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ソクーロフの映画「モレク神」

2018.03.25.00:00

これは面白かったです。1942年春ということは、破竹の勢いだったナチスドイツがスターリングラードで前年末に敗れて、第二次大戦の潮目が変わった時期に、南ドイツのヒトラーの個人山荘ベルヒテスガルテンにヒトラーとゲッベルス夫妻、秘書のボルマン夫妻がお供のSSらを引き連れてやってきます。山荘にはヒトラーの愛人エーファ・ブラウンが住んでいて、これが何ともお茶目で魅力的です。この映画はヒトラーというよりエーファ・ブラウンが主役です。

ヒトラーに囲われて大豪邸の山荘で、多くの料理人や小間使、召使らにかしずかれながらも退屈していて、一人全裸でバレーを踊ったり、体操のつり輪をしたりしていたエーファ・ブラウンが何ともチャーミング。

ヒトラーも料理を運ぶ小間使の女性たちを、自分たちと同じ食卓に座らせたり、気さくなところを見せます。

ところで、登場する有名人たちがヒトラーもゲッベルスもボルマンも本物に非常によく似ています。ソクーロフは「太陽」でイッセー尾形に昭和天皇を演じさせ、イッセー尾形も、おいおい右翼が殴りこみに来るんじゃないの?っていうぐらい天皇になりきってました。口をモゴモゴさせるところなんか、ヲイヲイ、大丈夫かよ、と思いましたね。

特にゲッベルスは、これまで映画で見たゲッベルスの中で一番似てましたね。小柄で甲高い声で足を引きずりながら歩く姿は、少し前に見たジェシー・オウエンスの映画での長身でハンサムなゲッベルスにがっかりさせられていただけに、感心しました。特に横顔の頭の形なんかはゲッベルスそのまま。

ヒトラー役もブルーノ・ガンツの総統閣下や「帰ってきたヒトラー」の役者より似てると思いましたね。ただ、ちょっと背が高すぎるのと、菜食主義者だったヒトラーの腹があんなに出てたとは思えないけど 笑)

山荘ではみんなで食事をしたり、ピクニックに行って踊ったり、ニュース映画やフルトヴェングラーの指揮する第九の映像を見たりと、淡々と、例によって長回しの、時々歪んだ画面が続きます。

まあ、気まぐれな、そして突然怒鳴り出すヒステリックな、いかにもヒトラーらしいところも何度か出てきます。

腫れ物に触るような周りの人間たちのヒトラーに対する怯えたような気遣いに対して、まるで気遣いのないのがエーファ・ブラウンで、彼女にとってヒトラーはただの恋人に過ぎません。最後は風呂場で下着姿のヒトラーが興奮したように、エーファが望むような結婚して子供を作り、普通の家族として生活したいという思いを、自分の使命のためにありえないのだ、と演説口調で怒鳴り出すんですが、エーファはそんなヒトラーのケツを蹴っ飛ばして鬼ごっこを始めます。

テーブルの上で追いかけてくるヒトラーを蹴飛ばし、机を隔てて逃げ回り、床の上を転げまわりながら取っ組み合い。嬌声を上げるエーファの声に、突然白黒の飛行士の映像が挟まります。あれはなんなんだろう? 多分セックスの暗示のはずなんだけど。。。そして電話のベルの音で、ヒトラーが出発することがわかり、大慌てで服を着てエレベーターで降りていくエーファ。この時の暴れっぷりからヒトラーと別れのシーンもなかなか魅力的です。

ヒトラーといえば、絶対悪みたいな存在で、一種狂気に捕らわれたような不気味で残虐な男とされがちですし、そのヒトラーの愛人のエーファについては、ほとんど無視されることが多いような気がします。

つまり、人類の敵ヒトラーの愛人なんてちょっとわけわからんよね。マクベス婦人のような夫に悪事を教唆する悪女ではないし、美人だし、なのに、ヒトラーのやることに口出ししたとは思えないし、ヒトラーの愛人であることを利用して何か私服を肥やしたりしたわけでもないし(そういう人は日本にもいるようですが 笑)。。。

エーファ・ブラウンとヒトラーのこういうところを切り取って見せたというところに、ソクーロフらしさがあるのでしょう。

これまでも拙ブログで書いてきたことだけど、ヒトラーをただの狂人とか怪物とか悪魔として描いてはダメなんだと思うんですよね。無論人類史上稀に見るとんでもないことをした(させた)人であることは間違いないけど。そういう点ではオウムの麻原にも通じる問題があるんだと思います。



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ソクーロフの映画「静かなる一頁」(ネタバレ)

2018.03.22.00:09

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今、東京の渋谷では写真のような特集をやっています。そんな中で表題の映画を見てきました。この後も「モレク神」と「エルミタージュ幻想」はなんとか算段をつけて見に行こうと思っていますが、どうなることか。。。

ソクーロフの映画では、拙ブログでは「ファウスト」について書いたことがありました。その時に感じた画面の歪みやワンシーンの長さ、セピア調の鈍い色のカラー映像、セリフの少なさや、そもそも写っている物が何なのかよく分からないようなシーンとか、汚れたでこぼこの壁面とか、「ファウスト」で不思議に思われたことは、だいたいすでにこの映画でも取り入れられていたようです。もっとも、 でこぼこの壁面はタルコフスキーを始めロシア映画ではよく出てきますが。

冒頭の集合住宅と運河を写す長いシーンから、すでに画面が斜めに歪んでいます。しかもそれがずっと続く感じで、さらに、当初白黒の映画かと思うと、かなり抑え気味のカラー映像のシーンが出てきて、それが画面転換せずにいつの間にか白黒になっていたりします。舞台は集合住宅とその周辺の街中なのでしょうけど、どこかの教会堂か納骨堂みたいな暗い地下のようなところで、樹木が映るシーンもあるから外なのかもしれませんが、空は全く写りません。たぶん映画を通じて、一度も空は映らなかったと思います。地面の方は雨上がりのように濡れていて、ところどころに水溜まりが出来ていたりして、そんなところに金をせびるゴロツキや娼婦たちがたむろしています。そして画面の外からまるで夢うつつのぼんやりしている時のように、遠くで人々の話し声や笑い声が聞こえてきます。

この映画、ドストエフスキーの「罪と罰」を基にしているというのですが、それがわかるのはほぼ終わり近くなって、主人公のラスコーリニコフ(?)と娼婦ソーニャ・マルメラードワ(?)が対決するシーンになってからで、それまではどこが「罪と罰」なのか、まるでわかりません。そもそも今、上で名前の後ろに(?)をつけたのは、映画の中ではこの主役二人の名前はわからないからです。

確かに途中で人々の会話の中に高利貸の女が殺されたというセリフがあるけど、原作ではこの殺害シーンは始まって比較的すぐのシーンのはずなのに、映画ではラスコーリニコフ(?)はいかにもラスコーリニコフらしく思いつめたような暗い表情で街を歩き回っているだけ。

だけど、この二人が対決するシーンだけはそれまでと違って原作をなぞっているようです。つまり、金貸しの老女とその妹を殺してしまったラスコーリニコフは純真な娼婦ソーニャにそれを告白すると、彼女は汚してしまった大地に口づけして神に許しを請い、自首するようにと進めるシーン。

映画のこのシーンは、それまでと画面構成が全く違っていて、ソーニャ(?)とラスコーリニコフ(?)の二人の顔が画面いっぱいに並んで映りながら、長回しで話をするんですが、そのやり取りの緊張感がまたかなりすごいものがあります。そしてこのシーンでも画面の外の水の音(?)、外の運河の流れる音でしょうか?そんな音がかすかに聞こえています。この音の効果は結構印象的です。

さて、原作ではその後ラスコーリニコフはソーニャに言われた通り大地に口づけして罪を告白するけど、人々にはそれは聞こえないのだったと思います。だけど、この映画ではそうなりません。この最後の場面、ちょっと不思議な雌スライオンの巨大な像の下にもぐりこんだラスコーリニコフがとる行動は母胎回帰なんでしょうか? よく分かりませんが、「ファウスト」でもラストは原作とまるで違っていたし、まあ、わからなくてもいいんでしょう 笑)

1時間10分程度の短い映画ですが、タルコフスキー系列の映画といっていいでしょう、眠りを誘うような水の音や、急激な動きがあまり無い画面、ゆっくりと壁面だけをパンする映像など、油断するとあっという間に意識を失いますのでご注意を 笑)



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映画「フルスタリョフ、車を」

2018.03.13.08:13

先日に引き続き、ロシアンカルトシリーズで、ゲルマン監督の「フルスタリョフ、車を」を見てきました。平日の昼間なのに結構人が入っていましたね。驚きでした(もっとも途中で出て行った人もいましたが 笑)。このゲルマン監督のの「神々のたそがれ」は2度見に行ったことは書いたことがありました。

映画「神々のたそがれ」
再び映画「神々のたそがれ」

今回もびっくりさせられましたが、「神々〜」を見ていたので、ああ、よく似てるなと思いました。ワンカットが長く、その中でいろんな人がふざけているような行動を取るんだけど、それを逐一カメラが追わずに放っておく、というような不思議な感覚を味あわせてもらいましたわ。まあ、あえて言えば「フルスタリョフ〜」を見た後に「神々〜」を見るべきだったかな。

ただ、正直に言って、なんだかわからない。本当にわからない。特に始まってからしばらくの間は誰が誰だか、なにがなんだかわからないままです。狭い室内空間で、たくさん人が雑然と出てくるんですが、この人たちなんなの?(見ていくとどうやら家族らしいんですが結局説明らしい説明はないです) そんなところも「神々〜」と似てます。炎の色が白く映るような光度の高いハレーションを起こしそうな白黒画面だったり、音響の臨場感がすごかったり、いろんな無意味なものが雑然と置かれている室内や、騒々しく汚いのも「神々〜」と同じ。

