亡くなったのはもう10日も前のことだそうです。
大江健三郎はたぶん僕や少し上の世代だと読んでいる人は多いと思う。たぶん、読んだことがあるというパーセンテージで言えば、現在の村上春樹を凌駕していたんじゃないかと思う。「同時代ゲーム」が出た時も大いに話題になった。個人的には比較的初期の小説にかなり夢中になった。文章は上手いし、シュールな露悪趣味は好みが分かれるかもしれないけど、僕は特に「芽むしり仔撃ち」は何度か読み直し、最後のところで胸が潰れるような思いを繰り返し感じた。
ただ、
これは以前、発禁本 笑)の「セヴンティーン」について書いた時にも言ったんだけど、僕自身は「同時代ゲーム」までで、そこからあとは、本箱にはたくさん並んでいるんだけど読んでない。ノーベル賞を取った時の理由は障がいのある息子との共生を高く評価されたと思うけど、自分が障がいのある子たちの親となったら、返って手に取りにくくなってしまったという感じ。

なんで写真が歪んでるかというと、本箱下の足場が悪くて手が届かない 笑)
ところで、僕は一回だけ遠くからだけど、生の大江を見ている 笑)
原発反対集会の6万人の中に入ってマイクを握っていたのを100メートルぐらい離れたところから見たことは、2011年9月の拙ブログでも書いている。
その後、最近はこういう時代になってしまったから、リベラルな政治意識をはっきりと全面に出した大江健三郎のような人はメディアへの露出度も激減してしまったように思う。だけど、平和運動家としてもそうだろうけど、作家としては昭和から平成への日本文学の代表者だと言っても良いだろう。それも、たぶん桁違いの。
合掌。
追記(3/14,10:20)
今朝の東京新聞の社説で筒井康隆の文言が引用されている。「ずっと大江健三郎の時代だった」
この意味で、僕は平成になってから時代についていってないな、と反省。今年は大江を読むことにします。
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チェコから来た古いアームチェアをオランダで修理に出したら、ハーケンクロイツの印が押された書類が出てきた。それを手掛かりに、その時代背景とともに関係者も含めて、持ち主の人生を探るドキュメンタリー。
書類の持ち主は署名からローベルト・グリージンガーというSSの将校で、博士号を持った法務官であることがわかる。いわゆるナチのエリート知識人部隊の一員だ。
SSというと、誤解を恐れずに言えば、格好良い(以前どっかのアイドルグループがそれに似せた服を着て、海外からも批判されたことがあった)黒い制服を着て、髑髏のついた帽子を斜に被っているという印象だけど、

こんな感じ
この本の主役のグリージンガーは「一般SS」というやつで、独ソ戦が始まった頃にはロシアにも出征しているが、その後、プラハに赴任して普通の背広を着てお役所業務に励んでいた。無論その業務によって運命を変えられたチェコ人たちがたくさんいたわけだが。
椅子から出てきた書類はパスポートから公務員試験合格証明書まで、この男の存在を証明するはずの貴重な書類ばかり。パスポートにはハンサムな男の写真が貼られている。著者はこの男の一家を探しだし、各地の図書館や公文書館で資料を漁り、この男と家族の人生を追いかける。同時に、戦前のドイツの南西部の雰囲気や戦後の生き残ったドイツ人たちのナチスに対する複雑な反応も描く。
個人的には、ドイツの大学、太宰治の短編小説に「アルト・ハイデルベルヒ」という題名のものがあったけど、まさにそのアルト・ハイデルベルクの雰囲気がある、古き良き時代のドイツの大学が、実は学生にも教師にも積極的なナチズム信奉者が多く、特にプロテスタントの上流中産階級出身者はナチズムと親和性が強かったというのはちょっとショックだった。
「のちに言われるように、大学は一握りのナチ狂信者に乗っ取られて学問の独立性を失ったわけではなかった」(p.194)
当時の多くのドイツ人たちはナチスの党員になれば出世しやすいし、いろんな面で優遇される可能性が高くなるという実利的な面に目が眩んで党員になったのだと思いたいところだが、実際はこの主役のグリージンガーも含めて、すでにそれ以前から人種差別的、優生思想的な考え方に慣れていたと言える。
そして言うまでもないことだけど、彼らが家庭では良き父親で夫で、母親から見れば大切な息子、仲間たちの間では愉快な楽しいやつで、上司からは「優秀で誠実な職員」だと評価され、休みの時には「レコードプレーヤーでクラシック音楽を聴きながら」(p.251)くつろぐ、普通の人間なのである。映画や漫画で描かれるサディスティックなサイコパスなどでは決してない。
結局、拙ブログのモットーの漱石の言葉「悪い人間など世の中にいない、平生はみんな善人だが、いざというまぎわに、急に悪人に変わる」につながるとも言えるが、それ以前にもう一つ、時代の雰囲気、空気というものが人を作ることも忘れてはならないと思う。
1920年代から30年代にかけて、ドイツの大学や中産階級には、人種差別や優生思想的な空気が醸成されていたのだ。そういう空気の中で育った若者は、戦争という「いざというまぎわに」、とんでもないことを一斉にしかねないということだ。
その意味では、すでに今の日本にも優勢思想的なことをTVで堂々と述べるような学者がもてはやされ、困っている人を自己責任と称して切り捨てる安倍的社会になってるのが恐ろしい。
本に戻ると、なぜ椅子に書類を隠したのかとか、ロシアで何をしたのかなど、さまざまな謎が見事にスパッと解決し、うぉ〜っとはならない。ミステリー小説ではないので当たり前だ。だけど、それぞれの人に、それぞれの人生があり、その経験の全てが次の世代に伝わるのではなく、むしろそのほとんどが忘却の彼方に消えていくのだ、という無常感の余韻が、これまた誤解を恐れず言えば、心地よい。
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昔、それこそ半世紀前に読んだアシモフのSFに、「宇宙の小石」っていう、60歳になったら安楽死させられる未来を舞台にした話があったけど、それを本気で面白おかしくTVで子供相手に言っちゃう大学教員が出てくるような世の中になるとはね。。。
僕なんかは
以前よく引用したニーメラー牧師の詩を連想しちゃうけどね。最初は老人、次はきっと障害者だろうな、その次はLGBTQかな? そして役に立たないとみなされた人たちが最後に来るのかな。でも、そう言う社会になったら、そこで終わらないだろうなぁ。新たに差別できる対象を探してくるんだろうね。
