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山本太郎「僕にもできた!国会議員」

2019.10.15.18:47



この本、最初図書館で借りて読み、カンパのつもりで改めて購入することにしました。僕は「本物」を嗅ぎつける鼻は比較的良いと思っている。そんな僕が言うぞ! 笑)

山本太郎、これは本物だ。

この本は雨宮処凛がインタビュアーになったり説明を書いたりして、議員になった山本太郎がどのような法案づくりに関与したか、それによって世の中がどう変わったかを説明してくれる。どこかの講演で、一人で何ができるか?と問われた山本は一人でできることは限られているからみんなの力を貸して欲しいと言っていたが、その一人でもできた、限られたことが、この本ではいくつも挙げられている。

例えば西日本豪雨の際の被災地への小型重機100台、女性活躍推進法の付帯決議へのDV・ストーカー問題追加、生活保護世帯の子どものための制度変更、野宿者支援、入国管理局の外国人支援。。。

これを見てもわかるように、「彼が寄り添ってきたのは、被災者やDV被害女性、生活保護世帯の子ども、野宿者、外国人といった「最も弱い立場に置かれた」人々だ。声を上げられない、あげても掬い上げてもらえない確率が高い人々だ。」(p.62) 自分の票にはなりそうもない人々たちへの支援だ。

そしてこう言う。「僕が目指す社会は、究極は、頑張らなくても生きていける世の中です。(。。。)余裕が欲しい。
 何をもって頑張るかは個人差があるので、それを測るのは難しい。でも、頑張れない時に頑張ってもロクなことがないから、ゆっくり休んで、それを国が支えて、そろそろ力が湧いてきたという時に頑張ってもらう方が、ずっと生産性は高いですよ。だって、無理しても壊れるだけだもん。
 だから、「いいよ、頑張らなくても」という世の中になればどんだけいいか。今はあまりにも地獄すぎると思うんです(152)

これって拙ブログのモットーに挙げている八尋光秀さんの言葉と完全に一致するだろう。なんども繰り返してきたけど、どうして日本はこんなに弱肉強食みたいな社会になってしまっただろう? みんなが「自己責任」とか言う言葉に乗せられて、生活保護世帯やホームレスを叩くような下劣な国になってしまったんだろう? 小泉の規制緩和とやらで「自助」「共助」ばかりが強調されて「公助」と言う視点が消えてしまった。しかし国ってなんのためにあるんだ? 人のためにあるんじゃないのか? 

いいんだ、俺は普通に頑張ってきたから普通に生活できている、頑張れば誰だってなんとかなるんだ、と言う人もたくさんいるんだろう。でなければこんな社会が続くはずはない。でも、そう言う人だって、本当はこの先どうなるかわからないではないか。

さらに、経済のことはよくわからないけど、最近では保守陣営にすら、山本太郎が言っていることは間違っていない、消費税は0%にできるし奨学金チャラも可能であると認める人も出てきたと言う。財政難なんだから消費税は必要とか、これからの少子高齢化の時代に消費税で社会保障をしっかりやってもらわなくちゃ、と言う人は見事に政府が流すデマに乗せられている。詳しくはYouTubeで山本太郎が言っていることを聞いてもらえばわかるけど。

と言うわけで、山本太郎に大きな期待をかけている人は多い。でもこれもずっと昔ここに書いたことだけど、ヒーローを待っていても、世界は変わらないんだよね。http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-1100.html

この本でも山本太郎の友人で災害支援団体の人がこう言っている。

太郎にお願いだけじゃダメじゃない。そうじゃなくて、太郎、一緒にやっていこうぜって人をどう増やしていくか。太郎一人がカリスマになるんじゃ変わらないもん。太郎もそれを望んでないと思うし。(28)

こういうことなんだと思う。そして、政治を変えても社会は良くならないと思っている人たちには、ここまでの政治の失敗が今のこのような殺伐とした社会を作ったのだから、政治を変えることで良い社会にすることも可能だ、と言う山本太郎の言葉を紹介しておく。

おまけ

昨日(10月14日)の東京新聞で、魚住昭というノンフィクションライターが山本太郎のことを一種のポピュリズムだから「ヒュット極右政党に変わってしまうかもしれない危うさがある。ウオッチが必要だと感じる」と言っていたが、トンチンカンも極まれりだ。何か山本太郎に乗ることを軽薄だと思っているリベラル(=反安倍・反自民=サヨク)も多いようだ。その際の決まり文句は「ポピュリズム」だ。

ポピュリズムについては拙ブログでも、薬師院仁志の本を紹介したのでそちらをどうぞ。
薬師院仁志「ポピュリズム」覚書き

しかし、こんなユルフン【この言葉の意味、今の人たちわかりますかねぇ 苦笑】な言葉でわかったようなことを言わないでほしいね。この人も普段の発言はリベラルな方だと思うが、どうして山本太郎が極右政党に変わる? 山本太郎の何を見てるんだろう?? ちょっと呆れ返った。


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薬師院仁志「ポピュリズム」覚書き

2019.08.27.23:29

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ものすごくわかりやすくて面白かった。

ポピュリズムっていう言葉は今世紀になってやたらとよく聞く言葉だけど、どうも意味がよくわからない言葉だった。よく言われていたのは、この本でも徹底的に批判されている橋下徹だろうけど、最近では山本太郎までポピュリストのレッテルが貼られる。でも、僕の印象ではポピュリズムというのは扇動によって「ザマアミロ」と悪意を掻き立てる、というものだったから、山本太郎をポピュリストというのはどうも違和感があった。そういうわけで、この言葉のもっと正確な定義を知りたかったのが、この本を読んだ理由だ。

しかし面白かった。いろいろとアフォリズムと言いたくなるような文が出てくる。例えば、「多くの人々の『本音』が汚れていくとき、ポピュリズムが台頭する」(p.18)とか、「ポピュリストによる民衆扇動は、まるでパンドラの箱を開けるように、誰もが心に抱える負の部分に火をつける」(p.64-5)なんて、僕のポピュリズムという言葉のイメージとドンピシャで一致する。

この本によれば、ポピュリズムの定義としては、反エリート・反エスタブリッシュメントであることが第一条件である。ポピュリストたちはまず自分たちが国を支配する一握りのエリートに対して反旗を翻す人民の代表者であると自己規定する。そして、自分たちを批判する学者やインテリたちは人民の敵なのである。厄介なことに、彼らは「批判を浴びれば浴びるほど、人民の敵たるエリート層との戦いを演出しやすくなる。自分を批判するものこそ、非エリートたる人民の敵だ」(p.92)とすればいいのだ。

続いて、ポピュリストたちは論理的な議論は放棄し、人々の感情に訴える。人々が誰でも「心に抱える負の部分に火をつける」(p.65)。「中身を持たないポピュリストたちは(。。。)他者を否定することによってしか自分を肯定することができない」(p.83)。だから「架空の敵を作り上げる」(p.73)が、実際にその敵が存在してなくても構わないのである。「メディアを駆使して敵の幻影を膨らませることに成功すれば十分」(p.73)なのである。しかも、扇動には「中身のない旗印 ー「改革」がその典型ー を掲げるのが最も好都合」(p.163)なのである。

つまり、「現代型ポピュリズムは、『人民vs人民の敵』という二元論と、『デマと民衆扇動の結合』という2つの特性を持つことになる」(p.79)。ポピュリストの「こうした扇動は、民意に迎合した支持者獲得というよりも、むしろ民意を誘惑する信者獲得に近いであろう」(p.83) 。

この本ではこうしたポピュリズムがはびこる原因として2つのことが強調される。1つは民主主義が多数決だと勘違いしている昨今の風潮である。つまり、代議制民主政治というのは、「全国民の縮図となるように代表者を選び、議会で熟議を尽くし、合意形成を図ること」(p.101)であるはずなのだ。ところが、ポピュリストは「選挙を、国民の代表を決める手続きではなく、国民からの権力移譲を正当化する儀式に掏り替える」(p.84) 。 本来「普通選挙は、代表者を選ぶ手続きであって、権力を委譲する人物を定める手段ではない」(p.102)はずなのに。

選挙は我々国民の中から代表者を選ぶ手続きなのだ。だからこそ、今回のれいわのふなごさんや木村さんという重度の障害者が選ばれたことの意義があるのだ。去年(2018年)の記事だが、障害ある人は人口の7.4%だそうである。障害といっても様々だからこの統計は乱暴といえば乱暴だが、それでも国会議員の数は700人強。その7%は50人近くになる。障害者の代表としてこの二人プラス国民民主の横沢議員をで3人というのは少なすぎると言えるだろう。

閑話休題。このように民主主義が多数決だと勘違いすれば、まっとうな議論など封殺され、「多数さえ押さえれば、『悪』に政治的正当性を付与(。。。)することが可能となる」(p.115)のである。ここから先はもう全体主義へまっしぐらだ。

もう1つ、ポピュリズムがはびこる原因としてあげられるのが、小泉の頃から盛んに言われ出した「小さな政府」というキーワードである。これまた勘違いされることが多い言葉だが、本来の「小さな政府」は(。。。)単に官や公に所属する人間の数が少ないことではない(。。。)小さな政府と人件費が安上がりな政府とを混同してはならない。小さな政府は自由放任を旨とするものであり、強い力を持たないのである。独裁者が強大な公権力を握り、国民を全面的に統治するような体制は、小さな政府などではない」(p.105)のである。

山本太郎が政権を取ったらすぐにやるとした8つの緊急政策の中に、「公務員を増やす」というものがある。ところがこれがすこぶる評判が悪い。リベラルな人たちの間でもこれにだけは反対だという人が多いが、先進国の中で比べれば、日本の公務員数の比率は極めて低いのである。比較的比率の低いドイツでも日本の2倍の比率の公務員がいる。アメリカで3倍弱、スウェーデンなんか4.6倍だ。そして日本の公務員の給与は逆に突出して高い。本来、公務員の給与は民間の給与の基準とされるべきはずだと思うのだが?

