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平野啓一郎「死刑について」

2022.08.11.13:59

IMG_6041.jpg



拙ブログではこれまで何度も死刑制度反対の立場で書いてきた。カテゴリーの「社会」のサブカテにも「死刑制度」があるので、興味があれば見てください。

この本に書かれていることで印象に残ったのは、「死刑制度があることが前提になっている社会と、ないことが前提となっている社会とでは、人々の考え方が違ってくるはず」(p.56) ということ。「もし死刑制度が存在せず、最高刑が、たとえば終身刑であれば、必ずしも死刑を望むわけではない、という人たちもいるのではない」(p.56) か? これは多分そうなんじゃないかと思う。

イギリスもフィリピンも死刑廃止前の死刑支持率調査では8割を超える国民が死刑制度を支持していたのに、政治決断によってこの制度を廃止した。そして廃止後の死刑を望む声は以前よりも小さくなったそうである。「国家として市民を殺さないという原則ができると、それが前提となるので、深刻な犯罪が起きても、死刑にすべきだという発想自体が出てこない」(55)というのである。

他にも上手い言い回しだな、と感じたのにこんな文章がある。加害者の生育環境が酷かったという例は、最近の安倍射殺事件の犯人もそうだが、古くは永山則夫とか光市の母子殺人の犯人など多数の例があると思うが、「本来なら、そういう状況に置かれている人たちを、私たちは同じ共同体の一員として、法律や行政などを通して支えなければならないはずです。しかし、支えられることなく放置されて(。。。)重大な犯罪が起きたら死刑にして、存在自体を消してしまい、何もなかったように収めてしまうというのは、国や政治の怠慢であり、そして私たちの社会そのものの怠慢ではないでしょうか。(p.37)

結局今のような自己責任を言い募り、格差拡大を促すような社会だと、死刑廃止論など支持されない。でも、この本で言われている「優しい社会」ができれば、死刑廃止論は支持されるようになると思う。また、逆に政治決断で、世論調査がなんと言おうと、死刑制度を廃止できたら、それが突破口となって社会は優しくなるのではないか、そんなふうにも思う。

だけど、今のような、権力者たちが「優しい社会」を憎む勢力に支えられ、支援されているような状況では、永遠に死刑制度は続くだろう。


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植松死刑囚の闇

2021.01.05.23:29



年末にこんな本を読んでいた。

神奈川新聞取材班と朝日新聞取材班のものだけど、裁判経過や面会での話し合いなど重複しているところも多いし、神奈川新聞の方が問題の深め方が上だと思うのでこちらがお勧め。こっちを読んだら朝日の方はスルーしてもいいかも。

しかし強烈な既視感に襲われた。

● 物事を単純化してわかった気になり、これまで人々が積み上げてきたものを一言でひっくり返すような謀略史観的な妄想に取り憑かれる。
● 何とかの一つ覚えのように、同じことを言い続け、全能感に浸って、反論されてもそれに対して考えを深めて再反論しようとはしない。
● 自分の考えを否定する者は敵なのだ。だから議論にならない。

拙ブログにいまだに時々コメントしてくるネトウヨ諸氏にも見られる特徴だ。だから僕は以前にも書いたけど、「蟲」に取り憑かれた彼らと論争しようとしても不毛で、必要なのは「お祓い」だと思うのだ。

特に植松死刑囚が崇拝する人物の名前に安倍晋三、トランプ、プーチン、高須克弥医院長の名前がずらずらと出てくると、もうこちらもわかった気になって、ああ、なるほど、と思えてしまう。つまりネトウヨ的思考回路なのだ。ただ、彼の場合、憎悪の対象が韓国や中国ではなく障害者だった。

ただ、それでも、その、彼なりの信念に基づいて殺人を実行できてしまうというところに異常性を感じるわけだけど。つまり、一般のネトウヨにできるのはツルんで警官に守られながらデモ行進して罵声を浴びせるところまでで、実際に殺人事件を起こした話は聞かない。だからそういう点で特異な事件だったと思う。

でも、これは現代の社会が作り出したものなんだろう。

「社会の役に立たない重度障害者を支える仕事は、誰のためにもなっていない。だから自分は社会にとって役に立たない人間だった。事件を起こして、やっと役に立てる存在になれたんです」(神奈川新聞版 p.105)


彼が記者に向かって拘置所で語った言葉だ。社会にとって役に立つか立たないか。しかし役に立つってなんだ? 誰だってそのぐらいのツッコミ入れられるだろう。


少し前に「シンドラーのリスト」という映画をNHKのBSでやっていた。名高いこの映画は公開当時見てて、それなりに衝撃的・感動的だった。でも、今回見直して、後半のシンドラーがどんどん良い人になっていくのに違和感を感じ、所々にハッとするようなシーン(例えば有名な赤いコートのパートカラーや、地獄落ちを覚悟した収容所長アーモン・ゲートの造形)があるのは認めながらも、ラストの、「もっとたくさん救えたのに」という台詞でしらけた。「浅い」という印象を持った。

それはともかく、今回見てて一番心に残ったのは、ユダヤ人たちが集められ、戦争のために役に立つ特殊技能がある者はブルーカードを得られて、収容所送りを逃れることができるというシーン。一人の男がブルーカードを拒否されて、「なんで私が役に立たないなんて決め付けるんだ、歴史と文学の教師だぞ、それが役に立たないだと?」と言うのだった。


