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藪田貫「大塩平八郎の乱」覚え書き

2023.03.28.14:05

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遠い昔、まだ学生の頃、アイヴァン・モリスの「高貴なる敗北」で大塩平八郎のことを読んで、なんとなく革命家のはしりのような印象を持っていた。

その後、森鴎外の大塩平八郎を読んだけど、話は前日から始まっていて、それまでの大塩の義憤が今ひとつ伝わらず、しかも乱が終わってから、参加者たちが次々死んだり捕まっていく中、大塩本人はひと月以上も知り合いのところに匿ってもらって逃げ続けるのが、どうにもいさぎよくない!という印象だった。

他にも大塩の乱の結果として、「救民」を目指しながら大火事を起こして「窮民」を生んだなんて言われているし、関わった人たち(特に匿ってくれた商人一家)が過酷な刑罰に処せられたこともあって、なんとなく印象は悪かった。

こんな時代だし、フランスやイスラエルでは大きなデモが起きているし、ということで 笑)この「大塩平八郎の乱」、図書館で見つけて読んでみたけど、ちょっと学術的すぎて、予備的なイメージがほぼない私にはレベル高すぎだった 笑) まあ、司馬遼太郎みたいなのを期待してはいけません 苦笑)

乱の前に大塩はいろんな根回しをしていた。蔵書を売っぱらって窮民一万人に金を配ったり、猟師や被差別部落の人たちにも金を渡したり、飢饉の中で餓死していく人たちを救おうとしない豪商たちを非難する檄文をまいたりしていた。それなのに、実際の乱が起きた時に参加したのは最大200人程度だったという話を読むと、白土三平の「カムイ伝」の世界はやっぱり漫画の中だけだったんだねぇ、と思わざるを得ない。

ただ、大塩が死んだ後、大塩様と称して人々から崇め奉られるのは、「カムイ伝二部」にあった人々の首謀者たちを祀る踊りを思わせるところもあるかなぁ。。。庶民とは(無論わたしを含め)情けないものです 苦笑)

大塩平八郎は半日で潰えた乱の後、一月以上隠れしていたわけだけど、この本ではその理由は、大塩が、自分が江戸に送った老中たちの不正を告発する建議書に対する回答を待っていたからだという。ただ、「江戸を撃つことなしに根本的な解決はない」(p.242)という結尾の文章だけど、江戸へ宛てた「建議書」が「江戸を撃つ」ことに直結しない気もした。


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「SS将校のアームチェア」感想

2023.03.05.17:26

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チェコから来た古いアームチェアをオランダで修理に出したら、ハーケンクロイツの印が押された書類が出てきた。それを手掛かりに、その時代背景とともに関係者も含めて、持ち主の人生を探るドキュメンタリー。

書類の持ち主は署名からローベルト・グリージンガーというSSの将校で、博士号を持った法務官であることがわかる。いわゆるナチのエリート知識人部隊の一員だ。

SSというと、誤解を恐れずに言えば、格好良い(以前どっかのアイドルグループがそれに似せた服を着て、海外からも批判されたことがあった)黒い制服を着て、髑髏のついた帽子を斜に被っているという印象だけど、
    名称未設定 こんな感じ

この本の主役のグリージンガーは「一般SS」というやつで、独ソ戦が始まった頃にはロシアにも出征しているが、その後、プラハに赴任して普通の背広を着てお役所業務に励んでいた。無論その業務によって運命を変えられたチェコ人たちがたくさんいたわけだが。

椅子から出てきた書類はパスポートから公務員試験合格証明書まで、この男の存在を証明するはずの貴重な書類ばかり。パスポートにはハンサムな男の写真が貼られている。著者はこの男の一家を探しだし、各地の図書館や公文書館で資料を漁り、この男と家族の人生を追いかける。同時に、戦前のドイツの南西部の雰囲気や戦後の生き残ったドイツ人たちのナチスに対する複雑な反応も描く。

個人的には、ドイツの大学、太宰治の短編小説に「アルト・ハイデルベルヒ」という題名のものがあったけど、まさにそのアルト・ハイデルベルクの雰囲気がある、古き良き時代のドイツの大学が、実は学生にも教師にも積極的なナチズム信奉者が多く、特にプロテスタントの上流中産階級出身者はナチズムと親和性が強かったというのはちょっとショックだった。

「のちに言われるように、大学は一握りのナチ狂信者に乗っ取られて学問の独立性を失ったわけではなかった」(p.194)

当時の多くのドイツ人たちはナチスの党員になれば出世しやすいし、いろんな面で優遇される可能性が高くなるという実利的な面に目が眩んで党員になったのだと思いたいところだが、実際はこの主役のグリージンガーも含めて、すでにそれ以前から人種差別的、優生思想的な考え方に慣れていたと言える。

そして言うまでもないことだけど、彼らが家庭では良き父親で夫で、母親から見れば大切な息子、仲間たちの間では愉快な楽しいやつで、上司からは「優秀で誠実な職員」だと評価され、休みの時には「レコードプレーヤーでクラシック音楽を聴きながら」(p.251)くつろぐ、普通の人間なのである。映画や漫画で描かれるサディスティックなサイコパスなどでは決してない。

結局、拙ブログのモットーの漱石の言葉「悪い人間など世の中にいない、平生はみんな善人だが、いざというまぎわに、急に悪人に変わる」につながるとも言えるが、それ以前にもう一つ、時代の雰囲気、空気というものが人を作ることも忘れてはならないと思う。

1920年代から30年代にかけて、ドイツの大学や中産階級には、人種差別や優生思想的な空気が醸成されていたのだ。そういう空気の中で育った若者は、戦争という「いざというまぎわに」、とんでもないことを一斉にしかねないということだ。

その意味では、すでに今の日本にも優勢思想的なことをTVで堂々と述べるような学者がもてはやされ、困っている人を自己責任と称して切り捨てる安倍的社会になってるのが恐ろしい。

本に戻ると、なぜ椅子に書類を隠したのかとか、ロシアで何をしたのかなど、さまざまな謎が見事にスパッと解決し、うぉ〜っとはならない。ミステリー小説ではないので当たり前だ。だけど、それぞれの人に、それぞれの人生があり、その経験の全てが次の世代に伝わるのではなく、むしろそのほとんどが忘却の彼方に消えていくのだ、という無常感の余韻が、これまた誤解を恐れず言えば、心地よい。


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養老孟司・池田清彦「年寄りは本気だ」

2023.02.20.15:27

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昔、それこそ半世紀前に読んだアシモフのSFに、「宇宙の小石」っていう、60歳になったら安楽死させられる未来を舞台にした話があったけど、それを本気で面白おかしくTVで子供相手に言っちゃう大学教員が出てくるような世の中になるとはね。。。

僕なんかは以前よく引用したニーメラー牧師の詩を連想しちゃうけどね。最初は老人、次はきっと障害者だろうな、その次はLGBTQかな? そして役に立たないとみなされた人たちが最後に来るのかな。でも、そう言う社会になったら、そこで終わらないだろうなぁ。新たに差別できる対象を探してくるんだろうね。

というわけで、ロシアのウクライナ侵略とコロナパンデミックの最中に行われた対談。だけど残念なのは、本の発行日から見て、この対談は安倍銃撃事件の、おそらく、直前に行われたということだ。この二人が、あの後の政界の統一教会汚染についてどんな話をしたかを想像すると、この点がホントに残念。

もっとも、こんな標題をつけちゃうから、切腹しろ、とか言い出すやつも出てくるんだろうけどね 苦笑)

それはともかく、この本、いろいろ面白い話が次々に出てくるんだけど、池田の過激さを養老がうまく受け流しているような雰囲気がある。だから、圧倒的に面白いのは池田の発言だ。

特に、みんな自分の人生にせよ、何かしら意味をつけたがるが、「世の中、意味のないことの方が多いし、なくて構わないのに、「意味という病」に侵されているんだな」(p.140)と言って、「この形質にはこういう意味がある」という論文は書けるけど、「この形質にはなんの意味もない」という論文は学会誌に載せてもらえないと言う。

当然意味があることだけが大切になれば、意味がなければ(役に立たなければ)消してしまえ、というところにつながるだろう。そしてそのちょうど正反対のところにあるのが、山本太郎がよく言う「生きているだけで価値があるんだ」という世界観なんだと思う。あらためて、山本太郎があらがおうとしているものがはっきりした。


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山元研二「『特攻』を子どもにどう教えるか」

2023.02.03.12:28

どうも歳のせいか、ぎっくり腰の状態が今ひとつ良くなっていきません。かれこれ1週間になるんですがねぇ。というわけで、1日数時間は横になっているので、その間に読んだ本です。

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「特攻」については最初の頃からよく書いてきた。拙ブログを始めてすぐに西川吉光という人の「特攻と日本人の戦争」という本を結構詳しく紹介しているので始まって、最近でも川端康成と「特攻」の本を紹介した。 

死んだ若者たちのことを考えたり、遺書を読んだりすれば、彼らがあまりにかわいそうで、美化して上げなくては、という気持ちになるのは、人間として当たり前の心情だろうと思う。だけど、その一方で、では彼らに「特攻」を強いた上官たちはどうしたのかを一緒に考えないと、「特攻」については絶対危ない方へ向かうというのは当初からの直感としてあった。これは今ではネトウヨ作家に成り下がってしまった作者の「永遠の0」について書いた時にも言ったことだ。

