶれ、相撲マニアのドイツ人コーチのおかげで相撲道に励むお話 笑)
どこか旧東ドイツが舞台で、どこか侘しい感じは、
拙ブログで紹介した「希望の灯り」に通じるものがあります。
主人公は才能があるけど、闘争心も意欲もあらゆる面で消極的な、ただの大人しいデブで、当初は大した練習をしなくても連戦連勝。ところが惚れた女性とうまくいきそうになった途端に神通力が切れたかのようにスランプに。そして再び日本かぶれのコーチのもとで髪の毛も剃り落とし、それまでパンツの上に締めていたまわしも、きちんと締めて世界選手権に臨みます。そう、ずっとパンツの上にまわしをしてるんですよね。どこか周防監督の「しこふんじゃった」の留学生を思い起こさせます。この映画を作った人たちは周防の映画を知ってた可能性もありますね 笑)
うーん、ラブロマンス? いや全く無理です。コメディ? うーん、笑えません。ニヤッとぐらいはできますが。スポ根? 全然ムリ〜〜。
いや、「ベルリン忠臣蔵」よりもまともでしたが、好意的な気持ちで見てあげましょうね 笑)
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小説は高校時代に読みました。作者はダフネ・デュ・モーリア。この人はヒッチコックの有名な映画「鳥」の原作者で、この原作の入っている短編集も読んだけど、いまだに覚えているのは「動機なし」という短編の方です。貴族の奥さんが原因不明の自殺をし、それを探偵が調べていくと。。。という話で、読んだ当時は結構心に残った小説でした。
さて、というわけで数日前にヒッチコックの「レベッカ」をTV放送してて、昨夜録画してあったのを、おそらく3、40年ぶりで見ました。僕は小説が先だったので、初めて映画を見たときは、事の真相が原作と違っていて、かなりガッカリするとともに、アメリカ製大作映画の限界ってこういうことなんだな、と思いました。その限界という言葉は、ラストの炎上シーンでの決着の付け方にもありますね。原作はこうではありません。また原作では真相を知った主人公の態度がガラッと変わるんですよ。映画ではそのシーンがなかったですね。結構カタルシスなシーンだったと記憶しているんですけどね。
お話は、金持ちの上流階級の未亡人の召使兼話し相手として付き従っている平凡な娘の「私」がイギリス貴族のマキシムに見染められて、結婚して大邸宅へ。そこは誰もが美しく知性と教養にとんだ完璧な女性だったと語る先妻レベッカの忠実な召使だったデンバース夫人が取り仕切っていて、娘はヘマばかりで完全にデンバース夫人に見下されてしまいます。何しろ陶器の人形を壊してしまうと、子供みたいに破片を引き出しの奥に隠してしまう有様。その先妻レベッカは一年前に海で事故死していて、マキシムが確認の上埋葬されていますが。。。
娘は先妻レベッカに比べられるひけめを常に感じています。デンバース夫人も召使とは思えぬイヂワルさ。と、そこへ先妻レベッカの乗っていた船が海底で見つかり、しかもその沈没船の中から死体が見つかり。。。というお話。
ただ、今回見直してみたら、映画は映画で上手く纏まっていて、原作を知らなければ問題ないかもしれません。ただ、やっぱりよく考えると、これではマキシムの陰鬱さ不機嫌さの理由がわからないですね。うーん、ネタバレしそうなのでここでやめますが 笑)
ただ、映画としてはすごいシーンがいっぱいありますし、何よりも映画の配役が、ローレンス・オリヴィエのマキシム、ジョーン・フォンテーンの「私」ともに、もうこれしかない!っていうぐらいぴったりのはまりぶり。フォンテーンはオーソン・ウェルズの「ジェーン・エア」でも似たような役柄だったけど、見ている方をイラつかせるほどおどおどと怯えた役柄が実にさまになってます。またデンバース夫人(映画の字幕ではダンバース夫人)も原作を上回る怖さです。
ただ、今回映画を見ながら、これってやっぱりありえないよなぁ、と思ったこともありましたね。原作でも映画でも先妻レベッカの具体的な姿は全く出てこないんですが、先妻の肖像画や写真が一枚も残ってないっての、ありえますかね? ただそれを映画では実にうまく使っていて、真相が語られる時のカメラは誰もいない部屋の中で、マキシムのセリフに合わせて見えない人の姿を追うように動きます。このシーンなんかほんとワクワクします。