まるで今の日本の状況だ。人文科学系の法学や歴史学の立派な業績のある学者たちを学術会議から締め出した菅のやり口を連想したのはもちろんだが、同時に役に立つって一体どう言うことなんだろう?と思う。ましてや、役に立たないなら排除してしまえという短絡。

「できる、できない」で人を評価することにどれほどの意味があるのか。何かができないとされることで自己肯定感を持てずに苦しむ人を増やしてしまっていないか。逆に、何かができないとされる人を排除することをなんとも思わない人が出てきていないか。その一人に見える植松の姿からは、弱い立場の人を貶めて自分の存在を保とうとする自己肯定感の低さを感じざるを得なかった。(同上 p.305)

そしてもちろん拙ブログでも前々から言ってきたように、役に立たない(と彼が考えた)ものを排除した植松死刑囚を役に立たないと我々が断を下して排除して良いのか? 排除すべき命が、本当にあるのか? 僕が死刑制度に反対する理由はいろいろあるけど、結局ここに行き着く。

これは当然出生前診断の是非につながるとともに、できるできないの能力主義が優生思想の土台にあるとするなら、現代の社会の問題でもあるし、「個人の能力をひたすら伸ばす」(p.361)ことに血道を上げている現代の教育の問題にもつながる。神奈川新聞版はそこまで深めている。

個人的には安易に答えを出す必要なんかないと思うけど(だいたい簡単に答えを出したいと考える風潮こそ危うい)、こうして芋づる式に繋がってきた問題を考えてみることは大切だと思う。


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相模原事件の判決について

2020.03.17.17:49

拙ブログでは何度かこの事件について書いた。

今回の大量殺人事件について
今回の大量殺人事件について(続き)
今回の大量殺人事件について(その3)
今回の大量殺人事件について(その4)
立岩真也・杉田俊介「相模原障害者殺傷事件」覚え書き
「開けられたパンドラの箱」感想

昨日判決が出た。犯人自身は自分は良いことをしたのだと言い続け、トランプや安倍ならわかってくれると思っていたようだし、今も思い続けているんだろうと思う。

こういう強い思い込み、自分が死刑になる可能性が高いのにそこから逃れられないのって、ある種の「才能」だと思う。「強い思い込み」という言葉を使ったけど、これが例えば先日ここで紹介したテレンス・マリックの映画「名もなき生涯」なら「信念」という言葉になるだろう。今回のように「強い思い込み」から人を次々と殺す一方で「信念」から自らの命を捨てる。これって同じコインの裏表のような気がする。無論やったことがまるで真逆だから、こんな言い方をすると怒る人も多いだろう。ただ、どっちにしても僕にはこんな強い「思い込み」も「信念」もない。普通の人にはないだろう。そういう意味である種の「才能」だと思うわけ。

でも、この「才能」がどっちに向くかはいろんな要素が働くんだろう。今回の犯人の場合は今の社会を覆う雰囲気が大きく影響したんだろう。つまり今の社会、自己責任を言い募る社会(その実、権力を持つものたちは口先ばかりで責任を取ろうとしない)、人間の価値を生産性とか経済効率で語りたがる社会、こういう社会が犯人を生み出したんだと思う。

そういう社会の中で、山本太郎が言うように、自分が役に立つところを見せようとして、役に立たない(と彼が思いこんだ)人たちを殺したのが犯人だった。

だから、障害者を排除して日本の財政負担を軽くするべきだと盲信した馬鹿な犯人を死刑によってこの世界から排除しても社会は変わらない。排除の連鎖を断ち切らなければ、世の中は変わらない。


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自らのザマアミロ感を憎むこと

2019.12.20.22:35

昨日の山本太郎と死刑制度の話をFBの山本太郎応援グループにアップしたけど、まあ、これについては評判悪いですね。昨日も書いたように、この質問って地雷かも、と思っていたし、逆に死刑制度廃止を主張する人たちが山本太郎を利用していると言われる可能性もあるな、と思ってはいたけれど。。。

そして、僕がグループにアップしたら早速「あなたの子供が殺されても死刑反対と言えますか」と書いてきた人がいたので、こちらもいつものように「あなたの親が無実で死刑になっても死刑賛成と言えますか」と混ぜっ返したら、まあ、ものすごい怒り方。そもそもがなんでそんなに怒るのか、僕には理解できない。

以前にも書いたけど、酒の席でポロっと一言、冗談めかして、笑いながら、僕は死刑制度反対ですから、と言ったら、正面に座っていた人がものすごい勢いで「あなたの子供が殺されても云々」と、上で書いたのと同じことを言い出し、こちらは場も場だし、簡単にいなそう、冗談にしてしまおうと思ったのに、猛禽類が獲物に飛びかかるかのような勢いで、本気で腹を立てて食いついてきたことがあった。その人も普段は安倍を嫌っているリベラルな人だった。

このブログのコメントでもそういうことがあった。なんでなんだろう? そういうことを言う人が、本当に自分の子供を殺された当事者だとしたら、これはもう申し訳ないと謝るけど、仮定の話、想像の話なんだよね。そして死刑廃止を唱えると、それを綺麗事を言うといって腹をたてる。まるでお前の子供が殺されたら、ザマアミロと言ってやるぞとでも言わんばかりの勢い。

結局、このザマアミロというのが今の日本の社会の雰囲気を作っているキーワードなのではないかと思う。遠い昔、このブログを始めたばかりの頃にも書いたことだけど、東京都知事の石原慎太郎が、このザマアミロを体現しているように感じた。そこには何か鬱屈したものがある、何かに対する劣等感のようなものがあると思わせられた。そして彼のそうした鬱屈、劣等感に自らの鬱屈や劣等感を仮託して、一緒にザマアミロと叫んでいる人たちがいるように感じた。

