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堀川恵子の二冊の「永山則夫」本

2018.02.14.22:29

リベラルを謳っているFBグループでも、オウムの裁判がすべて結審した1月終わり頃には、彼らを早く死刑にしてしまえと書き込む人がたくさんいた。死刑囚を留置所で養うのに年間でかかる費用とやらを具体的にあげて、血税の無駄だという人もいた。リベラルなFBグループですらこうなのだからね。

拙ブログでも安倍批判以上に反論が多いのは死刑反対と書くときだ。あるネトウヨ氏などは、僕が死刑に反対だと書いたら、お前の娘が集団暴行された上、無残に殺されてもそんなことが言えるのか、と、まるでそんなことを言うならお前の子供を殺してやる、と言わんばかりの憎しみに満ちたコメントを書いてきた。

なぜなんだろう、自分の家族や知り合いが殺されたわけでもないのに、そこまで加害者を憎み、殺せと叫ぶのは?? 一方で死刑に反対する者を、まるで被害者と遺族の気持ちを想像せず、加害者の肩だけを持つ人間だとでも考えているのだろうか? そもそも、まともに考えれば、そんな奴はいるわけないだろう。

加害者に想いを馳せることが、被害者を侮辱することになるとでも思っているのだろうか? 一つのパイを分捕りあっているわけではないんだよ。加害者の人権と被害者の人権の分捕り合いなんかできっこない。それぞれが一つのパイ(人権)なんだよ。加害者のことを語る事で被害者のパイが小さくなるわけではないし、逆もまた同じことだ。

さて、この堀川恵子という人の本はすごく気になっていた。だけど読めば絶対辛くなるのはわかっていたから二の足を踏んでいた。先月末の友川カズキライブで、友川さんがこの人の書いた「永山則夫・封印された鑑定記録」を紹介し、ライブの打ち上げでも、自分と弟の関係を仮託して読んでしまったと言って、「読んでごらん」と声をかけてもらった。早速近くの図書館にあったので借りて、今日の午前中に読み終えた。持っててもいい本だと思えるので購入しようと思う(最近はまず図書館で読んでから購入を考えるようになった 笑)



「死刑の基準 『永山裁判』が遺したもの」
一般に死刑の基準とされる「永山基準」と呼ばれるものができる裁判の経過について書いたもの。永山則夫の生い立ちから、なんの意味もなく4人を射殺した事件、大荒れの裁判から獄中結婚、一審の死刑判決から無期懲役にした二審の船田裁判、そして最高裁での差し戻しによる死刑確定と、永山則夫事件と裁判を時間を追って描いているが、中心になるのは無期懲役判決を出した船田裁判である。

これに対して最高裁での差し戻し判決に書かれた9つの量刑因子(例えば殺害の方法の残虐性とか殺害されたものの数とか、犯人の年齢、犯行後の情状などなど)が、のちに「永山基準」として、多くの死刑を求刑された裁判で言われることになる。

当初の「永山基準」の理念は「原則は死刑不適用」で、死刑はあくまで例外という考え方だった。ところが「永山基準」が一人歩きし始め、この9つを満たせば死刑にできるという、機械的に基準に当てはめることができるかのような転倒現象が起きてしまったのではないかという。



「永山則夫 封印された鑑定記録」
前書が永山裁判の経過と永山の獄中結婚の成り行きを描いたものだとすると、こちらは永山の精神鑑定を行った石川医師と永山の関係を追ったものである。永山の壮絶な幼少時代、あるいは祖父母の代にまでさかのぼって調べ上げた石川医師の誠実さに心打たれるとともに、永山の幼年時代、少年時代のあまりの悲惨さに声を失う。

永山は母に捨てられ兄たちに暴力を振るわれ、ネグレクトされ、社会に出てからも頼るものはなく、被害妄想に苛まれ、他人の善意すら疑いの目で見てしまうほど精神的に危うい状態にあった。自殺願望もあり忍び込んだホテルの敷地や神社で警備員に見つかり、たまたま米軍基地で盗んで持っていた銃で二人を次々に撃ち殺し、母や兄弟たちに対する仕返しの気持ち、当てつけの気持ちで第三第四の殺人を犯す。

そんな永山が石川医師のカウンセリングとも言えるような鑑定を受け、人間としての心を取り戻していく。最終的に、一度は否定したその鑑定書を死刑になるまで手元に置き、繰り返し読み続ける。そこに書かれた「自身の生い立ちを、母の人生を、独房で繰り返し辿り反芻」する。

そして、それによって彼は「”連続射殺魔”から一人の人間に立ち戻り、最後まで被害者遺族に印税を届け」、「弁護士や支援者に墓参りに行ってくれるよう繰り返し」頼み続けた。「犯してしまった取り返しのつかない罪に、失われた命に捧げられるのは、もはや祈りでしかないことに彼は気付いたのではなかったか。」「彼は独房の中で、一人の人間として残された”命”を生き切ったのではなかったか。」(引用は全て文庫版P.452)


最初の本によると1980年の世論調査では死刑を支持するのは60%強だったそうである。それが2004年には80%強、多分現在もその数値はほぼ変わっていないだろう。

このような傾向は現在の社会の右傾化と連動しているように思われて仕方がない。自己責任という言葉に踊らされて、どんどん薄情で不寛容な社会になってしまった現在の状況と、死刑制度を支持する世間の雰囲気は親和性が高いように思えるのである。

格差社会の中、貧困や家族崩壊、社会からの孤立など、永山を取り巻いた状況はあまり変わってない。当たり前だけど、一人の人間はその人の生きて来ただけのものを背負っている。それは被害者だってそうだし加害者だってそうだ。少年だった永山則夫がなぜ全く落ち度のない人間を4人も殺したのか。そして、彼の生い立ちを自己責任とか努力不足だなどと突っぱねることができるのか。

もちろん彼と同じような境遇にいながら犯罪など起こさない者もいるだろう。しかしその差を、自己責任という酷薄な言葉で片付けられるか、というとそうではない。石川医師も言うように、「もし、あの時。。。だったら」というポイントがいくつもあり、それが全て悪い方向へ向かってしまったという稀有なケースが永山事件なのだろう。

以前に書いたことだけど、僕は光市事件の被害者遺族の男性が、加害者少年の死刑確定時に発した言葉を思い出す。

「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」

少年による凶悪犯罪は、彼ら個人の問題である以上に社会の問題であるのだろう。現在の石川医師が語る言葉は、拙ブログでもなんども書いた、人間は99%の普通の人がいて1%の悪人がいるわけではないという言葉につながると思う。「調べれば調べるほど、本当の凶悪犯なんて、そういるもんじゃないんですよ、人間であれば… 」(文庫版「永山則夫」p.454)

辛い話である。永山もかわいそう、そんなかわいそうな永山に殺された全く落ち度のない4人もかわいそう、そしてその遺族もかわいそう、永山と獄中結婚したミミさんもかわいそう、永山に無期懲役の判決を出した船山裁判官もかわいそうだし、永山の精神鑑定を行った石川医師もかわいそう。どうすれば彼らのようなかわいそうな人が出ない社会ができるんだろう? 悪いことをしたやつを排除しただけでは、そういう視点が出てこないだろう。そうでなければ永山も彼に殺された4人も、まるで犬死だ。

(死刑制度についての私の考えは8年近く前に書いたことと変わっていません。「死刑制度について」



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森達也他 「A4または麻原・オウムへの新たな視点」

2018.01.12.14:00



「組織の力学」がオウムを暴走させたのではないか、麻原と弟子の間で相乗効果でエスカレートして行ったのではないかという仮説は、前作「A3」で十分納得いくレベルにまで言い尽くされている。その点で新しい視点はない。

