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澤野雅樹「絶滅の地球誌」覚え書き

2017.08.18.22:38



生命が誕生して以来、周期的に生じる生物の大量絶滅の話、つまり古生物学の話かと思って読み始めたけど、強烈な現代社会批判の書だった。特に原子力というものが「賢者でも哲人でもない普通の人間の手元に残され」(p.13)たことで、人類はのっぴきならぬ事態に追い込まれている。

内容が、数式なんかも出てきて、文系人間には難しいところもあったけど、文章として、あちこちにちりばめられた比喩が秀逸。また、紹介される個別のエピソードもとても面白いし、ここで展開される現代社会批判も納得いくものばかりである。

著者は最終的に「見えてくる眺望は最悪のシナリオになる。しかし、そのシナリオを最も深刻な形で素描することによって、その傍らに一つの希望が見えるようにしておきたい」(p.14)という。その最悪のシナリオはこんな感じ。

「いつか地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になるだろう。人間が何をしようが(あるいは何もすまいが)その未来は必ず訪れる。ただ、遅いか早いかの違いだけだ。それゆえ、我々人間にできることがあるとすれば、終末の景色を急いで手繰り寄せるか、あるいは可能な限り遠ざけようとするかのいずれかである。あるいはその選択すら避けて、何の根拠もなく同じ日常が永遠に続くと信じることも可能だろう。その選択が最悪の手にならなければ良いが。」(p.84)

僕らの想像を絶する未来の話だと思っていたSF的な終末の姿は、実はこの先数百年、ひょっとしたらもっと近い将来の話なのかもしれない。ネイティブアメリカンのナバホ族の言葉に7代先のことを考えて行動しろ、というのがあるが、今こそ、僕らは7代先のことを考えなければならないのだと思う。

そして、「人間は進化の目的でも終着点でもない。人間に何か特別な使命があるわけでもない。人は内輪の目的を追求しているだけであって、宇宙や自然の観点からは人のどんな活動にも価値はないし、どんな人生にもそれ以外の意味はない。」(p.177)

僕もこれには強く同意する。僕らがやっていることに何かの価値があるわけではない。これは常に意識していなければならないと思う。相模原の障害者虐殺事件で、犯人は重度障害者には価値がないというようなことを言ったそうだ。そして、それに同意する人もたくさんいるらしい。バカなことを言ってはいけない。宇宙や自然という大きなものを考えた時、どんな人間にも価値などない。

だけど、ここから簡単に、「だから何をしても無意味だ」というニヒリズムに逃げるのは安易すぎる。逆である。だからこそ、人間の命はどれも大切なものなのだと思う。何十億年にもわたって進化してきた生命の歴史を考えた時、僕が今ここでこうしてキーボードを叩いていることに何の意味もない。いずれ、おそらくそう遠くない将来「地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になる」のかもしれない。だけど、だからこそ、ここでこうしてキーボードを叩いているこの一瞬が大事なことであるとともに、この一瞬がとてもいとおしく思えてくる。



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立岩真也・杉田俊介「相模原障害者殺傷事件」覚え書き

2017.05.12.02:36



読み終わったのはもう2週間近く前。だけど、どうもうまくまとめられないできた。今もうまくまとめられないままなので、覚え書き程度にメモしておきます。

正直に言うと立岩真也の書いた部分は、なかなかレベルが高くて(=予備知識が必要で)ちょっと読みづらい。でもあちこちに心を打つ文章が点在している。

「できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。 」

この事件の犯人を精神障害者が妄想に取り付かれておこなった特異な事件だとして、精神医療の問題に限定してしまおうとする人たちがいる。だけど、この事件は今の時代の空気を如実にあわらす事件だったと思う。それについては何度もここで書いた。だけどその後、この事件の対策として語られるのは精神障害者の措置入院制度を検討し直すという話ばかりだった。

つまりその方が安心なのだろう。死刑制度のことを書いた時にも触れたけど、ああいう犯罪を犯すようなやつと自分は違うと言いたいわけだ。ああいうやつは何か怪物のような悪党、映画に出てくる異常な犯罪者でなくてはならない。そう思うことで自分とは違うと安心できるわけだ。

だけど、そんな線が引けるのだろうか? 誰が引くのだろう? この本はまさにそうした線引きなどできないのだ、という本だ。

杉田俊介の書いた方は、個人的にはとてもわかりやすかった。上記の立岩の言うように、働かざるもの食うべからず、は人間社会の中で原則になっている。それが高じていくと、働かない奴は邪魔だ、いなくなってくれ、というところまで、もうあと一歩だ。

「無意味な人生であれば殺してしまったほうがましだ。それが国のためになり、ひいては世界のためになる。もちろんそれは吐き気を催すような、ぞっとするような考え方である。だが、ふとこうも思う。それは誰よりも、あなた(たち)があなた(たち)自身に密かに言い続けてきたことではなかったか。」(144-5ページ)

この文章の最後のところは読者に向かって語りかけている。誰だって過去に、ああ、こんな俺なんか死んだほうがましだ、と思うことがあるだろう。こんな無意味な人生なんか終わらせたい、そんな瞬間が人生で一度もないという人は、まあ幸せな人なんだろうね。つまり優生思想というのは自分自身にも向けられているものなのだ。

星野智幸の小説に「呪文」というのがあって、最初に読んだ時は、ものすごく面白いけど、どう考えたらいいのか、よくわからなかった。この杉田俊介の、優生思想というのは実は自分にも向けられるものなんだというのを読んで、この星野の小説を思い出した。


優生思想の根というのは深く、これをしっかりと断ち切るのはなかなか難しいし、社会の有り様に直結する問題をはらむ。先日書いた自己責任ということとも繋がってくるだろうし、死刑制度とも繋がってくると思う。生きている価値がない人間がいるのか、生まれてこない方が良かった人間がいるのか、ということである。その価値は誰が決めるのか? そもそも人間の「価値」ってなんだ? 

これに対して、杉田俊介は「人間の生には平等に意味がない」と言い放ち、個人の「意味と無意味の線引きを拒絶」するという考えを述べている。以前書いたことがあるフェリーニの「道」という映画に、登場人物が知恵遅れの主人公に向かって「意味のない人生なんかない、空の星だって、この石ころだって、必ず何かの役に立っているんだ」という感動的なシーンがあって、何度も泣かされたシーンだけど、杉田はそんな甘いことを完全否定しようとしている。これを正しいと思うかどうかは人によるだろう。意味がないなら、何をやってもいいではないか、という繋がりで、ニヒリズムにたどり着く可能性も考えられる。さらに、そのニヒリズムを超えて(簡単に言うが、これもまた大変なことだろう)、これを正しいと思っても、この境地まで一足飛びにたどり着くのは難しい。そうだとしても、「低い声でぶつぶつつぶやいていればいずれじわじわと染みとおっていく」(189ページ)のだ、と思いたい。

とりあえず、今は、優生思想的な発想を「のさばらせないこと」が大切である。



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斎藤美奈子の「学校が教えないほんとうの政治の話」

2016.12.15.01:59



図書館でちょっと手に取ったら、なかなか面白くて、つい借りてきてしまいました。いやあ、この人、東京新聞のコラムでも、時々ビックリするようなすごいことを書く人ですが、大した才人です。

特に、戦後民主主義を左派的と見なすなら、現在は左派が1点リードで9回裏、右派はツーアウト満塁一打逆転サヨナラのチャンスにバッターボックスに安倍が入っているという例え。なかなか笑えたんですが、笑っている場合じゃないですね。

この斎藤の比喩に乗れば、なにしろここまで、完全なストライクをボールと言ったり、ほとんどすべての解説者がアウトだと言っているのを、審判を変えてセーフにしたり、とむちゃくちゃやってきてますからね。球場警備員も文句を言う観客を片っ端から追い出して、挙げ句の果てに差別用語まで撒き散らし、球場は大混乱ですよ。

斎藤美奈子本人は自分を左翼だと言っていますが、ここに描かれている右の人たちの意見もきちんと書いていて、そこには聞くべきものもあるというわけ。そして、読者にはどちらがいいかと問いかける。