だけど現在、もう石原の支援者たちだけじゃなく、日本人の多くが、右も左も関係なく、何かを叩いて、ザマアミロと言いたがっている。それはなぜか? 山本用語でいうなら、社会がとてつもなく生きづらくなっているからだ。

そして人々が誰かに、あるいはある種のグループに自分の鬱憤をぶっつけている。ザマアミロと言う相手は、例えば「パヨク」(まあ私もその一人でしょう 苦笑)だったり、生活保護受給者だったり、凶悪犯罪者だったり、朝日新聞だったり、リベラルだったり、在日外国人だったり、死刑反対論者だったり、上級市民だったり、金持ちだったり、ネトウヨや右翼政治家だったり、あるいは場合によっては産経新聞や安倍や自民党だったりもする。そう、リベラルな人たちの中にも、このザマアミロという病原菌は蔓延しているような気がする。

だけど偉そうなことを言うつもりはない。この病原菌は人間誰でも保有しているものなんだと思う。間違いなく僕にもある。ザマアミロの気持ちを持たないようにしようなんて言うのは無理だと思う。

僕の人間観はモットーにあるように、悪い人間なんていない、普通の人間がいざとなったら急に悪人に変わるから恐ろしい、と言う漱石の言葉に基づくものだ。だから差別心もザマアミロと言う気持ちも、人間である以上誰だって抱く。だけど、そうした内なるさもしく浅ましい感情を憎まなければいけない。そう思うんだよね。僕のうちなる差別意識の自覚についてはこちら 笑)うちなる差別意識を憎め!


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何度でも死刑について

2018.07.15.13:26

麻原たちの死刑執行で FB などでも、普段安倍の批判をしている人がバンザイの声を上げているコメントを見ることがある。リベラルですらこんな調子なんだから、ネトウヨで死刑制度反対なんていう人は多分皆無なんだろう。

でも死刑存置国ってどんな国があるんだろうと調べてみるとこんな具合(通常の犯罪に対して死刑を存置している国)だ。

アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、モンゴル、ナイジェリア、北朝鮮、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セントキッツネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サウジアラビア、シエラレオネ、シンガポール、ソマリア、スーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、アメリカ(17州は廃止)、ベトナム、イエメン、ジンバブエ。

うーん、名前を聞いてもどこにあるか知らない国の方が多いかも。アンティグアバーブーダとかセントキッツネビスとかセントビンセント・グレナディーンなんて聞いたこともない国だわ(ググるとカリブ海あたりにある島国らしい)。この中で日本人にとって一番馴染みがある国はアメリカと中国(台湾)と北朝鮮だろう。他はイスラム教の国やアフリカの国が目につく。

ついでながら、今回のワールドカップ出場国で死刑存置国はナイジェリア、エジプト、イラン、サウジアラビア、そして日本。アフリカとアジアの国だけだ。ついでにG7の中ではアメリカと日本だけ。G20に拡大すると中国、インド、インドネシア、サウジアラビアが加わる。

先進国で死刑を廃止した後、復活した国はない。数年前には、ノルウェーで80人近くが殺された乱射事件があったけど、死刑復活などという話には全くならない。日本にとっていろんな意味でライバル国の韓国は法律的には廃止していないが、もう20年以上執行されていない。

日本は1980年頃には死刑賛成派は60数パーセントだったそうだ。それが現在では85%ぐらいだろうか? 殺人事件数はどんどん下がっているのにどうしてだろう? 無差別殺人のような事件が増えたからだという人もいるが、それでも殺人事件による被害者数は1980年は1113人、昭和の時代は最後の2年が千人を割っているが概ね1000人以上で、僕が生まれた頃は倍の2000人前後だ。それが2016年の統計だと300人以下。単純に数字を比較してもしょうがないと言う人もいるかもしれないが、そうではなく、それだけ危機感不安感が煽られているという逆の見方だってできるだろう。

ではなぜ煽るのか、その主語は何か? 無論国だ。国が煽っているわけだ。なぜ? 国が国民を脅しているわけである。悪いことをすると殺すぞ! と。 この国はこの国民を「排除」するという権利を手放したくないのだろう。そう考えると、独裁国家はまず死刑存置国である。それは過去においてもそうだった。例えばイタリアは19世紀の後半から死刑は廃止されていたが、独裁者ムッソリーニがそれを復活させた(戦後廃止)。とてもわかりやすい図式だ。

死刑というのは取り返しがつかない刑罰で、冤罪がある以上廃止すべきだというのは死刑反対派の常套句だし、僕もそうだと思う。だけど、それとは別に、国が誰かを「排除」するという考え方を許すべきではないと思う。そういう言い方をすると、お前の家族が殺されそうになっても、その危険を「排除」すべきではないと言うのか!と激高する人がいる。少し前のFBでもそうだった 苦笑) これまでにも何度か書いたけど、なぜなんだろうね。死刑廃止を言うと必ず、じゃあお前の家族が殺されても云々(デンデン 笑)と言って、まるでそんなことを言うなら俺がお前の家族を殺してやるぞ、と言わんばかりの怒り方をするのは? 