この本では元信者の二人と共に、オウムの信者の目から見た麻原はじめとする教団の内部の雰囲気が伝えられる。森達也のドキュメンタリー「A」と「A2」を見た人なら、あるいはその書物化された同名の本を読んだ人なら、出てくる信者たちが、誠実で上にふた文字つけた方がいいぐらい真面目な好青年たちばかりなのに、なぜ彼らがそこまで麻原を絶対的に信頼しているのか納得いかなかったのではないだろうか。

この本でも元信者の二人は麻原がやったことは別にして、宗教者としての麻原に対する強い信頼感は相変わらず持っている。これをマインドコントロールとか洗脳という言葉で片付けるのはおかしいだろう。

ただ、彼らが語る麻原のエネルギー(瞑想している時にもそばにいるだけで感じられたそうだ)という話は、僕には全く理解できないけど。例えば、霊の存在を信じるだけでなく、それが見えることがある、という人がいるけど、それを見ることができないし、そういう現象に出くわしたこともない僕としては全くそれは信じられない(だからと言って完全否定するつもりはないけど)。そんな感じだ。

信者二人は一生懸命、麻原が仮にサリンを散布させたとして、それは麻原のどう言う意図に基づくものなのかを、オウム真理教の教義を説明しながら語るのだけど、一般人には全く通用しない話である。森からも否定的な反応しか出てはこない。

だからこそ、そうした真面目な、宗教的な、言葉を変えれば自らの解脱や人類の平和を本気で考えるような若者たちを魅了した宗教者としての麻原が、なぜ地下鉄サリン事件のようなとんでもない事件を起こしたのかを、はっきりさせなければならないはずなのだ。一審だけで麻原の死刑が決まってしまって、結局オウム事件とはなんだったのかがわからないままなのは、今後のためにも全くならない。麻原に本人の口から、なぜサリンを散布したのか、本当に麻原の意思でそうしたのかの説明をさせなければならなかったはずなのである。

日本人は事件の真相にしっかりと向き合って、そこから何かを学ぶことが苦手なのではないか、そんな気もしてくる。臭いものに蓋、そんな言葉が思い浮かぶ。

麻原は裁判の途中から完全にまともな精神状態ではなくなった。それは各メディアのオウムを追っている記者たちと、森が個人的に話をすれば、みんなが麻原の精神崩壊を認めて、麻原はもうダメでしょう、などと言う。なのに、実際に記事として出てくる言葉は「ニヤニヤ笑う」とか「ブツブツ意味不明のことを言う」と言って、本当の意味での精神錯乱という言葉は絶対に使わない。

森がいうオウム事件の核心が、麻原を「忖度」した弟子たちと、弟子たちの思いを「忖度」した麻原との相互作用によるものだとすれば、このマスコミの態度にも、検察(=民意)に対する「忖度」、「組織の力学」が見られる。

しかし、勘ぐれば、何かもっと表に出てはまずいものがあるので、検察も司法も大慌てで臭いものに蓋をしたのではないか、そんな思いすら湧いてくる。



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森達也「FAKEな平成史」

2017.12.02.12:16


図書館で手にとってそのまま借りてしまいました。森達也が作ってきたドキュメンタリーを振り返りながら平成という時代について考察するというのがコンセプト。

「放送禁止歌」をネタにピーター・バラカンと話して、今年の流行語になりそうな「忖度(そんたく)」が昨今の風潮ではないことを語り、「ミゼットプロレス伝説」をネタに、Eテレの「バリバラ」プロデューサーの日比野和雅と、人は差別してしまう生き物で、それをもっと自覚すべきだという。

実際には完成しなかった「天皇ドキュメンタリー」では松元ヒロと話しながら、日本は自発的に権威に隷従する封建制国家だといい、「A」と「A2」では有田芳生とオウムについて話しながら、集団化は暴走するという。

未完の「北朝鮮ドキュメンタリー」をネタに日本の北朝鮮報道の危うさと、北朝鮮の側の言い分を考え、長野智子と「FAKE」を基にして、ジャーナリズムのフェイクとトゥルースへの取るべき態度を語る。

語られていることは、いつもの森達也節だから、森の本を読み慣れている人にとってはあまり目新しいことはない。常に通奏低音のようにあるのは「メディアは市場原理に従う(売れるとか視聴率が大切)故に、マスコミがゴミなら、社会もゴミである。メディアと政治は社会の合わせ鏡である」というものでしょう。

何れにしても森達也は僕と全く同じ世代なので、昔話などはよーくわかる。気心の知れた、昔からの知り合いのような気がして、読んでいて楽しい。まあ内容は楽しい内容ではないのだけど。しかし、僕らのように昭和の一億総中流と言われた世代としては、これほど急速に、こんなひどい時代になるとは思わなかった。



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國分功一郎/山崎亮「僕らの社会主義」

2017.11.22.23:40



「社会主義」と言いつつも、ここで語られているのは国のあり方としての社会主義ではない。町並みのあり方とかワークショップの活用とか、生活や労働の楽しさ、地域社会のあり方など、社会主義などというコワモテの言葉とはちょっと想像がつかないようなレベルでの話がメインである。

ここで二人が語る社会主義は「主義」ではない社会主義であると言えるかもしれない。主義を振りかざすと楽チンなのだ。なんとか主義でいけば、それに規定されている通りに発言・行動すればいいのだから。だけど逆に言えば、「主義者」を自認すると、教条的で融通が利かないし、首尾一貫していないといけないという強迫観念に追い立てられがちである。社会のあり方を一気に、例えば革命で、ひっくり返したくなる。当然行き着く先は全体主義的な方向だ。そうしてロシア革命はスターリニズムという独裁・全体主義に陥ってしまったわけである。

だけど、ここで言われている社会主義はロシア革命よりだいぶ前のイギリスの、協同組合の祖ロバート・オウエンやトマス・カーライル、装飾芸術家のウィリアム・モリスや美術評論家ジョン・ラスキンの提唱したものだ。当時のイギリスはものすごい格差社会で、工場労働者たちの生活の過酷さは想像を絶するものだったという。政府は救貧院施設を作るが、それもひどいものだった。救貧院に貧困者が殺到してしまうのを避けるため、わざとひどいままにしておいたという。

なんだか生活保護に貧困者が殺到しないように、様々なフェイクニュースを流している日本社会を思わせる話だ(在日外国人の生活保護不正受給なんていうのがその最たる例だろう。こんなものはまともな生活保護についての本を一冊でも読めば嘘であることがすぐにわかる)。

さて、著者たちは社会主義から学ぶべき点だけをつまみ食いしたらどうかという。つまり社会主義か資本主義か、というどちらかではなく、両方の良いところを合わせたらどうか、ということだ。これは社会民主主義的なものだろうと思う。社会民主主義というのは、以前拙ブログでも紹介したトニー・ジャットも言っていたように、西洋だけでうまくいったシステムだった。僕が漠然と憧れを抱いている北欧、デンマークやスウェーデンやノルウェー、フィンランドの福祉国家と呼ばれる国が戦後取り入れたシステムである。

社会主義というと企業が国営化され、私有財産も国有化されてしまうというイメージがあるのかもしれない。だけど上にあげた北欧の社会民主主義国はどこもそんなことをしていない。もっとも今の日本共産党だって企業の国有化とか私有財産の廃止なんて言ってないのだから、ましてや。。。

つまり現在の日本の社会がどうなればいいと思うか、ということだ。このまま格差が広がっていって、極端な話、昔の映画「メトロポリス」のようにごく一部の豊かな者と、多くの貧しい労働者たちに社会が二極化してしまうのがいいのか(いいわけない!)、それとも「誰しもがディーセントな(=満足できる、きちんとした、まともな、しかるべき。。。)暮らしのできるフェアな社会」(p.126)を目指すのがいいのか、ということだ。社会主義という言葉を出しているのは、戦後日本ではこれまでなかったような格差の広がった社会、ある意味で「自由な」資本主義がやりたい放題になった結果生じざるをえなかった格差社会を是正するための方便なのかもしれない。

