
例によって図書館で借りてきました。副題は「関東大震災の三日間」ですが、関東大震災での被災の状況ではなく、その後の一般日本人たちの朝鮮人に対する異常な恐怖と憎悪、呆れるような差別心のドキュメントです。小説と銘打ってますが、作者(この関東大震災を機に社会主義作家になったそうです)が実際に体験したドキュメンタリーと言えます。震災から1年半後に書き終えられています。
震災当日、作者は東京の郊外(といっても初台)に住んでいて、大きな被害には遭わないけど、2日目から朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、暴徒化して乱暴狼藉を働いてると言う流言蜚語(デマ)が出回り始める。
作家で朝鮮人留学生とも知り合いの作者も、当初はそのデマを信じて家に閉じこもって怯えたりする。朝鮮人の暴徒に襲われ、知り合いの朝鮮人が助けてくれるという夢想・幻想すら浮かんだりする。だけど、他の人よりは遥かに早く、こうした話がデマであることを察知、知り合いの朝鮮人留学生を自宅に匿ったりする。
そうなると、もう怖いのは日本人の自警団である。暴徒が襲ってくるから武装して警戒しようと言う連中がまさに暴徒と化しているのである。朝鮮人とみなされた作者は姪の証言で日本人であることが証明される。しかし、自警団の連中は「安心したと言うよりも、むしろがっかりしたように立ち止まっていた。そして恨めしそうに(。。。)こちらを見送っていた。」(167)こんな話が山ほど出てくる。
デマは震災から1週間以上経って、警察がすで暴徒の話は流言蜚語であると言っているにもかかわらず、多くの日本人が相変わらず、朝鮮人が井戸に毒を入れているだの、ガソリンや爆弾を持っているだのと言うデマを信じているのにも、恐ろしいものがある。ここには当時の日本が朝鮮を暴力的に植民地化していたことが、ちょうど反撃に会うのを恐れているいじめっ子のように、逆の意味で暴発したのだろうし、多くの日本人が、朝鮮の植民地化で自分が偉くなったように勘違いして差別的な感性を持っていたこともあったのだろう。第一次世界大戦から5年しか経ってなかったし、戦場で武勲を立てることは美談だっただろうから、自警団もそうした武勲を立てたいという連中が多かったのだろう。デマは最初に警察が流したという説もあるが、そこに多くの日本人が容易に乗ったのはそういうことが原因だったのだろう。
おかげで震災時に崩れた家から赤ん坊を助けた高潔な朝鮮人留学生は、引き留める作者たちを振り切って、自分にはやましいところは微塵もない、自警団といえどもそれをわかってくれるはずだ、と言いながら都心の知り合いのところへ向かい、行方不明になる。
読みながら、
ナチス時代にユダヤ人を助けた人たちのことを書いた岡典子の「沈黙の勇者たち」を思い出した。市民的勇気(=市民として善をなす勇気)というやつ。ここに書かれているような状況で、はたしてそんな「市民的勇気」を出せるか? ただ、311でもその後の災害でも、関東大震災時のような大規模なデマが出なかったのは、時代の違いもあるが、多くの日本人にこの時の流言蜚語の知識がある程度根付いていたからではないか? だとすれば何度でもこうした記憶を反芻するべきなんだろうと思う。
しかし、最後の方に出てくる作者の言葉は、そのまま今でも都知事の小池や自民党の官房長官の松野に聞かせてやりたい。
「もとより今度の震災は歴史上稀なるものであるに違いない、(…)しかしそれはそうであるにしても、それは不可抗な自然力の作用によって起こったことで、もとより如何とも仕方がない。運命とでも呼ぶなら呼ぶがいい。しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無知と偏見とから生じたことで、
人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遥かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。」(p.285、下線はアンコウ)
日本人としての自分を律する意味だけでなく、ドキュメンタリー文学として、当時の雰囲気を感じさせ、ものすごい筆力だと思う。
