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「貧困が暴力」なら無知も暴力である

2016.02.29.00:51

表題はおなじみの友川カズキの「家出青年」の中の言葉だ。すでに拙ブログでは一度 YouTube を貼ったけど、もう一度。



この曲の歌詞の後半は、この曲が最初に発表された時にはなかった。この人の曲はどれも全く古びないけど、こういう原発後にできた詩を付け加えても、まるで齟齬がないことに驚く。

付け加えられた後半の詩はこんな。

……
最なる時の最中(さなか)にあって
人どちは皆一様 寒立馬である
寒げな寂しげな風である

「次世代のため」なぞと言うから
滑稽になっちまう
「負の遺産」なぞと括るから
たいがいになっちまう

原発だろうと何だろうと
イヤなモノはイヤだと声を成せばいい
色素のない奥ゆかしき美意識なぞ
そんじょそこらの
ニワトリのフンですらない

君よ 君よもしや
かつてこの国には
真っ青な翼の鳥がいた

「貧困が暴力」なら
無知も暴力である
悔しき暴力である
……

最後の「貧困が暴力」というのはネットなどで調べるとガンジーの言葉のようだ。もっともガンジーがこの言葉を発したかどうかは、ちょっとよくわからないんだけど、貧困を強いる先進国によるインドの貧しい人々に対する暴力という意味で考えれば、この言葉の意味はピンとくるだろう。

暴力というと文字通り直接的な虐待を連想するけど、いわゆる構造的暴力というものもある。ヴィキペディアにはこんな風に出ている。「行為主体が不明確であり、間接的・潜在的に降りかかる暴力の形態を構造的暴力と呼ぶ。具体的には貧困・飢餓・抑圧・差別などがこれに当たる。」

これを前提に「無知も暴力である」という言葉を考えると、原発の危険性を知らせてこなかった連中による国民に対する暴力という流れで考えればわかりやすい。

だけど原発に限るものではないだろう。その前の「真っ青な翼の鳥」が暗示しているものはもっと普遍的な、ポジティブなものだろうと思うし、そこから考えられる「無知」は、特に今の日本のことを考えると、原発に限らずもっといろいろなものが含意されているのではないだろうか。

無知でいいや、面倒くさいもの、と考える人が多いのだろうけど、それは暴力を甘んじて受けているということなんだ。侮辱されているということなんだ。



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友川カズキ「レモンの爆弾」

2016.02.16.22:25

まだまだ興奮さめやらぬアンコウです。友川カズキの曲はどれも凄い。昨日は安易に聴くな。泣くぞ!と書いたんですが、あれは逆ですね。訂正しましょう。「無残の美」や「2010・夏・オガ」を聴いて泣かなかったら聴き方が安易なんですよ。聴く姿勢がなってない! 笑)



もちろん梶井基次郎の「檸檬」に触発された曲だろう。「檸檬」は有名だし短編だから読んだことのある人も多いと思う。肺病と憂鬱に苛まれた「私」が現実をねじまげて妄想しようと街を歩き回り、檸檬を京都の丸善の画集売り場の画集を積み重ねた上に置いたまま出てきて、あれは爆弾なのだ、数分後には丸善は吹っ飛ぶのだと夢想する、という話。

高校時代に読んだときはまるで理解出来なかったし、どこが面白いのかと思った。当時、ああいう憂鬱の意味が分かっていなかった。一緒に載っていた「桜の木の下には」のほうが衝撃的で高校生には分かりやすかった。

レモンの爆弾 干涸らびてそこにある
紡錘形の光 いまいずこ
今日も丸善は なにごともない

言の葉を弄んだ罪と
言の葉に弄ばれた罰と
 
レモンの爆弾 石くれと化してそこにある
カリフの庭の残照 いまいずこ
今日も丸善は なにごともない

言の葉を弄んだ罪と
言の葉に弄ばれた罰と

レモンの爆弾 年古りてなおそこにある
イエローの夢 いまいずこ
今日も丸善は なにごともない

言の葉を弄んだ罪と
言の葉に弄ばれた罰と

(歌詞はアンコウが聴き取ったものですので、違うかもしれません)

なんともメロディーも歌い方も切迫感があって、得体の知れぬ憂鬱というやつに苦しんでいる雰囲気がよく出ているような気がする。そしてリフレインが檸檬を爆弾だと夢想する鬱屈、言葉による現実のねじ曲げを「弄ぶ」という言葉で語る。でもきっとこのリフレインは友川カズキが自分自身にも向けて投げつけているのかもしれない。

それにしてもこのリフレインの歌いっぷりはどうだ! ノンビブラートの不安定な音程が不安を煽り、微妙な揺れが悲壮感を高める。あまりに奇矯で突飛な比喩かもしれないけど、僕はとっさにクリストフ・プレガルディエンという高名なテノール歌手の「ツーレの王」のノンビブラートの歌い方を連想した。むろん絶叫調の友川カズキと冷静で物寂しげなプレガルディエンではずいぶん違うんだけど。





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至福の一日、友川カズキ編

2016.02.16.00:00


私の iPod にはバッハと友川カズキしか入ってません!

