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對馬達雄「ヒトラーの脱走兵」

2021.01.20.23:01

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ルートヴィヒ・バウマンという死刑宣告を受けながら九死に一生をえた元脱走兵の復権に向けた活動を中心に、ヒトラー政権下で司法官を務めた裁判官たちの戦後の栄達ぶりと戦後ドイツのナチスに対する多くの人々の複雑な感情が書かれた本で、数年前に紹介した同じ著者の「ヒトラーに抵抗した人々」や去年の暮れに読んだ大島隆之の「独裁者ヒトラーの時代を生きる」ともつながり、個人的にはものすごく面白かった。うん、面白かったなんていう言葉は相応しくないな。読みながら何度も怒りを感じた。そしてなんとなくおぼろに感じていたものがつながった気分で、ものすごく勉強になった、と行ってもいいかもしれない。なので、今回は過去記事へのリンクばかりです 笑)

例えば、脱走兵は戦後になってもナチス時代の裁判判決に基づいて前科者扱いされ、一般ドイツ人たちからすら、彼らは犯罪者だと見なされていたとは考えてもみなかったことだった。何しろ第二次大戦中のドイツの軍法会議での死刑の数はほぼ2万人と驚くべき数字。一方アメリカは146人、イギリスに至っては40人だったという。(これも最近紹介した「軍旗はためく下に」も軍法により死刑になった兵士たちのことで、吉田裕の「日本軍兵士」とともに、日本軍はひでえと思ったけど、ドイツ軍もひでえもんだわ。)

何しろ不法国家のナチスドイツだ。徴兵拒否や脱走などで処刑された人たちは戦後は問答無用で復権しているのだとばかり思っていた。さらには徴兵拒否で死刑になった人たちは英雄扱いされているものだと思っていた。テレンス・マリックの映画「名もなき生涯」がまさに徴兵拒否で死刑になった男の話だったが、これだって長年知られずにいたのを、主人公が妻に宛てた手紙が英訳されて知られるようになり、映画になったのだった。

一方で逃亡兵や、前線の兵士たちに無理やり「国防力破壊」の罪を言い渡して死刑判決を出した司法官たちは戦後になっても西ドイツの司法界や大学で栄達を遂げ、尊敬され、権威とみなされ、大往生をとげた。特にシュヴィンゲという戦後は大学教授として軍司法の権威となった奴は、写真見てもわかるでしょ! 
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こいつ絶対悪党だよ。それもインテリの悪党、一番たち悪い奴、間違いなし!って顔してます(人を外見で判断してはいけません 苦笑) いや、つい興奮して。。。汗)

例えば、拙ブログで映画を紹介したゲオルク・エルザー、ヒトラー暗殺計画で処刑された彼の事件が正当に評価されたのは最近のことだった。同じく「ヒトラーへの285枚の葉書」という映画になったハンス・ファラダの「ベルリンに一人死す」のハンペル夫妻のことだって、ファラダはこの小説を戦後すぐに書いたのに話題にはならず、最近英訳が出て大ヒットしたおかげで知られるようになった。

さらには1960年ごろに強制収容所の看守たちを裁いた裁判を描いた「顔のないヒトラー たち」やその裁判の指揮をした検事フリッツ・バウアーの業績が映画になったのも、やっと21世紀になってのことだ。

これまでの反ナチ抵抗運動として有名なのは軍人によるワルキューレ作戦と、ミュンヘンの大学生たちによる「白バラ」だった。だけど、これによって、特に前者のドイツ国防軍のヒトラー暗殺未遂事件によって、ナチは悪かったが国防軍は悪くなかったという神話が出来上がったわけだ。そして「白バラ」の方も有名になりすぎたおかげで、他にもたくさんいた市井の反ナチ活動家たちが隠されてしまった面があったわけ。

先日紹介したばかりの盲人オットー・ヴァイトの抵抗だって、そして彼と関連があったローテ・カペレと呼ばれる普通の市民たちによる反ナチ活動だって、一般に知られるようになったのは最近のことだった。同時に国防軍が実は東部地域での一般人やユダヤ人の大量虐殺に関わっていたことも、やっぱり最近になってようやく知られるようになった。

「ジェネレーション・ウォー」でも国防軍兵士のトム・シリングは気弱ないじめられっ子の文学青年だったが、いつしか少女を正面から射殺するような虐殺者になっていく。また兄のフォルカー・ブルッフは脱走兵となる。こんな内容、おそらく西ドイツ時代には絶対に描けないストーリーだったのだろう。この本を読むとそれがよくわかる。でも惜しむらくは(ネタバレしちゃうけど)。トム・シリングは最後死んでしまうけど、実際は生き残って、当時のことにはほっかむりした元国防軍兵士がたくさん、その天寿を全うした。

ティモシー・スナイダーの「ブラッド・ランド」にもあった話だが、アウシュヴィッツがホロコーストの代名詞になってしまったけど、実は東部戦線では、アウシュヴィッツをはじめとした収容所で殺されたユダヤ人の数の3倍の数の人たち(主にユダヤ人)が殺されたそうだ。アウシュヴィッツはそうした、ドイツ人にとって「より不都合」な事実を押し留める堤防の役割を果たしたわけだ。

戦後のドイツは脱ナチ化を果たしたと思っていたが、対外的にはともかくドイツ国内ではとんでもなかった。東西ドイツが統一して関係者もどんどん鬼籍に入ってやっと真実が明かされるようになったわけだ。それは障害者大量虐殺計画T4作戦に関連して、ドイツ精神医学会がやっと反省の弁を述べることができるようになったのに似ている。

追記(2021, 1,21, 12:50)
昨日書き忘れたので追加します。

主役のバウマンら脱走兵や徴兵忌避者が復権するに当たって、時間以上に重要だったのが歴史学者たちの研究が与えた影響だった。裁判の判決にもそうした学問的な成果が強く反映されている。それを著者は次のように言っている。

「戦後史、とりわけナチス支配の過去の清算に関わるドイツの政治が反ナチ運動の研究成果と密接な関係にあり、その研究の成果を受容して文化政策・歴史政策(具体的には歴史教育・政治教育)が作られてきた(。。。)これを言い換えると、それだけ人文系諸学が今なお現実政治においても重要な存在となっているということだ。それを支えるのは「知」を尊重する歴史的伝統と風土だろう。」(p. 252)


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岡典子「ナチスに抗った障害者」

2020.12.14.23:06

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オットー・ヴァイトはナチスの時代のベルリンで、障害のあるユダヤ人たちをブラシやホウキを作る自分の盲人作業所に雇い、ゲシュタポとやりあい、ユダヤ人たちを無名の協力者たちと共に匿い続けた盲人である。オットー・ヴァイトの名前は拙ブログでも出したことがある(これは5年前に書いたことで、当時は山本太郎の主張など知らなかったが、彼が言っていることと同じことを書いているのは、我ながら自慢したい)

この本はヴァイトの生涯を追いながら当時のナチス期のユダヤ人たちや障害者の状況も詳しく描かれ、圧倒的な面白さだった。一般にナチスと障害者と言えば、拙ブログでも何度か書いた T4 作戦による重度障害者の継続的な虐殺が思い浮かぶが、軽度や盲・ろうの障害者たちはどのように生活していたのかは、考えたことがなかった。

驚いたことに、ナチスは多数の重度障害者を殺害する一方で、国家の労働力として活用できると考えた障害児たちに対しては、「就学義務法」を制定して彼らに就学の機会を与えたのである。1936年に「ヒトラー・ユーゲント法」によって青少年全員がユーゲントに加入しなければならなくなったときにも、それより前にすでに障害児たちのヒトラー・ユーゲントのようなものが存在していて、盲学校の生徒たちがハイル・ヒトラーの手を挙げている写真も掲載されている。ことほど隅々に至るまでナチスのプロパガンダが浸透し、国民たちがみんなナチスを支持していたわけだ。

一方でユダヤ人たちは海外へ移住しようとしても、高齢や障害が移住先から入国を拒否される理由になった。身内に障害者や高齢者がいるユダヤ人家庭に選択肢は二つ。移住可能なものだけが国外に逃れるか、家族みんなでドイツにとどまるかだった。映画「ソフィーの選択」みたいな選択はそこかしこで行われていたわけだ。そして1942年の「ヴァンゼー秘密会議」後は出国など論外、見つかればそのまま収容所へ送られるようになっていく。

そんな中で盲人ヴァイトは多くの無名の協力者たちと共に多くのユダヤ人たちを助け匿う。その手口は賄賂だった。そして隠れたユダヤ人たちのために闇市場で仕入れたものを融通する。しかしゲシュタポの一斉検挙や、密告、ナチスの手先となったユダヤ人の「捕まえ屋」によって、雇っていたユダヤ人たちは次々と捕まり収容所へ送られ、多くがそこで殺害される。

無名の協力者たちが面白い。ナチスに反抗的な警官たちが集められた第16管区警察署の無名の警官たち、牧師、医者、工場主、クリーニング店主、そして何より強烈な印象を与えるのが娼婦のポルシュッツだろう。それ以外にも多数の協力者がいた。

「ヴァイトのように今日までその名を知られている「英雄」でなくとも、当時のドイツには、ユダヤ人に対しそれぞれの立場でささやかな善意を示そうとした人々がいた」(p.131)し、「密告が奨励される当時のドイツでは、ヴァイトのような救援者の行動を口外せず、「見てみぬふり」をしてくれるだけでも立派な善意の表現だった」(p.139)のである。

シンドラーのリストが映画になり、ドイツ国内にもユダヤ人を積極的に助けようとした人たちがいたことが知られるようになり、おかげでこのヴァイトもベルリンのシンドラーと呼ばれているそうだ。しかし、自らも障害者だったヴァイトの方がシンドラーよりもずっと感動的だろう。それにこの本に描かれているヴァイトの姿の方がずっと深みのある映画が作れそうだ。ユダヤ人を単なる被害者にしているのではなく、「捕まえ屋」なんていうナチの手先も出てくるし、その「捕まえ屋」にも逃げ切る奴もいれば、お役御免で収容所へ送られる奴もいる。