というわけで、まだ映画も見てない、原作も読んでないというのでしたら、映画が先がいいですかね。白黒だけど、ヒッチコックの傑作の一つに数えられると思います。で、その配役で原作を読むのがよろしいかと。うーん、今回は完全ネタバレで書こうかと思ったんだけど、やっぱりこの手の小説や映画をネタバレしちゃうと恨まれるな 笑)と思い、こんなふうに、いわば隔靴掻痒感満載の書き振りになってしまいました 笑)ネタバレするならコメント欄でやるかな??
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今年最初の映画ネタ。いやあ、こういう映画が好きだっていう奴の気が知れんわと、普通の感覚の人はいうでしょう 笑) スウェーデンの、なんとも居心地悪い映画。僕は以前ここに書いた
スイス映画の「まともな男」を思い出しましたが、あれよりずっと底意地の悪さを感じました 笑)
主人公は現代美術の展示を行なっている美術館のチーフ学芸員。ハンサムだしインテリでそこそこのお金持ちで、妻とは別れているけどまだ10歳前後の娘が二人一緒に住んでいる。その彼が路上で携帯と財布を盗まれ、携帯のGPSで場所を特定、貧しい人たちの住むアパートだというところまで特定できる。そこでそのアパートの全戸に盗んだものを返さないとひどいことになるぞという脅しのビラを配布する。
一方で、美術館で次回の展示(これが題名のザ・スクエアというメッセージ付き作品)のために広告代理店から過激なプロモーションヴィデオを作ることを提案されるが、主人公は自分のことで手一杯でよく検討もせずに許可する。おかげでそのとんでもないヴィデオが大炎上し、主人公は窮地に追い詰められる。
さらにビラを巻いたアパートの少年が、そのビラのおかげで自分が親から盗人扱いされているのだと執拗な抗議を受ける。。。
何しろ見ていて居心地が悪い。シーンのそれぞれがぶつ切りのように中途半端に終わり、しかもシーンごとのつながりがあまりない。出来事が画面の外で行われるのにカメラがそれを追わない。グノーのアベマリアがポカンとしたスキャットの演奏で流れ、所々にインサートショットとして、ホームレスや移民たちの姿が挿入される。
後半に延々と描かれる現代芸術家の猿になりきったパフォーマンスのシーンは、見て見ぬふりの現代社会の強烈な皮肉であり批判なのだろう。当然その矢は観客たる僕らにも突き刺さる。しかし、幸福度が高い北欧のスウェーデン、ここまで人々が他人に無関心なのだろうか? いやはや、新年早々、やっぱりこんな映画から始まりましたかぁ。。。苦笑)
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この映画は30年以上昔、地上波の深夜に見ました。その後21世紀になり、長くDVDも出てないし、内容的にもTVでやることはないだろうなと思っていたんですが、地上波ではなかったけどCSで少し前に放映してくれました。
うーん、歳月とは恐ろしい。こんな低予算映画だったんだ。昔見たときは何しろ圧倒されて、その圧倒されたと言う記憶だけが強く印象に残っていて、細かいところなどあまり覚えていなかったんですが、今回見ると出演者も少ないし戦争のシーンはほとんど当時の記録写真やスチール写真の連続です。ただ、最後の左幸子の「お父ちゃんは天皇陛下に花をあげてもらうわけにはいかねえ」というセリフだけははっきり覚えていたんですけどね(ただ、もっと怒りに震えながらこのセリフを言うような記憶があったけど、今回見ると怒りより悲しみですね)。
多分映画を見た後に原作を読んだんだろうと思います。それもあって映画の印象が強まったんでしょう。いや、日本の反戦映画としてはトップクラスだと思いますよ、言うまでもなく。何より原作にはない左幸子の最後のセリフが、よくこんな映画撮れたなとびっくりしたものでした。
この映画と原作の関係は、ちょうど芥川の「藪の中」と黒沢の「羅生門」と似ています。シニカルな芥川が三者三様で曖昧なままにしたものを、ヒューマニストの黒沢は事実をはっきりさせてラストにつなげて、ほんのわずかな希望を感じさせながら終わらせたのに似て、「軍旗はためく下に」(原作は陸軍刑法によって死刑になった兵士たちを扱った中短編5篇の連作で、映画はそのうちの2篇を組み合わせています)も、多くの関係者がいろんなことを語りながら確かなことは何もわからないままの原作に対して、映画では事実がはっきりするとともに、関係した元憲兵が罪の意識から自殺同然の死に方をすることになります。