何れにしてもこの「小さな政府」という言葉は影響力が強く、そこには橋下が盛んにやった役人批判の影響も大きいのだろう。要するに「安上がりの政府をつくることが『民』を助けることであり、それが『民』主主義だと」(p.108)勘違いされ、それは極端な話、「一人の為政者が最小の政府」で、「独裁者への全権委任が最も安上がりだ」(p.108)となりかねないのである。

つまりポピュリズムから独裁や全体主義まで想像以上に近い。

この本では他にも「リベラル」という言葉が日本では完全に誤解されていることや、トランプやフランスの国民戦線の巧妙なアジテーション、あるいは世界で最も民主的だとされたワイマール憲法のもとでヒトラーが生まれたことなども説明されている。

とてもわかりやすいしガッテンいく解説で多くの人に読んでもらいたいと思った。何れにしても山本太郎を「ポピュリズム」というキーワードで語ることの間違いは理解でした。


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金子勝「平成経済 衰退の本質」

2019.06.22.01:41

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平成の30年間の日本経済の惨憺たる歴史を説明解説するとともに、華々しく打ち上げられたアベノミクスとやらを「出口のないネズミ講」として徹底的に批判した本。批判だけでなく、このポスト平成の経済活動はどうあるべきかの提言も最後に述べられるが、なんども書いてきたように僕は経済については全くの音痴である。だからこの本に書かれている細かい経済用語の多くが理解できていない。それでも平成の時代の日本経済というより日本社会の凋落ぶりはわかる。ある意味、僕が自転車ロードレースに興味を持ってきた30年、この年のツール・ド・フランスの優勝者は、と考えると、芋づる式に当時の自分の状況も思い出されてくる。

1986年の日米半導体協定から日本の産業の弱体化が始まる。その後のバブル崩壊からその後始末となる銀行の不良債権処理の失敗で、企業は経営破綻を避けるために借金の返済に努め、政府も企業に対する減税でこれを支援、借金返済後もこうした政策が続けられた結果、企業は利益剰余金(内部留保)を積み上げ、賃金抑制と雇用解体によって非正規雇用が増えて格差が拡大していったというストーリーは実感として理解できる。

そこに至る原因は単純明快だ。戦後の日本の無責任体質がすべての原因である。この無責任体質に乗って、バブル崩壊後も経営責任や監督責任は曖昧にされ、平成は「失われた30年」になった。

無責任体質どころか、戦犯が総理大臣になったのだ、この国は。天皇は我が身を守るために沖縄をアメリカに譲り渡し、原爆投下すら容認した。最高責任者が責任を取らなかったのだ、それより下の、若い人たちを無意味に死なせた戦争の責任者たちの多くが知らん顔を決め込んだのは当然である。

この無責任体質は「新自由主義」と親和性が高く、「すべては市場原理が決めると言う論理は、なにもしない「不作為の無責任」を正当化」(p.94)する。「責任を問われるべき経営者や監督官庁にとって、これほど都合の良い政策イデオロギーはなかった」(p.94-5)と言うわけである。

これまでも拙ブログで書いてきたように、僕は「自己責任」という言葉の胡散臭さをずっと書いてきた。本来責任を取るべき権力者たちが責任など取らず、一般庶民に自己責任を押し付ける。困っている人を見捨てるための便利な言葉だ。

「コンクリートから人へ」を謳った民主党政権も、その意味ではこの流れを止めることはできず、そこに東日本大震災とそれにまつわるフェイク情報が重ね合わされて、結局まともなことをほとんど実行できなかった。

第二次安倍政権になると「中韓に追い抜かれつつある国民の屈折した感情を、戦争責任を曖昧にする歴史修正主義で解消」(p.123)しようとすることで、人々の心の奥底にある差別意識を解放させて、いわば溜飲を下げさせて人気を得ようとした。

同時に途上国の独裁政権ではないのか?と思える仲間内の優遇や不正の数々(森友、加計、南スーダン日報、データ隠しに基づく「高度プロフェッショナル」制度、勤労統計などの統計不正、閣僚のスキャンダル)。「安倍政権は税金を集め、その税を使って支出して国民を統合するという、まっとうな政治の基盤を徹底的に壊してきた」(p.128)のである。

安倍政権になってから法人税減税による減収は5.2兆円で、その結果は企業は内部留保を積み上げ、企業同士が受け取る配当収入を増やしただけだそうだ。

先日の共産党の小池晃の、「大企業に対する法人税を中小企業並みにすれば4兆円、株で儲けた富裕層に対する所得税をまともなものにするだけで3兆円がでてくる」というのを聞けば、安倍がやっていることは、国体(=天皇)が守られさえすれば、国民は死滅してもいいと考えていた大日本帝国と変わりはない。実際、この本が出た後に起きたことだからここには書かれていないが、年金は当てにするな、自己責任で老後のために2000万貯めろというのなど、国のあり方として絶対に許されるものではない。

さらに原発にしがみつき、世界的なエネルギー転換から置いてきぼりを食らっているとともに、再生エネルギーをめぐる新たな産業の芽を摘んでいる。そもそも生活保護の給付金を減らすことには賛成する人たちは、その額とは比べ物にならない「もんじゅ」や六ヶ所再処理工場での無駄遣いを何故怒らないのだろう?

それにもかかわらず、安倍政権は潰れない。多くの人たちが安倍政権を積極的に支持しているわけではなく、他に支持できるものがないからという消極的な理由であることは世論調査などからもはっきりしているのだが、それを支えているのが、安倍政権のポピュリズム、つまり「人々を煽る扇動型ではなく、人々を諦めさせる黙従型」(p.136)のポピュリズム(=衆愚政治)であるという。

要するに公文書やデータを改竄して失敗をごまかし、政治家がいくら不正を行っても謝罪会見だけして居座り続け、沖縄の民意を無視して工事を強行し、まともに審議もしないで強行採決で欠陥法案を採決していけば、人々の間に「またか」という気分が蔓延し、それに慣らされていく。「諦めとニヒリズム」だけが引き出され、人々を政治から遠ざける。投票率が低い選挙なら組織票がある党が勝つのはわかりきったこと。前にも書いたが、この政権はめちゃくちゃをやって国民に呆れられれば、それだけ安泰になるのである。

そしてアベノミクスという「出口のないネズミ講」は、「我が亡き後に洪水よ来たれ」という究極の無責任体制である。

この本には最後に(1)社会基盤として透明で公正なルール、(2)教育機会の平等、(3)開発独裁国家のような「縁故資本主義」をやめて、新しく伸びている産業(情報通信やバイオ医療やエネルギー転換)を念頭に置いた「成長戦略」、(4)電力会社の解体、(5)地域分散ネットワークシステムへの転換、(6)財政金融機能の回復が提言されている。これらすべてが現在の悲惨な日本社会にとって本当に救いになるのかどうかは、専門家ならぬ僕にはわからないけど、(1)や(2)、(5)などは普通に納得できるものだ。

僕が理想だと思っている拙ブログのモットーのような、「社会は強い者がより強くなるようなためにあるのではない」という社会、それは、たとえ今すぐに安倍政権が潰えたとしても、かなり時間がかかることなんだろう。


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金子文子「何が私をこうさせたか」覚書き

2019.04.13.22:47

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先日紹介した映画「金子文子と朴烈(パク・ヨル)」で、意地悪な看守が、金子文子が書いた獄中手記を読んで徐々に二人に同情するかのように態度を軟化させ、最後はひっそりと彼らの裁判の傍聴までするというエピソードが挟まれていた。僕としては、この看守役のあごひげの、いかにも高圧的な官憲らしい顔と、その後の何か感じるところがあるかのような顔にとても心打たれた。

その獄中手記を読んでみたいと思って、図書館で予約したら、映画のせいもあったのか、2人待ちだった。で、読んだ。なるほど、ものすごい話だった。この本は、映画でも彼らに同情的な検事として出てきた立松懐清の勧めに従って幼い頃からの生い立ちを書いたものだけど、よくもまあ、こんな人生を送ってきた22、3の娘が、これほどまでに立派な文章を書けることに、まずびっくりする。

父と母は金子文子の出生届を出していない。そして父は母の妹と駆け落ちする。残された母の方も、次々と男を変える。しかし何れにしても呆れるような貧乏暮らし。文子は無籍者ゆえに学校にも行けない。朝鮮の祖母と叔母の元に預けられると、もうほとんどグリム童話の継母か魔女のお婆さんにいぢめられる娘状態。まあ凄まじい。