上に書いた娼婦のポルシュッツのインパクトは大きい。戦後になっても、娼婦ゆえに不道徳な女とみなされた彼女は1977年に亡くなるが、写真は一枚も残っておらず、娼婦の彼女がユダヤ人を匿い続けたのはなぜかはわからない。しかも彼女は闇市での取引きで逮捕され、また厳しい「尋問を受けても一切口を破ることはなかった」(p.222) のである。彼女を「ナチスに抗った娼婦」という題名で本を書く人が出てくることを祈る。

ヴァイトはドイツ敗戦後もユダヤ人のための老人ホームと孤児院の運営に尽力した。だが、戦後のドイツでは東西どちらにおいても、ユダヤ人救援者たちに関心が湧くことはなかった。これは拙ブログで映画を紹介した、ヒトラーを暗殺しようとしたエルザーもそうだった。また海外でも悪の帝国にユダヤ人を救おうとした人たちがいたことは都合が悪かった。結局関係者がほとんどみんな死んでしまった今になってようやく、顕彰のためのプレートや、殺されたユダヤ人たちの名前の刻まれた「つまずきの石」が道に埋め込まれるようになったというわけだ。

不思議なことだが、こうした「沈黙の勇者」たちは戦後になっても自分たちが行ったことを声高に語ることはなかった。自分はユダヤ人を守ったのだと主張する連中は、その多くがナチスの主張に唯々諾々と従った連中たちだった(アウシュヴィッツでユダヤ人の生死の選別を行ったメンゲレは、選別を行ったことによって死ぬべきユダヤ人を救ったのだと言い放った)。

彼らはなぜ自らの命すら危険にさらしてまで、ユダヤ人を助けたのだろう? その理由は色々あるだろうけど、この本の最後の方にある話は、ただ救援者たちを「正義」にしてしまう(つまりレッテルを張ってしまう)のではなく、人として生きるということはどういうことなのかを考えさせてくれる一助になると思う。

「ヴァイトにとってもユダヤ人たちは単なる救援対象ではなかった。自分たちを心からしたい、信頼を寄せるユダヤ人たちの存在は、障害者として社会の中で「弱者」の位置に追いやられてきた彼に、人としての誇りを与えてくれるものだったろう。それは娼婦として蔑まれてきたポルシュッツにとっても同様だった。ヴァイトたちはユダヤ人に多くのものを与えたが、ユダヤ人たちもまた、ヴァイトたち救援者に多くのものを与えてくれたのである。」(p.252)


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大島隆之「独裁者ヒトラーの時代を生きる」

2020.12.03.21:58

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NHKで放映されたドキュメンタリー「独裁者ヒトラー 演説の魔力」の、番組内では放送できなかったインタビューをまとめたもの。この番組はYouTubeに上がってますね。大丈夫なのかな? 笑)


僕は、ヒトラーの時代を知る現在100歳前後の老人たちが何人もインタビューされるこのTV番組を、放送当時(去年のはじめ)見ているけど、印象として、どこか食い足りない感じがした。ヒトラーのことを語る老人たちの生き生きとした様子がどこか居心地が悪い気がすると同時に、ヒトラーの演説映像を見る老人たちがみんなニコニコと目を輝かせているのに、それをスルーしてヒトラーに誑(たぶら)かされた人々が戦争によってどのような運命を迎えたかという結末、兵士として死んだ若者たちの墓や殺害されたユダヤ人たちを祈念する「つまずきの石」(本の表紙がそれ)へ、強引につなげていったような印象を持った。

で、そのテレビでは映されなかった老人たちのインタビューがこの本に収録されているわけだが、その多くが実はどうやらTVでまとめることが難しい方向へ向かっていったものだったようだ。当時ヒトラー を熱狂的に支持した人たちにとって、戦後、当時の自分を全否定することなど、普通なかなかできるものではないのだろう。

老人たちの多くは戦争になる前までのヒトラーは良いヒトラーで、戦争をしたからこそヒトラーは悪者になったのだと信じている。つまり良いナチスと悪いナチスがあると。TVでも出てきたが、育ての親がユダヤ人だったので収容所に入れられ廃人同様になったにもかかわらず、ヒトラーを信頼しきって空軍兵士として戦った老人が、ヒトラーの演説を称して、ベートーヴェンの第九の最終楽章のような高揚感だったとニコニコしながら話し、ナチスの党歌を口ずさむ。結構ショックだ。

TV番組ではヒトラーの演説の魔力という題名通り、その演説がどれほど人々を魅了したかをメインに描いていたが、この本ではその演説に魅せられた人々が戦後になっても、戦争が終わって4分の3世紀も経っているというのに、そして戦後のドイツでいかにヒトラーがやったことがひどいことだったかが語られ尽くしたと思えるのにもかかわらず、三つ子の魂百までじゃないけど、当時の熱狂が忘れられず、いまだに魅せられていて、それを自分の中でどう辻褄(つじつま)合わせしようとするか、という心理が扱われている。

無論インタビューされている老人たちがいまだにヒトラーの考えを受け入れている差別主義者だとは全く思わない。彼らがヒトラーが主張したようなユダヤ人やスラブ民族は劣等民族だと、今現在考えているはずはない。彼らが嬉々として語るのは当時の感動・感激の思い出なのだろうと思うが。。。

全身全霊をかけて信頼を寄せ、そのために命すらかけた過去とどう向き合うか? なかなかリアルに想像できるものではないだろう。

この本、当時のドイツの状況をわかりやすくまとめていて、ナチスのことなんかよく知らないという人にもおすすめです。


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雨宮処凛「相模原事件・裁判傍聴記」

2020.11.23.23:55



裁判は終わり死刑の判決がくだって、世間はこの事件のことを済んだこととして忘れつつある。

この本を読みながら、少し前に山本太郎が語ったこの事件の分析のことをずっと思い出していた。「役に立っていることを社会に示したいから、役に立たないと思い込んだ障害者を殺した」というやつだ。著者の雨宮処凛は山本太郎の盟友であるから、当然こうした意見交換はしていたんだろうと思うとともに、ひょっとしてこうした問題についての山本太郎のブレーンが雨宮処凛なのかもしれないと妄想したりした。

事件当初、とうとうと自説を述べ続ける犯人にナチスの優生思想の再来かと思わされたこの事件。結局のところ「優生思想でもなんでもない。単純な嫉妬」「社会的に何もできない者(=障害者)が、優遇されてノウノウと生きているのに対するやっかみ」に過ぎなかったという最首悟の言葉が一番ピンとくる動機のように思える。

最後の雨宮処凛と渡辺一史の対談の中で、渡辺が言うことが、僕らも、そして何よりマスコミも、もっとしっかりと意識すべきポイントだと思う。つまり渡辺はこう言っている。少し長くなるが、書き写し、ポイントを箇条書きにしてアンダーラインを引いておく。

「この事件が報じられるたびに、植松被告の主張も繰り返し報じられるわけですが、彼の主張は、その前提からして間違っていることを指摘する人があまりいない。(中略)植松被告は「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」という主張から事件を起こしましたが、(中略)意思疎通の取れない障害者」を一方的に安楽死させるなどということは、安楽死が合法化された国であっても不可能です。(中略)植松被告の考えに同調して、「日本でも安楽死を合法化すべきだ」などという人がいますが、安楽死という言葉の正確な意味を知った上でそう言っているのか、そこをまずしっかり確認しなくてはいけない。」

本人の同意がない「安楽死」などない。それは虐殺というのだ。

「それともう一つ、障害者を安楽死させるべき理由として、「障害者にかかるお金は無駄だから」とか「それが財政難の元凶だ」などと植松被告は言っていますが、これも現実を見ると全く違います。日本の年間の障害福祉予算は、国の一般会計のたかだか1%台ぐらいで、さほど大きな額ではないです。国際比較をしても、日本の障害者関係の公的支出(対GDP比)は、OECD諸国の中で極めて低い水準にあることは専門家の間では常識なんです。」

障害者福祉の国の予算は財政難の元凶になるはずがないぐらい低い。

「さらにいうと、障害福祉予算というのは、別に障害者が飲み食いして懐に入れて浪費しているわけでは全然なくて、その大部分は健常者(介護者)の給料になっているわけですからね。」

しかも予算のほとんどはは障害者を介護する健常者の給料。

「そして、もらった給料の中から所得税を払い、住民税を払い、社会保険料を払い、日々の消費を行い、人によっては結婚して家庭を作り、その地域での暮らしを支えるお金になっているわけです。」

山本太郎がよく言う「誰かの借金は誰かの貯蓄・資産になる」を連想する。

「そうして、そうやって作られたケアの仕組みや福祉制度というのは、自分や自分の家族が困ったときにもお世話になれるシステムです。障害のある人たちがいるおかげで、そうしたシステムが発達してきたことを考えると、逆に障害者の存在が、社会を助けてくれているとも言えるんです。」

情けは人の為ならず、自分のためなんだよ、という話だ。当たり前の話だろう。

「メディアもあの事件を報じると同時に、植松被告の考え方は根本から間違っていることをしっかり発信することが大切だと思います。」(以上全て p.211ー3) 



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吉田裕「日本軍兵士」覚え

2020.10.15.12:03

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いやはや、むちゃくちゃだよ、旧日本軍。こんな国の兵士にならなければならなかったなんて、なんて気の毒な旧日本軍の兵士たち。

1937年の日中戦争の始まりから1945年夏の敗戦までのうちで、1944年以降に全戦没者310万の9割を占めるというのは、今話題の任命拒否された加藤陽子の本でもかつて教えられた

しかもその死者たちの半分以上は敵の弾に当たったのではなく、マラリアや栄養失調などの病死や餓死だった。また戦死として報告されることが多かった自殺者の数も、他国の軍隊以上に多かったという。