戦果からみれば、この本の中である生徒が言ったように、特攻は「何の意味もない国のプライドとかいうための犬死作戦」(p.138)だったとも言える。こう書くと、反発する人も多いだろう。でもこの点を忘れて、単に美化して感謝して、とやったら、この国はまた同じことを繰り返すだろうと思う。

なによりも、戦後もおめおめと生き続けた特攻を命じた者たちが「特攻」を美化することに熱心だったことからも、彼らのベクトルが自己保身に向かっていることは明らかなのである。特攻隊員はお国のために自ら志願して勇ましく死んだ、その「真実」を身近で見ていた自分が後世に伝えなくてはならない、というのが、彼らに「志願しろ」という無言の命令を与えて、「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」(p.49)と言いながら、戦後もおめおめと天寿をまっとうした奴らのやり方だった。

この本に出てくる大西道大が戦後になって特攻隊員の遺族に会いにいった時のエピソードなど、本当にはらわた煮え繰り返る思いしか湧かない。

「元司令官は仏壇に手を合わせた後(中略)『どうしてこのように小さいお子様がいて、なぜご主人は特攻に行ったのでしょう』と言った。【未亡人は】一瞬、大きく「あなたさまは。。。。」と声を荒げ、あとは押し黙った。」(50)

ナチスドイツはユダヤ人たちを組織的かつ大規模に、効率的に殺害したとよく言われる。しかし日本軍は「若者の侠気と、それに甘える老人の卑しさ」(古処誠二)にたよって、部下が必ず死ぬ戦法を組織的かつ大規模に取ったのである。

この本の最後の方で、若い社会科教員たちが「戦争」のテーマを授業で避けようとする傾向があるとして、彼らが、「『戦争』を『不快』なものととらえ、『戦争』に結びつく反省や謝罪、責任というものを考えなくていいように、『戦争』そのものを教材として『除去してしまいたい』と考えているような気がしてならない」(154)と書いているが、これは教員だけの問題でもないんだろうと思う。そして、『戦争』を『政治』に変えても同じようなことが言えるのかもしれないと思う。

『政治』を『不快』なものととらえ、『政治』に結びつくものを考えなくていいように、『政治』そのものを(頭の中から)『除去してしまいたい』と考えているような気がしてならない。

追記(2/5 15:35)
所々変換ミスなど変更しました。ご指摘ありがとうございました。


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尾中香尚里「安倍晋三と菅直人」覚書き

2022.06.06.11:18



安倍が繰り返し「悪夢のような民主党政権」とヒステリックに叫んだものだが、みんなが民主党政権時代よりマシだと思っていた経済の面ですら、安倍政権はまるでひどいものだったということを書いた明石順平の「アベノミクスによろしく」という本を紹介したのは4年以上前のことhttp://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3090.html

要するに山本太郎がよく言うように、この25年のデフレで日本はどんどん貧しくなっていく。現状維持がいいから自民党に入れるなんてのは馬鹿の極み。この間、現状維持されたことは一度もないわけだ。

今回のこの本はコロナ禍での安倍の対応と東日本大震災時の原発事故に対する菅直人の対応の比較だ。この本に、仮に安倍を批判したいというバイアスがかかっていると仮定しても、まあ、とんでもないね。要するに菅直人政権時の自民党、特に安倍のやったことは犯罪的だ。原発事故という未曾有の国難に挙国一致で取り組もうという気はまるでなく、単に政権の足を引っ張ることしか考えていなかった。特に安倍はデマを流すということまでしていた。しかもその嘘はいまだにネトウヨ連中が菅直人批判に使っている 笑)まあ、維新の手口だな。

あの時、菅直人政権にも至らないところは多々あったと思う。しかしそれを批判していた野党の自民党が今回与党になって、コロナ禍でどんな対応をしたかを思い出せば、当時の自民党の批判はブーメランどころか、2倍、3倍返しになっているし、菅直人政権が国民に対していかに誠実だったか、安倍政権が国民に対していかに不誠実だったか、がはっきりわかる。

今回のコロナ禍も、日本中の人々が、仮に安倍政権ではなく菅直人政権だったら、いや、トップが安倍以外だったらと考えてみたら良いと思う。まあ、大阪の維新の連中がトップだったら安倍よりもひどいことになっていたかもしれないが 笑)だって実際死亡率ワーストワンだからね。コロナに対する対応はTVに出演することだと思っているんだろうからね。

また、逆に今回のコロナ禍の対応ぶりを見て、もしあの311の時、トップが菅直人ではなく安倍晋三だったら(あるいは松井や吉村だったら 苦笑)どうだったかを考えてみたら良いと思う。まあ、こちらは考えるのもおぞましいことではあるが。

なんと言っても台風で死者が出ている時に赤坂自民亭でみんなで酒飲んでたんだからね。今回のコロナ禍だって、突然の大規模イベントの自粛要請やら全国一斉休校要請やらアベノマスクやら、ほとんどが思いつきだし、まともな説明ひとつできなかったんだからね。たぶん、東電に全ての責任をなすりつけて知らん顔を決め込んだことだろう。

そして、ただただやってます感を醸し出し、成果を自画自賛、「実際には野党側からの相当な突き上げによって実現した【コロナ特措法の】法改正を首相主導で実現したかのようにフレームアップ」(p.90)。10万円の給付だって野党が主張し、公明が創価学会の突き上げで耐えられなくなって進言した結果だったわけだ。

さらにどさくさまぎれでコロナ禍の「対応の失敗を『国民のせい』にして、憲法改正による国民の私権制限につなげるための好材料」(p.107)として利用しようとする。この本で繰り返し強調されているのは、安倍政権は「政治の責任を回避し、責任を国民に転嫁しようとした」(p.257)ということだ。

そして最後は「『国民へのお見舞い』を語るべき立場の首相は、逆に『自らへのお見舞い』を求めるかのような記者会見を残して、一方的に首相の座を降りていった」(p.273)。

ただ、これって問題点をきちんと指摘しないマスコミ、特にTVにも相当問題があるんだろうね。


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多胡吉郎「生命(いのち)の谺 川端康成と『特攻』」

2022.05.05.18:38



少し前にNHKで川端康成と三島由紀夫のノーベル賞をめぐる確執についての番組をやっていて、それと、東京新聞の読書欄で紹介されていたので、この本、図書館で借りて読んでみました。正直、川端康成って過去に読んだの文庫本二冊だけ 苦笑)しかも定番 爆)
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少し前に新聞のコラムだったか? 川端研究で来日したイタリアからの留学生が、本屋に行っても川端の本がないと嘆いていたという話を読んだけど、まあ、そうだよねぇ 笑)

で、この本、感動しました。1945年4月から5月まで、川端康成は山岡荘八らと海軍の報道班員として沖縄へ向かう特攻基地の鹿屋に滞在した。数百人の20歳前後の若者が特攻機に乗って飛び立つのを見送り、その後は地下壕で彼らからの無線を最後まで(=死まで)追うという、ちょっと僕らには想像もつかないタフな体験を経た川端が、戦後「『特攻』体験から逃げ続けながら、文豪ともてはやされ、ノーベル賞まで受賞した」(p.43)と言われてしまう。

特攻隊員として生き残った人々の書いたものと、散華した隊員たちの手紙や日記などを資料に、川端康成がこの一ヶ月で何を見たのか、何を考えたのか、そして戦後の川端の作品に、その体験がどのような影響を及ぼしたのか、また三島由紀夫の「英霊の声」との対比で、そうした経験について戦後の川端が直接的にはほとんど書かなかったのはなぜかを、時には大胆な想像を交えて丹念に追いかけ、解釈していて、非常に感動的です。

山岡荘八のように、特攻隊員たちについて自分なりの解釈を交えつつも、人々に直接的に伝えなければならないと考えるのは普通の感覚です。誤解を恐れず言えば、作家としては、現代の作家が体験できないような体験をしたわけです。

しかし、川端の場合口を摘むんだ。川端が感じた悲しみや怒りをもっと直接的に語ってほしかったというのもアリだけど、「見てしまった者」として、何か直接的に語ることが嘘っぽくなると思ったのかもしれません。つまり特攻作戦というものは、川端をしても描ききれなかったようなものだったということなのでしょう。川端が残した特攻が出てくる小説は二篇。どちらも主人公は特攻隊員ではなく、残された女性の方が主人公になっています。

というわけで、しばらく川端康成の小説をいろいろ読んでみようかという気分になっています。

特攻についてはかなり以前に書いたことがありました


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朴沙羅「ヘルシンキ 生活の練習」

2022.04.16.16:31



うーん、もっと若い時に読んでおきたかったぁ。

フィンランドだって決して何もかも素晴らしいわけではないけど、自助と自己責任と、ついでに言えばザマアミロの蔓延している日本の社会状況を思うと、やっぱり羨ましい。

たとえば子連れでパーティに出席した時、走り回る子供たちばかり気にしていたら、フィンランド人からなんで楽しむために出席しているパーティの会場で、子供ばかり気にしているのかと質問される。日本だったら、子供を放ってほいて自分だけ飲み食い歓談してたら、どんなことを言われるかわからないが、フィンランドではそんな心配をする必要はない。

あるいは、僕もそうだけど、日本ではレジで支払いに時間がかかったりすると、後ろに並んでいる人たちの目が気になる。なるべく人の迷惑にならないようにしたいと思う。だけど、フィンランド人は、後ろでイライラしていたかもしれないけど、レジで時間がかかったのはその人の問題でも、レジの人の問題でもなく、レジのシステムの問題だと考える(らしい)。