登場人物の名前がドストエフスキーの小説の中の名前と同じ人が何人か出てきます。ソーニャ・マルメラードワは「罪と罰」のヒロインだし、ワルワーラも多分「貧しき人々」のヒロインの名前でしょう。他にもあるのかもしれません。だけどそれが何の意味があるのかがわかりません。

主役は脳外科医で軍の将軍でユダヤ人で、大家族なんだけど愛人がいたりして、その様子が「神々〜」と同じように乱雑で人々が入り混じり、勝手なことをしたり、叩き合ったりしています。随分たくさんの人が叩き合うんですが、それが演技じゃなく本気で叩いてるんじゃないか、と不安になるぐらい激しいです。

その彼が突然の失脚で極寒の収容所に連れて行かれ、囚人仲間にいわゆるカマを掘られたり殴られたり、雪の上を這いつくばったりとひどい目に遭わされますが、これまた突然解放され、瀕死のスターリンを診療して救うよう要請されます。でもスターリンは放屁しながら死にます。当然主人公は始末されるのかと思いきや、突然時間が10年飛んで、彼は電車に乗って飲み食いしているところで電車が遠ざかっていって映画は終わります。

冒頭が夜で車のヘッドライトが近づき、犬が駆け寄ってくるシーンでボイラーマンが殴られKGBに(?)拉致されるシーンで始まり、最後は10年後に出所したこのボイラーマンが電車に乗ると、主人公がいるというふうになっていて、このボイラーマンは全く無関係なんだけど、映画全体のワクみたいな役割を果たしてるようですが。。。

非常に不親切な映画だから、ストーリーを追うとか理解しようとすると腹が立ってくるかもしれません。ネットにある解説を読んでおくことはお勧めしますが、でもそうやって予習しても大して意味ないかも。ただ映像の動きにこちらの気分を同調させるのがいいのかもしれませんね。

いつかもう一度見てみたいと思うけど、なかなか根性入れないともたないなぁ。



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映画「スタフ王の野蛮な狩り」(ネタバレ)

2018.03.10.23:20

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東京では今こんなシリーズを連続上映しています。今日は1979年のソ連製ホラー映画。ただし、ホラーなんていう言葉を使うとかなり誤解を呼びそうです。サスペンスというべきかな。何しろ上品だし、ロシア映画らしい画面の美しさがあります。

1980年ごろから90年頃にかけて、東京の巣鴨にあった三百人劇場というホールで、何度かソビエト映画の全貌というシリーズを上映しました。そこでこの映画を一度見ているんですが、途中の印象的なシーンをいくつか除くと、ほとんど内容は忘れていましたね。

1900年のベラルーシが舞台らしいです。嵐の晩に雨宿りのためにある邸宅に宿を乞うた若き民俗学者の青年。各地に伝わる伝説の収集をしているのですが、その邸宅には若く美しい女主人ナジェージダが、召使たちと住んでいます。そしてその召使が説明するところによると、17世紀、農奴制からの解放を求めた農民たちの反乱軍の頭領スタフ王を殺したのがこの館の先祖の領主で、スタフ王は殺される間際に領主の子孫を末代までもたたり続けてやると呪ったとのこと。

その後この一族には次々に不幸が重なったということで、末裔の娘であるナジェージダも、屋敷内で聞こえる物音などにおびえて暮らしています。スタフ王が三十人の騎馬兵を連れて人びとを狩るという噂もあります。

召使の老婆に魔物が憑くのを防ぐおまじないをしてもらったりするオールヌードのサービスシーンなんかもありますが 笑)ナジェージダの成人の祝いに集まった怪しげな連中と、そうした連中の変死事件が続き、主人公の青年もスタフ王の軍勢を実際に目撃したりします。

途中旅芸人の一座がスタフ王の物語の人形劇をやったりしますが、この人形劇がなかなか秀逸です。

しかし、変死事件の被害者となった召使の日記から、主人公は館内での不審な足音の正体と、スタフ王の正体も暴くことに成功。農民たちと、犯人を追い詰めます。

最後に青年は騒乱罪で逮捕されることになりますが、ナジェージダは、ラスコーリニコフについていくソーニャのように、彼についていくのでした。ちゃんちゃん。

この映画の最後のところで、今日は1901年の元旦だというセリフがあり、20世紀になったことが告げられます。同時に子供達の顔のアップがずっと移り、また、オカルトじみた事件の真相は理性できちんと謎解きできるものであることが暗示されますが、これって19世紀のスタフ王の亡霊のような迷信に踊らされる迷妄の時代が明けて、唯物論的・マルクス主義的・科学的な20世紀の始まりが宣言されているということなんでしょうね。20世紀を担う子供達のアップで終えないと、ソ連ではきっと上映させてもらえなかったのでしょう。

こうしてストーリーを思い出しつつ書いてみて、はたと思い当たりました。「スリーピー・ホロウ」というティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の映画がありました。首なし騎士の亡霊が人々の首を狩るというグロテスクでスプラッターなホラー映画。この映画はロシア版のスリーピー・ホロウの伝説みたいなものなのでしょうね。制作された時代も違うし、映画技術の面でもまるで違うから比べるのもどうかと思いますが、そういえば、こちらはオカルトのまま終わりましたね。



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映画「みかんの丘」と「とうもろこしの島」(ネタバレ)

2017.10.25.23:39





どちらもグルジア(ジョージア)とアブハジアの争いを背景にした、非常に美しいシーンの多い映画だけど、そもそもアブハジアとグルジアの争いってなんだ? 調べるといろいろ書いてありますが、どうも要領をえない。まあ、冬のオリンピックがあったソチのすぐ南側、黒海とカスピ海の間にある地域のグルジアの一部アブハジアが1990年代初頭に独立を求めて武力闘争になったということのようです。この地域、映画の中でも出てくるけど、言葉もグルジア語とアブハジア語はだいぶ違うようだし(とうもろこしの島ではアブハジ語はわからないとグルジア人が言っています)、宗教的にも東方教会からイスラムまで入り混じっているようで、複雑怪奇な地域のようです。

「みかんの丘」はこの微妙な地域に移住してきてみかんを栽培していたエストニア人の老人(エストニアはこれまたここから3000キロぐらい北西方向のバルト三国の一番北の国です。アルヴォ・ペルトの国ですね 笑)が主人公で、アブハジアの傭兵のチェチェン人(イスラム教徒)とグルジア人の兵士(キリスト教徒)が負傷してこの主人公の家で介抱される。お互いに憎み合って、罵り合いながら、助けてくれたエストニア人の老人の手前、少しづつ和解の気配を見せながら、最後は。。。という内容です。

日本語というか中国の故事で言えば呉越同舟というやつで、主役のエストニア人の老人の顔がとてもいい顔をしています。似たような映画にボスニア・ヘルツェゴビナの映画で「ノーマンズランド」というのがありましたが、あそこでも敵同士が最前線の境界地帯、ちょうどどちらの陣地でもないところで呉越同舟になってしまうという映画で、和解と敵対の緊張関係の中、最後はやっぱり。。。でした。


一方「とうもろこしの島」はちょっと雰囲気が違います。この二つの映画は背景が同じだけに一緒に語られることが多いようですが、僕の個人的な好みから言えば、こちらの方が圧倒的に好きです。

「みかんの丘」をクサすつもりはないんですが、やっぱり最後のところが不満です。デウス・エクス・マキナという言葉があります。直訳すると「機械仕掛けの神様」。これは古代ギリシャの演劇で話がもつれにもつれ、どうにも収拾がつかなくなった時に、都合良く舞台の上から機械仕掛けで神様が降りてきて、すべてのもつれを一気に解きほぐして、はい、大団円という結末に至るための手段ですが、全く逆の意味で、この言葉を思い出しました。

つまり、チェチェン人傭兵(アブハジア側)とグルジア兵士が少しお互いを理解し合い、和解への糸口が見えた時に、アブハジアの兵士たちが現れて、仲間であるチェチェン人傭兵を敵と疑い、今まさに殺そうとした瞬間にグルジア兵士が彼を助けるためなのか、単に敵だからなのか、発砲してチェチェン人傭兵を救い、自分は殺されてしまうんですね。

ちょうど二人が和解して、この後どうするんだろう、どういう結末を迎えるんだろう、というところで、都合良く、絶対悪が機械仕掛けの神様よろしく登場して、結末をつけてしまう。なんか、安易だな、面白くないな、と思ったのでした。

それに対して「とうもろこしの島」は、もっと謎かけをたくさんしたままです。そもそもが映画としても非常に前衛的なことをしています。私はサイレント以外で、映画が始まってから20分以上セリフも音楽もない映画というのははじめてでした。「ニーチェの馬」も最初の台詞までだいぶ待たされますが、音楽は最初から鳴り続けます。しかも始まって20分でようやく二言三言喋ったと思ったら、そのあとまた30分以上登場人物たちは一言も喋りません。しかも音楽もなし。結局音楽はエンドロールが始まるところで初めて鳴るんじゃないでしょうか?