というわけで、ロシアのウクライナ侵略とコロナパンデミックの最中に行われた対談。だけど残念なのは、本の発行日から見て、この対談は安倍銃撃事件の、おそらく、直前に行われたということだ。この二人が、あの後の政界の統一教会汚染についてどんな話をしたかを想像すると、この点がホントに残念。
もっとも、こんな標題をつけちゃうから、切腹しろ、とか言い出すやつも出てくるんだろうけどね 苦笑)
それはともかく、この本、いろいろ面白い話が次々に出てくるんだけど、池田の過激さを養老がうまく受け流しているような雰囲気がある。だから、圧倒的に面白いのは池田の発言だ。
特に、みんな自分の人生にせよ、何かしら意味をつけたがるが、「世の中、意味のないことの方が多いし、なくて構わないのに、「意味という病」に侵されているんだな」(p.140)と言って、「この形質にはこういう意味がある」という論文は書けるけど、「この形質にはなんの意味もない」という論文は学会誌に載せてもらえないと言う。
当然意味があることだけが大切になれば、意味がなければ(役に立たなければ)消してしまえ、というところにつながるだろう。そしてそのちょうど正反対のところにあるのが、山本太郎がよく言う「生きているだけで価値があるんだ」という世界観なんだと思う。あらためて、山本太郎があらがおうとしているものがはっきりした。
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いやあ歳のせいか、ぎっくり腰が一向に万全になりません。夕方は大体横になってるので、こんな本を読みました。ネタバレはしません。

今から十数年先の近未来。ヴァーチャルリアリティ空間が現実の空間と重なって、脊髄損傷によって首から下が動かない主人公の脳外科医が、脳に埋め込む「テレパス」を使って、現実世界では介助ロボットを、VR空間ではアバターを自由に動かし、視力と記憶を失った少女の外科手術を行えるようになっているという設定。
この少女は一体何者なのか、この少女をめぐる七人の登場人物は?? というミステリー。
途中所々に、誰のモノローグかよくわからない章が挟まるんだけど、これって結構ミステリーでやられる手法だよね。
以前に書いた(個人的には大傑作だとおもっている)チェコミステリー、コホウトの「プラハの深い夜」や
葉真中顕の「絶叫」に似てる。
VRの世界って時々TVなんかでもアイマスクみたいなのをかぶってゲームをしている人を見るけど、実際にやったことがないので、この小説にあるようなリアリティがあるのかよくわからない。ただ、こういう世界が小説の舞台になるんだなぁ、と爺っ様は感じた。
ただ、途中でふと、こんな話読んだことがある、と連想したのは大友克洋の漫画。有名な「アキラ」の前の「ファイアーボール」という漫画がなんとなく思い出された。と言いながらファイアーボールの内容はあまりはっきり覚えてないんだけどね 笑)
個人的意見としては、最後がちょっと拍子抜けだし、後味もあまりよくないけど、前半はかなり楽しめた。でも、種明かしと活劇になる後半は、あまり乗れなかったかなぁ。
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どうも歳のせいか、ぎっくり腰の状態が今ひとつ良くなっていきません。かれこれ1週間になるんですがねぇ。というわけで、1日数時間は横になっているので、その間に読んだ本です。

「特攻」については最初の頃からよく書いてきた。拙ブログを始めてすぐに
西川吉光という人の「特攻と日本人の戦争」という本を結構詳しく紹介しているので始まって、最近でも
川端康成と「特攻」の本を紹介した。
死んだ若者たちのことを考えたり、遺書を読んだりすれば、彼らがあまりにかわいそうで、美化して上げなくては、という気持ちになるのは、人間として当たり前の心情だろうと思う。だけど、その一方で、では彼らに「特攻」を強いた上官たちはどうしたのかを一緒に考えないと、「特攻」については絶対危ない方へ向かうというのは当初からの直感としてあった。これは今ではネトウヨ作家に成り下がってしまった作者の
「永遠の0」について書いた時にも言ったことだ。
戦果からみれば、この本の中である生徒が言ったように、特攻は「何の意味もない国のプライドとかいうための犬死作戦」(p.138)だったとも言える。こう書くと、反発する人も多いだろう。でもこの点を忘れて、単に美化して感謝して、とやったら、この国はまた同じことを繰り返すだろうと思う。
なによりも、戦後もおめおめと生き続けた特攻を命じた者たちが「特攻」を美化することに熱心だったことからも、彼らのベクトルが自己保身に向かっていることは明らかなのである。特攻隊員はお国のために自ら志願して勇ましく死んだ、その「真実」を身近で見ていた自分が後世に伝えなくてはならない、というのが、彼らに「志願しろ」という無言の命令を与えて、「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」(p.49)と言いながら、戦後もおめおめと天寿をまっとうした奴らのやり方だった。
この本に出てくる大西道大が戦後になって特攻隊員の遺族に会いにいった時のエピソードなど、本当にはらわた煮え繰り返る思いしか湧かない。
「元司令官は仏壇に手を合わせた後(中略)『どうしてこのように小さいお子様がいて、なぜご主人は特攻に行ったのでしょう』と言った。【未亡人は】一瞬、大きく「あなたさまは。。。。」と声を荒げ、あとは押し黙った。」(50)
ナチスドイツはユダヤ人たちを組織的かつ大規模に、効率的に殺害したとよく言われる。しかし日本軍は
「若者の侠気と、それに甘える老人の卑しさ」(古処誠二)にたよって、部下が必ず死ぬ戦法を組織的かつ大規模に取ったのである。
この本の最後の方で、若い社会科教員たちが「戦争」のテーマを授業で避けようとする傾向があるとして、彼らが、「『戦争』を『不快』なものととらえ、『戦争』に結びつく反省や謝罪、責任というものを考えなくていいように、『戦争』そのものを教材として『除去してしまいたい』と考えているような気がしてならない」(154)と書いているが、これは教員だけの問題でもないんだろうと思う。そして、『戦争』を『政治』に変えても同じようなことが言えるのかもしれないと思う。