というわけで、昨夜は友川カズキの独演会。サインと絵の描かれた色紙に名前まで書いてもらって、その後の打ち上げでは予想以上にお話し出来て大感激、大興奮の夜でした。興奮の余り発した上の台詞はご本人は無論のこと周りの方々にもウケました 笑)

サインの時、私の苗字はかなり珍しいというか、親類縁者以外で同じ苗字の人に会ったことってないのですが、友川さんの本名もかなり珍しい名前なので印象に残ったようで、かなり時間が経ってから突然名前を呼んでもらって、そのままお酒をついでもらって、もう失神しそうでしたね 笑) 
DSCF0929_convert_20160215231923.jpg
(もう、今後一人で酒を飲むときは、プリントアウトしたこの写真を前に置いておくことにします 笑)

他にも、サインするときに僕の下の方の名前を、お、森達也と同じだね。森達也知ってる? と言われて、目から火花飛びそうでした 爆) 拙ブログで何度も書いている森達也の名前が出て、ホント誇張じゃなく喜びの余り「クラっ」としましたね。

最終的にはグデングデンに酔っぱらって終電車一つ前で深夜過ぎに帰ってきました。

この人の書くものの本質は「鎮魂」という言葉を連想させます。打ち上げでそばにいた女性が、夫を亡くしてこの人の歌に慰められたというようなことを話しているのが聞こえましたが、そういう人ってすごく多いんじゃないかと思います。個人的に「おじっちゃ」や「オガ」や自死した弟の「覚(さとる)」さんのことを歌っているのだけど、そこに誰でもが仮託できる鎮魂の普遍性があります。

この人が競輪の大ファンだというのも、ありふれた譬えかもしれないけど、疾走する自転車に生を重ね、瞬時につく勝負に生と死とを重ねているのではないか、なんて言ったらかなり強引かもしれませんが、生きている者の使命として、いなくなったもののために歌って叫んでいるのではないかと、そんな風に感じます。たとえば有名な「無残の美」の中のこんな詩は、耐え難い死を身近にした者であれば涙なしには聞けないでしょう。

「水の生まれ出ずる青い山中で
待つのみでいい どこへも行くな こちら側へも
もう来るな」

あるいは「2010・夏・オガ」の中の詩。

「9つ4つ サトル聞こえるか
9つ4つ おじっちゃ聞こえるか
光の糸をたぐり寄せて
オガがさっきそっちゃ行ったど
焼き場の熱に目をやられ
天心に向かう背中が見えない」

この「9つ4つ」ってなんなのか? 僕は9月4日と考えましたが、9と4という縁起の悪い数字を出してみたのかもしれません。昨日聞けば良かった。昨日はおそるおそる大好きな「カラブラン」という曲について聞いてみたのですが、こちらは思いつきませんでした 笑)

「カラブラン」の中のこんな詩だって短い生を意識させる言葉で、始めてこの曲を聴いたときにはガツンと来ました。

「そのうち会おうと言うならば
今すぐどうだ とっととどうだ」

この人は自分では本なんか余り読んでないとか言うんですが、実際はかなりの読書家であることは間違いありません。たくさんある中原中也(個人的には「一つのメルヘン」の悲歌的な歌いっぷりがものすごく気に入ってます)はともかくとして、西脇順三郎とか、昨夜も歌っていた北村透谷とか、葛西善三とか、まあ、ふつうの人はまず読まないだろうというような詩人や作家に捧げる曲、あるいは西東三鬼や山頭火や住宅顕信と、これもあまりふつう読まないだろうという俳人の句の引用が多いことからも、それは間違いないでしょう。

昨夜も新らしい曲で吉村昭の小説の題名からできた曲(これがくやしいことによく聞き取れなかった。なんとか葬送アラカルトとかなんとか。。。)も出てきました。葛西善三なんてもちろん読んだことなかったから、おもわず短編の「哀しき父」を青空文庫でダウンロードして読んでしまいました。歌詞にある通り「痛いぞ葛西善三」でした。またお互いに気があっているという西村賢太なんかも、まだ一冊だけですが、読むはめになりました。

打ち上げで話をした方たちは大むね僕と同世代で、おもしろいことに僕と同様、友川ファンになってまだ日が浅いという方が多かったです。またどこかの友川コンサートでお会い出来るといいですね、と握手しながらお別れしました。

グスタフ・マーラーは「いつか時代が私に追いついてくる」とかなんとか言ったそうですが、友川カズキもデビューした後のバブリーな時代に「一切合切世も末だ」とか「家出青年」とか「死にぞこないの唄」なんていう暗い鬱屈した怒りを叩き付けるような曲がうけるはずはなかったわけで、そういう意味では時代がようやく友川カズキに追いついてきた(世相が暗くなってきた)と言えるのかもしれません。

また、実際に「家出青年」などは、発表当時はなかった反原発の詩句が、現在のバージョンでは入っていますが、それが実に歌にも歌い方にも歌詞にもピッタリとはまります。ちなみに、昨日のライブではこの詩句が最初に語られてから本編の歌になるというバージョンでした。しかしこの曲の「カカカカカ。。。。」というあれは哄笑でしょうか、もう圧倒されてしまって、曲が終わって拍手が鳴るまでの間(ま)がとても印象的でした。

たくさんあって重くなるので、今回はYouTubeの埋め込みはしませんが、興味があれば友川カズキと題名を入れれば、ここに上げた曲はどれもほとんど聴くことができます。ただし、老婆心ながら、安易に聴かないようにしましょう。「無残の美」なんかヘタに聴くと涙止まらなくなります。気をつけましょう。

まだまだ言いたいことがたくさんあるんだけど、とくに曲の合間のお話の部分の毒と怒りと自虐的な笑いとは、この人が本質的にかなりの照れ屋で、自分の暗さやセンチメンタルな部分を恥じているんじゃないかと思ったりもしたんですが、まあ、そういうのはまた別の機会があれば。

いずれにせよ、絵入りのサイン色紙と、持って行った「友川カズキ独白録」および「友川カズキ歌詞集」にしてもらったサインは家宝ですわ。うーん、こんな興奮は、きっとクリケリオンとヴァン・ポッペルのマイヨをオークションで手に入れたとき以来、いや、それ以上かもしれません 笑)