こう聞くと、きっと退屈だと思うでしょうけど、そうでもありません。物語はほぼアブハジアとグルジアの境界を流れるパラタ・エングリ川の中州だけで進行します。この川は春に濁流が流れて上流のコーカサス山脈から土砂が流され中洲ができます。周辺の農民はその中洲で、春から秋にかけてトウモロコシを栽培して冬に備えるというのが慣例になっているわけですが、川を挟んで向こう側はグルジア領、こちらはアブハジア領というわけで、いわばノーマンズランドになっている危険な最前線でもあるわけです。

映画はその中洲に老農夫がやってくるところから始まり、孫娘も加わって、そこに小屋を作りトウモロコシを栽培する様子を、音楽も会話もないまま映し続けます。この12歳ぐらい?の孫娘がいいんですね。顔立ちがとても美人なんですが、何しろ田舎の娘らしく、そばかすだらけ。で、そのトウモロコシ畑に怪我をしたグルジア兵が倒れていて、二人はそれをかくまうんですが。。。

この二人は中洲に住んでいるわけではないですが、この中洲以外のシーンはほとんどなく、また回復したグルジア兵がどうなったのかもはっきりしません。孫娘と親しくなって、それを老人が咎めるような目で見て、兵士は怯えたような目で見つめるシーンの直後、場面が変わるともう兵士はいません。おそらく中洲を去って帰って行ったのだろうとは思いますが。。。

最後は季節外れ?の濁流に中洲が流され、トウモロコシを収穫していた老農夫は濁流にのまれますが、孫娘は船に乗っていて助かるようです。「ようです」というのはこのシーンの後ボートに乗る娘の姿が映ることがないんですね。この濁流にのまれる中洲のシーンもとても素晴らしいシーンで、大雨の中、徐々に小さくなって崩れていく中洲とトウモロコシ畑と小屋が心に残ります。両親がおらず、老人に頼っていた孫娘はどうなったのかを考えると胸が痛むシーンではありますが、この間に彼女も成長していて(生理があるシーンがあります)、おそらく一人でしっかりと生きていくのだろうと思いたいところです。

最後に、翌年また中洲ができたところへ若い農夫がボートでやってきて、娘が大切にしていた手作りの人形を掘り出し、大切にボートの座席に置くシーンで映画は終わります。振り返ってみれば、老人も最初の方のシーンで中洲からパイプらしきものを掘り出し、後生大事に持っていました。

人間同士がいがみ合い、争い合い、殺し合い、老人は自然の前に命を落とし、孫娘は成長していき、時は流れていき、同じことが繰り返され。。。だけど、新たにやってきて、最後の人形を大切に扱う農民の姿は、老人たちの後継者として、彼らの生きた証をつなぐシーンのようにも思われます。老人も、だからこそ、掘り出したパイプを大切に持っていたのでしょう。



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映画「動くな、死ね、甦れ」

2017.10.13.22:53

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新宿でやっているヘルツォークとこの映画と、どっちにしようか迷ったのですが、こちらにしました。この映画は数年前にTVの衛星放送でやっていたのを見たことがありました。なにしろ最後のところのわけのわからなさにぶっ飛んだ、という印象でした。見終わって、なんだったんだ?今のは?とTVの前からしばらく動けなかったですね。

監督はヴィターリー・カネフスキーという人で、ソ連時代に無実の罪で8年投獄され、50を過ぎて初めて監督として映画を作り、しかもその後二本取った後、ぱったりと映画を撮ることをやめてしまったそうです。

舞台はスーチャンという日本海側、ナホトカの北にある炭鉱の町。この町にはソ連の収容所があり、多くの囚人が入れられている一方で、抑留された日本人もいます。いわゆるシベリア抑留者たちです。極東の町で荒んだ雰囲気があり、終戦直後なので物資も足りず人々の心も殺伐としていて、子供たちがたくさん出てくるけど、どの子供もみんな悪ガキの風貌風体。町はそこらじゅうに泥の水溜りがあり、住居もバラックの粗末なものばかり。こう言うぬかるみの風景ってロシア映画ではおなじみ感があります。

終戦からほどない時期だから腕や足のない傷痍軍人も出てくるし、モスクワで学者だった狂った老囚人とか、妊娠すれば収容所から出られると思って、男を誘い、断られて泣きじゃくる若い女の囚人とか、人々の心も酷い状態なのがよくわかります。

主人公はそうした子供たちのうちの一人の少年と少女です。その少年がいたずらが度を過ぎて、機関車を転覆させ、町を逃げて都会(ナホトカか?)へ出て行って、そこで宝石強盗の手伝いをさせられ、さらに口封じのために殺されそうになって、迎えに来た少女と一緒に逃げるが。。。というのがあらすじでしょうか。

監督カネフスキーのデビューのきっかけを作ってくれたのは、拙ブログでも2度にわたって紹介した「神々のたそがれ」のアレクセイ・ゲルマンだそうで、そう言われると、似たような作風かもしれません。
映画「神々のたそがれ」
再び映画「神々のたそがれ」

子供たちの演技が素晴らしいのは言うまでもないけど、主役の男の子が素のままの悪童ぶりなのに対して、少女の方は大人びていて、落ち着き払って、物静かで、男の子の嫌がらせにも善意でお返しをするような優等生的な子です。こういう女の子って小学校の頃いたなぁ。やたら頭が良くて超然としていて、男の子からいたずらされても大人の対応をする学級委員っていう感じの子。

音響効果が不思議な映画で、BGMらしい音楽はほとんどないけど、登場人物が怒鳴り散らすように歌う下卑た歌とか、抑留された日本人が歌うよさこい節や炭坑節が雪が残る泥だらけの荒涼とした風景の中で、不思議な雰囲気を醸し出します。それとやたら会話の音がかぶって騒々しい一方で、汽車が転覆するシーンでは全くの無音になり、転覆後に人々が駆け寄る足音だけが聞こえてくる、という不思議な感じも。

そして何より不思議なのが、時々監督の声だと思うのですが、映画の中に入ってきます。そもそも映画の出だしが「用意はいいか? スタート」というナレーションが入って始まり、最後のシーンも監督の声がかぶる。「子どもを写すのはそのぐらいでいいから、女を追え」という音声が入ってくる。だけど、他にも、子供達が愉快そうに笑っている声にかぶるように大人の男性の笑い声が聞こえる。よくわからないんだけど、これも監督の笑い声ではないでしょうか?

ところで、この最後のシーンのアヴァンギャルドぶりには、きっと誰でもぶったまげると思います。そして同時に、悲痛な映画のラストシーンというのは沢山あるだろうけど、この映画のラストの胸裂けるような悲痛さも半端ではありません。

金曜日の夕方で、こんなマニアックな映画だけど、思ったよりお客さんは入ってました。ただ、面白かったのは僕もそうですが、多分全員一人で来てたようだったことです。まあ、デートで観る映画じゃないわなぁ。


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映画「ストーカー」を見た (ネタバレ注意)

2017.05.16.00:01

「ソラリス」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「鏡」、「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、「サクリファイス」ときて、これで最後。昨日は友川カズキライブの打ち上げで午前様、睡眠時間が足りてないので、むちゃくちゃ不安だったんですが、今日の仕事は午前中だったので、1時半からの回で見てきました。先に正直に言っておくと、途中、3人が休憩しているシーンで一瞬意識を失いました 苦笑)

タルコフスキー映画でおなじみのシーンや物がたくさん出てきます。ガサガサした壁や円形に対するこだわり。登場人物たちは例によってやたらと転ぶし、のたうちまわる女の姿はソラリスやサクリファイスでもおなじみです。事物がまるで偶然のように落下するし、主人公らに忠実な犬の姿もおなじみ。

よくわからないものが浮遊している水たまりや、首まで浸かりながら渡る池、焚き火や風、ソラリスでも鏡でもノスタルジアでも出てくる丘から見下ろす川と森の風景。そしてサクリファイスで最初と最後に流れるバッハのマタイ受難曲のアリアが、突然口笛で吹かれたりします。さらに、「ルブリョフ」の冒頭のエピソードや「ソラリス」のステーションでもおなじみの男3人組。

今回久しぶりに見て、舞台の背景に原子力発電所がなんども出てくるのに気がつきました。この映画ができたのはチェルノブイリの6年前、フクシマの30年以上前のことです。

ストーリーは広範囲に汚染された?ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域の奥に人間の願いを叶える部屋があると言われ、そこへ、案内役のストーカーと作家と教授の3人が向かうという話。

この3人を今回こんな風に見立ててみました。つまり、ゾーンは神でストーカーは聖職者。神なるゾーンの信奉者であるとともに伝道者でもある。それに対して、そんなものはありゃしないと絶望している作家と、そんなものは権力者に悪用されるだけだから破壊すべきだと主張する教授という図式。宗教的なイメージなのは、ラスト近くで作家が頭にいばらの冠をかぶるシーンでも、おそらく間違いないだろうと思うのですが、こういう風に決めてしまうのは、愚かなことだと言われるのは承知の上で、あえて遊びで 笑)

映像的には、セピア色の白黒、まるで墨のようなコントラストの強い最初のシークエンスと、ゾーンに入ってからの目に鮮やかな緑の自然の対比もすごい。トロッコに乗ってゾーンへ向かう3人のアップの白黒画面が終わると、バアンと音でもしたかのように鮮やかな緑の風景が、突然映し出される時の衝撃。さらに、ゾーンの建物に入った後の色彩を抑えた室内の画面。ただし、そのどのシーンもが、非常にゆっくりとしたテンポで眠気を誘ってきます 笑) 

しかし、願いを叶える部屋が近づくと緊張感が高まり、眠気は吹っ飛びましたね。 暗く不気味な丸い廊下から、非常に印象的な砂丘のような不思議な広間を超えて、大小のフラスコ状のものがたくさん浮いた水たまりのあるゾーンの前室。そしてそこに座り込む3人の前に広がる水たまりの願いを叶える部屋に雨が降り出すシーン。どのシーンを切り取っても映像としての美しさがあるし、どの事物にも意味ありげな謎めいた魅力があります。