僕は個人の問題としての自然権まで否定するつもりなどない。国家の姿勢、国家の哲学のことを言っているのだが、FBでもそうだったが、日本語読解力がない日本人はどこにでもいる。困ったものである。


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麻原らの死刑執行について

2018.07.07.04:35

被害者の関係者がホッとしたとか、やっと仏壇に報告できると言うのはわかる。当然だと思う。殺された者はもうこの世にいないのに、殺した者がまだこの世の中で空気を吸っているというのが耐えられない、というも、もちろん想像できる。僕だってきっと被害者の関係者なら同じことを思うだろう。

だけど、と思う。死刑のことを思うとき、どうしても思い出すのは、光市殺人事件の被害者の父にして夫だった本村さんの言葉だ。

「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」

それを考えるためにやることがたくさんあったんだと思う。そもそも一審で死刑確定なんていう麻原の裁判がどうなのか。さらに言えば麻原が途中から意味不明のことを言い始めたのが本当に詐病だったのかどうか。詐病でなければ刑事訴訟法に照らして、死刑執行は違法であるのだが。。。

本来人類の幸福を考えるはずの宗教が、なぜあんな無差別のテロ行為を引き起こしたのかを徹底的に調べるべきだったと思う。麻原の口から語らせるべきだったと思う。今回、加害者達を単純に「排除」してしまったわけで、これではまた同じようなカルトによる事件が起こるのではないのか? 刑罰って何のためにあるのか。被害者を慰藉するためだけにあるわけではないだろう。

海外の人間の尊厳を重視する国からはどう思われるだろうと思ったら、やっぱりドイツ政府の批判的コメントが出た。そりゃそうだろう。いっぺんに7人、それも次々と実況中継並みに、今誰それが死刑執行されました、この後〜人が順次執行されることになっています、なんて臨時ニュースが出たらしいけど、これじゃあ北朝鮮の公開処刑まであともう少しだ。

前にも書いたことだけど、死刑制度というのは排除するっていうことだ。悪意にかられて誰かを排除した者を、国が排除するって、国の持つ哲学として、やっぱりおかしくないだろうか?


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死刑制度のこと

2015.01.23.22:06

ゲシュケのダウン・アンダー日記を読みに拙ブログを訪れて下さった方の中にも、きっと死刑制度はあったほうがいいよね、と考えている方がたくさんいるだろうと思う。ただ、それはどこまで深く考えた末のことなのだろうか? 殺人事件があると、犯人がいかに凶悪かを煽るTVやその他のマスコミの話を丸呑みしているだけではないのか? しかし、袴田事件のときも、当時の新聞で、袴田さんはいかに凶悪で野蛮なボクサー崩れであるかが強調されていた。

この数日、表現の自由について書いた拙ブログにコメントをくれた方との話で、どういうわけか、ついで程度に死刑制度には反対だと書いたら、それに食いついてきて、ものすごい剣幕でおまえの身内が殺害(二度目の文言は「あなたの娘さんを凌辱殺害さらにあなたを含む一族を根絶やしに」 笑)されて犯人が全く反省もしていなくても死刑に反対できるんだな、とすごまれた。死刑賛成派の中にはこういう人がとても多いように感じる。数年前にも酒の席で僕は死刑制度に反対ですと何気なく言ったら、向かいに座っていた人が、やはりものすごい剣幕で同じようなことを言ってきたことがあった。

なぜなんだろう、死刑制度に反対すると、当事者でもないくせに異常に激高する人がいるのは? それも結構多いような気がする。まるで、「死刑制度に反対だぁ?? じゃあオレがおまえの身内を殺してやる」、とでも言わんばかりの剣幕。

前にも書いたことがあるけど、当事者になれば犯人を殺してやりたいほど憎むのは当たり前だ。それは万が一僕が当事者になった場合でも同じだ。犯人をこの手で殺したいほど憎むだろう。なんだ、ダブルスタンダードじゃないか!という声がすでに聞こえてくるね。でも、当事者でもない人がなぜあんなに他人の憎しみを共有したがるんだろう? また、死刑制度の話になると、こういう極端な話にしたがるのはなぜなんだろう? 殺人事件は年間約340件(無理心中で生き残ったケースも含む)。本当はもっと多いという人もいるけど、死刑をとっくに廃止したヨーロッパ諸国などと比べても低い数値だろう。

結局、みんなは、まれにある凶悪事件を映画のように見ているのではないだろうか? 前にも書いたけど、ダーティー・ハリーみたいに、悪い奴はあくまでも骨の髄まで悪党で、最後は撃ち殺されて、ざまあみろ、ああ、スカッとした、というのと同じ気持ちで現実の世界を見ているのではないだろうか? ダーティー・ハリーならそこで幕だけど、現実の世界はまだまだ続くんだよ。当事者にしてみれば、犯人が死刑になったって、悲しみは一生消えないだろう。(だから死刑なんて必要ないという論法ではないので、念のため)死刑賛成というひとは悪いヤツが死ねばそれで終わりだろうけど、当事者にとってはそうじゃない。

「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」

もう一度この本村さんの言葉を思い出しておきたい。死刑制度については過去に何度も繰り返してきたので、興味のある方は以下のリンク先の過去記事を、是非読んでみて下さい。

死刑制度について
光市事件、死刑確定に思うこと
再び本村さんの言葉を考える
再び本村さんの言葉を考える つづき
あれから一年



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首を吊るロープの長さを考える想像力

2012.08.12.18:05

人々はこんな新聞記事の文章を読んで吐き気を感じないんだろうか?絞首刑は残虐だという議論があることから、法務省が死刑執行方法を検討するという記事のことだ。

「日本では、1883年に新聞で『頭部が部分的に切断された』と報じられた例がある。法務省は『死刑囚の身長や体重を考慮してロープを必要な長さにしており、現在では切断はあり得ない』と説明する。」

なにが吐き気を催すかって、人の「身長や体重を考慮して」ロープの長さを決めているという文言だ。人をいかに殺すか、その際、いかにすれば首が切断されることなく、うまい案配に殺すことができるか、それを一生懸命考えている人がどこかにいるということだ。なんていうグロテスクな想像力だろう。まるで、ナチスがどうすればいちばん効率よくユダヤ人を抹殺できるかを真剣に考えたっていう話を思い出させる話じゃない?