さらに日本に戻ってきてからもろくな目に合わないで、露店で粉石鹸を売るところなどアンデルセン童話のマッチ売りの少女を連想して、胸ひしがれる思い。キリスト教に救いを求めたり、社会主義者たちに希望をつないだりするけど、どちらも欺瞞を感じて幻滅する。

そうしたことが実に表現力の豊かな言葉で語られるのだが、その文才に本当に驚かされる。ものすごく頭の良い人だったのだろう。ただ、朴烈というアナーキストに惚れた彼女が、アナーキズムについてもっと雄弁に語るかと思ったのだが、それはほとんどない。

朝鮮時代を回顧して「朝鮮にいる時私は、自分と犬とをいつも結びつけて考えていた。犬と自分とは同じように虐げられ同じように苦しめられる最も哀れな同胞(きょうだい)かなんかのように感じていた」(214)と書くのだが、これがのちに朴烈の「犬ころ」という詩に感動することに繋がるのかもしれない。

朝鮮時代、一度は死のうとしながら、世の中には愛すべきもの、美しいものがたくさんあると感じて死ぬのをやめた彼女が結局刑務所内で自殺してしまうのは、ひょっとしてこの手記を書いたことで自分の存在証明を全うしたと思ったからではないか、そんな気がする。


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吉村仁「強い者は生き残れない」

2019.04.07.16:17

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副題は「環境から考える新しい進化論」。すでに10年前の本なので、進化というのが強い者が生き残ってきたわけではないというのはもう一般的になっていると思う。なのに、21世紀に入り、ナチスとともに滅んだと思われた社会ダーウィニズムが復活したような感じだ。生存競争は「競争」である以上強い者が勝つと考える弱肉強食の世界。それを是とする経済活動。弱い者が困窮するのは自己責任だと言われ、それで納得させられてしまう社会。勝てば官軍、勝つためには倫理意識など吹っ飛ばしてなんでもあり。

だけど、ちょっと冷静になって考えれば、このまま行けば人類は滅ぶのではないかと感じる人もいることだろう。僕もそう考える一人だ。

この本は地球40億年の生命の歴史をバックに、環境変動のリスクを避ける様々な生物の生存戦略の例をあげながら、生物が環境の変化にどのように対処して生き残ろうとしているかを解説する。環境変動はダーウィンの自然選択説には取り込めていなかった要因だそうである。そして生き残っているのは「強い者」ではなく、環境の変動に対して共同で協力しあった者だと主張する。それを様々な生物の世界を例にし、「共生する者」が進化すると結論づける。当然の帰結として最終章での現在の新自由主義的な社会に対する批判は手厳しい。

同時に北欧の社会民主主義に一つの可能性を見ている点で、僕としてはとても嬉しい。「国民に対する社会保障が厚く、日米の格差社会が生むような、困窮する階層がない。誰も生活苦に見舞われないような社会を維持するために、自由競争をある程度制限し、高い税金を貸して、福祉・環境・医療などの社会保障を充実させている。これらの国々の制度は、協力体制の進化という点では重要で、人類の将来のあるべき方向の一つの可能性を示していると思う。」(p. 209)

生物の40億年に渡る歴史は大量絶滅の歴史だ。一番直近なのが6500万年前の恐竜が絶滅した隕石の衝突とされるけど、過去わかっているだけでも5回の大量絶滅があった。そして現在人類が環境に圧力をかけたことにより生物の大量絶滅の6回目が進行中である。人類だってこのままいつまでも安泰ではないだろう。「社会の中で、ある生物がどんなに相対的に有利になったとしても社会全体が崩壊してしまっては、元も子もない」(p.220〜1)のである。

前にも書いたけど、僕はこのところよく、2〜3万年前のネアンデルタール人の絶滅のことを考える。最後のネアンデルタール人はジブラルタル海峡の洞窟で海を見ながら死滅したと言われる。なんて寂しい風景だろう。現生人類だって、近い将来、そういう日がやってくるのだろう。しかし、それを少しでも遅らせようとするのが僕らの考えるべきことではないだろうか? 共生社会はどうやればできるのだろう?



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斎藤美奈子「日本の同時代小説」

2019.04.02.00:07

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先ほど読み終わったところだけど、いやあ、むちゃくちゃ面白かった。時代と小説の繋げ方、切り取り方に感心した。

僕よりも少し前の世代だと、文学というのは男子がおのれの一生をかけて悔いなきもの、たとえ人生を棒に振ったとしてもそれだけの価値があるもの、というイメージは素朴に信じられてたはずだ。それを称して斎藤美奈子は「ヘタレ知識人」や「ヤワなインテリ」の貧乏自慢、タワケ自慢、恥自慢と一喝、昭和初期の私小説とプロレタリア文学もどちらもこの傾向があると喝破する。斎藤美奈子は僕と同じ年。だけどこんな表現、絶対男には思いつかない。これって変な意味ではなく、女性だからこそ見抜けたんじゃないかなぁ? 

1960年代から10年ごとに区切って2010年代(2018年)までの社会的な背景をからめながら、その時代の主流となった文学的傾向が実にうまくまとめられている。伝統的な「私小説」と「プロレタリア小説」という括りが現在にまで姿かたちを変えて連綿と続いていることを明らかにする見立ても痛快。私小説が郷ひろみに繋がってっちゃうのなんか、怒る人もいるかもしれない 笑) それ以外にも、あまた出てくる「決めの言葉」に笑わされる。

例えば、平野啓一郎の西洋中世を舞台にした「日蝕」を「コスプレ」と称しているのは大笑いした。あるいは村上龍を「破壊派」、村上春樹は「幻想派」、中上健次は「土着派」なんて言う。個人的に記憶に残る小説が出てこなかったりすると残念だけど(例えば僕としては在日韓国・朝鮮人作家たち)、切り取り方だから致し方ないだろうし、きっと文学史的な意味での名作はほぼ網羅されているんだろうと思う。

あちこちに赤ペンでラインを引き、紹介されている小説で面白そうなものがあると付箋を貼って、実に楽しい読書体験だった。こうして時代ごとに分けて説明されると、自分がかなり偏った読書をしていることもわかった。60〜80年代の小説に比べて、90〜2000年代の小説は読んだことがあるものがぐっと減って、2010年代の小説になると読んだことがあるものが再び増えた。60〜80年代や2010年代だと読んでなくても名前ぐらいは知っているものが多いのに対して、90〜2000年代は題名を全く聞いたことがないものがかなりあった。個人的にこの頃は日本の小説にあまり興味を持ててなかったんだな、と得心した次第。

しかし1960年以後の小説をこうして俯瞰的に見直すと、21世紀に入って新自由主義とやらで弱肉強食化した日本の社会がどんどんひどくなっていることが実感される。何しろ戦争と格差社会とディストピアが21世紀になってからのキーワードとされているぐらいだから、20世紀はいろんな悩み苦しみがあったとしても、のどかな時代だったんだな、と思えてくる。

読んだことがある小説が紹介されていると嬉しいけど、紹介の仕方がうまいので、読んだことがないものは読みたくなるし、何よりその時代とのつながりが実にうまく説明されていて、その説明の仕方が何しろ面白いし、読んだことがあるなしに関わらず、文学は時代を映すんだということを実感させてくれる、素晴らしい本だと思う。

最後に斎藤美奈子は日本の同時代小説の未来の可能性を暗示していますが、さて、それはどんなでしょう? 

(加筆訂正しました。4/2、16:20)


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相澤冬樹「安倍官邸 vs NHK」

2019.03.05.09:36

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副題は「森友事件をスクープした私が辞めた理由」であるだけに、森友事件を振り返り、何が本当の問題なのかを確認するのには最適の本。著者は元NHKの記者で、しかもご本人曰く「真正右翼」。その「右翼記者」ですら、現在の安倍忖度行政と安倍忖度NHKに呆れているわけで、安倍を支持することで何か右翼思想的なものがあるかのように気取っているネトウヨ連中も少しはモノを考えろよな、と言いたくなる。

森友事件というと、あの籠池理事長とその夫人のオモシロさに目をくらまされてしまって、この事件の本質を見失いがちだ。しかも検察も籠池夫妻を詐欺で捕まえて長期勾留して、完全に本筋から目をそらせようとした。しかし、著者はこの事件の1番の問題点は次の二点だと強調する。

(1)基準を満たすのか疑問のある小学校がなぜ「認可適当」とされたのか
(2)なぜ国有地が大幅に値引きされて売却されたのか

(1)は認可権限のある大阪府の失態であり(2)は格安で売却した国の失態である。つまり森友事件とは行政の不正問題なのである。

(1)の問題は当初「認可保留」となりながらわずか一ヶ月後に臨時審議会が開かれて一転「認可適当」となった。認可権限があった大阪府はトップが大阪維新の会で、なんちゃって野党で実は安倍応援団別働隊であることはご存知の通り。

(2)の問題は約9.5億の国有地(=国民の財産)が1.3億で売却された。8億以上の値引きだ。近畿財務局と財務省官僚らの背任行為である。しかも、この値引き、森友側から8億値引きしてくれと言い出したわけではなかった!! 常識で考えれば、森友の籠池理事長が安倍かその嫁の名前を出して行政を脅したと思うだろう。ところが、なんと!! 実際は森友側ではなく、近畿財務局の方から森友に、いくらなら出せるか聞き出していたというのである。しかもそこで言われた上限額(1.6億)以下で国有地(繰り返すが国民の財産だ)が森友に売られたのである。

しかもその際の公文書をのちに改ざんする。のちにというのは、安倍が国会で自分なり嫁なりが関与してたら議員を辞めると見栄を切った直後だ。そしてこれによって改ざんさせられた職員が一人自殺していることも忘れてはならない。

責任を問われることを何より嫌う役所(行政)が自ら率先してそんなことをするはずがない。そこにあったのは忖度か、それとも安倍の脅しかどちらかだろう。現に安倍はかつてNHKの放送局長に「ただでは済まないぞ、勘ぐれ!」と恫喝した過去があるのだ。常識で考えれば、行政機関が安倍に忖度したのではない、安倍が行政に忖度させたのだ! 

