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澤野雅樹「絶滅の地球誌」覚え書き

2017.08.18.22:38



生命が誕生して以来、周期的に生じる生物の大量絶滅の話、つまり古生物学の話かと思って読み始めたけど、強烈な現代社会批判の書だった。特に原子力というものが「賢者でも哲人でもない普通の人間の手元に残され」(p.13)たことで、人類はのっぴきならぬ事態に追い込まれている。

内容が、数式なんかも出てきて、文系人間には難しいところもあったけど、文章として、あちこちにちりばめられた比喩が秀逸。また、紹介される個別のエピソードもとても面白いし、ここで展開される現代社会批判も納得いくものばかりである。

著者は最終的に「見えてくる眺望は最悪のシナリオになる。しかし、そのシナリオを最も深刻な形で素描することによって、その傍らに一つの希望が見えるようにしておきたい」(p.14)という。その最悪のシナリオはこんな感じ。

「いつか地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になるだろう。人間が何をしようが(あるいは何もすまいが)その未来は必ず訪れる。ただ、遅いか早いかの違いだけだ。それゆえ、我々人間にできることがあるとすれば、終末の景色を急いで手繰り寄せるか、あるいは可能な限り遠ざけようとするかのいずれかである。あるいはその選択すら避けて、何の根拠もなく同じ日常が永遠に続くと信じることも可能だろう。その選択が最悪の手にならなければ良いが。」(p.84)

僕らの想像を絶する未来の話だと思っていたSF的な終末の姿は、実はこの先数百年、ひょっとしたらもっと近い将来の話なのかもしれない。ネイティブアメリカンのナバホ族の言葉に7代先のことを考えて行動しろ、というのがあるが、今こそ、僕らは7代先のことを考えなければならないのだと思う。

そして、「人間は進化の目的でも終着点でもない。人間に何か特別な使命があるわけでもない。人は内輪の目的を追求しているだけであって、宇宙や自然の観点からは人のどんな活動にも価値はないし、どんな人生にもそれ以外の意味はない。」(p.177)

僕もこれには強く同意する。僕らがやっていることに何かの価値があるわけではない。これは常に意識していなければならないと思う。相模原の障害者虐殺事件で、犯人は重度障害者には価値がないというようなことを言ったそうだ。そして、それに同意する人もたくさんいるらしい。バカなことを言ってはいけない。宇宙や自然という大きなものを考えた時、どんな人間にも価値などない。

だけど、ここから簡単に、「だから何をしても無意味だ」というニヒリズムに逃げるのは安易すぎる。逆である。だからこそ、人間の命はどれも大切なものなのだと思う。何十億年にもわたって進化してきた生命の歴史を考えた時、僕が今ここでこうしてキーボードを叩いていることに何の意味もない。いずれ、おそらくそう遠くない将来「地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になる」のかもしれない。だけど、だからこそ、ここでこうしてキーボードを叩いているこの一瞬が大事なことであるとともに、この一瞬がとてもいとおしく思えてくる。



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佐藤亜紀「スウィングしなけりゃ意味がない」

2017.07.05.23:05



ナチスドイツ時代のハンブルクで、ナチにより退廃芸術として禁じられたジャズにうつつを抜かす青年たちを描いた日本人作家による小説です。

津島佑子の「狩りの時代」に、ヒトラーユーゲントの話が出ていました。そこから当時の青少年たちについて知りたいと思って読んだ「ナチ独裁下の子どもたち」という本で、スウィング団という反ナチ(?)グループがあることを知り、それを扱った日本人の小説が出たと聞いていて、やっと読んだのでした。

このスウィング団、思想的な反ナチではなく、自分たちがここちよいと思うものを禁じられたことに対する抵抗として、ゲリラ的にパーティーを開いたりしますが、主人公たちは富裕層のボンボンで、兵隊にもならずに済むような恵まれた奴らです。

しかし、そんな彼らも時代とともに。。。

ハンブルクというと、第二次大戦中にドレスデンとともに、連合軍の激しい爆撃にさらされたことで有名です。昔、20世紀の時代にはシムシティという、街を作っていくゲームがありました。僕は友人のところで数回やったら飽きましたが、その中にハンブルク1944というのがあって、ハンブルク市の火災を消し止めつつ、街を復興させていくシミュレーションになっていました。

そういうわけで、この小説でもハンブルクが爆撃にさらされるシーンが出てきて、このシーン、私は電車の中で読んでいて乗り過ごしました 笑)

事実に基づいた小説で、時代背景や史実をかなり克明に追いかけ、細部の道具だけのリアリティもあるし、実在の人物も出てきたりして、すごい小説だと思うんですが、文章がどうにも気に入らない。特に会話の間の地の文が、主語のない、いわゆる体験話法みたいな文章を多用していて、僕としてはとても読みづらく感じた。

会話自体も現代の若者ことばで、ちょっと違和感を感じます。特に最初の数十ページは、読むのやめようかと思ったぐらい。ただ、読み終わった今はやめなくてよかったと思っています 笑)

登場人物たちの名前も覚えづらく、冒頭の地図と登場人物のページをコピーすることをお勧めします。さらに、その登場人物一覧も前半の人物がメインなので、後半には、ここに名前が出てこない重要人物も出てきます。書き加えていった方がいいでしょう。

読みながら、70年以上前の話ではなく、近未来ディストピア小説ではないか、と思ったりしたけど、今の時代にこういう話を書くことに、作者には、言うまでもなく、なんらかの含意があるのでしょうね。



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立岩真也・杉田俊介「相模原障害者殺傷事件」覚え書き

2017.05.12.02:36



読み終わったのはもう2週間近く前。だけど、どうもうまくまとめられないできた。今もうまくまとめられないままなので、覚え書き程度にメモしておきます。

正直に言うと立岩真也の書いた部分は、なかなかレベルが高くて(=予備知識が必要で)ちょっと読みづらい。でもあちこちに心を打つ文章が点在している。

「できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。 」

この事件の犯人を精神障害者が妄想に取り付かれておこなった特異な事件だとして、精神医療の問題に限定してしまおうとする人たちがいる。だけど、この事件は今の時代の空気を如実にあわらす事件だったと思う。それについては何度もここで書いた。だけどその後、この事件の対策として語られるのは精神障害者の措置入院制度を検討し直すという話ばかりだった。

つまりその方が安心なのだろう。死刑制度のことを書いた時にも触れたけど、ああいう犯罪を犯すようなやつと自分は違うと言いたいわけだ。ああいうやつは何か怪物のような悪党、映画に出てくる異常な犯罪者でなくてはならない。そう思うことで自分とは違うと安心できるわけだ。

だけど、そんな線が引けるのだろうか? 誰が引くのだろう? この本はまさにそうした線引きなどできないのだ、という本だ。

杉田俊介の書いた方は、個人的にはとてもわかりやすかった。上記の立岩の言うように、働かざるもの食うべからず、は人間社会の中で原則になっている。それが高じていくと、働かない奴は邪魔だ、いなくなってくれ、というところまで、もうあと一歩だ。

「無意味な人生であれば殺してしまったほうがましだ。それが国のためになり、ひいては世界のためになる。もちろんそれは吐き気を催すような、ぞっとするような考え方である。だが、ふとこうも思う。それは誰よりも、あなた(たち)があなた(たち)自身に密かに言い続けてきたことではなかったか。」(144-5ページ)

この文章の最後のところは読者に向かって語りかけている。誰だって過去に、ああ、こんな俺なんか死んだほうがましだ、と思うことがあるだろう。こんな無意味な人生なんか終わらせたい、そんな瞬間が人生で一度もないという人は、まあ幸せな人なんだろうね。つまり優生思想というのは自分自身にも向けられているものなのだ。

星野智幸の小説に「呪文」というのがあって、最初に読んだ時は、ものすごく面白いけど、どう考えたらいいのか、よくわからなかった。この杉田俊介の、優生思想というのは実は自分にも向けられるものなんだというのを読んで、この星野の小説を思い出した。


優生思想の根というのは深く、これをしっかりと断ち切るのはなかなか難しいし、社会の有り様に直結する問題をはらむ。先日書いた自己責任ということとも繋がってくるだろうし、死刑制度とも繋がってくると思う。生きている価値がない人間がいるのか、生まれてこない方が良かった人間がいるのか、ということである。その価値は誰が決めるのか? そもそも人間の「価値」ってなんだ? 