社会福祉制度についても、利用するのは困っている人だけではないのだ、公助というのはお世話になるのではなく、高い税金を一部還元してもらうとか、貯金する代わりに、いざというときのために国に預けてあるのだという考え方。これが普通だとおもうのだけど、日本では公が、ナマポなめるな!だよ、水際作戦と称して、生活保護者の補足率2割とかだよ。本来還元してもらう権利のある人が7割以上その権利を行使していないわけだ。

まあ、とにかく子育て中の方におすすめです。目からウロコのエピソードがたくさん。


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「格差は心を壊す」

2021.10.23.11:51


今月末の衆院選挙、色々な所で、さすがに自民は少し票をへらすが、一番躍進するのが維新ではないか、と予想されている。でも、維新のやり方って、公務員叩きが代表的だけど、敵を作ってざまあみろという、さもしく恥ずかしい感情を煽って人気を取ろうとするトンデモ政党で、欧州なら極右ポピュリズム政党とみなされるはずだと思う。

こういう反社的政党が人気を得る理由は、拙ブログで何度も書いたけど、この本を読んでさらに納得いくところがあった。

人類の歴史はほぼ20万年前ごろから始まったが、この20万年間の95%は平等主義的だったそうだ。これは日本の歴史でも、1万年以上(100世紀だよ!)続いた縄文時代の狩猟採集時代は平和で争いごとの少なかった時代だが、弥生に入り農耕の時代になるとともに、不平等な、持つものと持たざる者、支配するものと支配されるものの時代になったということが言われている。

そう考えると、人の心に限れば、歴史って人類の発展上昇の経緯を示すものではなく、堕落へ向かって流れているんじゃないかという気もしてくる。

「不平等が拡大すれば、(。。。)人々は互いによそよそしくなり、思いやりの気持ちも少なくなる。すきがあれば他人を引き摺り下ろそうとさえする。」(p.98)

この本では格差が人々の心をいかに壊すかが、多くの文献をもとに示されると共に、そのような不平等な弱肉強食のあり方が、いかに間違ったあり方であるかも説得力を持って示される。

不平等な社会になれば人々は他人の不幸を自己責任という言葉で切り捨て、社会をよくしようとなどと思わなくなる。当然政治などまともに興味を持つことはない。心置きなく叩けて、叩き返される可能性がないものをみんなで叩きまくり、そこに快感を見出す。格差によって心は壊される。

つまり格差(不平等)社会になれば人々は様々な面で劣化する。劣化すれば他人の不幸を「自己責任」と突き放し、叩けるものを「ざまあみろ」と叩きまくる。自己責任とザマアミロは最初に書いたように維新のやり方と被る。劣化した人たちが維新に票を入れるのもムベなるかな。

しかも「自己責任」とか「ざまあみろ」とか「今だけ金だけ自分だけ」というさもしい感情を、新自由主義というやつが後ろだけになって、お墨付きを与えたわけだ。今回の選挙では自民党の岸田ですら、一瞬だけだったけど新自由主義からの脱却なんて言ったりしてた。

この本の最後の方では、企業のシステムとしていかに格差をなくす方向へ向かうべきかが、ドイツの従業員経営参加制度などを例に述べられ、「経済を民主化する」(p.414)とともに、それでしか持続可能な未来はないというところに辿り着く。

つまりこの本の題名は格差は「心」を壊す、だけど、壊れるのは心だけでなく、社会も環境も地球も壊れるわけだ。

たぶんこのまま「自己責任」と「ざまあみろ」の社会が続けば、人類は遅かれ早かれ滅ぶな。そんな気がしている。

400ページのヴォリュームで、たくさん援用される資料の部分は読みやすくないけど、おすすめです。


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「東京藝大で教わる西洋美術の見方」

2021.05.27.13:03

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表紙の絵はロヒール・ファン・デル・ウェイデンが奥さんを描いたのではないかと言われているもので、30年以上前にベルリンのダーレムの美術館で見た時に魅了されたという個人的な思い出があります。
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向こうの美術館はフラッシュ焚かなければ写真OKなので、いろいろ撮りましたが、この絵はこちらをじっと見つめる目の力強さがすごくて、500年間俺を待っていてくれたんだと思ったのでした 笑)

というわけで、この絵だけで手に取って読み始めたら、絵の好みがかなり私の趣味と合致して、とても面白く、あちこちにマーカーで線を引いたりして、時間をかけて読みました。

ほぼ年代順に有名な画家たちの作品が解説されるのだけど、その作品が一般的な美術史で取り上げられるものとは少し違っていて、レオナルドやラファエロも取り上げられているけど、どちらかというと北方ルネサンスのロベルト・カンピンやファン・エイク兄弟、ドイツルネサンスのアルブレヒト・デューラーのほうが比重がかかっている。目次を見ればわかるけど、ここにはミケランジェロもレンブラントもフェルメールもゴヤも、そしてなによりフランス印象派が全く扱われていない。ピカソや20世紀の抽象画の画家もいない。最後の二つの章はシャルフベックと、3年ぐらい前に上野で展覧会が開かれたハマスホイの北欧の暗い画家二人と、バウハウスにつながる工芸美術作家ヴァン・デ・ヴェルデという地味さ 笑)

各章がいろいろつながりを持っていて、特に19世紀のローマで活躍したドイツ人画家たちやフランス人たちから、イギリスのラファエロ前派へ関連づけられていく後半の章は、知らないことばかりで面白かった。

で、こうやっていろんな画家たちの絵を見ていくと、やっぱり桁違いに上手だなと思うのはファン・エイク。ファン・エイク以前のロベルト・カンピンや以後のロヒール・ファン・デル・ウェイデンと比べても、描かれている(描かれていない)空気の密度というのか、空間的な奥行きが桁違いに澄んでいて厚みがある。この本とは別の本で読んだんだけど、「アルノルフィニ夫妻の肖像」で後ろの壁にかかっている数珠玉の超拡大写真をみると、フェルメールが200年以上後にやるような光を点として描くことをやっているのだという。一見輪郭を細密に描いているようにみえるファン・エイクの絵だが、この数珠玉には輪郭線はまったくなく、筆でさっとなぞらえただけの色の斑点がおかれているのだそうだ(小林典子「ヤン・ファン・エイク 光と空気の絵画」参照。この本、私にはちょっと専門的すぎて敷居が高すぎ、途中で挫折しました 苦笑)。

というわけで、表題の本に戻ります。一言で言えば面白いです。ですが、この題名はちょっといただけない。買う時ちょっと恥ずかしかったです 笑)扱われている画家がかなりマニアックだし、それなりに西洋絵画を見慣れている人向きでしょう。


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對馬達雄「ヒトラーの脱走兵」

2021.01.20.23:01

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ルートヴィヒ・バウマンという死刑宣告を受けながら九死に一生をえた元脱走兵の復権に向けた活動を中心に、ヒトラー政権下で司法官を務めた裁判官たちの戦後の栄達ぶりと戦後ドイツのナチスに対する多くの人々の複雑な感情が書かれた本で、数年前に紹介した同じ著者の「ヒトラーに抵抗した人々」や去年の暮れに読んだ大島隆之の「独裁者ヒトラーの時代を生きる」ともつながり、個人的にはものすごく面白かった。うん、面白かったなんていう言葉は相応しくないな。読みながら何度も怒りを感じた。そしてなんとなくおぼろに感じていたものがつながった気分で、ものすごく勉強になった、と行ってもいいかもしれない。なので、今回は過去記事へのリンクばかりです 笑)

例えば、脱走兵は戦後になってもナチス時代の裁判判決に基づいて前科者扱いされ、一般ドイツ人たちからすら、彼らは犯罪者だと見なされていたとは考えてもみなかったことだった。何しろ第二次大戦中のドイツの軍法会議での死刑の数はほぼ2万人と驚くべき数字。一方アメリカは146人、イギリスに至っては40人だったという。(これも最近紹介した「軍旗はためく下に」も軍法により死刑になった兵士たちのことで、吉田裕の「日本軍兵士」とともに、日本軍はひでえと思ったけど、ドイツ軍もひでえもんだわ。)

何しろ不法国家のナチスドイツだ。徴兵拒否や脱走などで処刑された人たちは戦後は問答無用で復権しているのだとばかり思っていた。さらには徴兵拒否で死刑になった人たちは英雄扱いされているものだと思っていた。テレンス・マリックの映画「名もなき生涯」がまさに徴兵拒否で死刑になった男の話だったが、これだって長年知られずにいたのを、主人公が妻に宛てた手紙が英訳されて知られるようになり、映画になったのだった。

一方で逃亡兵や、前線の兵士たちに無理やり「国防力破壊」の罪を言い渡して死刑判決を出した司法官たちは戦後になっても西ドイツの司法界や大学で栄達を遂げ、尊敬され、権威とみなされ、大往生をとげた。特にシュヴィンゲという戦後は大学教授として軍司法の権威となった奴は、写真見てもわかるでしょ! 
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こいつ絶対悪党だよ。それもインテリの悪党、一番たち悪い奴、間違いなし!って顔してます(人を外見で判断してはいけません 苦笑) いや、つい興奮して。。。汗)

例えば、拙ブログで映画を紹介したゲオルク・エルザー、ヒトラー暗殺計画で処刑された彼の事件が正当に評価されたのは最近のことだった。同じく「ヒトラーへの285枚の葉書」という映画になったハンス・ファラダの「ベルリンに一人死す」のハンペル夫妻のことだって、ファラダはこの小説を戦後すぐに書いたのに話題にはならず、最近英訳が出て大ヒットしたおかげで知られるようになった。