『政治』を『不快』なものととらえ、『政治』に結びつくものを考えなくていいように、『政治』そのものを(頭の中から)『除去してしまいたい』と考えているような気がしてならない。
追記(2/5 15:35)
所々変換ミスなど変更しました。ご指摘ありがとうございました。
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恒例のぎっくり腰。拙ブログはもうすぐ14年目に突入ですが、いったい何回やってますかね? 都合何日寝込んでいるんだろう? そのうち数えてみましょう 苦笑)
というわけで横になって読んでたのがこの本。
表紙と裏表紙を合わせると、いや合わせなくても色合いだけでブリューゲルの狩人の帰還の左右逆のパロディだってわかる。ちなみに本を開いてパソコンのBGと並べるとこんな。

まあ、
以前も書いたけど、この狩人の帰還をパソコンのバックグラウンドにしている僕としては、この表紙だけでも読んでみたくなりますが、17世紀半ばから末までの話なので、16世紀半ばのブリューゲルのこの絵はちょっとどうかなぁ。。。笑)
1750年ごろから1790年代中頃までのフランドルのヘントの南、たぶん架空の街(?)シント・ヨリスを舞台に亜麻糸商のファン・デール家の双子の姉弟のヤネケとテオと、養子で引き取った一つ年上のヤン・デ・ブルークの話。
この佐藤亜紀という人の小説、以前拙ブログでも
「スウィングしなけりゃ意味がない」というナチスの時代のハンブルクを舞台にした小説を紹介したことがありました。あの時も感じたんだけど、会話の口調が現代風なのはわざとなんでしょうね。今回は特にヤネケ(女性)のセリフが『〜なのよ』みたいな女性言葉はほぼ使わない。なんとなく進撃の巨人のミカサのセリフっぽかった 笑) まあ、このこの時代のヨーロッパなんてミソジニーが常識だっただろうから、その中で自由に生きる女性としての言葉遣いってことなのだろうけど。。。
お話は養子のヤンと双子の姉のヤネケがデキちゃって子供が生まれると、ヤネケはベギン会という、片足を修道院に、もう片足は世間に置いてるような、緩い修道院みたいな組織に入ってしまう。で、そこで何をするかというと、これが学問。ヴォルテールやライプニッツやアダム・スミスを読み、ハレー彗星の軌道計算をしているフランスアカデミーの女性数学者と文通しながら、自ら「確率論」や「富の数学的原理」という本を、弟のテオやヤンの名前で出版して、ヴォルテールから手紙をもらったりする。
フランスだとこの本にも出てくるように女性の学者というのが実際いたようだけど、フランドルだから 笑) 学問に取り憑かれてしまった、そもそもが才能豊かなヤネケに対して、ヤンの方は未練たらたらなんだけど、彼女の自由を尊重し、彼女との間にできた子供レオを引き取り、自分は結局2回の幸福な結婚生活を送って、いよいよ60も近くなり、だけどヤンはまだヤネケに対する思いを断ち切れない。。。いろんな人が登場しては退場していき、そして時代は、イギリスの産業革命とラッダイトの波がフランドルにもおしよせてくる予感の中、ベギン会もヤンの亜麻糸や織布の世界も変わっていくだろうということが暗示され、最後はフランス革命があって、フランス共和国軍によるベルギー占領の時代。。。
まあ、ネタバレはしてません。ヤンの二度の結婚も最初の登場人物紹介を見ればわかるしね。個人的には舞台がフランドルというのが魅力的だし、ベギン会のベギンホーフは昔旅行でブリュージュで見たことがあるし、ベギン会の女性たちの生活も興味深いし、なによりこういう長い時の流れの中で展開していく話は、この年になるとそれだけでも心打つものがある。
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ネタバレしてませんが、これから読むつもりなら読まない方がいいかも 笑)
森達也のこれまでの本を読んできた人なら、最初の方で、ああ、あの話ね、と思うでしょう。前半は、以前深夜のドキュメンタリー枠で憲法1条を映像化しようとして失敗した話が、たぶん実名でそのままリアルに再現されています。どこまで事実かわからないけど。主人公は森克也という名で年齢はアラフォーだから、そのへんの設定は作り物だけど、過去にオウムを映像化していることになっているし、是枝裕和をはじめ、TV業界、映像業界の人たちが、おそらく、実名でどんどん登場します。
なにより天皇皇后(現上皇と上皇后)が明仁、美智子でそのまま登場するってのがこの小説のポイントでしょうか。いや、天皇が出てくる小説って、僕がすぐに思い出せるのは大江健三郎(題名は思い出せないけど、天皇が「あの人」と呼ばれて場面に登場するシーンがあった)や、僕は読んでないけど深沢七郎は大事件になったし、最近では
高橋源一郎の「恋する原発」や、あるいは
若杉冽の「原発ホワイトアウト」だったか、憲法改正の公布を拒否する天皇が登場してました。だけど、この小説では、そうしたチョイ役で出てくるのではなく、この二人が森克也とともに主人公でもあるわけです。
さらに中盤からは山本太郎が重要な役割で登場します。
森達也は山本太郎の応援メッセージを出したぐらいだし、ここに描かれている山本太郎は実物そのままなんだろうと思わせます。ここ大切だから 笑)
森達也の本に
「オカルト」というのがあったけど、この小説を読みながら、それも連想しました。これは最初の方から出てくるから、ネタバレにならないと思うけど、カタシロという日本にしか出現しない超常現象じみたものが出てくるんですね。なにか日本の「世間」とか「タブー」とか「穢れ」の比喩なんだろうけど。さらに皇居の地下のラビリンスを天皇皇后と共に行くところなんか、
タルコフスキーの映画の「ストーカー」のゾーンなんかを思い出したりしました 笑) そういやあ、この小説の最後も雨が降ります 笑) タルコフスキーの雨も清めの意味があるから、その点でも共通してるかな 苦笑)
冒頭から登場する天皇皇后のイメージは誰でも納得するんじゃないでしょうか。きっとここに描かれているような人なんだろうと思う。途中からはこの二人の冒険みたいなはちゃめちゃな感じになるけど、最後の方、のこり40ページぐらいから、ちょっと色々物足りなくなりました。カタシロが「穢れ」だとすれば、ラストはピタッとはまって納得できるけど、あの自民党・電通・高天原の標識 笑)は、もっと膨らませてほしかったなぁ。