これに対して、杉田俊介は「人間の生には平等に意味がない」と言い放ち、個人の「意味と無意味の線引きを拒絶」するという考えを述べている。以前書いたことがあるフェリーニの「道」という映画に、登場人物が知恵遅れの主人公に向かって「意味のない人生なんかない、空の星だって、この石ころだって、必ず何かの役に立っているんだ」という感動的なシーンがあって、何度も泣かされたシーンだけど、杉田はそんな甘いことを完全否定しようとしている。これを正しいと思うかどうかは人によるだろう。意味がないなら、何をやってもいいではないか、という繋がりで、ニヒリズムにたどり着く可能性も考えられる。さらに、そのニヒリズムを超えて(簡単に言うが、これもまた大変なことだろう)、これを正しいと思っても、この境地まで一足飛びにたどり着くのは難しい。そうだとしても、「低い声でぶつぶつつぶやいていればいずれじわじわと染みとおっていく」(189ページ)のだ、と思いたい。

とりあえず、今は、優生思想的な発想を「のさばらせないこと」が大切である。



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坂口安吾「堕落論」を読んだ

2017.04.04.16:43

芸人にまで教育勅語の内容は悪くないなどという輩がいるそうだ。ぼーっと読めば、別に常識的な事が書いてあるじゃないか、親孝行せよとか友達同士仲良くせよとか。

しかし、ちょっと待ってほしい、そんなのは教育勅語のポイントでもなんでもない。前にも書いたように、そんなものを称揚するために教育勅語を持ち出す必要性などまるでないのである

教育勅語の精神というのは、前にも書いたように、いざ事が起きたら天皇のために命を投げだせというところなのである。ここがキモね。特攻隊なんていうバカな戦法を担保したのがこの精神なのである。だけど、本当に天皇はそうしてくれと思っていたのか? 

学生時代、読んだことあるというアリバイ作りで読んだ坂口安吾、何も覚えていなかった。読み直すと、今の時代にそのまま通用しそうな事がたくさん書いてある。例えばこんなところ。

「天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。(中略)それは彼らが自ら主権を握るよりも、天皇制が都合が良かったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が真っ先にその号令に服従して見せることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた。」(続堕落論)

天皇の名の下に、権力者たちは自分たちの欲することを人々に押し付けたのである。

教育勅語の文面を作ったのは明治天皇などではない。体裁だけは明治天皇が与えたという形にしているだけで、天皇を利用して自分たちの権力を守ろうとした当時の権力者たちが考え出したものである。

今また、天皇を利用して、自分たちの権力を守りたい奴らがいる。教育勅語をめぐる問題は、内容がいいか悪いか(天皇のために死ね、なんて悪いに決まっている)などではない。あれを押し付けたがっている連中の意図(天皇を利用して権力を守るという意図)こそが問題なのである。



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清水潔「『南京事件』を調査せよ」

2017.03.24.11:20



図書館で予約してから随分待った。南京虐殺を否定する人たちを見ていて、前からずっと思っていたのは、南京事件の証言をしている元兵士たちが沢山いるのに、ということだった。この否定する人たちは彼らを嘘つきだというのだろうか?

この本の中には数冊の日記まで出ている。兵士が日記を書くということが不思議だろうか?しかしドナルド・キーンさんは太平洋戦争に従軍して、死んだ日本人兵士の日記を読むことを仕事にしていたのは有名な話だ。日本軍は、世界的にも珍しいらしいが、兵士に日記をつけさせることを奨励していたそうである。さらに多くの証言がビデオやテープに残っている。

こうした当事者の話を、南京事件がなかったと言っている人は、一体どう考えるんだろう? 上に書いたように、元兵士たちが嘘をついているというのだろうか? 確かに従軍慰安婦を強制徴用したと嘘をついていた吉田某という著述家もいた。しかし、あんな人が何人もいるだろうか? あの吉田某は著述家で、嘘でも売れればよかったのだろう。ネタとして嘘をついたのだろう。だけど、本にするわけでもない一般の元兵士たちが嘘をつくだろうか? しかも自分たちは沢山の無抵抗の人たちを殺したという嘘を、である。常識的に考えれば逆だろう。そんなことやってないという方が普通の嘘だ。(ついでながら、吉田某が嘘をついたところで、それで従軍慰安婦がなかったということにならないのは、右派の秦郁彦ですら、これを持って強制連行がなかったと言えるわけではない、と言っている通りである。これについても以前書いたことがある。)

もし彼らがみんな嘘をついている(いた)のだ、とそれでも言うのなら、つまり、日本にはかなりたくさんの自虐的な嘘をつく人間がいる(いた)ということになる。嘘だと主張する人たちは、それでもいいのだろうか? 自虐的な嘘をつく人が、世界でも稀なほど沢山いる「美しい国」ニッポン!

細かい検証(調査報道)は、もう、この本を読んでもらうしかないが、虐殺に関わった元兵士の幾つかの話が心に残った。

「何万という捕虜を殺したのは間違いねえ(。。。)俺は生きて帰って、しゃべって、それから死にてぇなと思ってたんだ…」(85)

これを語った人もすでに故人である。命令だったんだから逆らえなかった。当たり前である。こうした兵士たちを責めるような人は、僕を含めていないだろう。だって、もし自分がその兵士だったら、と思えば、逆らえるはずもない。


当たり前の話だが、戦争は被害者を作るが、加害者も作る。若松孝二の「キャタピラー」では、主人公の夫は戦争に取られて両手両足を失うが、冒頭に描かれたように、中国大陸で少女を強姦して殺している。彼は被害者であるとともに加害者でもあったわけだ。この両面を見なきゃだめだよ、と若松孝二監督は言いたかったのだろう。




この本の中の元兵士たちのこんな言葉も心に残る。

「『なかった』というのは、本当は、あったことを知っているから言っているのだと思います。知っていて、それでも『なかったことにしたい人』が言っているんじゃないかと思います」(203)

それでも否定派に限らず、多くの一般日本人の間に広まっているのは、中国は30万人という数字を主張しているが、そんなに殺したはずはない、という言説である。確かにこれはもうわからない。ナチスはウクライナのバビ・ヤールというところで3万人以上のユダヤ人を殺した時、その数字を端数に至るまできちんと数え上げていた。さすがに日本人にはそんな偏執狂的なところはなかったようで、殺した人間の数などわからない。

確かに「白髪三千丈」の国だから大げさに言ったのだというのは説得力がありそうな気もする。しかし、100歩譲って半分だったら15万人、さらに1000歩譲って、10分の1だったと仮定したら? しかし、30万でも15万でも3万でも同じだろう。

「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある」(堀田善衛「時間」新潮文庫p.57)

正確な数はいつまでたっても絶対にわからない。だったら、日中の学者が集まっておおよその数を推定していくしかないだろう。そのためにはまず日中の関係がもっと良くならなければダメだろう。

