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ステラン・ベントソン・心に残るスポーツシーン(3)

2010.03.25.08:19

ベントソンって誰?知らないよねぇ。昔のスウェーデンの卓球選手。  えっ?ここって自転車のブログじゃないの?

今日は1週間ほど前に前半課程を書いた生ハムのパート2をアップする予定だったんだけど、昨夕は雨で、最終段階の軽い燻煙かけができませんでした。今日はできるかなぁ。

カタロニア一周も、ミルラム勢は沈没  ということで。

ぼくが中学3年から高校へ上がる直前あたりです。名古屋で卓球の世界選手権がありました。たぶん1971年の初めだと思う。まえに書いたように、中学時代にはバスケットボールをやっていたんだけど、当時練馬区でベスト4に入る学校で、運動神経は人並み以下、身長もクラスで前から3番目では、レギュラーなんかになれるはずもなく、なのに練習が好きで夏休みの練習もただ一人皆勤賞。顧問の本間先生が(きっと)かわいそうにおもったんでしょうね、大量リードの試合後半に「行ってこい!」と送り出してくれることはあったものの、ボールには一度も触れることなく、ただコートの中をターンダッシュを繰り返すだけでしたっけ。

本間先生は体育の教師でしたが、とても紳士的で、僕のような補欠選手にも気を配る良い先生でした。今頃どうなさっていることでしょう?当時はなにしろすぐに殴る、無意味に殴る、気にくわないと殴る、そういう教師がずいぶんいましたから。私の中学なんて、休み時間中に竹刀を持って教室をねめ回しながら、廊下をうろつく教師なんていうのまでいましたよ。校内暴力なんていう生徒の反乱が起きるのはそれからまだ10年近く後のことで、生徒は殴られっぱなしでしたね。`_´

で、卓球の世界選手権なんですが、卓球なんてそれまで見たこともなく、全く興味がなかったのに、父親が若い頃やってたとかで、ゴールデンタイム(に放映していたんですよ (*_*))にTV中継を見たんですね。団体戦で長谷川選手という、当時卓球界の長嶋茂雄とか言われていた選手(先年台風の時に倒木の下敷きになって亡くなりましたが、びっくりしたなぁ 合掌)が、中国選手のスマッシュをロビングで拾いまくって、居合抜きみたいな電光石火のバックハンドスマッシュ。いや、格好良いなぁと思いましたね。

ただ、それよりもさらに印象的だったのが男子シングルスの決勝。勝ち上がったのがブロンドの長髪をなびかせた小柄な18歳のステラン・ベントソンと、黒縁めがねで7・3分けの銀行員のような風貌の伊藤選手。伊藤選手はペンホルダーで、当時世界最速とか言われていたドライブの持ち主。そのドライブをベントソンがシェークハンドのバックショートでブロックして伊藤選手を振り回すのね。むろん日本人ですから最初は伊藤選手を応援していたと思うのですが、途中からベントソンが格好良くって、はたして最後まで伊藤選手を応援していたかどうかはちょっと怪しげです。

このTV放送のおかげで、全くの未経験者のくせに高校へ上がると卓球部に入っちゃうんですよ、わたしってば。ラケットは迷うことなくベントソンと同じシェークハンドを購入。当時はカット型をのぞき、まだほとんどがペンホルダーで、日本人はお箸を使うんだから、ペンホルダーが適しているのだ!なんて言われていた時代ですよ。

ありがたいことに私の学校の卓球部はむちゃくちゃ弱かった。だから初心者のぼくの下手さ加減なんて目立たなかったですね。それはともかくイメージは常にベントソンのバックハンドでした。そのちょっと個性的なラケットの持ち方も真似したし、当時はビデオなんかなかったけど、卓球雑誌に出ている分解写真(ふ、ふるすぎ)でサーブの真似なんかもしましたね。

高校1,2年で身長も一気に伸び、前から3番目は返上したんだけど、ただねぇ、運動神経はそう簡単に良くなるワケじゃないのでねぇ。特にわたしってば、リズム感がないんよねぇ。三三七拍子の拍手しても、ひとりずれているっていうタイプでねぇ。カラオケでも音程は外さないと思うけど、リズムに乗れないんよ。そういう人間って、卓球なんかやっちゃだめなんよね。高校時代の対外試合の成績は、それは惨憺たるものだったですよ。

でもしつこく、大学に入っても同好会で4年間続けちゃうんですね。しかし、同好会っていっても地方の県でインターハイに出たなんて奴が何人もいるような同好会でしたからね。これまた出る幕なんかなかったなぁ。

というわけで、今回の心に残るスポーツシーンは、伊藤を破って世界一になった瞬間に泣きながら両手を挙げてベンチへ走っていったベントソン選手です。このシーンのおかげで卓球を愛しながら卓球に愛されなかった僕の不幸な青春時代が始まったのでした。昔の卓球ネタにお付き合いいただき感謝いたします。


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太田幸司・心に残るスポーツシーン(2)

2010.03.16.08:58

あれはたしか中学1年だったと思うんだけどなぁ。夏休み。僕は当時練馬区立北町中学のバスケットボール部に所属してました。バスケ部を選んだのは、背が低かったんですよ。小学校時代は背の順に並ぶと常に前から3番目以内。それで背の高くなりそうなスポーツを選んだわけ。バレーボールじゃなくてバスケットボールだったのは、単にユニフォームがバレーより格好良かったからにすぎませぬ。当時としてはあまり知られていない、とてもハイカラなスポーツでした。