だけど、問題は、現代はそんなレベルまで行っていないと思うんだなぁ。右だ左だという前の段階で、それを議論すべき前提すら理解しないまま、議論そのものを否定するようなことを言う人たちが、今の日本には満ち溢れているわけです。しかも、そこらのネトウヨが言うのとは違いますよ。自分たちの意見を批判する新聞社を潰せとわめく権力寄りの作家や、「天賦人権説」を否定しちゃう議員なんて、もう何をか言わんや、ですよ。そして自分たちの目指すことを「ナチスの手口を真似して」実現しようと言ったり、ハーケンクロイツ掲げるような奴らと一緒にニコニコ写真を撮ったりする連中が大臣の座にいるわけですからね。

ただね、この本も、結局一番読んで欲しい人たちは、おそらく手にもとらないでしょう。これだけ分かりやすく現代に至る日本の政治の状況を説明しているのに、選挙に行かないような人たちは、当然この本を手に取るはずもないし、ましてやネトウヨさんたちにいたっては。。。拙ブログに、時々いたずら書きをしてくるネトウヨさんや安倍応援団なんかも、こうした良識的な、至極まっとうな本は読まないでしょう。仮にこの本を手に取った、あるいは目に留めた人でも、まず斎藤美奈子を知らなければ、ネット検索してレッテルが貼ってあるのを確認して、それでもうわかったつもりになるでしょう。仮に読んだとしても、はなから揚げ足取りにしか関心がないだろうから、本筋とまるで別のところでとんちんかんなことをアマゾンのレビュなんかに書いて、星一つにしちゃうんでしょう 笑)



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中野好夫のエッセイ集 「悪人礼賛」

2016.12.12.22:01



図書館で借りてきて、先ほど読み終わりました。感心したので、アマゾンで注文したところです。

著者はすでに30年以上前にこの世を去った名翻訳家。主に敗戦直後から70年代までに書かれた短めのエッセイを集めたものだけど、あちこちに指摘される戦後の社会に対する批判が、今の社会に対する批判として読んでも完全に通用してしまうのが恐ろしい。

「超国家主義の勢力拡張時代」にそれを「心から積極的に支持していた国民は」少数派だったはずなのに、そして陰で軍部の専横を批判する人もずいぶんいたのに、「いたずらに面従腹背の市民たちが、卑屈の沈黙と心にもない権力追従を続けているうちに、ありもしない恐るべき国民の総意なるものが、いつの間にか作り上げられてしまっていた」(218ページ)

これなど、現在の日本、平和主義を国是としていたはずが、なし崩しに戦争のできる普通の国になりつつあるのに、多くの人たちが黙っている現在の日本の雰囲気につながるのではないか。

「かつて1931年ごろから日夜僕らの意識の中に流し込まれた「非常時」というスローガン」は「結局はその陰に隠れて、狂信的ミリタリストたちが彼ら自身の独裁を不抜のものたらしめるための、巧妙極まるプロパガンダであったことは、あたかも世界中に常に戦争危機の空気を振りまいて歩くあの「死の商人」たちの陰謀と同断であったことなど、今では中学生でも知っている」(207ページ)

これだって、中国が攻めてくる、北朝鮮がミサイルを日本に撃ってくるという不安をかきたてるマスコミのこと思い出す時、そのまま当てはまる言葉だ。私のコメントにも時々書き込んでくるネトウヨ(あるいはネトウヨまがい)の連中が言う中国脅威論を、大喜びしているのは「死の商人」とその周辺の利権あさりに余念がない連中だろう。

「現実が真理を作るという風に人は考えやすいが、これは甚だしい迷妄であり、むしろ狡知巧妙な扇動政治家たちのやり口というのは、必ずまずこうした言語の呪術性を利用して、一定必要な心理状態を作り上げ、それから逆に現実を作為的にでっち上げていく(212ページ)

他にも、「漫談・前島熊さんのキツネ哲学」というエッセイには笑った。前島熊さんという変人の話で、彼にはそれぞれの人の後ろについているキツネが見えるというのである。それらのキツネには上中下のランクがあり、偉い人が上のキツネがついているとは限らないという話など、現在の日本の権力者たちの無様で嘘つきで厚顔無恥な姿をみると、あいつらみんな下のキツネがついているんだろうと思えてくる。

それから、独特の死生観も、ちょっと池田清彦の死生観を連想した。それぞれのエッセイで話題になっている事柄は確かに戦後すぐの時代のもので、今となっては昔のことになってしまったんだろうけど、社会に対する考え方、姿勢という点で、まるで古びていない、それどころか、今こそ必要な見方ではないかと思う。



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「野戦病院でヒトラーに何があったのか」(ネタバレ)

2016.11.23.23:45



まゆつば物と思いつつ読み始めたんだけど、結構面白かった。

ヒトラーは第一次大戦末に毒ガスで失明の危機にあったというのは結構有名な話である。あのチョビ髭にしたのはガスマスクがしやすくなるためとかいう説を、どこかで聞いたか読んだかした記憶もある。いずれにせよ、毒ガスによる失明の危機は「我が闘争」にも書いているし、あっちこっちでヒトラー本人が言っていることでもある。

本書はそれをガスではなくヒステリー性の一時失明であり、それをフォルスターという精神科医が催眠治療で治し、しかもその催眠状態を解かないままにしてしまった。その結果ヒトラーが、いわば覚醒してしまったというのである。

ヒトラーの人生において一番の謎は、第一次大戦終了前までのヒトラーがあまりに目立たない、これといって取り柄のない、むしろ従順で卑屈な人物であったのに、戦後になると突然政治活動で頭角を現し、その演説術によって人々を虜にしていったというギャップである。第一次大戦中の集合写真が何枚か残っているが、どれも後列の端に目立たぬように立っていて、見た目も冴えず、まるでカリスマ性が感じられない。四年も軍務につき、勲章すらもらっているのに、最終階級が上等兵どまりだったというのは、つまり、彼に人の上に立つ能力があるとは認められなかったということである。

ところが終戦直前に毒ガス攻撃のためにパーゼヴァルクの野戦病院へ送られて、そこで一月を過ごした後、戦後のヒトラーは人が変わったようにカリスマ性を発揮する。この原因を、ほとんど残された資料のないなか、わずかな文書資料や証言や状況証拠によって、フォルスター医師による催眠療法でヒトラーが覚醒したと推測する。

ヒトラーの失明を直したのがフォルスターという医者だということ、そのフォルスターが当時のかなり有名な精神科医だったこと、さらにフォルスター本人を始めとする関係者の不可解な死(自殺と他殺)と、そのフォルスター本人から渡されたとされる手記を元に書かれたヴァイスという作家の小説の中の描写、多くの人たちの断片的な証言など、本当に細い糸を手繰るようにこの推測の根拠を固めようとするのだけど、正直に言ってかなり糸は細い。そもそも、ナチスが探し、見つけ、廃棄したと言われるフォルスターの手記なるものが本当に存在したのかどうかもわからない。これを決定的に裏付ける直接的な証拠はないのである。

お話としてはとても説得力がある。同時に、もしここに書かれていることが真実なら、当時の人々はまさに「催眠状態にあった精神的に問題のあった男」の誇大妄想にうまうまと乗せられてしまったということになる。恐ろしい話である。ただ、直接証拠はない。ここに書かれていることが、今後のヒトラー研究でどのぐらい重要性を持つのかも、専門家ではない僕にはまるでわからない。ただ、それでも、かなり面白かった。



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「ヒトラーの娘たち」覚書き

2016.09.30.01:31



ナチスの時代、東欧に送られた看護師や秘書、あるいは親衛隊員の妻たちが、その地で行われたユダヤ人をはじめとする人々の大量虐殺にどのように関与したかをテーマにした本。これまでの、ナチ時代の女性たちは何も知らなかった、あるいは被害者だったというイメージを完全に覆す内容で、かなり衝撃的である。