でもそこまでは、途中でやめられなくなったぐらい面白かった。ただ、森達也の文章ってかなりクセがあるんだよね。そのクセある文体が小説にはそぐわないような気がするんだけど。
最後に、僕の天皇についての考えは以前に書きました。
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安倍が繰り返し「悪夢のような民主党政権」とヒステリックに叫んだものだが、みんなが民主党政権時代よりマシだと思っていた経済の面ですら、安倍政権はまるでひどいものだったということを書いた明石順平の「アベノミクスによろしく」という本を紹介したのは4年以上前のこと
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3090.html。
要するに山本太郎がよく言うように、この25年のデフレで日本はどんどん貧しくなっていく。現状維持がいいから自民党に入れるなんてのは馬鹿の極み。この間、現状維持されたことは一度もないわけだ。
今回のこの本はコロナ禍での安倍の対応と東日本大震災時の原発事故に対する菅直人の対応の比較だ。この本に、仮に安倍を批判したいというバイアスがかかっていると仮定しても、まあ、とんでもないね。要するに菅直人政権時の自民党、特に安倍のやったことは犯罪的だ。原発事故という未曾有の国難に挙国一致で取り組もうという気はまるでなく、単に政権の足を引っ張ることしか考えていなかった。特に安倍はデマを流すということまでしていた。しかもその嘘はいまだにネトウヨ連中が菅直人批判に使っている 笑)まあ、維新の手口だな。
あの時、菅直人政権にも至らないところは多々あったと思う。しかしそれを批判していた野党の自民党が今回与党になって、コロナ禍でどんな対応をしたかを思い出せば、当時の自民党の批判はブーメランどころか、2倍、3倍返しになっているし、菅直人政権が国民に対していかに誠実だったか、安倍政権が国民に対していかに不誠実だったか、がはっきりわかる。
今回のコロナ禍も、日本中の人々が、仮に安倍政権ではなく菅直人政権だったら、いや、トップが安倍以外だったらと考えてみたら良いと思う。まあ、大阪の維新の連中がトップだったら安倍よりもひどいことになっていたかもしれないが 笑)だって実際死亡率ワーストワンだからね。コロナに対する対応はTVに出演することだと思っているんだろうからね。
また、逆に今回のコロナ禍の対応ぶりを見て、もしあの311の時、トップが菅直人ではなく安倍晋三だったら(あるいは松井や吉村だったら 苦笑)どうだったかを考えてみたら良いと思う。まあ、こちらは考えるのもおぞましいことではあるが。
なんと言っても台風で死者が出ている時に赤坂自民亭でみんなで酒飲んでたんだからね。今回のコロナ禍だって、突然の大規模イベントの自粛要請やら全国一斉休校要請やらアベノマスクやら、ほとんどが思いつきだし、まともな説明ひとつできなかったんだからね。たぶん、東電に全ての責任をなすりつけて知らん顔を決め込んだことだろう。
そして、ただただやってます感を醸し出し、成果を自画自賛、「実際には野党側からの相当な突き上げによって実現した【コロナ特措法の】法改正を首相主導で実現したかのようにフレームアップ」(p.90)。10万円の給付だって野党が主張し、公明が創価学会の突き上げで耐えられなくなって進言した結果だったわけだ。
さらにどさくさまぎれでコロナ禍の「対応の失敗を『国民のせい』にして、憲法改正による国民の私権制限につなげるための好材料」(p.107)として利用しようとする。この本で繰り返し強調されているのは、安倍政権は「政治の責任を回避し、責任を国民に転嫁しようとした」(p.257)ということだ。
そして最後は「『国民へのお見舞い』を語るべき立場の首相は、逆に『自らへのお見舞い』を求めるかのような記者会見を残して、一方的に首相の座を降りていった」(p.273)。
ただ、これって問題点をきちんと指摘しないマスコミ、特にTVにも相当問題があるんだろうね。
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少し前にNHKで川端康成と三島由紀夫のノーベル賞をめぐる確執についての番組をやっていて、それと、東京新聞の読書欄で紹介されていたので、この本、図書館で借りて読んでみました。正直、川端康成って過去に読んだの文庫本二冊だけ 苦笑)しかも定番 爆)

少し前に新聞のコラムだったか? 川端研究で来日したイタリアからの留学生が、本屋に行っても川端の本がないと嘆いていたという話を読んだけど、まあ、そうだよねぇ 笑)
で、この本、感動しました。1945年4月から5月まで、川端康成は山岡荘八らと海軍の報道班員として沖縄へ向かう特攻基地の鹿屋に滞在した。数百人の20歳前後の若者が特攻機に乗って飛び立つのを見送り、その後は地下壕で彼らからの無線を最後まで(=死まで)追うという、ちょっと僕らには想像もつかないタフな体験を経た川端が、戦後「『特攻』体験から逃げ続けながら、文豪ともてはやされ、ノーベル賞まで受賞した」(p.43)と言われてしまう。
特攻隊員として生き残った人々の書いたものと、散華した隊員たちの手紙や日記などを資料に、川端康成がこの一ヶ月で何を見たのか、何を考えたのか、そして戦後の川端の作品に、その体験がどのような影響を及ぼしたのか、また三島由紀夫の「英霊の声」との対比で、そうした経験について戦後の川端が直接的にはほとんど書かなかったのはなぜかを、時には大胆な想像を交えて丹念に追いかけ、解釈していて、非常に感動的です。
山岡荘八のように、特攻隊員たちについて自分なりの解釈を交えつつも、人々に直接的に伝えなければならないと考えるのは普通の感覚です。誤解を恐れず言えば、作家としては、現代の作家が体験できないような体験をしたわけです。
しかし、川端の場合口を摘むんだ。川端が感じた悲しみや怒りをもっと直接的に語ってほしかったというのもアリだけど、「見てしまった者」として、何か直接的に語ることが嘘っぽくなると思ったのかもしれません。つまり特攻作戦というものは、川端をしても描ききれなかったようなものだったということなのでしょう。川端が残した特攻が出てくる小説は二篇。どちらも主人公は特攻隊員ではなく、残された女性の方が主人公になっています。