最後のシーンの奇跡は、タルコフスキー映画では最初の「ローラーとバイオリン」からこの「ストーカー」まで一貫しています。どの作品でも最後には奇跡が起きます。 「ローラー〜」は家から出られなくなった少年は想像の中で青年に会いに行き、「僕の村〜」ではイワンは妹と水辺でかけっこをします。「ルブリョフ」は無言の行を終了して、傑作イコン群を残すし、「ソラリス」では過去をもう一度やり直そうとするし、「鏡」では死んだ小鳥が生き返り幼年時代へ飛んでいきます。

その意味では「ノスタルジア」と「サクリファイス」はちょっと変わったと思えますね。 「ノスタルジア」の最初の方で自分だけのための美はもういらない、と言うシーンがありますが、これがある意味で象徴的なセリフではないかと思えます。 そして、この「ストーカー」の前と後で、タルコフスキーの「願い」が個人的なものから、もっと全人類的なものに変わっているのではないでしょうか。

こんな風にシーンを言葉にしても詮無いものがあるし、話を何かのアレゴリーだと解釈するのも、この映画をつまらないものにしてしまうのかもしれません。映画というものを言葉で語ることの虚しさを強烈に感じさせる、ものすごい映画だと思います。



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映画「サクリファイス」その他を見た(ネタバレ)

2017.05.13.18:53

例によって東京の渋谷でやっているタルコフスキー監督特集。昨日は「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、今日は遺作の「サクリファイス」と見てきました。少しメモしておきます。

ローラーとバイオリンは最初の作品だけど、短編映画で、すでにタルコフスキー哲学が出てます。ラスト、思いは現実を超えるという暗示でしょうか。晩年の「ノスタルジア」や「サクリファイス」の人類救済のおまじない見たいな話につながるように思います。

「僕の村は戦場だった」は冒頭の樹木のアップ。カメラがだんだんアップの樹木を登っていくシーンで始まるんですが、遺作の「サクリファイス」のラストが全く同じように、カメラがアップの樹木を登って終わります。タルコフスキー映画の円環が閉じたような形で、すでに癌で余命幾ばくもないことを知っていたタルコフスキーは多分意図的にやっているんじゃないかと思います。この映画は主役のニコライ・ブルリャーエフという少年がいいんですね。思い出の中と現在との顔がまるで別人のように違う。思い出(=夢)のシーンも疲れ切ったブルリャーエフが爆睡、その間、遠くで常に雫がポタン、ポタンとリズムを刻んでいます。ブルリャーエフのベッドからはみ出た手がアップになると、なぜかその手から水の雫が落ちています。あれ?と思う間もなくカメラが上に向くと、そこは井戸の底、上から母親とブルリャーエフが覗き込んでいます。何度見てもゾクゾクします。

この映画は、偵察のためにドイツ軍の様子を伺いに行き、殺された少年の話が原作のようですが、映画の最後に死んだゲッベルスの6人の子供達の遺体や、家族を道連れにして自殺したナチの将軍?の子供達が出てきます。メッセージは明らかで、戦争で一番大きな被害を受けるのは子供達だ、と言っているのでしょう。ただ、これはソ連が願う戦争の描き方とは違っていたのでしょうね。

さて、「サクリファイス」です。何しろワンカットが長い。冒頭のシーンからして、計ってないから正確にはわかりませんが、おそらく10分近くワンカットだったんじゃないでしょうか。カメラがあきれるぐらいゆっくりと移動し、登場人物たちが移動していくのに合わせて、少しずつ横に移動しながら近づいて、最初は人物の顔もはっきりわからないぐらい遠いところから始まり、10分近くかけて、気がつくと、すぐそばまで近づいています。全編そんな調子で、カメラは気がつかないぐらいわずかずつ近づいたり横移動したりしますが、そのリズムがなんとも眠気を呼びます 笑) 

ストーリーを言うと、あまりにバカバカしさに笑っちゃうかもしれません。世界戦争が始まり、主人公は神に、もし全てをなかったことにしてくれたら、全てを犠牲に捧げると祈ります。翌朝、目がさめると、全ては何もなかったかのような世界に戻っています。そこで主人公は神との契約通り家に火を放ちます。最後の家に火をつけてからの、約10分のワンカットシーンは、おそらく映画史上に残るものすごいシーンです。全てが計算し尽くされているように家は燃え上がり、煙を吐き、横の車が爆発し、煙が止まって炎だけになり、崩れ落ちる。その前を人々が右往左往し、カメラもそれを追って移動していきます。そのスペクタクルに圧倒されます。

さて、あと月曜に「ストーカー」を見れば、今回のタルコフスキー特集で上映された映画を全制覇になります。「ストーカー」は、多分、また書きます 笑)



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映画「アンドレイ・ルブリョフ」を見た(完全ネタバレ)

2017.05.09.22:03

この映画については前にもちょっとだけ触れたことがあった。 初めて見たのは1981年。その時は予備知識もほとんどなく、映像の美しさやゆったりとしたテンポの心地よさに魅了されたけど、悲惨な時代に芸術家であることの意味に苦しんだ画家が、いわば「飢えた子の前で文学に何ができるか」というサルトル的な絶望を感じ、一旦は筆を折りながら、それにもかかわらず再び絵を描くことを決意する話だと思った。多分、それは外れてないと思うが。

ただ、その後なんども見てきて、主人公ルブリョフはタルコフスキー自身が、かなり露骨に投影されていることがわかってきた。例えば、ルブリョフに対する同僚の批判「確かに絵は上手だ、しかし彼には信仰心が欠けている、単純さが足りない」などという言葉は「確かにいい映画を作るが、彼には政権に対する従順さが欠けている、そして映画も単純さが足りない」という意味だろう。たぶんタルコフスキーの第1作「僕の村は戦場だった」に対するソ連当局の批判であったことは間違いない。

この映画を見ると、いつも、「乏しき時代の詩人」という言葉が思い浮かぶ。ハイデガーという哲学者の本の題名だけど、内容はともかくも、この題名には心惹かれるものがある(昔アマゾンレビュでこの映画について書いた時にもこの題名を使ったことがある)。

この時代の悲惨さは映画全体を通して繰り返し描かれる。最初の旅芸人のエピソードでも、ちょっとでも反権力的な言動を人前で行えば、すぐに捕まってしまう。また、権力者の兄弟げんかに端を発して、弟がタタール人に援軍を頼んだせいで、町は蹂躙され、一般市民が虐殺される。教会に逃げ込んだ市民が虐殺されるシーンは、この映画の20年前に、現実にナチスの手で同じようなことが行われたことを思い出させる(「炎628」)。このエピソードは、スターリンが自分の権力を守るために粛清の嵐を吹き荒れさせている間にナチスが攻めてきたことを、見た人に連想させたことだろう。

異教の祭?(=反体制運動)の翌朝、村人たちは官憲に一網打尽にされる。その時、前夜ルブリョフを助けてくれた女は裸で川に飛び込み、いわば「亡命」していく。それを芸術家の特権で川の上を船で下っていくルブリョフが暗い顔で見送る。プロローグの気球で飛ぶ男も、ある意味で「亡命」未遂の暗示かもしれない。僕は1980年代初めに、タルコフスキーが亡命したというニュースを聞いた時、思わず、タルコフスキーも裸で川を渡ってしまったのだなぁ、とこのシーンを思い出した。

こうした中世ロシア(=スターリン時代・ソ連邦時代)の悲惨な状況の中で、体制の命令によって絵を描く(映画を作る)芸術家の苦悩を考えれば、この映画は分かりやすくなるだろうと思う。しかも、同じ芸術家同士の間でも嫉妬や妬みがあり、また師匠は筆洗いしかさせず、なかなか絵を描かせてくれない。この師匠はフェオファン・グレクという実在のイコン画家だけど、タルコフスキーを当てはめると、エイゼンシュテインあたりになるのだろうか?

最後の鐘を作る少年のエピソードでは、この少年がタルコフスキー自身なのではないか? 少年をはじめとする職人集団は文字通り映画を作るスタッフの集団だろう。様々な内輪での争いがあっても、最終的に少年の元で結束して巨大な鐘を作ることに成功する。その鐘は確かに権力者のために作ったものではあるが、それは結果に過ぎない。同時に、この少年が全て終わった後、実は自分は誰からも鐘の作り方を習っていなかったと告白するけど、これも、タルコフスキーはソ連の監督からは何も学ばなかったという意味に解釈できそう。こじつければ、先の師匠のフェオファン・グレクも史実ではギリシャ人、つまり外国人だ。すると、彼はエイゼンシュテインというよりも、むしろイングマール・ベルイマンや黒澤明あたりをイメージした方がいいのかもしれない。タタールが街を襲うシーンなどは七人の侍を意識しているだろうと思われる。

かくして、ルブリョフは、誰のためでもない、鐘を作ることそのものを目的にしたかのような少年の姿を見て、自らも、長い無言の行の後、再び絵を描くことを決意する。おそらく神のために描くことを。最後、これでもか、と言うぐらい長い時間をかけてルブリョフが残したイコン画が、延々とアップになって映った末に、映画の冒頭倒れた馬が、雨の中で平和そうに水辺で草を食むシーンで終わる。