この本が書かれた理由の一つとして、著者は「日本社会の一部に、およそ非現実的で戦場の現実とかけ離れた戦争観が台頭してきた」(209)ことや「日本礼賛本」や「日本軍礼賛本」による日本軍の過大評価の風潮に対し、「戦場の凄惨な現実を直視する必要がある」(212)という思いだと言っている。

日本軍は個々の兵士の健康状態など気にもしない。例えば従軍歯科医師がほぼいなかったために虫歯の蔓延を引き起こし、内地部隊では古参兵や上官による理不尽な私的制裁(リンチ)により死者が出ても罪に問われず、結果、「極度の過労と栄養の不良が結核の温床となっ」(101)た。

すでに1940年から、補給兵站の不備を補うために現地調達、「現地自活」(つまりすでに常態化していた中国民衆からの略奪)を軍の方針として強行し、捕虜になることを禁じ(1937年にはまだ捕虜になることを認めていたそうだ)、作戦・戦闘を全てに優先させて「補給、情報、衛生、防御、海上護衛など」(139)を軽視し、軍服も軍靴もその他の装備も、そして何より兵器も敵とは比べものにならぬほどに劣悪であったにもかかわらず(それを指摘した前線からの書簡を東條英機は握り潰す)、最後はみんな死ねとばかりの特攻作戦。声変わりもしていない少年たちをかき集め死地に赴かせ、死なない奴は臆病者だと言わんばかりの上層部。そしてそう命令した奴らは戦後ものうのうと天寿を全うしたわけだ。

戦闘機パイロットだったある元陸軍大尉の言葉だ。

「戦争が激化する。負け戦が多くなり、戦死者が激増し始める。そうなると、本人の勲功の多少に関わらず、いつまでも生きている将や兵が白い目で見られたり、皮肉や嫌味を言われたりと言う奇妙な傾向が現れ始める。恨まれたり、妬まれたり、どうかすると戦死しなかったというだけの理由で卑怯者呼ばわりされたりもする(中略)それにしても、貴様はいつまで生きる気かなどと、上官が部下を捕まえて嫌味がましく口にする風潮というものが、果たしてアメリカやイギリス、中国の軍隊内にもあったであろうか」(121)

旧日本軍兵士たちは、敵の弾で殺された者の数よりも、間接的な意味も含めれば、味方に殺された数の方が多かったのだと言っても過言ではない。 


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古生物とベテルギウス

2020.01.27.18:06

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このところ並行して読んでいた本です。

今から5億年も前のカンブリア紀に「カンブリア爆発」と呼ばれる、生物の進化が一気に進んだことが書かれたスティーブン・ジェイ・グールドの名著「ワンダフルライフ」を少し前に読みました。理解しきれなかったところも多かったんだけど何しろ面白くて、もっと図版の多いものをと思い購入したのが土屋健著の「エディアカラ紀・カンブリア紀の生物」というこの本。

期待にたがわず化石の写真や古生物の絵が豊富でとても楽しく読めました。グールドの本がもう30年前のものであるのに対して、こちらは2013年発行なので、カンブリア紀より前のエディアカラ紀のことや、グールド本で扱われていたバージェス頁岩より古い澄江(チェンジャン)で見つかった化石など、この間にわかったこともたくさん盛り込まれています。

一方でこのところ明るさが異常なほど低減したというニュースが飛び交うベテルギウス。新聞でも話題になってますね。明日にも爆発するんじゃないかなんて言われてもうだいぶ経ちますが、去年の秋ぐらいから一気に暗くなっているそうです。爆発すれば昼間でも見えるぐらい明るくなるそうで、数週間は続く派手な天文ショーになると言われています。

で、2011年に出た野本陽代「ベテルギウスの超新星爆発」、買ってからず〜っと忘れていたんですが、部屋の整理をしていたら出てきたので、古生物と並行して読んでみることにしました。

まあ結論から言えば、「明日にでも爆発か」と言われるけど、宇宙の世界での「明日」って言うのも上記の古生物の話と同じで、「今日から10万年後までのいつ爆発してもおかしくない」(p.37)っていうことみたいです 苦笑)

また、超新星爆発すると、640光年という比較的近い距離 笑)なのでガンマ線など有害なビームによってオゾン層が破壊されるんじゃないか、なんていう意見もあるらしいですが、この本によれば、この心配もベテルギウスの自転軸が地球の方向とはずれているから大丈夫とのことです。

でも、この本でベテルギウスのことに絞って書かれているのは前半だけで、後半は宇宙論の歴史と最新の、宇宙の膨張が加速しているという話などが書かれているので、表題はベテルギウスの話題に引っ掛けて、釣り気味の題名かも 笑)

カンブリア紀が5億年、宇宙の年齢は137億年、地球の誕生は46億年、なるほど10万年なんて宇宙にとっては「明日」ですね。なお、カンブリア紀の頃には無論まだベテルギウスは誕生していません。

また、この本によれば、星の誕生というのは、分子雲の中でいくつもの濃いガスの固まりが作られて、徐々に星になっていくんだそうで、一個だけ生まれるというよりはいくつもの星が同じ時期に作られて集団を形成するものなんだと。つまり、太陽にも兄弟に当たる星がいくつもあったはずなんだそうです。だけどできて46億年、その間にまとまりをなくし、離れ離れになり、今では太陽の兄弟に当たる星がどれなのかは全くわからない。

でもひょっとしてカンブリア紀の生物たちが生きていた頃にはまだ太陽の兄弟星がはっきりわかる程度に空に輝いていたのかも、なんて考えるとちょっと楽しい。そもそも5億年前の星々は現在とは配置が随分違っていたはずです。

で、こんなことを考えながら読んでいました。人類(ホモ・サピエンス)なんて誕生して高々20万年、猿と見分けがつかないようなヒト属でも700万年。それに対してカンブリア紀の、例えばアノマロカリスなんかは誕生から絶滅まで5000万年以上だし、三葉虫に至っては2億年以上栄えたわけ。あっ、身近なゴキブリだって3億年ぐらい前からいます。生きた化石だもんね 笑) しかし、それに対してホモ・サピエンスはこのままでいけばあと数百年ももたないでしょうね。

というわけで最初に書いた古生物の本、これはシリーズでこの後「オルドビス紀・シルル紀の生物」、「デボン紀の生物」、「石炭紀・ペルム紀の生物」。。。と全10巻まで続いて行きます。のんびりと暇なときに図版を眺めているだけでもかなり楽しそうです。


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加藤直樹「トリック」覚書き

2019.12.14.13:40

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関東大震災時に行われた人種差別に基づいた大虐殺(あえてこの言葉を使いたい。なぜなら、同じように人種差別に基づいたナチスドイツによる1937年の「水晶の夜」事件での死者が100人足らずだったのに、こちらの死者は数千人に上るからである)については、同じ著者の本を紹介したことがあったのでそちらもご覧いただきたい。

「加藤直樹「九月、東京の路上で」覚書き」

なぜ題名が「トリック」なのかといえば、虐殺否定を主張する工藤美代子・加藤康男夫妻の本が、書いた本人たちですら信じていないようなことを、様々なトリックを用いて強弁しているからである。この本では主にこの工藤・加藤夫妻の書物を取り上げ、その「汚い」(言葉の正しい意味で「汚い」)やり方を徹底的に暴く。

世の中には資料を誤読して、間違ったことを主張している本はたくさんあるだろう。だが、夫妻の書いた本は、悪意の塊である。様々な文献の都合の良いところだけを引用、都合の悪いところは省略して、あたかも震災時に朝鮮人による暴動があったかのように書くのである。完全なデマ、のちになってそれがはっきり否定されるデマの部分を切り出して、それを暴動のあった「証拠」だと言い張り、果ては存在しない史料や証言を捏造するのである。

関東大震災では昼食どきだったため、大規模な火災が起きた。それを「火災があれほど広がったのはおかしい、誰かが放火したに違いない、だから『朝鮮人の放火があったとされるゆえんである』というめちゃくちゃな三段論法」(p.68)。こんな「汚い」本をよくまあ出版社も出したものだと呆れる。産経新聞出版部だそうだ 笑)

少し前の山本太郎の街宣でも、質問者が震災時の朝鮮人の暴動のことを唐突に発言して、山本太郎がいなしたことがあった。また、僕自身、一見ネトウヨではないかのようなふりをしながら、偉そうに海外の文献がどうとかこうとか言っているネトウヨ氏から何度もコメントももらったことがあった。無論それには当時の僕の分かる範囲で反論したが、今なら同じようなコメントを貰えば、この本をもとに、完膚なきまでに論破できる。

何れにしても、読みながらデ・ジャ・ヴ感満載だった。つまり以前紹介した山崎行太郎の曽野綾子批判「南京事件」を否定する連中「沖縄問題」のデマを流す連中映画「主戦場」に出てきた慰安婦問題を否定する連中と同じなのだ。彼らは「事情を知らない一般読者を驚かせ(。。。)耳目を引きつけることができれば、それで十分なのである」(p.85) 「実際にあったか否かについて二つの対立する学説がある、と言う構図にさえもっていければ、否定論者の”勝ち”だと言うことだ。そうなれば一般の人々は、歴史の素人である自分にはどちらが正しいかわからないので判断保留にしようとか、真実は多分その中間にあるんだろうとか考えるようになる。」(p.135)

しかし、これらの否定論者たちはみんな、あったことをなかったことにして、何がしたいのか? そしてそれにコロッと騙されてしまう人たちがいる。ただ、こういう人たちはおそらく信じたいんだろう。なぜそんな、冷静に考えれば誰が考えたっておかしいと思うようなことを信じたいんだろう? まあ、よく言われるように、自己肯定感を個人ではなくもっと大きな国というものに仮託しているんだろう。自分はもっと尊重されるべきだという不満が、そのはけ口として少数者に対する差別意識と結びつく。残念だけど、そういう人たちはこの本を手に取ることは決してないだろう。