例えば、日中国交回復した時、周恩来は日本人民も被害者だと言って、責任を追及するようなことはしないと言った。日中の関係が一番良かった時期だ。なのに、今頃になって原田義昭元文部科学副大臣は「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国は今や否定しようとしている時」なのだ、と記者団に語る。ラジオ番組に出てきて「捏造だ」と言ってしまう。これじゃあお話にならんだろう。


ベルリンの壁が壊れる前にTVで、北朝鮮から亡命した青年たちのインタビューを見たことがある。彼らはエリートで東ドイツへ留学したのである。電車の中で、胸につけている金日成バッチについて誰だ? と質問され、誰も将軍様のことを知らないことにショックを受けたと言っていた。それぐらい彼らは国内で洗脳されていたのである。

南京大虐殺や慰安婦のことをなかったなんて言って、それを日本人に信じさせたところで、上記の北朝鮮の青年の時代とは比較にならないほど世界は狭くなっているのだ、世界に出た時に大恥をかくことになるだろう。


さて、戦後生まれの僕ら個人に責任はない。当たり前だ。ただし国家は別だ。国としての罪を認めて謝罪するのは当たり前の話である。そして、僕ら個人に責任はない、と言っても、だからどうでもいいというわけにはいかないのも当たり前である。結局、僕ら個人としてやるべきことは、この本のあとがきにもある言葉に行き着く。

知ろうとしないことはやはり罪なのだ。(273)


南京事件について興味があれば、こちらの過去記事もどうぞ。
堀田善衛「時間」など
辺見庸「1☆9☆3☆7☆」

……
同日13:20加筆修正しました。

……追記 2017,3/25……
東京大空襲についても書かなくちゃならないだろうというコメントをつけてくれた方がいましたので、コメントに少しだけ書きました。こちらも一緒に読んでいただけると嬉しいです。

……追記 2017,3/26……
この記事に不満で、南京虐殺なんて嘘だ、一方的な意見しか見てないという人もいるかもしれませんが、まずはこの本を読むことをお勧めします。様々な「まぼろし」説に、具体的かつ信頼性のおける証拠を提示した上で反論しています。例えば陸軍の公式記録はほとんど残されていません。残っていて、そこでこんな事実が書かれていなかったなら「まぼろし」論も信ぴょう性を得ることでしょう。しかし、資料はないのです。破棄されたのです。だからなかったなんていうのは、資料を無くしちまったもの勝ちの話でしょう。将来、北朝鮮が開かれた国家になった時に、拉致問題の資料がないから、そんなことはしていないと言われて納得しますか?

この本の中に、ほとんど消滅してしまった公式資料の中で奇跡的に残った「第66連隊第1大隊の戦闘詳報」の「虐殺は軍の組織的命令だった」ことを明らかにする文書の紹介があります。これなどはこの文章を捏造だというのなら、もう何も検証できないでしょう。

何れにしても、この記事に不満の方は、まずはこの本を読んでもらいたいと思います。決して一方的な方向から書かれているのではありません。


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津島祐子「狩りの時代」について

2017.01.20.09:22



津島祐子が2016年2月に死ぬ直前まで書いていた小説だそうだ。戦前から福島の原発事故後までの時間で、仙台の北村家と山梨の小森家の様々な登場人物が登場する話なので、家系図を書きながら読むことをお勧めします。この二つの家族は次男と次女が結婚していることでつながりがあるのだけど、おじさんやおばさん、いとこたちが次々に出てくる。

テーマは人々の無意識のうちにある差別意識だ。少なくとも著者の娘の津島香以のあとがきによれば、生前、津島祐子本人がそう言ったそうだし、去年の夏に起きた相模原事件のことを考えると、作者がもう少し長生きしていれば、この事件を経た後に、この小説にどんな風に手を入れていっただろうな、と考えさせられる。

差別がテーマと言ったけど、声高に差別を否定しているのではなく、人間というのは必ず差別意識を抱えている、それをどう自覚するか、そして自覚したら、それをどうするか、ということを問うているのだと思う。

主人公(と言っていいのだろう)の絵美子は兄が障害者で(この障害者の造形がけっこうリアルで、僕などは読むのがけっこう身につまされた)、その兄をめぐっていくつものエピソードが出てくるし、戦前に日本を表敬訪問に来たヒトラーユーゲントの逸話やナチスの障害者安楽死作戦といったベタな差別の話から、アメリカへ渡った原子物理学者の叔父の名誉白人的な立場や、絵美子が行う仙台の同世代の親類たちと都会の子である自分との比較など、いろいろなところで差別意識が暗示される。

例えば、こんな文章はどう読めるだろう?「かわいらしい子どもがいれば、天使のようだ、とひとはいう。天使は、醜い顔をしていてはいけないのだ。」(23ページ)

かわいいかかわいくないか、頭がいいかよくないか、役に立つか立たないか。人間は皆それぞれ違う。それはそれぞれの個性だと言われる。違うから区別するわけだが、しかし、区別にこのような価値付けをすれば差別につながっていくだろう。区別と差別の違いは、実はものすごく微妙だ。

それはともかく、それぞれの登場人物の作り込みがすごく、それぞれにものすごいリアリティがある。そして、それぞれのエピソードが時空を超越して、思い出の断片のように次々と出てくる。それが時代順ではなく、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。だから年表を作るとさらに楽しめるかもしれない。

確かに作者が完成させる前に死んでしまったため、全体のまとまりが足りないようにも感じられるし、特に最後のとってつけたような叔父の夢の話などは、まだまだこれからまとめるべき話だったんだろうと思わせるけど、逆にこの叔父の夢の話は、作者自身の最後を思わせて痛切でもある。

差別意識は誰にでもある。前に書いたように、障害児の父親である僕にだってある。だからしょうがないといって、その意識を解放してしまえば、人間の質が間違いなく下がると思う。常に自らの内にある差別意識を自覚し、それを恥じることをしなければならないんだと思う。そういう差別意識というものを考えるためにも、この小説を読む意味はあると思う。もちろん、意味なんて考えなくたって、人物造形やエピソードのリアリティが面白いし、小説を読む楽しさを満喫できると思う。



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斎藤美奈子の「学校が教えないほんとうの政治の話」

2016.12.15.01:59



図書館でちょっと手に取ったら、なかなか面白くて、つい借りてきてしまいました。いやあ、この人、東京新聞のコラムでも、時々ビックリするようなすごいことを書く人ですが、大した才人です。

特に、戦後民主主義を左派的と見なすなら、現在は左派が1点リードで9回裏、右派はツーアウト満塁一打逆転サヨナラのチャンスにバッターボックスに安倍が入っているという例え。なかなか笑えたんですが、笑っている場合じゃないですね。

この斎藤の比喩に乗れば、なにしろここまで、完全なストライクをボールと言ったり、ほとんどすべての解説者がアウトだと言っているのを、審判を変えてセーフにしたり、とむちゃくちゃやってきてますからね。球場警備員も文句を言う観客を片っ端から追い出して、挙げ句の果てに差別用語まで撒き散らし、球場は大混乱ですよ。

斎藤美奈子本人は自分を左翼だと言っていますが、ここに描かれている右の人たちの意見もきちんと書いていて、そこには聞くべきものもあるというわけ。そして、読者にはどちらがいいかと問いかける。