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「夜へ急ぐ人」

2015.12.22.21:41

先日紹介した友川カズキがちあきなおみのために作ったこの曲、YouTubeには一青窈も含めて3人のがありますが、どれも凄いですねぇ。お暇でしたら全部見てみてください。見てといいましたが、どれも歌だけじゃなく、視覚的にも感動的です。

ちあきなおみのはかなり古いので、伴奏も含め昭和歌謡の雰囲気がたっぷり感じられますが、このど迫力とドスの利いた低音と、歌い出し直前のマイクの扱いや最後のキメ方の格好良いこと。

途中「あたしの心の深い闇の中から~」で、からだを折り曲げて歌う所なんか、とても劇的でギリシャ悲劇の王女メディアとかマクベス夫人とか、なんかそういうこわ〜い女性を思い浮かべました。しかし、ちあきなおみは僕の時代なんですけど、正直に言うと、メイクの怖いおばさんという印象でした。歌謡曲の歌番組はほとんど見なかったんだけど、たまたま見たとき「喝采」を泣きながら歌っていました。しかしこんな歌手だとは知らなんだ。「おいでおいで」のところは凄いですね。連れ合いは怖くて眠れないと申しておりました。

一青窈はちあきなおみのを見ちゃうと、かわいい(チャーミング)です。

個人的には途中、ときどき口の左端を歪めるようにして歌うところがとても魅力的です。二番では装飾音符を変えて、音程がキチンとして声がしっかり最後まで出ていて、一番上手です。迫力不足と言う人もいるかもしれないけど、ちあきなおみの「おいでおいで」を見ちゃったら、あのやり方はもう出来ないでしょうね。

友川カズキはもうこれは論評なんてできまへん。

血を吐きながらも歌わざるをえないホトトギスという印象。でもホトトギスって「てっぺんかけたか」って啼くんですよね 笑)

どれが一番とかいうのは野暮というもの。どれも凄いよ。どれを聞いても涙がでる。お暇でしたら是非どうぞ。



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友川カズキ「家出青年」

2015.12.15.19:54



凄いよ、これ、凄い!

友川かずきについてはすでに一度書いたことがありますし、一部では知る人ぞ知る有名な人です。他の曲もどれも凄いとしか言えない。

「このままでええや!」 と 「このままじゃダメだ!」の間を揺れ動く思い。

ただ、この曲は珍しく具体的なメッセージ性がありますね。それを嫌う人もいることでしょう。それも含めて「イヤなものはイヤだと声を成せばよい」のでしょう。

その後の「きみよ、きみよ、もしや、かつてこの国には真っ青な翼の鳥がいた」というところで涙が溢れてきます。

最後の「「貧困が暴力」なら無知も暴力である 悔しき暴力である」 という歌詞、「貧困は暴力である」というのはガンジーの言葉らしいですが、この後半も凄いですね。無知という暴力に襲われているのは誰? なんてね。



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元ちとせの「腰まで泥まみれ」

2015.11.09.23:30

YouTubeに元ちとせの「腰まで泥まみれ」という曲がアップされている。


ルイジアナで渡河訓練のをして、部下は戻ろうというのに、馬鹿な隊長は進め進めと命令して一人おぼれ死んでしまう。それに対して引き返した部下たちは助かった。腰まで、いな、首まで泥まみれなのに 馬鹿な隊長は前進しろという。そしてこの歌では死ぬのは命じた隊長だった。

しかし、現実に過去の戦争を見れば、進めと命じた連中は生き残って、死ぬのは命じられた部下たちばかり、というのがほとんどだ。自分が命じたことなど、戦争だったのだから仕方がなかったのだと開き直って責任をつゆほど感じない。

ただ、この歌は命じた者が勝手に死ぬなら死ね!という歌ではないだろう。ざんねんながら隊長が進めと言ったら、部下は通常それを拒否できない。「やがてみんな泥まみれ」になるまえに、馬鹿な隊長を引き留めなくてはならないっていう歌なのだろうね。



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音楽に付随する物語に感動してはいけない?

2014.02.13.23:22

都知事選のなかで、大騒ぎになっていた偽ベートーヴェンの話題。あんなに大騒ぎになるなんて、みんなあの人のHIROSHIMAを聞いたことあったのかな、NHKのあの番組を見たのかな、と不思議な気持ちでしたね。確かにクラシックの現代曲としては破格の売り上げだったそうです。実は私のiTuneにも入ってます。で、はい、あっけなく、騙されました 笑) 

グレツキというポーランドの現代音楽の作曲家がいて、その人の交響曲にもアウシュヴィッツで死んだ少女の書き残した詩だったかを歌詞にした曲があって、こちらは初めて聞いたときに、あまりにベタなので、ちょっと違和感とまでは言えないまでも、なんか今ひとつ感動しきれない気持ちがしたものでした。だから、CDは、今見たら埃まみれです。この5,6年、聞いたことがないですね。

HIROSHIMAを聞いたときもグレツキーと同じような印象を持ったはずで、映画音楽みたいだな、と思ったはずなんですが、でも、そこに付随する作曲者の物語に、完全に感動して涙流れてました。まあ、しょうがないかな。音楽っていっても、やっぱりその周囲にある物語を知ってしまったら、それに引きずられるのは人情ってモンでござんしょう。

たとえば第二次世界大戦直前の1939年4月、復活祭の前の日曜日(棕櫚の日曜日)に演奏され、途中聴衆のすすり泣きが聞こえる(と言われている)、メンゲルベルクが指揮したバッハの「マタイ受難曲」なんて、もう絶対に音楽聞いてるんじゃないですね。滂沱の涙ですよ 笑)