さらには1960年ごろに強制収容所の看守たちを裁いた裁判を描いた「顔のないヒトラー たち」やその裁判の指揮をした検事フリッツ・バウアーの業績が映画になったのも、やっと21世紀になってのことだ。

これまでの反ナチ抵抗運動として有名なのは軍人によるワルキューレ作戦と、ミュンヘンの大学生たちによる「白バラ」だった。だけど、これによって、特に前者のドイツ国防軍のヒトラー暗殺未遂事件によって、ナチは悪かったが国防軍は悪くなかったという神話が出来上がったわけだ。そして「白バラ」の方も有名になりすぎたおかげで、他にもたくさんいた市井の反ナチ活動家たちが隠されてしまった面があったわけ。

先日紹介したばかりの盲人オットー・ヴァイトの抵抗だって、そして彼と関連があったローテ・カペレと呼ばれる普通の市民たちによる反ナチ活動だって、一般に知られるようになったのは最近のことだった。同時に国防軍が実は東部地域での一般人やユダヤ人の大量虐殺に関わっていたことも、やっぱり最近になってようやく知られるようになった。

「ジェネレーション・ウォー」でも国防軍兵士のトム・シリングは気弱ないじめられっ子の文学青年だったが、いつしか少女を正面から射殺するような虐殺者になっていく。また兄のフォルカー・ブルッフは脱走兵となる。こんな内容、おそらく西ドイツ時代には絶対に描けないストーリーだったのだろう。この本を読むとそれがよくわかる。でも惜しむらくは(ネタバレしちゃうけど)。トム・シリングは最後死んでしまうけど、実際は生き残って、当時のことにはほっかむりした元国防軍兵士がたくさん、その天寿を全うした。

ティモシー・スナイダーの「ブラッド・ランド」にもあった話だが、アウシュヴィッツがホロコーストの代名詞になってしまったけど、実は東部戦線では、アウシュヴィッツをはじめとした収容所で殺されたユダヤ人の数の3倍の数の人たち(主にユダヤ人)が殺されたそうだ。アウシュヴィッツはそうした、ドイツ人にとって「より不都合」な事実を押し留める堤防の役割を果たしたわけだ。

戦後のドイツは脱ナチ化を果たしたと思っていたが、対外的にはともかくドイツ国内ではとんでもなかった。東西ドイツが統一して関係者もどんどん鬼籍に入ってやっと真実が明かされるようになったわけだ。それは障害者大量虐殺計画T4作戦に関連して、ドイツ精神医学会がやっと反省の弁を述べることができるようになったのに似ている。

追記(2021, 1,21, 12:50)
昨日書き忘れたので追加します。

主役のバウマンら脱走兵や徴兵忌避者が復権するに当たって、時間以上に重要だったのが歴史学者たちの研究が与えた影響だった。裁判の判決にもそうした学問的な成果が強く反映されている。それを著者は次のように言っている。

「戦後史、とりわけナチス支配の過去の清算に関わるドイツの政治が反ナチ運動の研究成果と密接な関係にあり、その研究の成果を受容して文化政策・歴史政策(具体的には歴史教育・政治教育)が作られてきた(。。。)これを言い換えると、それだけ人文系諸学が今なお現実政治においても重要な存在となっているということだ。それを支えるのは「知」を尊重する歴史的伝統と風土だろう。」(p. 252)


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岡典子「ナチスに抗った障害者」

2020.12.14.23:06

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オットー・ヴァイトはナチスの時代のベルリンで、障害のあるユダヤ人たちをブラシやホウキを作る自分の盲人作業所に雇い、ゲシュタポとやりあい、ユダヤ人たちを無名の協力者たちと共に匿い続けた盲人である。オットー・ヴァイトの名前は拙ブログでも出したことがある(これは5年前に書いたことで、当時は山本太郎の主張など知らなかったが、彼が言っていることと同じことを書いているのは、我ながら自慢したい)

この本はヴァイトの生涯を追いながら当時のナチス期のユダヤ人たちや障害者の状況も詳しく描かれ、圧倒的な面白さだった。一般にナチスと障害者と言えば、拙ブログでも何度か書いた T4 作戦による重度障害者の継続的な虐殺が思い浮かぶが、軽度や盲・ろうの障害者たちはどのように生活していたのかは、考えたことがなかった。

驚いたことに、ナチスは多数の重度障害者を殺害する一方で、国家の労働力として活用できると考えた障害児たちに対しては、「就学義務法」を制定して彼らに就学の機会を与えたのである。1936年に「ヒトラー・ユーゲント法」によって青少年全員がユーゲントに加入しなければならなくなったときにも、それより前にすでに障害児たちのヒトラー・ユーゲントのようなものが存在していて、盲学校の生徒たちがハイル・ヒトラーの手を挙げている写真も掲載されている。ことほど隅々に至るまでナチスのプロパガンダが浸透し、国民たちがみんなナチスを支持していたわけだ。

一方でユダヤ人たちは海外へ移住しようとしても、高齢や障害が移住先から入国を拒否される理由になった。身内に障害者や高齢者がいるユダヤ人家庭に選択肢は二つ。移住可能なものだけが国外に逃れるか、家族みんなでドイツにとどまるかだった。映画「ソフィーの選択」みたいな選択はそこかしこで行われていたわけだ。そして1942年の「ヴァンゼー秘密会議」後は出国など論外、見つかればそのまま収容所へ送られるようになっていく。

そんな中で盲人ヴァイトは多くの無名の協力者たちと共に多くのユダヤ人たちを助け匿う。その手口は賄賂だった。そして隠れたユダヤ人たちのために闇市場で仕入れたものを融通する。しかしゲシュタポの一斉検挙や、密告、ナチスの手先となったユダヤ人の「捕まえ屋」によって、雇っていたユダヤ人たちは次々と捕まり収容所へ送られ、多くがそこで殺害される。

無名の協力者たちが面白い。ナチスに反抗的な警官たちが集められた第16管区警察署の無名の警官たち、牧師、医者、工場主、クリーニング店主、そして何より強烈な印象を与えるのが娼婦のポルシュッツだろう。それ以外にも多数の協力者がいた。

「ヴァイトのように今日までその名を知られている「英雄」でなくとも、当時のドイツには、ユダヤ人に対しそれぞれの立場でささやかな善意を示そうとした人々がいた」(p.131)し、「密告が奨励される当時のドイツでは、ヴァイトのような救援者の行動を口外せず、「見てみぬふり」をしてくれるだけでも立派な善意の表現だった」(p.139)のである。

シンドラーのリストが映画になり、ドイツ国内にもユダヤ人を積極的に助けようとした人たちがいたことが知られるようになり、おかげでこのヴァイトもベルリンのシンドラーと呼ばれているそうだ。しかし、自らも障害者だったヴァイトの方がシンドラーよりもずっと感動的だろう。それにこの本に描かれているヴァイトの姿の方がずっと深みのある映画が作れそうだ。ユダヤ人を単なる被害者にしているのではなく、「捕まえ屋」なんていうナチの手先も出てくるし、その「捕まえ屋」にも逃げ切る奴もいれば、お役御免で収容所へ送られる奴もいる。

上に書いた娼婦のポルシュッツのインパクトは大きい。戦後になっても、娼婦ゆえに不道徳な女とみなされた彼女は1977年に亡くなるが、写真は一枚も残っておらず、娼婦の彼女がユダヤ人を匿い続けたのはなぜかはわからない。しかも彼女は闇市での取引きで逮捕され、また厳しい「尋問を受けても一切口を破ることはなかった」(p.222) のである。彼女を「ナチスに抗った娼婦」という題名で本を書く人が出てくることを祈る。

ヴァイトはドイツ敗戦後もユダヤ人のための老人ホームと孤児院の運営に尽力した。だが、戦後のドイツでは東西どちらにおいても、ユダヤ人救援者たちに関心が湧くことはなかった。これは拙ブログで映画を紹介した、ヒトラーを暗殺しようとしたエルザーもそうだった。また海外でも悪の帝国にユダヤ人を救おうとした人たちがいたことは都合が悪かった。結局関係者がほとんどみんな死んでしまった今になってようやく、顕彰のためのプレートや、殺されたユダヤ人たちの名前の刻まれた「つまずきの石」が道に埋め込まれるようになったというわけだ。

不思議なことだが、こうした「沈黙の勇者」たちは戦後になっても自分たちが行ったことを声高に語ることはなかった。自分はユダヤ人を守ったのだと主張する連中は、その多くがナチスの主張に唯々諾々と従った連中たちだった(アウシュヴィッツでユダヤ人の生死の選別を行ったメンゲレは、選別を行ったことによって死ぬべきユダヤ人を救ったのだと言い放った)。

彼らはなぜ自らの命すら危険にさらしてまで、ユダヤ人を助けたのだろう? その理由は色々あるだろうけど、この本の最後の方にある話は、ただ救援者たちを「正義」にしてしまう(つまりレッテルを張ってしまう)のではなく、人として生きるということはどういうことなのかを考えさせてくれる一助になると思う。