結局、人は、職業や宗教や、受けた教育や生まれながらの性格などにかかわりなく、そして、驚くべきことに、性別すらも関係なく、状況(環境)次第によって、そして機会を与えられれば、残虐なことをいくらでもできてしまうのである。この本の中に出てくる女性たちの何人もが、虐殺を知っていただけでなく、その場に立ち会ったり、中には自らの手でユダヤ人の少年たちを撃ち殺したりした。しかも撃ち殺した子供達と同じぐらいの年齢の子の母親だった者もいた。そして、そうした殺人者たちは、女性であったが故に、戦後ほとんどが罪に問われることがなかった。

それどころか、彼女らの戦後の発言を見る限り、以前書いたことのあるジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」の主人公アウエのような、自分の過去を真摯に見直すような者はいなかったのだ、と言わざるをえない。彼女たち(に限らず、「彼ら」もだろうが)は忘れたのである。過去の自らが行った悪魔のような所業を忘れ去ってしまったのである。

しかし、おぞましい話ばかりである。例えば、これは女性ではないが、東欧でユダヤ人の大量虐殺に従事した親衛隊将校は、その晩の日記に、「愛しいトルーデ」に宛てた手紙形式で、「こんなにも愛しているのに、(彼女の素気無い手紙に対して)なぜこんな目に遭わなければならないのか」(174ページ)とつづる。恋人を胸が張り裂けそうなほどに愛している若者が、その日の昼間に何百人ものユダヤ人の女子どもや老人を銃で撃ち殺していた。これをどう考えればいいのだろう。

戦後のナチ犯罪を追及した検事はこう言う。「個人が狂っていたのではない。正気でなかったのはナチ体制の方だった」彼は「加害者の多くが罪をおかしたと確信していたが、同時に、彼らはもはや社会に対する脅威ではないと結論づけた。」(204ページ)

つまりこういうことだ。状況次第で、機会さえ与えられれば、善良な普通の人がジェノサイドの加害者になりうる。手前味噌じみているけど、これは拙ブログがずっとテーマにしてきたことだ。99.9%の普通の人と0.1%の悪人がいるわけではない。普通の人がとんでもないことをしてきたのが人類の歴史なのだ。これを意識しておくことは大切だと思う。特に今のような時代では。環境によっては、僕だってあなただって、何か飛んでもない「悪」をなすかもしれない。クリント・イーストウッド監督の映画じゃないけど、正義の味方なんていないし、悪の化身もいない。だからこそ、そういうナチ時代のような社会を否定しなければならないのだと思う。



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岡田一郎「革新自治体」を読んで思った事

2016.07.25.23:13



僕は1976年に選挙権を得たけど、当時、選挙でどこに入れていたか、誰に投票したかは、実はあまりよく覚えていない。

当時の僕の大学は、正門前にゴザを引いて、「●●学部、何の誰べえ、学費値上げを当局が撤回するまでハンスト決行中」と書いた看板を立てて座っている人がいたり、4年間で2回もロックアウトになって試験がレポート試験になったりするという、70年代半ばになっても、まだ学生運動の激しかった大学だった。当時の狭く汚い中庭には立看板が並び、時々ヘルメットをかぶった連中が集まってシュプレヒコールを叫んでいた。学生部の教授が台の上で吊るし上げにあっているのも見たことがある。吊るし上げって言っても別に絞首刑になっちゃうわけじゃないよ。また、帰宅してTVをひねったら夕方のニュースで見覚えのある汚い中庭が映し出され、内ゲバ(こんな言葉も今の若い人たちにはわかるかなぁ)で死者が出たと報じられていたこともあった。

だけど、実際は、政治の時代はとうに終わり、ほとんどの学生がいわゆるノンポリだった時代。共産党の青年組織に所属している友人もいたし、創価学会のクラスメイトからは選挙前には電話がかかってきたけど、生返事をしてあしらっていた。さすがに革マルや中核みたいな過激派の友人や知り合いはいなかったが。

棄権は一度しかしなかったと思う。以前書いたように当時は卓球に夢中で、同好会だったんだけど、リーグ戦と選挙が重なって、棄権したという記憶がある。

では、普段はどこに投票していたんだろうか? 多分社会党に入れていたと思うけど、それに何か理由があったかと言われると、よくわからない。心情左翼という言葉が自嘲気味とはいえ、普通に言われていた。共産党は入れたことがあったかもしれないけど、自民と公明には入れたことはないと思う。まあ、その程度のリベラルということだったんだろうけど、要するに何もわかっていなかった。ただ時代の空気は「反権力」だったと思う。僕も当時の空気に流されていた、といえばそうだったのかもしれない。

というわけで、まさにその時代に各地で発生した革新自治体の栄枯盛衰と、その意義を書いたもので、読んでいて、僕の世代としては、なるほど、そうだったのか、と思ったりするところが多かった。名前も当時聞いた名前がたくさん出てきて、今年60になった僕にはすらすらと読めた。

先日、革新都政を望むと書いたら、コメントでネトウヨに絡まれたが 笑)、そこでの美濃部批判が、公営ギャンブルを廃止してパチンコを野放しにした、という呆れるような頓珍漢さ。

そこじゃないだろ、批判するのは!! 

結局批判できる事柄(=理解できる事柄)が、あのネトウヨ氏にはここしかなかったんだろう。ただ、きっとネットにはこういう低レベルの、サルでもわかる批判が蔓延しているんだろう。安倍のやり方だって、まさにそうだしね。ヒトラーは大衆はバカだから、同じことを何度も繰り返さなくてはならない、聞いている人間のうちで一番物分りが悪い者のレベルで話をすべきだと言っているけど、今の日本でもそれが通用しちゃうんだね。

当時批判としてよく言われたのは、福祉と公務員の人件費が財政難を引き起こしたということだった。だけど、福祉や保育所、環境問題(公害問題)を国に先駆けてレベルアップさせたという功績は、絶対にあった。美濃部都政があったおかげで、老人や障害者や公害に苦しむ人たちがずいぶん助けられたのは間違いない。

当時を回想した政策室長の文章には「『おかげさまで、私が死ぬ前にこの子を殺さないで済みました』と、知事宛に寄せられた手紙を、私は目頭を熱くしながら、何通読んだかわからない」(p.88)とある。

また、美濃部は「バラマキ」という批判に対して、こんなことも言っている。「財政危機(の)ニューヨーク市の福祉予算は総予算の30%をしめるのに対し、東京都のそれは、(。。。)未だに12%に過ぎません。(。。。)誤解を恐れずに言えば、東京の、そして日本の福祉は、もっともっとばらまかなければならないのであります」(p.161)

無論良いことばかりではなかったのは当たり前の話だが、しかし社会党内の左派と右派による権力闘争、共産党との軋轢、中道と言われた民社党や公明党のヌエのような、その場その場で、権力に近い方へすり寄ろうとする姿勢、自治省のデマを含むバッシング、さらには、市民参加という理想を掲げながら、有権者たちのおまかせ他人事の態度のはざまで、潰えるべくして潰えたのが革新自治体だったのだろう。

当時の高度経済成長の歪み(公害、社会資本未整備、福祉の遅れ)に気づいた人々が選んだ革新自治体に対して、現在、グローバル化の歪みで、人々が選んでいるのが、限りなくファシズムに近い方向だというのは(それも日本だけではない)、これはどう考えればいいのだろう? 