だけど、問題は、現代はそんなレベルまで行っていないと思うんだなぁ。右だ左だという前の段階で、それを議論すべき前提すら理解しないまま、議論そのものを否定するようなことを言う人たちが、今の日本には満ち溢れているわけです。しかも、そこらのネトウヨが言うのとは違いますよ。自分たちの意見を批判する新聞社を潰せとわめく権力寄りの作家や、「天賦人権説」を否定しちゃう議員なんて、もう何をか言わんや、ですよ。そして自分たちの目指すことを「ナチスの手口を真似して」実現しようと言ったり、ハーケンクロイツ掲げるような奴らと一緒にニコニコ写真を撮ったりする連中が大臣の座にいるわけですからね。

ただね、この本も、結局一番読んで欲しい人たちは、おそらく手にもとらないでしょう。これだけ分かりやすく現代に至る日本の政治の状況を説明しているのに、選挙に行かないような人たちは、当然この本を手に取るはずもないし、ましてやネトウヨさんたちにいたっては。。。拙ブログに、時々いたずら書きをしてくるネトウヨさんや安倍応援団なんかも、こうした良識的な、至極まっとうな本は読まないでしょう。仮にこの本を手に取った、あるいは目に留めた人でも、まず斎藤美奈子を知らなければ、ネット検索してレッテルが貼ってあるのを確認して、それでもうわかったつもりになるでしょう。仮に読んだとしても、はなから揚げ足取りにしか関心がないだろうから、本筋とまるで別のところでとんちんかんなことをアマゾンのレビュなんかに書いて、星一つにしちゃうんでしょう 笑)



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中野好夫のエッセイ集 「悪人礼賛」

2016.12.12.22:01



図書館で借りてきて、先ほど読み終わりました。感心したので、アマゾンで注文したところです。

著者はすでに30年以上前にこの世を去った名翻訳家。主に敗戦直後から70年代までに書かれた短めのエッセイを集めたものだけど、あちこちに指摘される戦後の社会に対する批判が、今の社会に対する批判として読んでも完全に通用してしまうのが恐ろしい。

「超国家主義の勢力拡張時代」にそれを「心から積極的に支持していた国民は」少数派だったはずなのに、そして陰で軍部の専横を批判する人もずいぶんいたのに、「いたずらに面従腹背の市民たちが、卑屈の沈黙と心にもない権力追従を続けているうちに、ありもしない恐るべき国民の総意なるものが、いつの間にか作り上げられてしまっていた」(218ページ)

これなど、現在の日本、平和主義を国是としていたはずが、なし崩しに戦争のできる普通の国になりつつあるのに、多くの人たちが黙っている現在の日本の雰囲気につながるのではないか。

「かつて1931年ごろから日夜僕らの意識の中に流し込まれた「非常時」というスローガン」は「結局はその陰に隠れて、狂信的ミリタリストたちが彼ら自身の独裁を不抜のものたらしめるための、巧妙極まるプロパガンダであったことは、あたかも世界中に常に戦争危機の空気を振りまいて歩くあの「死の商人」たちの陰謀と同断であったことなど、今では中学生でも知っている」(207ページ)

これだって、中国が攻めてくる、北朝鮮がミサイルを日本に撃ってくるという不安をかきたてるマスコミのこと思い出す時、そのまま当てはまる言葉だ。私のコメントにも時々書き込んでくるネトウヨ(あるいはネトウヨまがい)の連中が言う中国脅威論を、大喜びしているのは「死の商人」とその周辺の利権あさりに余念がない連中だろう。

「現実が真理を作るという風に人は考えやすいが、これは甚だしい迷妄であり、むしろ狡知巧妙な扇動政治家たちのやり口というのは、必ずまずこうした言語の呪術性を利用して、一定必要な心理状態を作り上げ、それから逆に現実を作為的にでっち上げていく(212ページ)

他にも、「漫談・前島熊さんのキツネ哲学」というエッセイには笑った。前島熊さんという変人の話で、彼にはそれぞれの人の後ろについているキツネが見えるというのである。それらのキツネには上中下のランクがあり、偉い人が上のキツネがついているとは限らないという話など、現在の日本の権力者たちの無様で嘘つきで厚顔無恥な姿をみると、あいつらみんな下のキツネがついているんだろうと思えてくる。

それから、独特の死生観も、ちょっと池田清彦の死生観を連想した。それぞれのエッセイで話題になっている事柄は確かに戦後すぐの時代のもので、今となっては昔のことになってしまったんだろうけど、社会に対する考え方、姿勢という点で、まるで古びていない、それどころか、今こそ必要な見方ではないかと思う。



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「野戦病院でヒトラーに何があったのか」(ネタバレ)

2016.11.23.23:45



まゆつば物と思いつつ読み始めたんだけど、結構面白かった。

ヒトラーは第一次大戦末に毒ガスで失明の危機にあったというのは結構有名な話である。あのチョビ髭にしたのはガスマスクがしやすくなるためとかいう説を、どこかで聞いたか読んだかした記憶もある。いずれにせよ、毒ガスによる失明の危機は「我が闘争」にも書いているし、あっちこっちでヒトラー本人が言っていることでもある。

本書はそれをガスではなくヒステリー性の一時失明であり、それをフォルスターという精神科医が催眠治療で治し、しかもその催眠状態を解かないままにしてしまった。その結果ヒトラーが、いわば覚醒してしまったというのである。

ヒトラーの人生において一番の謎は、第一次大戦終了前までのヒトラーがあまりに目立たない、これといって取り柄のない、むしろ従順で卑屈な人物であったのに、戦後になると突然政治活動で頭角を現し、その演説術によって人々を虜にしていったというギャップである。第一次大戦中の集合写真が何枚か残っているが、どれも後列の端に目立たぬように立っていて、見た目も冴えず、まるでカリスマ性が感じられない。四年も軍務につき、勲章すらもらっているのに、最終階級が上等兵どまりだったというのは、つまり、彼に人の上に立つ能力があるとは認められなかったということである。

ところが終戦直前に毒ガス攻撃のためにパーゼヴァルクの野戦病院へ送られて、そこで一月を過ごした後、戦後のヒトラーは人が変わったようにカリスマ性を発揮する。この原因を、ほとんど残された資料のないなか、わずかな文書資料や証言や状況証拠によって、フォルスター医師による催眠療法でヒトラーが覚醒したと推測する。

ヒトラーの失明を直したのがフォルスターという医者だということ、そのフォルスターが当時のかなり有名な精神科医だったこと、さらにフォルスター本人を始めとする関係者の不可解な死(自殺と他殺)と、そのフォルスター本人から渡されたとされる手記を元に書かれたヴァイスという作家の小説の中の描写、多くの人たちの断片的な証言など、本当に細い糸を手繰るようにこの推測の根拠を固めようとするのだけど、正直に言ってかなり糸は細い。そもそも、ナチスが探し、見つけ、廃棄したと言われるフォルスターの手記なるものが本当に存在したのかどうかもわからない。これを決定的に裏付ける直接的な証拠はないのである。

お話としてはとても説得力がある。同時に、もしここに書かれていることが真実なら、当時の人々はまさに「催眠状態にあった精神的に問題のあった男」の誇大妄想にうまうまと乗せられてしまったということになる。恐ろしい話である。ただ、直接証拠はない。ここに書かれていることが、今後のヒトラー研究でどのぐらい重要性を持つのかも、専門家ではない僕にはまるでわからない。ただ、それでも、かなり面白かった。



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「ヒトラーの娘たち」覚書き

2016.09.30.01:31



ナチスの時代、東欧に送られた看護師や秘書、あるいは親衛隊員の妻たちが、その地で行われたユダヤ人をはじめとする人々の大量虐殺にどのように関与したかをテーマにした本。これまでの、ナチ時代の女性たちは何も知らなかった、あるいは被害者だったというイメージを完全に覆す内容で、かなり衝撃的である。

