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東京オリンピックは270キロ?

2017.11.09.22:59

というわけで、すでにあちこちで言われていますが、東京オリンピックのコースが共同通信発で発表されたようです。いろいろ噂があったけど、やっぱり富士山を利用しようというようですね。これであちこちでまことしやかに言われているジロ・ディ・イタリアの富士山ステージも実現性が高まるんでしょうかね?

オリンピック、うーん、僕は東京(日本)でやることには反対です。もちろんトップアスリートを眼の前で見るチャンスができるのは楽しいことであるのは間違いないんですが。。。ただ、それによって生じるであろう(いや、すでに生じている)様々な「しわ寄せ」を思うと、手放しで喜べない。

そもそもオリンピックというもの自体が、すでに巨大化しすぎて、金がかかりすぎるし、招致に関連した賄賂など、様々な不正があることは知られている通りだし、関係者の中にはスポーツのことなどまるで関心がなく、自分の金儲けのためだけに血道をあげているようなのもたくさんいるようだし、ドーピングの問題もいつまでたってもモグラ叩きのようで、解決はつきそうにない。

少なくとも、オリンピック憲章にある「オリンピック競技大会は、 個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない」という文言をもっと前面に出して、優勝者の国旗掲揚や国歌演奏をなくすことはできないだろうかと思ったりもする。これで問題が一挙に解決なんかしないけど、少なくとも国家ぐるみのドーピングなんかは減りそうな気がするし、変なナショナリズムも薄まると思う。

だけど、そうするとスポーツへの公的補助は減るだろうし、そうなれば金持ちしかスポーツができなくなるかもしれない。これも困る。ただ、スポーツは国威発揚のための道具ではないし、刹那的な娯楽とかその場限りの憂さ晴らしであるわけでもないのだ、スポーツは文化なのだ、人間の様々な活動の中でも守るべきものの一つなのだ、ということを国家が共有すればいいのだろうけど。

さて、オリンピックのコースに戻ると、270キロというのはモニュメント・クラシック並みの距離ですね。しかも富士山周回となるとクライマーが優勝する可能性が高そうですね。フルームなんかが有力候補となるんでしょうか。



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フォズベリー、心に残るスポーツシーン(11)

2012.08.05.18:27

このテーマ、久しぶりです。今は背面跳びっていわれているけど、当時はフォズベリーフロップって言ってました。ちょっとググるとヴィキではフォ「ス」ベリーってでてますね。なんとなくフォ「ズ」ベリーって濁っていた印象があるので、ここではこれで行きます。

さて、サッカー男子44年ぶりのベスト4とか言われてますけど、おぼえてたりするもんね、サッカーは釜本が40メートル以上のロングシュートを決めたんでした。メキシコオリンピック。地元のメキシコに勝って銅メダルだったと思います。僕は中学1年かなぁ。登校前の朝に見てた記憶がありますね。ということはメキシコオリンピックは夏休み中ではなかったのかなぁ?

でもメキシコオリンピックで一番強烈に覚えているのはタイトルの走り高跳びのフォズベリー。当時はベリーロールとかはさみ跳びしかなかったのに、いとも簡単そうにバーをクリアーする背面跳びにはびっくりしましたねぇ。それまでの飛び方は助走も短めで直線的にタン、タン、タンとリズムよく腕も振り上げていかにも力が入りそうな感じだったのに、フォズベリーはアールを描くようにかなり長い助走をとってフワッって感じで、力で飛ぶんじゃなくてなにかもっと違う無重力状態のような、魔法のような感じがしたんです。今の背面跳びは結構力を込めて腕を振り上げてっていう感じでしょうけど、フォズベリーは腕を振り上げなかったんじゃないかなぁ。だらんと腕は身体に沿わせていたような気がするんですよね。だからいっそう空中遊泳みたいな不思議な感じがありました。

オリンピック、どうも昔のようにワクワクしながら見るということがなくなってしまいました。世界陸上なんかも80年代ぐらいまでは夜中の衛星生中継を見ていたような記憶があります。まだ東ドイツとか東側の女子選手がむちゃくちゃ強かったころですね。400メートルのコッホという選手の記録なんか、いまだに破られていないんじゃないかなぁ。他にも、100メートルのゲールなんていう美形の選手もいました。ゴールしたときに両手を挙げたら、脇毛が黒々としてて、顔とのギャップにちょっと倒錯したエロチシズムと感じましたね 笑)

まあ、その後、東独では組織的にドーピングしていたことが分かったわけでね。同じようにチェコスロバキアのクラトフヴィロワなんていう筋肉ムキムキで男みたいな容貌の中距離選手もいましたっけ。

このあたりはみんな84年のロサンゼルスオリンピックに不参加だったけど、世界陸上ではやたら目立っていました。男子のハイジャンプではスウェーデンのショーベリっていったかな?スウェーデンっていう国はテニスのボルグとかスキーのステンマルクとか卓球のワルドナーとか、文字通りの天才が出てくる国で、このショーベリもそういった一人だったんでしょうね。

話が68年のフォズベリーからずいぶんと離れてしまいましたが、この前、市川崑の「東京オリンピック」をTVで見てたら、ベリーロールって、背面跳びになれてしまった目にはとてもきれいな飛び方です。跳躍力と同時に、なにかリズムとか、バーに触れないように身体をくるっと回すワザのようなものを感じます。でも、もうトップクラスの試合でベリーロールを見ることは絶対ないんでしょうけど。

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2012年卓球全日本男子決勝

2012.01.23.01:05

以前、何度か書いたように、学生時代は卓球をやってました。といっても、全然話にならないレベルでしたけど。もうすっかりやらなくなってからも、時々TVで放送していると観たりすることはあったんですが、それほど熱心に観ていたわけではありませんでした。

いや、しかし、スポーツを観ていて、こんなにどきどきしたのは久しぶりです。シクロ・クロスの裏番組で卓球の全日本決勝を録画しておいて、今、やっと観たのですが、よもやの王者水谷が最終セットマッチポイント3本をひっくり返されて高校生に逆転負け。しかも水谷は最終セットでネットの横から低いドライブが入ったり、コーナーぎりぎりにエッジボールが入ったりして、吉村という高校生選手も最後の山場でサーブをミスして、もう絶対に負けないだろうって感じだったのに、まさか、こんな事ってあるんですねぇ。試合後頭を抱えたまま動かない水谷の姿にも、なんとも言いようのない気持ちになりました。



しかし卓球もぼくが夢中になっていた頃と比べると、ずいぶん様変わりしました。ぼくが始めたばかりの頃は、なにはともあれ、回り込んでフォアハンドで打て、といわれたものですが、今はフォア前のボールをバックハンドで打つなんて、ぼくが夢中だった頃には想像もできなかったようなことをします。しかも、ものすごいボールが入っても一発でなかなか抜けない。それとやっぱりあのバックハンド。準決勝で負けてしまったけど、イケメンの松平健太とか、みんなやたらと大振りのバックハンドがビシバシ入っちゃう。やっぱりぼくがやっていた頃よりボールが少しだけ大きくなったことが、ずいぶん違うんでしょうかね?