副題の「熱狂と挫折に何を学ぶか」というメッセージは、言うまでもなく現代にも通じる。先日の川上弘美の「大きな鳥にさらわれないよう」にもあったように、なにしろ人間は同じ過ちを何度でも繰り返す学習能力のない生き物なのだから。


追記(2016、7、26、15:45) 文言を付け加えました。



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對馬達雄「ヒトラーに抵抗した人々」

2016.01.14.01:13



この本には現代の日本のことは一言も述べられていない。しかしこの本を読み進めて、あとがきの最後の最後に「本書を手にした方々に何がしかの意味を読みとっていただけたら、この上ない喜びである」とあるのを読んで、この著者がこの本を今書いたことの「何がしかの意味を読み」とれない人はいないだろう。

絶大な人気を誇ったヒトラーに対して抵抗した個人や組織とその顛末を紹介した本である。拙ブログではこの本の中に出てくる孤独な暗殺者エルザーと、抵抗大学生の「白バラ」や国防軍によるヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」のことは映画がらみで紹介したことがあるし、この関連の本も何冊か読んでいたけど、これまで考えたことがなかったようなことを教えられた。

ようするに、彼ら抵抗者たちは高潔な悲劇の英雄で、人々の記憶の中で賞賛や賛嘆の的になっているのだと思っていた。いや、「思っていた」というところまで意識化していなかった。失敗に終わり死んだとしても、彼らがドイツの歴史の中に燦然と輝いていないはずがなかった。こうした抵抗運動に対して一般ドイツ人たちがどう見ていたかなど考えたことなどなかった。

だから、特に「ワルキューレ作戦」でヒトラー爆殺が失敗に終わった後、ヒトラーへの同情と首謀者達への憤激が渦巻いたそうで、しかもそれは戦後になっても続いたというのには驚愕した。1951年の世論調査でも、このときの首謀者を悪いと評価する人が30%もいたのである。

だから、映画では描かれていなかった終戦後の遺族たちの苦労も想像外のことだった。そこには処刑された首謀者の子供同士が結婚したという感動的なエピソードもあるが、ドイツの敗北後、ナチスの残虐行為が明らかになった後も、「裏切り者」の親族と罵声を浴びたりするし、一方の戦勝国である連合国やソ連も、ドイツ国内に反ヒトラーの抵抗運動があったことは無視しようとする。冷戦構造の中でアメリカもソ連も反ナチの抵抗者たちが戦後のドイツで自分たちにとって都合の悪い影響力をもつことを恐れたのである。

それに対して、ヒトラーを熱狂的に支持したドイツ人たちは、抵抗者の存在によって自分たちの負い目をより強く感じさせられることを嫌ったのだろう。このあたりの心理は実にドストエフスキーあたりの小説に出てきそうな屈折したものがあると思う。

幸いにも現代の日本は「I am not ABE」と公然と言っても収容所に入れられたりしないが、この時代の抵抗者たちはヒトラーのではない「もう一つのドイツ」のために命をかけ、そしてその多くが命を失った。彼らが名誉を回復するのは死後だいぶたってからである。今の日本なら、国会前にいったり、こうしてブログに「アベ政治を許さない!」と書いたりできるけど、あの時代だったらどう行動できただろう? ボンヘッファーが言うナチズムに異議を唱える「市民的勇気」を持つことができただろうか?



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辺見庸「1☆9☆3☆7☆」

2015.12.28.23:43

アップしようと思いながら、なんだかんだでタイミングを逸してしまいましたが、せっかくなので。24日の夕方の月の出です。住んでいるマンションの玄関前から。


というわけで今日は辺見庸の本の紹介。

すでにこの辺見庸の本が雑誌連載中から読んでいた。そこから知った堀田善衛の「時間」を以前紹介した。あのときはこの小説は絶版だったが、この間に辺見の解説付きで岩波現代文庫から出たのでリンクを張っておく。


さて、辺見庸のこの本だ。加筆されて書籍化されたのであらためて読み直した。読み終わってあらためてひどく心が動揺している。ぱらぱらとページを繰るとほとんどどのページにも赤線が引いてある。

題名は日中戦争が始まった年。この年にはヘレン・ケラーが来日して大歓迎されている。一方12月には南京大虐殺が起きている。拙ブログのモチーフの一つでもあるけど、世の中には99.9999%の普通の人と0.0001%の悪人がいるわけではない。ヘレン・ケラーに感動し、講演中に彼女の財布が盗まれたときには日本人として詫びる手紙を書いた人々、その同じ人たちが南京を始め中国大陸で「人間の想像力の限界が試される」ような大虐殺をし、国内ではそれを祝って提灯行列が大々的に行われた。

だが辺見庸は中国大陸で「皇軍」が行った非道を単に「他者の悪事として非難」(p.126)するのではない。まずは「そのとき、その場にあったら、わたしもおなじことをやったのだろうか」(p.95)と自らに問うと共に、中国へ兵隊として従軍した自らの父の所業に思いを馳せる。戦争だったからしょうがないのだというありふれた言い訳を許さない。そのために、堀田善衛の「時間」や武田泰淳の「審判」という小説や、アウシュヴィッツを生き延びたイタリア人プリモ・レーヴィの「知らずに済ますことが出来ない」という言葉が重要な指標になる。「そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとについて、今後とも無記憶でいられるものだろうか」(p.223)という言葉は、単純に自分たちが生まれる前の出来事を知ろうとしない僕らに対する批判でもある。僕らは知らずに済ましてはいけないのだ。

一方で小津安二郎の映画や石川達三の「生きている兵隊」、そしてなにより小林秀雄を著者は批判する。特に小林秀雄に対しては日本的ファシズム、「国民の心底にあるおのずからの全体主義的自覚」を見るところなどは、小林を単なる保守主義者として見る一般的な見方を心胆寒からしめるものだろう。小林の文にあるような無常観に基づいた叙情も天皇制ファシズムに容易に結びつく。

「化石しろ、醜い骸骨!」(p.248)という文句は直接的には阿川弘之に向けられているが、著者自身の中にもある「日本の古層」に向けられているのだろう。「根生いのファシズム」(p.265)と著者が呼ぶ日本的な情緒に向けられているのだろう。

それにしても、「ひとびとはもうなんどもクニに捨てられているというのに、「便所の蠅のやう」に、クニにへばりつく」(p.359)という。「どうしてひとというのはなにごともいちいちゼロから学ばなければならないのだろうか、歴史はなぜ前代の反省と学習をひきついで後代に活かそうとしないのか。どうしてひとはこうまで歴史的経験からしゅっぱつすることができないのか」(p.362-3)。本当にそうだと思う。

昭和天皇ヒロヒトに対する批判(審判)も含め、「被害の責任も加害の責任も、敗戦後70年、まだだれもとってはいない」(p.378)のに、いままた「じんじょうではない」時代になりつつある。

とてつもなく衝撃的な内容だけど、是非赤ペンを手に、ゆっくり読んでみてください。



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森達也「『テロに屈するな!』に屈するな」

2015.12.14.00:00


安倍を応援している人には勧めない。しかしどこかヘンだと思うなら、この本を読むことをお勧めする。わずか85ページのブックレット。値段も620円だ。森の本を読んだことのある人なら、読まなくても良いかもしれない。でも、森の言ってきたことを確認するためには、とてもうまくまとまっていると思うので、そういう人にも是非もう一度読み直してもらいたい。

オウムのドキュメンタリーで注目されることになった森の真骨頂である。憲法違反だと多くの人が言ったにもかかわらず強引に国の形を変えてしまった安倍政権にいたるまでの日本の社会の変質はオウムから始まったという説明はとても納得できる。むしろあまりに穿ちすぎていると思う人もいるかもしれない。それぐらいすばらしい歴史解釈だと思う。ひとつだけあえて言うなら、こんな流れの中で2009年に、一瞬とはいえ鳩山内閣が誕生できたのはなぜだったのだろう? 「コンクリートから人へ」というスローガンは、それまでの、そしてその後の日本の社会の流れとは逆向きのものだったと思うのだが。 そこに今の流れを断ち切るヒントはないのだろうか? 