今の若い人たちがどう思うのかは知らないが、一億総中流と言われた昭和の時代に青春時代を送った世代として、現在のこんな格差社会はどう考えたって人々の幸せにつながるとは思えない。それを何とかするために、とりあえず、現時点でできることとして、社会主義、あるいは社会民主主義というものをもう少し考えてみるべき時だと思うのだが。。。



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笠原十九司「南京事件論争史」覚書き

2017.10.21.18:12


題名の本を読んだ。南京事件についての僕の考えは先日書いた通りだけど、もう少しいろんなことを知っておきたくて、何冊か読んでみた。まあ、否定派の本は読んでないけど。ただ、この本や、「南京大虐殺否定論13のウソ」を読めば、否定派の主張はわかるし、ネットでも否定派の言い分は読むことはできる。

この本を読むと、南京事件をめぐる裁判では、「家永教科書裁判」や「百人斬り裁判」、「否定論者の東中野修道に対する被害者の名誉毀損裁判」があるが、全てで南京事件に関しては司法は南京大虐殺があったと認定している。家永裁判は確かに家永教授の「検定は違憲だ」という主張は退けられたが、南京事件の記述に関する検定は違法とした。百人斬り裁判では「(百人斬り)競争をした事実自体を否定することはできず」とされ、東中野の名誉毀損訴訟は、被害者の名誉毀損を認定して慰謝料400万円の支払いを東中野に命じている。

つまり司法の場では南京事件があったかなかったかなどという論争は、否定本やネットの書き込みにもかかわらず、すでに決着が完全についているのである。そうした司法の判断のもとになっているのは、そこまで積み上げられてきた歴史学という学問上の成果である。つまり学問的に見ても否定派の論拠はことごとく論駁されている。ましてや、「南京大虐殺は中国や欧米社会が「犯罪民族日本人」というレッテルを貼って日本人を貶めるための情報戦による謀略」(p.252)という主張などは、もう学問とは無縁の「妄想」のレベルである。いわばフリーメーソンの陰謀とか、オウム真理教のハルマゲドンレベルの話だろう。

しかも、否定派の田中正明という人物に至っては、南京事件の責任を取らされて刑死した松井石根大将の陣中日誌を数百か所も改ざんしているのである。都合の悪いところを削除しただけでなく、勝手に文章を付け加え、しかもご丁寧に注までつけているそうである。こうなると、もう学問の世界ではない。他にも資料や文献もないまま、思いつきだけで可能性を羅列したり、否定できない写真には触れずに「証拠写真として通用する写真は一枚もなかった」などと主張する。

前にも書いた清水潔の「南京事件を調査せよ」でも書かれていたことだが、否定派は「膨大な引用資料のひとつでも批判できれば全体の信憑性が批判できるという否定のための否定の方法を使ってくる。

否定のための否定、つまり、現在に至るまで陸続と続く否定論は、事実がどうであったかではなく、政治的な謀略なのである。その内容がとっくの昔に否定された論拠を繰り返しているだけであり、「どのような内容であろうとも、(。。。)否定していると世間に見せかける本を出版しておくことに否定派の狙いがある」(p.265)のである。つまりこうすることで、南京事件の決着は付いていないと思わせたいのだろう。同時にこれが一種の泥仕合い、どっちもどっちのような印象を与えられれば、否定派としては勝ちも同然の訳である。

こういう話を読んでいると既視感に襲われる。今の政権のやり方である。嘘でもいい、繰り返せば国民は信じる。相手が否定しようが反論しようが、その時にはすでに国民にその嘘が刷り込まれている。言ったことは撤回したりしないで、はぐらかし、論点をずらせ。国民はいくらでも騙せる。そして騙されたがっているやつもたくさんいる。一度騙せば、あとはそれを勝手に信じ続ける。多分今の政権はそう思って、確信的に嘘をつき続けているのだと思う。 そしてそうすることによって、与党も野党もどっちもどっちという印象を国民に植え付けられればいいと思っているのだろう。

どっちもどっち、国民がそう思ってくれれば南京事件否定派も現政権も満足なのである。



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澤野雅樹「絶滅の地球誌」覚え書き

2017.08.18.22:38



生命が誕生して以来、周期的に生じる生物の大量絶滅の話、つまり古生物学の話かと思って読み始めたけど、強烈な現代社会批判の書だった。特に原子力というものが「賢者でも哲人でもない普通の人間の手元に残され」(p.13)たことで、人類はのっぴきならぬ事態に追い込まれている。

内容が、数式なんかも出てきて、文系人間には難しいところもあったけど、文章として、あちこちにちりばめられた比喩が秀逸。また、紹介される個別のエピソードもとても面白いし、ここで展開される現代社会批判も納得いくものばかりである。

著者は最終的に「見えてくる眺望は最悪のシナリオになる。しかし、そのシナリオを最も深刻な形で素描することによって、その傍らに一つの希望が見えるようにしておきたい」(p.14)という。その最悪のシナリオはこんな感じ。

「いつか地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になるだろう。人間が何をしようが(あるいは何もすまいが)その未来は必ず訪れる。ただ、遅いか早いかの違いだけだ。それゆえ、我々人間にできることがあるとすれば、終末の景色を急いで手繰り寄せるか、あるいは可能な限り遠ざけようとするかのいずれかである。あるいはその選択すら避けて、何の根拠もなく同じ日常が永遠に続くと信じることも可能だろう。その選択が最悪の手にならなければ良いが。」(p.84)

僕らの想像を絶する未来の話だと思っていたSF的な終末の姿は、実はこの先数百年、ひょっとしたらもっと近い将来の話なのかもしれない。ネイティブアメリカンのナバホ族の言葉に7代先のことを考えて行動しろ、というのがあるが、今こそ、僕らは7代先のことを考えなければならないのだと思う。

そして、「人間は進化の目的でも終着点でもない。人間に何か特別な使命があるわけでもない。人は内輪の目的を追求しているだけであって、宇宙や自然の観点からは人のどんな活動にも価値はないし、どんな人生にもそれ以外の意味はない。」(p.177)

僕もこれには強く同意する。僕らがやっていることに何かの価値があるわけではない。これは常に意識していなければならないと思う。相模原の障害者虐殺事件で、犯人は重度障害者には価値がないというようなことを言ったそうだ。そして、それに同意する人もたくさんいるらしい。バカなことを言ってはいけない。宇宙や自然という大きなものを考えた時、どんな人間にも価値などない。

だけど、ここから簡単に、「だから何をしても無意味だ」というニヒリズムに逃げるのは安易すぎる。逆である。だからこそ、人間の命はどれも大切なものなのだと思う。何十億年にもわたって進化してきた生命の歴史を考えた時、僕が今ここでこうしてキーボードを叩いていることに何の意味もない。いずれ、おそらくそう遠くない将来「地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になる」のかもしれない。だけど、だからこそ、ここでこうしてキーボードを叩いているこの一瞬が大事なことであるとともに、この一瞬がとてもいとおしく思えてくる。



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立岩真也・杉田俊介「相模原障害者殺傷事件」覚え書き

2017.05.12.02:36



読み終わったのはもう2週間近く前。だけど、どうもうまくまとめられないできた。今もうまくまとめられないままなので、覚え書き程度にメモしておきます。

正直に言うと立岩真也の書いた部分は、なかなかレベルが高くて(=予備知識が必要で)ちょっと読みづらい。でもあちこちに心を打つ文章が点在している。

「できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。 」

この事件の犯人を精神障害者が妄想に取り付かれておこなった特異な事件だとして、精神医療の問題に限定してしまおうとする人たちがいる。だけど、この事件は今の時代の空気を如実にあわらす事件だったと思う。それについては何度もここで書いた。だけどその後、この事件の対策として語られるのは精神障害者の措置入院制度を検討し直すという話ばかりだった。