今回当時読んだ文庫本が出てきたのでパラパラと拾い読みしたんですが、原作では上層部のいい加減さに対して、赤紙一枚で戦場につれてこられ、地獄の中に放り込まれた一般国民の怒りが宙ぶらりんのままのような気がするのですが、大衆芸術たる映画ではそういうわけにはいかず、きっちりと結末をつけたんだな、と思ったりしました。ただ、結末はつけたけど、責任者を追い詰めることは全くできないまま、中間管理職のような憲兵だけに責任を押し付けたことに対する怒りが、ラストの左幸子のセリフに象徴されるのでしょう。
しかし、
最近も吉田裕の「日本軍兵士」という新書を紹介したけど、日本軍ってアメリカの物量に負けたというけど、それはそうなんだろうけど、同時に軍隊内部の無責任体質が大きかったような気がします。自分から進んで戦地に来たわけではない一般庶民を見殺しに、いや死ぬことを強要し、「敗戦になって、アメリカ軍に降伏した将官や佐官連中が、その後は自衛隊の幹部になったり政治家になったりしている」(講談社文庫版p.51)わけで、「ゆきゆきて神軍」の奥崎みたいな元兵士が日本ではどうしてもっと出てこなかったのでしょう。戦後の日本で、かつての上官に対する恨みによる殺人事件がもっとあってもよかったのに、と、日頃死刑制度反対と言っている身には恥ずかしいことですが、そんな怒りを感じるのでした。
ところで、最近も
拙ブログの「南京事件」を扱った本を紹介したエントリーにコメントしてきたネトウヨ氏がいました。それを見ていて感じたのは、戦争のリアルなイメージがまるでつかめていないということでした。そういう人には戦後に書かれた様々な小説を、少しは読めよ、と言いたい。
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「逃亡者」、小学生の頃に父がTVでかかさず見ていたものでした。僕は断片的な記憶がありますが、当時はまだ10歳ぐらいで、西洋人の顔の区別があまりつかず、どの人が悪者かもわからず、それほど楽しくなかったんじゃないかなあ 笑)その後再放送をやって、主にそれを見たんだと思います。そこでは、追われている主人公の医師リチャード・キンブルが、よせばいいのに逃亡先で様々な困っている人を助けて間一髪のところで逃げるというワンパターン。追う刑事が冷酷な奴で、立場が変われば完全にサイコパスの犯罪者でしょ! っていう感じでした。
その後浦沢直樹の漫画「モンスター」を読んだときに、逃亡先で起こる人情話と追いかける刑事のサイコパスぶりに、これって「逃亡者」じゃん!と思ったものでした。あ、また読み直したくなってきた 笑)
というわけで今回のTV版リメイク。録画しておいて見ました。渡辺謙と豊川悦司が主役でしたが、うーん、もう少し若い俳優がよかったんじゃないかなぁ 笑)渡辺謙がトレーナー姿で川辺を逃げるところなんか、ちょっとおじいさんおじいさんしててねぇ。豊川も昔のシャープな感じが、ちょっとダヨーンのおじさんみたいな下膨れ顔になってて、冷酷に主人公を追い詰めるサイコパス刑事っていうにはちょっと。。。苦笑)実際最後はサイコパス刑事じゃなくなっちゃうし。
それと、やっぱり昔は監視カメラもドローンも、ましてや顔認証システムもないし、広いアメリカですから逃げ続けられるわけだけど、今の時代、そういう悠長なドラマ運びにはできないからねぇ。そういう意味ではよくアレンジしたと言えるのでしょう。ええ、まあまあ楽しめました。
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拙ブログとしては珍しく日本映画、しかもチャンバラ映画です 笑) この映画、リメイク版の稲垣吾郎が悪辣な殿様をやったのを先に見ていて、いつかこっちも見たいと思っていました。少し前にTVでやったのを録画してやっと昨夜見たわけです。稲垣吾郎の殿様もとんでもない悪党だったけど、途中自分の血を見ると怯えたりする割に、最後はやたらと勇ましくなって、ちょっとバランス悪いなぁ、と思ったものでした。
しかしこの映画、ラストの集団チャンバラが有名らしいですが、僕は、どうしようもない上司を持った部下の悲哀を連想しましたね 笑)ええ、ええ、もちろん昨今の政治がらみの事件を連想したわけです 笑)
明石藩の藩主松平斉韶(なりつぐ)は暴君で、老中が自ら腹を切って訴えた訴状を根にもち、老中の一族郎党を皆殺しにしたり、尾張藩の家老の息子と妻を斬り殺したりやりたい放題のサイコパス殿様。しかし斉韶は将軍の弟であることから処罰できない。そこで江戸の老中の丹波哲郎は旗本の片岡千恵蔵に斉韶の暗殺を命じる。で刺客を十三人集めるわけ。