関東大震災朝鮮人虐殺事件については、過去にも何度も書いてるので、興味があればこちらもどうぞ。
加藤直樹「九月、東京の路上で」覚書きEテレ ETV特集「関東大震災と朝鮮人」震災の被害者と虐殺された人の違いがわからない人たち加藤直樹「トリック」覚書き今日の東京新聞から、蟲に憑かれた人たち特に加藤直樹の「トリック」は、虐殺はなかったと言い張る連中の「根拠」が徹底的に潰されて爽快です。最近せやろがいおじさんもYouTubeで解説してますね。
***追記(9/23, 15:20)
少しだけ加筆しました。
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説ブログで何度か書いたように、若い頃、遠藤周作が大好きでした。「死海のほとり」とか「イエスの生涯」「キリストの誕生」なんかは、くりかえし(と言っても2回 笑)読みました。
「沈黙」についても映画と絡めてここで書いたことがありました。
その遠藤周作に「鉄の十字架」という小西行長の面従腹背をテーマにした本があって、そんなこともあって、今回この小説を読んでみたわけです。
関ヶ原で負けて刑死した小西行長の孫の小西マンショを中心に、キリシタンバテレンも取り締まる側の井上政重も、そのほか、ほぼ実在の人物を、物語の経緯はたぶん史実にかなり忠実に描いています。
で、やっぱり遠藤周作の影響が強いですね。というか遠藤オマージュの小説とも言えるかも。どこまで史実なのかわからないけど、信仰を捨てて念仏を唱えたとしても後で懺悔すれば許されるとか、信仰を捨てれば殺されない。なのに自分らが(。。。)信心を励ませば【信者たちは】殺される、というマンショの懊悩は遠藤周作のキリスト教だなぁ、と。
沢野忠庵(フェレイラ)がチョコっと出てくるのも、井上政重が、内心までは踏み込まない、形だけでいいと言うのも遠藤周作のオマージュだと思う。ただ、これって史実だとしたら、つまり、井上政重が本当にそう言ったという記録があるんだったら、どうしようものないけど。
ただ、「俺」という一人称が多用される会話の口調や、マンショが一瞬とはいえ井上政重を殺そうとするシーンなども、ちょっとどこか、漫画みたいな感じがします。このあたり、時代の違いもあるだろうけど、ちょっと軽い感じがします。(いや、漫画だからランクが低いなんていうつもりは全くありません。ただジャンルとして漫画と小説は違うと思うんだけどね。)
説ブログで以前にも書いたように、キリスト教の正統的な考えは、死ぬことなんか問題ではなく、天国へ行くことが最終目的なんだから、司祭が命が助かるために、とりあえず信仰を捨てろなんて言わないだろう。キリスト教の聖人聖者の伝説はみんな何があっても信仰を捨てずに殺されちゃうわけだし。。。
と、文句つけてるみたいですが、それなりに面白かったし、読んでいて楽しかったことは間違いなしです。特に遠藤周作なんか読んだことない、という人の方がおもしろく読めるかも??
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実は忙しくて、まだ全体の三分の二ぐらいしか読んでないんだけど、これはもう絶対おすすめ。どの章もほぼ独立し完結しているから、あちこち、どこからでも、興味ありそうな章から読み始めることができます。そして、どれも面白い。
僕はぱらぱらやって、目についたブーニョの名前から、大阪のイタリア人がやってるヴィンテージ自転車ギャラリーのインタビューから読み始めてみたんですが、これが、むちゃくちゃ私のツボでした。
他にも初代ツールの王者、モーリス・ガランや、反ファシストで共産主義者だったボッテッキアや、バルタリ、コッピはもちろん、ジラルデンゴやビンダといった伝説の時代の選手たちの逸話がたくさん詰まっているかと思うと、映画の話やジロで登場する峠の話、ヘミングウェイが出てきたり、かつてのチャンピオンたちの応援歌?が出てきたり、どこをとっても面白い。パンターニの歌は思わず YouTube で検索してしまった 笑)
メルクスも出てくるけど、著者は日本イタリア会館の人なので、基本イタリアの話がメインですが、これまで紹介されたことがない話が多いのがうれしい。