つまりその方が安心なのだろう。死刑制度のことを書いた時にも触れたけど、ああいう犯罪を犯すようなやつと自分は違うと言いたいわけだ。ああいうやつは何か怪物のような悪党、映画に出てくる異常な犯罪者でなくてはならない。そう思うことで自分とは違うと安心できるわけだ。

だけど、そんな線が引けるのだろうか? 誰が引くのだろう? この本はまさにそうした線引きなどできないのだ、という本だ。

杉田俊介の書いた方は、個人的にはとてもわかりやすかった。上記の立岩の言うように、働かざるもの食うべからず、は人間社会の中で原則になっている。それが高じていくと、働かない奴は邪魔だ、いなくなってくれ、というところまで、もうあと一歩だ。

「無意味な人生であれば殺してしまったほうがましだ。それが国のためになり、ひいては世界のためになる。もちろんそれは吐き気を催すような、ぞっとするような考え方である。だが、ふとこうも思う。それは誰よりも、あなた(たち)があなた(たち)自身に密かに言い続けてきたことではなかったか。」(144-5ページ)

この文章の最後のところは読者に向かって語りかけている。誰だって過去に、ああ、こんな俺なんか死んだほうがましだ、と思うことがあるだろう。こんな無意味な人生なんか終わらせたい、そんな瞬間が人生で一度もないという人は、まあ幸せな人なんだろうね。つまり優生思想というのは自分自身にも向けられているものなのだ。

星野智幸の小説に「呪文」というのがあって、最初に読んだ時は、ものすごく面白いけど、どう考えたらいいのか、よくわからなかった。この杉田俊介の、優生思想というのは実は自分にも向けられるものなんだというのを読んで、この星野の小説を思い出した。


優生思想の根というのは深く、これをしっかりと断ち切るのはなかなか難しいし、社会の有り様に直結する問題をはらむ。先日書いた自己責任ということとも繋がってくるだろうし、死刑制度とも繋がってくると思う。生きている価値がない人間がいるのか、生まれてこない方が良かった人間がいるのか、ということである。その価値は誰が決めるのか? そもそも人間の「価値」ってなんだ? 

これに対して、杉田俊介は「人間の生には平等に意味がない」と言い放ち、個人の「意味と無意味の線引きを拒絶」するという考えを述べている。以前書いたことがあるフェリーニの「道」という映画に、登場人物が知恵遅れの主人公に向かって「意味のない人生なんかない、空の星だって、この石ころだって、必ず何かの役に立っているんだ」という感動的なシーンがあって、何度も泣かされたシーンだけど、杉田はそんな甘いことを完全否定しようとしている。これを正しいと思うかどうかは人によるだろう。意味がないなら、何をやってもいいではないか、という繋がりで、ニヒリズムにたどり着く可能性も考えられる。さらに、そのニヒリズムを超えて(簡単に言うが、これもまた大変なことだろう)、これを正しいと思っても、この境地まで一足飛びにたどり着くのは難しい。そうだとしても、「低い声でぶつぶつつぶやいていればいずれじわじわと染みとおっていく」(189ページ)のだ、と思いたい。

とりあえず、今は、優生思想的な発想を「のさばらせないこと」が大切である。



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斎藤美奈子の「学校が教えないほんとうの政治の話」

2016.12.15.01:59



図書館でちょっと手に取ったら、なかなか面白くて、つい借りてきてしまいました。いやあ、この人、東京新聞のコラムでも、時々ビックリするようなすごいことを書く人ですが、大した才人です。

特に、戦後民主主義を左派的と見なすなら、現在は左派が1点リードで9回裏、右派はツーアウト満塁一打逆転サヨナラのチャンスにバッターボックスに安倍が入っているという例え。なかなか笑えたんですが、笑っている場合じゃないですね。

この斎藤の比喩に乗れば、なにしろここまで、完全なストライクをボールと言ったり、ほとんどすべての解説者がアウトだと言っているのを、審判を変えてセーフにしたり、とむちゃくちゃやってきてますからね。球場警備員も文句を言う観客を片っ端から追い出して、挙げ句の果てに差別用語まで撒き散らし、球場は大混乱ですよ。

斎藤美奈子本人は自分を左翼だと言っていますが、ここに描かれている右の人たちの意見もきちんと書いていて、そこには聞くべきものもあるというわけ。そして、読者にはどちらがいいかと問いかける。

だけど、問題は、現代はそんなレベルまで行っていないと思うんだなぁ。右だ左だという前の段階で、それを議論すべき前提すら理解しないまま、議論そのものを否定するようなことを言う人たちが、今の日本には満ち溢れているわけです。しかも、そこらのネトウヨが言うのとは違いますよ。自分たちの意見を批判する新聞社を潰せとわめく権力寄りの作家や、「天賦人権説」を否定しちゃう議員なんて、もう何をか言わんや、ですよ。そして自分たちの目指すことを「ナチスの手口を真似して」実現しようと言ったり、ハーケンクロイツ掲げるような奴らと一緒にニコニコ写真を撮ったりする連中が大臣の座にいるわけですからね。

ただね、この本も、結局一番読んで欲しい人たちは、おそらく手にもとらないでしょう。これだけ分かりやすく現代に至る日本の政治の状況を説明しているのに、選挙に行かないような人たちは、当然この本を手に取るはずもないし、ましてやネトウヨさんたちにいたっては。。。拙ブログに、時々いたずら書きをしてくるネトウヨさんや安倍応援団なんかも、こうした良識的な、至極まっとうな本は読まないでしょう。仮にこの本を手に取った、あるいは目に留めた人でも、まず斎藤美奈子を知らなければ、ネット検索してレッテルが貼ってあるのを確認して、それでもうわかったつもりになるでしょう。仮に読んだとしても、はなから揚げ足取りにしか関心がないだろうから、本筋とまるで別のところでとんちんかんなことをアマゾンのレビュなんかに書いて、星一つにしちゃうんでしょう 笑)



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中野好夫のエッセイ集 「悪人礼賛」

2016.12.12.22:01



図書館で借りてきて、先ほど読み終わりました。感心したので、アマゾンで注文したところです。

著者はすでに30年以上前にこの世を去った名翻訳家。主に敗戦直後から70年代までに書かれた短めのエッセイを集めたものだけど、あちこちに指摘される戦後の社会に対する批判が、今の社会に対する批判として読んでも完全に通用してしまうのが恐ろしい。

「超国家主義の勢力拡張時代」にそれを「心から積極的に支持していた国民は」少数派だったはずなのに、そして陰で軍部の専横を批判する人もずいぶんいたのに、「いたずらに面従腹背の市民たちが、卑屈の沈黙と心にもない権力追従を続けているうちに、ありもしない恐るべき国民の総意なるものが、いつの間にか作り上げられてしまっていた」(218ページ)

これなど、現在の日本、平和主義を国是としていたはずが、なし崩しに戦争のできる普通の国になりつつあるのに、多くの人たちが黙っている現在の日本の雰囲気につながるのではないか。

「かつて1931年ごろから日夜僕らの意識の中に流し込まれた「非常時」というスローガン」は「結局はその陰に隠れて、狂信的ミリタリストたちが彼ら自身の独裁を不抜のものたらしめるための、巧妙極まるプロパガンダであったことは、あたかも世界中に常に戦争危機の空気を振りまいて歩くあの「死の商人」たちの陰謀と同断であったことなど、今では中学生でも知っている」(207ページ)

これだって、中国が攻めてくる、北朝鮮がミサイルを日本に撃ってくるという不安をかきたてるマスコミのこと思い出す時、そのまま当てはまる言葉だ。私のコメントにも時々書き込んでくるネトウヨ(あるいはネトウヨまがい)の連中が言う中国脅威論を、大喜びしているのは「死の商人」とその周辺の利権あさりに余念がない連中だろう。