さらに問題はそこで止まらない。NHKでの報道に上層部から様々な横槍が入る。報道局幹部の中にはなんとかこれらの特ダネの価値を骨抜きにしようとしている人たちがいるというのである。

そして司法でも大阪特捜部は「過去に無理やりの起訴を繰り返してきた」くせに「今回に限って無理やりの不起訴で証拠を闇に葬っ」(p.282)て、その後不起訴を決定した特捜部長は栄転した。嘘つきまくって公文書は捨てたとほざき、覚えてないと言い張った理財局長の佐川も、安倍の嫁の秘書だかの女性も、加計問題での秘書官の柳瀬も、ほとぼり済んだらみんな栄転 苦笑)

これだけわかりやすいことをされても怒らない日本人ってすごいね。そのくせ生活保護受給者は思いっきりバッシングする日本人ってほんま怖いわぁ。

いや、安倍政権による日本の闇の一端がわかる本である。無論、報道の裏側でどんな駆け引きがなされているかという話も面白いのは言うまでもないが。


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青山透子「日航123便墜落 遺物は真相を語る」

2019.02.27.09:41

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拙ブログでも紹介した前作の「日航123便 墜落の新事実」の後に読むこと。前作ではまだこれほど断定的ではなかったように感じた。様々な目撃情報や状況証拠を積み重ねてある推定に向かっていくような感じだった。それが今回は完全にはっきりと、かなり断定しているように読める。怒りのパワーも前作よりかなり強い。前作発表後に「陰謀論」だとかなり叩かれたこともこの怒りの原因だろうが、それとともに、安倍政権になってから繰り返される公文書の隠蔽捏造破棄の数々が著者の怒りを倍増させているせいもあるのだろう。実際、当時の運輸省は関連資料をおよそ1トン分も破棄しているそうであるし、ボイスレコーダー・フライトレコーダーの完全な公開も行われていないそうである。

今回の本は前回が目撃情報と状況証拠だったのに対して、遺体を検死した医者たちの聞き取りや、群馬医師会報告に基づいた遺体の統計、それに何より飛行機の残骸を科学分析した結果という証拠も出てきて、前回の推定がそれ以上の説得力を持って伝わってくる。何より著者の思いの強さに(特に後半に行けば行くほど)圧倒される。

要するに、日航123便は国産の巡航ミサイルの洋上実験中に突発事故により垂直尾翼を破壊され、コントロール不能になって迷走を続けながら墜落し、その証拠を隠蔽するために自衛隊が火炎放射器で遺体が炭化するほど焼いたということだ。だけど、もっと恐ろしいシナリオも暗示されている。垂直尾翼を破壊された後迷走を続けるジャンボを自衛隊のファントム2機が追跡し、証拠隠滅のためにミサイルで撃墜し、その隠滅の仕上げに生存者も含めて遺体を火炎放射器で焼却したというものだ。

さすがに後者はにわかには信じられない(信じたくない)けど、オレンジの小さな飛行物体が航跡を残しながらジャンボを追尾していたという目撃談はどう解釈すればいいのかわからない。尾翼を破壊したものとは別のミサイルがジャンボを追尾していたということだとすれば、これをどう考えればいいのだろう? それともファントムはミサイルを阻止するために飛んでいたのだろうか? 

何れにしてもミサイルで垂直尾翼を破壊され、墜落後に火炎放射器で証拠隠滅されたというのは、前作の目撃情報だけだとまだ可能性があるというレベルだったかもしれない。だけど、今作では上記のように、当時の医師たちの聞き取りや遺体の状況の統計(3分の1が飛行燃料の燃焼によってでは考えられない=ありえないほどに炭化していた)、それに飛行機の残骸を科学分析した結果を駆使していて、信ぴょう性はいよいよ高まった。

ただ一つだけ、どうしても腑に落ちないのは、もし仮に、というよりもまず間違い無いのだろうが、火炎放射器で遺体(まさか生存者まで焼いたりしなかったと信じるが)を焼くなどというとんでもないことが、戦場の経験もない普通の自衛隊員(どれほど過酷な訓練を受けているとしても)においそれとできるものなのか? 南京虐殺事件の加担者たちも、戦後になって自らのやったことを告白しているわけだし、そうしたことに加担した自衛隊員の誰一人として内部告発する者が出ていないことが納得できない。著者もこの本の最後で、内部からこれを告発する者が出て欲しいと言っているように見える。

今後残された遺族の中から情報公開を求める訴訟が起こされる可能性が述べられているので、そこで是非ともここに書かれている疑問点をはっきりさせることができれば良いのだが。

***追記(2019, 2/27, 14:20)
この「事件」はネットで検索すると色々ヒットします。中にはこの本で書かれている以上に極端なものもたくさんあるようです。こういうのってあまりやりすぎると逆にトンデモっぽくなり、この本のためにもならないと思います。

同時に著者を売名だとか金儲けのためなどと罵倒するものもたくさんあります。まあ、金儲けったって東大大学院で博士号とった人がこんな辛い本を書いて金儲けを目論むはずないと思うけどね。


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「オウムと死刑」覚え書き

2019.02.14.12:26

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図書館で借りてきた本。去年の7月に行われた大量処刑の後、それぞれオウムのことを書いてきた作家やジャーナリストのインタビューやエッセイ、論考が載っている。さらに去年の夏にトークを聞いた被害者の永岡英子さんのインタビューも出ている。無論言わずもがなの森達也もいつもの森達也だ。

ここに書いている人たちの共通の認識は、加害者(オウム)を罰するのに加害者(オウム)の心性をもってこれをなした(p.8)という批判である。

星野智幸の言う、オウム内部で「大義のためなら殺していい、殺される人より大事なビジョンがあるのだ、という感性ができてい」て、それがオウム内部では常識化していた。つまり、「今回起こったのは、オウム社会内部のそういう価値観、常識が、外側である一般社会へ侵出したということ」であり、「社会の中に線引きをして、線の向こう側にいるものたちには価値がないとか(中略)存在しなくて良い、抹殺されたとしてもそれは自業自得だという、まさにオウム内部を支配していた感性」(p.142)を一般社会の人々が持っているという指摘、あるいは古川日出男の短いエッセイ「あの七月以降、僕たちはもう、全員オウムの信者だ」という題名がそれを表している。

あるいは奥村大介が言う「教義の上で、殺人をはじめとする行為への一種の合理性が確立されてしまえば、あとはそれを躊躇いなく、様々な技術的手段をも活用し、効率的に実行するばかりである」という文章。この後に奥村はナチスの優生思想から大量殺戮につながった例を挙げるが、無論、この文章は「死刑制度そのもの」をも含意しているのは間違いない。

今回、以前書いた「オウム事件真相究明の会シンポジウム」で野田医師が述べていた神奈川県警とオウムのつながりの話は出てこなかったが、村井刺殺事件や国松長官狙撃事件などを思い出し、何かオウムだけではないもっと深い闇があるだろうと思った。


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森達也の「虐殺のスイッチ」を読みながら

2018.12.22.12:57

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なんども言ってきたように、僕は森達也の大ファンだ。彼が書いている文章に違和感を感じたという記憶がないぐらい、彼の考えは僕の考えでもある。今回も読みながら、あれ?俺同じようなことを(表現はもっとお粗末だけど)以前このブログで書いたことがあるぞ、と思ったところがいくつもあった。

だから今回は本の中の一つの叙述だけを取り上げたい。

この本の190ページにはこんな文章がある。

「戦後世界では一貫して被害者の国として位置づけられてきたポーランドは、行政府である国家記憶院が20世紀になってから史実を丹念に調査し、実はポーランド国民も大勢のユダヤ人を虐殺していたとの事実を公開した。他の多くの国でも、かつてユダヤ人差別や虐殺に関与していた自国の歴史を隠さない。」

残念だが、ポーランドに関しては、現時点では完全に変わってしまった。今年の初めにポーランドの政権を担う右派政党「法と正義」がホロコースト法と呼ばれる法律を成立させた。

この法律はすごいよ! 笑うよ!