いずれにしても、

僕がこれまで紹介してきた本は読まなくても

良いから、このブックレットを読んでほしい


本当に強くそう思う。



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小熊英二 「生きて帰ってきた男」の感想

2015.10.28.15:33


1925年に生まれた著者の父親からの聞き取りによるドキュメンタリー。アマゾンのレビューでは2015年10月28日現在、19人中17人が星5つだが、僕も星5つだ。小熊の父は1944年に徴兵され満州に送られて、敗戦によりシベリアに抑留される。約1割の死亡率をくぐり抜けて、敗戦後3年目に帰国した後も、職を転々としたあげく結核になって20代後半の5年を療養所で過ごす。そこを出た後、結婚、高度経済成長の波に乗ってそこそこの成功を収めたあと市民運動に関わる。この人生をその時代の日本の社会の出来事と対比しながら描いたもの。

自分のことに引きつけて恐縮だけど、私の父は1928年生まれ。際どい差で戦争には行かなかったし、当然シベリア抑留など経験していない。また地方出身者ではなく東京の出身で、戦後は大学を出てサラリーマンを定年まで勤めた。だからその点で小熊の父親のような波瀾万丈な人生とは比べられないぐらい平凡な生活だったと言えるのかもしれない。だけど、読みながら、この時代、父は何をしていたんだろうとか、断片的に聞いた戦時中の話などを思い出しながら、とてもリアリティを持って読めた。

そして僕は著者の小熊英二より6歳ほど年上。だから後半に描かれていることの多くで、当時の自分を思い出した。

すごい記憶力であると思う。そして語られたことを調べて、裏付け確認がされている。そしてなにより、ここで引用される小熊の父の言葉が含蓄がある。たとえばこういう言葉。

「現実の世の中の問題は、二者択一ではない。そんな考え方は、現実の社会から遠い人間の発想だ」(p.211)

また、日本という国の酷薄さにもあらためて腹が立った。終戦前に天皇の命令で作られた和平交渉に関する文書では、すでに満州在留の軍人・軍属を「賠償」の一部としてソ連に労務提供すると決められていたのである。つまりシベリア抑留はある意味で当時の日本がスターリンに対して、これで許してくださいと国民を差し出した、ということなのである。そして戦後はそれをほっかむりして「ソ連はけしからん!」と非難した。なんということ! 沖縄もそうだが、この国は国民を捨てるのである。それは戦争中だけではなく戦後になっても同じだった。これはしっかりと意識しておかなければならない。国を愛しても、国のほうは国民(庶民)をはたしてどれだけ大事に思っているか。。。逆に言えば、それだからこそ、昨今権力者の側から愛国心を強要しようとする動きが出てくるのだろう。

小熊の父はこう言う。

「官僚や高級軍人は、戦争に負けても、講和条約の後には恩給が出た。しかし庶民は、働けるときに蓄えた貯金も、すべて戦後のインフレでなくなった。ばかな戦争を始めて多くの人を死なせ、父や祖父母をこんなひどい生活に追い込んだ連中は、責任をとるべきだと思った。」(p.182)

たぶん僕と同世代の人なら、絶対に面白く読めるはず。そして、僕も父から昔の話を聞いておきたいと強く感じたし、今度実家に行ったときには、すっかり耳が悪くなった父だが、少し昔のことを聞き出してみようと思っている。



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保阪正康「戦場体験者」の一エピソード

2015.10.22.09:25

うーん、旅行以外でこんなに更新しなかったのはこれまであったかなぁ。いや、さいたまへ行くためにやりくり算段、なにしろ忙しくって。これまでも忙しいことはあったけど、たいていは自転車選手のブログを訳してお茶を濁せたんだけど、このところデーゲもフレーリンガーもマルティンもキッテルもゲシュケも、みんなブログ更新なしなのでねぇ 笑)

さて、先日ちょっとだけ触れた保阪正康の「戦場体験者」の中に、中国戦線で村に火を放ったら、村から泣きながら4、5歳の子供が後をついてきたので、上官に相談したところ、「始末しろ」と言われたので、泣く泣く射殺した元兵士の話が出ていた。

きっとこういう話は無数にあったんだろう。ただ、僕が読んでいてショックを受けたのはその後のことだ。戦後になって戦友会でその上官と会ったので、あのときは辛かったと話したところ、上官はこう言いはなった。「始末せよと入ったけど、殺せとは言わなかった。」この元兵士は上官に対して「殺意の衝動」さえ感じたという。(p.108)

こうやって上に立つものが下のものに責任を押しつけて、自分は罪の意識を感じないですむというこの構図、この社会のさまざまなところで見えてくる構図ではないだろうか?



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武田砂鉄「紋切型社会」

2015.10.13.23:36


評判がいいので読んでみましたが、なるほどと納得。著者みずからがあとがきで書いているように「読み手を置いてけぼりにする」ことがままあるにしても、なんともいえない爽快感、疾走感を感じさせる見事な語り口です。曽野綾子の上から目線の日本でしか通じないような内向きの偉そうな物言いに対して、これをパスポートの比喩で「いざ税関に持っていけば『こんなものは使えません』と差し戻される偽造パスポート」(p.72)と言ってのけるのなんか、なんとも痛快。

現代の社会を「人間そのものに、短絡的に○か×かを付ける。ならばと、自分が生き残るために、誰かの淘汰を歓迎する」(p.252)なんて、手前味噌だけど、拙ブログで繰り返してきた無教養な単純化と犠牲を強いる社会にたいする批判と一致すると思います。

こういう考え方、物の見方がもっと広まると、この国もすべての人がもう少し生きやすい国になるだろうと思うのですけどね。



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木村草太「集団的自衛権はなぜ違憲なのか」

2015.10.07.21:05


もっと早く読むべきだったとは思うけど、でも今からでも遅くない。いや、むしろこの先に向けて今読むべきかもしれない。

この人の本は以前にも紹介したことがある。その時もなるほど、と膝を打つことが何度もあったが、今回もすごく分かりやすいし、ああ、こうやって考えるものなのね、といくつも蒙を啓かれた思い。

たとえば、憲法13条の生命自由幸福追求権により、日本が攻められたときに防衛する「個別的自衛権」(自衛のための実力行使する権利=自衛隊の合憲性)は防衛行政として憲法9条の例外と認められるが、直接的に他国を守る「集団的自衛権」は、憲法73条にある内閣の行政権に「軍事」の規定がない以上憲法違反である、という説明。憲法学者の間では、ひょっとしたら常識なのかもしれないけど、この本の表現の分かりやすさと、スリリングな書き方に、なるほどと感心した。なんと論理的で美しいぐらいに明瞭な説明であることか。

数日前の朝日新聞の投書欄に、憲法を素直に読めば自衛隊は違憲だという意見が述べられていた。だが、この本を読むと、憲法は「素直に」字面だけを読んではいけないことがよく分かる。まあ、こんなの当たり前のことだが。

自衛隊をどう考えるか、というのは結構ハードな問題だ。ただ、その朝日の投稿のように字面だけを読んで単純化し、自衛隊は違憲だというレッテルを貼って、そこからおかしいから憲法を変えるべきだという結論を導き出してしまう改正論者も多い。一方で、護憲派のの中でも最も過激な人たちが言うように自衛隊は違憲だから解体すべきだというのも現実味が薄い。だけど、最初のように13条と関連づけると、なんのことはない、万が一どこかの国が攻めてきたときには(これはどう考えても僕にはあり得ない話に見えるけどね)国を護る(個別的自衛権の行使)というスタンスの自衛隊でいいのだと納得できる。

憲法の話ってこんなに面白いんだ!



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野崎泰伸「共倒れ社会を超えて」覚書き

2015.08.02.17:33



ここで著者は倫理を定義して「私たちが共に豊かに生きていくための、侵すべからざる掟」(p.12) だと言う。この掟はたとえ現時点では実現不可能であっても、この掟を目指して社会を作っていくべき理想型である。だから、当然、倫理に社会改善のための特効薬的な効能はない。

一方でこの社会は「共に豊かに生きていく」という理想からはほど遠い、誰かに犠牲を強いることによって「豊かさ」が実現された社会になっている。そうした犠牲を前提にした社会は、最初に述べた倫理の定義からして、当然のこととして正義にもとる社会と言うことになる。

つまり、いわゆる「最大多数の最大幸福」という言葉は、単に、「よりマシな選択肢」(P.45)にすぎないのであって、倫理的に正当化されるべきものではない。現実にはこの社会は誰かを犠牲にせざるを得ないのだが、それを正当化してはならないということである。

そしてこの本のポイントはこれが障害者の視点から語られていることである。これは拙ブログのエピグラムである八尋さんの言葉も同じ視点、同じ方向を向いていると思うのだが、障害者にとって住みやすい社会は、当たり前のことだが、健常者にとっても住みやすいからである。

しかし、ここでは障害者問題だけが語られているわけではない。現在の社会では制度を変革すれば解消できる問題が、しばしば個々の現場の「自己決定」や「自己責任」に押しつけられ、社会が担うべき責任が個人に押しつけられ、犠牲を強要されている。個人の意思を尊重すると言って、実は社会による支援の欠如による犠牲の強要を隠蔽している。これは僕もこれまで何度か書いたように、その通りだと思う。前世紀の末からの、いわゆる新自由主義という市場経済至上主義、なんでもありの拝金主義が蔓延して、国家の公的責任がなし崩しに薄まってしまった。