あるいは、1947年5月の、戦犯容疑が晴れて、やっと指揮棒を持てたフルトヴェングラーが最初にベルリンで指揮したベートーヴェンの「運命」、もう最初から出だしがそろってなかったりするんだけどね。ジャジャジャジャーンがジジジャジャジャジャーンなんだけど、まあ、あれに感動しない人はヘンだよ。

あるいは白血病で若くして亡くなるディヌ・リパッティ、死期が近いのを知りながら、「約束だから演奏しなければ」と言って開いた最後の演奏会のレコードとか、鍵盤の獅子王なんて言われたヴィルヘルム・バックハウス、最後のコンサート。ベートーヴェンのソナタの途中で、「すいません、ちょっと休ませて下さい」と言って中断してしまうコンサート。そして、その演奏そのものはミスタッチだらけなんだけど、感動しない人はいないでしょう。

そして、その際、こうした物語の感動が、その全体の感動の何割に当たるか、なんて、わからんよね。これを音楽だけ純粋に聞いて、それだけで判断するのが、音楽に対する礼儀だろう、なんて言われたって無理です。この年になれば、いろんな経験をしてきて、そうしたものが、音楽以外の物語を肥大化させてしまいますから。

というわけで、いまこそ、あらためてHIROSHIMAを聞き直して見るべき時なんでしょうね。といっても、やっぱりそう簡単に聞こうという気にならないのは確かなんですが。。。

ただ、今回の騒動、その世間の反応と騒ぎぶりに、なにか嫌な感じがするのは、これがきっかけとなって、以前の不正な(といっても0.4%だよ)生活保護受給者バッシングのように、不正な障害者手帳受給者バッシング(問題の作曲者がほんとうに不正なのかどうかは知りませんよ)とかにつながらなければいいけど、と不安を感じるからでしょうか。

----2014, 2/14, 09:50 追記
ヴィキなどによると、ディヌ・リパッティは白血病ではなく悪性リンパ腫だったようです。訂正します。

また、なんとなく世間の騒ぎぶりに不快な気分になるのは、やっぱり、騙された当事者じゃない人たちの盛り上がり方が、どこか不安を醸し出すんです。今回の騒動で初めてこの人のことを知りました、というような人が、心底怒ってるのを見ると、こんなことに怒るなら、もっと怒りの矛先を向けるべきものがあるだろうに、と思うんです。



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音楽会「ホロコーストの音楽」

2013.10.11.10:00

昨日、東京女子大で表題の講演と音楽会を聞いてきた。主にポーランドのユダヤ人たちはナチスドイツがポーランドを占領した後、ゲットーに押し込められた。そして、その後ユダヤ人たちはアウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所へ送られて殺されることになる。

ゲットーというのは、ポーランドのワルシャワやクラカフやウッジといった都市の一区画を隔離状態にしてユダヤ人の強制居住地にしたもので、食糧不足もあり、その環境は劣悪だったんだけど、ある意味では普通の街と同じような機能を持っていたんだそうだ。だからそこには当然劇場もあったし、キャバレー(いわゆる寄席)もあったし、街頭で歌う今で言うストリートミュージシャンみたいな人もいた。

1942年にベルリンのヴァンゼーで秘密会議が開かれ、東方ユダヤ人の絶滅計画が立てられる。その後、ゲットーのユダヤ人たちはアウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所へ送られていくことになるんだけど、驚くことに、この絶滅収容所にも囚人たちによる楽団があった。絶滅収容所内のコンサートのチケットなんかが残っているんだそうだ。むろんこの音楽は囚人たちのためというよりも、収容所のナチスの隊員たちのためのものだったんだけど。明日ガス室に送られるかもしれない囚人たちにとっては耳障りなだけだっただろうけど、ユダヤ人音楽家にとっては、生き残るための絶好の手段でもあったわけだ。

そういえば、むかし見た「ショアー」という無茶苦茶長いドキュメンタリーの冒頭にも、声が良く歌が上手かったから殺されなかったというポーランドのユダヤ人男性が出てきた。

そうしたゲットーや収容所で歌われていた歌を、採集復元して、ザルメン・ムロテックというニューヨークの国立イディッシュ劇場芸術監督が弾き語りで歌い、途中日フィルのコンマスのヴァイオリニストがチゴイネルワイゼンとバッハのシャコンヌを演奏した。ムロテックの弾き語りのイディッシュ語によるユダヤの音楽はなんとも哀愁を帯びたメロディーが印象に残った。

言うまでもなく、ゲットーに押し込められ、絶滅収容所のガス室で殺されたユダヤ人たちの運命を思うとき、それはもう言葉にできない沈痛な思いを感じる。だけど、いまのイスラエルのやり方を見ているとね。有名なフランクルの「夜と霧」に「良い人たちは誰も戻ってこなかった」っていう言葉があるけど、そんじゃあ、生き残った良くないユダヤ人たちが建国したのがイスラエルか、なんて言いたくなっちゃう。

一方で、ドイツへ旅行したことのある人なら、みんな感じるだろうけど、親切で公徳心の強いドイツ人たちが、ほんの70年前にはこんなひどいことをしたというのも、なんとも言えない驚きだ。

結局ユダヤ人だとかドイツ人だとかいう「国籍」や「人種」というレッテルなんて、無意味なものなんだ。

人間というのは、人種に関わりなく、ごく普通の人たちが、その時の社会の状況によって、とんでもない悲惨な被害者になったり、逆にとんでもない極悪非道な加害者になったりするってことだ。