だが、嘘を承知で書いた人の方は、まさか信じたい人たちの自己肯定感だけのために、言うなればそういう人たちが気持ちよくなれるだけのために、この本を書いたわけではあるまい。

「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ(万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のために尽くせ)」(教育ニ関スル勅語のウィキより引用)

つまり「美しい国」ニッポンのために、ひいては自分たちのために一般庶民が死んでくれることを密かに願っている、そういう人たちがいるのである。


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「ファクトチェック」と「古生物」

2019.11.06.23:32

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正式な表題は「琉球新報が挑んだファクトチェック フェイク監視」と「ああ、愛しき古生物たち〜無念にも滅びてしまった彼ら〜」と言う2冊です。

両方とも市立図書館から借りてきたもので、ファクトチェックの方だけ読み始めたんだけど、何しろ出てくる話の不快さ、気持ち悪さに、これだけ読んでると頭おかしくなりそうだわ 笑)と思って、前から機会を狙っていた古生物の絵本も並行して読んで、精神的なザワザワ感を中和させようとした次第。

ファクトチェックの方は主に沖縄市長選挙の時にネットで拡散されたフェイクニュースと、それに対して琉球新報が新聞紙上で行ったファクトチェックの記事をまとめたもの。

何しろ悪質なフェイクは与党を応援(?)する陣営からのものが圧倒的に多い。そしてその悪意に満ちたフェイクニュースが、差別をネタに楽しんでいる人たちによって拡散されていく。だが、「連日、悪質な投稿を繰り返していた複数の登録者(=サイト)が、県知事選終了後、ピタリと投稿をやめ、登録を削除した」(p.86) つまり、デマを広めるためだけで作られたサイトなのである。おぞましい話である。

こういうことだ。「選挙は民主主義の根幹をなす重要な制度である。怪情報を流布させて対立候補のイメージダウンを図る手法が横行するなら、政策そっちのけの泥仕合になってしまう。民主主義の自殺行為でしかない。」(p.54)

というわけで沖縄に限らず、デマの発信は与党応援団から発せられるものが圧倒的に多い。これは歴史がいずれ検証するだろうけど、今という時代の日本の社会は、後世間違いなく日本人が恥じるものになるだろう。

いや、そもそもが差別的でヘイトを含むフェイクを広めている人たち自身が、自分がやっていることが恥ずかしいことであると、冷静になった時には自覚している。それは少し前、かなり悪質なヘイト発言を撒き散らしていた世田谷区の年金事務所長が、本名がバレた瞬間に、自分の過去の発言を削除し、同時に謝罪したことでもわかる。彼は自分がそれまで匿名でやっていたことが「悪いこと」だとわかっていたのだ。

匿名だからできるのだ。本名では言えないような心の奥底にある悪意の塊を、匿名だと言えてしまう。そう言えば、FBなどでも明らかにネトウヨだと思える発言をしている人はだいたい匿名だったり自分の写真を載せない。逆に安倍を批判している人たちは自分の写真を載せている人が多いし、本名(おそらく?)を名乗っている人が多い。

と、そんな不愉快な気分を払拭するのは、やっぱり古生物だよ。なん億年も前に生きていたアノマロカリスに思いを馳せると、それだけで、今という嫌な時代を忘れることができる 笑) この本ではイラストがとても魅力的で、話も面白い。暗い本や重い本、腹の立つ本を読む時には、やっぱりネアンデルタール人とか古生物のような化石時代の話や、宇宙の話を一緒に並行して読むと精神衛生上いいです 笑)


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山崎雅弘「沈黙の子どもたち」

2019.10.21.22:53

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この本は完全に表紙に惹かれて手に取った。副題は「軍はなぜ市民を大量殺害したか」 

扱われているのはゲルニカ、上海・南京、アウシュヴィッツ、シンガポール、リディツェ、沖縄、広島・長崎で、この中ではシンガポール(中国系の市民の日本軍による虐殺)とリディツェ(ハイドリヒ暗殺の報復として地図から消された村)以外は誰でも聞いたことがあるだろうと思う。

そして、これらの話の中で、南京やアウシュヴィッツ、リディツェについては拙ブログでも映画や本と絡めて書いたことがある。

南京関係は:
清水潔「『南京事件』を調査せよ」
南京事件個人的論争顛末記 笑)
笠原十九司「南京事件論争史」

アウシュヴィッツは:
ギッタ・セレニー「人間の暗闇」など(完全ネタバレ)
映画「否定と肯定」
映画「サウルの息子」

リディツェは:
ローラン・ビネ「HHhH」
映画「ハイドリヒを撃て」

だけど、読んでいてめまいがするほどの怒りを感じたのは沖縄の章だった。米軍に投降した市民(乳幼児まで含む)を殺害した後、自らは米軍に投降して戦後を生き延びた指揮官たち。しかも、彼らは戦後になってインタビューを受けても全く反省の色を見せず、それどころか胸を張る。

鹿山正や、大江健三郎の裁判で有名になった赤松嘉次のインタビューの一部が再録されているが、怒りのあまり頭がクラクラした。アメリカ軍からの依頼で降伏を説得に来た女子供を即座に殺害したり、一家皆殺しした後、家に火を放ち、5歳や2歳の子供やもっと小さな乳児の殺害を「措置」と称して正しかったと言い張り、良心の呵責もないどころか、日本軍人として誇りを持つと言い放つ(p.210以下)。

先日ここにも書いた「日本鬼子(リーベンクイズ)」に出てきた皇軍兵士の老人たちも中国で同様のことをしたが、鹿山や赤松のように開き直りはしなかった。これだけでもこの両者には何か決定的な違いがある。

一方、シンガポールでもあるいは沖縄でも、シンドラーや杉原千畝、あるいは「戦場のピアニスト」に出てきたユダヤ人を救うホーゼンフェルトのような人が日本にもいたことが挙げられている。シンガポールで市民を救った篠崎護や、虐殺直前に市民たちを逃がした無名の日本兵の話がホッとさせられる。また沖縄ではひめゆりの少女たちに自決せず投降するよう命じた永岡敬淳大尉の名前が出ている(しかし、厄介なのはこういう人格者たちを持ち出して日本軍の蛮行の否定につなげようとする人がいることである)。

書かれているのはどれも凄まじい話だけど、この本ではそれぞれの事件の情景を描き、それぞれそのような非人間的なことが行い得た理由が語られている。でも結局は差別意識と想像力の欠如が大きい。敵は人間ではないという差別意識と、そこで死んでいく者たちのことを想像する力の欠如。そしてこの本でもう一つ強調されているのが、上官の命令という絶対的権威。命令だったから仕方がなかったのだ、という言い訳はアイヒマンもアウシュヴィッツの所長ヘスも言っていることだ。

この本では最後にドイツと日本が戦後になって市民の大量殺害とどう向き合ったかが書かれている。現在のドイツの軍人法には、「第二次世界大戦期における国防軍や親衛隊の「命令への絶対服従」がもたらした負の歴史への反省に基づき、上位者の命令を絶対的権威とは見なさない、つまり「無条件の絶対服従」を下位者に要求しない制度を用意している」(p. 268)そうである。兵士には「抗命権」があり、実際にそれが行使された実例も載っている。

仮に市民を殺すような命令に対して、兵士にはそれに従わない権利が保障されたというのは、逆に言えば、命令を下す方にとっても非倫理的な命令をためらわせる効果がある。

一方の自衛隊法は、「上位者は常に無謬であり、間違った命令を部下に下すことはないという、かつての日本軍と同様の「上位者無謬神話」に基づいて策定されている」(p.280)

まあ、軍隊など無くしてしまえば市民を大量虐殺もなくなると簡略化してしまいたいところだが、現在の日本ではこれは説得力がまるでないだろうな。そうであれば、この兵士に与えられた「抗命権」は、現代のこの世に存在する軍という組織が国際法に違反したり、個人の尊厳や良心の自由を侵害するような行為をしないようにするための歯止めに、かろうじて、なるのかもしれないと思う。


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薬師院仁志「ポピュリズム」覚書き

2019.08.27.23:29

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ものすごくわかりやすくて面白かった。

ポピュリズムっていう言葉は今世紀になってやたらとよく聞く言葉だけど、どうも意味がよくわからない言葉だった。よく言われていたのは、この本でも徹底的に批判されている橋下徹だろうけど、最近では山本太郎までポピュリストのレッテルが貼られる。でも、僕の印象ではポピュリズムというのは扇動によって「ザマアミロ」と悪意を掻き立てる、というものだったから、山本太郎をポピュリストというのはどうも違和感があった。そういうわけで、この言葉のもっと正確な定義を知りたかったのが、この本を読んだ理由だ。

しかし面白かった。いろいろとアフォリズムと言いたくなるような文が出てくる。例えば、「多くの人々の『本音』が汚れていくとき、ポピュリズムが台頭する」(p.18)とか、「ポピュリストによる民衆扇動は、まるでパンドラの箱を開けるように、誰もが心に抱える負の部分に火をつける」(p.64-5)なんて、僕のポピュリズムという言葉のイメージとドンピシャで一致する。

この本によれば、ポピュリズムの定義としては、反エリート・反エスタブリッシュメントであることが第一条件である。ポピュリストたちはまず自分たちが国を支配する一握りのエリートに対して反旗を翻す人民の代表者であると自己規定する。そして、自分たちを批判する学者やインテリたちは人民の敵なのである。厄介なことに、彼らは「批判を浴びれば浴びるほど、人民の敵たるエリート層との戦いを演出しやすくなる。自分を批判するものこそ、非エリートたる人民の敵だ」(p.92)とすればいいのだ。