結局、人は、職業や宗教や、受けた教育や生まれながらの性格などにかかわりなく、そして、驚くべきことに、性別すらも関係なく、状況(環境)次第によって、そして機会を与えられれば、残虐なことをいくらでもできてしまうのである。この本の中に出てくる女性たちの何人もが、虐殺を知っていただけでなく、その場に立ち会ったり、中には自らの手でユダヤ人の少年たちを撃ち殺したりした。しかも撃ち殺した子供達と同じぐらいの年齢の子の母親だった者もいた。そして、そうした殺人者たちは、女性であったが故に、戦後ほとんどが罪に問われることがなかった。

それどころか、彼女らの戦後の発言を見る限り、以前書いたことのあるジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」の主人公アウエのような、自分の過去を真摯に見直すような者はいなかったのだ、と言わざるをえない。彼女たち(に限らず、「彼ら」もだろうが)は忘れたのである。過去の自らが行った悪魔のような所業を忘れ去ってしまったのである。

しかし、おぞましい話ばかりである。例えば、これは女性ではないが、東欧でユダヤ人の大量虐殺に従事した親衛隊将校は、その晩の日記に、「愛しいトルーデ」に宛てた手紙形式で、「こんなにも愛しているのに、(彼女の素気無い手紙に対して)なぜこんな目に遭わなければならないのか」(174ページ)とつづる。恋人を胸が張り裂けそうなほどに愛している若者が、その日の昼間に何百人ものユダヤ人の女子どもや老人を銃で撃ち殺していた。これをどう考えればいいのだろう。

戦後のナチ犯罪を追及した検事はこう言う。「個人が狂っていたのではない。正気でなかったのはナチ体制の方だった」彼は「加害者の多くが罪をおかしたと確信していたが、同時に、彼らはもはや社会に対する脅威ではないと結論づけた。」(204ページ)

つまりこういうことだ。状況次第で、機会さえ与えられれば、善良な普通の人がジェノサイドの加害者になりうる。手前味噌じみているけど、これは拙ブログがずっとテーマにしてきたことだ。99.9%の普通の人と0.1%の悪人がいるわけではない。普通の人がとんでもないことをしてきたのが人類の歴史なのだ。これを意識しておくことは大切だと思う。特に今のような時代では。環境によっては、僕だってあなただって、何か飛んでもない「悪」をなすかもしれない。クリント・イーストウッド監督の映画じゃないけど、正義の味方なんていないし、悪の化身もいない。だからこそ、そういうナチ時代のような社会を否定しなければならないのだと思う。



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崔実(チェシル)「ジニのパズル」覚書き(完全ネタバレ)

2016.08.24.10:58



噂に違わぬ面白さだった。昨夜、読み始めたら、結局最後まで一気に読んでしまった。あえて言えば青春小説なんだろう。最後のシーンにはひどく感動した。

主人公は在日朝鮮人少女のパク・ジニ。小説の構造は枠構造のようになっていて、彼女はオハイオの高校で、今、退学しようかという状況にある。そんな状況でホームステイ先のおばさんのアドバイスで、彼女は自分の朝鮮学校時代のことを綴り始める。

彼女は、日本人小学校でも、朝鮮中学校でも、オハイオの高校でも、決して孤立しているわけではない。確かに、誰にでも好かれているわけではないけど、それぞれどこででも、気を使ってくれる友人がいるし、朝鮮学校では好意を寄せる男子学生だっている。確かに自分のためだけで、授業が日本語で行われたりして、朝鮮語がうまくできないことで、居心地の悪い思いをしたり、ちょっとしたイジメじみたことはあっても、それほど深刻な事態にはならない。教師たちも変な奴はいても、総じて教育熱心で生徒たちのことを親身に考える。

だけどテポドン騒動による日本人からの暴行がきっかけで、彼女は、大人たちの身勝手な建前、組織絶対の態度、朝鮮学校の教師や生徒たちの事なかれ主義に対して「革命」を起こそうとして、朝鮮学校としては決定的な騒動(金日成と金正日の肖像写真をベランダから投げ捨てる)を起こし、施設に閉じ込められる。

こうした辛い過去を文字化したことで、彼女はオハイオの学校、ホームステイ先のおばさんの元へ戻り、彼女の再生が暗示されて終わる。表題のパズルのピースがはまったのだろう。

これは朝鮮学校という、普段僕らはほとんど知らないところ(映画「パッチギ」ではヤンチャなやつらばかり出てきたけど、ここではいたって普通の中学生だ)を舞台にしているから、興味深いのではない。彼女が思う大人たちの欺瞞・偽善・事なかれ主義、周囲の生徒たちの、そうした大人たちへの達観したような無関心・順応に対する怒りの気持ちは、誰でも共感できるものではないだろうか。

それにしても、僕の時代の在日作家たち、イ・フェエソン(李恢成)やキム・ソクポム(金石範)の八方塞がりのような深刻で重苦しい雰囲気とはまるで違うし、文章そのものも、どこか全体にホワホワした軽やかな感じなのは、最近の女流作家に共通しているような気がする。

途中に挟まる北朝鮮への帰国運動で海を渡った祖父からの手紙で、このブログでも紹介した映画「かぞくのくに」を思い出した。当たり前の話だけど、在日韓国・朝鮮人だって、個人としては、みんな現在の独裁的な北朝鮮という国にはうんざりしているわけだ。

普通の人に、ぜひ、読んでほしい。



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岡田一郎「革新自治体」を読んで思った事

2016.07.25.23:13



僕は1976年に選挙権を得たけど、当時、選挙でどこに入れていたか、誰に投票したかは、実はあまりよく覚えていない。

当時の僕の大学は、正門前にゴザを引いて、「●●学部、何の誰べえ、学費値上げを当局が撤回するまでハンスト決行中」と書いた看板を立てて座っている人がいたり、4年間で2回もロックアウトになって試験がレポート試験になったりするという、70年代半ばになっても、まだ学生運動の激しかった大学だった。当時の狭く汚い中庭には立看板が並び、時々ヘルメットをかぶった連中が集まってシュプレヒコールを叫んでいた。学生部の教授が台の上で吊るし上げにあっているのも見たことがある。吊るし上げって言っても別に絞首刑になっちゃうわけじゃないよ。また、帰宅してTVをひねったら夕方のニュースで見覚えのある汚い中庭が映し出され、内ゲバ(こんな言葉も今の若い人たちにはわかるかなぁ)で死者が出たと報じられていたこともあった。

だけど、実際は、政治の時代はとうに終わり、ほとんどの学生がいわゆるノンポリだった時代。共産党の青年組織に所属している友人もいたし、創価学会のクラスメイトからは選挙前には電話がかかってきたけど、生返事をしてあしらっていた。さすがに革マルや中核みたいな過激派の友人や知り合いはいなかったが。

棄権は一度しかしなかったと思う。以前書いたように当時は卓球に夢中で、同好会だったんだけど、リーグ戦と選挙が重なって、棄権したという記憶がある。

では、普段はどこに投票していたんだろうか? 多分社会党に入れていたと思うけど、それに何か理由があったかと言われると、よくわからない。心情左翼という言葉が自嘲気味とはいえ、普通に言われていた。共産党は入れたことがあったかもしれないけど、自民と公明には入れたことはないと思う。まあ、その程度のリベラルということだったんだろうけど、要するに何もわかっていなかった。ただ時代の空気は「反権力」だったと思う。僕も当時の空気に流されていた、といえばそうだったのかもしれない。

というわけで、まさにその時代に各地で発生した革新自治体の栄枯盛衰と、その意義を書いたもので、読んでいて、僕の世代としては、なるほど、そうだったのか、と思ったりするところが多かった。名前も当時聞いた名前がたくさん出てきて、今年60になった僕にはすらすらと読めた。

先日、革新都政を望むと書いたら、コメントでネトウヨに絡まれたが 笑)、そこでの美濃部批判が、公営ギャンブルを廃止してパチンコを野放しにした、という呆れるような頓珍漢さ。

そこじゃないだろ、批判するのは!! 