夏休みの練習がちょうどなかった日、ぼんやりとTVを見ていた(んだと思う)ら、ちょうど高校野球の決勝戦でした。青森三沢高校対松山商業。それまでに高校野球を見たという記憶は全くありませんね。プロ野球にもまだ興味はなかった頃です。ただ、昭和40年代はじめですから、学校から帰れば近くにいくらでもあった草っ原に集まり、三角ベースの野球は毎日のようにやってましたね。つまりこの当時の僕らにとって、野球はやるもので見るものではなかったわけです。だから、高校野球を見るなんてホントに偶然だったんでしょう。

この決勝戦を最初から見ていたのか、それとも途中から見たのか、それもはっきりしません。0対0のまま延長戦に突入し、目が離せなくなりました。アナウンサーと解説者が、さかんに三沢高校のピッチャーの太田幸司は学年でトップを争う秀才だと持ち上げていました。ロシア人とのハーフだったんですよね。三沢は米軍基地の町なのにロシア人とのハーフ?書きながら変だと今はじめて気がつきました。いずれにしても、太田幸司のかっこうよさと、松山商業が名門で何度か優勝しているのに対して、三沢は初出場だということから、やはり三沢高校を応援していましたね、単純、わたしってば。

絶対取れっこないようなファールフライを太田幸司がマウンドから1塁側へむかって全力で走って捕ろうとし、それに対して解説者がえらく褒めていたのが記憶にありますね。大学野球だったら、あんなの捕れっこないっていって最初から追いかけもしませんよって言って。そのとき始めて大学でも野球ってあるってことを知ったのでした。

延長になって確か三沢高校が満塁になって、しかもカウントが2-3かなんかになったんですよね。松商絶体絶命。でも結局点数が入らず、延長18回で引き分け再試合になったのでした。三沢には投手が太田幸司しかいないけど、松山商業にはもう一人いるとかいう解説者の言葉は記憶にあり、ああ、じゃあ明日は三沢高校が負けだな、と思ったはずです。いずれにしろ、終わってしばらくなにか呆然としていたような記憶があります。

再試合は翌日で、こちらは実はバスケの練習で見ることができませんでした。練習が終わって帰る頃に、誰がどこで聞いてきたのか、三沢高校が負けたというニュースを伝えてくれました。がっかりしたはずだけど、ホントのところはその時どんな気分だったかは、あまり覚えていません。

ただ、これにより、以後TVで野球をよく見るようになりました。翌年、太田幸司が近鉄に入り、オールスターにファン投票で選ばれて出場したのは見たような気がします。

昔の記憶をたどれば、いろんなことが思い出せるだろうと思いつつも、後付けの記憶や無意識のうちにねつ造された記憶がたくさんあるもんだから、どれが本当の僕の記憶なのかわからないです。できるだけ資料は見ずに、記憶だけに頼ってみようと始めたこのシリーズですので、間違いはご容赦ください、あるいは、どうぞご遠慮なくご指摘ください。



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円谷幸吉・心に残るスポーツシーン(1)

2010.02.27.11:35

どうなんでしょう?僕の世代だと同じような記憶のある人多いのでは? 僕は小学校3年の3学期に、千葉県千葉市立登戸(のぶと)小学校から、東京都練馬区立北町西小学校へ転校していて、それが子供の頃の記憶の基準点になっているんですよね。たとえば、目もあいていないような子猫を拾ってきて、親にむちゃくちゃしかられて泣きながら捨てに戻ったのは、あの転校する前のことだったから、小学校2年生の時のことだ、なんてね。

東京オリンピックがあったのは転校前の小学校3年生の時。そして当時の小学校ではテレビ教室というのがあって、クラスごとに順番にオリンピックのいろんな種目を見たのでした。たしか、そういうシステムだったと思います。僕のクラスがたまたまマラソンに当たったのか、それとも学年全体で見たのか、それははっきり覚えていません。ただ、テレビつきの教室は学校全体でも一つか二つしかなかったと記憶しているので、前者だったのではないかなぁ?

覚えているのはただ、競技場に入って、円谷がヒートリーに抜かれるシーン。シーンそのものを覚えているのか、と問われると、はなはだ曖昧ですが、クラス中が悲鳴を挙げたという記憶ははっきり残っています。あれは本当にあのときの僕の体験なのか、それとも後から市川崑の「東京オリンピック」で見て、あとづけの記憶なのか。。。

ただ、どちらにしても、僕がスポーツというものを見て熱くなった生涯最初の記憶です。

円谷は「国家を背負」わされて、結果的に自殺しなければならなかったわけですが、その後、高校生ぐらいの頃だったかなぁ、深夜放送で、何という題名だったか、この円谷をテーマにした歌が流れて、泣きそうになりました。歌の最初に競技場に入った円谷がヒートリーに抜かれる実況放送が流れて、それから女性二人(だったと思う)の歌が始まり、確か歌詞が「もう走れない」っていうような歌詞で終わったんですよね。

知っている人がいれば教えてください。ネットで検索するとわかるのかも知れないけど、なんとなくそんな手段で知りたくない、知っている人がいれば教えてもらいたい、その時の気持ちを共有したいっていう気分です。どなたかご存じないですか?

自転車に限らず、これまで54年生きてきた間に見て感動したスポーツシーンについても、ときどき思い出したように書いてみようと思っています。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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