続いて、ポピュリストたちは論理的な議論は放棄し、人々の感情に訴える。人々が誰でも「心に抱える負の部分に火をつける」(p.65)。「中身を持たないポピュリストたちは(。。。)他者を否定することによってしか自分を肯定することができない」(p.83)。だから「架空の敵を作り上げる」(p.73)が、実際にその敵が存在してなくても構わないのである。「メディアを駆使して敵の幻影を膨らませることに成功すれば十分」(p.73)なのである。しかも、扇動には「中身のない旗印 ー「改革」がその典型ー を掲げるのが最も好都合」(p.163)なのである。

つまり、「現代型ポピュリズムは、『人民vs人民の敵』という二元論と、『デマと民衆扇動の結合』という2つの特性を持つことになる」(p.79)。ポピュリストの「こうした扇動は、民意に迎合した支持者獲得というよりも、むしろ民意を誘惑する信者獲得に近いであろう」(p.83) 。

この本ではこうしたポピュリズムがはびこる原因として2つのことが強調される。1つは民主主義が多数決だと勘違いしている昨今の風潮である。つまり、代議制民主政治というのは、「全国民の縮図となるように代表者を選び、議会で熟議を尽くし、合意形成を図ること」(p.101)であるはずなのだ。ところが、ポピュリストは「選挙を、国民の代表を決める手続きではなく、国民からの権力移譲を正当化する儀式に掏り替える」(p.84) 。 本来「普通選挙は、代表者を選ぶ手続きであって、権力を委譲する人物を定める手段ではない」(p.102)はずなのに。

選挙は我々国民の中から代表者を選ぶ手続きなのだ。だからこそ、今回のれいわのふなごさんや木村さんという重度の障害者が選ばれたことの意義があるのだ。去年(2018年)の記事だが、障害ある人は人口の7.4%だそうである。障害といっても様々だからこの統計は乱暴といえば乱暴だが、それでも国会議員の数は700人強。その7%は50人近くになる。障害者の代表としてこの二人プラス国民民主の横沢議員をで3人というのは少なすぎると言えるだろう。

閑話休題。このように民主主義が多数決だと勘違いすれば、まっとうな議論など封殺され、「多数さえ押さえれば、『悪』に政治的正当性を付与(。。。)することが可能となる」(p.115)のである。ここから先はもう全体主義へまっしぐらだ。

もう1つ、ポピュリズムがはびこる原因としてあげられるのが、小泉の頃から盛んに言われ出した「小さな政府」というキーワードである。これまた勘違いされることが多い言葉だが、本来の「小さな政府」は(。。。)単に官や公に所属する人間の数が少ないことではない(。。。)小さな政府と人件費が安上がりな政府とを混同してはならない。小さな政府は自由放任を旨とするものであり、強い力を持たないのである。独裁者が強大な公権力を握り、国民を全面的に統治するような体制は、小さな政府などではない」(p.105)のである。

山本太郎が政権を取ったらすぐにやるとした8つの緊急政策の中に、「公務員を増やす」というものがある。ところがこれがすこぶる評判が悪い。リベラルな人たちの間でもこれにだけは反対だという人が多いが、先進国の中で比べれば、日本の公務員数の比率は極めて低いのである。比較的比率の低いドイツでも日本の2倍の比率の公務員がいる。アメリカで3倍弱、スウェーデンなんか4.6倍だ。そして日本の公務員の給与は逆に突出して高い。本来、公務員の給与は民間の給与の基準とされるべきはずだと思うのだが?

何れにしてもこの「小さな政府」という言葉は影響力が強く、そこには橋下が盛んにやった役人批判の影響も大きいのだろう。要するに「安上がりの政府をつくることが『民』を助けることであり、それが『民』主主義だと」(p.108)勘違いされ、それは極端な話、「一人の為政者が最小の政府」で、「独裁者への全権委任が最も安上がりだ」(p.108)となりかねないのである。

つまりポピュリズムから独裁や全体主義まで想像以上に近い。

この本では他にも「リベラル」という言葉が日本では完全に誤解されていることや、トランプやフランスの国民戦線の巧妙なアジテーション、あるいは世界で最も民主的だとされたワイマール憲法のもとでヒトラーが生まれたことなども説明されている。

とてもわかりやすいしガッテンいく解説で多くの人に読んでもらいたいと思った。何れにしても山本太郎を「ポピュリズム」というキーワードで語ることの間違いは理解でした。


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金子勝「平成経済 衰退の本質」

2019.06.22.01:41

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平成の30年間の日本経済の惨憺たる歴史を説明解説するとともに、華々しく打ち上げられたアベノミクスとやらを「出口のないネズミ講」として徹底的に批判した本。批判だけでなく、このポスト平成の経済活動はどうあるべきかの提言も最後に述べられるが、なんども書いてきたように僕は経済については全くの音痴である。だからこの本に書かれている細かい経済用語の多くが理解できていない。それでも平成の時代の日本経済というより日本社会の凋落ぶりはわかる。ある意味、僕が自転車ロードレースに興味を持ってきた30年、この年のツール・ド・フランスの優勝者は、と考えると、芋づる式に当時の自分の状況も思い出されてくる。

1986年の日米半導体協定から日本の産業の弱体化が始まる。その後のバブル崩壊からその後始末となる銀行の不良債権処理の失敗で、企業は経営破綻を避けるために借金の返済に努め、政府も企業に対する減税でこれを支援、借金返済後もこうした政策が続けられた結果、企業は利益剰余金(内部留保)を積み上げ、賃金抑制と雇用解体によって非正規雇用が増えて格差が拡大していったというストーリーは実感として理解できる。

そこに至る原因は単純明快だ。戦後の日本の無責任体質がすべての原因である。この無責任体質に乗って、バブル崩壊後も経営責任や監督責任は曖昧にされ、平成は「失われた30年」になった。

無責任体質どころか、戦犯が総理大臣になったのだ、この国は。天皇は我が身を守るために沖縄をアメリカに譲り渡し、原爆投下すら容認した。最高責任者が責任を取らなかったのだ、それより下の、若い人たちを無意味に死なせた戦争の責任者たちの多くが知らん顔を決め込んだのは当然である。

この無責任体質は「新自由主義」と親和性が高く、「すべては市場原理が決めると言う論理は、なにもしない「不作為の無責任」を正当化」(p.94)する。「責任を問われるべき経営者や監督官庁にとって、これほど都合の良い政策イデオロギーはなかった」(p.94-5)と言うわけである。

これまでも拙ブログで書いてきたように、僕は「自己責任」という言葉の胡散臭さをずっと書いてきた。本来責任を取るべき権力者たちが責任など取らず、一般庶民に自己責任を押し付ける。困っている人を見捨てるための便利な言葉だ。

「コンクリートから人へ」を謳った民主党政権も、その意味ではこの流れを止めることはできず、そこに東日本大震災とそれにまつわるフェイク情報が重ね合わされて、結局まともなことをほとんど実行できなかった。

第二次安倍政権になると「中韓に追い抜かれつつある国民の屈折した感情を、戦争責任を曖昧にする歴史修正主義で解消」(p.123)しようとすることで、人々の心の奥底にある差別意識を解放させて、いわば溜飲を下げさせて人気を得ようとした。

同時に途上国の独裁政権ではないのか?と思える仲間内の優遇や不正の数々(森友、加計、南スーダン日報、データ隠しに基づく「高度プロフェッショナル」制度、勤労統計などの統計不正、閣僚のスキャンダル)。「安倍政権は税金を集め、その税を使って支出して国民を統合するという、まっとうな政治の基盤を徹底的に壊してきた」(p.128)のである。

安倍政権になってから法人税減税による減収は5.2兆円で、その結果は企業は内部留保を積み上げ、企業同士が受け取る配当収入を増やしただけだそうだ。

先日の共産党の小池晃の、「大企業に対する法人税を中小企業並みにすれば4兆円、株で儲けた富裕層に対する所得税をまともなものにするだけで3兆円がでてくる」というのを聞けば、安倍がやっていることは、国体(=天皇)が守られさえすれば、国民は死滅してもいいと考えていた大日本帝国と変わりはない。実際、この本が出た後に起きたことだからここには書かれていないが、年金は当てにするな、自己責任で老後のために2000万貯めろというのなど、国のあり方として絶対に許されるものではない。

さらに原発にしがみつき、世界的なエネルギー転換から置いてきぼりを食らっているとともに、再生エネルギーをめぐる新たな産業の芽を摘んでいる。そもそも生活保護の給付金を減らすことには賛成する人たちは、その額とは比べ物にならない「もんじゅ」や六ヶ所再処理工場での無駄遣いを何故怒らないのだろう?

それにもかかわらず、安倍政権は潰れない。多くの人たちが安倍政権を積極的に支持しているわけではなく、他に支持できるものがないからという消極的な理由であることは世論調査などからもはっきりしているのだが、それを支えているのが、安倍政権のポピュリズム、つまり「人々を煽る扇動型ではなく、人々を諦めさせる黙従型」(p.136)のポピュリズム(=衆愚政治)であるという。

要するに公文書やデータを改竄して失敗をごまかし、政治家がいくら不正を行っても謝罪会見だけして居座り続け、沖縄の民意を無視して工事を強行し、まともに審議もしないで強行採決で欠陥法案を採決していけば、人々の間に「またか」という気分が蔓延し、それに慣らされていく。「諦めとニヒリズム」だけが引き出され、人々を政治から遠ざける。投票率が低い選挙なら組織票がある党が勝つのはわかりきったこと。前にも書いたが、この政権はめちゃくちゃをやって国民に呆れられれば、それだけ安泰になるのである。

そしてアベノミクスという「出口のないネズミ講」は、「我が亡き後に洪水よ来たれ」という究極の無責任体制である。

この本には最後に(1)社会基盤として透明で公正なルール、(2)教育機会の平等、(3)開発独裁国家のような「縁故資本主義」をやめて、新しく伸びている産業(情報通信やバイオ医療やエネルギー転換)を念頭に置いた「成長戦略」、(4)電力会社の解体、(5)地域分散ネットワークシステムへの転換、(6)財政金融機能の回復が提言されている。これらすべてが現在の悲惨な日本社会にとって本当に救いになるのかどうかは、専門家ならぬ僕にはわからないけど、(1)や(2)、(5)などは普通に納得できるものだ。