一方明石藩では配下の切れ者の鬼頭半兵衛が早くも刺客たちの動向に目を光らせる。この人は良識的な人で、藩主がいわゆるサイコパス的な暴君だということも承知していながら、職務のために権謀術数をめぐらし暴君に忠実に仕えるその姿に、はい、みんな想像つきますね、森友の図式を連想しましたよ 笑)
サイコパスの松平斉韶は言うまでもなくあの人ですね 笑)そしてそれを知っていながら、職務のために献身的に暴君に仕える鬼頭半兵衛はサガワさんでしょうか 苦笑) そうなると冒頭斉韶の暴君ぶりを死を持って訴えた老中は、もういうまでもありません。
現実の世の中でもこの映画のように暴君の殿様が成敗されるといいんですけどね。
これ最初に書いたように2010年にリメイクされているんだけど、来週の28日夜にNHKで中村芝翫主演でリメイクTVドラマが放送されるようです。早速予約入れました 笑)
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2010年のドイツ映画ですが、例によって見る人を選びます 笑) 23年間を隔てた少女連続殺人事件が描かれるんですが、犯人は最初からわかっていますから、その犯人が警察などにどう追い詰められていくかのサスペンスかと思いきや!
ハリウッド映画だったら犯人の凶悪さを強調して、もっと緊迫感のあるハラハラドキドキ、最後はカタルシス〜となるものにするだろうと思うけどねぇ。主役の二人は23年前と現在と、髪の毛を当時流行りの長髪にしててうまく演じ分けていて違和感なかったです。
そして、ドイツの郊外の風景のきれいなこと!! ハリソン・フォードの「刑事ジョン・ブック」なんかを連想しました。何しろ一面の黄金色の麦畑の滑らかなカーブとその向こうに見える黒々とした森のコントラストが夢の中の風景のようです。
しかし、なんちゅう結末や!! 警察の上官のトンマぶりにイラつかされるし、リアルにいえば、アリバイとかもっと裏どりするんじゃないかと思うんだけどねぇ。。。サスペンスではなく、テーマは友情の物語か?? 君は友人のために死ねるか? いや、冗談半分ですが、どうにも解決のつかないモヤモヤ感が残る映画でした。そういえば
以前紹介したスイス映画の「まともな男」のラストも同様にモヤモヤ感が無茶苦茶残る映画でしたっけ。こう言うのが好きなドイツ語圏の観客が結構いるってことですかね? アメリカだったら間違っても観客が納得しないだろうなぁ。暴動が起きるかも 笑)
ただ、ラストはある意味ここから新たな物語が始まるとも言えます。続編が作られると言う意味ではなく、見た人に委ねられるんだろうけど。
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1965年の白黒映画だし、題名を知っている人もあまりいないだろうけど、すごく面白かった。
第二次大戦中、横浜からドイツ軍占領地ボルドーまで貴重な生ゴムを運ぶ使命を帯びたドイツ輸送船の艦長がユル・ブリンナー。一方、反戦・反ナチのドイツ人マーロン・ブランドはイギリス情報部に協力して(脅されて)親衛隊将校と偽ってその船に乗り込み、連合軍側へ積荷の生ゴムを渡せるように画策する。ドイツの輸送船は貴重な積荷を敵に渡すぐらいなら自爆する覚悟で、船の12箇所に爆弾を仕掛けている。ブランドはその爆弾を一つづつ解除していく。
船員の中にはドイツに戻れば政治犯として処刑される可能性が高い者もいるし、一方で、一等航海士はバリバリのナチ。さらに途中日本軍の潜水艦が撃沈したアメリカの輸送船の乗員が捕虜として輸送船に引き渡される。そこにはユダヤ人の少女もいる。この映画に出てくる唯一の女だ。そして、日本軍の潜水艦に指導係として乗り込んでいたナチの将校がブランドを怪しみ、ベルリンへ連絡をしてブランドの正体は風前の灯。
というわけで、ユル・ブリンナーとマーロン・ブランドという芸達者であるとともに無茶苦茶存在感のある名優二人が主演で、敵役のナチの航海士も憎々しいし、しかも映画のカメラワークもかなりの凝り方を見せる。
海上をいく輸送船の遠景が近づいていって、甲板上にいるブリンナーの行動を追いかけるワンショットのシーンなんかどうやって撮ったんだろう? ヘリコプターで? でもこの時代、カメラのスタビライザーなんかないだろうけど、画面がほとんど揺れないんだよね。