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西本幸雄元監督逝去

2011.11.26.22:54

西本幸雄元近鉄監督が亡くなった。近鉄の監督を辞めた後、低迷する阪神の監督に、という話が出たことがあった。年齢が理由で実現しなかったが、その後のプロ野球ニュースでも好感度の高い解説をしていた。うーん。91歳。大往生と言っていいんだろう。ぼくにとっては以前書いたことがあるように、山田が王にさよならHRを打たれてマウンドから動けなかったとき、迎えに行った姿で、ものすごく感動させてもらった。へんに山田をいたわるような仕草ではなく、ごく自然に迎えに行った姿が今でも強く記憶に焼き付いてる。

合掌

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真弓明信 心に残るスポーツシーン(10)

2011.10.28.21:58

これまで野球を見てきた中で、一番好きな選手はと言われると、村山実か真弓明信のどちらかになる。以前書いたように阪急の山田久志も好きだったけど、当時はTVでもラジオでも、東京では阪急戦なんて絶対やらなかった。七〇年代の半ば頃からは佐々木信也のプロ野球ニュースなんかが始まったので、かろうじてそれで山田の試合をチェックしていましたね。だから当時はパリーグの試合や選手にも結構詳しかったです。

これに対して、村山はプロ野球ニュースより前の選手だし、ファンになったときはすでに兼任監督だったと思うし、ファンになってすぐに引退しちゃったから、全盛期は知らない。そういう意味では真弓は、太平洋クラブライオンズだったかクラウンライターライオンズだったからか、トレードで阪神に来て、引退するまで見ていた選手だ。年齢もほとんど僕と同じで、40過ぎまで現役だったと思うけど、引退したときは、僕自身の体力の限界も同時に感じたような気分だった。

当時、ソフトボール大会なんてやると、まじで真弓のフォームを真似してましたね。オープン気味のスタンスで、バットを持つ手を顔の前ぐらいに構える。まあ、そこまでなんですけどね。

ところが、真弓の活躍ぶりってあまり印象に残ってないんですねぇ。例のバース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発の年、真弓はたぶん一番バッターで優勝に大貢献した選手だったと思うけど、真弓ならこのゲーム!っていうのが思い浮かばない。

むしろそれよりも思い出すのは、タイガースが弱くなってから起きた乱闘シーンでしょうか。90年代前半、安藤監督の時代だったと思いますが、コーチに柴田と島野(こちらは後に星野仙一のもとで名コーチとなり、先年亡くなりました)というコワモテの二人が加わっていたんですが、この二人が審判の判定を不服として大乱闘騒動になったことがあるんですね。そのとき、真弓はどちらかのコーチにしがみつき、なんとか暴行をやめさせようと必死になっていましたが、コーチのほうは真弓をそのまま引きずりながら審判を追い回して小突き続けていました。

こういう優しさが監督向きではなかったんだろうなぁ。今シーズンの阪神タイガース、戦力的には優勝してもおかしくなかったと思うけど、まあ、あれだけ同じような継投ミスを繰り返し、しかも投手の交代もワンパターンで、さらにヒット数が阪神のほうが多いのに負けた試合が、その逆よりもかなり多い。

「方程式」とかいうのはいつ頃から言われ出したんだろう。長島あたりが言い出したのかなぁ。ただ、素人考えだけど、最後の締めが藤川なのは決めておいて良いだろうけど、その前はへんな方程式とやらで順番を決めたりしないで、調子の良い順に出すべきだったとおもうけどねぇ。調子を見極めるのがコーチの役割だっただろうし、それを差配するのが監督の役目だったと思うんだけどね。

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魁傑対長谷川 心に残るスポーツシーン(9)

2011.02.03.16:01

放駒親方、矢面に立ってお気の毒です。ただなぁ、個人的には相撲で八百長がないなんてあり得ないと思ってましたからね。あんな巨体でマトモにぶつかればもっと怪我するでしょう。だから、私の感覚では相撲はスポーツではなくイベントですね。もっとも相撲もまったく見なくなりましたが。。。見なくなったのは、以前ボクシングの大場の話を書いたときにも触れましたが、格闘技好きの祖母がいなくなった頃からですかね。そして、完全に見限ったのは貴乃花対武蔵丸で足を痛めた貴乃花が阿修羅の形相で優勝して、小泉が感動したって言って、場内が大声援に包まれたあのとき。僕は、昨日触れた映画「キャバレー」のなかの苦々しげにそっぽをむいたあの老人状態でしたっけ。そもそも、相手が怪我している状態で相撲を取らされる武蔵丸が、どんな気持ちだったか。。。こんなの、ちょっとでもスポーツをしたことのある人間ならすぐ想像できるはずですよ。あの相撲が八百長だったとは決して思わないけど、武蔵丸が本気になれなかったことだけは確かなことでしょう。

まあ、話はもっとずっとさかのぼって、ぼくは高校1年でしたか。。。ネットで資料を見ると、1972年の3月場所ですね。12勝3敗同士で現放駒親方の魁傑と長谷川が平幕同士で並んだんですね。相撲は別に毎日見ていたわけではなかったし、あまり興味もなかったんですが、これもやっぱり祖母の部屋で見ていたと思います。魁傑はその後大関になり、怪我で大関を陥落したのにまた返り咲き、再び怪我で陥落したら、またまた返り咲いたという相撲取りでした。あまり闘志を前面に出さないタイプで、顔もあまり相撲取りらしくない顔をしてましたね。たしか柔道選手だったんだと思います。足が長くて色黒で、どちらかというとひょろっとした感じで、かといって後の千代の富士みたいに、ヲイヲイ、筋肉増強剤使ってんじゃねえの、っていうような筋肉質でもなく、なんか腰の高い相撲取りでした。