結局批判できる事柄(=理解できる事柄)が、あのネトウヨ氏にはここしかなかったんだろう。ただ、きっとネットにはこういう低レベルの、サルでもわかる批判が蔓延しているんだろう。安倍のやり方だって、まさにそうだしね。ヒトラーは大衆はバカだから、同じことを何度も繰り返さなくてはならない、聞いている人間のうちで一番物分りが悪い者のレベルで話をすべきだと言っているけど、今の日本でもそれが通用しちゃうんだね。

当時批判としてよく言われたのは、福祉と公務員の人件費が財政難を引き起こしたということだった。だけど、福祉や保育所、環境問題(公害問題)を国に先駆けてレベルアップさせたという功績は、絶対にあった。美濃部都政があったおかげで、老人や障害者や公害に苦しむ人たちがずいぶん助けられたのは間違いない。

当時を回想した政策室長の文章には「『おかげさまで、私が死ぬ前にこの子を殺さないで済みました』と、知事宛に寄せられた手紙を、私は目頭を熱くしながら、何通読んだかわからない」(p.88)とある。

また、美濃部は「バラマキ」という批判に対して、こんなことも言っている。「財政危機(の)ニューヨーク市の福祉予算は総予算の30%をしめるのに対し、東京都のそれは、(。。。)未だに12%に過ぎません。(。。。)誤解を恐れずに言えば、東京の、そして日本の福祉は、もっともっとばらまかなければならないのであります」(p.161)

無論良いことばかりではなかったのは当たり前の話だが、しかし社会党内の左派と右派による権力闘争、共産党との軋轢、中道と言われた民社党や公明党のヌエのような、その場その場で、権力に近い方へすり寄ろうとする姿勢、自治省のデマを含むバッシング、さらには、市民参加という理想を掲げながら、有権者たちのおまかせ他人事の態度のはざまで、潰えるべくして潰えたのが革新自治体だったのだろう。

当時の高度経済成長の歪み(公害、社会資本未整備、福祉の遅れ)に気づいた人々が選んだ革新自治体に対して、現在、グローバル化の歪みで、人々が選んでいるのが、限りなくファシズムに近い方向だというのは(それも日本だけではない)、これはどう考えればいいのだろう? 

副題の「熱狂と挫折に何を学ぶか」というメッセージは、言うまでもなく現代にも通じる。先日の川上弘美の「大きな鳥にさらわれないよう」にもあったように、なにしろ人間は同じ過ちを何度でも繰り返す学習能力のない生き物なのだから。


追記(2016、7、26、15:45) 文言を付け加えました。



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川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」(後半ネタバレ)

2016.07.21.12:19

前に書いたことがあるけど、ネイティブ・アメリカンの言葉に7代先のことをを考えて行動しろというのがある。 7代先のぼくらの子孫は、今の時代を振り返って、どう思うだろう? 僕ら今の時代に生きる人たちは、7代先の日本は、世界は、どうなっていればいいと思っているんだろう? 


川上弘美の「大きな鳥にさらわれないよう」を読んだ。ものすごく面白かった。平易な文章だけど、結構時間をかけて読み、最後の方では読み終わってしまうことが悲しくなった。そして、読み終わった後に、もう一度全体の構成を確認するために、あちこちつまみ読みをした。

最初、読み始めてしばらくして、もう40年ぐらい前に夢中になったレイ・ブラッドベリの「10月はたそがれの国」とか「火星年代記」を思い出した。透明感あふれる雰囲気に、昔読んだ萩尾望都のSF漫画を思い出し、不吉な不安感に諸星大二郎のSF漫画を思い出し、最後の「母」の話に手塚治虫の火の鳥を思い出した。

衰弱しながら没落へ向かう雰囲気と舞台になっている世界のシステムが、共通している連作短編集かと思っていると、途中、ヤコブとイアンが登場して、話がおぼろげながら繋がっていることがわかってくる。そして最後から二つ目の話で、この小説で描かれている世界像がはっきりし、最後の章で最初の章につながる。それぞれの話がどれも面白い。

(この後、この小説の世界をネタバレしてます)

グローバル化し、遺伝子操作でクローン生成が簡単になり、人工知能が人類の能力を超えても人類は滅亡へ向かわざるをえない。そこで小さな集落に隔離して、それぞれの集落で遺伝子の変化を待ち、さらにそれらを混雑させて新しい(滅亡へ向かわない)人類を発生させることを目論む。そのために、クローンと人工知能が合体した母たちにより、クローン発生させられた見守りたちが、何千年にもわたって代替わりを続けながら、人類の新たな遺伝子の変化を見つけ、そうした変異体を母たちの元に送りこみ、新たな人類の発生を待つというのが、この小説の世界である。だけど、結局、人間は同じことを繰り返していく。

そうなんだよね。人類は宇宙の果てまで見つけられそうなぐらいの科学の進歩を成し遂げたけど、過去に学ばず、一時の感情に流され、目の前の利益追求に一喜一憂する。将来のことなど本気で考えず、「暢気に大戦やらテロやら汚染物質拡散やらを綿々と続け」(p.94) ていく。ましてや7代先なんて考えるはずもない。

最後のネアンデルタール人はジブラルタル海峡で滅んだという。宇宙の果てすら見つけようとしている現生人類だって、いずれ消えていく運命なのだろう。



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村田沙耶香 「消滅世界」 覚書き(ちょっとネタバレ)

2016.06.02.01:06



人工授精のレベルが驚異的に上がって、もはや、子供を産むために性交渉を必要としなくなった世界の話。夫婦の間での交渉は「近親相姦」と呼ばれて忌み嫌われ、家族が子供を得るためには人工授精に頼っている。かろうじて残された性欲は恋人(本当の人間の場合もあるが、大抵はアニメキャラ)との恋愛ごっこに委ねられる。

そんなショッキングな、というか、センセーショナルな設定で有名になってしまったようだけど、僕は後半の主人公たち夫婦が人工授精により受胎したことで、どんどん気持ちが離れていってしまうところがとても哀しかった。

そして、そんな実験都市の「楽園(エデン)システム」に徐々に慣れていって「家族システム」を忘れていく主人公たちの様子が、ちょうど現代の社会の中で、これだけ無茶苦茶なことが起こっているのに、慣れていってしまっている僕らに重なった。

設定はSF的で、昔読んだ伊藤計劃の「ハーモニー」という小説のような、裏返しされたディストピア小説のような感じがした。最後のショッキングなシーンでは、なぜか河野多惠子の「幼児刈り」なんかを連想したのは、子供が出てくることと、生理的、感覚的な気持ち悪さのせいかもしれない。

主人公の雨音(あまね)は両親の「近親相姦」によって生まれた娘だが、母親はそれを誇らしげに娘に語る。娘もそんな母親の呪いにかかったように性欲を捨てきれない。最後のところも含めて、ある意味で母と娘の葛藤という古風なテーマが真ん中を貫いている小説なのかもしれない。