日本では死刑を廃止すべきでないという人が85%ぐらいいるそうだ。ただ、僕の印象ではそのうちの半分以上の人は、マスコミのあおりをもろに受けているような気がする。前にも書いたけど、マスコミは犯人がどれほど悪党かを述べることに血道を上げている。TVも容疑者がいかにも悪そうに見える瞬間をカメラに収めようとする。こういうマスコミの情報を素直に信じる人たちが、やっぱり悪い奴がいるんだから死刑は必要だよね、と言っているんじゃないだろうか。だからこそ、ぜひそういう人たちに聞いてみたい、いま、実際に死刑が実行されている国は大国ではアメリカの一部の州と中国だけで、あとは北朝鮮やベラルーシみたいな独裁国やアフリカの一部、そしてイスラムの国々ぐらいだってことをどう考えるんだろう?

大分むかし、日本には死んでお詫びするという文化がありますと言った女性法務大臣がいたが、責任ある立場の人間が思いつきでいうなよな、そんな文化ありゃしないよ。きっと切腹のことでも連想しているんだろうけど、武士だけで(しかもありゃあ形式的なものに過ぎなかったんだろうし)町人や農民には切腹は禁止されていたそうだし、死んでお詫びしないのは終戦時の責任者達や今回の原発事故ではっきりしてる。


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裁判員制度はだれのため?

2012.05.20.13:21

新聞にはまもなく3年を迎える裁判員制度について、経験者の声が前面に出ているケースが多い。良い経験だったという経験者の声が強調されることも多い。

おかしいなぁ。

裁判員制度って裁判員に選ばれた人のためにやるもんなのかい?? それに裁判員裁判で無罪判決が多い覚醒剤の密輸事件は、裁判員裁判から外すべきだなんて言っている人もいる。つまり国民に裁判に加わらせ、国民を使って有罪と言わせたいわけだ。誰かが言っていたけど、この制度は国民を権力側に取り込むためのものなんだね。当然、無罪といわれちゃ困るわけだ。だから一方で、一番一般市民の常識を反映させるべきはずの行政関係の裁判には、この制度は適用されないわけだね。

ぼくはこの制度、最初からなにかうさんくさい感じがしていたけど、一方でこの制度により死刑判決が減るだろうと思っていた。普通の人って、目の前の被告に死刑って言えないだろうと思っていた。だけど、そうじゃなかったね。首都圏の連続不審死事件の被告なんて、物的証拠もないし、自白もないのに、それでも死刑って言えるっていうのが、ぼくにはちょっとショックだったな。

で、件名のだれのためかっていうのは、権力側のため、っていうのが答じゃない?


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しつこく死刑制度について

2012.04.10.22:41

3つ前のエントリーで、コッホさんから死刑制度についてコメントをもらったんだけど、どういうわけか、自分のブログなのに、コメントをアップしようとすると不適切な内容と判断されてアップできません。なんなんだ??

というわけで、こちらでお返事です。元刑務官の方が書いていたんだと思うけど、死刑制度はあるべきだけど、執行しないというのが理想だと言ってました。自分の死と向き合って初めて心からの改心をする受刑者を何人も見たそうで、ここまで改心している人間を殺すことに何の意味があるのだろう、と言ってました。ただ、死刑制度がなければ、ここまで改心したかどうかは疑問だとも付け加えていました。まあ、むろん制度は残して執行しないなんて不可能ですけど。

死刑制度については書きたいことはたくさんあります。日本の死刑制度について賛成している人たちは、年間数千人という中国や北朝鮮やイスラムの国々の死刑制度についてはどう思っているのか、教えてほしいところです。やっぱりかの国々でも死刑制度があることは良いことだと思っているのでしょうか? とくに中国や北朝鮮の場合、死刑制度があるのは、あきらかに国民が国家に逆らわないように、という脅しでもあるわけです。ナチス・ドイツの時代にはナチスに反対するビラをまいただけで国家反逆罪で即死刑になりました。以前書いた人民法廷というやつで、その裁判官フライスラーについては前にも書きました。むろん今の日本に国家反逆罪なんてないけど。だけど、だから安んじて死刑制度を残して良いとは言えないでしょう。

そうそう、ナチスが出てきたついでに、だいぶ旧聞に属すことですが、橋下知事が今の日本に必要なのは独裁だと言ったそうですが、独裁って何が悪いって、取り巻きたちが暴走するんですよ。オウム真理教だってそうだし(詳しくは森達也の「A3」を読んで下さい)、ナチスのユダヤ人絶滅作戦もヴァンゼー秘密会議で決められるわけですが、ヒトラー自身はこの会議に出席していないし、人によっては、ユダヤ人を本当に大量殺戮することをヒトラーがリアルに考えていたかどうかは疑問だと言う人も居ます。だからってもちろんヒトラーを擁護するつもりなんかこれっぽっちもありませんよ。ただ、独裁者と取り巻きの間の相乗効果で、どんどんエスカレートしていくっていう構図は理解できるのではないでしょうか?