僕が理想だと思っている拙ブログのモットーのような、「社会は強い者がより強くなるようなためにあるのではない」という社会、それは、たとえ今すぐに安倍政権が潰えたとしても、かなり時間がかかることなんだろう。


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金子文子「何が私をこうさせたか」覚書き

2019.04.13.22:47

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先日紹介した映画「金子文子と朴烈(パク・ヨル)」で、意地悪な看守が、金子文子が書いた獄中手記を読んで徐々に二人に同情するかのように態度を軟化させ、最後はひっそりと彼らの裁判の傍聴までするというエピソードが挟まれていた。僕としては、この看守役のあごひげの、いかにも高圧的な官憲らしい顔と、その後の何か感じるところがあるかのような顔にとても心打たれた。

その獄中手記を読んでみたいと思って、図書館で予約したら、映画のせいもあったのか、2人待ちだった。で、読んだ。なるほど、ものすごい話だった。この本は、映画でも彼らに同情的な検事として出てきた立松懐清の勧めに従って幼い頃からの生い立ちを書いたものだけど、よくもまあ、こんな人生を送ってきた22、3の娘が、これほどまでに立派な文章を書けることに、まずびっくりする。

父と母は金子文子の出生届を出していない。そして父は母の妹と駆け落ちする。残された母の方も、次々と男を変える。しかし何れにしても呆れるような貧乏暮らし。文子は無籍者ゆえに学校にも行けない。朝鮮の祖母と叔母の元に預けられると、もうほとんどグリム童話の継母か魔女のお婆さんにいぢめられる娘状態。まあ凄まじい。

さらに日本に戻ってきてからもろくな目に合わないで、露店で粉石鹸を売るところなどアンデルセン童話のマッチ売りの少女を連想して、胸ひしがれる思い。キリスト教に救いを求めたり、社会主義者たちに希望をつないだりするけど、どちらも欺瞞を感じて幻滅する。

そうしたことが実に表現力の豊かな言葉で語られるのだが、その文才に本当に驚かされる。ものすごく頭の良い人だったのだろう。ただ、朴烈というアナーキストに惚れた彼女が、アナーキズムについてもっと雄弁に語るかと思ったのだが、それはほとんどない。

朝鮮時代を回顧して「朝鮮にいる時私は、自分と犬とをいつも結びつけて考えていた。犬と自分とは同じように虐げられ同じように苦しめられる最も哀れな同胞(きょうだい)かなんかのように感じていた」(214)と書くのだが、これがのちに朴烈の「犬ころ」という詩に感動することに繋がるのかもしれない。

朝鮮時代、一度は死のうとしながら、世の中には愛すべきもの、美しいものがたくさんあると感じて死ぬのをやめた彼女が結局刑務所内で自殺してしまうのは、ひょっとしてこの手記を書いたことで自分の存在証明を全うしたと思ったからではないか、そんな気がする。


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吉村仁「強い者は生き残れない」

2019.04.07.16:17

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副題は「環境から考える新しい進化論」。すでに10年前の本なので、進化というのが強い者が生き残ってきたわけではないというのはもう一般的になっていると思う。なのに、21世紀に入り、ナチスとともに滅んだと思われた社会ダーウィニズムが復活したような感じだ。生存競争は「競争」である以上強い者が勝つと考える弱肉強食の世界。それを是とする経済活動。弱い者が困窮するのは自己責任だと言われ、それで納得させられてしまう社会。勝てば官軍、勝つためには倫理意識など吹っ飛ばしてなんでもあり。

だけど、ちょっと冷静になって考えれば、このまま行けば人類は滅ぶのではないかと感じる人もいることだろう。僕もそう考える一人だ。

この本は地球40億年の生命の歴史をバックに、環境変動のリスクを避ける様々な生物の生存戦略の例をあげながら、生物が環境の変化にどのように対処して生き残ろうとしているかを解説する。環境変動はダーウィンの自然選択説には取り込めていなかった要因だそうである。そして生き残っているのは「強い者」ではなく、環境の変動に対して共同で協力しあった者だと主張する。それを様々な生物の世界を例にし、「共生する者」が進化すると結論づける。当然の帰結として最終章での現在の新自由主義的な社会に対する批判は手厳しい。

同時に北欧の社会民主主義に一つの可能性を見ている点で、僕としてはとても嬉しい。「国民に対する社会保障が厚く、日米の格差社会が生むような、困窮する階層がない。誰も生活苦に見舞われないような社会を維持するために、自由競争をある程度制限し、高い税金を貸して、福祉・環境・医療などの社会保障を充実させている。これらの国々の制度は、協力体制の進化という点では重要で、人類の将来のあるべき方向の一つの可能性を示していると思う。」(p. 209)

生物の40億年に渡る歴史は大量絶滅の歴史だ。一番直近なのが6500万年前の恐竜が絶滅した隕石の衝突とされるけど、過去わかっているだけでも5回の大量絶滅があった。そして現在人類が環境に圧力をかけたことにより生物の大量絶滅の6回目が進行中である。人類だってこのままいつまでも安泰ではないだろう。「社会の中で、ある生物がどんなに相対的に有利になったとしても社会全体が崩壊してしまっては、元も子もない」(p.220〜1)のである。

前にも書いたけど、僕はこのところよく、2〜3万年前のネアンデルタール人の絶滅のことを考える。最後のネアンデルタール人はジブラルタル海峡の洞窟で海を見ながら死滅したと言われる。なんて寂しい風景だろう。現生人類だって、近い将来、そういう日がやってくるのだろう。しかし、それを少しでも遅らせようとするのが僕らの考えるべきことではないだろうか? 共生社会はどうやればできるのだろう?



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斎藤美奈子「日本の同時代小説」

2019.04.02.00:07

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先ほど読み終わったところだけど、いやあ、むちゃくちゃ面白かった。時代と小説の繋げ方、切り取り方に感心した。

僕よりも少し前の世代だと、文学というのは男子がおのれの一生をかけて悔いなきもの、たとえ人生を棒に振ったとしてもそれだけの価値があるもの、というイメージは素朴に信じられてたはずだ。それを称して斎藤美奈子は「ヘタレ知識人」や「ヤワなインテリ」の貧乏自慢、タワケ自慢、恥自慢と一喝、昭和初期の私小説とプロレタリア文学もどちらもこの傾向があると喝破する。斎藤美奈子は僕と同じ年。だけどこんな表現、絶対男には思いつかない。これって変な意味ではなく、女性だからこそ見抜けたんじゃないかなぁ? 

1960年代から10年ごとに区切って2010年代(2018年)までの社会的な背景をからめながら、その時代の主流となった文学的傾向が実にうまくまとめられている。伝統的な「私小説」と「プロレタリア小説」という括りが現在にまで姿かたちを変えて連綿と続いていることを明らかにする見立ても痛快。私小説が郷ひろみに繋がってっちゃうのなんか、怒る人もいるかもしれない 笑) それ以外にも、あまた出てくる「決めの言葉」に笑わされる。

例えば、平野啓一郎の西洋中世を舞台にした「日蝕」を「コスプレ」と称しているのは大笑いした。あるいは村上龍を「破壊派」、村上春樹は「幻想派」、中上健次は「土着派」なんて言う。個人的に記憶に残る小説が出てこなかったりすると残念だけど(例えば僕としては在日韓国・朝鮮人作家たち)、切り取り方だから致し方ないだろうし、きっと文学史的な意味での名作はほぼ網羅されているんだろうと思う。

あちこちに赤ペンでラインを引き、紹介されている小説で面白そうなものがあると付箋を貼って、実に楽しい読書体験だった。こうして時代ごとに分けて説明されると、自分がかなり偏った読書をしていることもわかった。60〜80年代の小説に比べて、90〜2000年代の小説は読んだことがあるものがぐっと減って、2010年代の小説になると読んだことがあるものが再び増えた。60〜80年代や2010年代だと読んでなくても名前ぐらいは知っているものが多いのに対して、90〜2000年代は題名を全く聞いたことがないものがかなりあった。個人的にこの頃は日本の小説にあまり興味を持ててなかったんだな、と得心した次第。

しかし1960年以後の小説をこうして俯瞰的に見直すと、21世紀に入って新自由主義とやらで弱肉強食化した日本の社会がどんどんひどくなっていることが実感される。何しろ戦争と格差社会とディストピアが21世紀になってからのキーワードとされているぐらいだから、20世紀はいろんな悩み苦しみがあったとしても、のどかな時代だったんだな、と思えてくる。

読んだことがある小説が紹介されていると嬉しいけど、紹介の仕方がうまいので、読んだことがないものは読みたくなるし、何よりその時代とのつながりが実にうまく説明されていて、その説明の仕方が何しろ面白いし、読んだことがあるなしに関わらず、文学は時代を映すんだということを実感させてくれる、素晴らしい本だと思う。

最後に斎藤美奈子は日本の同時代小説の未来の可能性を暗示していますが、さて、それはどんなでしょう? 