設定が設定だけに、かなりあけすけで露骨な言葉やシーンもあって、電車の中で読むのが憚られたが、とても面白かった。ただ、宣伝文句のような「近未来の日本の姿」だなんて、まるで思わないけど。



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對馬達雄「ヒトラーに抵抗した人々」

2016.01.14.01:13



この本には現代の日本のことは一言も述べられていない。しかしこの本を読み進めて、あとがきの最後の最後に「本書を手にした方々に何がしかの意味を読みとっていただけたら、この上ない喜びである」とあるのを読んで、この著者がこの本を今書いたことの「何がしかの意味を読み」とれない人はいないだろう。

絶大な人気を誇ったヒトラーに対して抵抗した個人や組織とその顛末を紹介した本である。拙ブログではこの本の中に出てくる孤独な暗殺者エルザーと、抵抗大学生の「白バラ」や国防軍によるヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」のことは映画がらみで紹介したことがあるし、この関連の本も何冊か読んでいたけど、これまで考えたことがなかったようなことを教えられた。

ようするに、彼ら抵抗者たちは高潔な悲劇の英雄で、人々の記憶の中で賞賛や賛嘆の的になっているのだと思っていた。いや、「思っていた」というところまで意識化していなかった。失敗に終わり死んだとしても、彼らがドイツの歴史の中に燦然と輝いていないはずがなかった。こうした抵抗運動に対して一般ドイツ人たちがどう見ていたかなど考えたことなどなかった。

だから、特に「ワルキューレ作戦」でヒトラー爆殺が失敗に終わった後、ヒトラーへの同情と首謀者達への憤激が渦巻いたそうで、しかもそれは戦後になっても続いたというのには驚愕した。1951年の世論調査でも、このときの首謀者を悪いと評価する人が30%もいたのである。

だから、映画では描かれていなかった終戦後の遺族たちの苦労も想像外のことだった。そこには処刑された首謀者の子供同士が結婚したという感動的なエピソードもあるが、ドイツの敗北後、ナチスの残虐行為が明らかになった後も、「裏切り者」の親族と罵声を浴びたりするし、一方の戦勝国である連合国やソ連も、ドイツ国内に反ヒトラーの抵抗運動があったことは無視しようとする。冷戦構造の中でアメリカもソ連も反ナチの抵抗者たちが戦後のドイツで自分たちにとって都合の悪い影響力をもつことを恐れたのである。

それに対して、ヒトラーを熱狂的に支持したドイツ人たちは、抵抗者の存在によって自分たちの負い目をより強く感じさせられることを嫌ったのだろう。このあたりの心理は実にドストエフスキーあたりの小説に出てきそうな屈折したものがあると思う。

幸いにも現代の日本は「I am not ABE」と公然と言っても収容所に入れられたりしないが、この時代の抵抗者たちはヒトラーのではない「もう一つのドイツ」のために命をかけ、そしてその多くが命を失った。彼らが名誉を回復するのは死後だいぶたってからである。今の日本なら、国会前にいったり、こうしてブログに「アベ政治を許さない!」と書いたりできるけど、あの時代だったらどう行動できただろう? ボンヘッファーが言うナチズムに異議を唱える「市民的勇気」を持つことができただろうか?



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「友川カズキ独白録」

2016.01.11.22:13



先日来拙ブログで紹介している友川カズキ、親しい友人のところへ押しかけて、まあ、良いから聞いてくれ、と強引に聞かせたら、うーん、ちょっとついて行けないな、と言われてしまいました。確かにそうなのかもしれません。この人の曲を聴くにはそれなりに聞く側のテンションも高めておかなければ、ついて行けないのかもしれません。まあ、楽しい話をしているところへ、こんな曲を押しつけられたら迷惑だわなあ 苦笑)

それからYouTubeのコメントなんかにはこの人をサヨクの歌手だと勘違いしている人がいますが、この本を読めば、政治的な心情とかイデオロギーとかを完全に突き抜けちゃっていることが分かります。例えば「家出青年」の歌詞にこんなのがあります。

「次世代のため」なぞというから滑稽になっちまう/「負の遺産」なぞとくくるからたいがいになっちまう/原発だろうと何だろうと/嫌なものは嫌だと声を成せばいい/色素のない奥ゆかしき美意識なぞ/そんじょそこらの鶏の糞ですらない

誤解を恐れず言えば、「次世代のため」とか「負の遺産」という決まり文句を原発反対の理由として挙げても、原発賛成の理由としての決まり文句で対抗される。これだといつまでたっても水掛け論だし、たいていは議論はかみ合わない。これを見て、原発の問題を身近に感じていない多くの日本人は、どっちにもそれなりの理由があると「さかしげな」態度を取ることになるのではないか? もっと単純に「嫌なものは嫌だと声を成せばいい」のでしょう。



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辺見庸「1☆9☆3☆7☆」

2015.12.28.23:43

アップしようと思いながら、なんだかんだでタイミングを逸してしまいましたが、せっかくなので。24日の夕方の月の出です。住んでいるマンションの玄関前から。


というわけで今日は辺見庸の本の紹介。

すでにこの辺見庸の本が雑誌連載中から読んでいた。そこから知った堀田善衛の「時間」を以前紹介した。あのときはこの小説は絶版だったが、この間に辺見の解説付きで岩波現代文庫から出たのでリンクを張っておく。


さて、辺見庸のこの本だ。加筆されて書籍化されたのであらためて読み直した。読み終わってあらためてひどく心が動揺している。ぱらぱらとページを繰るとほとんどどのページにも赤線が引いてある。

題名は日中戦争が始まった年。この年にはヘレン・ケラーが来日して大歓迎されている。一方12月には南京大虐殺が起きている。拙ブログのモチーフの一つでもあるけど、世の中には99.9999%の普通の人と0.0001%の悪人がいるわけではない。ヘレン・ケラーに感動し、講演中に彼女の財布が盗まれたときには日本人として詫びる手紙を書いた人々、その同じ人たちが南京を始め中国大陸で「人間の想像力の限界が試される」ような大虐殺をし、国内ではそれを祝って提灯行列が大々的に行われた。

だが辺見庸は中国大陸で「皇軍」が行った非道を単に「他者の悪事として非難」(p.126)するのではない。まずは「そのとき、その場にあったら、わたしもおなじことをやったのだろうか」(p.95)と自らに問うと共に、中国へ兵隊として従軍した自らの父の所業に思いを馳せる。戦争だったからしょうがないのだというありふれた言い訳を許さない。そのために、堀田善衛の「時間」や武田泰淳の「審判」という小説や、アウシュヴィッツを生き延びたイタリア人プリモ・レーヴィの「知らずに済ますことが出来ない」という言葉が重要な指標になる。「そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとについて、今後とも無記憶でいられるものだろうか」(p.223)という言葉は、単純に自分たちが生まれる前の出来事を知ろうとしない僕らに対する批判でもある。僕らは知らずに済ましてはいけないのだ。

一方で小津安二郎の映画や石川達三の「生きている兵隊」、そしてなにより小林秀雄を著者は批判する。特に小林秀雄に対しては日本的ファシズム、「国民の心底にあるおのずからの全体主義的自覚」を見るところなどは、小林を単なる保守主義者として見る一般的な見方を心胆寒からしめるものだろう。小林の文にあるような無常観に基づいた叙情も天皇制ファシズムに容易に結びつく。

「化石しろ、醜い骸骨!」(p.248)という文句は直接的には阿川弘之に向けられているが、著者自身の中にもある「日本の古層」に向けられているのだろう。「根生いのファシズム」(p.265)と著者が呼ぶ日本的な情緒に向けられているのだろう。