「ヴァイトにとってもユダヤ人たちは単なる救援対象ではなかった。自分たちを心からしたい、信頼を寄せるユダヤ人たちの存在は、障害者として社会の中で「弱者」の位置に追いやられてきた彼に、人としての誇りを与えてくれるものだったろう。それは娼婦として蔑まれてきたポルシュッツにとっても同様だった。ヴァイトたちはユダヤ人に多くのものを与えたが、ユダヤ人たちもまた、ヴァイトたち救援者に多くのものを与えてくれたのである。」(p.252)


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大島隆之「独裁者ヒトラーの時代を生きる」

2020.12.03.21:58

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NHKで放映されたドキュメンタリー「独裁者ヒトラー 演説の魔力」の、番組内では放送できなかったインタビューをまとめたもの。この番組はYouTubeに上がってますね。大丈夫なのかな? 笑)


僕は、ヒトラーの時代を知る現在100歳前後の老人たちが何人もインタビューされるこのTV番組を、放送当時(去年のはじめ)見ているけど、印象として、どこか食い足りない感じがした。ヒトラーのことを語る老人たちの生き生きとした様子がどこか居心地が悪い気がすると同時に、ヒトラーの演説映像を見る老人たちがみんなニコニコと目を輝かせているのに、それをスルーしてヒトラーに誑(たぶら)かされた人々が戦争によってどのような運命を迎えたかという結末、兵士として死んだ若者たちの墓や殺害されたユダヤ人たちを祈念する「つまずきの石」(本の表紙がそれ)へ、強引につなげていったような印象を持った。

で、そのテレビでは映されなかった老人たちのインタビューがこの本に収録されているわけだが、その多くが実はどうやらTVでまとめることが難しい方向へ向かっていったものだったようだ。当時ヒトラー を熱狂的に支持した人たちにとって、戦後、当時の自分を全否定することなど、普通なかなかできるものではないのだろう。

老人たちの多くは戦争になる前までのヒトラーは良いヒトラーで、戦争をしたからこそヒトラーは悪者になったのだと信じている。つまり良いナチスと悪いナチスがあると。TVでも出てきたが、育ての親がユダヤ人だったので収容所に入れられ廃人同様になったにもかかわらず、ヒトラーを信頼しきって空軍兵士として戦った老人が、ヒトラーの演説を称して、ベートーヴェンの第九の最終楽章のような高揚感だったとニコニコしながら話し、ナチスの党歌を口ずさむ。結構ショックだ。

TV番組ではヒトラーの演説の魔力という題名通り、その演説がどれほど人々を魅了したかをメインに描いていたが、この本ではその演説に魅せられた人々が戦後になっても、戦争が終わって4分の3世紀も経っているというのに、そして戦後のドイツでいかにヒトラーがやったことがひどいことだったかが語られ尽くしたと思えるのにもかかわらず、三つ子の魂百までじゃないけど、当時の熱狂が忘れられず、いまだに魅せられていて、それを自分の中でどう辻褄(つじつま)合わせしようとするか、という心理が扱われている。

無論インタビューされている老人たちがいまだにヒトラーの考えを受け入れている差別主義者だとは全く思わない。彼らがヒトラーが主張したようなユダヤ人やスラブ民族は劣等民族だと、今現在考えているはずはない。彼らが嬉々として語るのは当時の感動・感激の思い出なのだろうと思うが。。。

全身全霊をかけて信頼を寄せ、そのために命すらかけた過去とどう向き合うか? なかなかリアルに想像できるものではないだろう。

この本、当時のドイツの状況をわかりやすくまとめていて、ナチスのことなんかよく知らないという人にもおすすめです。


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雨宮処凛「相模原事件・裁判傍聴記」

2020.11.23.23:55



裁判は終わり死刑の判決がくだって、世間はこの事件のことを済んだこととして忘れつつある。

この本を読みながら、少し前に山本太郎が語ったこの事件の分析のことをずっと思い出していた。「役に立っていることを社会に示したいから、役に立たないと思い込んだ障害者を殺した」というやつだ。著者の雨宮処凛は山本太郎の盟友であるから、当然こうした意見交換はしていたんだろうと思うとともに、ひょっとしてこうした問題についての山本太郎のブレーンが雨宮処凛なのかもしれないと妄想したりした。

事件当初、とうとうと自説を述べ続ける犯人にナチスの優生思想の再来かと思わされたこの事件。結局のところ「優生思想でもなんでもない。単純な嫉妬」「社会的に何もできない者(=障害者)が、優遇されてノウノウと生きているのに対するやっかみ」に過ぎなかったという最首悟の言葉が一番ピンとくる動機のように思える。

最後の雨宮処凛と渡辺一史の対談の中で、渡辺が言うことが、僕らも、そして何よりマスコミも、もっとしっかりと意識すべきポイントだと思う。つまり渡辺はこう言っている。少し長くなるが、書き写し、ポイントを箇条書きにしてアンダーラインを引いておく。

「この事件が報じられるたびに、植松被告の主張も繰り返し報じられるわけですが、彼の主張は、その前提からして間違っていることを指摘する人があまりいない。(中略)植松被告は「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」という主張から事件を起こしましたが、(中略)意思疎通の取れない障害者」を一方的に安楽死させるなどということは、安楽死が合法化された国であっても不可能です。(中略)植松被告の考えに同調して、「日本でも安楽死を合法化すべきだ」などという人がいますが、安楽死という言葉の正確な意味を知った上でそう言っているのか、そこをまずしっかり確認しなくてはいけない。」

本人の同意がない「安楽死」などない。それは虐殺というのだ。

「それともう一つ、障害者を安楽死させるべき理由として、「障害者にかかるお金は無駄だから」とか「それが財政難の元凶だ」などと植松被告は言っていますが、これも現実を見ると全く違います。日本の年間の障害福祉予算は、国の一般会計のたかだか1%台ぐらいで、さほど大きな額ではないです。国際比較をしても、日本の障害者関係の公的支出(対GDP比)は、OECD諸国の中で極めて低い水準にあることは専門家の間では常識なんです。」

障害者福祉の国の予算は財政難の元凶になるはずがないぐらい低い。

「さらにいうと、障害福祉予算というのは、別に障害者が飲み食いして懐に入れて浪費しているわけでは全然なくて、その大部分は健常者(介護者)の給料になっているわけですからね。」

しかも予算のほとんどはは障害者を介護する健常者の給料。

「そして、もらった給料の中から所得税を払い、住民税を払い、社会保険料を払い、日々の消費を行い、人によっては結婚して家庭を作り、その地域での暮らしを支えるお金になっているわけです。」

山本太郎がよく言う「誰かの借金は誰かの貯蓄・資産になる」を連想する。

「そうして、そうやって作られたケアの仕組みや福祉制度というのは、自分や自分の家族が困ったときにもお世話になれるシステムです。障害のある人たちがいるおかげで、そうしたシステムが発達してきたことを考えると、逆に障害者の存在が、社会を助けてくれているとも言えるんです。」

情けは人の為ならず、自分のためなんだよ、という話だ。当たり前の話だろう。

「メディアもあの事件を報じると同時に、植松被告の考え方は根本から間違っていることをしっかり発信することが大切だと思います。」(以上全て p.211ー3) 



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吉田裕「日本軍兵士」覚え

2020.10.15.12:03

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いやはや、むちゃくちゃだよ、旧日本軍。こんな国の兵士にならなければならなかったなんて、なんて気の毒な旧日本軍の兵士たち。

1937年の日中戦争の始まりから1945年夏の敗戦までのうちで、1944年以降に全戦没者310万の9割を占めるというのは、今話題の任命拒否された加藤陽子の本でもかつて教えられた

しかもその死者たちの半分以上は敵の弾に当たったのではなく、マラリアや栄養失調などの病死や餓死だった。また戦死として報告されることが多かった自殺者の数も、他国の軍隊以上に多かったという。

この本が書かれた理由の一つとして、著者は「日本社会の一部に、およそ非現実的で戦場の現実とかけ離れた戦争観が台頭してきた」(209)ことや「日本礼賛本」や「日本軍礼賛本」による日本軍の過大評価の風潮に対し、「戦場の凄惨な現実を直視する必要がある」(212)という思いだと言っている。

日本軍は個々の兵士の健康状態など気にもしない。例えば従軍歯科医師がほぼいなかったために虫歯の蔓延を引き起こし、内地部隊では古参兵や上官による理不尽な私的制裁(リンチ)により死者が出ても罪に問われず、結果、「極度の過労と栄養の不良が結核の温床となっ」(101)た。

すでに1940年から、補給兵站の不備を補うために現地調達、「現地自活」(つまりすでに常態化していた中国民衆からの略奪)を軍の方針として強行し、捕虜になることを禁じ(1937年にはまだ捕虜になることを認めていたそうだ)、作戦・戦闘を全てに優先させて「補給、情報、衛生、防御、海上護衛など」(139)を軽視し、軍服も軍靴もその他の装備も、そして何より兵器も敵とは比べものにならぬほどに劣悪であったにもかかわらず(それを指摘した前線からの書簡を東條英機は握り潰す)、最後はみんな死ねとばかりの特攻作戦。声変わりもしていない少年たちをかき集め死地に赴かせ、死なない奴は臆病者だと言わんばかりの上層部。そしてそう命令した奴らは戦後ものうのうと天寿を全うしたわけだ。

戦闘機パイロットだったある元陸軍大尉の言葉だ。

「戦争が激化する。負け戦が多くなり、戦死者が激増し始める。そうなると、本人の勲功の多少に関わらず、いつまでも生きている将や兵が白い目で見られたり、皮肉や嫌味を言われたりと言う奇妙な傾向が現れ始める。恨まれたり、妬まれたり、どうかすると戦死しなかったというだけの理由で卑怯者呼ばわりされたりもする(中略)それにしても、貴様はいつまで生きる気かなどと、上官が部下を捕まえて嫌味がましく口にする風潮というものが、果たしてアメリカやイギリス、中国の軍隊内にもあったであろうか」(121)