だけど、こうやって何でもかんでもこじつけて、一つの比喩に固定してしまうことで、この映画がつまらないものに見えてきそうな気もする。むしろ、あちこちに出てくる映像のすばらしさだけに集中してもいいんだろう。例えば、旅芸人が捕らえられて連れて行かれるシーン、手前に3本の木があって川むこうを官憲の馬が3頭歩き、手前をルブリョフたち3人が歩いていくシーンの美しさ! あるいは想像の中で、雪の(!)ゴルゴダの丘へ向かうイエスとマリアらの、ブリューゲルの絵のような風景。あちこちで出てくる俯瞰のアングルの映像。焼けた教会の中に降る雪。その焼けた教会の中で師匠のフェオファンの幽霊?との会話シーンの、画面の外を意識させるような不思議な雰囲気。

主人公をやったアナトリー・ソロニーツィンや仲間の画家をやったニコライ・グリニコは、この後の「ソラリス」「鏡」「ストーカー」でも出てくる(グリニコは前の「僕の村は戦場だった」でも出てくる)し、その他の旅芸人も裏切り者のキリール役の俳優もみんなものすごい存在感だったが、特に知恵遅れの娘と、タタール族の首領が、それぞれ強く心に残る。



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映画「鏡」を見た

2017.05.06.21:42

先日「地球が滅びる時に見ていたい映画」を書いた時に書いた「鏡」、先日のソラリスに引き続き渋谷の映画館で見てきました。今回は一昨日すでにネット予約しておいたので、ど真ん中の席を確保できました。ほぼ9割がたいっぱいでしたね。

デジタルリマスター版ということで、画面がとても綺麗なのと同時に、字幕が以前見たのとは違っていました。以前に比べてちょっと説明していて、分かりやすくなったかなぁ。例えば、以前なら、リビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、わかるわよね? フィヨードル・ミハイルヴィッチ? というシーンが「悪霊」のリビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、ドストエフスキーよ。となっていました。

冒頭の吃音症の少年の画面はいうまでもなく「私は話せます」という言葉がキーだし、冒頭の夢のあと、母からの電話で謝ろうとすると母が電話を切ってしまう後のシーンは主人公の母に対する気持ちがそのまま映像になっているシーンだと思います。つまり母に腹を立てているから、突然雨を降らせて母をずぶ濡れにし、リザベータに母を批判させ、最後はシャワーの水も出してやらない。途中も夢のような空想のようなシーンが次々に出てきますが、主人公以外の登場人物、例えば息子のイグナーツの空想だったり、時空を超えて現れた謎の女性がいるところへ老いた母が訪ねてきて、あら、部屋を間違えたわ、というシーンはまさに母が時代を間違えて現れてしまったということでしょう。こういう時空を超えたことは、映画だからこそできるのです。

最後のシーンは、そうした様々な悔恨を抱え込んで寝込んでいる主人公が、それでも、どうにかなるさと言いながら、死んだ小鳥を投げ上げると、小鳥は蘇って幼年時代へ戻っていく。このシーン、バッハのヨハネ受難曲が流れ、何度見ても目頭が熱くなります。今回もそうでした。最後の森の中へと引いていくのだって、フロイト的だと言われるかもしれないけど、母体回帰のイメージです。

それにしても、普通はどうにかなるさ、と言ってもどうにもならない、死んだ小鳥は生き返らない。それなのに、どうにかなるさ、と言って小鳥を生き返らせることができるタルコフスキーはなんとも幸せな人だな、と思います。



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映画「惑星ソラリス」を見た

2017.05.04.23:32

渋谷の映画館、満席の中、最後から3人目の順番で見ることができた。

この映画を初めて見たのは1978年の夏のことだった。その時は先に原作を読んでいて、すっかり原作に参っていたから、メモには、原作の雰囲気はあるけど、よく分からない変な映画だったとある。その後、20世紀に6回映画館で見た。21世紀に入ってからは、おそらく映画館では見ていない。TVやCSでは何度か見ていると思うが。。。

2001年宇宙の旅と並び称される古典的SF映画の金字塔というのが、この映画に貼られたレッテルである。でも今回見てみて、この映画にSF映画のレッテルを貼るのは間違いだろうと思う。原作の設定がものすごく観念的なニューウェーブSFなんだろうけど、この映画はタルコフスキーの個人的な事情がかなりはっきりと出ている。このSF小説をネタに、監督は自分の個人的な思い出を語っている。

確かに、ソラリスステーションにいる(いた)4人は過去に対して人はどう対応するか、を示す4つのタイプに分類できそうだ。1)自殺したギヴァリャンは過去(罪)に耐えられなかったタイプ 2)過去(罪)を科学的な態度と称する客観的な見方で分析して乗り切ろう(やり過ごそう)とするサルトゥルリウスのタイプ 3)過去(罪)を仕方がないものとして諦めるスナウトのタイプ 4)過去(罪)を受け入れ、やり直そうとする主人公ケルヴィンのタイプ。

変な連想だけど、少し前に読んだ清水潔の南京事件の本のことを思い出した。単純にレッテルを張るつもりはないけど、南京事件の証言をした(しなかった)元兵士たちはどのタイプなんだろう? そしていうまでもなく、僕は??

あるいは前半の延々と長すぎるのではないか、と思えるような地球の自然描写。そしてやはり長すぎるんじゃないかと思える首都高速。タルコフスキーがわざわざ日本まで来て撮影したのだとソ連当局にアピールのために、あれだけ長く、あの単調な映像を入れたことが、タルコフスキーの日記から分かるそうだが、でも、結果的には、自然から文明(高速道路)に移り、文明の末路のようなゴミだらけの汚い宇宙ステーションに移動した末に、作り物の自然へ戻っていくという図式を考えると、あの高速道路の単調な映像も必要だったのだろうと思える。

だけど、そんなことより、今回見てて、後のタルコフスキーの映画をいくつも連想させるシーンが、すでにこの映画の時点で満載なのが気になった。例えば、あの故郷の家の感じはサクリファイスの燃える家に似ていたし、その庭から見える谷の風景はノスタルジアに出てくる思い出の風景に似ていた。それは鏡の風景にも通じるものがあった。この映画の本題とはまるで関係なさそうな母親と妻との葛藤の話題も、そしてその二人が似ているのも、鏡の中で描かれるのと同じだ。

つまり、タルコフスキーという監督は極めて個人的なことを、作る映画の中に押し込んでいて、それが普遍性をもつように作っているのである。

全くむちゃくちゃな連想だが、この極めて個人的なことを作品に込めて、それが普遍性をもつ、誰もがそれを自分のことのように感じるようにできる点で、友川カズキを思った。

至福の数時間だった。



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地球が滅びるときに見ていたい映画

2017.03.14.23:59

いやぁ、忙しくて、その忙しさに輪をかけたのがスマホ購入。ずっとガラ携だったんですが、先週末1日潰して変えたんですよね。そしたらその日の夜から忙しくなって、何も手につかず、メールも送れないまま、というかアップルIDも取得できないまま。。。やれやれ、どうなるんだ??

というわけで、そういう忙しい時にはあえて、表題のようなことを書いてみようというわけで、私の一番好きな映画は何?と言われたら即座に、タルコフスキー監督の「鏡」です、と答えます。最初に見たのは1980年の6月。岩波ホールでした。最初に見たときはなんだかよく分からないけど、やたら綺麗だった、という感じでした。風と土と水、そして何より火がこれほど意味ありげに出てくる映画はないでしょうね。

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タルコフスキーは、その前に「惑星ソラリス」を見ていて、これもまた不思議な雰囲気の映画なんですが、これは原作を先に読んでいて、映画ではラストが全く違い衝撃を受けました。その監督が作った映画ということで、かなり気合が入っていたと思います。

一度見て、なんかよく分からないと思いながら気になって気になって、一週間経たないうちに、当時よく一緒に映画を見ていた友人が見に行くというので、じゃあ、俺ももう一度見る、とついて行ったのでした。

二度目に見たとき、台詞の中に「リヴャートキン大尉の姉でスタヴローギンの奥さん」という言葉に、たまたまその少し前に読んだばかりのドストエフスキーの「悪霊」の登場人物だ、ということがピンときて、この映画には、ただぼんやりと映像美といって済ましてはいけない、かなりたくさんの不思議な謎かけがある、と思ったのでした。

冒頭の、映画の中身とは何の関係もないTVを見るシーン、吃音の青年が「私はしゃべれます」という言葉で始まり、最後の「どうにかなるさ」と言って死んだ(?)スズメを投げ上げると生き返って幼年時代の故郷へ飛んでいくシーンまで、冒頭のバッハのオルガンコラールの「古き年は過ぎ去りぬ」から最後の「ヨハネ受難曲」の冒頭の合唱まで、もう今思い出していても、気持ちが高ぶります。

この映画の大きな枠は、「私」という現実には病気で臥せっている男の夢と思い出と想像からできていて、「私」の気分によって夢の中の出来事もいろいろと改ざんされていきますし、思い出もそうなのだと思います。何しろ不思議な映像がたくさん出てきて、いろんな謎解きに誘います。

この映画はビデオなどなかった時期、ぴあという情報誌をいつもチェックしていて、都心でやると必ず見に行きました。多分映画館で20回ぐらい見ていると思います。法政大学の学園祭にまで見に行きました 笑) 今パンフレットを見たら、半券が9枚貼り付けてありましたが、他にもまだ京王笹塚や池袋文芸座などのビラが挟まってました。

IMG_4596_convert_20170315003029.jpg

その後21世紀になってDVDを買ったんですが、これを見たのは結局の所1回か2回か。。。やっぱり映画館で見たいですね。というわけで、地球が滅びるときにはこの映画を見ていたいんですが、地球が滅びるときに映画館が果たしてやっているかどうか。。。