こんなのあたりまえのことだけど、昨今の日本の社会を見ていると、そういう当たり前の事を理解してない人が増えているような気がしてならない。



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ショスタコーヴィチ「24の前奏曲とフーガ」

2012.05.11.08:12

昔から気に入った曲があると、どうもそればっかりになる傾向があります。長いときでは3ヶ月ぐらい毎日同じ曲ばかり聞き続けて、他のはほとんど聞かない。ただ、そういうことってそうそうないんですけど。これまでではブルックナーとか、以前拙ブログでもご紹介したアルヴォ・ペルトとか、バッハのカンタータとか、はたまた 友川かずきとか。ヘンなところではフルトヴェングラーの交響曲第2番もしばらく、そればっかり聞いている時期がありました。そうそう、ゴールドベルク変奏曲も夢中になり、CDを買いあさったり、近くの図書館で借りまくったりして、結果、現在 iTunes には20数種類の演奏が入ってます。それを聞いた友人が一言。「あんた、そんなに不眠症かえ?」(わかった人だけ笑って下さい)

というわけで、最近はこれです。知り合いに教えてもらったショスタコーヴィチの24の前奏曲とフーガ。ここ一月以上ipodでかけるのはこの曲ばかり。ショスタコーヴィチなんて関心の埒外にある作曲家だったんだけどね。中学生とか高校生の時には、派手で格好いい5番の交響曲は好きだったけど。特に最終楽章のティンパニーのなんと格好良いことか、ってね。でも、この曲も最後に聞いたのはたぶん10年以上前だな。それ以外にショスタコ?? 興味な~い、だったんだけどね。

いや、前奏曲とフーガという題名から、当然バッハの平均律クラヴィーアを連想し、どんなもんだろうと、近くの図書館で借りて聞いてみたら、これがなんと!! すんごい名曲じゃないの!! 

最初に思ったのはパウル・クレーの絵。月並みだな、と思ったけど、ネットで検索すると、見あたらないようなので書いておこうっと 笑)

なにしろ良い曲がたくさんある。関心を持った人は最初から通しで聞いてほしいけど、ちょっとだけ4番を聞いてみて下さい。個人的にはフーガの後半、このニコラーエヴァ(この曲を献呈された大ピアニスト)の演奏では5分40秒ぐらいから始まる複雑なフーガが大好きですね。


バッハの平均律は最後の曲はなんだかかわいらしい曲で、あれ?これで終わり?っていう感じなんだけど、こちらの最後はものすごい迫力でこれでもか!って感じで派手に終わります。



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沢田研二の反原発歌

2012.04.17.06:27

うーん、小学校高学年の頃、行きつけの床屋のおばさんが「アンコウちゃんはジュリーに似てるね」と言ってくれたことがあった。でも、ジュリーってなに?って思ったんだけど、床屋に行くたびにおばちゃんは「ジュリーに似てる」と言い続けた。そのうちにグループサウンズというものがあって、そんなののなかにジュリーという人気者がいるんだと知った。TVでみたら、女みたいな髪を伸ばしたにやけた男でちっともうれしくなかったなぁ。いや、この床屋のおばちゃん以外、そんなこと言ってくれた人はいないんですけどね。この話をするとジュリーファンの連れ合いはなんとも複雑な、というか怪訝な顔をして、それでも喜びますが。。。

いや、ジュリーは別に好きじゃなかったし、関心もなかったけど、数年前に「我が窮状(9条)」という歌を知って、うーん、すごいやん!と思ったものでした。



と思ったら、こんどは反原発ソングだよ。いろんなしがらみがあるんじゃないかと思うんだけど、 立派なもんだ。



今の若い 人たちが沢田研二に夢中になるとは思えないけど、がんばれ、ジュリー。

一方で、原発を止めたら 「日本は集団自殺だ」と脅しに掛かっている大臣もいて、きっと、それに同調する人間もたくさんいるんだろうなぁ。原発を止めたら集団自殺だそうですよ。うーん、ホント腹が立ってきます。


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ペルトのブリテン哀悼歌

2011.12.06.12:30

うー、死ぬかと思うほどの忙しモードもなんとか一段落しました。自転車関連のニュースはめぼしいものが入ってこないようなので、今回はアルヴォ・ペルトという現代音楽の作曲家の曲のご紹介。

エストニア人です。もと世界チャンピオンのキルシップの国ですね 笑)

初めてこの人の曲を聴いたのは1980年代後半のFM放送。何気なく聴いていた午前中のFMでペルトの「スターバト・マーテル」が流れてきたんです。椅子から転げ落ちそうになるぐらい、びっくりしましたねぇ。中世の音楽のようでもあり、現代音楽のような変な和音も混じり、古いグレゴリオ聖歌のような教会音楽のようでもありながら、声明のようでもあり、なんだか当時は聴いたことのない音楽でした。

「スターバト・マーテル」というのは「悲しみの聖母たたずめり」ということで、十字架にかかったイエスの足下でたたずむ聖母のことです(ちなみに泰西名画で足下でくずおれている女性はたいていマグダラのマリアということになるようです)。この題名の名曲というのは結構あります。とくにペルゴレージ。この人は18世紀の20代で早世した作曲家で、他に曲が何も思い浮かばないぐらい、この曲だけで名を残した人です

さて、ペルトですが、そのすぐ後に新宿のHMVでCDを3枚見つけて購入。この「スターバト・マーテル」が入っている「アルボス(樹)」と「ヨハネ受難曲」、そしてペルトの最初のアルバム「タブラ・ラサ」でした。どれもすごい曲でした。特に「アルボス(樹)」は曲の配列がすごく、ファンファーレのような「アルボス」という曲で始まり、いくつかの小曲が並んだ後にもう一度この「アルボス」のファンファーレ。そして「スターバト・マーテル」が始まるという構成で、YouTube にも「スターバト・マーテル」は単体でアップされてますが、やはりCDの曲の配列で聴きたいところです。