旧日本軍兵士たちは、敵の弾で殺された者の数よりも、間接的な意味も含めれば、味方に殺された数の方が多かったのだと言っても過言ではない。 


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古生物とベテルギウス

2020.01.27.18:06

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このところ並行して読んでいた本です。

今から5億年も前のカンブリア紀に「カンブリア爆発」と呼ばれる、生物の進化が一気に進んだことが書かれたスティーブン・ジェイ・グールドの名著「ワンダフルライフ」を少し前に読みました。理解しきれなかったところも多かったんだけど何しろ面白くて、もっと図版の多いものをと思い購入したのが土屋健著の「エディアカラ紀・カンブリア紀の生物」というこの本。

期待にたがわず化石の写真や古生物の絵が豊富でとても楽しく読めました。グールドの本がもう30年前のものであるのに対して、こちらは2013年発行なので、カンブリア紀より前のエディアカラ紀のことや、グールド本で扱われていたバージェス頁岩より古い澄江(チェンジャン)で見つかった化石など、この間にわかったこともたくさん盛り込まれています。

一方でこのところ明るさが異常なほど低減したというニュースが飛び交うベテルギウス。新聞でも話題になってますね。明日にも爆発するんじゃないかなんて言われてもうだいぶ経ちますが、去年の秋ぐらいから一気に暗くなっているそうです。爆発すれば昼間でも見えるぐらい明るくなるそうで、数週間は続く派手な天文ショーになると言われています。

で、2011年に出た野本陽代「ベテルギウスの超新星爆発」、買ってからず〜っと忘れていたんですが、部屋の整理をしていたら出てきたので、古生物と並行して読んでみることにしました。

まあ結論から言えば、「明日にでも爆発か」と言われるけど、宇宙の世界での「明日」って言うのも上記の古生物の話と同じで、「今日から10万年後までのいつ爆発してもおかしくない」(p.37)っていうことみたいです 苦笑)

また、超新星爆発すると、640光年という比較的近い距離 笑)なのでガンマ線など有害なビームによってオゾン層が破壊されるんじゃないか、なんていう意見もあるらしいですが、この本によれば、この心配もベテルギウスの自転軸が地球の方向とはずれているから大丈夫とのことです。

でも、この本でベテルギウスのことに絞って書かれているのは前半だけで、後半は宇宙論の歴史と最新の、宇宙の膨張が加速しているという話などが書かれているので、表題はベテルギウスの話題に引っ掛けて、釣り気味の題名かも 笑)

カンブリア紀が5億年、宇宙の年齢は137億年、地球の誕生は46億年、なるほど10万年なんて宇宙にとっては「明日」ですね。なお、カンブリア紀の頃には無論まだベテルギウスは誕生していません。

また、この本によれば、星の誕生というのは、分子雲の中でいくつもの濃いガスの固まりが作られて、徐々に星になっていくんだそうで、一個だけ生まれるというよりはいくつもの星が同じ時期に作られて集団を形成するものなんだと。つまり、太陽にも兄弟に当たる星がいくつもあったはずなんだそうです。だけどできて46億年、その間にまとまりをなくし、離れ離れになり、今では太陽の兄弟に当たる星がどれなのかは全くわからない。

でもひょっとしてカンブリア紀の生物たちが生きていた頃にはまだ太陽の兄弟星がはっきりわかる程度に空に輝いていたのかも、なんて考えるとちょっと楽しい。そもそも5億年前の星々は現在とは配置が随分違っていたはずです。

で、こんなことを考えながら読んでいました。人類(ホモ・サピエンス)なんて誕生して高々20万年、猿と見分けがつかないようなヒト属でも700万年。それに対してカンブリア紀の、例えばアノマロカリスなんかは誕生から絶滅まで5000万年以上だし、三葉虫に至っては2億年以上栄えたわけ。あっ、身近なゴキブリだって3億年ぐらい前からいます。生きた化石だもんね 笑) しかし、それに対してホモ・サピエンスはこのままでいけばあと数百年ももたないでしょうね。

というわけで最初に書いた古生物の本、これはシリーズでこの後「オルドビス紀・シルル紀の生物」、「デボン紀の生物」、「石炭紀・ペルム紀の生物」。。。と全10巻まで続いて行きます。のんびりと暇なときに図版を眺めているだけでもかなり楽しそうです。


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加藤直樹「トリック」覚書き

2019.12.14.13:40

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関東大震災時に行われた人種差別に基づいた大虐殺(あえてこの言葉を使いたい。なぜなら、同じように人種差別に基づいたナチスドイツによる1937年の「水晶の夜」事件での死者が100人足らずだったのに、こちらの死者は数千人に上るからである)については、同じ著者の本を紹介したことがあったのでそちらもご覧いただきたい。

「加藤直樹「九月、東京の路上で」覚書き」

なぜ題名が「トリック」なのかといえば、虐殺否定を主張する工藤美代子・加藤康男夫妻の本が、書いた本人たちですら信じていないようなことを、様々なトリックを用いて強弁しているからである。この本では主にこの工藤・加藤夫妻の書物を取り上げ、その「汚い」(言葉の正しい意味で「汚い」)やり方を徹底的に暴く。

世の中には資料を誤読して、間違ったことを主張している本はたくさんあるだろう。だが、夫妻の書いた本は、悪意の塊である。様々な文献の都合の良いところだけを引用、都合の悪いところは省略して、あたかも震災時に朝鮮人による暴動があったかのように書くのである。完全なデマ、のちになってそれがはっきり否定されるデマの部分を切り出して、それを暴動のあった「証拠」だと言い張り、果ては存在しない史料や証言を捏造するのである。

関東大震災では昼食どきだったため、大規模な火災が起きた。それを「火災があれほど広がったのはおかしい、誰かが放火したに違いない、だから『朝鮮人の放火があったとされるゆえんである』というめちゃくちゃな三段論法」(p.68)。こんな「汚い」本をよくまあ出版社も出したものだと呆れる。産経新聞出版部だそうだ 笑)

少し前の山本太郎の街宣でも、質問者が震災時の朝鮮人の暴動のことを唐突に発言して、山本太郎がいなしたことがあった。また、僕自身、一見ネトウヨではないかのようなふりをしながら、偉そうに海外の文献がどうとかこうとか言っているネトウヨ氏から何度もコメントももらったことがあった。無論それには当時の僕の分かる範囲で反論したが、今なら同じようなコメントを貰えば、この本をもとに、完膚なきまでに論破できる。

何れにしても、読みながらデ・ジャ・ヴ感満載だった。つまり以前紹介した山崎行太郎の曽野綾子批判「南京事件」を否定する連中「沖縄問題」のデマを流す連中映画「主戦場」に出てきた慰安婦問題を否定する連中と同じなのだ。彼らは「事情を知らない一般読者を驚かせ(。。。)耳目を引きつけることができれば、それで十分なのである」(p.85) 「実際にあったか否かについて二つの対立する学説がある、と言う構図にさえもっていければ、否定論者の”勝ち”だと言うことだ。そうなれば一般の人々は、歴史の素人である自分にはどちらが正しいかわからないので判断保留にしようとか、真実は多分その中間にあるんだろうとか考えるようになる。」(p.135)

しかし、これらの否定論者たちはみんな、あったことをなかったことにして、何がしたいのか? そしてそれにコロッと騙されてしまう人たちがいる。ただ、こういう人たちはおそらく信じたいんだろう。なぜそんな、冷静に考えれば誰が考えたっておかしいと思うようなことを信じたいんだろう? まあ、よく言われるように、自己肯定感を個人ではなくもっと大きな国というものに仮託しているんだろう。自分はもっと尊重されるべきだという不満が、そのはけ口として少数者に対する差別意識と結びつく。残念だけど、そういう人たちはこの本を手に取ることは決してないだろう。

だが、嘘を承知で書いた人の方は、まさか信じたい人たちの自己肯定感だけのために、言うなればそういう人たちが気持ちよくなれるだけのために、この本を書いたわけではあるまい。

「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ(万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のために尽くせ)」(教育ニ関スル勅語のウィキより引用)

つまり「美しい国」ニッポンのために、ひいては自分たちのために一般庶民が死んでくれることを密かに願っている、そういう人たちがいるのである。


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「ファクトチェック」と「古生物」

2019.11.06.23:32

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正式な表題は「琉球新報が挑んだファクトチェック フェイク監視」と「ああ、愛しき古生物たち〜無念にも滅びてしまった彼ら〜」と言う2冊です。

両方とも市立図書館から借りてきたもので、ファクトチェックの方だけ読み始めたんだけど、何しろ出てくる話の不快さ、気持ち悪さに、これだけ読んでると頭おかしくなりそうだわ 笑)と思って、前から機会を狙っていた古生物の絵本も並行して読んで、精神的なザワザワ感を中和させようとした次第。

ファクトチェックの方は主に沖縄市長選挙の時にネットで拡散されたフェイクニュースと、それに対して琉球新報が新聞紙上で行ったファクトチェックの記事をまとめたもの。

何しろ悪質なフェイクは与党を応援(?)する陣営からのものが圧倒的に多い。そしてその悪意に満ちたフェイクニュースが、差別をネタに楽しんでいる人たちによって拡散されていく。だが、「連日、悪質な投稿を繰り返していた複数の登録者(=サイト)が、県知事選終了後、ピタリと投稿をやめ、登録を削除した」(p.86) つまり、デマを広めるためだけで作られたサイトなのである。おぞましい話である。