1984年、タルコフスキーが亡くなり、それとほぼ同じ頃、池袋のデパートの地下にあったスポーツ用品コーナーのエンドレスビデオでツール・ド・フランスの映像が流れていたのでした。5分ぐらいの映像でしたが、その前におそらく2、30分立ち止まったまま、呆然と繰り返し見ていました。今から思えば、あれはアルプスで、ロバート・ミラーだったんじゃないかと思うんですね。華奢な金髪をなびかせたその姿にウットリしましたね。こうして、僕の映画の時代が終わり、自転車に夢中の時代が始まったのでした 笑)

というわけで、タルコフスキーの映画については、「鏡」に限らず、いずれまたもっと詳しくご紹介してみたいと思っています。


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映画「炎628」

2017.01.05.15:30



この映画のことは以前に死刑制度に反対の立場からちょっとだけ書いたことがあったけど、その時は見てからだいぶ経っていたのであまり細かいことまで覚えてなかった。今回見るチャンスがあって見直したけど、ロシア映画らしさ全開の、やっぱりものすごい映画だった。

多分ロシア映画って、古典的な芸術性が常に問われているんだろうという気がする。この映画も戦争のリアリティばかりが強調されているけど、それ以上に、ロシア映画特有の叙情性や、画面の内と、その外で見ている観客の関係を、いわゆる異化効果のように示すようなシーンが印象的だ。

冒頭に見られるような、アップの後頭部越しに写すシーンなどロシア映画ではお馴染みだし(ちなみにここで話されるセリフ、「遊びじゃないんだぞ」はこの映画のこととして考えたい)、走る人を後ろから手持ちカメラで追いかけたり、カメラ目線で語りかけてくるのも非常に印象的である。禍々しい死神のような双胴の偵察機や、不安をかきたてる鶴のような鳥の悠然と歩く姿、あるいは断末魔の牛の目のアップが次の瞬間照明弾の明るい円になるシーン、爆撃で吹き飛ぶ森の木々、跳弾する曳光弾や教会堂に村人を閉じ込めて燃やすシーン、煙たなびく村、そしてロシア映画特有の森林。そのどのシーンもが、叙情的であるとともにものすごく美しい。

ところで、初めて映画館で見た時から、気になっていたのはナチスの残虐行為に加担するロシア語を話す連中のことだった。ナチスが、占領した地域のファシストたちを大量虐殺の実行者として雇い、彼らはそれをドイツ人以上に熱心に行ったという話を幾つかの本などで読んでいたから、これがそういう奴らなんだな、と思っていた。

ところが、最近読んだティモシー・スナイダーの「ブラッドランド」と「ブラックアース」で、ポーランド東部からラトヴィア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナの地域が、戦争前にはスターリンによって意図的に飢饉が引き起こされ、餓死させられた。同時に、その地で我が身を守るために、ポーランド系市民や反ソ分子と目された人々の殺害に加わった連中が、今度はナチスに占領された時には、やはり我が身を守るためにナチスの元でユダヤ人虐殺に積極的に加わったということを知った。つまり、ドイツとソ連に挟まれた地域はソ連による飢饉やソ連秘密警察による虐殺が横行した時代にはドイツ軍がソ連に攻めてくることを願ったが、実際にドイツ軍がやってきたら、もっとひどいことになったわけで、ナチスにもソ連にも希望が見出せないひどい場所だったわけである。彼らの多くは決してファシストだったわけではなかった。





拙ブログで何度も繰り返してきたクレヨンしんちゃんのパパのセリフ、「正義の反対は悪ではない、別の正義だ」を借りれば、「悪の反対は正義ではない、別の悪だ」だ。うん、なかなかいい文句を思いついた 笑)

ソ連製の対ファシズム戦争映画というのは、例えば「ヨーロッパの解放」なんていう5部作ぐらいの映画もあるが(中学の時、クラスの戦争映画好きが集まって7、8人で一緒に見に行ったもんだった)、そこには祖国を裏切ったソ連人は出てこない。他のこの種の映画でも、ソ連の人間たちは皆、ファシズムに雄々しく立ち向かったことになっている。ある意味、ジョン・ウェイン映画と同じ単純さ。

その点、以前ちょっと触れたゲルマンの「道中の点検」は、ドイツ軍に寝返った後に再びソ連軍に戻ってくる男の話だった。だからこそ、長い間上映禁止になったのだろう。つまり、ソ連の権力者たちにとってはナチスのために働いたソ連人がいては都合が悪かったし、一方で、実際にナチスのために働いたソ連人にとっては、それをなかったことにしたい。そういう点で利害関係が一致した、見事なうぬぼれ鏡としての国策映画が出来上がる。

ところで、監督のエレム・クリモフという人は2003年まで生きていたのに、1985年のこの映画を最後に映画を撮っていないのが不思議である。そもそもが劇映画としては「ロマノフ王朝の最後」と「別れ」とこの「炎628」だけ。「別れ」は大昔NHKでTV放送したことがあった。ダム建設に反対する村人たちの話だったように記憶している。手持ちカメラが激しく動き、やたらとゴウゴウ火が燃えて、俳優たちの表情豊かな顔のアップが多く、その点では「炎628」と似ていた。

もう一つの「ロマノフ王朝の最後」も今は無くなってしまった巣鴨の三百人劇場で見た。こちらも確か公開差し止めか何かで、ソ連国内では上映されなかったんだったと思う。ロシア帝政末期の皇帝ニコライとその妻に取り入る怪僧ラスプーチンの話で、ものすごく立派な堂々たる映画だった。特にラスプーチンが殺される凍結した川の上のシーンは結構はっきり記憶にある。

上映できなかったのは皇帝ニコライが憎い圧制者ではなく、妻やラスプーチンに何か言われると、逆らうことも怒ることもできない、ただの気弱な泣き虫の男として描かれていて、見ている方が同情してしまうからだったんだろう。そういう監督だからこそ、「炎628」みたいな叙情性豊かでありながら、作る方も悪魔にならなければ作れそうにないような冷徹で残酷な映画が作れたんだろう。そういう意味ではこの監督の撮った映画をもっと他にも見たかった。

しかし、正月早々こんな映画の紹介かよ、という声も 笑)



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現代ロシア版「名探偵シャーロック・ホームズ」

2015.06.02.00:23

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これもまたスカパーのミステリーチャンネルで録画しておいたものですが、以下、かなりネタバレしています。

前にもロシア版ホームズ「シャーロック・ホームズとワトソン」の話は書いたけど、今度のは2013年制作というもの。1時間45分番組8本という構成で、前のに比べて原作からはかなりはずれている。

例のカンバッチみたいな名前の非人間的な顔立ちの 笑)ホームズシリーズもかなり無茶苦茶なおもしろさで、原作の事件にかなり大胆な改変(ほとんど別物とも言う)が施されているけど、こちらはあそこまでムチャクチャにはしていないにしても、やっぱり原作からはちょっと遠い。ただし、元々はこれが真相だけど、それをワトソンがあのような物語にして発表したのだという設定はおもしろい。ワトソンと編集者のやりとりも結構笑える。

冒頭毎回ワトソンが書くスケッチつきの原稿のアップで始まるが、なによりもこのワトソンが魅力的。ホームズが30代前半ぐらいの若造で乱暴で大酒飲みで素人っぽいのに対して、ワトソンは50ぐらいのシャイな医者。ただ、ホームズの横暴さにふてくされたり、あからさまに不機嫌な顔をしながら我慢したり、時には無表情のままキレる。そうするとボクシングの練習をつけるという名目でホームズをボコる。そう、ワトソンは銃とボクシングの名人なのだ。

また、原作では無能のくせに気位ばかり高い嫌な奴という印象のスコットランドヤードのレストレード警部がむちゃくちゃ個性的な顔立ち。ホームズの顔は忘れても、このレストレードの顔は忘れないだろう。しかも原作ほどトンマではない。また、ホームズもそんなレストレードをぎゃふんと言わせるほどのことはできない。単にホームズの兄のマイクロフトが政府要人なので下手(したて)に出ているだけ、という感じである。このレストレード、第6話では大活躍(?)して、最後は逆上、とんでもない奴である 笑) 兄のマイクロフトが最初に出てくるときはずっと後ろ姿なのも、最終話になって初めて意味がわかる。

さらに女性たちがまた原作と違う。まず下宿の女主人のハドソン夫人はお婆さんではなく40ぐらいのきれいな女性で、ワトソンに色目を使い、最終的にはワトソンと結婚する。一方、原作ではホームズがただ一人敬意をはらって「あのひと」と呼んでいたアイリーン・アドラー。この美女がなんと、ホームズと過去に恋人同士だったという設定、というよりも、ホームズが手玉に取られたと言ったほうが当たっていそう。そしてすべての事件の裏にモリアティがいる。

繰り返しロンドン塔とウェストミンスター宮殿が遠景で出てくるけれど、でもやっぱりなんとなくロシアの雰囲気があるし、ワトソンがアフガニスタンへの従軍医師だったこと関係があるのかもしれないが音楽がちょっとイスラム風。

あちこちに挟まったユーモアも上品で面白い。偽名でベイジル・ラズボーンと言ったりする。最後の回は「バスカヴィルの犬」という題名なので、例の有名な話だろう、どんなふうに脚色しているんだろうと思えば、見事に肩すかしを食らう。前回のソ連時代のホームズもかなりのレベルだと思ったが、これもかなりレベルが高いと思う。ただ、残念なことにワトソン役の俳優は亡くなってしまったので、続編はたぶん作られないんだろう。