対する長谷川の方は、色白で闘志を比較的前面に出すタイプだったんじゃないかなぁ。印象的だったのは当時の横綱北の富士と対戦すると、必ず両者長いにらみ合いをしたんですね。それが手をついたときではなく、立ち上がったときにお互いに中央へ一歩進んで、近くまで寄って、土俵中央で両者ともにまったく動かないままにらみ合いを、長いときにはそれこそ20秒ぐらいにらみ合っていたんじゃないでしょうか。北の富士の方は険しい顔をして、一方の長谷川は口元を歪めて、ちょっと笑いそうな顔をしてましたっけ。だからこの両者の相撲はちょくちょく時間いっぱいになる前に立ち上がってました。長谷川も後に大関になったと思います。そのぐらい強かったですけど、北の富士はなにしろ横綱でしたから、分はたぶん7,3ぐらいで北の富士だったんだろうと思います。

さて、この1972年の3月場所。あれ?今この数字を書いて気がつきましたが、ひょっとして連合赤軍事件の直後でしょうか?うーん、そんな時代だったんだぁ。あらためて、さて、千秋楽に同率で優勝決定戦になったんですね。そして長い相撲になりました。それまであまり相撲を真剣に見たことがなかったんですが、このときは記憶にある限り、初めて真剣に見ましたね。そして、子供でしたから足の長い魁傑を応援しました。この相撲は水入り直前で長谷川が勝って優勝を決めたんですが、このときのハラハラ感から、この後しばらく相撲をよく見るようになりました。この少し後に北の湖が出てくるんですね。何しろこれが憎々しい相撲取りで、なにしろ強い。勝った後も絶対に相手を起こしてやったりしない。くるりと背を向けてさっさと自分の位置へもどっちゃう。まあ、なんて憎らしいと思ってましたね。その後も旭国とか、もう亡くなったと思いますがクラシック音楽が好きだという栃赤城なんていう茶目っ気のあるお相撲さんも好きでしたねぇ。

まあ、でも当時から八百長はあったんでしょうね。まだ相撲取りの体格がいまほど大きくなかった戦前とかなら怪我もそんなにしなかったでしょうけど、今は自分の体重で体のあちこちが痛むし、そりゃあ手を抜かないと壊れちゃいますよね。と、わたしは多少八百長には寛大です。すでにほとんど関心もなくなっちゃったし、もともと相撲はスポーツだなんて思ってませんからね 笑)


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ボルグ対マッケンロー、心に残るスポーツシーン(8)

2011.01.13.09:56

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今朝の富士山です。朝日を浴びて寒々しさが倍増してます。

さて、今回は昔のテニスの話題です。以前から何度か書いたように、わたしは卓球やってましたから、卓球を派手にしたようなテニスにはちょっと複雑な思いがありましたね。そうは言っても、80年前後でしょうか、ウィンブルドンを生で夜中にTV中継していたので、毎年見てました。そんな中で、やっぱり一押しはこれです。確か二年連続で同じ対戦の決勝戦になったように記憶してます。きっと YouTube なんかにはあるんでしょうけど、とりあえず、見ないで書いてみましょう。

ボルグ、本当はボリィがスウェーデン語の発音なんでしょうけどね。長髪をヘアバンドでまとめて、無精ひげが外見はちょっと修行僧みたいで、審判に文句はつけないし、まあ、かっこうよかったですね。サーブはスピードがないし、前に出てくることもまずない。ただひたすらベースラインで走り回って、フォアハンドもバックハンドも、ボールをこすりあげるようなドライブをかけ続ける。

対するマッケンローってのが、これがあんた、常識人の神経を逆なでするようなむちゃくちゃな悪ガキ。もともと、テニス界にはコナーズとかナスターゼとか、悪たれが何人もいたんですが、こういう連中はあきらかに観客に対するサービスと、自分の感情をコントロールする方策として、奇声をあげたり叫んだり、審判に文句をつけたり、パフォーマンスをしたりしてたんだと思うんだけど、マッケンローの場合はこれは素(す)でしたね。たしか日本で試合したときには、相手選手を罵倒して審判から注意されてましたっけ。

ただ、ボールタッチが素人目に見ても、むちゃくちゃ柔らかい。まあ、天才っていうんでしょう。ただ、天才だけにこだわりがすごかったんだろうと思います。コートチェンジの時には斜めに歩かず、必ずラインに沿って歩いてましたね。

サーブが相手に背中を見せるような格好から、横回転をかけて曲げて、前に出てボレーっていうタイプ。性格もプレーも正反対で、普通の人なら、たとえアメリカ人でもボルグを応援したんじゃないでしょうか。むろん、私も常識人ですから 笑)、さすがにマッケンローを応援しようっていう気になったことは一度もありませんでした。

たしか最初の対戦も次の年の対戦も4時間以上のフルセットの末に決着がついたんじゃなかったかなぁ。最初がボルグ、翌年がマッケンローだったと思います。どちらにしても、いつもはらはらするようなラリーが続き、そういうときの最後は、決してラインを大きく割ることはなく、ほんの十センチの差でラインオーバーしたっていう印象があります。で、それがマッケンローだったりすると、常に線審に文句を言って、聞き入れられないと大声でFUC○ You!! って叫んで主審に注意されて。。。当時はこんなやつに勝たせちゃいかんと思ってましたが、今になってみると懐かしいですねぇ。

当時はぼくはテニスを自分ではやりませんでしたが、きっとあの頃、テニスをやっている連中の中にはマッケンローを気取ったコートマナーの悪い選手がたくさんいたんだろうなぁ 笑)


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田淵幸一と江夏豊・心に残るスポーツシーン(7)

2010.10.08.08:31

これまで資料なしで記憶の中だけで書いてきたこのシリーズですが、今回はいろんな資料を見ています。

なんどか書いたようにぼくは昭和45年頃から阪神ファンになりました。東京生まれの東京育ちなのになんで?と言われると、ただの天の邪鬼だったからとしか言いようがありません。じゃあなぜ広島や大洋、あるいはパリーグじゃなくて阪神?と言われると、まあ、その程度の天の邪鬼だったからとしか、これまた言いようがありません。

今年は惜しかったなぁ。でもあまり期待していなかったのに最後の最後まで優勝争いができたんだから、まあ、これで良いでしょう。今年は十分楽しませてくれました。

だいたい阪神って終盤にぼろぼろになることが多いんですよ。一昨年だっけ?読売に10ゲーム以上差をつけたのにひっくり返されたのは。他にも、こういうのって、いっぱいありましたね。1992年だったかなぁ、中村監督時代、終盤に首位に立ち、2,3ゲーム引き離して、アウェイゲームが続くと言うとき、中村監督は「Vロードへ出かけてきます。甲子園に戻るまでに決められると良いですね」とか言って、結局ぼろぼろに連敗して優勝を逃したり。。。