なお、このアルバムは84年になくなった映画監督タルコフスキーに捧げられています。たしかにタルコフスキーの映画との相性はものすごくよさそうです。タルコフスキーがもう少し長生きしていたら、二人のコラボが見られたかもしれません。

一時期は新しいアルバムが出るたびに買っていたので、先ほど数えたらペルトのCDが15枚もありました。ただ、その後ヒーリングミュージックとか言われ出して、カラヤンのアダージョとかがはやって、その流れで、このペルトも有名になってきました。すると例の天の邪鬼が頭をもたげ、しばらくペルトからは遠ざかっていたんですが、久しぶりに聴いてみたら、やっぱり良いです。

で、表題の「ベンジャミン・ブリテンへの哀悼歌」は「タブラ・ラサ」に含まれている5,6分の小曲ですが、これがまた凄い曲です。ある意味、前回のシャルパンティエの「マニフィカト」と同じように、繰り返しの音楽なんですが、最後の最後に「あっ!」と思うような終わり方をします。YouTubeにもこの曲は様々な映像をつけていくつもアップされています。Pärt Cantus で検索するとものすごい数がヒットします。中には最後のところがきちんと聞き取れないような奴もありますが、代表的なところで、去年のロンドンの有名なプロムスでの実況演奏をリンクしておきましょう。拍手が起こるまでの数秒間、ぜひ耳を澄ましてください。



映像付きもいろいろあります。ただひたすら仏像がうつる、やたらとテンポが遅い奴もあれば、宇宙の神秘的な映像、ちょっと寂しげな花や樹木の映像、反戦のメッセージ色が強い兵士たちの写真やアウシュヴィッツ、映画「コヤニスカッティ」みたいな感じの奴、でもやっぱり一番多いのは墓地ですね。それも冬の墓地。ただ、今回YouTubeをいろいろ見ていて、これはすごい、と思ったのはこれ。残念ながらブリテン哀悼歌の最後の部分は次の「フェスティナ・レンテ」という曲がかぶってしまって聞こえませんが。ディエゴ・ピニョンという舞踏家だそうです。

10分ほどのメディテーションの時間という感じです。お暇でしたらどうぞ。



というわけで、今回はかなりマニアックなお話でした。最後までおつきあいありがとうございます。


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シャルパンティエの「マニフィカト」

2011.11.16.07:56

今回のは満を持してのご紹介、というとちと大げさですが。。。いや、拙ブログを始めたときから、いつ紹介しようかと思っていた記事がいくつもあった(ある)んですが、今回のはその一つ。ただ、満を持して、の割には大したこと書けないですけど (>_<)

シャルパンティエという作曲家は有名なのが二人いるようですが、こちらはマルクァントワーヌのほう。典雅とでもいうのでしょうか。17世紀のバロック音楽の作曲家です。

そして、やっぱり思うのは、こうした17世紀の「芸術家」たちって、先日紹介したピンゼルもそうですけど、間違っても自分が「芸術家」だなんて思わなかったということです。じゃあ、なんだと思っていたか?音楽家も画家も彫刻家も、みんな自分のことを職人だと思っていたわけです。そもそも現在あまりに安易に口にされる「芸術」ってなんなんでしょう? 芸術でござい、とばかりに偉そうになったために、なにか新しいこと、奇抜なことをしなければいけなくなってしまい、思いつき任せになってしまって、音楽も絵画も彫刻もつまらなくなったような気がして仕方がないんですよね。

さて、以前にもちょっと書きましたが、映画「シベールの日曜日」でクリスマスのミサのシーンと最後のシーンで流れるのが、このマルクァントワーヌ・シャルパンティエの「真夜中のミサ」というクリスマス用のミサ曲の一部です。この映画のおかげで、このシャルパンティエやアルビノーニの「アダージョ」を知ったのでした。あちこちのレコード屋を探して、このレコードを見つけたときはむちゃくちゃうれしかったですね。
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ジャケットも昔のレコードは大きいから映えます。ジョルジュ・ド・ラトゥールとシュテファン・ロホナーの絵ですね。考えてみれば、北方ルネッサンスの絵が好きになったのはレコードのジャケットの影響もあったかもしれません。

さて、アルビノーニの方はそのうち、その大仰さにだんだん飽きてしまいましたが、シャルパンティエの方は全く飽きずに現在に至ってます。そのシャルパンティエの中で、特に大好きなのはこれ。3声のマニフィカトという曲です。



マニフィカトというのは、聖書のルカ伝にしかないんですが、聖母マリアが身ごもったとき、同じく洗礼者ヨハネを身ごもっていたエリザベツを訪問して歌う神への賛歌です。でも、身ごもったことを喜ぶ歌としては、このシャルパンティエの曲はちょっとメランコリックに響きます。まあ、他の、たとえば有名なバッハのマニフィカトも祝祭的面とともに、どこか憂愁をたたえた曲ではあります。

新川和江という女流詩人がいますが、この人の大昔の詩に「某月某日」という出産間近な女性のモノローグみたいな詩があります。

 わたしの赤ちゃんが生まれるんだもの 生まれるんだもの
 あしたは天気の悪いわけがない
 鐘という鐘がいっせいに鳴らぬわけがない

と始まり、わくわくしている女の描写の後、出産の場面で一瞬の不安を感じ、最後に

 〈坊や〉と彼女は落着いた声でつぶやいた
 〈生といっしょにおまえは何を連れてきたの?/おばかさんねえ〉

と言いながら涙を流す、という詩で、なんとなく大昔に読んで以来、今に至るまで忘れられずにいましたが、今このシャルパンティエのことを書きながら、マニフィカトから、そんなものを連想しました。そう、最後は30歳そこそこで磔になって死ぬことになるイエスは生といっしょに何を連れてきたんでしょう?