「現実が真理を作るという風に人は考えやすいが、これは甚だしい迷妄であり、むしろ狡知巧妙な扇動政治家たちのやり口というのは、必ずまずこうした言語の呪術性を利用して、一定必要な心理状態を作り上げ、それから逆に現実を作為的にでっち上げていく(212ページ)

他にも、「漫談・前島熊さんのキツネ哲学」というエッセイには笑った。前島熊さんという変人の話で、彼にはそれぞれの人の後ろについているキツネが見えるというのである。それらのキツネには上中下のランクがあり、偉い人が上のキツネがついているとは限らないという話など、現在の日本の権力者たちの無様で嘘つきで厚顔無恥な姿をみると、あいつらみんな下のキツネがついているんだろうと思えてくる。

それから、独特の死生観も、ちょっと池田清彦の死生観を連想した。それぞれのエッセイで話題になっている事柄は確かに戦後すぐの時代のもので、今となっては昔のことになってしまったんだろうけど、社会に対する考え方、姿勢という点で、まるで古びていない、それどころか、今こそ必要な見方ではないかと思う。



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「野戦病院でヒトラーに何があったのか」(ネタバレ)

2016.11.23.23:45



まゆつば物と思いつつ読み始めたんだけど、結構面白かった。

ヒトラーは第一次大戦末に毒ガスで失明の危機にあったというのは結構有名な話である。あのチョビ髭にしたのはガスマスクがしやすくなるためとかいう説を、どこかで聞いたか読んだかした記憶もある。いずれにせよ、毒ガスによる失明の危機は「我が闘争」にも書いているし、あっちこっちでヒトラー本人が言っていることでもある。

本書はそれをガスではなくヒステリー性の一時失明であり、それをフォルスターという精神科医が催眠治療で治し、しかもその催眠状態を解かないままにしてしまった。その結果ヒトラーが、いわば覚醒してしまったというのである。

ヒトラーの人生において一番の謎は、第一次大戦終了前までのヒトラーがあまりに目立たない、これといって取り柄のない、むしろ従順で卑屈な人物であったのに、戦後になると突然政治活動で頭角を現し、その演説術によって人々を虜にしていったというギャップである。第一次大戦中の集合写真が何枚か残っているが、どれも後列の端に目立たぬように立っていて、見た目も冴えず、まるでカリスマ性が感じられない。四年も軍務につき、勲章すらもらっているのに、最終階級が上等兵どまりだったというのは、つまり、彼に人の上に立つ能力があるとは認められなかったということである。

ところが終戦直前に毒ガス攻撃のためにパーゼヴァルクの野戦病院へ送られて、そこで一月を過ごした後、戦後のヒトラーは人が変わったようにカリスマ性を発揮する。この原因を、ほとんど残された資料のないなか、わずかな文書資料や証言や状況証拠によって、フォルスター医師による催眠療法でヒトラーが覚醒したと推測する。

ヒトラーの失明を直したのがフォルスターという医者だということ、そのフォルスターが当時のかなり有名な精神科医だったこと、さらにフォルスター本人を始めとする関係者の不可解な死(自殺と他殺)と、そのフォルスター本人から渡されたとされる手記を元に書かれたヴァイスという作家の小説の中の描写、多くの人たちの断片的な証言など、本当に細い糸を手繰るようにこの推測の根拠を固めようとするのだけど、正直に言ってかなり糸は細い。そもそも、ナチスが探し、見つけ、廃棄したと言われるフォルスターの手記なるものが本当に存在したのかどうかもわからない。これを決定的に裏付ける直接的な証拠はないのである。

お話としてはとても説得力がある。同時に、もしここに書かれていることが真実なら、当時の人々はまさに「催眠状態にあった精神的に問題のあった男」の誇大妄想にうまうまと乗せられてしまったということになる。恐ろしい話である。ただ、直接証拠はない。ここに書かれていることが、今後のヒトラー研究でどのぐらい重要性を持つのかも、専門家ではない僕にはまるでわからない。ただ、それでも、かなり面白かった。



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「ヒトラーの娘たち」覚書き

2016.09.30.01:31



ナチスの時代、東欧に送られた看護師や秘書、あるいは親衛隊員の妻たちが、その地で行われたユダヤ人をはじめとする人々の大量虐殺にどのように関与したかをテーマにした本。これまでの、ナチ時代の女性たちは何も知らなかった、あるいは被害者だったというイメージを完全に覆す内容で、かなり衝撃的である。

結局、人は、職業や宗教や、受けた教育や生まれながらの性格などにかかわりなく、そして、驚くべきことに、性別すらも関係なく、状況(環境)次第によって、そして機会を与えられれば、残虐なことをいくらでもできてしまうのである。この本の中に出てくる女性たちの何人もが、虐殺を知っていただけでなく、その場に立ち会ったり、中には自らの手でユダヤ人の少年たちを撃ち殺したりした。しかも撃ち殺した子供達と同じぐらいの年齢の子の母親だった者もいた。そして、そうした殺人者たちは、女性であったが故に、戦後ほとんどが罪に問われることがなかった。

それどころか、彼女らの戦後の発言を見る限り、以前書いたことのあるジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」の主人公アウエのような、自分の過去を真摯に見直すような者はいなかったのだ、と言わざるをえない。彼女たち(に限らず、「彼ら」もだろうが)は忘れたのである。過去の自らが行った悪魔のような所業を忘れ去ってしまったのである。

しかし、おぞましい話ばかりである。例えば、これは女性ではないが、東欧でユダヤ人の大量虐殺に従事した親衛隊将校は、その晩の日記に、「愛しいトルーデ」に宛てた手紙形式で、「こんなにも愛しているのに、(彼女の素気無い手紙に対して)なぜこんな目に遭わなければならないのか」(174ページ)とつづる。恋人を胸が張り裂けそうなほどに愛している若者が、その日の昼間に何百人ものユダヤ人の女子どもや老人を銃で撃ち殺していた。これをどう考えればいいのだろう。

戦後のナチ犯罪を追及した検事はこう言う。「個人が狂っていたのではない。正気でなかったのはナチ体制の方だった」彼は「加害者の多くが罪をおかしたと確信していたが、同時に、彼らはもはや社会に対する脅威ではないと結論づけた。」(204ページ)

つまりこういうことだ。状況次第で、機会さえ与えられれば、善良な普通の人がジェノサイドの加害者になりうる。手前味噌じみているけど、これは拙ブログがずっとテーマにしてきたことだ。99.9%の普通の人と0.1%の悪人がいるわけではない。普通の人がとんでもないことをしてきたのが人類の歴史なのだ。これを意識しておくことは大切だと思う。特に今のような時代では。環境によっては、僕だってあなただって、何か飛んでもない「悪」をなすかもしれない。クリント・イーストウッド監督の映画じゃないけど、正義の味方なんていないし、悪の化身もいない。だからこそ、そういうナチ時代のような社会を否定しなければならないのだと思う。



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岡田一郎「革新自治体」を読んで思った事

2016.07.25.23:13



僕は1976年に選挙権を得たけど、当時、選挙でどこに入れていたか、誰に投票したかは、実はあまりよく覚えていない。

当時の僕の大学は、正門前にゴザを引いて、「●●学部、何の誰べえ、学費値上げを当局が撤回するまでハンスト決行中」と書いた看板を立てて座っている人がいたり、4年間で2回もロックアウトになって試験がレポート試験になったりするという、70年代半ばになっても、まだ学生運動の激しかった大学だった。当時の狭く汚い中庭には立看板が並び、時々ヘルメットをかぶった連中が集まってシュプレヒコールを叫んでいた。学生部の教授が台の上で吊るし上げにあっているのも見たことがある。吊るし上げって言っても別に絞首刑になっちゃうわけじゃないよ。また、帰宅してTVをひねったら夕方のニュースで見覚えのある汚い中庭が映し出され、内ゲバ(こんな言葉も今の若い人たちにはわかるかなぁ)で死者が出たと報じられていたこともあった。