そして今回話題にする昭和48年も、最後4試合残して2勝すれば優勝だったのに1勝3敗で、しかも最終戦は読売と甲子園で試合っていうのに9-0で負けるという体たらく。でもそんななかでこの年の10月10日体育の日の読売戦がぼくの記憶に鮮明に残っています。鮮明といっても、実は資料を見ると、細かいところはほとんど忘れていたんですけど。

昭和48年。ぼくは受験を控えた高校3年生。いいのか、野球なんかにうつつを抜かしていて! この年の阪神タイガースは、夏頃には読売との試合で9回2アウトまでリードしていたのに、平凡な外野フライを外野手の池田が転んで3塁打にして逆転負けしたり(この池田もしぶい好選手でした)、その少し後では江夏が中日戦で阪神キラーの松本と投げ合って11回裏に自らさよならHRでノーヒットノーランの記録を作ったり、印象に残るシーズンでした。

池田落球の試合はぼくはラジオで聞いていました。当時のTVは延長放送なんかなかったですからね。江夏のノーヒットノーランは東京ではTVはむろんのこと、ラジオでもやってませんでしたね。読売一辺倒でしたから。だから各地の途中経過で状況を知るしかなかったですね。なんとか関西のラジオ放送を受信しようとしたと思いますが、駄目だったんだと思います。その後、夜のスポーツニュースをはしごしたんですが、どこも読売の試合ばかり。当時はプロ野球ニュースもまだやってませんでしたからね。やっと一局ほんの2,3分のスポーツニュースでやってくれたのを見た記憶があります。

夏頃は読売にかなり差をつけられていたと思いますが、だんだん挽回して0.5差で迎えた10月10日、休日のデーゲームでした。記憶のなかでは甲子園だったけど、実は後楽園でした。これが驚くなかれ、ユーチューブにありますね。6つに分かれてますが最後のところだけ挙げておきましょう。



今回あの10月10日以来、実に37年ぶりに見ました。いやぁ、懐かしい。読売の先発は高橋一三ですよ。阪神はアンダースローの上田二郎。この年上田は20勝していると思います。しかし後半は調子悪かったんですよね。この試合でも先に読売に点を取られ、その後古沢がリリーフ。古沢もこの年18勝ぐらいしていたと思います。その古沢も打たれて6回までに1-5。6回になって阪神の三塁手の後藤がHRで2-5になり、望月とか桑野がヒットで出たりしてノーアウト満塁。

この桑野は当時の阪神の代打の切り札で、この少し後の年にはほとんど神がかり的な代打成功率だったと思います。追い詰められてから13球ファールで粘ってヒットを打つとかね。私にとって阪神の代打の神様は川藤でも八木でも桧山でもなく、この桑野ですね。

さて、その後藤田平もヒットでノーアウト満塁になったんですが、2番の中村勝広と3番の遠井吾郎がふたりそろって三球三振。読売のピッチャーは高橋から倉田に替わっていました。いや、実はこのあたりの細かい記憶はまったくなにも残ってませんでしたね。今回のユーチューブのおかげです。

で、2アウト満塁ワンストライクツーボールから田淵が逆転スリーラン。

ここまではユーチューブで見られます。田淵特有の、打った後バットを投げ捨てるときにバットがクルクルと回るんですよ。しかしファンが一人グラウンドに駆け込んで田淵と握手してる。こんなことが当時は良くありましたね。最近は即排除されるか、むしろグラウンドに入るなんてありえないし、あり得たとしても選手がファンと一緒に走って握手するなんて考えられないよね。

しかし実はこの後も重要なんですよね。この後がユーチューブにないのはなぜ?というわけで、ここからは記憶だけが頼り。リリーフしたのが江夏ですよ。江夏もこの年20勝していたと思います。20勝投手の上田が先発し、18勝の古沢がリリーフし、20勝の江夏がストッパーに出てきたっていうわけ。なんか信じられない継投ですね。

この当時の江夏はチームで孤立していました。上述のノーヒットノーランも、野手たちが江夏が投げている間はやる気がなかったという話があるぐらい。この年の監督の金田は、前年村山投手兼任監督が休養した後を継いで、監督に収まり、乗っ取ったと、まあ、いろんな悪口が言われている人で、私は村山のファンでしたから(といっても全盛時代はさすがに知らないんですけど)、金田のことは嫌いでしたし、選手たちの間でも不人気だと言われていましたが、孤立したもん同士で仲良くなるかと思いきや、江夏も金田とはまったく口をきかず、まあ、金田はどうでも良いんですが、江夏は選手からもコーチからも総スカンを食らっていたわけです。考えてみれば、それでよく20勝もしたなぁ。

かつてはシーズンで401の三振という空前絶後、今後絶対破られることのない記録を作り、さらにこの2年前にはオールスターで9人連続三振(通算15人連続三振で、16人目は野村が、あきらかに記録を破るためにバットを短く持って当てにいって内野ゴロでした)を奪っていた江夏でしたが、この年はあまり三振を取れていなかったと思うんですね。それが、6回ウラからリリーフに出て4イニングで5つか6つの三振を奪い、ほぼ完璧なピッチングで読売打線を抑えて、この試合に勝った阪神が0.5ゲーム差で首位に立ったのでした。

翌日もものすごい試合で10-10の引き分け。たぶんプロ野球史に残るのはこっちのゲームなんでしょうけど、ぼくはこの田淵の逆転HRと江夏の救援のほうが印象が強いですね。


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小野誠治・心に残るスポーツシーン(6)

2010.05.25.08:30

ほら、また知らない名前だよ。誰よ、小野誠治って? 小野伸二の間違いじゃないの?

以前書いたように、ぼくは青春時代のある一時期、ちっともうまくなれなかったにもかかわらず、卓球に夢中でした。このスポーツほど人気の振幅が大きなスポーツってあまりないですね。ぼくがやっていた頃は別に特別人気があったわけではないし、かといって、不人気なスポーツでもなかったと思うんですよね。でもその後、タモリのネクラという言葉が流行るとともに、もっともネクラなスポーツとして一気に人気が低落しました。1980年代前半頃でしたかね?ちょうどぼくが卓球をやめたころでした。その後、サンマのTVで有名になるまだ未就学児童だったアイちゃんも、そうしたネクラなスポーツなのに、という前提の中で、かわいい女の子として有名になったのでした。そのアイちゃんが成長して、中学生ぐらいはまだネクラなスポーツの冗談みたいな、ちょっとおふざけレベルが抜けきらなかったのですが、徐々にアイちゃんから福原愛になって、全日本レベルになって、世界レベルになって、同時に男子のクラスも強い選手がずいぶん出てきて、今や人気スポーツの一つですよね。