というわけで、しばらく川端康成の小説をいろいろ読んでみようかという気分になっています。
特攻についてはかなり以前に書いたことがありました。
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うーん、もっと若い時に読んでおきたかったぁ。
フィンランドだって決して何もかも素晴らしいわけではないけど、自助と自己責任と、ついでに言えばザマアミロの蔓延している日本の社会状況を思うと、やっぱり羨ましい。
たとえば子連れでパーティに出席した時、走り回る子供たちばかり気にしていたら、フィンランド人からなんで楽しむために出席しているパーティの会場で、子供ばかり気にしているのかと質問される。日本だったら、子供を放ってほいて自分だけ飲み食い歓談してたら、どんなことを言われるかわからないが、フィンランドではそんな心配をする必要はない。
あるいは、僕もそうだけど、日本ではレジで支払いに時間がかかったりすると、後ろに並んでいる人たちの目が気になる。なるべく人の迷惑にならないようにしたいと思う。だけど、フィンランド人は、後ろでイライラしていたかもしれないけど、レジで時間がかかったのはその人の問題でも、レジの人の問題でもなく、レジのシステムの問題だと考える(らしい)。
社会福祉制度についても、利用するのは困っている人だけではないのだ、公助というのはお世話になるのではなく、高い税金を一部還元してもらうとか、貯金する代わりに、いざというときのために国に預けてあるのだという考え方。これが普通だとおもうのだけど、日本では公が、ナマポなめるな!だよ、水際作戦と称して、生活保護者の補足率2割とかだよ。本来還元してもらう権利のある人が7割以上その権利を行使していないわけだ。
まあ、とにかく子育て中の方におすすめです。目からウロコのエピソードがたくさん。
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1929年から1939年、第二次大戦が始まる直前まで、ミュンヘンのヒトラーの住んでいたアパートの向かいに住んでいた少年の回想という形をとったドキュメンタリー/小説。
1929年は世界的大恐慌の時代。ドイツも御多分に洩れず破産者や失業者が溢れかえるが、主人公は、裕福なユダヤ人の編集者の父を持つ5歳の少年である。著名な作家レオン・フォイヒトヴァンガーを叔父に持ち、自分のお世話係の娘がいて、ピアノを習い、クラスの友人からは誕生日に招待されたり、別荘で過ごしたりしている幸せな少年。
その少年を2012年94歳の時点でフランス人ジャーナリストがインタビューし、それに基づいて書かれたのがこの本である。当時5歳から15歳までの時代のことだから、この本に書かれているほど明確な記憶があったとは思えないので、当時の歴史的な出来事についてはかなり補われているのだろう。そういう意味で純粋なドキュメンタリーとは言えないかな。
1933年にヒトラーが首相になり、国会議事堂が放火されて、前回も書いた全権委任法(ヒトラーに全権力を委任する法律)が成立する。共産党員は逮捕され、ユダヤ人はどんどん肩身の狭い状況になり、ヒトラーの地位が安泰となったところで、ナチスのチンピラ組織の突撃隊が粛清される。1935年にはユダヤ人の定義をきめ、公職からユダヤ人を排除したり、ユダヤ人の元でドイツ人が働くことを禁じるニュルンベルク法ができる。
こうした時代の変化の中で、少年はクラスでは存在しないもののように無視されるようになっていく。
うーん、読みながら今の日本のことを連想した。なんというか、みんなおかしいと思っているはずなのに、なんとなく流されていく時代の流れ。みんながヒトラー万歳だったわけではないのに、みんながユダヤ人を嫌っていたわけではないのに、なんとなくその時代の流れに押し流されざるを得ず、ユダヤ人との付き合いをやめていく。
先日も山本太郎の記者会見の時に書いたように、ヒトラーが首相になった時のナチスの得票率は33%で、議席数は195、6だった。それに対して共産党と社民党を合わせると220を超えた。もちろん上記のように国会議事堂の放火というナチスにとってまたとない好機を利用して独裁へ繋げていったわけだけど、でも、やっぱり1/3の支持率で独裁が可能になったのは、最も民主的と言われたワイマール憲法に緊急事態条項にあたるものがあったからだ。
また、この本でも最初の方ででてきたけど、南ドイツのミュンヘンでは最初からものすごいヒトラー人気だったようだけど、北東の首都ベルリンへ行くと、最初の頃はまだユダヤ人に対する露骨な差別もなく、ナチスも大手を振って威張り散らしていたわけではない。つまり、ナチスも
最初は南ドイツの地方政党だったわけだ。
そして一般の人たちの間にも、別段強い反ユダヤ意識があったわけではなかった。つまり、ヒトラーはユダヤ人(当時のドイツでは2%弱)を仮想敵にして、共産主義者はユダヤ人だ、第一次大戦で反乱を起こして敗戦をもたらしたのはユダヤ人だ、ワイマール共和国を率いてドイツを混乱させたのはユダヤ人だ、と
少数派の人々をバッシングをし、
独裁こそ決められる政治だを旗印に、
マスメディアを最大限利用して宣伝工作で人々の耳目を集めて、多少の
嘘があろうが
法律に触れようが、
無名よりは悪名の方が良いとばかりに名を上げていった。
むろんその後の失業者の激減を喧伝することによって、ナチスは勢力を伸ばしていく。ちなみにヒトラーの経済政策を誉める人がいるけど、失業者の数が減ったことには数字のトリックがあるというのが最近の研究の成果だそうだ。だから、実際は
「やってる感」をアピールして人気取りに使っていたわけだ。
アンダーラインを引いたところだけでも、どっかと似てるよねぇ 笑)
時代の流れは個人ではどうやっても押しとどめることはできない。当たり前のことだけど、なんとも恐ろしい気持ちで読んだ。
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高校時代昼休みになると図書館でこのジョルジュ・ド・ラトゥールの画集を眺めていた時期がありました。大好きでした。まあ、この画家、人間的にはかなり酷えやつだったらしいけど 笑)
というわけで、そのラトゥールの絵が表紙のこのミステリー、その噂を聞いて読みたい本としてだいぶ前からマークしてたんだけど、
先日書いたTVドラマの「相棒」の脚本を書いたのが、この小説の作者だと知り、早速読んでみました。