こういうことだ。「選挙は民主主義の根幹をなす重要な制度である。怪情報を流布させて対立候補のイメージダウンを図る手法が横行するなら、政策そっちのけの泥仕合になってしまう。民主主義の自殺行為でしかない。」(p.54)

というわけで沖縄に限らず、デマの発信は与党応援団から発せられるものが圧倒的に多い。これは歴史がいずれ検証するだろうけど、今という時代の日本の社会は、後世間違いなく日本人が恥じるものになるだろう。

いや、そもそもが差別的でヘイトを含むフェイクを広めている人たち自身が、自分がやっていることが恥ずかしいことであると、冷静になった時には自覚している。それは少し前、かなり悪質なヘイト発言を撒き散らしていた世田谷区の年金事務所長が、本名がバレた瞬間に、自分の過去の発言を削除し、同時に謝罪したことでもわかる。彼は自分がそれまで匿名でやっていたことが「悪いこと」だとわかっていたのだ。

匿名だからできるのだ。本名では言えないような心の奥底にある悪意の塊を、匿名だと言えてしまう。そう言えば、FBなどでも明らかにネトウヨだと思える発言をしている人はだいたい匿名だったり自分の写真を載せない。逆に安倍を批判している人たちは自分の写真を載せている人が多いし、本名(おそらく?)を名乗っている人が多い。

と、そんな不愉快な気分を払拭するのは、やっぱり古生物だよ。なん億年も前に生きていたアノマロカリスに思いを馳せると、それだけで、今という嫌な時代を忘れることができる 笑) この本ではイラストがとても魅力的で、話も面白い。暗い本や重い本、腹の立つ本を読む時には、やっぱりネアンデルタール人とか古生物のような化石時代の話や、宇宙の話を一緒に並行して読むと精神衛生上いいです 笑)


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山崎雅弘「沈黙の子どもたち」

2019.10.21.22:53

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この本は完全に表紙に惹かれて手に取った。副題は「軍はなぜ市民を大量殺害したか」 

扱われているのはゲルニカ、上海・南京、アウシュヴィッツ、シンガポール、リディツェ、沖縄、広島・長崎で、この中ではシンガポール(中国系の市民の日本軍による虐殺)とリディツェ(ハイドリヒ暗殺の報復として地図から消された村)以外は誰でも聞いたことがあるだろうと思う。

そして、これらの話の中で、南京やアウシュヴィッツ、リディツェについては拙ブログでも映画や本と絡めて書いたことがある。

南京関係は:
清水潔「『南京事件』を調査せよ」
南京事件個人的論争顛末記 笑)
笠原十九司「南京事件論争史」

アウシュヴィッツは:
ギッタ・セレニー「人間の暗闇」など(完全ネタバレ)
映画「否定と肯定」
映画「サウルの息子」

リディツェは:
ローラン・ビネ「HHhH」
映画「ハイドリヒを撃て」

だけど、読んでいてめまいがするほどの怒りを感じたのは沖縄の章だった。米軍に投降した市民(乳幼児まで含む)を殺害した後、自らは米軍に投降して戦後を生き延びた指揮官たち。しかも、彼らは戦後になってインタビューを受けても全く反省の色を見せず、それどころか胸を張る。

鹿山正や、大江健三郎の裁判で有名になった赤松嘉次のインタビューの一部が再録されているが、怒りのあまり頭がクラクラした。アメリカ軍からの依頼で降伏を説得に来た女子供を即座に殺害したり、一家皆殺しした後、家に火を放ち、5歳や2歳の子供やもっと小さな乳児の殺害を「措置」と称して正しかったと言い張り、良心の呵責もないどころか、日本軍人として誇りを持つと言い放つ(p.210以下)。

先日ここにも書いた「日本鬼子(リーベンクイズ)」に出てきた皇軍兵士の老人たちも中国で同様のことをしたが、鹿山や赤松のように開き直りはしなかった。これだけでもこの両者には何か決定的な違いがある。

一方、シンガポールでもあるいは沖縄でも、シンドラーや杉原千畝、あるいは「戦場のピアニスト」に出てきたユダヤ人を救うホーゼンフェルトのような人が日本にもいたことが挙げられている。シンガポールで市民を救った篠崎護や、虐殺直前に市民たちを逃がした無名の日本兵の話がホッとさせられる。また沖縄ではひめゆりの少女たちに自決せず投降するよう命じた永岡敬淳大尉の名前が出ている(しかし、厄介なのはこういう人格者たちを持ち出して日本軍の蛮行の否定につなげようとする人がいることである)。

書かれているのはどれも凄まじい話だけど、この本ではそれぞれの事件の情景を描き、それぞれそのような非人間的なことが行い得た理由が語られている。でも結局は差別意識と想像力の欠如が大きい。敵は人間ではないという差別意識と、そこで死んでいく者たちのことを想像する力の欠如。そしてこの本でもう一つ強調されているのが、上官の命令という絶対的権威。命令だったから仕方がなかったのだ、という言い訳はアイヒマンもアウシュヴィッツの所長ヘスも言っていることだ。

この本では最後にドイツと日本が戦後になって市民の大量殺害とどう向き合ったかが書かれている。現在のドイツの軍人法には、「第二次世界大戦期における国防軍や親衛隊の「命令への絶対服従」がもたらした負の歴史への反省に基づき、上位者の命令を絶対的権威とは見なさない、つまり「無条件の絶対服従」を下位者に要求しない制度を用意している」(p. 268)そうである。兵士には「抗命権」があり、実際にそれが行使された実例も載っている。

仮に市民を殺すような命令に対して、兵士にはそれに従わない権利が保障されたというのは、逆に言えば、命令を下す方にとっても非倫理的な命令をためらわせる効果がある。

一方の自衛隊法は、「上位者は常に無謬であり、間違った命令を部下に下すことはないという、かつての日本軍と同様の「上位者無謬神話」に基づいて策定されている」(p.280)

まあ、軍隊など無くしてしまえば市民を大量虐殺もなくなると簡略化してしまいたいところだが、現在の日本ではこれは説得力がまるでないだろうな。そうであれば、この兵士に与えられた「抗命権」は、現代のこの世に存在する軍という組織が国際法に違反したり、個人の尊厳や良心の自由を侵害するような行為をしないようにするための歯止めに、かろうじて、なるのかもしれないと思う。


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薬師院仁志「ポピュリズム」覚書き

2019.08.27.23:29

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ものすごくわかりやすくて面白かった。

ポピュリズムっていう言葉は今世紀になってやたらとよく聞く言葉だけど、どうも意味がよくわからない言葉だった。よく言われていたのは、この本でも徹底的に批判されている橋下徹だろうけど、最近では山本太郎までポピュリストのレッテルが貼られる。でも、僕の印象ではポピュリズムというのは扇動によって「ザマアミロ」と悪意を掻き立てる、というものだったから、山本太郎をポピュリストというのはどうも違和感があった。そういうわけで、この言葉のもっと正確な定義を知りたかったのが、この本を読んだ理由だ。

しかし面白かった。いろいろとアフォリズムと言いたくなるような文が出てくる。例えば、「多くの人々の『本音』が汚れていくとき、ポピュリズムが台頭する」(p.18)とか、「ポピュリストによる民衆扇動は、まるでパンドラの箱を開けるように、誰もが心に抱える負の部分に火をつける」(p.64-5)なんて、僕のポピュリズムという言葉のイメージとドンピシャで一致する。

この本によれば、ポピュリズムの定義としては、反エリート・反エスタブリッシュメントであることが第一条件である。ポピュリストたちはまず自分たちが国を支配する一握りのエリートに対して反旗を翻す人民の代表者であると自己規定する。そして、自分たちを批判する学者やインテリたちは人民の敵なのである。厄介なことに、彼らは「批判を浴びれば浴びるほど、人民の敵たるエリート層との戦いを演出しやすくなる。自分を批判するものこそ、非エリートたる人民の敵だ」(p.92)とすればいいのだ。

続いて、ポピュリストたちは論理的な議論は放棄し、人々の感情に訴える。人々が誰でも「心に抱える負の部分に火をつける」(p.65)。「中身を持たないポピュリストたちは(。。。)他者を否定することによってしか自分を肯定することができない」(p.83)。だから「架空の敵を作り上げる」(p.73)が、実際にその敵が存在してなくても構わないのである。「メディアを駆使して敵の幻影を膨らませることに成功すれば十分」(p.73)なのである。しかも、扇動には「中身のない旗印 ー「改革」がその典型ー を掲げるのが最も好都合」(p.163)なのである。

つまり、「現代型ポピュリズムは、『人民vs人民の敵』という二元論と、『デマと民衆扇動の結合』という2つの特性を持つことになる」(p.79)。ポピュリストの「こうした扇動は、民意に迎合した支持者獲得というよりも、むしろ民意を誘惑する信者獲得に近いであろう」(p.83) 。