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再び映画「神々のたそがれ」

2015.04.10.21:53

なんとか時間を作ってもう一度見てきた。リピーター割引で300円引きだった。今回はパンフレットでかなり本気で予習していって、ストーリーはある程度理解した上で見たんだけど、それでも映像に振り回されて、大きなストーリーを忘れちゃうんだよねぇ。特にあの長回しのカット。ハリウッド映画だったら3秒で終わるシーンを3分ぐらいかけているからね 笑)

地球より800年ぐらい遅れた惑星が舞台で、そこに地球から派遣された人間がその惑星の住民に混じって生活している。彼は住民に比べて地力腕力ともに優っていて、住民からすれば神のような存在なのだけど、その力を行使して住民たちを善導しようとはしない。その惑星の社会はポルポトのカンボジアみたいにインテリたちや本を読む者たちは次々に絞首刑になっていく。そのための虐殺舞台は「灰色隊」と呼ばれているんだけど、それが途中ナチスの突撃隊みたいに、黒服の僧侶たちの部隊によって粛正されてしまう。そんなことがあっても地球から派遣された、この惑星では「神」のような力を持った主人公は出来事に干渉しないが、最後に恋人を殺されて怒りにまかせて僧侶たちの部隊を皆殺しにしてしまう。最後、主人公は地球に帰ることをあきらめて、雪原の中を子供の手を引きながら歩いて行く。

つまり、キューブリックの「2001年宇宙の旅」では、人類が人類よりも遙かに進化した「神」のような異星人に導かれる話だが、ここでは人類が遅れた異星人たちに採って「神」のような存在である。そして、最後に「神であることはしんどい」と言うのである。

だけど今回ストーリーを予習した上で見て、やっぱり思うのは、これは細かいストーリーなんかどうでもいいんだろうな、ということ。人類の歴史はこのように計り知れないほど愚劣で悲惨で血なまぐさく汚濁にまみれ死屍累々たるものなんだ、ということだ。糞まみれ、泥まみれ、血まみれ。それは過去の歴史だけじゃなくて、今も続いていることなんだろう。



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映画「神々のたそがれ」

2015.03.24.22:14



これほど魅力的で圧倒されたのに、筋がまるでわからなかった映画も珍しい。白黒でリリカルでありながら、描かれているのは泥や血や肥だめ、糞尿、死体、はては内臓。登場人物はやたらと鼻を啜り痰を吐き、つばを飛ばし嘔吐し、血を吹き出す。そこいらに転がっているがらくたなどのオブジェも、室内でぶら下がっているものも、絞首刑になってつり下がっている死体も、その他の動物の死骸も、生きている男も女も、泥やら得体の知れない液体を体中にまとわせ、食べているものまでかなり気持ちがわるい。カラーだったらみんな映画館から出てしまうだろう。顔にぬったくられている泥のせいで誰が誰だか判別が付かず、最後まで意味が分からなかった。なのにこれだけ画面に魅了された映画も記憶にない。

一応上のトレーラーの解説にもあるようにSF映画で、泥などの不潔感を除けば、宮崎駿の「ナウシカ」実写版みたいなメカメカしたところや装束もある。

監督はアレクセイ・ゲルマンといい、この人の「道中の点検」というソ連時代に上映禁止になった映画を、ぼくは80年代後半(ペレストロイカで解禁されて)300人劇場で見ている。この映画、15年も上映禁止だったというので、どれだけ凄いことをやっているのかと思ったら、独ソ戦線でドイツ軍の捕虜になり、スパイになってソ連軍にもどって、やっぱりスパイをやめてソ連軍のために戦うという男の話で、ごく普通の戦争映画だったので拍子抜けした記憶がある。

道中の点検 アレクセイ・ゲルマン監督 [DVD]道中の点検 アレクセイ・ゲルマン監督 [DVD]
(2015/03/27)
ロラン・ブイコフ、ウラジーミル・ザマンスキー 他

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DVD,現時点(2015年3月24日)ではまだ予約中ですね。きっとこの映画の公開に合わせたんでしょうね。

ただこの「道中の点検」でもそうだったが、今回も長いカットが多い。その長さはちょっと緊張感があって疲れるほど。それと登場人物たちがカメラに向かってのぞき込んだり、手を振ったり、手に持っている物を見せたりする。主役たちがやりとりしているところへ、突然カメラの前をエキストラが横切る。しかも横切りながらこちらを見る。当然主役たちのやりとりはさえぎられて見えない。

最初カメラは主人公の視線なのかと思ったのだが、そうでないことはすぐに分かる。こういう実験的(でありながら、つまらなくはない)なやり方はロシア映画ではよく見る。例えばカネフスキーという監督の「動くな、死ね、甦れ」という映画のラストはあまりにぶっ飛んでいた。子供に死なれた親が狂乱状態になるのだが、監督の(?)声がカメラの外からかぶって、なんなんだ、これは?と思ったものだった。もっと穏健なところでも、カメラに向かって登場人物が話しかけてくるのなんて、たしかニキータ・ミハルコフの「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」でもあったような気がするし、タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」でもそれに近いシーンがあった。要するに画面の中だけで映画の世界が完結していないということなんだろうと思う。

きっともう一度見れば、もっといろんなことが分かるだろうと思うんだけど、もう一度3時間映画館に座っているほどヒマじゃないのが残念。これを お読みの方も、見る以上はそれなりの気合いを入れてからじゃないと、1800円無駄にします 笑) でも、気合いを入れて見れば、このぐちゃぐちゃでグロくて汚くて猥雑な叙情性を気に入る人もいるんじゃないでしょうか。 なんとなくうろ覚えだけど、ボードレールの詩に「腐肉」とかいう道端の死骸を描いた「美しい」詩があったはずで、そんなのを連想しました。


いずれにしても、やっぱりソヴィエト・ロシア映画は面白い!



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ロシア版ホームズ

2014.06.13.17:38

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を見たくて契約したミステリーチャンネル、なんとベイジル・ラスボーンの白黒ホームズとロシア版のホームズまで放送してくれて大感激。とくにロシア版のホームズはすごかったです。ロシア語をしゃべって、ミスタル・ヴァトゥスン、ミスタル・ホルムズと呼び合っているし、町中の様子も風景も、どうみてもロシアだろう、っていうのはおいといて、主演の二人がほんとうにホームズとワトソンにしか見えない。

たしかに歴代のホームズもワトソンもみんなホームズとワトソンにぴったりの訳者ばかりなんですけどね。上記の戦前のラスボーンのホームズも、長身痩躯で顔の皮の薄そうな、鷲鼻のオールバックで、とても品がよさそう。ただねぇ、ナチスのスパイの陰謀を暴くホームズってちょっと無理がない?? 

初めてNHKで放映されたときには、こんな俳優がいたんだ!まるっきりホームズじゃん!と思ったグラナダTVのジェレミー・ブレットも確かにすごいんだけど、ちょっと年齢がねぇ。

と偉そうに言いながら、ぼくはいわゆるシャーロキアンではない。ホームズは我が家に新潮文庫で全部あって、高校時代に一度「緋色の研究」を読み始めて、途中まで読んだけど、後半は挫折。その後1年ぐらいして、やっと一気に全巻読んだけど、読んだのはそのとき一度だけ。ジェレミー・ブレットのドラマで見るまでは「まだらのひも」以外は内容をほとんど忘れていた。だけど、ホームズの印象って、やっぱり40歳ぐらいまでっていうイメージがある。ジェレミー・ブレットは50ぐらいになってからホームズに取り組んでいるので、その点にちょっと不満。

他にもこのところNHKでやっている現代版にした「シャーロック」っていう奴。僕の好みはやっぱり19世紀末のロンドンのホームズじゃないと嫌なので、録画はしてあるけど見てないんだわ。

で、このロシア版ホームズに戻ります。例によって、この時代のロシア映画特有の緑が勝った画面。ロンドンの雰囲気を出そうとしているけど、やっぱりロシアだよ。モリアティ教授との決戦の場ライヘンバッハの滝も本物じゃないし、そこへ行く途中の列車からの風景がロシアの草原と林だ。ロンドン郊外の村も、あの泥道はどう考えてもロシアでしょう。室内の暗い雰囲気だって、ありゃあロシアだよ。ロシア映画をいくつか見た人なら納得すると思う。

そんななのに、このロシア版ホームズ、素晴らしいんですよ。ホームズ訳はリヴァーノフという俳優で、ブレットやラスボーンに比べると品位の面でちょっと落ちるかなぁ。ファウスト・コッピに、天知茂の眉毛と目を組み込んだみたいな顔で 笑)ダミ声なんだけどね。ところがこのドラマが出来が良い。ホームズの話をいくつか組み込んであって、「ボヘミアの醜聞」なんか思い出のなかで再現されたりする。ワトソン役もラスボーン版もブレット版もこのロシア版もみんなよく似ていて、甲乙つけがたいけど、このロシア版のは他のより重要性が高い。他のワトソンがホームズの邪魔にならないようにしている感じなのに対して、ここではもう少し前面に出ている感じがする。

敵役のモリアティ教授もクモ男みたいで、これがまた凶悪な感じでいい。「バスカヴィル家の犬」ではタルコフスキーの「鏡」と「ノスタルジア」のオレーグ・ヤンコフスキーとニキータ・ミハルコフが出てきてビックリ。だけどミハルコフのあの騒々しさはやっぱりご本人が監督した「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」みたいなところがあって、ちょっとやり過ぎじゃない?と思ったりもしたけど。