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再び本村さんの言葉を考える つづき

2012.04.07.13:32

「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」

ネット上で、この本村さんの言葉がほとんど取り上げられていないのは、やっぱり、彼が僕らに突きつけているものの大きさが原因なんだろうと思う。この言葉の中にある「それを考える契機」の主体はむろん僕らだ。

つまり本村さんは、どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか、を「皆さん」が考えるきっかけにしてくれなければ、3人は犬死にです、と言ったんだ。映画を見るような気持ちで今回の死刑判決を支持した人たちにとっては、居心地の良くない言葉だろう。だからネットであまり取り上げられていないんじゃないだろうか。

言うまでもなく、本村さんが犯人を殺してやりたいほど憎んだのは当たり前だ。だけど、僕らまで一緒になってその憎しみを共有するのはどうなんだろう?死刑反対と言うと、被害者や遺族の気持ちになってみろ!って言われる。でもここで言っている被害者や遺族の気持ちは「憎しみ」のことで、「悲しみ」のことではないんじゃないだろうか? 映画を見るような気持ちで死刑を支持している人たちにとって、共有された憎しみは、死刑判決でぬぐえるかもしれない。でも、当事者たちの悲しみは、よもやそれでぬぐえるはずはない。

死刑を支持する85%の人たちには、ぜひ、この本村さんの言葉をもう一度よく考えてほしいと思う。


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再び本村さんの言葉を考える

2012.04.05.10:04

死刑賛成85%?? うーん、理解できない。そもそも法務大臣が死刑執行書に署名すると人気が上がるって、どうなっているんだろう、この国は?? なぜなんだろうと考えてみたけど、やっぱり、単純に悪い奴と普通の人というTVドラマや映画のような人間観があるんだろうね。何度も同じ言葉を繰り返しているようで、気が引けるけど、この世の中には99%の普通の人と1%の悪人がいる、ってわけではないよね。そんなの、ちょっと考えれば誰だって分かるだろう。

それと、やっぱりマスコミのあおりが大きいと思う。悪いことをした人間は映画に出てくるような悪党でなくてはならない、悪党のはずだってみんな思っているんだよ。そして、マスコミも、どれだけ凶悪だったかを、警察や検察の言葉そのままに、映像や文字にする。 裁判が始まる前に、逮捕された時点で、「推定無罪」なんていう言葉はどっかへ吹っ飛んじゃう。えん罪事件が起こると、このグロテスクさにようやく気づかされるけど、普段はこれがヘンだとも思わない。

本村さんが言った言葉が、ここ数週間、どうも気にかかってしょうがない。

「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」

この言葉ってネットではあまり話題になっていないようだけど、ここに今回の死刑判決を支持している人たち(日本の85%の人たちと言ってもよいかもしれない)に対する彼の気持ちが表れているような気がする。結局85%の人たちにとっては、悪い奴が死刑になってよかった、よかった、って、いわばダーティ・ハリーの悪党がマグナム44で撃ち殺されて、すーっとしたぜい、って映画館を出てくる観客と同じような気持ちなのではないのか? 
だけど、「悪党」に死刑判決が下って、85%の人にとってはそれでもうおしまい、しばらくすればもう二度と思い出すこともない。本村さんを応援するっていう気持ちはわかるけど、本村さんの立場に立ったら、応援されてうれしいのだろうか? だって、応援している人は死刑判決が確定すればそれで終わり。あー、悪い奴が一人この世からいなくなって、よかったよかった。だけど、当事者の本村さんは、裁判が終わったって、そして死刑が執行されたって、苦しみは一生終わらないんだよ。

だから、上の言葉が出てきたんだ。この言葉は、安易に彼を応援すると言いながら、その実、映画のなかで憎たらしい悪役が成敗されて清々したって言って、もうおしまいにしてしまっている、そんな85%(いや、ここには僕のような死刑反対の者も含まれるかもしれないね)に対して言ったんだと思う。

でも、これって、死刑制度の話だけではないと思う。今の世の中って、なにか、たとえば外国人でもいいし、役人でもいい、団体でも個人でも、なにかを「悪党」に見立てて、それをやっつけることでスカッとしたがっている人が多いのではないだろうか? 

以上の文章に関心を持たれた方がいれば、以前に書いた、こちらのエントリーも是非読んで下さい。

「光市事件、死刑確定に思うこと」

死刑制度について

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光市事件、死刑確定に思うこと

2012.02.21.09:35

なにか凶悪事件があると被害者に感情移入するのはあたりまえだろう。加害者(=犯人)に自分を重ね合わせる人はごく一部の特殊な状況にある人だけだ。たとえば自分と犯人の境遇が似ているとか。。。マスコミだって被害者に寄り添った記事を書くし、犯人側の情状を酌量すべき情報はあまり新聞には載らない。犯人は、まるで生まれたときから悪人だったかのような印象である。