このシリーズは実は年代順に書いていこうと思っていたんですけどやめます。次回は5年ほどさかのぼる予定。

さて、そんな卓球人気の紆余曲折以前の1979年、石の上にも三年じゃなくて、石の上にも9年目でしたかね、ひょんなことから、ぼくは練馬区のママさん卓球チームのコーチをすることになりました。いや、コーチをできるほど強くなかったんですよ。ただ、頼まれて、最初は断ったんですが、さすがに9年もやればラリーぐらいは初心者のおばちゃんたちよりはうまいだろうと説得されてね。それにコーチの謝礼が当時のアルバイトとしては破格でしたから、ま、金に目がくらんだ、っていうほどの大金ではなかったが。。。

この年、世界選手権がピョンヤンでありました。ピョンヤンってどこ?北朝鮮ですよ、北朝鮮。朝鮮民主主義人民共和国。当時はまだ拉致事件なんて誰も知らなかったし、大韓航空機事件もなかった。だから、在日の知り合いでもいない限り、あまり印象のない国だったと思うんですよね。この時はアメリカの選手団も参加したんですよ。今では信じられない話です。考えてみれば、79年ってモスクワオリンピックの前の年なんですね。まだスポーツと政治の関わり合いがそれほど語られることもなかったのどかな時代だったのですね。

小野誠治は当時まだ大学生でした。その前の77年の大会では河野満という選手が世界チャンピオンになっていて、卓球日本の伝統を守ったと言われていたのでした。ただ、それもじり貧状態で、この年は中国が盤石で強い選手が何人もいたんですよね。小野はまったくノーマークの世界選手権初出場の選手で、日本国内でもタイトルは取っていなかったと思います。ツボにはまれば手がつけられないが、荒っぽいという印象の選手でした。それが、あれよあれよという間に勝ち上がって、準々決勝、準決勝と中国人選手を破って決勝へ進んだのでした。特に準決勝の相手は変幻自在の魔術師のような選手で、小野のような猪突猛進型の選手が勝てるはずがないと思われる相手でしたね。

さて、決勝の相手は優勝候補筆頭の中国の郭燿華(漢字が違うかもしれません。カク・ヤッカとかカク・ヨウカと当時言ってましたが、中国語読みではきっと違う読み方だったのでしょう)。小柄の筋肉ムキムキの選手でした。対する小野は左利き、長身のやせっぽちで、顔も八の字眉毛の頼りない顔した選手でした。

この決勝戦はNHKで放送されましたが、実況ではなかったと思います。そもそも、北朝鮮に日本のカメラが入るのが初めてとのことで、そちらが強調された番組作りだったように記憶しています。決勝のカメラアングルもかなり遠くの、しかも斜め横からのアングルで、通常の卓球の放送とはずいぶん違うイメージでしたね。おそらくぼくは小野が世界チャンピオンになったことを新聞などで知った上で、この録画中継を見ていたのだろうと思います。そのあたりの記憶は完全にないですけど。

試合前は郭選手が圧勝するのではという下馬評だったはずですが、いざ試合が始まってみると、小野選手のバックのショートが一世一代の馬鹿あたりで、郭選手の強烈なドライブをことごとく止めて逆に振り回します。そんなこんなで当時はまだ1セット21点制でしたが、20-20のジュースになるんですね。

場内はあたりまえですが、満員の観客はみな郭選手を応援しています。小野が得点すると露骨なぐらいため息がきこえ、郭選手が得点すると割れんばかりの拍手(だったと思う (^。^))。日本は米帝国主義の手先だと言うわけですし、朝鮮戦争では中国軍が北を支援しましたから当たり前と言えば当たり前。

ジュースが続き、23-23ぐらいでしたか、ものすごいラリーが続いたんですね。記憶の中では30往復ぐらいしたんじゃないかって言うような長いラリーでした。観客は郭選手が強打するのに合わせてワッと声を上げます。ラリーが続くうちに、郭選手だけではなく小野が打つときにも歓声が上がり始めます。押されていた小野が形勢逆転、チャンスボールをスマッシュ!ところがボールはネットに当たってアウト。

その瞬間北朝鮮の観客の多くが、あきらかにラリーが途切れてがっかりした声を挙げたのでした。郭選手のポイントになったのですから会場が割れんばかりの大歓声になってもおかしくなかったのに、そうではなかった。あーっ、というラリーの潰えたことにたいする、何とも言えない不思議なため息のざわめきがあがり、その後、ものすごい拍手が起こりました。これは郭選手の得点に対する拍手では決してなく、すばらしいラリーを展開してスポーツを見る醍醐味を味わわせてくれた二人の選手に対する感謝の気持ちの表れだった、そうぼくは理解しました。

この心に残るスポーツシーンのシリーズを書こうと思ったとき、最初に思いついたのが、このシーンでした。このとき、ぼくは確かに、スポーツというものの持つ「積極的な」意味を、おそらく初めて感じたのでした。


2010,5/31 追記。
最初は小野誠二と書いていたのですが、どうも間違えていました。小野誠治でした。訂正します。

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大場政夫・心に残るスポーツシーン(5)

2010.04.20.08:46

某強豪大学のボクシング部の学生に大場政夫と言っても知りませんでしたね。ちなみに、具志堅用高は?と聞いたら、名前は聞いたことある、とのこと。

その具志堅が負けたころからボクシングは全く見なくなってしまいましたが、1980年代ぐらいまでの試合には、いくつか興奮しながら見ていたものがありましたね。当時カシアス・クレイと名乗っていたモハメッド・アリ対ジョー・フレージャーの試合。これも大場と同じ頃じゃないかなぁ。夕方前ごろの放送で、学校から急いで帰って見た記憶があります。クレイが徴兵拒否だったかでチャンピオンベルトを剥奪されて、復帰後最初の試合だったんだと思いますが、フレージャーが一方的に打ちまくって勝ったんだったと思います。また、例のキンシャサの奇跡とか言われたアリ対ジョージ・フォアマンなんていうのも見たなぁ。アリのビッグマウスぶりに辟易しつつも、なんとなく負けるとつまらなかったし、まさかのフォアマンに勝ったときは驚くとともに感動した覚えがありますよ。

このころってヘビー級は群雄割拠でケン・ノートンって言ったかなぁ?ものすごいハードパンチャーなんかがいて、パンチを食らったフレージャーが文字通り空中を飛んでひっくり返った、なんてシーンを記憶しています。