以前映画「新聞記者」で書いたことだけど、やっぱりエンタメは悪役が本当に憎たらしくないといけません。このミステリー小説も、前半のさまざまにミスリードを誘う伏線から、徐々に誰が悪かはっきりしてきて、しかもそれがすげー憎々しいんだわ。ネタバレは絶対避けたいけど、昨今のさまざまな事件を連想させられましたね。
例えば「このような謀略は警察官の仕事ではない。これを許しては、自分はもはや警察官ではなくなる」(下 131) なんてセリフ。きっと公文書改竄させられた赤木さんもこんなふうに考えたんだろうなぁ。
探偵の鑓水とアシスタントの若者修司、停職中の警官相馬の3人が、渋谷のスクランブル交差点で死んだ老人のことを調べることと、失踪した公安刑事を捜すという、それぞれ別の依頼を受けて捜査していくと、その二つがつながり、さらに舞台がドカンと変わって、最後は、え?こんなところに繋がるの?という驚きの展開。
まあ、最後の第3部100ページほどは夜中の3時までかけて一気読みでした。ところで、福島の原発のときも感じたけど、いつまでも後悔し続けるのは反対してた人なんだよね。積極的な原発推進派で後悔した人って圧倒的に少数じゃない? 逆にずっと原発に反対していた小出裕章さんみたいな人が爆発した後になんで自分はもっと強く反対しなかったんだろうって後悔したんだよね。
ナチスの時代もそうで、ユダヤ人を積極的に迫害した人たちは戦後になって頬かぶりするか、言い訳をしたのに対して、ユダヤ人を匿った人たちが、たとえば「シンドラーのリスト」のラストの台詞のように「もっとたくさん救えたはずなのに」って後悔する。この小説でも渋谷で死んだ老人と白狐の二人は同じように。。。おっと、ネタバレしない、しない 笑)
でも、一つだけ、ネタバレに近いかなぁ。。。最後は野党にリークするかと思ったんですがねぇ。。。苦笑)
そう、安倍のもとで作られた秘密保護法から入管法に至るまで、数々の悪法が成立しても、反対している人は考えすぎだと言う人がたくさんいたわけだけど、作者の思いはきっと次のセリフに集約されているんだろうなぁ。
「覚えておいてください。闘えるのは火が小さなうちだけです。」(下 149)
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うーん、4週間前から読み始め、なんとか今年中に読み終わりました。
おかげで今日乗る予定だった自転車は乗れず、今年の総距離は3000キロに5キロ足らず 苦笑)まあ、乗らなかったのはこの本のせいではなく、単純に今日の東京は寒すぎだったからなんですがね。
というわけで、一昨年の3月に I を読み終わり
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3733.html、9月に IIを読んで
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3832.html、それからちょっと間が空いてしまいました。
II の時に、ほぼ完璧にまとまっているかに思われた第二部で一つだけ宙ぶらりんのエピソードがあると書いたんだけど、やっぱりそれが大きな役割を果たしました。しかし、最初から II、II から III とどんどんスケールが大きくなり、この最終巻は… おっと、ネタバレするわけにはいきませんね 笑)
冒頭「時の外の過去」という訳のわからない文章で始まり、本編の間にこの短い文章が挟まります。この文章は一体誰がいつ書いたのかは最後にわかります。しかし、ものすごいスケール 笑) 途中も奇想天外、驚天動地の発想で、そんな馬鹿な!と言う人もいるかもしれませんが 笑) 途中に挟まれるメルヘンが完成度が高いし、それが全体の話とつながって、ときどき思い返されるのも面白いところです。
後半の話のテンポはかなり速く、掩体計画から曲率推進や暗黒領域計画だのと、目眩く思い。そしてラストへ向けて、え? 彼らは?? という気持ちを取り残したまま、ラストのなんとも私好みの終わり方 苦笑) 最後の主人公たちの決断に感動します。ナウシカのラストの、腐海の底の砂地に置かれた航空帽の傍らに芽吹いた双葉のような。。。
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戦時中の中国大陸から沖縄へ連れてこられた朝鮮人従軍慰安婦の「わたし」と、現在の、従軍慰安婦の話を書くために沖縄へ取材にやってきた小説家志望の女性「私」の話。
「わたし」は朝鮮の貧しい家庭で、ほぼ騙されて17歳で従軍慰安婦にされ、日本の軍人や士官、将校たちに凌辱され続ける。それはこんなふうに衝撃的に描かれる。「わたしは、ただただ、穴、に、される」(p. 20) 仲間達とはぐれ、戦火の中を死体をふみわけて、家族を失った沖縄の老人に救われ、ガマに逃げ込み大火傷を負いながらもなんとか生き延びて。。。
一方の「私」は30歳の非正規雇用の独身女性で、恋人もなく、エリートの親からは早く結婚しろと言われ、ほぼ等閑視されている。ここまで何度か文学賞に作品を送り、そこそこ認められつつあったが、そもそもが彼女にとって、従軍慰安婦の知識は完全に付け焼き刃なのである。そんな彼女は最後にどんな境地に。。。
以前、震災後を描いた北条裕子の「美しい顔」の時にも思ったけど、やっぱり小説家ってなかなか普通の性格の人間にはできないな、と思う。この「翡翠色〜」でも、途中で沖縄戦の聞き取りをしている女性や、信頼できる友人からもこのテーマについて批判的な言葉を投げかけられるのは、やっぱりこういう理不尽極まりない事実を前にして、小説家のたじろぐ気持ちの言い訳なんだろうと思う。
小説は奇数の章が「わたし」、つまり朝鮮人従軍慰安婦の体験で、偶数の章が「私」の体験と交互に描かれて、最後に現在の「私」が「わたし」と間接的につながる。ここは感動的だった。
ただ、描かれているものの重さ、深刻さに対して、全体的に文章が短く軽い文体なのが気に入らない。現在の「私」の章はこんなふうな現代風のライトな文章でいいとおもうんだけど、朝鮮人慰安婦の「わたし」の章はもっと違う文体にしてほしかったと思った。
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今月末の衆院選挙、色々な所で、さすがに自民は少し票をへらすが、一番躍進するのが維新ではないか、と予想されている。でも、維新のやり方って、公務員叩きが代表的だけど、敵を作ってざまあみろという、さもしく恥ずかしい感情を煽って人気を取ろうとするトンデモ政党で、欧州なら極右ポピュリズム政党とみなされるはずだと思う。