まあ、それはともかく、このレコード、すり切れるほどよく聴きました。フランスのドミニク・ヴィスという今では超有名な「ソプラニスト」(一般に裏声の男性歌手はカウンターテノールというんですが、この人は自分のことをソプラニストと言ってます)の若い頃に録音したものです。その後CDの時代になり、あちこちの輸入レコード屋で探しまくったけど、シャルパンティエはたくさん「マニフィカト」を作っていて、もう一つ別の「マニフィカト」がCDになっていて、紛らわしいんだけど、この曲のCDはついに見つかりませんでしたね。(ちょっとネットで調べると、今はCD化されているようです)ちなみに、このレコードの演奏も YouTube にあります。演奏としてはスタジオ録音ですから上の実況よりは瑕疵がないんでしょうけど、上の方が映像的に舞台装置が良いですね。



他にもYouTubeにはいくつか、charpentier と magnificatで検索すると引っかかりますが、おおむね実況録音で音質が悪いのが残念です。また、こういう古楽にありがちですが、ピッチの違いも顕著です。もともと、この曲は、指揮者のクリスティという人がシャルパンティエの研究者で、たぶんこの人が発見したものだろうと思います。だから、このレコード(1980年録音)がシャルパンティエ死後では初めての演奏だったのではないかと思われます。

そのクリスティが指揮している実況演奏もありました。


こちらではヴァイオリンではなく、ヴィオールという小さなチェロみたいな古楽器が使われています。
三拍子の単純な繰り返しなんですが、もうなにか日常のつまらないことなんか全部、どっかへほっぽらかしてしまいたくなるような、そんなすばらしい曲です。


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平均律クラヴィア第一部第10番プレリュード

2011.09.03.11:39

大きな逃げ集団にネルツが混じってるというので楽しみにしてたんだけど、途中で下がってニバリのアシストしてましたね。ちぎれたわけではないのは、ステージ順位がほとんど遅れていないことからもわかります。しかしフレーリンガーの方はだいぶ遅れてしまいました。

というわけで、唐突に好きな曲の話。バッハの平均律クラヴィア第一部の10番のプレリュード。かなりマニアックですね。

この平均律クラヴィアってのは全部聞くと3時間以上かかるんじゃないかと思うんだけど、実はよく聞くと名曲の宝庫です。むかし孤島の音楽っていって、もし無人島へ一曲だけレコードを持って行けたらなににする?っていう話題が雑誌などでテーマになってました。レコードだけ持っていってもプレーヤーが必要だし、プレーヤーがあっても電源がないだろうっていう突っ込みはおいといて、ぼく個人はコロコロ変わったけど、今はこの平均律全曲かなぁ。。。チェンバロで演奏したものもあるけど、ぼくはピアノが好みです。

ピアニストもいろんな人が弾いてますが、たぶん一番人気はカナダの変人グレン・グールドでしょう。このグールドという人はもう30年も前に亡くなってるんですが、グールド以前とグールド以後という言い方をされるほど、バッハの演奏を徹底的に変えてしまった人で、まあ、ここでぼくが説明する必要もない人です。ネットで検索すれば、それこそ無数のグールド礼賛や変人ぶりを紹介する言葉が見つかることでしょう。いまだに「彼のやり方」で彼を越えるピアニストは出てこないので、この後も出てこないと思われます。

でも、この10番のプレリュードに限ると、すべての音が一つ一つ粒だつようなグールドとは正反対の印象のスビャトスラフ・リヒテルのが一番好きです。いや、CDになっているような演奏はどれだってすごいのは言うまでもないんですけどね。

テンポが揺れるバレンボイムのロマンチックなのもいいしね。ロマンチックがいいならホルショフスキーなんていうのも。古ければロマンチックかというと、これが1930年代のエドウィン・フィッシャーなんてのはそれほどテンポも動かず、スピーディーです。YouTubeにもいろんな演奏家でたくさんこの曲がアップされてます。グールドに負けない変人グルダなんかになると、勝手に装飾音をいれるなぁっつう感じはありますが。。。

左手と右手のバランスを見ると、おおむね左右のバランスが取れているのに対して、アシュケナージは左手の音が少しこもったみたいな感じです。最近のシュタットフェルトもいいです。たぶんこのシュタットフェルトが現在一番バランスが取れてるのかなぁ。まあ、いちいち上げるまでもなく、金とって聞かせるほどの演奏ですから、どれだってすばらしいのは当たり前です。

さて、そんななかで、この曲、なぜリヒテルが好きかというと、ちょうど中間あたりでプレストになるところの感じがいいんです。みんな比較的さらりとスピードアップする感じで、なかにはホルショフスキーみたいにタメをつくったりするのもあるけど、そんななかでこのリヒテルは最初からきらきらした感じて始まり、このプレストに変わるところでは、なんかガラスがパアンて砕け散ったみたいな印象があります。よく聞くと、ちょっとけっつまずいたみたいな、頭の中のプレストの速さに対して指がついて行ってないみたいな一瞬があるような気もしますが、それでもこの感じがどうにも好きなんですね。YouTubeにグールドとリヒテル、両方ありますね。関心のある方は聞き比べてみてください。