このような社会のなかで、個人が倫理に基づいて上記のような発言をしても、「すぐに結果が出せないのであれば『そんなことをしても仕方がない』と言い出す人が必ずといっていいほど出て」くる。それこそが「私たちを飼い慣らすこの社会の思ううつぼ」なのである。そして、そうしたあきらめはやがて「『何もおかしくはない』などとウソを」(P.187)つかせるようになる。

かくして「どうせ〜なんだから」という逃げ口上と共に、「わたし(と親しい人たち)の生活さえまもられればよいといった、この社会や他者【著者はこの言葉に特殊な意味を持たせて使っている】に対する無関心な態度が醸成されていくこと」(P.198)になる。

この本の中でハッとさせられたのは、「『あるべき社会とは何かを問うこと』と『自分(とその身内)の暮らしを守る事』を天秤にかけること自体が正義の原理にかなっていない」(204)と言う言葉である。倫理という「侵さざる掟」のもとでぼくらは日常の生活を送っているのである。たとえ普段意識しなくても、倫理という掟がなければ「社会は人間のただの寄せ集めにすぎず、お互いが孤立した存在になってしまう」(P.12) のである。

(ふと連想したのが、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という言葉。これは実際に「健康で文化的な最低限度の生活」がどのようなものかの規定がないし、ある意味では何でもありのユルフン規定、鵺みたいなものだから、ダメだという人がいる。あるいは憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言を考えても良いかもしれない。そんなの無理だ、理想論だ、できないことを書いても意味がない、といってそうしたあるべき姿(=理想型=倫理の掟)を捨ててしまったら、人間はどんどん低劣になっていくだろう。)

この本は、こうした視点から、障害者問題に関連したかなり具体的な提言から、経済至上主義や現在の安倍政権下の社会に対する批判まで含めて、とても有意義な本だと思うし、どういう立ち位置で僕らが社会を見るべきかを考えるとき、これは一つの有効な提案になると思う。



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ナゴルスキー「ヒトラーランド」

2015.05.29.19:32



ヒトラーが台頭していく時代のドイツにいたアメリカの記者や特派員や大使館関係者たちによる膨大な資料をもとにして描かれた本。第一次大戦後からアメリカが参戦するまでを時系列で、部外者のアメリカ人達がナチスを、またヒトラーをどのように見たかが描かれる。

最初からヒトラーをうさんくさい小物、教養のない狂人と見た者や、ヒトラーに魅了されてナチスの宣伝をする者もいる。ただ、みんな親切で清潔で倫理的かつ礼儀正しく効率的なドイツ人への信頼感を持っている。そもそも忘れてはならないのは、ナチはたしかにユダヤ人を始め人種差別を露骨に政策の前面に出した政党だが、当時のアメリカではユダヤ人や黒人は同様に差別されていたということだ。ヒトラーがアメリカのネイティブアメリカンに対する移住政策を讃えていたのは有名な話である。

おかげで、例えば、ユダヤ系のアメリカ人記者が第一次世界大戦が終わって、ドイツに二年滞在した時に、反ユダヤ的な運動など見たことがなかった、少なくともどの時代のアメリカよりも少なかったと言ったり、1936年のベルリンオリンピックでアメリカの黒人選手たちはドイツで人気者になり、「ドイツではつねに、礼儀正しさと思いやりを持った対応を受け」たが、アメリカでだったら「個人的な侮辱や差別を少しも受けずに過ごすことは不可能だっただろう」(p.293)と言ったりする。そのおかげでヒトラーのことを見くびったということにもなるのだろう。

読んでいて、そのまま現在の日本と重なると感じるところが多かった。例えばヒトラーについてある記者はこんなふうに書いている。

「アドルフ・ヒトラーは、自己矛盾を起こしているときでさえ、本人はいたって誠実なつもりでいたのだ。なぜなら彼はひたすら生真面目な人間であり、ただたんに、言動に一貫性をもたせる必要を感じていないだけだからだ。より知的なタイプの人間であれば、そんな状態は耐えられないだろう。」(p.156)

日本の現首相も、昨日自分でヤジはいかんと言ったのに、一晩眠れば自ら野党の質問者をヤジる。安保法案の審議でも言ってることが滅茶苦茶で、海外派兵はしないといった舌の根も乾かぬうちに、近隣国の領海でアメリカの船が攻撃されれば日本が反撃したり、敵基地を攻撃する可能性も否定しない。まさに自己矛盾を起こしていて、普通に知能があれば、こんな状態は耐えられないはずだ。

あるいはヒンデンブルク大統領が死んでヒトラーが全権を掌握したことを承認する国民投票が行われるという茶番に対するこんな文章。

普通の国では投票者が対立する候補者のなかからひとりを選ぶものだが、「ドイツでは、ヒトラーがみずから大統領となり、それは法律でさだめられたことだという。そしてそのあとで、国民が投票をする。彼らがその法律を認めようが認めまいが関係ない。もし彼らが認めるなら、それはつまりヒトラーは大統領だということになり、たとえ認めなくとも、やはりヒトラーは大統領なのだ」(249)

憲法9条があるのに、海外派兵できる法律を作ってしまってから、憲法を改正しようとする現在の動き。憲法が改正しようがしまいが、海外派兵できるというわけである。

そして、ナチ党が掲げる仰々しい目的に対して、市民は本心では無関心だという指摘も、なにか現在の日本の状況を写しているような話だ。

あるいはこんな文章はどうだろう? 「未来の独裁者が、主権者たる国民に対し、自らの権利を投票によって放棄せよと説得しようと目論んでいるのだ。」(p.104)

僕などはこの文章を読みながら大阪の橋下のことを思い浮かべた。

アメリカの筋金入りの反ナチのヴェテラン記者も、戦争が始まろうかというときになってもヒトラーは侵略戦争など仕掛けるはずがないと信じ切ってしまう。まさに人は自分が願っていることを信じるというわけである。原発事故など起こらないと信じ続けてきた、そして今もまだ第二の事故など起きないと信じている専門家の姿を思い浮かべざるを得ない。

あるいはナチを支持する若者たちの「思考にはうんざりだ。思考なんてしてもなにもはじまらない。総統ご自身が、真のナチは血で考えるとおっしゃっている」(p.155)なんていう言葉は今の日本の反知性主義にそのまま重なる。

むろん序文の表題になっているように、後の時代から当時を振り返ることはたいへんな「贅沢」である。目の前で起こっていることの意味をしっかりと把握することは難しい。だからこそ、僕らは過去の歴史を教訓としなければならない。

最後に「本書を読んでくれた日本の皆さんへ」というあとがきがあって、そこで著者のナゴルスキは強烈に現在の日本を批判している。ちょっと長いが引用して起きたい。

「本書を手にとって下さった読者の方々にはご自身で、そこに現代にも当てはまる、より一般的な教訓があるかどうかを判断していただければと思う。そしてもし教訓があるとするならば、そこには全ての人々に共通する人間性が垣間見えてはいないだろうか — あるいはひょっとすると、かつてナチスドイツと同盟を組み、同国に劣らず、軍事力による領土の獲得と、「劣った」人種と国民の支配へと突き進んだ日本と、とくに似通った点がありはしないだろうか。
 日本のみなさんはこうした疑問に対して、他の国のだれよりも深い見識を持っているはずだ。しかし実際にそうであるかどうかについては疑問を呈したくなる大きな理由がある。破滅的な被害をもたらした第二次世界大戦の悲劇から長い年月が過ぎた今、日本社会はドイツ社会に比べて、戦時中にみずからが行った行為の厳しい現実に向き合うことに対し、はるかに消極的だ。あの時代の現実から学ぶよりも、それを否定しようとする動きが、また中国や韓国などの国で日本軍が行ったひどい行いを軽く見ようとする動きが、いまもあまりに多く見受けられる。」(p.484-5)