ナチスの蛮行の中でも一番有名なのはポーランドのオシフィエンチムという所にあるアウシュヴィッツの強制収容所だろう。数え切れないほどの映画になり、誰でも知っていると思う。今回のポーランドの法律では、このアウシュヴィッツを「ポーランドのアウシュヴィッツ収容所」と表記しただけで、ポーランド人は無論のこと外国人も罰金ないしは禁錮3年の刑とされる。ポーランドがナチスのホロコーストに加担したと言ったりしたら、当然この法律に違反することになる。

ティモシー・スナイダーの「ブラックアース ホロコーストの歴史と警告」という本にはこうある。「我々はしかるべくホロコーストをナチスのイデオロギーと結びつけるが、ユダヤ人を殺したのはナチス以外、それどころかドイツ人以外も多かったことを忘れている。」(p.4)

当時のポーランドがナチスのユダヤ人絶滅計画に組織的に加担したとは思わないし、アウシュヴィッツ収容所を作ったのはナチスドイツだが、中には積極的に加担したポーランド人たちもたくさんいただろう。ナチスに同調したポーランドのファシストたちだっていた。これは多くの証言もある。

こういう法律は、成立させたナショナリストたちにとっては快哉を叫ぶべきものなのかもしれないが、他国からは呆れられ、嘲られる法律だろう。事実西側諸国はどこの国もこの法律を非難している。

同じような問題はトルコにもある。19世紀末から20世紀初め、特に第一次大戦中に当時のオスマン帝国内部のアルメニア人が100万人以上の規模で大虐殺された。これはトルコ人のノーベル賞作家オルハン・パムクもトルコ政府はこれを認めるべきだと発言した。ところがトルコではこの大虐殺は否定されていて、パムクも国家侮辱罪で起訴された。

これに対してドイツ連邦議会は第一次大戦で同盟関係にあったオスマン帝国によるアルメニア人虐殺を、知っていながらそれを止めなかったとして、当時の「ドイツ帝国にこの大虐殺の責任の一端がある」と認めた。

ポーランドやトルコの姿勢を見て、日本もそうするべきだ、南京虐殺や関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定すべきだ、と思うだろうか? むしろドイツの潔さこそ清々しいと思わないだろうか? それとも、ドイツの自虐史観とでも言うのだろうか? しかしよく考えてほしい。自分の国がやった過去の蛮行を認めることが、なぜ自虐的だとか売国だとののしられなければならないのだろう? やってないことをやったというのなら自虐的という言葉も当たっていよう。しかし、南京も震災もやった側の日本人の証言が山のようにたくさんある。やったことをやったということが自虐的なら、犯罪を犯した人間は誰も自供しなくなる。

これがネトウヨレベルの無教養な連中が言っているだけなら大した問題ではない。そんな奴はどこの国にも全体の数パーセントぐらいいるだろう。だけど、ポーランドもトルコも、そして日本でも政治家にそういう連中が多数派を占めていたりするのが問題なのだ。

過去の蛮行を認めないことこそ国益を損なっている。ドイツのようにそれを認めることで民主的な国として他国から一目置かれるようになる。ちょっと考えれば当たり前のことだ。アメリカやヨーロッパで従軍慰安婦を否定することがどう作用するか、ちょっと考えればわかりそうなものなのに。それを海外の新聞広告に載せちゃうような右派インテリたちがそれによって日本のイメージを悪くしているということに気がつかないはずはないと思うのだが。だから、結局あれは自己満足のためにやっているのだろうと思う。彼らの自己満足のために日本全体のイメージが低下するのは一般日本人にとってはた迷惑な話である。


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斎藤貴男「日本が壊れていく」覚書き

2018.12.21.21:38

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斎藤貴男の本はいつだって読んでいて楽しい本ではない。ひたすら腹が立つし、不安になってくる。だけど、彼がもう15年~20年近く前に、例えば「機会不平等」とか「ルポ改憲潮流」などで警鐘を鳴らしていたことが、今となってはすでに実現してしまっていることを考えれば、この人の語る言葉に耳を傾け、僕らはどうすればいいのかを考えるべきだろう。いや、エラソーに書いてしまったが、実際に何か行動するとかいうことではなく、少なくともここに書かれている事態についてちょっとでも考えてみるだけでも大切だろうと、そう思う。




さて、この6年に渡る安倍政権の「あまりにも幼稚であまりにも愚劣」(本書p.23の小沢一郎の言葉)な政治姿勢を再確認させられ、うんざりしてくる。もっとも斎藤貴男の本はいつでもそうだ 笑)だけど、書いている斎藤貴男の憤怒を共有し、僕らもしっかりと怒らなければならないと思う。

安倍批判もそうだが、現在の社会全体に対しる「否」を叫び続けてきた著者の一番大きな批判対象は「新自由主義」である。

「家庭環境や経済力次第で人それぞれスタートラインが異なる現実を無視し、あたかも正当な競争のように見せかけ、にも関わらず自己責任原則を絶対のルールだと演出する新自由主義のシナリオは、イコール社会ダーウィニズムと同義といって過言ではない。」(p.197)

この新自由主義にのっとって、経済成長が絶対的な目的になってしまった現在の社会。確かに経済が成長してみんなが豊かになれば、幸福になる可能性は高まる。だが、誰のための経済成長なのだろう? 無論一部の富裕層のための経済成長だ。そして安倍の論理では、富裕層が豊かになれば下の層にもそのおこぼれが落ちてくるというトリクルダウン理論とやらでみんな豊かになれると言うのだが、富裕層ではないあなた、そこのあなた、豊かになりましたか? 実感としてどうですか?

経済成長が絶対的な目的になってしまった現在の日本、政府主導で金儲けのためなら何をしてもいいということになってしまった日本。あれだけの世界的な大惨事を引き起こした原発を輸出してまで金を儲けようとするのは、どう考えたって普通じゃないだろう。憲法9条がある中で他国に潜水艦を売ろうと言うのはどう考えたっておかしいだろう。大学に武器開発の研究をしろとけしかけるような政府って僕には全く理解できない。

この本で指摘される経済成長はあくまでも手段であるという指摘は重要だと思う。

この幼稚で愚劣な政権のやったことを整理するためにも、安倍嫌いの人だけでなく、政治など関心がなくとも常識のある人にお勧めします 笑)


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日航ジャンボ機墜落事故の闇

2018.12.08.14:38

1985年8月12日の夕方、僕は家族旅行から帰る途中で父の運転する車で高速道路を走っている時に、ラジオでニュースを聞いたことを覚えている。旅行先が日光だったので、後からあの時走っていた場所からそう遠くないところで墜落したんだなぁ、と思ったりした。

ずっと話題になっていた青山透子著「日航123便墜落の新事実、目撃証言から真相に迫る」を読んだ。


図書館で借りたんだけど、予約したのは初夏だったのに、80人待ち状態で、やっと順番になった。

当初ネット上に氾濫している陰謀論の一種なんじゃないかと思ったりもしたんだけど、目撃証言がこれだけ集まると、そして何よりアメリカ側からの情報も出てくると、むしろ最後にぼんやりと暗示されているいくつかの事故原因以外の原因は考えにくい。だとすれば事故ではなく事件だ。

いろんな疑問があるがまず、墜落前に、公式には認めていない自衛隊のファントム2機が墜落することになる123便の後を追いかけていたのはなぜか?(これは目撃者が多数いる)

それと、墜落後20分で米軍機は墜落現場を目視し、2時間後には海兵隊が現場へ着陸を試みているのに、突然帰還命令が出され、その後日本の自衛隊も機動隊も、そして何よりマスコミも、捜索場所を特定できず(と言い張って)、翌朝まで救助に取りかかることができなかったのか?

しかもその間、夜間に現場付近でいくつものヘリコプターが活動していたという目撃証言もある。その間に人命救助よりも、何かの隠蔽を優先させたのではないのか?

これ以外にも赤い形状のものとか、現場に漂っていたガソリンとタールの匂いはジェット燃料ではないこと、遺体の完全な炭化は揮発性の高いジェット燃料ではあり得ないこと、横田飛行場へ向かったのに反転したのはなぜか、その間のボイスレコーダーも完全に公表されてはいないのはなぜなのか、さらに隔壁破損が原因とする説がまずアメリカから出たことや、その証拠たる隔壁が現場検証前に裁断されてしまったことなど、いろんな謎が挙げられる。

誰でも推測するようにミサイルの誤射、あるいは自衛隊が訓練用の目標としていた飛行機との衝突、など人為的なことが原因だとしても、問題はその後だ。それを隠蔽するために救助活動が遅れたのだとしたら、これは国家、あるいは自衛隊による犯罪である。

何よりも、一番怪しいのは運輸安全委員会がすでに自己調査は終了しているので、これ以上新たな証拠物が出ても再調査することはないと言っていること。

極端に悪く勘ぐればいくらでも勘ぐれるだろうし、そこまで極端でなくとも、昨今の様々な隠蔽事件を見れば、国家は必ず嘘をつくという堤未果の署名を連想したりするのは自然なことだろう。