他にももう少し軽いクラスのシュガー・レイ・レナード対トーマス・ハーンズとかね。

こちらも人気者のレナードより寡黙なハーンズを応援してましたね。普通より左手の構えが低くて、そこから出てくるジャブがすごくて、天才レナードがまったくよけられず、顔の形が変わるぐらいだったんですが、結局ハーンズがリードしていながら、一瞬のパンチを食らってふらついたらレナードのものすごいラッシュで、逆転KO負けでしたけど。

さて、僕は高校生。ただ、その頃のボクシングって、日本人が絶対に負けだろう、っていうのに判定で勝つという試合が多くて、なんか恥ずかしかったんですよね。当時って結構チャンピオンがたくさんいたと思うんですが、なんか、KOさえされなければ必ず判定勝ちするって感じ。翌日学校へ行って、昨日のボクシング見た?なんて話を友達として、あれはどう見たって負けてたよねぇ、って盛り上がっていたものでした。

日本人選手には勝って欲しかった(はずだ)けど、やっぱり見苦しいのは嫌だったんですよね。何回かそういう試合が続いて、日本人としてみっともない、っていう気持ちが強くなりだし、いつもの天邪鬼が目を覚まして、日本人負けろ、と思い始めていたころです。大場政夫の試合だけは、そういうのとは違う、派手な逆転KOの試合が多かったんですよ。

最後の試合の相手はチャチャイ・チオノイという選手だったと思う。顔も思い出せますよ。その前も、名前を覚えていないけど、パナマのクロヒョウとかいうあだ名の選手。どちらも第一ラウンドで大場が不用意に出て行って鮮やかなパンチを食らってひっくり返るんですわ。特にチャチャイのときはひっくり返った拍子に足首までねんざして、9カウントで立ち上がってからも足を引きずって、もう駄目だってところでゴングに救われる。んでもってその後も足を引きずり引きずり、徐々に挽回していって、何ラウンドか覚えてないけど試合の後半で、最後は得意の連打で逆転KOですよ。興奮しましたね。

その前のパナマのクロヒョウってあだ名の選手は最強の挑戦者なんていって、まぁ、今考えればTV局のあおりにすぎないんでしょうけど、子供だったから文字通り信じて、で、開始早々にダウン、それもリング中央ぐらいからロープまで吹っ飛んじゃうようなものすごいパンチを食らって、うわぁ、これは負けだなと観念しましたね。相手が強すぎるって。そしたら、なんのことはない、第四ラウンドだったとおもうんだけど、あっけなく大場が、例によって連打で逆転KOしちゃうんですよね。感動したなぁ。

だから、年が明けて正月が終わった頃だったとおもいますが、大場が高速道路でスピードの出し過ぎでトラックに突っ込んで死んだときはショックでしたね。

ボクシングは祖母が好きでねぇ。両親は関心がなかったから、この大場の試合は祖母と一緒に見ていました。祖母は(あの時代のおばあちゃんって、けっこう格闘技が好きな人が多かったような気がします)プロレスやキックボクシング、さらにはローラースケートでぐるぐる回りながらやるラグビーみたいな奴(名前失念)が大好きで欠かさず見てましたね。ぼくのほうは、プロレスにはスピード感が感じられず、また見ていて格好良いとは思わなかったので、あまり関心がわかず、キックボクシングは最初のころは沢村忠の逆転真空跳び膝蹴りに熱狂したけど、そのうちだんだん、あまりに同じパターンなので飽きてきて、ふらふらの沢村を見ていても、このあと最終回に絶対逆転KOだな、なんて冷めた目で見ていましたね。

今はボクシングはまったく見なくなってしまいました。例の亀田某兄弟なんて騒がれていても、全然興味がわかなくなってしまいましたね。祖母の影響かなぁ、祖母と一緒にこたつに入りながら、いろいろ見たような記憶がありますね。そう言われてみれば(だれも言ってないって (^0^;) 祖母がいなくなったころからボクシングを見なくなったんだわ。

さて、今回は久しぶりに今は亡き祖母のことを思い出しました。おつき合いありがとうございました。例によって記憶頼りですので、どんどんつっ込んでくださいませ。


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山田久志・心に残るスポーツシーン(4)

2010.04.02.00:03

高校1年の時だったと思う。ずる休みするほど肝が据わっていなかったし、病気だったとも思えないので、試験期間だったのかなぁ?それとも土曜日だったのかなぁ?何しろ昼間の日本シリーズを見たんだから。

山田久志。実に美しいフォームのアンダースロー。空前絶後だったなぁ。振りかぶった後、下から投げるときのテークバック直前の上半身のたたみ方が、直角にパタンと折れるような、一種異常な美しさ。真似しなかった??僕はしたよ。阪急にはもうひとり足立っていうアンダースロー投手もいて、こちらはたしか当時の一試合での奪三振記録をもっていたはず。ただ投げ方は山田よりなめらかな感じだったと思う。二人とも技巧派と言うより速球派という感じだった。

当時の阪急にはいいピッチャーがたくさんいたんだよね。左の梶本はもう晩年だったけど、後に阪神にトレードで来た米田とか、しばらく後になると今井雄太郎とか。これより5年ぐらい後だけど、山口高志なんて選手生命は短かったけど、剛速球投手で、小柄だったけど投げ方がこれまた独特で、投げた後に背番号が見えるんじゃないかっていうぐらいの豪快な感じだったんだよね。日本シリーズで広島の衣笠とか山本とかが顔の高さのボールを次々と空振りしていたっていう印象があるね。あれは衝撃的だったなぁ。

ま、話はアンダースローでした。そういえば、昔は個性的なアンダースローって結構いました。さすがに南海の杉浦や皆川、あるいは大洋の秋山なんていうのはリアルタイムで見てないけどね。広島の金城(かねしろ)なんてテークバックの時に右手が真上に伸びて、とっても個性的だった。阪神の上田なんかもスローカーブがピンポン球を逆回転かけて投げているみたいにすーっと地面を這うような感じだった。どちらも20勝しているはず。

そうそう、過日惜しまれつつ亡くなった小林繁も、アンダースローと言うよりサイドスローかもしれないけど、むちゃくちゃ個性的だった。カックン、カックンって感じで、みんなフォームを真似したよね。

最近ではロッテの渡辺ぐらいでしょう?アンダースローでエース級って。なんでかなぁ。やっぱり盗塁されやすいから??