船にゆっくりと近づいていき、

船の上まで来ると止まって、

甲板上のユル・ブリンナーを捉えると、

ズームアップ

ブリンナーが移動していくのをカメラが追いかける

以上がワンカット。
それから船の中の床が網目状の鉄板なので上の階が透けて見えるようになっていて、迷路みたいでありながら見渡せるようになっている。
マーロン・ブランドが最初の爆弾の起爆装置を解除した後、その爆弾から上に伸びているコードを見上げる。カメラもそのコードを追いかけて上を写すと、上の階の網目状の鉄板の下、つまりそのその階の天井に当たるところにもう一つの爆弾がある。すると下にいたはずのマーロン・ブランドが上の階から現れて腹這いになって爆弾の起爆装置を解除する。それがワンカットで写されるのだけど、画面の外の空間を感じさせ、かなり斬新だと思う。

起爆装置を解除して周りを見廻し、

ふと上を見ると

コードがつながっている。それをカメラはずーっと追いかけて、

上を向くと四番の爆弾が、

あった、と思うや否や、今上を見上げていたブランドが現れ、この後腹這いになって四番の爆弾を解除をしようとする。

監督はドイツのベルンハルト・ヴィッキ。この監督は反戦映画の古典として有名な「橋」という少年兵たちの悲劇を撮った人で、惜しむらくは丁寧すぎるんだよね。「橋」でも前半は少年たちのそれぞれの事情をじっくり描きすぎて、ある意味退屈なところもある。そしてここでもサスペンスにしてはテンポがあまり良くない。でも、それでも俳優も二大スターだし、最後のシーンも良いし、かなり高レベルの映画だと思うけどね。
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ものすごく面白かった!! 3時間の長尺だったけど、終わってしまったらあっという間。映画の中に埋没して我に返るいとまもほとんどないほど。でもそれは説ブログを始めてから僕が関心を持ち始めたものがドンピシャでど真ん中に投げ込まれてきたという印象をもったからかもしれない。
主人公のモデルはゲルハルト・リヒターという画家だ。この人は去年の初めに中野区で行われた「ナチスの障害者虐殺・T4作戦パネル展示」でも出ていて説明されていた
(その時の記事はこちら)。あのときは、様々な当時の資料や手紙の中で、突然リヒターの話が出てきて、ちょっと唐突な感じがしたんだけど、この映画を見るとリヒターの芸術が個人的なT4作戦のトラウマ克服のためのものだったことがわかる。