今年に入ってさらに続編が出ているようなので、またまた図書館で予約したところである。

……追記 2018,12,09, 14:45……
65ページに出てくる中曽根の言葉「実際、静岡に落ちたとか、群馬に落ちたとか、情報が随分迷走していました。米軍もレーダーで監視していたから、当然事故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし、おそらく防衛庁と米軍でやりとりがあったのだろう」をもう一度この本を読み終わって、あらためて見てみると、この男の「そらっとぼけ」ぶりがよくわかる。情報の迷走は意図的なものだったし、米軍の情報が上がってこないはずはない。最初に読んだときはこの部分、文字通りシビリアンコントロールが全くできていないじゃないか、という指摘だけだと思ったのだが、無論それもあるが、それ以上に、中曽根は何かを知っていて、そらっとぼけているのである。この言葉からそれがよくわかる。



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シェリー・ケーガン「DEATH 『死』とは何か」

2018.12.02.15:09


余命宣告された学生が受けたいと願った道徳哲学の講義だそうです。少し前に流行ったハーバードのサンデルの白熱教室みたいな、平易な言葉で無茶な、というか極端なケースをちりばめながら、僕らの日常的な感覚に疑いを抱かせます。

例えば、初っ端から、まず死を考えている今の自分と死ぬ時の自分は同じかという問いかけ。確かに僕らの細胞は次々と死につつ新しい細胞が生まれている。7年(だったかな?)で全ての細胞が入れ替わる。そんな僕らに同一性があるのか、ということで、通常、精神疾患で人格乖離にでもなってない限り、普通はあんまり考えないことだろうけど、哲学の基礎としては有名な問いかけです。

あるいはごく普通に口にされる「人は結局一人で死んでいく」という言葉だって、人間の行いはほぼ全て一人だと混ぜっ返される。そもそも私が存在している時に死はなく、死がある時には私は存在していないのだから、なぜ死を恐れるのか?

読みながらいろんなものを思い出した。不死を語るところでは手塚治虫の「火の鳥」の未来編、地球滅亡の時に不死にされた主人公の絶望や、ファウストのように悪魔と契約してこの世のあらゆることに満足を求める生き方、無論昨今話題の脳死は人の死か、とか安楽死の問題なども。

だけど、結局死を考えることはいかに生きるべきかを考えることにつながるという、ごく真っ当なところに行き着きます。そこで、ではどう生きるのがいいのか? 人生とは良いこと(快)や悪いこと(不快)を収める器(うつわ)だという説が紹介され、個人的にはここが一番面白かったかなぁ。

ただ、人生をプラスとマイナスで数値化、とまでは行かないけど天秤に掛けるような考え方がいいのか悪いのか。。。相模原事件の犯人のような生きていても意味がないなんていう考えや、最近の新潮45のLGBTには生産性がないなどという言い方にも繋がっていくのではないか、と一抹の不安も感じます。

それは最終節での自殺を巡る論考でもそうで、今朝ほど読み終わったところですが、どこかなんか引っかかるものがあるような気がしてならないです。図書館で借りたんですが、時間をおいてもう一度読み直してみたいと思うので、この値段だし、一冊持ってても悪くないでしょう。

小見出しがたくさんついていて、話も観念的にならず、とても読みやすいです。



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田野大輔「愛と欲望のナチズム」

2018.09.28.00:36

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題名がちょっとキッチュだなと思いつつも図書館で借りてきたら、これが結構面白かった。

ナチスは政権を取るや否やすぐに結婚資金貸与制度を制定し、夫婦に1000マルクを無利子で貸与して、子供が一人うまれるごとに25%を返済免除、4人生まれれば完全免除になるような制度を作った。ただし無論健康な純粋なアーリア人種であることが絶対条件だけど。

あるいは1941年にはSS長官のヒムラーは子供のない結婚は国家が援助するに値しない。どこかの夫婦が幸福だったかどうかなどどうでも良いことで、大事なのは彼らが子供を作ったかだ。子供ができない結婚なら離婚すべしという規定を作りたいと言ったそうだ。

ナチスは徹底的に同性愛を否定した。同性愛者を目の前で売春婦と性交させて、うまくできなかったものを収容所へ送るようなことまでした例もあるそうだ。

それもこれも、国家が強くあるためには兵士になる(あるいは兵士を生む)国民が大量に必要だからだ。戦時下では子供を作ることが「崇高な義務」であり、女性たちは「母親となることが(。。。)崇高な使命」になった。だから「同性愛者は生産性がない」とみなしたわけである 苦笑)

当然のことだが性道徳は乱れる。未婚の母は増えるが、そうした母子を収容する立派な擁護施設も存在した。子供が生まれれば未婚だろうが不倫だろうが構わなかったわけだ。国家がそれを後押ししたのである。

そもそもがナチスというのはその前の民主的な、ある意味では自由で猥雑なワイマール文化を否定し、健全な道徳観や清潔さを売り物にのし上がってきたはずなのだけど、伝説の陸上スプリンター、ジェシー・オウエンスを描いた映画「栄光のランナー」でも準優勝したドイツ人ルッツ・ロングが子種を欲しがって次々に迫ってくるファンの女の子たちの話をしていたように、「民族の健全化を標榜し、性的不道徳の一掃に勤めたはずの政権のもとで、かくも無軌道な男女関係が幅をきかせるようになったのは(。。。)ナチズムによる性生活への介入の、ある種の逆説的な帰結だった」。

他にも例えば「売春の一掃に乗り出す」はずのナチズムは「売春の組織化」に舵を切り、制欲の充足を奨励して、それを国家目的(子供を増やす)に動員しようとした。

現在の日本の少子化を嘆く声は大きい。人口が減ると経済成長できないとか、年金制度が破綻するとかいうけど、新調45を潰す原因になった議員の発言なんかを聞くと、国家が少子化を心配するのは、この本で描かれるナチス的な発想ではないだろうな、と疑わしく思えたりする。



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「開けられたパンドラの箱」感想

2018.08.30.14:33



一昨年の相模原やまゆり園での障害者殺傷事件について、雑誌「創」で発表されたものを集めて編集した本。私もそうだが、障害当事者やその家族にとっては忘れようもない事件であるのに、一般的にはもうすでに忘れられた事件のような扱いだ。おそらく被告の裁判が始まれば改めて少し注目されるのかもしれないが。

新自由主義的な市場万能主義と社会ダーウィニズムが組み合わされば、効率の悪いものは「排除」されて当然、というところに簡単につながる。「社会に果たしている貢献度に応じて価値があるという馴染みやすいけれども間違った発想」(p.236)が蔓延している。要するにわかりやすくしたいのだ。生に順番をつけたがっているのだ。あの生とこの生の価値を比べてどちらがどうだと言いたがっているのだ。あなたの生と私の生、彼、彼女の生、さあ、どれが一番価値があるでしょうか? それを決めるのが効率性。

だが、一度これをやってしまったら、あとはなし崩し的に効率の悪さの基準値が上がっていくだろう。効率が悪い障害者は雇わない。今話題の事件だ。いいだろう、障害者を「排除」した。さて、次は平均よりも効率が悪いものは「排除」しよう、さらに残ったうちで、また平均以下は「排除」しよう、さらに残ったうちで。。。。

趣味の悪いアネクドートだ。さて、「排除」というものを極端なところでやって見せたのがこの事件の被告だ。だが、「排除」というのが殺害につながるのは普通の感覚ではない。だからこの本の中でも書いている人たちみんなが、精神医も含めて、被告のことを理解できないと言っている。僕も理解できない。だけど、やっぱりあれだけ安倍に自分の考えを伝えてくれと懇願するような手紙を書いたことに、何か変な全能感、自分で決定して実行したという独りよがりの満足感のような、安倍と共通する感性が感じられてならない。これはこの事件が起きた当初から拙ブログでは言ってきたことだ。この事件は安倍的空気を反映している。そういう意味で、ありふれた表現だが、この事件は現代の荒んだ社会を示している。


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鴻上尚史「不死身の特攻兵」

2018.08.29.11:51


図書館では20人待ちだった。なるほど、むちゃくちゃ読ませる。特攻の話は拙ブログでも何回か書いている。以前西川吉光という人の「特攻と日本人の戦争」という本のことを書いたこともある。あの時も参謀たちの無責任さに呆れる話ばかりで、怒りしか感じなかったが、今回もその思いを強くした。

特に海軍も陸軍も最初に特攻作戦の要員に選んだのはトップクラスのパイロットたちだった。それにより確実に特攻作戦が成功するとともに、、優秀なパイロットが一番に特攻したのだから(特にこの本で扱われる陸軍の場合は特攻を否定していた岩本大尉が一番に特攻したのだから)、あとは誰も逆らえないという雰囲気作りをした。

鴻上尚史は、特攻作戦が継続したのは、アメリカに対する有効性ではなく、「日本国民と日本軍人に対して有効だったから」(p.257)だと推定する。同時に「命令した側」が、過剰な精神主義(敵機は「精神」で撃ち落とすのだとのたもうた東条英機)を振り回し、文字通りの意味での「必死」(必ず死ぬ)により「精神」が十全に発揮できるという考えにつながるのも当然といえば当然のことなのだろう。

そんな中、本書の主人公佐々木友次は陸軍の第一回目の特攻から、都合9回特攻を命じられ、9回ともに戻ってきた(離陸できなかったケースも含む)。最後の方では参謀から、なんでもいいから死んでこいと命じられる。それでも戻ってくると、さらに銃殺命令まで出るところだったらしい。彼はただ死ぬのが怖くて逃げたわけではない。実際に爆弾を2回投下し、そのうち一つは敵艦に命中させている。彼は無意味に死んでこいという命令に逆らったのだ。