だけど、実際は、政治の時代はとうに終わり、ほとんどの学生がいわゆるノンポリだった時代。共産党の青年組織に所属している友人もいたし、創価学会のクラスメイトからは選挙前には電話がかかってきたけど、生返事をしてあしらっていた。さすがに革マルや中核みたいな過激派の友人や知り合いはいなかったが。

棄権は一度しかしなかったと思う。以前書いたように当時は卓球に夢中で、同好会だったんだけど、リーグ戦と選挙が重なって、棄権したという記憶がある。

では、普段はどこに投票していたんだろうか? 多分社会党に入れていたと思うけど、それに何か理由があったかと言われると、よくわからない。心情左翼という言葉が自嘲気味とはいえ、普通に言われていた。共産党は入れたことがあったかもしれないけど、自民と公明には入れたことはないと思う。まあ、その程度のリベラルということだったんだろうけど、要するに何もわかっていなかった。ただ時代の空気は「反権力」だったと思う。僕も当時の空気に流されていた、といえばそうだったのかもしれない。

というわけで、まさにその時代に各地で発生した革新自治体の栄枯盛衰と、その意義を書いたもので、読んでいて、僕の世代としては、なるほど、そうだったのか、と思ったりするところが多かった。名前も当時聞いた名前がたくさん出てきて、今年60になった僕にはすらすらと読めた。

先日、革新都政を望むと書いたら、コメントでネトウヨに絡まれたが 笑)、そこでの美濃部批判が、公営ギャンブルを廃止してパチンコを野放しにした、という呆れるような頓珍漢さ。

そこじゃないだろ、批判するのは!! 

結局批判できる事柄(=理解できる事柄)が、あのネトウヨ氏にはここしかなかったんだろう。ただ、きっとネットにはこういう低レベルの、サルでもわかる批判が蔓延しているんだろう。安倍のやり方だって、まさにそうだしね。ヒトラーは大衆はバカだから、同じことを何度も繰り返さなくてはならない、聞いている人間のうちで一番物分りが悪い者のレベルで話をすべきだと言っているけど、今の日本でもそれが通用しちゃうんだね。

当時批判としてよく言われたのは、福祉と公務員の人件費が財政難を引き起こしたということだった。だけど、福祉や保育所、環境問題(公害問題)を国に先駆けてレベルアップさせたという功績は、絶対にあった。美濃部都政があったおかげで、老人や障害者や公害に苦しむ人たちがずいぶん助けられたのは間違いない。

当時を回想した政策室長の文章には「『おかげさまで、私が死ぬ前にこの子を殺さないで済みました』と、知事宛に寄せられた手紙を、私は目頭を熱くしながら、何通読んだかわからない」(p.88)とある。

また、美濃部は「バラマキ」という批判に対して、こんなことも言っている。「財政危機(の)ニューヨーク市の福祉予算は総予算の30%をしめるのに対し、東京都のそれは、(。。。)未だに12%に過ぎません。(。。。)誤解を恐れずに言えば、東京の、そして日本の福祉は、もっともっとばらまかなければならないのであります」(p.161)

無論良いことばかりではなかったのは当たり前の話だが、しかし社会党内の左派と右派による権力闘争、共産党との軋轢、中道と言われた民社党や公明党のヌエのような、その場その場で、権力に近い方へすり寄ろうとする姿勢、自治省のデマを含むバッシング、さらには、市民参加という理想を掲げながら、有権者たちのおまかせ他人事の態度のはざまで、潰えるべくして潰えたのが革新自治体だったのだろう。

当時の高度経済成長の歪み(公害、社会資本未整備、福祉の遅れ)に気づいた人々が選んだ革新自治体に対して、現在、グローバル化の歪みで、人々が選んでいるのが、限りなくファシズムに近い方向だというのは(それも日本だけではない)、これはどう考えればいいのだろう? 

副題の「熱狂と挫折に何を学ぶか」というメッセージは、言うまでもなく現代にも通じる。先日の川上弘美の「大きな鳥にさらわれないよう」にもあったように、なにしろ人間は同じ過ちを何度でも繰り返す学習能力のない生き物なのだから。


追記(2016、7、26、15:45) 文言を付け加えました。



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對馬達雄「ヒトラーに抵抗した人々」

2016.01.14.01:13



この本には現代の日本のことは一言も述べられていない。しかしこの本を読み進めて、あとがきの最後の最後に「本書を手にした方々に何がしかの意味を読みとっていただけたら、この上ない喜びである」とあるのを読んで、この著者がこの本を今書いたことの「何がしかの意味を読み」とれない人はいないだろう。

絶大な人気を誇ったヒトラーに対して抵抗した個人や組織とその顛末を紹介した本である。拙ブログではこの本の中に出てくる孤独な暗殺者エルザーと、抵抗大学生の「白バラ」や国防軍によるヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」のことは映画がらみで紹介したことがあるし、この関連の本も何冊か読んでいたけど、これまで考えたことがなかったようなことを教えられた。

ようするに、彼ら抵抗者たちは高潔な悲劇の英雄で、人々の記憶の中で賞賛や賛嘆の的になっているのだと思っていた。いや、「思っていた」というところまで意識化していなかった。失敗に終わり死んだとしても、彼らがドイツの歴史の中に燦然と輝いていないはずがなかった。こうした抵抗運動に対して一般ドイツ人たちがどう見ていたかなど考えたことなどなかった。

だから、特に「ワルキューレ作戦」でヒトラー爆殺が失敗に終わった後、ヒトラーへの同情と首謀者達への憤激が渦巻いたそうで、しかもそれは戦後になっても続いたというのには驚愕した。1951年の世論調査でも、このときの首謀者を悪いと評価する人が30%もいたのである。

だから、映画では描かれていなかった終戦後の遺族たちの苦労も想像外のことだった。そこには処刑された首謀者の子供同士が結婚したという感動的なエピソードもあるが、ドイツの敗北後、ナチスの残虐行為が明らかになった後も、「裏切り者」の親族と罵声を浴びたりするし、一方の戦勝国である連合国やソ連も、ドイツ国内に反ヒトラーの抵抗運動があったことは無視しようとする。冷戦構造の中でアメリカもソ連も反ナチの抵抗者たちが戦後のドイツで自分たちにとって都合の悪い影響力をもつことを恐れたのである。

それに対して、ヒトラーを熱狂的に支持したドイツ人たちは、抵抗者の存在によって自分たちの負い目をより強く感じさせられることを嫌ったのだろう。このあたりの心理は実にドストエフスキーあたりの小説に出てきそうな屈折したものがあると思う。

幸いにも現代の日本は「I am not ABE」と公然と言っても収容所に入れられたりしないが、この時代の抵抗者たちはヒトラーのではない「もう一つのドイツ」のために命をかけ、そしてその多くが命を失った。彼らが名誉を回復するのは死後だいぶたってからである。今の日本なら、国会前にいったり、こうしてブログに「アベ政治を許さない!」と書いたりできるけど、あの時代だったらどう行動できただろう? ボンヘッファーが言うナチズムに異議を唱える「市民的勇気」を持つことができただろうか?