(加筆訂正しました。4/2、16:20)


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相澤冬樹「安倍官邸 vs NHK」

2019.03.05.09:36

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副題は「森友事件をスクープした私が辞めた理由」であるだけに、森友事件を振り返り、何が本当の問題なのかを確認するのには最適の本。著者は元NHKの記者で、しかもご本人曰く「真正右翼」。その「右翼記者」ですら、現在の安倍忖度行政と安倍忖度NHKに呆れているわけで、安倍を支持することで何か右翼思想的なものがあるかのように気取っているネトウヨ連中も少しはモノを考えろよな、と言いたくなる。

森友事件というと、あの籠池理事長とその夫人のオモシロさに目をくらまされてしまって、この事件の本質を見失いがちだ。しかも検察も籠池夫妻を詐欺で捕まえて長期勾留して、完全に本筋から目をそらせようとした。しかし、著者はこの事件の1番の問題点は次の二点だと強調する。

(1)基準を満たすのか疑問のある小学校がなぜ「認可適当」とされたのか
(2)なぜ国有地が大幅に値引きされて売却されたのか

(1)は認可権限のある大阪府の失態であり(2)は格安で売却した国の失態である。つまり森友事件とは行政の不正問題なのである。

(1)の問題は当初「認可保留」となりながらわずか一ヶ月後に臨時審議会が開かれて一転「認可適当」となった。認可権限があった大阪府はトップが大阪維新の会で、なんちゃって野党で実は安倍応援団別働隊であることはご存知の通り。

(2)の問題は約9.5億の国有地(=国民の財産)が1.3億で売却された。8億以上の値引きだ。近畿財務局と財務省官僚らの背任行為である。しかも、この値引き、森友側から8億値引きしてくれと言い出したわけではなかった!! 常識で考えれば、森友の籠池理事長が安倍かその嫁の名前を出して行政を脅したと思うだろう。ところが、なんと!! 実際は森友側ではなく、近畿財務局の方から森友に、いくらなら出せるか聞き出していたというのである。しかもそこで言われた上限額(1.6億)以下で国有地(繰り返すが国民の財産だ)が森友に売られたのである。

しかもその際の公文書をのちに改ざんする。のちにというのは、安倍が国会で自分なり嫁なりが関与してたら議員を辞めると見栄を切った直後だ。そしてこれによって改ざんさせられた職員が一人自殺していることも忘れてはならない。

責任を問われることを何より嫌う役所(行政)が自ら率先してそんなことをするはずがない。そこにあったのは忖度か、それとも安倍の脅しかどちらかだろう。現に安倍はかつてNHKの放送局長に「ただでは済まないぞ、勘ぐれ!」と恫喝した過去があるのだ。常識で考えれば、行政機関が安倍に忖度したのではない、安倍が行政に忖度させたのだ! 

さらに問題はそこで止まらない。NHKでの報道に上層部から様々な横槍が入る。報道局幹部の中にはなんとかこれらの特ダネの価値を骨抜きにしようとしている人たちがいるというのである。

そして司法でも大阪特捜部は「過去に無理やりの起訴を繰り返してきた」くせに「今回に限って無理やりの不起訴で証拠を闇に葬っ」(p.282)て、その後不起訴を決定した特捜部長は栄転した。嘘つきまくって公文書は捨てたとほざき、覚えてないと言い張った理財局長の佐川も、安倍の嫁の秘書だかの女性も、加計問題での秘書官の柳瀬も、ほとぼり済んだらみんな栄転 苦笑)

これだけわかりやすいことをされても怒らない日本人ってすごいね。そのくせ生活保護受給者は思いっきりバッシングする日本人ってほんま怖いわぁ。

いや、安倍政権による日本の闇の一端がわかる本である。無論、報道の裏側でどんな駆け引きがなされているかという話も面白いのは言うまでもないが。


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青山透子「日航123便墜落 遺物は真相を語る」

2019.02.27.09:41

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拙ブログでも紹介した前作の「日航123便 墜落の新事実」の後に読むこと。前作ではまだこれほど断定的ではなかったように感じた。様々な目撃情報や状況証拠を積み重ねてある推定に向かっていくような感じだった。それが今回は完全にはっきりと、かなり断定しているように読める。怒りのパワーも前作よりかなり強い。前作発表後に「陰謀論」だとかなり叩かれたこともこの怒りの原因だろうが、それとともに、安倍政権になってから繰り返される公文書の隠蔽捏造破棄の数々が著者の怒りを倍増させているせいもあるのだろう。実際、当時の運輸省は関連資料をおよそ1トン分も破棄しているそうであるし、ボイスレコーダー・フライトレコーダーの完全な公開も行われていないそうである。

今回の本は前回が目撃情報と状況証拠だったのに対して、遺体を検死した医者たちの聞き取りや、群馬医師会報告に基づいた遺体の統計、それに何より飛行機の残骸を科学分析した結果という証拠も出てきて、前回の推定がそれ以上の説得力を持って伝わってくる。何より著者の思いの強さに(特に後半に行けば行くほど)圧倒される。

要するに、日航123便は国産の巡航ミサイルの洋上実験中に突発事故により垂直尾翼を破壊され、コントロール不能になって迷走を続けながら墜落し、その証拠を隠蔽するために自衛隊が火炎放射器で遺体が炭化するほど焼いたということだ。だけど、もっと恐ろしいシナリオも暗示されている。垂直尾翼を破壊された後迷走を続けるジャンボを自衛隊のファントム2機が追跡し、証拠隠滅のためにミサイルで撃墜し、その隠滅の仕上げに生存者も含めて遺体を火炎放射器で焼却したというものだ。

さすがに後者はにわかには信じられない(信じたくない)けど、オレンジの小さな飛行物体が航跡を残しながらジャンボを追尾していたという目撃談はどう解釈すればいいのかわからない。尾翼を破壊したものとは別のミサイルがジャンボを追尾していたということだとすれば、これをどう考えればいいのだろう? それともファントムはミサイルを阻止するために飛んでいたのだろうか? 

何れにしてもミサイルで垂直尾翼を破壊され、墜落後に火炎放射器で証拠隠滅されたというのは、前作の目撃情報だけだとまだ可能性があるというレベルだったかもしれない。だけど、今作では上記のように、当時の医師たちの聞き取りや遺体の状況の統計(3分の1が飛行燃料の燃焼によってでは考えられない=ありえないほどに炭化していた)、それに飛行機の残骸を科学分析した結果を駆使していて、信ぴょう性はいよいよ高まった。

ただ一つだけ、どうしても腑に落ちないのは、もし仮に、というよりもまず間違い無いのだろうが、火炎放射器で遺体(まさか生存者まで焼いたりしなかったと信じるが)を焼くなどというとんでもないことが、戦場の経験もない普通の自衛隊員(どれほど過酷な訓練を受けているとしても)においそれとできるものなのか? 南京虐殺事件の加担者たちも、戦後になって自らのやったことを告白しているわけだし、そうしたことに加担した自衛隊員の誰一人として内部告発する者が出ていないことが納得できない。著者もこの本の最後で、内部からこれを告発する者が出て欲しいと言っているように見える。

今後残された遺族の中から情報公開を求める訴訟が起こされる可能性が述べられているので、そこで是非ともここに書かれている疑問点をはっきりさせることができれば良いのだが。

***追記(2019, 2/27, 14:20)
この「事件」はネットで検索すると色々ヒットします。中にはこの本で書かれている以上に極端なものもたくさんあるようです。こういうのってあまりやりすぎると逆にトンデモっぽくなり、この本のためにもならないと思います。

同時に著者を売名だとか金儲けのためなどと罵倒するものもたくさんあります。まあ、金儲けったって東大大学院で博士号とった人がこんな辛い本を書いて金儲けを目論むはずないと思うけどね。


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「オウムと死刑」覚え書き

2019.02.14.12:26

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図書館で借りてきた本。去年の7月に行われた大量処刑の後、それぞれオウムのことを書いてきた作家やジャーナリストのインタビューやエッセイ、論考が載っている。さらに去年の夏にトークを聞いた被害者の永岡英子さんのインタビューも出ている。無論言わずもがなの森達也もいつもの森達也だ。

ここに書いている人たちの共通の認識は、加害者(オウム)を罰するのに加害者(オウム)の心性をもってこれをなした(p.8)という批判である。

星野智幸の言う、オウム内部で「大義のためなら殺していい、殺される人より大事なビジョンがあるのだ、という感性ができてい」て、それがオウム内部では常識化していた。つまり、「今回起こったのは、オウム社会内部のそういう価値観、常識が、外側である一般社会へ侵出したということ」であり、「社会の中に線引きをして、線の向こう側にいるものたちには価値がないとか(中略)存在しなくて良い、抹殺されたとしてもそれは自業自得だという、まさにオウム内部を支配していた感性」(p.142)を一般社会の人々が持っているという指摘、あるいは古川日出男の短いエッセイ「あの七月以降、僕たちはもう、全員オウムの信者だ」という題名がそれを表している。

あるいは奥村大介が言う「教義の上で、殺人をはじめとする行為への一種の合理性が確立されてしまえば、あとはそれを躊躇いなく、様々な技術的手段をも活用し、効率的に実行するばかりである」という文章。この後に奥村はナチスの優生思想から大量殺戮につながった例を挙げるが、無論、この文章は「死刑制度そのもの」をも含意しているのは間違いない。

今回、以前書いた「オウム事件真相究明の会シンポジウム」で野田医師が述べていた神奈川県警とオウムのつながりの話は出てこなかったが、村井刺殺事件や国松長官狙撃事件などを思い出し、何かオウムだけではないもっと深い闇があるだろうと思った。


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森達也の「虐殺のスイッチ」を読みながら

2018.12.22.12:57

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なんども言ってきたように、僕は森達也の大ファンだ。彼が書いている文章に違和感を感じたという記憶がないぐらい、彼の考えは僕の考えでもある。今回も読みながら、あれ?俺同じようなことを(表現はもっとお粗末だけど)以前このブログで書いたことがあるぞ、と思ったところがいくつもあった。

だから今回は本の中の一つの叙述だけを取り上げたい。

この本の190ページにはこんな文章がある。

「戦後世界では一貫して被害者の国として位置づけられてきたポーランドは、行政府である国家記憶院が20世紀になってから史実を丹念に調査し、実はポーランド国民も大勢のユダヤ人を虐殺していたとの事実を公開した。他の多くの国でも、かつてユダヤ人差別や虐殺に関与していた自国の歴史を隠さない。」

残念だが、ポーランドに関しては、現時点では完全に変わってしまった。今年の初めにポーランドの政権を担う右派政党「法と正義」がホロコースト法と呼ばれる法律を成立させた。

この法律はすごいよ! 笑うよ!