これまた昔ロッテにいた坂井というアンダースロー投手なんか、阪急の盗塁王福本に対して、13球続けて牽制球を投げたけど、打者に向かってようやく1球目を投げたら、すでに福本は2塁にいたという伝説があるぐらい。これなんか福本のすごさ以上に坂井投手のモーションの大きさを物語る逸話じゃない?いずれにしてもアンダースローって昔からフォームが大きいので盗塁されやすいと言われていたっけ。

さて、細かいことはほとんど覚えていない。読売と阪急の日本シリーズ。当時ひょろひょろのやせっぽちの華奢な感じの山田投手が9回2アウトまで読売に得点を許さず、1-0だったと思うけど、阪急リードだったんだよ。そこで3番の長島、ぼてぼてのショートゴロだったんだけど、ショートの坂本っていったかなぁ、追いつかずにヒットにしちゃったんだ。そして打順は4番の王。ってことは、ここまで山田はヒットをほとんど許してなかったってことだね。しかも王はこの日山田に全くタイミングが合ってなくて、山田もすっかり自信満々だったんだと思う。

初球はど真ん中の直球。王が見逃してワンストライク。で、二球目も全く同じど真ん中の直球。打った瞬間にホームランだとわかったね。僕はこの頃はすでに阪神ファンでアンチジャイアンツだったからものすごいショックだった。TVを見ながら呆然としていた。マウンド上の山田のショックたるや、言葉にできないものがあったんだろうね。王がベースを一周してホームインし、読売のサヨナラ勝ちが決まっても、ずぅーと、ずぅーと、ずぅ~~~とマウンド上に座り込んだまま、右手で土をつかんでは捨て、つかんでは捨て。。。

阪急ナインもベンチに戻ってきて、そのとき、西本監督がマウンドに歩み寄って山田の肩に手を置き、さあ、帰ろう、っていう感じで山田をベンチに連れ帰っていったんだ。監督だってはらわた煮えくりかえる思いだっただろうし、泣きたいぐらい悔しかったと思う。でも西本監督は普段通りの表情で、マウンドでうずくまっていた山田を迎えに行った。なにか映画のシーンのように格好良く、そして美しいと思った。なにかとてつもないものを見たと思った。感動していた。

多くの人が勝者の「王の逆転サヨナラホームラン」として記憶にとどめているのだろうけど、僕にとっては敗者の山田久志西本監督の姿だけが記憶に残っていて、たぶんテレビカメラがずっと写し続けていたはずの王がどんなふうにホームインしたかは全く覚えていない。

例によって記憶だけに頼っています。たぶんネットで検索すればもっと正確なことが書けるんだろうけど、それをあえてしていませんので、間違っていても優しく指摘してね <(_ _)>


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ステラン・ベントソン・心に残るスポーツシーン(3)

2010.03.25.08:19

ベントソンって誰?知らないよねぇ。昔のスウェーデンの卓球選手。  えっ?ここって自転車のブログじゃないの?

今日は1週間ほど前に前半課程を書いた生ハムのパート2をアップする予定だったんだけど、昨夕は雨で、最終段階の軽い燻煙かけができませんでした。今日はできるかなぁ。

カタロニア一周も、ミルラム勢は沈没  ということで。

ぼくが中学3年から高校へ上がる直前あたりです。名古屋で卓球の世界選手権がありました。たぶん1971年の初めだと思う。まえに書いたように、中学時代にはバスケットボールをやっていたんだけど、当時練馬区でベスト4に入る学校で、運動神経は人並み以下、身長もクラスで前から3番目では、レギュラーなんかになれるはずもなく、なのに練習が好きで夏休みの練習もただ一人皆勤賞。顧問の本間先生が(きっと)かわいそうにおもったんでしょうね、大量リードの試合後半に「行ってこい!」と送り出してくれることはあったものの、ボールには一度も触れることなく、ただコートの中をターンダッシュを繰り返すだけでしたっけ。

本間先生は体育の教師でしたが、とても紳士的で、僕のような補欠選手にも気を配る良い先生でした。今頃どうなさっていることでしょう?当時はなにしろすぐに殴る、無意味に殴る、気にくわないと殴る、そういう教師がずいぶんいましたから。私の中学なんて、休み時間中に竹刀を持って教室をねめ回しながら、廊下をうろつく教師なんていうのまでいましたよ。校内暴力なんていう生徒の反乱が起きるのはそれからまだ10年近く後のことで、生徒は殴られっぱなしでしたね。`_´

で、卓球の世界選手権なんですが、卓球なんてそれまで見たこともなく、全く興味がなかったのに、父親が若い頃やってたとかで、ゴールデンタイム(に放映していたんですよ (*_*))にTV中継を見たんですね。団体戦で長谷川選手という、当時卓球界の長嶋茂雄とか言われていた選手(先年台風の時に倒木の下敷きになって亡くなりましたが、びっくりしたなぁ 合掌)が、中国選手のスマッシュをロビングで拾いまくって、居合抜きみたいな電光石火のバックハンドスマッシュ。いや、格好良いなぁと思いましたね。

ただ、それよりもさらに印象的だったのが男子シングルスの決勝。勝ち上がったのがブロンドの長髪をなびかせた小柄な18歳のステラン・ベントソンと、黒縁めがねで7・3分けの銀行員のような風貌の伊藤選手。伊藤選手はペンホルダーで、当時世界最速とか言われていたドライブの持ち主。そのドライブをベントソンがシェークハンドのバックショートでブロックして伊藤選手を振り回すのね。むろん日本人ですから最初は伊藤選手を応援していたと思うのですが、途中からベントソンが格好良くって、はたして最後まで伊藤選手を応援していたかどうかはちょっと怪しげです。

このTV放送のおかげで、全くの未経験者のくせに高校へ上がると卓球部に入っちゃうんですよ、わたしってば。ラケットは迷うことなくベントソンと同じシェークハンドを購入。当時はカット型をのぞき、まだほとんどがペンホルダーで、日本人はお箸を使うんだから、ペンホルダーが適しているのだ!なんて言われていた時代ですよ。

ありがたいことに私の学校の卓球部はむちゃくちゃ弱かった。だから初心者のぼくの下手さ加減なんて目立たなかったですね。それはともかくイメージは常にベントソンのバックハンドでした。そのちょっと個性的なラケットの持ち方も真似したし、当時はビデオなんかなかったけど、卓球雑誌に出ている分解写真(ふ、ふるすぎ)でサーブの真似なんかもしましたね。

高校1,2年で身長も一気に伸び、前から3番目は返上したんだけど、ただねぇ、運動神経はそう簡単に良くなるワケじゃないのでねぇ。特にわたしってば、リズム感がないんよねぇ。三三七拍子の拍手しても、ひとりずれているっていうタイプでねぇ。カラオケでも音程は外さないと思うけど、リズムに乗れないんよ。そういう人間って、卓球なんかやっちゃだめなんよね。高校時代の対外試合の成績は、それは惨憺たるものだったですよ。