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辺見庸「1☆9☆3☆7☆」

2015.12.28.23:43

アップしようと思いながら、なんだかんだでタイミングを逸してしまいましたが、せっかくなので。24日の夕方の月の出です。住んでいるマンションの玄関前から。


というわけで今日は辺見庸の本の紹介。

すでにこの辺見庸の本が雑誌連載中から読んでいた。そこから知った堀田善衛の「時間」を以前紹介した。あのときはこの小説は絶版だったが、この間に辺見の解説付きで岩波現代文庫から出たのでリンクを張っておく。


さて、辺見庸のこの本だ。加筆されて書籍化されたのであらためて読み直した。読み終わってあらためてひどく心が動揺している。ぱらぱらとページを繰るとほとんどどのページにも赤線が引いてある。

題名は日中戦争が始まった年。この年にはヘレン・ケラーが来日して大歓迎されている。一方12月には南京大虐殺が起きている。拙ブログのモチーフの一つでもあるけど、世の中には99.9999%の普通の人と0.0001%の悪人がいるわけではない。ヘレン・ケラーに感動し、講演中に彼女の財布が盗まれたときには日本人として詫びる手紙を書いた人々、その同じ人たちが南京を始め中国大陸で「人間の想像力の限界が試される」ような大虐殺をし、国内ではそれを祝って提灯行列が大々的に行われた。

だが辺見庸は中国大陸で「皇軍」が行った非道を単に「他者の悪事として非難」(p.126)するのではない。まずは「そのとき、その場にあったら、わたしもおなじことをやったのだろうか」(p.95)と自らに問うと共に、中国へ兵隊として従軍した自らの父の所業に思いを馳せる。戦争だったからしょうがないのだというありふれた言い訳を許さない。そのために、堀田善衛の「時間」や武田泰淳の「審判」という小説や、アウシュヴィッツを生き延びたイタリア人プリモ・レーヴィの「知らずに済ますことが出来ない」という言葉が重要な指標になる。「そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとについて、今後とも無記憶でいられるものだろうか」(p.223)という言葉は、単純に自分たちが生まれる前の出来事を知ろうとしない僕らに対する批判でもある。僕らは知らずに済ましてはいけないのだ。

一方で小津安二郎の映画や石川達三の「生きている兵隊」、そしてなにより小林秀雄を著者は批判する。特に小林秀雄に対しては日本的ファシズム、「国民の心底にあるおのずからの全体主義的自覚」を見るところなどは、小林を単なる保守主義者として見る一般的な見方を心胆寒からしめるものだろう。小林の文にあるような無常観に基づいた叙情も天皇制ファシズムに容易に結びつく。

「化石しろ、醜い骸骨!」(p.248)という文句は直接的には阿川弘之に向けられているが、著者自身の中にもある「日本の古層」に向けられているのだろう。「根生いのファシズム」(p.265)と著者が呼ぶ日本的な情緒に向けられているのだろう。

それにしても、「ひとびとはもうなんどもクニに捨てられているというのに、「便所の蠅のやう」に、クニにへばりつく」(p.359)という。「どうしてひとというのはなにごともいちいちゼロから学ばなければならないのだろうか、歴史はなぜ前代の反省と学習をひきついで後代に活かそうとしないのか。どうしてひとはこうまで歴史的経験からしゅっぱつすることができないのか」(p.362-3)。本当にそうだと思う。

昭和天皇ヒロヒトに対する批判(審判)も含め、「被害の責任も加害の責任も、敗戦後70年、まだだれもとってはいない」(p.378)のに、いままた「じんじょうではない」時代になりつつある。

とてつもなく衝撃的な内容だけど、是非赤ペンを手に、ゆっくり読んでみてください。



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森達也「『テロに屈するな!』に屈するな」

2015.12.14.00:00


安倍を応援している人には勧めない。しかしどこかヘンだと思うなら、この本を読むことをお勧めする。わずか85ページのブックレット。値段も620円だ。森の本を読んだことのある人なら、読まなくても良いかもしれない。でも、森の言ってきたことを確認するためには、とてもうまくまとまっていると思うので、そういう人にも是非もう一度読み直してもらいたい。

オウムのドキュメンタリーで注目されることになった森の真骨頂である。憲法違反だと多くの人が言ったにもかかわらず強引に国の形を変えてしまった安倍政権にいたるまでの日本の社会の変質はオウムから始まったという説明はとても納得できる。むしろあまりに穿ちすぎていると思う人もいるかもしれない。それぐらいすばらしい歴史解釈だと思う。ひとつだけあえて言うなら、こんな流れの中で2009年に、一瞬とはいえ鳩山内閣が誕生できたのはなぜだったのだろう? 「コンクリートから人へ」というスローガンは、それまでの、そしてその後の日本の社会の流れとは逆向きのものだったと思うのだが。 そこに今の流れを断ち切るヒントはないのだろうか? 

いずれにしても、

僕がこれまで紹介してきた本は読まなくても

良いから、このブックレットを読んでほしい


本当に強くそう思う。



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小熊英二 「生きて帰ってきた男」の感想

2015.10.28.15:33


1925年に生まれた著者の父親からの聞き取りによるドキュメンタリー。アマゾンのレビューでは2015年10月28日現在、19人中17人が星5つだが、僕も星5つだ。小熊の父は1944年に徴兵され満州に送られて、敗戦によりシベリアに抑留される。約1割の死亡率をくぐり抜けて、敗戦後3年目に帰国した後も、職を転々としたあげく結核になって20代後半の5年を療養所で過ごす。そこを出た後、結婚、高度経済成長の波に乗ってそこそこの成功を収めたあと市民運動に関わる。この人生をその時代の日本の社会の出来事と対比しながら描いたもの。

自分のことに引きつけて恐縮だけど、私の父は1928年生まれ。際どい差で戦争には行かなかったし、当然シベリア抑留など経験していない。また地方出身者ではなく東京の出身で、戦後は大学を出てサラリーマンを定年まで勤めた。だからその点で小熊の父親のような波瀾万丈な人生とは比べられないぐらい平凡な生活だったと言えるのかもしれない。だけど、読みながら、この時代、父は何をしていたんだろうとか、断片的に聞いた戦時中の話などを思い出しながら、とてもリアリティを持って読めた。

そして僕は著者の小熊英二より6歳ほど年上。だから後半に描かれていることの多くで、当時の自分を思い出した。

すごい記憶力であると思う。そして語られたことを調べて、裏付け確認がされている。そしてなにより、ここで引用される小熊の父の言葉が含蓄がある。たとえばこういう言葉。

「現実の世の中の問題は、二者択一ではない。そんな考え方は、現実の社会から遠い人間の発想だ」(p.211)

また、日本という国の酷薄さにもあらためて腹が立った。終戦前に天皇の命令で作られた和平交渉に関する文書では、すでに満州在留の軍人・軍属を「賠償」の一部としてソ連に労務提供すると決められていたのである。つまりシベリア抑留はある意味で当時の日本がスターリンに対して、これで許してくださいと国民を差し出した、ということなのである。そして戦後はそれをほっかむりして「ソ連はけしからん!」と非難した。なんということ! 沖縄もそうだが、この国は国民を捨てるのである。それは戦争中だけではなく戦後になっても同じだった。これはしっかりと意識しておかなければならない。国を愛しても、国のほうは国民(庶民)をはたしてどれだけ大事に思っているか。。。逆に言えば、それだからこそ、昨今権力者の側から愛国心を強要しようとする動きが出てくるのだろう。

小熊の父はこう言う。

「官僚や高級軍人は、戦争に負けても、講和条約の後には恩給が出た。しかし庶民は、働けるときに蓄えた貯金も、すべて戦後のインフレでなくなった。ばかな戦争を始めて多くの人を死なせ、父や祖父母をこんなひどい生活に追い込んだ連中は、責任をとるべきだと思った。」(p.182)

たぶん僕と同世代の人なら、絶対に面白く読めるはず。そして、僕も父から昔の話を聞いておきたいと強く感じたし、今度実家に行ったときには、すっかり耳が悪くなった父だが、少し昔のことを聞き出してみようと思っている。



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保阪正康「戦場体験者」の一エピソード

2015.10.22.09:25

うーん、旅行以外でこんなに更新しなかったのはこれまであったかなぁ。いや、さいたまへ行くためにやりくり算段、なにしろ忙しくって。これまでも忙しいことはあったけど、たいていは自転車選手のブログを訳してお茶を濁せたんだけど、このところデーゲもフレーリンガーもマルティンもキッテルもゲシュケも、みんなブログ更新なしなのでねぇ 笑)

さて、先日ちょっとだけ触れた保阪正康の「戦場体験者」の中に、中国戦線で村に火を放ったら、村から泣きながら4、5歳の子供が後をついてきたので、上官に相談したところ、「始末しろ」と言われたので、泣く泣く射殺した元兵士の話が出ていた。

きっとこういう話は無数にあったんだろう。ただ、僕が読んでいてショックを受けたのはその後のことだ。戦後になって戦友会でその上官と会ったので、あのときは辛かったと話したところ、上官はこう言いはなった。「始末せよと入ったけど、殺せとは言わなかった。」この元兵士は上官に対して「殺意の衝動」さえ感じたという。(p.108)

こうやって上に立つものが下のものに責任を押しつけて、自分は罪の意識を感じないですむというこの構図、この社会のさまざまなところで見えてくる構図ではないだろうか?