この本ではこうしたポピュリズムがはびこる原因として2つのことが強調される。1つは民主主義が多数決だと勘違いしている昨今の風潮である。つまり、代議制民主政治というのは、「全国民の縮図となるように代表者を選び、議会で熟議を尽くし、合意形成を図ること」(p.101)であるはずなのだ。ところが、ポピュリストは「選挙を、国民の代表を決める手続きではなく、国民からの権力移譲を正当化する儀式に掏り替える」(p.84) 。 本来「普通選挙は、代表者を選ぶ手続きであって、権力を委譲する人物を定める手段ではない」(p.102)はずなのに。

選挙は我々国民の中から代表者を選ぶ手続きなのだ。だからこそ、今回のれいわのふなごさんや木村さんという重度の障害者が選ばれたことの意義があるのだ。去年(2018年)の記事だが、障害ある人は人口の7.4%だそうである。障害といっても様々だからこの統計は乱暴といえば乱暴だが、それでも国会議員の数は700人強。その7%は50人近くになる。障害者の代表としてこの二人プラス国民民主の横沢議員をで3人というのは少なすぎると言えるだろう。

閑話休題。このように民主主義が多数決だと勘違いすれば、まっとうな議論など封殺され、「多数さえ押さえれば、『悪』に政治的正当性を付与(。。。)することが可能となる」(p.115)のである。ここから先はもう全体主義へまっしぐらだ。

もう1つ、ポピュリズムがはびこる原因としてあげられるのが、小泉の頃から盛んに言われ出した「小さな政府」というキーワードである。これまた勘違いされることが多い言葉だが、本来の「小さな政府」は(。。。)単に官や公に所属する人間の数が少ないことではない(。。。)小さな政府と人件費が安上がりな政府とを混同してはならない。小さな政府は自由放任を旨とするものであり、強い力を持たないのである。独裁者が強大な公権力を握り、国民を全面的に統治するような体制は、小さな政府などではない」(p.105)のである。

山本太郎が政権を取ったらすぐにやるとした8つの緊急政策の中に、「公務員を増やす」というものがある。ところがこれがすこぶる評判が悪い。リベラルな人たちの間でもこれにだけは反対だという人が多いが、先進国の中で比べれば、日本の公務員数の比率は極めて低いのである。比較的比率の低いドイツでも日本の2倍の比率の公務員がいる。アメリカで3倍弱、スウェーデンなんか4.6倍だ。そして日本の公務員の給与は逆に突出して高い。本来、公務員の給与は民間の給与の基準とされるべきはずだと思うのだが?

何れにしてもこの「小さな政府」という言葉は影響力が強く、そこには橋下が盛んにやった役人批判の影響も大きいのだろう。要するに「安上がりの政府をつくることが『民』を助けることであり、それが『民』主主義だと」(p.108)勘違いされ、それは極端な話、「一人の為政者が最小の政府」で、「独裁者への全権委任が最も安上がりだ」(p.108)となりかねないのである。

つまりポピュリズムから独裁や全体主義まで想像以上に近い。

この本では他にも「リベラル」という言葉が日本では完全に誤解されていることや、トランプやフランスの国民戦線の巧妙なアジテーション、あるいは世界で最も民主的だとされたワイマール憲法のもとでヒトラーが生まれたことなども説明されている。

とてもわかりやすいしガッテンいく解説で多くの人に読んでもらいたいと思った。何れにしても山本太郎を「ポピュリズム」というキーワードで語ることの間違いは理解でした。


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金子勝「平成経済 衰退の本質」

2019.06.22.01:41

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平成の30年間の日本経済の惨憺たる歴史を説明解説するとともに、華々しく打ち上げられたアベノミクスとやらを「出口のないネズミ講」として徹底的に批判した本。批判だけでなく、このポスト平成の経済活動はどうあるべきかの提言も最後に述べられるが、なんども書いてきたように僕は経済については全くの音痴である。だからこの本に書かれている細かい経済用語の多くが理解できていない。それでも平成の時代の日本経済というより日本社会の凋落ぶりはわかる。ある意味、僕が自転車ロードレースに興味を持ってきた30年、この年のツール・ド・フランスの優勝者は、と考えると、芋づる式に当時の自分の状況も思い出されてくる。

1986年の日米半導体協定から日本の産業の弱体化が始まる。その後のバブル崩壊からその後始末となる銀行の不良債権処理の失敗で、企業は経営破綻を避けるために借金の返済に努め、政府も企業に対する減税でこれを支援、借金返済後もこうした政策が続けられた結果、企業は利益剰余金(内部留保)を積み上げ、賃金抑制と雇用解体によって非正規雇用が増えて格差が拡大していったというストーリーは実感として理解できる。

そこに至る原因は単純明快だ。戦後の日本の無責任体質がすべての原因である。この無責任体質に乗って、バブル崩壊後も経営責任や監督責任は曖昧にされ、平成は「失われた30年」になった。

無責任体質どころか、戦犯が総理大臣になったのだ、この国は。天皇は我が身を守るために沖縄をアメリカに譲り渡し、原爆投下すら容認した。最高責任者が責任を取らなかったのだ、それより下の、若い人たちを無意味に死なせた戦争の責任者たちの多くが知らん顔を決め込んだのは当然である。

この無責任体質は「新自由主義」と親和性が高く、「すべては市場原理が決めると言う論理は、なにもしない「不作為の無責任」を正当化」(p.94)する。「責任を問われるべき経営者や監督官庁にとって、これほど都合の良い政策イデオロギーはなかった」(p.94-5)と言うわけである。

これまでも拙ブログで書いてきたように、僕は「自己責任」という言葉の胡散臭さをずっと書いてきた。本来責任を取るべき権力者たちが責任など取らず、一般庶民に自己責任を押し付ける。困っている人を見捨てるための便利な言葉だ。

「コンクリートから人へ」を謳った民主党政権も、その意味ではこの流れを止めることはできず、そこに東日本大震災とそれにまつわるフェイク情報が重ね合わされて、結局まともなことをほとんど実行できなかった。

第二次安倍政権になると「中韓に追い抜かれつつある国民の屈折した感情を、戦争責任を曖昧にする歴史修正主義で解消」(p.123)しようとすることで、人々の心の奥底にある差別意識を解放させて、いわば溜飲を下げさせて人気を得ようとした。

同時に途上国の独裁政権ではないのか?と思える仲間内の優遇や不正の数々(森友、加計、南スーダン日報、データ隠しに基づく「高度プロフェッショナル」制度、勤労統計などの統計不正、閣僚のスキャンダル)。「安倍政権は税金を集め、その税を使って支出して国民を統合するという、まっとうな政治の基盤を徹底的に壊してきた」(p.128)のである。

安倍政権になってから法人税減税による減収は5.2兆円で、その結果は企業は内部留保を積み上げ、企業同士が受け取る配当収入を増やしただけだそうだ。

先日の共産党の小池晃の、「大企業に対する法人税を中小企業並みにすれば4兆円、株で儲けた富裕層に対する所得税をまともなものにするだけで3兆円がでてくる」というのを聞けば、安倍がやっていることは、国体(=天皇)が守られさえすれば、国民は死滅してもいいと考えていた大日本帝国と変わりはない。実際、この本が出た後に起きたことだからここには書かれていないが、年金は当てにするな、自己責任で老後のために2000万貯めろというのなど、国のあり方として絶対に許されるものではない。

さらに原発にしがみつき、世界的なエネルギー転換から置いてきぼりを食らっているとともに、再生エネルギーをめぐる新たな産業の芽を摘んでいる。そもそも生活保護の給付金を減らすことには賛成する人たちは、その額とは比べ物にならない「もんじゅ」や六ヶ所再処理工場での無駄遣いを何故怒らないのだろう?

それにもかかわらず、安倍政権は潰れない。多くの人たちが安倍政権を積極的に支持しているわけではなく、他に支持できるものがないからという消極的な理由であることは世論調査などからもはっきりしているのだが、それを支えているのが、安倍政権のポピュリズム、つまり「人々を煽る扇動型ではなく、人々を諦めさせる黙従型」(p.136)のポピュリズム(=衆愚政治)であるという。

要するに公文書やデータを改竄して失敗をごまかし、政治家がいくら不正を行っても謝罪会見だけして居座り続け、沖縄の民意を無視して工事を強行し、まともに審議もしないで強行採決で欠陥法案を採決していけば、人々の間に「またか」という気分が蔓延し、それに慣らされていく。「諦めとニヒリズム」だけが引き出され、人々を政治から遠ざける。投票率が低い選挙なら組織票がある党が勝つのはわかりきったこと。前にも書いたが、この政権はめちゃくちゃをやって国民に呆れられれば、それだけ安泰になるのである。

そしてアベノミクスという「出口のないネズミ講」は、「我が亡き後に洪水よ来たれ」という究極の無責任体制である。

この本には最後に(1)社会基盤として透明で公正なルール、(2)教育機会の平等、(3)開発独裁国家のような「縁故資本主義」をやめて、新しく伸びている産業(情報通信やバイオ医療やエネルギー転換)を念頭に置いた「成長戦略」、(4)電力会社の解体、(5)地域分散ネットワークシステムへの転換、(6)財政金融機能の回復が提言されている。これらすべてが現在の悲惨な日本社会にとって本当に救いになるのかどうかは、専門家ならぬ僕にはわからないけど、(1)や(2)、(5)などは普通に納得できるものだ。

僕が理想だと思っている拙ブログのモットーのような、「社会は強い者がより強くなるようなためにあるのではない」という社会、それは、たとえ今すぐに安倍政権が潰えたとしても、かなり時間がかかることなんだろう。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとしてゴミ箱に入れられることがあるようです。承認待ちが表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す(22年3月2日更新)

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