まずグールド。いつものように歌声入りです。


つづいてリヒテル。こちらはプレリュードだけでなく続くフーガも入ってます。


テンポもまったく違いますね。こうしてテンポや音の粒だち具合、左右のバランスなんてところと、このプレストに変化するところなんかを聞き比べると、けっこう演奏家の個性が見えてきます。

今回はちょっとマニアックな、素人がちょっと背伸びしただけかもしれないお話でした。


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フルトヴェングラーの「ドン・ジョヴァンニ」

2010.12.26.13:47

昨夜、というか、夜中にNHKのハイビジョン放送で、なつかしや、フルトヴェングラー指揮のモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」をやっていました。フルトヴェングラーというのは、私が生まれるより前に亡くなったドイツの20世紀最高と言われる指揮者です。

恥ずかしながら、中学生から高校生にかけて、フルトヴェングラーが大好きでしたね。きっとフルトヴェングラーが指揮した音楽が、ではなく、フルトヴェングラーが好きだったんでしょう。いや、誰が指揮したって、そうそうわかりゃしないし、違いがわかったところでどっちが良いかなんて言えなかったはずなんですけどね。

当時のことを思い出すと赤面の至りですが、まず、名前の語感がカラヤンやカール・ベームよりも格好良かったし、なんかイメージとしてあのはげた頭のはげ方も尋常ならざる崇高さが感じられて、高校時代はフルトヴェングラーの指揮したブルックナーの交響曲のレコードを毎日のように聞いていました。当時はレコードをかけたら、もういすに座って、まるでコンサートホールにでもいるかのように、かしこまって、ありがたがって聴いたものでした。いや、安物のステレオで、そもそも部屋も狭いし、隣の部屋では父親がTV見てるし、どこがコンサートホールやねん、っつう環境でしたけどね。まあ、こういうのをスノビズムって言うんでしょう。まあね、高校生ですからね。

今は、当事よりは多少は演奏家による違いがわかるようになったとは思いますが、はっきり言ってCDになるぐらいの演奏家だったら、もうどれが一番好きだなんて言えないですね。まずい酒がないように、嫌いな演奏なんてないってことかな 笑)

さて、フルトヴェングラーのドン・ジョヴァンニでした。最初に「なつかしや」と書いたのは、この演奏の記録映画は今から30年以上昔だったと思いますが、なんと、上野の文化会館大ホールで上映されたんですよ。見に(聴きに?)行きました。客席は超満員だったですね。上映が終わり、幕が下りると、どこからともなく拍手が起こり、会場中が拍手の渦にまきこまれたのでした。まあ、これも今になれば恥ずかしいといえなくもないんですがね。


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友川かずき

2010.11.01.14:22

ああ、わたしの好きな森達也のサイトでも紹介されていますね。真似するわけではないんですよ。すでにだいぶ前からこのエントリーの下書きはできていたんですよ σ(^◇^;)

友川かずきという歌手のことを知ったのはつい数年前のNHKラジオでのこと。車を運転していたら、「生きているって言ってみろ」が流れてきた。あまりのショックにしばし呆然、途中から涙が流れ、あやうく赤信号を無視しそうになるほどの衝撃だった。信号待ちの合間にあわてて名前をメモしたのだが、その時のメモに書いた名前が間違っていたようで、しばらく見つけることができなかった。

それがひょんなことからユーチューブにあることを知ったのが2年ほど前。歌声や歌いぶり、歌詞や東北なまりなどから三上寛みたいな顔を想像していたら、これが予想外の優男。歌もいろいろアップされているけど、はずれがない。どれもすごい。すでにご存じの方も多いと思うが、もしまだ聞いたことがなければ是非聞いてみてください。とりあえずは自転車ブログとしてはこの曲は外せませんね。なぜかは最後に分かります。最もわたしは競輪、あまり知らないんですが、これならわかります。

「夢のラップもういっちょ」

--------追記 2010,11/1,16:50-----
どうも、ユーチューブのコードがうまく起動しないようなので、上の色違いの部分をクリックしてみてください。他のも是非聞いてみてください。どれもすごいです。永山則夫の詩を歌った「私の花」も「一切合切世も末だ」もどれもみんなすごいとしか形容詞が出てきません。

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辛島美登里「雨の日」

2010.08.22.14:21

すごい時代になったものです。え?いや、もう30年近く前にラジオから聞こえた歌。その後、ラジオやTVではまったく聞いたことがなかったのに、ユーチューブで探すとあるんですねぇ。

1983年って私の骨董品デ・ローザと同じころのことですね。わたしもまだ20代ですよ。自転車に夢中になる直前です。ラジオをつけっぱなしにしていたら、この曲がポプコンのグランプリ曲だという紹介で流れたんですね。なにしろ出だしでショックを受け、かろうじて途中からテープに録音して、その途中からを繰り返し聞いたものでした。テープはもうとっくの昔にどこかへ行ってしまいましたから、聴いたのはたぶん20年ぶりぐらいですかね。当時はポプコングランプリって言ったってTVに出るわけじゃないし、ラジオでもほとんど流れなかったですね。



うーん、「やがて土に帰る」というところで不覚にも涙が。。。だめですね、年を取るとどうも涙腺がゆるみがちでね。この年になると、曲にいろいろと当時の自分のことなどオマケがついてきますのでね。

むかし晩年の遠藤周作が、映画でもTVドラマでも、別れのシーンとか何かが離れていくシーンになると涙がでるようになったと書いていたことがありました。駅馬車が出発するシーンだけで涙が出てくるんだというのでした。

結局年を取ると、自分の記憶の中にある同様のシーンを思い出すってことなんですね。そう考えると年を取るのはあながち悪いことばかりではありません。若い方々、老後の楽しみのためにいろんなことを経験しておきましょうね。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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