それにしても、「ひとびとはもうなんどもクニに捨てられているというのに、「便所の蠅のやう」に、クニにへばりつく」(p.359)という。「どうしてひとというのはなにごともいちいちゼロから学ばなければならないのだろうか、歴史はなぜ前代の反省と学習をひきついで後代に活かそうとしないのか。どうしてひとはこうまで歴史的経験からしゅっぱつすることができないのか」(p.362-3)。本当にそうだと思う。

昭和天皇ヒロヒトに対する批判(審判)も含め、「被害の責任も加害の責任も、敗戦後70年、まだだれもとってはいない」(p.378)のに、いままた「じんじょうではない」時代になりつつある。

とてつもなく衝撃的な内容だけど、是非赤ペンを手に、ゆっくり読んでみてください。



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森達也「『テロに屈するな!』に屈するな」

2015.12.14.00:00


安倍を応援している人には勧めない。しかしどこかヘンだと思うなら、この本を読むことをお勧めする。わずか85ページのブックレット。値段も620円だ。森の本を読んだことのある人なら、読まなくても良いかもしれない。でも、森の言ってきたことを確認するためには、とてもうまくまとまっていると思うので、そういう人にも是非もう一度読み直してもらいたい。

オウムのドキュメンタリーで注目されることになった森の真骨頂である。憲法違反だと多くの人が言ったにもかかわらず強引に国の形を変えてしまった安倍政権にいたるまでの日本の社会の変質はオウムから始まったという説明はとても納得できる。むしろあまりに穿ちすぎていると思う人もいるかもしれない。それぐらいすばらしい歴史解釈だと思う。ひとつだけあえて言うなら、こんな流れの中で2009年に、一瞬とはいえ鳩山内閣が誕生できたのはなぜだったのだろう? 「コンクリートから人へ」というスローガンは、それまでの、そしてその後の日本の社会の流れとは逆向きのものだったと思うのだが。 そこに今の流れを断ち切るヒントはないのだろうか? 

いずれにしても、

僕がこれまで紹介してきた本は読まなくても

良いから、このブックレットを読んでほしい


本当に強くそう思う。



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吉村萬壱「バースト・ゾーン」

2015.12.10.00:37


二週間ほど前に読み終わったんだけど、ちょっと忙しくてまとめられなかった。

この人の小説は以前「ボラード病」を拙ブログでも書いたことがある。これより10年近く前に書かれた小説だ。かなりのエログロであるとともに暗喩に満ちている。以下、ネタバレにならないように紹介します。

三部に別れていて、第一部はテロが頻出する東京とおぼしき町。テロリストに怯えた人々が無実の人をリンチにかけ、自警団は警備を口実に強姦などやりたい放題、人々は愛国を叫び、政府は敵を殲滅せよ、大陸の戦闘に志願せよと叫ぶ。政府に対する疑問を少しでも口にすれば、その人間はすぐにいなくなる。オーウェルの「1984」や映画の「未来世紀ブラジル」なんかを連想するようなかなりすごいディストピア。これは時期的にもイラク戦争に触発され、東京を中東のどこかの町に見立てたという面もあると思うのだが、この前の「秘密保護法」と「戦争法案」のおかげでこうした管理社会が迫っていると思うし、テロの脅威はこの小説が書かれた時代よりも数段高まるだろう。

第二部に入ると主人公たちは志願して大陸の戦闘に従軍する。この様子が日中戦争を連想させる。同時に、第一部でのひょっとしてありうるのではという不安をかきたてるような話が、第二部では完全な怪奇と幻想のSFのような話になる。最終兵器と喧伝されている「神充」と呼ばれているものの正体が、ある意味で想像を絶する。だけどちょっといくら遺伝子操作したとしても、こんなのはさすがにあり得ないだろうというような話になる。いろいろな意味で非常に漫画的。でも、ここでもそうした遺伝子操作を含めた現在の生命科学批判になっているのかもしれない。

第三部はかなりひねった状況の種明かしとともに、なんとも暗澹たる結末。ただ、テロリストの正体はまあこうなるだろうな、というものだったかな。でもそれ以外は、特に主人公たちの末路は、なかなかすごい話です。

現実社会のいろいろなことを思い浮かべることの出来る暗喩に満ちた、しかしエログロと暗澹たる世界観の小説。以前にも書いたように、こういう救いのない世界を描いたSFは好きです。かなり長い小説だけど、読み始めたら途中でやめることはなかなか不可能だと思う。お勧めします。



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小熊英二 「生きて帰ってきた男」の感想

2015.10.28.15:33


1925年に生まれた著者の父親からの聞き取りによるドキュメンタリー。アマゾンのレビューでは2015年10月28日現在、19人中17人が星5つだが、僕も星5つだ。小熊の父は1944年に徴兵され満州に送られて、敗戦によりシベリアに抑留される。約1割の死亡率をくぐり抜けて、敗戦後3年目に帰国した後も、職を転々としたあげく結核になって20代後半の5年を療養所で過ごす。そこを出た後、結婚、高度経済成長の波に乗ってそこそこの成功を収めたあと市民運動に関わる。この人生をその時代の日本の社会の出来事と対比しながら描いたもの。

自分のことに引きつけて恐縮だけど、私の父は1928年生まれ。際どい差で戦争には行かなかったし、当然シベリア抑留など経験していない。また地方出身者ではなく東京の出身で、戦後は大学を出てサラリーマンを定年まで勤めた。だからその点で小熊の父親のような波瀾万丈な人生とは比べられないぐらい平凡な生活だったと言えるのかもしれない。だけど、読みながら、この時代、父は何をしていたんだろうとか、断片的に聞いた戦時中の話などを思い出しながら、とてもリアリティを持って読めた。

そして僕は著者の小熊英二より6歳ほど年上。だから後半に描かれていることの多くで、当時の自分を思い出した。

すごい記憶力であると思う。そして語られたことを調べて、裏付け確認がされている。そしてなにより、ここで引用される小熊の父の言葉が含蓄がある。たとえばこういう言葉。

「現実の世の中の問題は、二者択一ではない。そんな考え方は、現実の社会から遠い人間の発想だ」(p.211)

また、日本という国の酷薄さにもあらためて腹が立った。終戦前に天皇の命令で作られた和平交渉に関する文書では、すでに満州在留の軍人・軍属を「賠償」の一部としてソ連に労務提供すると決められていたのである。つまりシベリア抑留はある意味で当時の日本がスターリンに対して、これで許してくださいと国民を差し出した、ということなのである。そして戦後はそれをほっかむりして「ソ連はけしからん!」と非難した。なんということ! 沖縄もそうだが、この国は国民を捨てるのである。それは戦争中だけではなく戦後になっても同じだった。これはしっかりと意識しておかなければならない。国を愛しても、国のほうは国民(庶民)をはたしてどれだけ大事に思っているか。。。逆に言えば、それだからこそ、昨今権力者の側から愛国心を強要しようとする動きが出てくるのだろう。

小熊の父はこう言う。

「官僚や高級軍人は、戦争に負けても、講和条約の後には恩給が出た。しかし庶民は、働けるときに蓄えた貯金も、すべて戦後のインフレでなくなった。ばかな戦争を始めて多くの人を死なせ、父や祖父母をこんなひどい生活に追い込んだ連中は、責任をとるべきだと思った。」(p.182)

たぶん僕と同世代の人なら、絶対に面白く読めるはず。そして、僕も父から昔の話を聞いておきたいと強く感じたし、今度実家に行ったときには、すっかり耳が悪くなった父だが、少し昔のことを聞き出してみようと思っている。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと努力しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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