こういう反社的政党が人気を得る理由は、
拙ブログで何度も書いたけど、この本を読んでさらに納得いくところがあった。
人類の歴史はほぼ20万年前ごろから始まったが、この20万年間の95%は平等主義的だったそうだ。これは日本の歴史でも、1万年以上(100世紀だよ!)続いた縄文時代の狩猟採集時代は平和で争いごとの少なかった時代だが、弥生に入り農耕の時代になるとともに、不平等な、持つものと持たざる者、支配するものと支配されるものの時代になったということが言われている。
そう考えると、人の心に限れば、歴史って人類の発展上昇の経緯を示すものではなく、堕落へ向かって流れているんじゃないかという気もしてくる。
「不平等が拡大すれば、(。。。)人々は互いによそよそしくなり、思いやりの気持ちも少なくなる。すきがあれば他人を引き摺り下ろそうとさえする。」(p.98)
この本では格差が人々の心をいかに壊すかが、多くの文献をもとに示されると共に、そのような不平等な弱肉強食のあり方が、いかに間違ったあり方であるかも説得力を持って示される。
不平等な社会になれば人々は他人の不幸を自己責任という言葉で切り捨て、社会をよくしようとなどと思わなくなる。当然政治などまともに興味を持つことはない。心置きなく叩けて、叩き返される可能性がないものをみんなで叩きまくり、そこに快感を見出す。格差によって心は壊される。
つまり格差(不平等)社会になれば人々は様々な面で劣化する。劣化すれば他人の不幸を「自己責任」と突き放し、叩けるものを「ざまあみろ」と叩きまくる。自己責任とザマアミロは最初に書いたように維新のやり方と被る。劣化した人たちが維新に票を入れるのもムベなるかな。
しかも「自己責任」とか「ざまあみろ」とか「今だけ金だけ自分だけ」というさもしい感情を、新自由主義というやつが後ろだけになって、お墨付きを与えたわけだ。今回の選挙では自民党の岸田ですら、一瞬だけだったけど新自由主義からの脱却なんて言ったりしてた。
この本の最後の方では、企業のシステムとしていかに格差をなくす方向へ向かうべきかが、ドイツの従業員経営参加制度などを例に述べられ、「経済を民主化する」(p.414)とともに、それでしか持続可能な未来はないというところに辿り着く。
つまりこの本の題名は格差は「心」を壊す、だけど、壊れるのは心だけでなく、社会も環境も地球も壊れるわけだ。
たぶんこのまま「自己責任」と「ざまあみろ」の社会が続けば、人類は遅かれ早かれ滅ぶな。そんな気がしている。
400ページのヴォリュームで、たくさん援用される資料の部分は読みやすくないけど、おすすめです。
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以前にも書いたことがありますが、20代後半か30代初め、夏休み中に岩手県を自転車でツーリングしたことがありました。そのとき花巻空港のそばの主要道路が車が多かったので迂回したら、偶然羅須地人協会の前を通過し、軒先にカタカナで「下ノ畑ニ居リマス 賢治」という黒板?がぶら下げられているのが見えました。そのまま先に進むと宮沢賢治記念館の案内が見え、せっかくだから寄って行こうと思ったら、急勾配の山の上にあって結構ヒーコラ言いながら登った記憶があります。
文学少年でしたから 笑)宮沢賢治は小学校の学級文庫で銀河鉄道の夜や注文の多い料理店なんかを読んだりしてましたが、実際にきちんと文庫本で読んだのはもう少し後だっただろうと思います。その時詩集の「春と修羅」も読んだけど、記憶に残ったのは「永訣の朝」ぐらいです。でも、その中の「あめゆじゆとてちてけんじゃ」というリフレインは覚えていました。もっとも今回のこの本を読むと、「あめゆじゅ」と読むようです。「あめゆじゆ」の方が5音になって語呂が良さそうですがね。
また、40年近く昔、井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」という演劇がTVで放映されたのを見たことがあります。その時宮沢賢治の父親役は
佐藤慶。大好きな俳優でした。本箱の奥をゴソゴソやったら本が出てきました。TV放送に感動して買ったのでした。


上の写真の右が佐藤慶の父、左は賢治役の矢崎滋。
なので、この宮沢賢治の父親の立場に立った小説、読みながら主役の父親は姿も声も佐藤慶でした 笑)
賢治と父の葛藤は有名です。ただ、家業の質屋が嫌で、父に反発して父の信じる浄土真宗に対して、当てつけのように日蓮宗を信奉するという父親側の視点からの賢治は新鮮でした。通常は、賢治の側から、金持ちで人々からも尊敬され、なんでも頭ごなしのウザい父親と見られていたような気がします。また、なにより賢治のことを考え続け、思い続け、悩みながら譲歩し続けた父親の姿に、3年前に他界した私の父のことをいろいろ考えました。その点だけでも読んで良かったと言えます。
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表紙の絵はロヒール・ファン・デル・ウェイデンが奥さんを描いたのではないかと言われているもので、30年以上前にベルリンのダーレムの美術館で見た時に魅了されたという個人的な思い出があります。

向こうの美術館はフラッシュ焚かなければ写真OKなので、いろいろ撮りましたが、この絵はこちらをじっと見つめる目の力強さがすごくて、500年間俺を待っていてくれたんだと思ったのでした 笑)
というわけで、この絵だけで手に取って読み始めたら、絵の好みがかなり私の趣味と合致して、とても面白く、あちこちにマーカーで線を引いたりして、時間をかけて読みました。
ほぼ年代順に有名な画家たちの作品が解説されるのだけど、その作品が一般的な美術史で取り上げられるものとは少し違っていて、レオナルドやラファエロも取り上げられているけど、どちらかというと北方ルネサンスのロベルト・カンピンやファン・エイク兄弟、ドイツルネサンスのアルブレヒト・デューラーのほうが比重がかかっている。目次を見ればわかるけど、ここにはミケランジェロもレンブラントもフェルメールもゴヤも、そしてなによりフランス印象派が全く扱われていない。ピカソや20世紀の抽象画の画家もいない。最後の二つの章はシャルフベックと、3年ぐらい前に上野で展覧会が開かれたハマスホイの北欧の暗い画家二人と、バウハウスにつながる工芸美術作家ヴァン・デ・ヴェルデという地味さ 笑)