ちょうど昨夜、撮り貯めておいた日本映画の「悪人」を見たところだった。(映画について一言だけ。深津絵里にぜんぶ喰われちまったけど、最初のほうに出てくる被害者の女の子も僕にはずいぶんと印象に残った。)この映画(原作のほうは読んでないので知らない)の表題とはうらはらに、いわゆる「悪人」なんていないんだ、っていうことがテーマなんだろうなと思った。いわゆる「悪人」になるかどうかっていうのは、柄本明が最後のほうで言う、「その人が笑っているのを思い浮かべるだけで、こちらもうれしくなるような大切な人」がいるか、いないかっていうことなのかもしれない。その意味では光市の犯人の少年にも、同じようなことが言えるのかもしれない。

光市の18歳の少年の死刑判決が確定した。これまでにも何度か書いたように、僕は死刑という制度に反対だ。

「死刑制度について」

でも、安易に部外者のぼくらが死刑に賛成だとか反対だとか言えなくなるほど、被害者の夫にして父親の男性の言葉は重い。

「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」

死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会っていうのは、北風と太陽の話みたいだけど、権力が人々を管理し、押さえつけ、厳罰で脅して犯罪を起こさせないようにする社会じゃなく、みんなが安心して生活できる優しい社会の事じゃないだろうか?


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裁判員裁判初の死刑判決

2010.11.17.09:11

ロードレースがシーズンオフになって、昔の選手の話とか、書きたいことはいろいろあるんだけど、ちょっと今忙しいのと、毎日次々におこるニュースに、どうもそんな余裕がありまへん。今日は裁判員制度始まって以来はじめて死刑が求刑されたというニュース。しかも、裁判長が被告に控訴するように勧めたという。これについて、思いつくままメモしておきましょう。

すでに書いたように、ぼくは死刑制度に反対であるが、裁判員制度にも反対である。反対の理由は簡単である。ぼくはそんなものをやりたくないし、そもそも憲法にだって犯罪の処罰をのぞき、意に反する苦役に服させられないと書かれている。人を裁くなんて言うのは意に反する苦役以外のなにものでもないね。ましてや死刑判決をだすなんて、今回の裁判員の方たちだって、一生わすれることができない辛い記憶になるだろう。

よく聞く説に、この制度によって裁判官の非常識をただし、一般人の常識を判決に反映するとかいうのがあるが(じゃあ、なぜ行政訴訟は裁判員裁判じゃないの?)、二審からは裁判員ぬきでやるのだから、今回の裁判長が控訴するようにと勧めたというのは、へんな話である。この勧めにはいろいろなことが言われているようだが、単純に裁判官が裁判員たちの心理的な負担を軽減しようと計ったのだろうと思っている。

裁判員のなかには辛かったけど、良い経験になったと言っている人もいるようだけど、この制度って裁判員の人生経験のためにやるものじゃないでしょう。また、これによって死刑制度の是非を本当に考えるためのきっかけになると言っている死刑反対派の人もいるが、きっかけだとしたら、今回裁判員となった人たちはとんだ貧乏くじを引いたものだ。それに、やっぱり人間っていざとならなければ本気にはなかなかならないからね。こんな死刑制度なんていう抽象的な事柄を、ひょっとして自分も裁判員になって死刑判決を出すかもなんていう程度の切迫感で、本気に考えなんかしないだろうと思う。

裁判員が、死刑制度があるからといって死刑判決を出したということを、ぼくはヘンな連想だが、戦場で人を殺した兵士と重ね合わせた。むろん乱暴な連想なのは承知の上だ、つっつき処はいくらでもあるだろう。でも、どちらも国家によって人を死なせることになるわけ。どちらも「死刑制度がある」と「殺さなければ殺される」という極限状態におかれているわけだし、それぞれの死に責任を持つべきは国家なんだけど、人間ってそんな単純じゃないから、その個人的な記憶は生涯にわたって、折に触れて思い出され、嫌な気分になることだろう。

まあ、思いつくままのメモなのでどんどん突っ込んでもらって結構です。


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死刑制度について

2010.08.30.10:51

右のリンク先を見ればわかるように、ぼくは死刑制度には反対である。こういうことを言うと、「じゃあ、あなたの親や子が殺されても反対か」と言われる。そう言う時は、「じゃあ、あなたの親や子がえん罪で、あるいはたいした罪でもないのに死刑になっても賛成か」と言うことにしている。想像力って大切だけど、空が落ちてきたらどうしようという想像力はあまり意味がない。結局、この話題では、被害者でもないし加害者でもない、つまり当事者じゃないものがなにを言っても、やっぱりあまり意味がない。

個別なことを言えば、死刑は凶悪犯罪の抑止力になっていないことはすでに証明されている。フランスやカナダの統計では死刑廃止後に凶悪犯罪が減っているそうだ。そんなことない、これは数字のトリックだという人もいるようだが、いずれにしても、フランスでは死刑廃止前よりも廃止した後のほうが死刑反対派がかなり増えたそうである。それに廃止国で復活しろと言う声が大勢になっていないことからも(一度廃止したのに復活したのはファシズムの時代のイタリアぐらいだそうだ)、死刑に犯罪抑止力の効果はたいしてないことは確実だろう。もし仮に「悪いことをすれば死刑になる」というのを犯罪抑止力にしようというのなら、死刑は公開したほうが抑止力になるだろう。こそこそと人目に付かないように、忘れた頃に殺害するというのは、なにはともあれ、この世の中から抹殺抹消するという考え方であるし、一度決めたことはなにがなんでもやる、というお役人的な、なにか陰湿なものを感じて仕方がない(役人が陰湿だといっているわけではありませんよ)。それに言うまでもないけど、犯罪抑止力として死刑という刑罰を考えるというのは、いわゆる罪刑法定主義という奴にも合わない考え方だよね。