しかし、鴻上尚史が繰り返し言うように、あのプレッシャーの中で上官の命令に逆らい続けるだけの強さは並大抵のものではない。同時に、今の我々に向かっても、「死ぬな!」というメッセージになっている。

鴻上尚史は特攻について考えるときに、「命令した側」と「命令された側」をしっかりと分けて考えなければならないと主張し、こう言っている。「特攻隊員を『英霊』『軍神』という無条件で讃える言い方(。。。)によって『命令した側』の存在が曖昧になってしまう(。。。)『英霊』『軍神』と褒め称えると、そんな特攻隊員を生んだ「命令した側」も評価されるイメージが生まれる」(p.229)。だから、拙ブログでも繰り返してきたけど、特攻隊を単純に「美化」することには慎重でなければならないと思う。

また、最後の方で、元特攻隊員だった人が率直に特攻作戦を非難し、死ぬのは嫌だったと吐露すると、特攻隊員ではなかった元兵士たちから突き上げを食らい、罵倒される話が出てくる。

鴻上尚史は「命令した側」と「命令を受けた側」だけでなく、「命令を見ていた側」というのもあると分類するが、実に複雑な話で、「自己責任」という言葉を振り回す権力者たちに対して怒り抗議の声を上げるのではなく、その言葉に乗って弱者(生活保護や透析患者)を「自己責任」と突き放す現代社会の一般人のことを連想した。

つまり、「自己責任と言い募る側」(そのくせ自分の責任は全く取らない)と「自己責任と言われる側」、そして「それを見ている側」。最後の見ている側が一番罪が大きいのかもしれない。

最初から否定しようとかかっていれば別だが 苦笑)、おそらく誰が読んでも読んでよかったと感じるだろう。


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武田砂鉄「日本の気配」

2018.08.22.23:12

時々、武田鉄矢(てつや)と間違える人がいます 笑)が、間違えられたら武田砂鉄(さてつ)は本気で怒るでしょうね 苦笑)



僕らは忘れやすい。あろうことか、マスコミも忘れやすい。この本はここ数年の安倍とその取り巻きたちの嘘やデタラメ行為を思い出させてくれます。だけど、それ以上にあちこちにちりばめられている比喩がものすごく面白い。以前のこの人の「紋切り型社会」でも感じたけど、この人、大した才人です。

心に残った比喩を以下に二つ引用しておきます。何の比喩であるかはあえて書きませんが 笑)


「他店への文句を言いふらして集客するようなお店に行列ができることはないはずなのだが、悲しいかな、「うちのラーメン、他よりマシですよ!」が行列の理由として機能し続けている」(p.73)

友人から「渋谷・ハチ公前・17時集合でお願いしたい」というLINEを受け取り、その時間に合わせてハチ公前で待っていたところ、「私としては、渋谷・ハチ公前・17時集合とお願いするという意図は全くなく」と新宿のアルタ前から19時にLINEがやってきたら、おおよその友情は壊れると思う。でも稲田理論では、それはあくまでもハチ公前に来たお前の「誤解」だというのである。(p.124)


しかし、これほどわかりやすい政権がかつてあったでしょうか? 「私たちは繰り返し、ねぇ国民のみなさん、これからあなたたちを騙しますからね、ほら、ほら、今、騙してますからねと公言されているのである」(79)という武田の言葉が実にしっくりくる。

それなのにみんなすぐ忘れてしまう。「国会答弁では、とにかく、議論が深まらないようにはぐらかすことが一義とされ」(p.78)、それでもどうせ国民はすぐに忘れ許容してくれるはずという舐めきった態度。こんな事態を20世紀の僕らは夢にも想像していなかった。驚くべき時代になったものである。


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Ch.ブラウニング「普通の人びと」とそこから思うこと

2018.06.08.22:51



漱石の「こころ」に「普通の人が悪いことをするから人間は恐ろしい」というようなセリフがあります(正確ではありません)。それ以来、僕は「善」と「悪」という分け方をするものが大嫌いになりました。

この本も読むのに随分時間がかかったんですが、なんともやりきれない話です。30代40代の警察官が警察予備大隊としてポーランドに送られ、ユダヤ人を女も幼児も含めて大量虐殺するのに加担した話で、著者は当事者からの聞き取りによってそれを検証していきます。

普通のよき父、よき夫たちがなぜ? こればかりはそう簡単に答えは出ないし、答えを単純化させることもできないでしょう。ただ、大切なのは、このような場に置かれたら、自分も必ず同じことをしただろうと自覚する必要があると思うし、さらにはこのような場に置かれるような社会にならないようにしなければならないということでしょう。


ここまでは、ほぼ、某FBグループに書いた文章なんですが、昨日CS放送で「アイヒマン・ショー」という映画を放送していました。以前に見たことがあったので、見なくてもいいかな、と思いつつも、クリテリウム・ドゥフィネまで時間があったので、最後の方をつい見てしまいました。1960年台前半にイスラエルで行われたアイヒマンの裁判については、拙ブログでも何回か書いたことがあります

テレビマンがアイヒマン裁判を世界に向けて放送する姿を描いているんですが、最後の方にものすごい違和感を感じるんですよね。彼らは何とか良い絵を撮ろうとし、アウシュヴィッツの記録映像を見るアイヒマンの姿を見ながら、なぜ座っていられる?なぜ黙っていられるんだ!とイライラする。そしてアイヒマンが自分の罪を認めることにつながるわずかな言葉を捉え、これでアイヒマンを有罪にできると喜ぶシーンで映画は終わります。

アイヒマンは怪物ではない、誰でも彼になる可能性がある、というようなセリフが前半の方であることはあるんですが、最後の方は、いわゆる「凡庸なる悪」アイヒマンをよってたかって追い詰める快感を、見るものに感じさせようとしているような作りになっています。

だけど、イスラエルの現在を見るとき、まさにイスラエルの高官たち自身がアイヒマンになっているではないでしょうか?

アイヒマンを始めとしたナチスの犯罪行為の数々を見るとき、映画「否定と肯定」で弁護士がアウシュヴィッツへ行って言うセリフ「「恥を感じた。もし自分があのような立場に立たされたら、自分だって同じことをしただろう」こそ、僕らが考えるべきものではないのかと思うのですが。


このところ、子供を殺した夫婦がニュースになっています。わざわざいうまでもなく痛ましい話で、マスコミが伝える殺された子の反省文を読めば胸が締め付けられ、こちらの頭がどうかなりそうになる。当たり前のように、みんながみんな鬼のような親だと非難する。でも、と僕は思う、彼らが自分の子供を殺すようなところに追い詰められたのはなぜなのか、それをしっかり考え、そうならない社会を作ろうとしなければ、こういう事件は今後もいくらでも起こるだろうと。

最後に、勘違いしないでほしい、と書いておきます。例えば死刑は廃止すべきだと言うと必ず被害者やその家族の気持ちを考えないのか、というなんとか一つ覚えのような反応が来ます。だけど、犯人と被害者の人権は一枚のパイではないでしょう。パイのぶん取りあいのように、犯人の人権を主張すれば被害者の人権が凹むと考えている人が、この世の中には多すぎる。だけどそれぞれの人権は別の次元の話でしょう。今回の事件を見て、親を鬼とか悪魔と非難するのは簡単です。でも、それだけでは、こういう事件はいくらでも繰り返される(実際繰り返されてきた)と、僕は思うわけです。そしてそう考えることが、殺された子供のことを考えていないということにつながるものでないのは、言うまでもないことです。


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ルトガー・ブレグマン「隷属なき道」覚書き

2018.05.30.21:34

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最近良く聞くベーシックインカム、どんなもんなのか知りたくて読んでみました。ただ、この手の本は苦手で、あれだけ話題になったピケティも手に取ろうともしなかったんですが、こちらは厚さもそれほどでなかったので 笑) まあ、結果から言えば、とても読みやすかったし、何より章ごとにまとめの1ページが付いていて、それが理解をさらに容易にしてくれたと思います。

僕はこのところ、人類はこのまま行けばホーキング博士が言っていたように、後100年ぐらいで滅んでしまうのではないかと思っていました。これだけ格差が広がり、排他的な感情が広まって、弱い者同士がいじめあっているような社会の中で、しかもこの先の具体的な理想の未来像も見つからない。

個人的には、このところ繰り返し思うのはジブラルタル海峡で夕日を見ている最後のネアンデルタール人のイメージばかり 苦笑)

科学技術は進歩発展し、人類は宇宙の果てまで見つけそうな勢いだけど、一方で地球上ではご覧の状態。あらゆる元凶は「お金」というものなんだろうと思いはすれど、あまりに巨大な経済システムの前に、ではその元凶をどうすればいいのかは皆目見当もつかない。まさか今更の共産主義はありえないだろうから、僕としては北欧の社会民主主義なんてもの(それが具体的に細かいところでどういうシステムになっているのかわからないけど、大雑把に言えば教育や福祉、医療に金を使う制度)に期待したりもしたわけです。だけどその本家の北欧でも新自由主義的風潮が強まっているようで、同時に排他的な勢力も人気を得はじめているような話が伝わってきます。