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青木理「抵抗の拠点から」覚書き

2015.04.30.21:54

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朝日新聞による「慰安婦報道」とその訂正に対する世間、特に(あろうことか!)他のマスコミの猛烈な、時に常軌を逸したとすら思えるような批判を当事者の元記者らのインタビューと当時の記事などを丁寧に読み直して、いかにこのバッシングが日本社会が遂げつつある歪(いびつ)な変質によるものであるか、この事件が日本のメディア界全体にとって歴史に残る大敗北であるかを検証した本。

嘘やデマで怒りを増幅させて、あたかも自分が正義に基づいているかのような幻想を抱いたまま、他人をバッシングする。それはぼく自身も経験したことがある。そこでは「在日外国人は税金も払っていないのに生活保護を受給するなど憲法違反もいいところだ」という大嘘に、呆れるほどたくさんの人が、汚い言葉で怒りのリツィートを連ねていた。

余りにひどいと思ったから、在日外国人も税金は支払っているし、憲法違反になる論拠などないと返事を書いたら、ものすごい勢いの罵倒と嘲罵、嘲笑の返事がきた。そのすべてが、要するに、論理などない、ただ感情的な反応で、俺たちが盛り上がっているのに水をかけるな、というレベルのものだった。まともな反論などひとつもなかった。ましてや、そうか、知らなかった、なんていうコメントはあるはずもない。

つまり自分の私怨を晴らす怒りの対象を、嘘でもいいから創り上げ、みんなでそれを叩こうというわけである。彼らにとっては嘘=捏造=デマであるのかどうかなんて、どうでも良いことなのだ。自分は匿名という安全地帯からだれか「自分よりも弱い=自分より劣っている」とみなせる相手に向けて、みんなで、怒りをぶつけることに快感を得ているのである。

同じことが朝日新聞の従軍慰安婦報道問題にも言える。まさにそのことがこの本には書かれている。

実は僕はこの朝日が問題にし、取り消した吉田清治の本「朝鮮人慰安婦と日本人」を80年代に読んでいる。本も実家に戻ればどこかにあると思う。当時、金石範(キム・ソクポム)という在日作家が好きで、その関連で読んだんだと思う。もちろん僕なんかにはこの本に書かれていることが嘘だと見破ることはできなかったけど、この吉田清治という人の主張には、いま言われているのとは全く違う意味で違和感を感じた。あとがきにあるのは反西洋で、日本と朝鮮は一緒になってヨーロッパに対抗していかなければならないというような主張が述べられていた。日本が朝鮮でやった蛮行は英国に代表されるような西欧植民地主義に責任があり、日本本来のものとは違うというような、言い訳じみた弁解が書いてあった。

いま、この吉田清治という人は、きっとサヨクの反日捏造者というレッテルと貼られているんだろうけど、僕がむかし読んだときの印象はむしろ右翼的な印象を持ったし、この人がなぜ嘘を書いたのかはわからないけど、自らやってもいない汚名をかぶってまでアジアの融和をもとめたのだ、と言われれば、それはそれで、今、巷間伝わっているようなイメージとはずいぶん違うような感じもするのではないだろうか。いずれにしても、吉田清治の書いた本を論拠に、当時朝鮮人慰安婦強制連行の記事を書いたのは朝日だけではない。今回朝日を叩きまくった読売も産経も吉田清治の主張を過去に紹介しているそうである。

吉田清治が、あのように、やってもいないことを言ったのがなぜなのかはわからないけど(僕は上記のような反西洋=汎アジア主義(?)をうたうための方便だったような気がしているが)、それをもって慰安婦問題がすべて「なかったこと」になるわけはないし、そのようにしたがっている勢力こそ日本を貶めていると思う。

この青木の本を果たしてどのぐらいの人が読むのかわからない。著者の言う「このようなことをする連中は真正のクズである」(p.100) という怒りも納得できる。問題はこの言葉が元記者をバッシングした人たちにどのぐらい伝わるのか、また、それによってどのぐらいの人たちが心を入れ替えるのか、だ。だけど、それを考えると、なんとも暗い気分になる。こんな時には、以前紹介したガンジーの呪文を唱えることにしよう。「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、 それでもあなたは、それをやらなければならない。 それはあなたが世界を変えるためではなく、 あなた自身が世界によって変えられないように するためです。」



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朴裕河(パク・ユハ)「帝国の慰安婦」覚書き

2015.02.07.01:50


帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い
(2014/11/07)
朴 裕河

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先ほど読み終わったところですが、噂通りの凄い本でした。うまくまとめられそうにないんだけど、ちょっと考えたことを書いておきます。

僕は正直に言って、慰安婦問題に関心があったわけではありません。ただ、前にも書いたことがあるけど、韓国の反日的傾向については、そりゃあ日本は嫌われて当然だろう、と思うわけです。だって、長年植民地として差別され、大日本帝国の一員として戦場に連れていかれ、戦争が終わったら、今度は東西冷戦の真っ只中へ放り込まれて、朝鮮戦争で同族同志で殺し合い、その間、かつての宗主国日本は、その戦争で大もうけしたわけですから。さらに憲法のおかげで日本が平和を謳歌していた間、韓国は軍事独裁政権の下で戦前の日本みたいな社会だったわけだし、アメリカ軍のお先棒担ぎでベトナム戦争にも駆り出された。韓国の立場に立てば、日本が愛すべき国であるはずはないですよ。まずは日本人がこうした歴史をしっかり自覚しておくのが大前提だと思うわけです。前にも関東大震災での朝鮮人虐殺の本を紹介したときに書いたように、こうしたことを知らない人が多すぎると思うわけです。知った上で、現在の関係について是々非々で話をしていくというのが筋でしょう。

で、この本のスタンスも、まずは大日本帝国の帝国主義が一番の原因だったことを前提にして、その上で、個別に韓国の「慰安婦問題」に関する主張の矛盾を次々と突いていきます。とくに日本人が言えば見苦しくなるようなことを、韓国人の著者が指摘したことには大きな意味があるのでしょう。指摘の内容を箇条書きにすれば次のようになりますが、詳しくは本を読んでもらうしかないです。

問題を提起した韓国の支援団体が挺身隊と慰安婦を勘違いしていたこと、業者が軍隊と慰安婦を媒介したこと、革新政権のもとで出された「村山談話」が、実は自民党の戦後処理についての思考につながっていたこと、韓国には責任回避の「小細工」としか理解されなかった「アジア女性基金」が、「河野談話」と「村山談話」の精神を受け継いだものだったこと、その基金から「償い金」を受け取った韓国人元慰安婦が約60人もいること、日韓国交正常化の時、日本は個人への賠償を残しておこうと提案したのに、韓国政府が代表して受け取ってしまったこと(p.320)

だけど、もちろんこのように韓国の主張の矛盾を突きながら、ここに続けて次のように続きます。

これらすべてを考慮しても、女性たちに地獄を経験させた責任が大日本帝国にあることはいうまでもありません(p.320)

批判は日本の慰安婦支援の立場に立つ人たちに対しても向けられ、その硬直化した過剰に政治的なやり方(以前紹介した山崎行太郎の本の「イデオロギー化」が劣化につながるという言葉を思い出させます)が、かえって現在の日本の嫌韓ブームを助長した、と手厳しいものがあります。だけど、嫌韓派から撤回しろと言われている「河野談話」についても、また支援派からの批判が多い「アジア女性基金」も、どちらもこの本で読み解かれていることを理解すれば、それぞれが見方を変えるのではないでしょうか。

その上で、具体的に両国の現状を打破するための提言として、早急に半年から一年の期間を決めて合意することを前提に対話を始めることだと言っています。確かにこのまま言い合っていても何も決まらないし、それどころか双方で憎しみだけを募らせることになるのでしょう。この提言をきっと日和見と言うサヨクもいるだろうし、一方で例によって耳を貸さないウヨクもいるだろうけど、お互い罵り合って、どうなるというのでしょう。