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武田砂鉄「紋切型社会」

2015.10.13.23:36


評判がいいので読んでみましたが、なるほどと納得。著者みずからがあとがきで書いているように「読み手を置いてけぼりにする」ことがままあるにしても、なんともいえない爽快感、疾走感を感じさせる見事な語り口です。曽野綾子の上から目線の日本でしか通じないような内向きの偉そうな物言いに対して、これをパスポートの比喩で「いざ税関に持っていけば『こんなものは使えません』と差し戻される偽造パスポート」(p.72)と言ってのけるのなんか、なんとも痛快。

現代の社会を「人間そのものに、短絡的に○か×かを付ける。ならばと、自分が生き残るために、誰かの淘汰を歓迎する」(p.252)なんて、手前味噌だけど、拙ブログで繰り返してきた無教養な単純化と犠牲を強いる社会にたいする批判と一致すると思います。

こういう考え方、物の見方がもっと広まると、この国もすべての人がもう少し生きやすい国になるだろうと思うのですけどね。



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木村草太「集団的自衛権はなぜ違憲なのか」

2015.10.07.21:05


もっと早く読むべきだったとは思うけど、でも今からでも遅くない。いや、むしろこの先に向けて今読むべきかもしれない。

この人の本は以前にも紹介したことがある。その時もなるほど、と膝を打つことが何度もあったが、今回もすごく分かりやすいし、ああ、こうやって考えるものなのね、といくつも蒙を啓かれた思い。

たとえば、憲法13条の生命自由幸福追求権により、日本が攻められたときに防衛する「個別的自衛権」(自衛のための実力行使する権利=自衛隊の合憲性)は防衛行政として憲法9条の例外と認められるが、直接的に他国を守る「集団的自衛権」は、憲法73条にある内閣の行政権に「軍事」の規定がない以上憲法違反である、という説明。憲法学者の間では、ひょっとしたら常識なのかもしれないけど、この本の表現の分かりやすさと、スリリングな書き方に、なるほどと感心した。なんと論理的で美しいぐらいに明瞭な説明であることか。

数日前の朝日新聞の投書欄に、憲法を素直に読めば自衛隊は違憲だという意見が述べられていた。だが、この本を読むと、憲法は「素直に」字面だけを読んではいけないことがよく分かる。まあ、こんなの当たり前のことだが。

自衛隊をどう考えるか、というのは結構ハードな問題だ。ただ、その朝日の投稿のように字面だけを読んで単純化し、自衛隊は違憲だというレッテルを貼って、そこからおかしいから憲法を変えるべきだという結論を導き出してしまう改正論者も多い。一方で、護憲派のの中でも最も過激な人たちが言うように自衛隊は違憲だから解体すべきだというのも現実味が薄い。だけど、最初のように13条と関連づけると、なんのことはない、万が一どこかの国が攻めてきたときには(これはどう考えても僕にはあり得ない話に見えるけどね)国を護る(個別的自衛権の行使)というスタンスの自衛隊でいいのだと納得できる。

憲法の話ってこんなに面白いんだ!



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野崎泰伸「共倒れ社会を超えて」覚書き

2015.08.02.17:33



ここで著者は倫理を定義して「私たちが共に豊かに生きていくための、侵すべからざる掟」(p.12) だと言う。この掟はたとえ現時点では実現不可能であっても、この掟を目指して社会を作っていくべき理想型である。だから、当然、倫理に社会改善のための特効薬的な効能はない。

一方でこの社会は「共に豊かに生きていく」という理想からはほど遠い、誰かに犠牲を強いることによって「豊かさ」が実現された社会になっている。そうした犠牲を前提にした社会は、最初に述べた倫理の定義からして、当然のこととして正義にもとる社会と言うことになる。

つまり、いわゆる「最大多数の最大幸福」という言葉は、単に、「よりマシな選択肢」(P.45)にすぎないのであって、倫理的に正当化されるべきものではない。現実にはこの社会は誰かを犠牲にせざるを得ないのだが、それを正当化してはならないということである。

そしてこの本のポイントはこれが障害者の視点から語られていることである。これは拙ブログのエピグラムである八尋さんの言葉も同じ視点、同じ方向を向いていると思うのだが、障害者にとって住みやすい社会は、当たり前のことだが、健常者にとっても住みやすいからである。

しかし、ここでは障害者問題だけが語られているわけではない。現在の社会では制度を変革すれば解消できる問題が、しばしば個々の現場の「自己決定」や「自己責任」に押しつけられ、社会が担うべき責任が個人に押しつけられ、犠牲を強要されている。個人の意思を尊重すると言って、実は社会による支援の欠如による犠牲の強要を隠蔽している。これは僕もこれまで何度か書いたように、その通りだと思う。前世紀の末からの、いわゆる新自由主義という市場経済至上主義、なんでもありの拝金主義が蔓延して、国家の公的責任がなし崩しに薄まってしまった。

このような社会のなかで、個人が倫理に基づいて上記のような発言をしても、「すぐに結果が出せないのであれば『そんなことをしても仕方がない』と言い出す人が必ずといっていいほど出て」くる。それこそが「私たちを飼い慣らすこの社会の思ううつぼ」なのである。そして、そうしたあきらめはやがて「『何もおかしくはない』などとウソを」(P.187)つかせるようになる。

かくして「どうせ〜なんだから」という逃げ口上と共に、「わたし(と親しい人たち)の生活さえまもられればよいといった、この社会や他者【著者はこの言葉に特殊な意味を持たせて使っている】に対する無関心な態度が醸成されていくこと」(P.198)になる。

この本の中でハッとさせられたのは、「『あるべき社会とは何かを問うこと』と『自分(とその身内)の暮らしを守る事』を天秤にかけること自体が正義の原理にかなっていない」(204)と言う言葉である。倫理という「侵さざる掟」のもとでぼくらは日常の生活を送っているのである。たとえ普段意識しなくても、倫理という掟がなければ「社会は人間のただの寄せ集めにすぎず、お互いが孤立した存在になってしまう」(P.12) のである。

(ふと連想したのが、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という言葉。これは実際に「健康で文化的な最低限度の生活」がどのようなものかの規定がないし、ある意味では何でもありのユルフン規定、鵺みたいなものだから、ダメだという人がいる。あるいは憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言を考えても良いかもしれない。そんなの無理だ、理想論だ、できないことを書いても意味がない、といってそうしたあるべき姿(=理想型=倫理の掟)を捨ててしまったら、人間はどんどん低劣になっていくだろう。)

この本は、こうした視点から、障害者問題に関連したかなり具体的な提言から、経済至上主義や現在の安倍政権下の社会に対する批判まで含めて、とても有意義な本だと思うし、どういう立ち位置で僕らが社会を見るべきかを考えるとき、これは一つの有効な提案になると思う。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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