この本はそんな中でユートピアを想像することの大切さを強調しながら始まります。現在はほとんどすべての人が貧しく飢えていた中世の時代に考えられていたユートピアそのものでありながら、逆にこの後のユートピアを思い描くことができないのが現在の状況だと。

そこで出てくるのはベーシックインカムという制度。すべての人に(貧しい人だけではなく全ての人に)生活するに十分なだけの額(フリーマネー)を給付するというシステム。もらったからといって、何か義務が生じるわけではない。何に使ったか報告する義務もない。

そんなことをしたら、みんな遊んで暮らし、賭け事やクスリや酒などに使ってしまうのではないか。私も「小人閑居して不善を為す」なんていう言葉を連想しました(もっともこれは本来この意味ではないようですが 笑)。ところが、これまで様々に行われてきた実験では、まったくそうならない。例えば2009年にロンドンで行われた実験では、十三人のホームレス男性にフリーマネー(自由に使えるお金)として日本円で約45万円が支給されしかもその見返りに何かをする必要はなく、何に使うかは自分で決めて構わない。その結果は、詳しくはこの本を読んでもらいたいけど、簡単に言えばヘロイン中毒の男も含めてみんな生活が改善し、路上生活から救い出されることになった。

この実験によりかかったコストはソーシャルワーカーの賃金を含めても日本円にして750万。しかし、それ以前にこれらの十三人のために使われていたコスト(警備費、訴訟費用、社会福祉費など)は年間6千万。「エコノミスト」誌でさえ、「ホームレス対策費の最も効率的な使用法は、彼らにそのお金を与えることだ」と結論付けた(p.33)そうです。あるいはカナダで1970年代に行われた1000世帯を対象にしたベーシックインカム実験では、入院期間が8.5%減少、家庭内暴力やメンタルヘルスの悩みも減少。

そしてアメリカでベーシックインカムによる貧困撲滅にかかる費用はGDPの1%以下、軍事費の四分の一だそうです。こんな例がたくさん出てきます。

勘違いしてはならないけど、本書の帯に描かれている言葉がそれをはっきりと表しています。曰く、

「福祉はいらない。お金を直接与えれば良い」

先進国に限れば、ものは余っていて人々はもう欲しいものなどないわけで、世の中にはあらゆるものがあふれるようになった時、人々はもう欲しいものなど無くなってしまったような感じです。なのに相変わらず成長戦略とか言って、経済は成長しなければ人々は幸福になれないかのような妄想が世界を支配し、世界の富は1%の人に集まり、格差はどんどん広がっています。

多くの人が言うように、環境破壊や温暖化のことを考えれば、この辺りで人は考えを変えなければならないはずです。だけど、一度便利なものを知ってしまったら後戻りできないのは、冷房に慣れてしまったら、もう扇風機にはなかなか戻れないのと同じこと。このままではまずいだろう、人類は一度コンピューターをやめてグローバルもやめて、200年前の産業革命前の生活スタイルに戻る方がいいんじゃないかとか思ったりもするけど、これは絶対無理でしょう。

そこでこの本が提案するのが、AI と人間が競争しても多くの仕事ではAIに絶対勝てない。ならば、人間がやるべき仕事は教育や医療や福祉の分野ではないのかということと、週15時間労働の提唱がもう一つの本書のキーです。AI (ロボット)の開発により生産性は過去最高レベルなのに、人々の平均収入は落ち、雇用は減っています。AI(ロボット)が「中流」の人々の仕事を奪い、不平等はどんどん広がっていくけど、これが嫌だと言って、産業革命時のラッダイト(打ち壊し)をやるわけにもいかないだろうし、何よりも便利で快適になったわけだから、それを手放したくなければ残る選択肢はベーシックインカムと労働時間の短縮しかない、というわけです。

そして最後に主張されるのが国境を開くこと。これは結構反対する人が多いでしょうね。ただ、著者は世界の貧困を一掃する最良の方法は「開かれた国境」だといい、実現すれば世界を二倍豊かにすると様々な研究結果を上げています。

想像してみましょう。単純にすべての人に生活できるだけの額のお金を直接与えることで、現代社会の様々な問題が一気に解決するでしょう。「生活保護なめんな」なんていう差別的なことを言う公務員はいなくなるだろうし、不正受給(実際はほとんど無い)に対する不満もなくなるでしょう。変な妬み嫉みはなくなるだろうし、そもそも、あらゆる人がひとまず生活するための金を稼ぐためにあくせくしなくて済むなんて、素晴らしい社会ではないでしょうか?

そんな金はどこから出てくるんだ、という人もいるでしょうけど、大丈夫、課税のシステムを変えれば問題ない。

まあ、これらはすべて現在の安倍政権のもとで行われようとしている経済政策の真逆を行くもので、「強欲」というやつが、このユートピア実現のための一番の手強い敵になるんだろうなぁ。

まあ、正直に言って今ひとつ何か納得しきれないところもあるけど、このベーシックインカムという制度をもう少し本気で考えてみるのは悪いことではないだろうと思うし、これをベースにいろいろ考えてみたいと思います。同時にまた、一つのユートピア像のかけらのようなものが見えたような気がしています。

最後に一つ苦言。著者はオランダ人だそうで、英語からの訳だからこうなるのはしょうがないのかもしれないけど、ルトガー・ブレグマンという表記は困ったものです。なんでも英語読みすればいいってもんじゃないでしょ? オランダ語ならルトヘル・ブレフマンでしょう。こんなのインターネットの時代で、すぐに調べられると思うんだけどね。まあ、過去にも音楽家のドヴォルザーク(本当はドヴォジャーク)や童話のアンデルセン(アナーセン)の例もあるから目くじら立てなくてもいいのかもしれないけど。


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布施祐仁・三浦英之「日報隠蔽」

2018.04.04.10:54

昨日も14年前の「不存在」のはずだったイラク日報が実はありましたと、東京新聞では一面トップでした。


こちらの本は一昨年から去年にかけての南スーダンPKOに関する隠蔽事件の顛末です。著者の布施祐仁は、まさにこの隠蔽事件が暴露される発端をつくった情報開示請求者なので、その間のやり取りが描かれていて、それとともに、南スーダンの情勢を巡る国会でのやり取りと、新聞記者で現地での取材を重ねた三浦英之による南スーダンの実際の状況も描かれていて、事件の推移がよくわかります。

いやあ、何しろ凄い話で、森友で公文書改竄が問題になったけど、こちらは隠蔽。こんなことが認められたら、国民が政府を信用できないし、外国からだって信用されなくなってしまうでしょう。

それにしても、当時の国会答弁もひどいものです。「戦闘」を「勢力と勢力がぶつかった」と言い換え、本来なら自衛隊も即座に撤収しなければならない危機的な状態であった(負傷者も出ている)にもかかわらず、反政府側を「国家または国家に準ずる組織」ではないから、武力紛争の定義「国家または国家に準ずる組織の間において生ずる武力を用いた争い」に当てはまらないといい続ける。

まるで言葉遊びです。責任ある者たちの言葉に対するいい加減さに唖然とします。

決定的な質問には答えずのらりくらり。果ては9条があるから武力衝突という言葉は使わないと本末転倒なことを言い出す。語るに落ちたとはこのことだろう。そして最終的に文書を公表したのだから隠蔽ではないと居直る。(泥棒が盗んだものは返したんだから文句ないだろ!と居直るようなものだ)

そして結局防衛省内での隠蔽として事務次官と陸上幕僚長が辞任して尻尾切り。もちろん大臣の稲田も最後までやめようとしなかったけど、ついに諦めて止めますが、何れにしても、隠蔽に政治家の関与はなかったというわけです。さらに辞任した事務次官や、関わったと思われる職員たちは「軒並み『栄転』している」そうです。

確かに森友の佐川氏とは違って、防衛省の場合、隠蔽体質はすでに存在していたので、政治家からの圧力があったかどうかはわかりませんが 苦笑)、大臣の稲田の答弁の経緯を見る限り、彼女が隠蔽を知っていたのは確実だろうし、もし仮に知らされていなかったのであれば、大臣としての資質の問題になるはずです。

この時は、政府はPKOの「駆けつけ警護」などの新任務の実績作りに焦っていたわけで、大した議論もせず強行突破で安保関連法が成立した時期でした。直接政治が関与した証拠はないかもしれないけど、隠蔽しなければならないような状況を作った政治に責任がないはずはありませんね。こういうことを言うと「疑わしきは罰せず」と言い出す人がいますが、権力者に「疑わしきは罰せず」なんていう言葉が当てはまるはずはないでしょう。疑われたら疑いを晴らそうとできることをし、それでも疑いが晴れなければやめるのがまともな権力者のとる道でしょう。まあ、安倍にまともな権力者像を求めるのは無理なんでしょうけど。

しかし、読んでいると、あちこちでデ・ジャ・ヴ感に襲われます。つまり安倍的やり方とは嘘と改竄と隠蔽なのですね。そしてPKOとはなんのためにやるのか、その政府の姿勢もはっきりします。スーダンの人たちを助けたいからPKOを派遣するのではない、貢献を世界にアピールして、自らを誇りたいから派遣するのですね。これじゃあ派遣される自衛隊員たちがかわいそうです。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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