いずれにしても見終わってしまって、なんかもう新しいのがないんだと思ったら、とても悲しい気分になった。それぐらいこのロシア版ホームズとワトソンには参っているところです。まあ、僕の場合、ロシア映画ヲタクだった時期があって、あの緑の勝った画面が大好きだっていうこともあるので、その点、多少点数が甘いかもしれませんが。

追記
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こんな本があったので思わず購入 笑)



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ソクーロフの映画「ファウスト」覚え書き

2012.06.28.08:16



ソクーロフという監督、ぼくは日本で初めてこの監督の作品が上映されたのを見た。「孤独の声」という映画で、プラトーノフというソ連の20世紀前半の作家の短編小説の映画化だった(これと全く同じ原作をもとにした映画に「マリアの恋人」という映画があった。これも良い映画だった)。精神的な苦しさをゴミ処理場で働く主人公のスローモーションで繰り返しあらわしたり、途中に全く無関係の、池の中に楽園があると信じて潜る男の話が入ってきたり、主人公が必死に走るシーンをむちゃくちゃアップの表情であらわしたり、ヘンなことをたくさんやっている、でもとても抒情的な映画だった。その後も昭和天皇をテーマにした「太陽」なんてヘンテコな映画もあったっけ。

冒頭、たぶん原作の天上で神様とメフィストが賭をするシーンの視覚的な暗示なんだろうけど、中空に鏡が浮かび、そこから鳩のような布きれが風に吹かれて飛んでいき、いかにも作り物のような海辺の都市へ落ちていく。

そして始まるシーンからして人体解剖のまがまがしい、毒々しいグロテスクな、かなり気持ちの悪いシーン。ところが、その一方で町の中央広場の風景などはロマンチックでなんとも魅力的。全体的にもとてもリリカルな感じのところと、えらくグロテスクなところとが交互に出てくるような映画だ。町の中の猥雑な雰囲気に対する町の外の自然の、フリードリヒの絵のようなロマンチックな雰囲気。

悪魔のメフィストフェーレスは、この映画では高利貸しの老人で、これがむちゃくちゃ気持ちが悪い。上のトレーラーではちょっとその気持ち悪さがわからないけど。原作のメフィストのような小賢しげな慇懃無礼な感じはなく、猫背の見るからに嫌な感じの老人。そしてこの老人が最初に出てくるところで、画面がゆがむ。文字通りグニャっていう感じでいびつな画面になる。その後も時々そういう画面になることがあるんだけど、ファウストがグレートヒェンに欲望を感じるときとか、グレートヒェンの母親がメフィストから金を受け取るときにゆがむ。文字通り邪悪とか悪意とか、そんなものが現れたシーンがゆがむんだろうと思うんだけど、かなり頻繁にゆがんだから、ほんとにそれだけなのかは、わからない。

わからないと言えばわからないことだらけの映画だった。ハンナ・シグラという、かつてのドイツ映画のニューウエーブの時代に持てはやされた女優がやった高利貸しの妻(=メフィストの妻)というのも、なんだかよくわからない。ファウストが殺したグレートヒェンの兄の葬儀でファウストが彼女の手に触れるシーンでの、グレートヒェンの表情も、あれは何だったんだろう??嫌悪の表情だと思ったんだけど、その後の展開を見るとどうやら違うみたい。最後のシーンも、死者の国(?)でファウストはメフィストをボコボコにして一人で歩み始めるが、グレートヒェンが天から「どこへ行くの」と言うと、ファウストは「あっちだ、もっと先へ」と言って、画面は引いていって終わりになる。原作の、かつてグレートヒェンと呼ばれた「永遠に女性的なもの」がファウストを天上に引き上げていくなんていうのは、たしかにワグナーの楽劇みたいで男に都合がいい話だから、そんなエンディングにはしないだろうとは思っていたけど、それにしても、なんだかよくわからない。

上のトレーラーでもわかるように、全体的に暗いし、町中のシーンも色彩を抑えた渋いトーンだが、教会のなかはやけに真っ白だったりして、不思議なコントラスト。部屋の中のシーンはタルコフスキーの映画です、といわれても、ああ、そうかも、と思えるような壁の陰影。また、ファウストがグレートヒェンを抱きしめそのまま池の水の中に沈むシーンのやたらリリカルな雰囲気。なんだか訳わからない、嫌悪感と叙情豊かなシーンが混在していて、特に複数の人が絡むシーンの、へんに密着し合うような絡み合うような猥雑な感じが気色悪い。人造人間のホムンクルスもむちゃくちゃ気持ち悪いし、それを作ったのが弟子のワーグナーと言うことになっているんだけど、こいつもなんとも気色悪い奴だった。それからグレートヒェンの家の様子を窓からうかがっているのは、あれは死神か?? これまたむちゃくちゃ気色悪かった。

退屈だったかと言われると、うーん、しかし、じゃあおもしろかったか、と言われると、これもまたうーん。ただ、いろいろ忘れられないシーンもあることは確か。好きか嫌いかで言えば、好きな映画です。

あちこちで原作の中の台詞が唐突に出てきたりするし、ゲーテの「ファウスト」を読んでいたほうが楽しめるでしょうけど。。。


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映画「12人の怒れる男」(ロシア版)

2010.05.05.17:09

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例によって、スカパーのシネフィル・イマジカで録画しておいた奴を昨夜見ました。少なくとも筋に関しては、なるべくネタバレしないように書いたつもりですが、シドニー・ルメットのアメリカ映画の方も見てないなら、そしてこれから見るかもしれないのなら、この先はパスしてくださいませ。

元祖と比較しなければならないものではないのだろうけど、ラストが両者の違いを明瞭に表しています。元祖のほうはヘンリー・フォンダとジョゼフ・スウィニイが、夕立があがった初夏のさわやかな夕方、裁判所の立派な階段を下りながら、互いに敬意に満ちた面持ちで別れを告げるのだったと記憶しています。一方ロシア版では、それまで何度かリフレインのように繰り返されながら、途中で切れていたシーン、土砂降りの中を野犬が走ってくるシーン(被告の少年の記憶か心象風景でしょうが、野犬が何をくわえているかがここで初めてわかります。あれって黒澤明の「用心棒」のオマージュかな?)をはさみ、ヘンリー・フォンダに対応する陪審員が一人会場に戻って、室内に紛れ込んだ雀を外へ出すために窓を開けると、窓の外は吹雪です。

監督のニキータ・ミハルコフは最初の作品「光と影のバラード」や「愛の奴隷」、「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」や「オブローモフの生涯より」を、公開当時に見ているんだけど、ヴィキペディアで調べると、その後もずいぶんたくさん映画を撮っているようですね。しかし、80年代中頃から映画館へほとんど行かなくなってしまったから、その後のものはなにも見ていないんですわ。当時、ロシア映画をよく見ていて、このミハルコフは他の監督たちとは違って、やけに饒舌で、きまじめなのに、どこかすっとぼけたような映画だと思ったもんです。

しかし、みんな相変わらずよくしゃべるねぇ。ロシア人ってあんなに自分のこれまでの人生を赤裸々に他人に話したがる人種なのか?そういやぁ、ドストエフスキーのマルメラードフもべらべらとようしゃべったっけ。しかしそうした自己吐露から、際だってくるのは、多民族国家であり、急激な資本主義の導入による格差社会と、相も変わらぬ官僚主義的なロシア社会の現状であり、その中で一番の問題はチェチェン問題であることがわかるような仕組みになってます。

でも、そうした饒舌な感情的な主張から、何人かの人たちが、有罪から無罪へ意見を変えます。このあたりの理屈以上に感情に偏ったやりとりが、陪審員としての冷静な判断といえるのか、ややあまいと言う気もします。そもそも元祖でもそうですが、凶器と同じナイフを購入したのなら、どうして最初からそれを見せないのか、筋としては少しずるいという気がするのですがね。

元祖にかなり忠実に、陪審員たちは徐々に有罪から無罪へと意見を変えるが、特にもっとも説得力を持つ根拠の一つとして取り上げられるのは元祖にはない、しかし、如何にも現在のロシアらしい推理です。この点で、元祖は被告の少年が本当に無罪なのか、一抹の不安を感じさせないでもない。でもこちらはこの推理はかなり決定的で、おそらく被告の少年は無罪なのだと確信できます。また、元祖ではリー・J・コップが最後まで頑強に有罪を主張しながら、ついには自分の子供との葛藤を被告の少年に投影していて、それを泣き崩れながら認め、ついに全員無罪と決定するのですが、こちらはコップに対応する役が結構簡単にそれを認めてしまう。そしてそれからが、元祖と決定的に違ってくる。こうした結末を見ると、元祖のほうにも、ここで語られる推測が当てはまるのではないのか。。。。おっと、これ以上言うとネタバレになるのでやめます。

いずれにしても、とたんにみんな及び腰になるのは、見ている我々にだって跳ね返ってくるんですよ。

元祖のやけにすがすがしい「あっぱれ!」とかけ声を掛けたくなるような(でもこのロシア版を見た後では、実は欺瞞が内包されていることに気づいてしまうんだけど)映画がいいのか、それともこのロシア版のようないわゆる考えさせる映画がいいのかは好みですね。

考えさせるところがあった方が高等だと思いがちだけど、そして、僕自身もそういう映画を好んで見てきたんだけど、でも、この映画の陪審員の立場という意味ではなく、一般論として言うのですが、考えさせられる映画を見たからといって、現実の行動に移せるかどうかは別の話ですからね。ここに出てくる陪審員たちと同じで、やっぱり誰でも及び腰になっちゃいますよ。

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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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