ナチスの蛮行の中でも一番有名なのはポーランドのオシフィエンチムという所にあるアウシュヴィッツの強制収容所だろう。数え切れないほどの映画になり、誰でも知っていると思う。今回のポーランドの法律では、このアウシュヴィッツを「ポーランドのアウシュヴィッツ収容所」と表記しただけで、ポーランド人は無論のこと外国人も罰金ないしは禁錮3年の刑とされる。ポーランドがナチスのホロコーストに加担したと言ったりしたら、当然この法律に違反することになる。

ティモシー・スナイダーの「ブラックアース ホロコーストの歴史と警告」という本にはこうある。「我々はしかるべくホロコーストをナチスのイデオロギーと結びつけるが、ユダヤ人を殺したのはナチス以外、それどころかドイツ人以外も多かったことを忘れている。」(p.4)

当時のポーランドがナチスのユダヤ人絶滅計画に組織的に加担したとは思わないし、アウシュヴィッツ収容所を作ったのはナチスドイツだが、中には積極的に加担したポーランド人たちもたくさんいただろう。ナチスに同調したポーランドのファシストたちだっていた。これは多くの証言もある。

こういう法律は、成立させたナショナリストたちにとっては快哉を叫ぶべきものなのかもしれないが、他国からは呆れられ、嘲られる法律だろう。事実西側諸国はどこの国もこの法律を非難している。

同じような問題はトルコにもある。19世紀末から20世紀初め、特に第一次大戦中に当時のオスマン帝国内部のアルメニア人が100万人以上の規模で大虐殺された。これはトルコ人のノーベル賞作家オルハン・パムクもトルコ政府はこれを認めるべきだと発言した。ところがトルコではこの大虐殺は否定されていて、パムクも国家侮辱罪で起訴された。

これに対してドイツ連邦議会は第一次大戦で同盟関係にあったオスマン帝国によるアルメニア人虐殺を、知っていながらそれを止めなかったとして、当時の「ドイツ帝国にこの大虐殺の責任の一端がある」と認めた。

ポーランドやトルコの姿勢を見て、日本もそうするべきだ、南京虐殺や関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定すべきだ、と思うだろうか? むしろドイツの潔さこそ清々しいと思わないだろうか? それとも、ドイツの自虐史観とでも言うのだろうか? しかしよく考えてほしい。自分の国がやった過去の蛮行を認めることが、なぜ自虐的だとか売国だとののしられなければならないのだろう? やってないことをやったというのなら自虐的という言葉も当たっていよう。しかし、南京も震災もやった側の日本人の証言が山のようにたくさんある。やったことをやったということが自虐的なら、犯罪を犯した人間は誰も自供しなくなる。

これがネトウヨレベルの無教養な連中が言っているだけなら大した問題ではない。そんな奴はどこの国にも全体の数パーセントぐらいいるだろう。だけど、ポーランドもトルコも、そして日本でも政治家にそういう連中が多数派を占めていたりするのが問題なのだ。

過去の蛮行を認めないことこそ国益を損なっている。ドイツのようにそれを認めることで民主的な国として他国から一目置かれるようになる。ちょっと考えれば当たり前のことだ。アメリカやヨーロッパで従軍慰安婦を否定することがどう作用するか、ちょっと考えればわかりそうなものなのに。それを海外の新聞広告に載せちゃうような右派インテリたちがそれによって日本のイメージを悪くしているということに気がつかないはずはないと思うのだが。だから、結局あれは自己満足のためにやっているのだろうと思う。彼らの自己満足のために日本全体のイメージが低下するのは一般日本人にとってはた迷惑な話である。


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斎藤貴男「日本が壊れていく」覚書き

2018.12.21.21:38

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斎藤貴男の本はいつだって読んでいて楽しい本ではない。ひたすら腹が立つし、不安になってくる。だけど、彼がもう15年~20年近く前に、例えば「機会不平等」とか「ルポ改憲潮流」などで警鐘を鳴らしていたことが、今となってはすでに実現してしまっていることを考えれば、この人の語る言葉に耳を傾け、僕らはどうすればいいのかを考えるべきだろう。いや、エラソーに書いてしまったが、実際に何か行動するとかいうことではなく、少なくともここに書かれている事態についてちょっとでも考えてみるだけでも大切だろうと、そう思う。




さて、この6年に渡る安倍政権の「あまりにも幼稚であまりにも愚劣」(本書p.23の小沢一郎の言葉)な政治姿勢を再確認させられ、うんざりしてくる。もっとも斎藤貴男の本はいつでもそうだ 笑)だけど、書いている斎藤貴男の憤怒を共有し、僕らもしっかりと怒らなければならないと思う。

安倍批判もそうだが、現在の社会全体に対しる「否」を叫び続けてきた著者の一番大きな批判対象は「新自由主義」である。

「家庭環境や経済力次第で人それぞれスタートラインが異なる現実を無視し、あたかも正当な競争のように見せかけ、にも関わらず自己責任原則を絶対のルールだと演出する新自由主義のシナリオは、イコール社会ダーウィニズムと同義といって過言ではない。」(p.197)

この新自由主義にのっとって、経済成長が絶対的な目的になってしまった現在の社会。確かに経済が成長してみんなが豊かになれば、幸福になる可能性は高まる。だが、誰のための経済成長なのだろう? 無論一部の富裕層のための経済成長だ。そして安倍の論理では、富裕層が豊かになれば下の層にもそのおこぼれが落ちてくるというトリクルダウン理論とやらでみんな豊かになれると言うのだが、富裕層ではないあなた、そこのあなた、豊かになりましたか? 実感としてどうですか?

経済成長が絶対的な目的になってしまった現在の日本、政府主導で金儲けのためなら何をしてもいいということになってしまった日本。あれだけの世界的な大惨事を引き起こした原発を輸出してまで金を儲けようとするのは、どう考えたって普通じゃないだろう。憲法9条がある中で他国に潜水艦を売ろうと言うのはどう考えたっておかしいだろう。大学に武器開発の研究をしろとけしかけるような政府って僕には全く理解できない。

この本で指摘される経済成長はあくまでも手段であるという指摘は重要だと思う。

この幼稚で愚劣な政権のやったことを整理するためにも、安倍嫌いの人だけでなく、政治など関心がなくとも常識のある人にお勧めします 笑)


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日航ジャンボ機墜落事故の闇

2018.12.08.14:38

1985年8月12日の夕方、僕は家族旅行から帰る途中で父の運転する車で高速道路を走っている時に、ラジオでニュースを聞いたことを覚えている。旅行先が日光だったので、後からあの時走っていた場所からそう遠くないところで墜落したんだなぁ、と思ったりした。

ずっと話題になっていた青山透子著「日航123便墜落の新事実、目撃証言から真相に迫る」を読んだ。


図書館で借りたんだけど、予約したのは初夏だったのに、80人待ち状態で、やっと順番になった。

当初ネット上に氾濫している陰謀論の一種なんじゃないかと思ったりもしたんだけど、目撃証言がこれだけ集まると、そして何よりアメリカ側からの情報も出てくると、むしろ最後にぼんやりと暗示されているいくつかの事故原因以外の原因は考えにくい。だとすれば事故ではなく事件だ。

いろんな疑問があるがまず、墜落前に、公式には認めていない自衛隊のファントム2機が墜落することになる123便の後を追いかけていたのはなぜか?(これは目撃者が多数いる)

それと、墜落後20分で米軍機は墜落現場を目視し、2時間後には海兵隊が現場へ着陸を試みているのに、突然帰還命令が出され、その後日本の自衛隊も機動隊も、そして何よりマスコミも、捜索場所を特定できず(と言い張って)、翌朝まで救助に取りかかることができなかったのか?

しかもその間、夜間に現場付近でいくつものヘリコプターが活動していたという目撃証言もある。その間に人命救助よりも、何かの隠蔽を優先させたのではないのか?

これ以外にも赤い形状のものとか、現場に漂っていたガソリンとタールの匂いはジェット燃料ではないこと、遺体の完全な炭化は揮発性の高いジェット燃料ではあり得ないこと、横田飛行場へ向かったのに反転したのはなぜか、その間のボイスレコーダーも完全に公表されてはいないのはなぜなのか、さらに隔壁破損が原因とする説がまずアメリカから出たことや、その証拠たる隔壁が現場検証前に裁断されてしまったことなど、いろんな謎が挙げられる。

誰でも推測するようにミサイルの誤射、あるいは自衛隊が訓練用の目標としていた飛行機との衝突、など人為的なことが原因だとしても、問題はその後だ。それを隠蔽するために救助活動が遅れたのだとしたら、これは国家、あるいは自衛隊による犯罪である。

何よりも、一番怪しいのは運輸安全委員会がすでに自己調査は終了しているので、これ以上新たな証拠物が出ても再調査することはないと言っていること。

極端に悪く勘ぐればいくらでも勘ぐれるだろうし、そこまで極端でなくとも、昨今の様々な隠蔽事件を見れば、国家は必ず嘘をつくという堤未果の署名を連想したりするのは自然なことだろう。

今年に入ってさらに続編が出ているようなので、またまた図書館で予約したところである。

……追記 2018,12,09, 14:45……
65ページに出てくる中曽根の言葉「実際、静岡に落ちたとか、群馬に落ちたとか、情報が随分迷走していました。米軍もレーダーで監視していたから、当然事故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし、おそらく防衛庁と米軍でやりとりがあったのだろう」をもう一度この本を読み終わって、あらためて見てみると、この男の「そらっとぼけ」ぶりがよくわかる。情報の迷走は意図的なものだったし、米軍の情報が上がってこないはずはない。最初に読んだときはこの部分、文字通りシビリアンコントロールが全くできていないじゃないか、という指摘だけだと思ったのだが、無論それもあるが、それ以上に、中曽根は何かを知っていて、そらっとぼけているのである。この言葉からそれがよくわかる。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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