映画の作りとして前半はナチス時代の退廃芸術に対する批判と東独時代の社会主義リアリズムの時代で、どちらも芸術は民族のため、あるいは人民のために奉仕するべきものだと言われる。自分を強く押し出したり、権力が望むものと違うことを主張するとダメ出しのレッテルを張られてしまうわけだ。普通に見ていれば誰だって、どっちもおかしいと思うだろう。でも今の日本でも「反日的」なアートを批判するような人もいるわけだからね。
後半は一転して一人の芸術家が自分のスタイルを見つけるまでの話になるが、ここで出てくるヨーゼフ・ボイス(名前は別だけど誰が見てもそれ以外の誰でもない 笑)との話も面白い。要するに前半と後半とは描かれるものが随分違うんだけど、どっちも面白い。
そして全体を通して義父の存在が重要で、ハラハラやイライラの元になるのがとてもうまい。彼の存在が3時間を退屈させない理由の一つかもしれない。
変な映画ばかり書いてる説ブログだけど、これは正統派の、細部まで疎かにせず、ユーモアもあり、テンポもよく、画面も綺麗だし、全体的なレベルのとても高い映画だと思う。いつも拍手コメントをくださる t さんもきっとお好きな映画ですよ。
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今日は2月以来の映画館へ。しかしマスクして見ていると、さすがに1時間もすると顔の下半分がかなりほてってきますね 苦笑)

さてこの映画、いろんな映画を連想しました。例えば
タル・ベーラの「ニーチェの馬」や
「サタン・タンゴ」、
ハネケの「白いリボン」などを連想したのは白黒で非常にきれいな風景が出てきたからでしょうか。ただ、タルやハネケよりテンポはかなり早い。
話はユダヤ人の父母から離れて田舎の老女のもとに疎開させられていた少年が、老女が死に、びっくりして火を出してしまったことから村人に差別迫害され、村を逃れて様々な人と出会っていくというロードムービー 笑) まあ、過酷な地獄めぐりです。そう、「地獄めぐり」という言葉が一番ぴったりするかな。呪術師の婆さん、水車小屋の嫉妬深いDV爺さん、鳥刺しの老人とセックス依存症の女、ドイツ兵、司祭と性的虐待者の信者、少年を犯そうとする娘、ソ連軍狙撃兵、孤児院、そして。。。
時代は戦時中から戦後で、場所はおそらくポーランドだろうと思われます。丘陵地帯と森のきれいな風景の中で、少年は様々な地獄的光景を一人木の上や倒木に腰掛けて遠くにみたり、まさに地獄の中で当事者となり苦しめられたりします。
こう書くと
「炎628」を思わせます。あの映画もきれいな顔をした少年が地獄を見て、老人のようなシワクチャの顔になる話でしたが、こちらの少年も2年かけて撮影しているそうで、顔が無表情になり、言葉を発しなくなり、老人を襲い、人を殺し、自分の名前すら言えなくなりますが、最後の最後に。。。
まあすごい映画でした。特に原題のもとになっているエピソードの鳥刺がペイントした雀を放つと、雀の群れが一斉に襲いかかり殺してしまうシーンと少年が熱を出した時に呪術師の婆さんが少年を顔だけ出して土に埋めてしまいカラスに襲われるシーンは忘れられないかも。
ただ、それでも文句を言いたい。それぞれのエピソードが結構短く、話が拡散している気がするんですよね。特に最初の方は、え?これだけでこのエピソード終わり?と思ったりしました。そういう意味で、上記の「炎628」や
「サウルの息子」、
「小さな独裁者」や
「動くな、死ね、甦れ」、あるいは上記のハネケやタルの映画に比べて、個人的には衝迫性は弱く感じました。そしてラスト、テロップが上がってくる時の思い入れたっぷりの歌曲は、むしろ感動を薄めるような気がしたんだけど。
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