こういう個別の事柄は以下の本にくわしい。被害者の立場、あるいは教誨士の話、刑務官の立場、そんなこともこれらの本は教えてくれる。未成年の加害者に妻子を殺された本村氏の話も、通常のマスコミに出てくる彼とは少し違う話を読める。日本人の85%が死刑制度存続に賛成だというのだが、賛成にもいろんな賛成があるだろうし、ふつうの人は普段死刑のことなんか考えてないから、賛成ですか、反対ですかなんて聞かれたってこたえられない。だからこそ、賛成か反対かを言うのなら、せめてこれらの本ぐらいは読んだ上でのことにしましょう。ちと偉そうですいません。

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
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死刑のある国ニッポン死刑のある国ニッポン
(2009/08/04)
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さらにはちょっと観念的だけどこんなのもお勧め。

愛と痛み 死刑をめぐって愛と痛み 死刑をめぐって
(2008/11/29)
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ようするに死刑制度というのは、悪い奴はこの世から抹消しようという排除の考えだ。あんたは悪者だからこの世にいる価値がありませんということ。だが悪い奴って誰なんだ?この世の中には99%の普通の人々がいて、1%の悪人がいるというわけではないのは、誰だって知っている。オサマ・ビンラディンとアルカイダがショッカーみたいな組織ではないことは誰だって知っている(よね?)。そこまで話を大きくしなくたって、普通の人が突発的な感情に駆られて人を殺したりしちゃうわけ。現実の世界はゲームや漫画じゃないからね。漱石の「こころ」じゃないけど、人が恐ろしいのは普通の人が悪いことをするからなんだよね。

100歩譲って仮に悪い奴がいるとして、じゃあそいつは生まれてこないほうが良かったのか?ナチス・ドイツの時代にT4計画というのがあった。ナチスというとユダヤ人を600万殺害したというのが有名だけど、このT4計画はドイツ人の障害者を安楽死させるという計画で、実際にかなり多くの障害者が組織的に殺された。(つまり、障害者は生まれてこないほうが良かったと考えたんだねー後記)これについても小説だけど、事実に基づいているこの本が参考になる(絶版だけど図書館などにあると思います-後記)。

灰色のバスがやってきた―ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置灰色のバスがやってきた―ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置
(1991/12)
フランツ ルツィウス

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ぼくは読みながらその計画を発案実行した医師たちに対して、当たり前の話だけど、非常に強い怒りを覚えた。戦後そうした責任者たちが責任を問われて死刑になったことを知って、ぼくの怒りは少しだけ収まったような気がした。だが、ここで、ではこの責任者たちも生まれてこないほうがよかったのか、という疑問が頭をよぎった。

30年ほど前のロシア映画に「炎628」というすさまじい反戦映画がある。

DSCF5391_convert_20100829152203.jpg

あらすじなどは省くけど、最後に主人公の少年がヒトラーの肖像画に向けて銃を撃つと、時代が逆転を始めるという不思議なシーンがある。ナチスの兵士たちが行進しているシーンが逆回しで後退していき、戦車や爆撃機はバックしていき、もう一度銃を撃つとどんどん時代が遡る。さらに撃ち続けると、ヒトラーがどんどん若くなり、最後に母親に抱かれた赤ん坊のヒトラーの写真になる。そこで主人公は銃を撃つのをやめる。たとえそれがヒトラーでも、生まれてこないほうが良かった命なんてないんだ(この映画を検索するとまったく違う感想を持っている人もいるようだけど、モーツァルトのレクイエムが流れるラストシーンはどう考えたって復讐の話ではないよ-後記)。

そうはいっても、凶悪事件の報道を見たり聞いたりすれば、被害者やその家族たちの身になって事件を見るのは人間たるものの心情だろう。だれが加害者の立場に身を置きたいなんて考えるもんか。だからマスコミだって加害者の凶悪性を煽る報道に血道を上げる。

しかしマスコミの垂れ流す情報がどうやらおかしいらしいこと、警察や検察の言うことだけを報道しているらしいこと、そして警察や検察がいつでも正義であるわけではないことは、ネットの発達とともに多くの人が知るところとなってきた。

むろん言うまでもないことだが、人を殺せば罰を受けるべきである。そんなのは言うまでもないことだ。しかし殺人事件に限れば去年は戦後最低の件数だそうだ。凶悪事件が増えているというのは警察公安マスコミの情報操作と言っていいと断言している人も多い。それなのに厳罰化が促され、公的な車や営業用の車には悪事を見逃さないなんていう怖い目をしたステッカーが貼られる。

数日前、初めて東京拘置所の刑場がマスコミに公開された。その形容として厳粛な場という言葉があった。ぼくは強い違和感を感じざるを得なかった。凶悪犯罪を犯したものはこの世から抹消すべきだが、一人の人間の命を奪う場は厳粛な場だという考え方に、なにかよじれたものを感じた。

人類がどうしても守るべきものがあるとしたら、人はなにがあっても人を殺すなということではないだろうか。なにを頭でっかちのノーテンキなことを言ってるんだ、って怒る人もいるだろうね。現実に毎日世界中であきれるほどたくさんの人たちが殺されているんだしね。でも、ぼくは、あまいと言われても、やっぱり言っておきたい。排除するという考え方に、人類が抱えている多くの問題がからんでくるんだってね。


この件に関しては、今後も書き足していくかも知れません。上の文はちょっと中途半端だとは感じているのですが、とりあえずここでアップしておきます。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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