各章がいろいろつながりを持っていて、特に19世紀のローマで活躍したドイツ人画家たちやフランス人たちから、イギリスのラファエロ前派へ関連づけられていく後半の章は、知らないことばかりで面白かった。
で、こうやっていろんな画家たちの絵を見ていくと、やっぱり桁違いに上手だなと思うのはファン・エイク。ファン・エイク以前のロベルト・カンピンや以後のロヒール・ファン・デル・ウェイデンと比べても、描かれている(描かれていない)空気の密度というのか、空間的な奥行きが桁違いに澄んでいて厚みがある。この本とは別の本で読んだんだけど、「アルノルフィニ夫妻の肖像」で後ろの壁にかかっている数珠玉の超拡大写真をみると、フェルメールが200年以上後にやるような光を点として描くことをやっているのだという。一見輪郭を細密に描いているようにみえるファン・エイクの絵だが、この数珠玉には輪郭線はまったくなく、筆でさっとなぞらえただけの色の斑点がおかれているのだそうだ(小林典子「ヤン・ファン・エイク 光と空気の絵画」参照。この本、私にはちょっと専門的すぎて敷居が高すぎ、途中で挫折しました 苦笑)。
というわけで、表題の本に戻ります。一言で言えば面白いです。ですが、この題名はちょっといただけない。買う時ちょっと恥ずかしかったです 笑)扱われている画家がかなりマニアックだし、それなりに西洋絵画を見慣れている人向きでしょう。
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図書館で借りてきました。うーん、すごい小説でした。面白かったと言うと不謹慎と怒る人もいるかもしれません。ネタバレしないように書きますが、東日本大震災で傷ついた二人の親友の娘の、いわば再生の物語です。
あちこちに伏線が張りめぐらされていて、二人の娘の独白の形で話が進みますが、最後の方は本当に感動的です。電車の中で読んでて困りました。出てくる人達の何人かは最初はなんだかわからないのですが、読み進めていくと、あれ?この人は。。。と気が付くことがたくさん出てきます。たとえば「バスは来ない」と教えてくれたおばあさん。
途中からは昔ここでも紹介した
コニー・ウィリスの「航海」を連想していました。なんか、雰囲気がそういう感じだったんですよね。
震災から5年でこういう小説が書けるという作者の小説家としての自負というのか勇気というのか、それもすごい。
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拙ブログでも何度も取り上げた相模原のやまゆり園障害者大量虐殺事件を題材にした小説。何しろ辺見庸だからね、容赦がない。辺見庸は
以前南京事件を扱った「1937」について書いたことがあるので、そちらもどうぞ。
この小説の語り手は重度重複障害で寝たきりの「かたまり」として存在する男女も年齢も不明の「きーちゃん」。目も見えなければ手足も動かすことができず、時々身体が激痛に襲われるけど、思うことはできる。そのきーちゃんを施設で介護する「さとくん」が、ほぼ現実の相模原事件の犯人をなぞっている。ややネトウヨ的なところもあるが善良で真面目な好青年だ。実在の犯人と同様、世の中をよくするためにはどうすればいいのかを考え、同時に人間とはなんであるかを考え、人間の形をしていても人間ではないものは抹殺すべしとの思いに至る。そしてここにきーちゃんの分身とされる「あかぎあかえ」が幻想のように時空をこえて(?)縦横無尽に現れて「さとくん」と議論し、「さとくん」の暴走も止めようとするのだが。。。
人間は「ある」だけでいいのだと言えるか? 小説の中に頻出するカゲロウのイメージが「この世に存在するだけ」という意味を考えさせる。現代の日本人は「さとくん」の主張に対して、正面から答える(反論する)ことができるだろうか?
現代社会にはおぞましいほど「優生思想」がはびこり、普通の人はそれにほとんど気がつかないか、気がついてもスルーする。役に立つか立たないか、生産性があるかないか、経済効率で考えてプラスマイナスどっちなのか、そんな基準で優劣をつけてはいけないはずである。だけど、その「いけないのだ!」という確信の根拠を言葉にできるだろうか? これをみんなが真剣に考えれば、たとえ答えが出なくとも(むしろ安易に答えを出す必要なんかないと思う)、社会は変わると思う。
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先日紹介した「ヒトラーの脱走兵」と並行して読んでいた小説。ドイツの森の中に点在する7つの村に郵便を配達する17歳の少年(従軍し左手を失い、故郷に戻って郵便配達夫の仕事についている)の目を通して、1944年8月から1945年5月までの村の人々の様子が淡々と描かれる。
44年8月といえばすでに西ではノルマンディに米英軍が上陸しパリ解放直前、東ではドイツ軍はソ連軍の前にすでに敗走状態で、国防軍によるヒトラー暗殺計画も失敗して講和の可能性もなくなり、あとはドイツが壊滅するのを待つだけの絶望的な状況。狂信的なナチ支持者はヒトラーによる秘密兵器に期待を託すが、一般の人々でそんなものを信じる人はほとんどいない。
そんな中でも主人公は郵便があるかぎり配達を続け、村の人々から信頼され、人々の置かれた事情を黙って見ている。
そもそも主人公を戦時中の郵便配達夫にするという設定だけで、十分感動的な話になるだろうことは、誰にでも予想できる。戦地からの夫や息子、孫の手紙を届ける一方で、戦死の通知も届けなければならない。
手紙を届ける村の人たちの様子が細かく描かれ、狂信的なナチの少女もいれば戦地の息子や夫を案じる女たちもいる。労働援助にきた捕虜のフランス人の子供を身ごもっている戦争未亡人も、主人公と同じ傷痍軍人も、疎開してきた人たちも、戦死した孫を思い認知症になってしまった老女もいる。かなりたくさんの名前が出てきて、一度しか出てこない人もたくさんいるが、何度も出てくる人もいるので、どの村の誰で何をしているかをメモすることをお勧めします。
最後に、正直にいうとあの結末だけは気に入りません 笑)
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