丁度、今の世界の状況と同じです。911の時にブッシュはテロリストとの戦争だと言って、アメリカは結局ビン・ラディンを殺すことまでしたけどテロが終わったでしょうか? では、さらに「敵」を全滅させれば終わるでしょうか? しかし全滅って一人残らず殺すってことでしょう? そんなことなんて絶対できないでしょう? そもそも「敵を全滅させる」なんていう恐ろしい感性がのさばるような世界に、あなたは住みたいですか?? もし仮に全滅させたとして、その後はどうなるのでしょう?? 永遠に新たな敵が現れ、永遠にそうして現れた新たな敵を全滅させなければ安心できなくなるでしょう。どこかで話し合いの場を作らなくては、どうしようもない、それはできるだけ早いほうがいいでしょう。

話を戻しますが、日本軍の兵隊にもいろんな人がいたように、慰安婦にもいろんな人がいたわけで、それを「強制連行された少女」とか「売春婦」なんて言う具合に、なにか一律にレッテルを貼ってわかりやすくしてしまうことが問題なんです。この本の中にも、元慰安婦たちの回想集からいろんなエピソードが語られていて、思わず涙をこらえられないような話もいくつも出てきます。それは彼女たちだけが可哀想なのではなく、日本人兵士たちも可哀想だし、慰安婦があまりに幼いので軍人たちがみんなで気の毒がって朝鮮に帰らせた話(これも逆の意味での軍の関与ですが)のような感動的な話もあります。だけど、なによりも、帝国主義的な方向へ向かったときの「国」というシステムが国民に様々なことを強要するおぞましさにも気が付くでしょう。

結局いつもの話の繰り返しになってしまったようです 苦笑) こういう問題って、○か×か、という単純化が、人々を暴走させ、極端な方向へ向かわせる一番怖いことなんですね。

追記。加筆しました。2/7、10:20



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「自民党憲法改正案にダメ出し食らわす!」 賛

2014.12.27.22:51


自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!
(2013/07/15)
不明

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以前にもちょっとだけ紹介したけど、もう一度この本のことを書く。憲法に関心があるなら、いや、現代の日本人なら絶対に読んでおくべき本だと思う。著者の小林節は改憲派で、とくに9条を変えるべしと主張している人。一方の伊藤真のほうは護憲派だけど、この人の他の本では確か、自分は憲法に指一本触れるべきではないなどと言うつもりはない、っていうようなことを書いていたように記憶している。

この改憲派と護憲派の二人が自民党憲法改正案を完全否定することで一致する。その小気味よさに快感すら感じる。伊藤が言うように、この草案を作成した人たちは「けっして、この国をだめにしようとか、悪い国にしようと思っているわけではない」だろうけど、「ただ、自分たちが考えるところのいい国を作りたい、それに対して邪魔になる者は排除するんだ、国民をそれに従わせるんだ、という感じがすごくする」のである。

「民主主義というより、エリート支配。ところが、実はエリートでもなんでもない人たちが、自分たちがエリートだと思い込んで、自分たちが上手くやるから黙っていろと言っている」なんていう指摘は、憲法だけじゃない、すでに今の日本がそういう国になっているのは、安倍が首相になってからの秘密保護法や集団的自衛権や原発のことを思い浮かべれば、明らかだ。つまり、安倍らはすでにもうやりたいようにやり始めていて、憲法を変えて自分たちがやりたいようにやるお墨付きが欲しいと考えているに過ぎない。

人によっては、自民党の主張を肯定的に見る人もいるかもしれないが、もし仮にそうだとしても、この草案から見えてくる自民党の意図をしっかり意識するべきだろう。

対談の内容は個々の条文について具体的に語ってくれて、とても分かりやすいし、もっと大きく憲法というものの持つ意味や個人の人権を尊重することや立憲主義というのが、どういう前提の上で考えられているのかもよくわかる。伊藤が言うように、憲法はさまざまな法律の親玉なのではなく、矢印の向きが正反対なのだ。法律は国民が従うべきものであり、憲法は国民が国に対して従うように命じるものなのである。

いずれにしても、二人共に共通しているのは、現行の憲法はよい憲法だというのが前提になっていることである。ただ、現行憲法が悪いものだと思っている人っているのだろうか? あえて言えばアメリカに押しつけられたものだという言い方で否定しようとする人たちがいるっていうことだろうけど、そういう人たちだって、

例えば、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という第14条を、「押しつけられたので拒否したい」(想田和弘「熱狂なきファシズム」より)

とは言わないだろう。

熱狂なきファシズム: ニッポンの無関心を観察する熱狂なきファシズム: ニッポンの無関心を観察する
(2014/08/21)
想田 和弘

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それから昨今の「愛国」や「売国」という言葉をもう一度よく考えるためにも、小林の「国家なんていうのは肉体を持たない架空の約束」であり、人間は「ひとりでは生きていけないものだから、国家というサービス機関を道具として」作ったのだという言葉や、伊藤の憲法が縛ろうとしているのは「country(生まれ故郷)ではなく、state とか government(...)人為的に作った権力主体としての国の権力」だという言葉などは非常に説得力がある。前から言っているように、愛国を唱える人たちの国って何のことなんだろう?

憲法についてなにか言いたい人は必ず読むべき本である。



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森達也の本「アは「愛国」のア」

2014.12.24.12:53


アは「愛国」のアアは「愛国」のア
(2014/09/05)
森達也

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森達也は我慢強いねぇ。明らかに「ネトウヨ」とレッテルを貼れる人物や創価学会員の編集者を含む5人との討論。読み始めてすぐに、この「ネトウヨ」氏はウソじゃないのか、作り物じゃないのかと思った。

変人天才ピアニストのグレン・グールドが、作曲家、評論家、演奏家など一人何役もこなしている冗談みたいな対談があったと思う。この討論はそうした森の一人何役ものウソ対談、ジョークなんじゃないかと思った。それぐらい「ネトウヨ」氏が「ベタ」である。その「信仰」と言っても良い嫌韓ぶりに、僕だったら馬鹿馬鹿しくて相手にしないだろうと思うのだが、森は穏やかに反論を述べていく。途中、反論が足りていないと思われるようなところもあるが、森のやり方は相手を徹底的に言い負かしてしまうというのではなく、相手の逃げ道も用意しておいてやるという優しさがあるんだろう。そういう意味では、隠れたテーマとして不寛容と寛容をめぐって討論されていると言えるこの本だが、森の姿勢もまた一貫して「寛容」をベースにしている。

領土問題、過去の戦争、靖国、従軍慰安婦、死刑制度、原発、捕鯨、憲法9条、マスコミ、宗教など多岐にわたって討論されるが、すでに森の本を何冊か読んでいれば、途中で森の意見がどういう方向に進むかは想像がつく。前から行っているように、僕は森の大ファンだ。森の主張はほとんどどれも完全に納得がいく。以前書いたように、森の本を読んでいると、昔からの気心の知れた親しい友人と話しているような気持ちになる。とくに次のような文章は、本当にその通りだと思う。

たしかに日本は、「過去の戦争であなたたちの国に多大な被害を与えました」と口にしながら何度となく謝ってきた。でも、実際にどのような被害を与えたかについて忘れながら謝られても、心から納得できないことは当たり前だと思いませんか(48)

最後に森は今の世相は『ごっこ』だ。愛国者ごっこだという。そうして、こうした「ごっこ」が本物のファシズムを生み出すのかもしれないという。その通りだと思う。オランダの歴史学者ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」は人間の文化や活動の本質は遊びにあると言っている。こうした「ごっこ」が、映画「エス」みたいに、いつの間にか本気になってしまうのはいかにもありそうなことだ。

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(2003/01/16)
モーリッツ・ブライプトロイ、クリスティアン・ベッケル 他

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売れるからという理由で危機を煽るマスコミ、人は集団化して同調圧力で思考停止になる。するとマスコミもそれをさらに増幅し、互いに相乗効果でエスカレートしていく。さらに○か×かの二者択一という単純化。とくにこの単純化という思考方法は以前「ヒトラーの演説」でも出てきたが、この討論のなかでも「ネトウヨ」氏がどんなテーマでも単純化したがっている様子がよくわかる。結局敵か味方かなのだ。最後に森は「知り合うこと。名前を呼び合うこと。触れ合うこと」の重要性を強調する。その通りだと思う。

「正義」の反対は「悪」じゃない、「別の正義」だ! というクレヨンしんちゃんのとうちゃんの台詞を噛み締めてもらいたいものである。



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アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと努力しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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