でもしつこく、大学に入っても同好会で4年間続けちゃうんですね。しかし、同好会っていっても地方の県でインターハイに出たなんて奴が何人もいるような同好会でしたからね。これまた出る幕なんかなかったなぁ。

というわけで、今回の心に残るスポーツシーンは、伊藤を破って世界一になった瞬間に泣きながら両手を挙げてベンチへ走っていったベントソン選手です。このシーンのおかげで卓球を愛しながら卓球に愛されなかった僕の不幸な青春時代が始まったのでした。昔の卓球ネタにお付き合いいただき感謝いたします。


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太田幸司・心に残るスポーツシーン(2)

2010.03.16.08:58

あれはたしか中学1年だったと思うんだけどなぁ。夏休み。僕は当時練馬区立北町中学のバスケットボール部に所属してました。バスケ部を選んだのは、背が低かったんですよ。小学校時代は背の順に並ぶと常に前から3番目以内。それで背の高くなりそうなスポーツを選んだわけ。バレーボールじゃなくてバスケットボールだったのは、単にユニフォームがバレーより格好良かったからにすぎませぬ。当時としてはあまり知られていない、とてもハイカラなスポーツでした。

夏休みの練習がちょうどなかった日、ぼんやりとTVを見ていた(んだと思う)ら、ちょうど高校野球の決勝戦でした。青森三沢高校対松山商業。それまでに高校野球を見たという記憶は全くありませんね。プロ野球にもまだ興味はなかった頃です。ただ、昭和40年代はじめですから、学校から帰れば近くにいくらでもあった草っ原に集まり、三角ベースの野球は毎日のようにやってましたね。つまりこの当時の僕らにとって、野球はやるもので見るものではなかったわけです。だから、高校野球を見るなんてホントに偶然だったんでしょう。

この決勝戦を最初から見ていたのか、それとも途中から見たのか、それもはっきりしません。0対0のまま延長戦に突入し、目が離せなくなりました。アナウンサーと解説者が、さかんに三沢高校のピッチャーの太田幸司は学年でトップを争う秀才だと持ち上げていました。ロシア人とのハーフだったんですよね。三沢は米軍基地の町なのにロシア人とのハーフ?書きながら変だと今はじめて気がつきました。いずれにしても、太田幸司のかっこうよさと、松山商業が名門で何度か優勝しているのに対して、三沢は初出場だということから、やはり三沢高校を応援していましたね、単純、わたしってば。

絶対取れっこないようなファールフライを太田幸司がマウンドから1塁側へむかって全力で走って捕ろうとし、それに対して解説者がえらく褒めていたのが記憶にありますね。大学野球だったら、あんなの捕れっこないっていって最初から追いかけもしませんよって言って。そのとき始めて大学でも野球ってあるってことを知ったのでした。

延長になって確か三沢高校が満塁になって、しかもカウントが2-3かなんかになったんですよね。松商絶体絶命。でも結局点数が入らず、延長18回で引き分け再試合になったのでした。三沢には投手が太田幸司しかいないけど、松山商業にはもう一人いるとかいう解説者の言葉は記憶にあり、ああ、じゃあ明日は三沢高校が負けだな、と思ったはずです。いずれにしろ、終わってしばらくなにか呆然としていたような記憶があります。

再試合は翌日で、こちらは実はバスケの練習で見ることができませんでした。練習が終わって帰る頃に、誰がどこで聞いてきたのか、三沢高校が負けたというニュースを伝えてくれました。がっかりしたはずだけど、ホントのところはその時どんな気分だったかは、あまり覚えていません。

ただ、これにより、以後TVで野球をよく見るようになりました。翌年、太田幸司が近鉄に入り、オールスターにファン投票で選ばれて出場したのは見たような気がします。

昔の記憶をたどれば、いろんなことが思い出せるだろうと思いつつも、後付けの記憶や無意識のうちにねつ造された記憶がたくさんあるもんだから、どれが本当の僕の記憶なのかわからないです。できるだけ資料は見ずに、記憶だけに頼ってみようと始めたこのシリーズですので、間違いはご容赦ください、あるいは、どうぞご遠慮なくご指摘ください。



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円谷幸吉・心に残るスポーツシーン(1)

2010.02.27.11:35

どうなんでしょう?僕の世代だと同じような記憶のある人多いのでは? 僕は小学校3年の3学期に、千葉県千葉市立登戸(のぶと)小学校から、東京都練馬区立北町西小学校へ転校していて、それが子供の頃の記憶の基準点になっているんですよね。たとえば、目もあいていないような子猫を拾ってきて、親にむちゃくちゃしかられて泣きながら捨てに戻ったのは、あの転校する前のことだったから、小学校2年生の時のことだ、なんてね。

東京オリンピックがあったのは転校前の小学校3年生の時。そして当時の小学校ではテレビ教室というのがあって、クラスごとに順番にオリンピックのいろんな種目を見たのでした。たしか、そういうシステムだったと思います。僕のクラスがたまたまマラソンに当たったのか、それとも学年全体で見たのか、それははっきり覚えていません。ただ、テレビつきの教室は学校全体でも一つか二つしかなかったと記憶しているので、前者だったのではないかなぁ?

覚えているのはただ、競技場に入って、円谷がヒートリーに抜かれるシーン。シーンそのものを覚えているのか、と問われると、はなはだ曖昧ですが、クラス中が悲鳴を挙げたという記憶ははっきり残っています。あれは本当にあのときの僕の体験なのか、それとも後から市川崑の「東京オリンピック」で見て、あとづけの記憶なのか。。。

ただ、どちらにしても、僕がスポーツというものを見て熱くなった生涯最初の記憶です。

円谷は「国家を背負」わされて、結果的に自殺しなければならなかったわけですが、その後、高校生ぐらいの頃だったかなぁ、深夜放送で、何という題名だったか、この円谷をテーマにした歌が流れて、泣きそうになりました。歌の最初に競技場に入った円谷がヒートリーに抜かれる実況放送が流れて、それから女性二人(だったと思う)の歌が始まり、確か歌詞が「もう走れない」っていうような歌詞で終わったんですよね。

知っている人がいれば教えてください。ネットで検索するとわかるのかも知れないけど、なんとなくそんな手段で知りたくない、知っている人がいれば教えてもらいたい、その時の気持ちを共有したいっていう気分です。どなたかご存じないですか?

自転車に限らず、これまで54年生きてきた間に見て感動したスポーツシーンについても、ときどき思い出したように書いてみようと思っています。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと努力しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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