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むちゃくちゃ面白かったぁ。いや、バッハ以前から、バッハ、そしてベートーヴェンぐらいまでは、社会や時代との繋がりって、知識としては知っていたつもりだったけど、それが今現在と繋げて語られると、改めて目から鱗の気分だった。知らないことも、考えたこともなかった繋がりも、いろいろ「過激に」教えてもらった。
今の時代に、右肩上がりのイケイケドンドンのベートーヴェンを聴くこと、「このバカバカしさをひそかに感じていなかったらウソだろう」(p.36) とか、このSDGsの時代に、「ベートーヴェンを聴いているかぎり、どんどん熱くなって、地球温暖化も進むのかも。ベートーヴェンの音楽にとって、「熱くなる」のは絶対善なんだから」(p.128) なんて、そういうふうに自分が今、生きている時代のなかで、この時代をつなげて考えることなんて、あんまりなかったからなぁ。
特に面白かったのは最終章の現代音楽のところ。著者たちと僕は世代的にほぼ同じだから、1970年の大阪万博に修学旅行で行った時、ドイツ館ではたしかにシュトックハウゼンのキュ~~、ピポパポってのが流れていた。池袋の西部美術館は何度も行ったし、アール・ヴィヴァンで画集や現代音楽やホーミーのCDを買ったものだった。
そういうリアルな記憶と共に、ここで東西冷戦化での文化的な競争が、一方で前衛音楽やプレスリーやビートルズが自由を謳歌し、それに対してソ連では個人(自分の思い)を消すことが生き残る道だった。この自由の謳歌を後押しするために、前衛音楽に投資支援されていたけど、東西冷戦が終わるとともに、それは消えていったなんて、そう言われてみると、なるほど!! だ。
「音楽」の背後の頑強なイデオロギー性に無自覚に、グルメよろしく美的にのみ消費する、というのはやっぱり危うい。あまり無邪気に「音楽って、いいですねぇ」とは言いたくない。(p.335)
おっしゃるとおりです。ごめんなさい。
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明治時代の死刑囚100人以上に教誨し、彼らの記録を残し「死刑すべからく廃すべし」と主張した田中一雄という教誨師の話である。彼は場合によっては刑死した者の墓の面倒まで見た。ただし、写真一枚残っていないし、それどころか、生まれた年も生い立ちも、家族や子供がいたのかも、いつ死んだのか、墓はどこにあるのかすら、なにもわからない。
第一章は田中が記録した個々の事例を紹介している。死刑囚はそのほとんどが田中の教誨を受け入れる。「逃走の恐れある者にはあらず(。。。)十分悔悟の念ある者(。。。)について死刑の要は少しも認めざるなり」というのが田中の死刑否定の根拠である。僕自身はこの根拠はちょっと弱い気がする。実際田中自身も、ただ一回だけだが、悔悛せず繰り返し脱獄を図った死刑囚については、「死刑の必要は斯くの如き者あるを以てなるべし」(p.55) と書く。
それは第二章で扱われ、田中も教誨師として関わった「大逆事件」に関しての、田中の奇妙な沈黙につながる。死刑には反対だが、場合によっては、つまり、明治憲法に定められていたような天皇を殺そうと図るような者に対しては、死刑も致し方ないという考えにつながってしまう。(むろん「大逆事件」の24人のうち、誰一人として天皇暗殺を企てた者はいないことは言うまでもない)
田中が「大逆事件」の被告たちを、本心ではどう考えていたかわからない。「死刑すべからず廃すべし」と主張しながらも、明治という時代の制約が見られるのかもしれないし、著者が「期待値の高い読み」として、田中はここで「国の死刑制度を否定しただけでなく、明治国家の本質を見た」のかもしれない。(p.126-7)
本の後半は田中の死刑囚の記録を預かり、関東大震災時にもそれを守った「出獄人保護事業に生涯を捧げてきた原胤昭」(この人はウィキペディアにも載っている)や、明治にすでに死刑廃止論を唱えた多くの人々を紹介しながら、田中の生涯を、細切れの糸を手繰り寄せるように想像していく。しかし、明治時代に、すでに死刑廃止を唱えた人たちがたくさんいたことにも驚いた。
田中は「大逆事件」で刑死した管野スガの残した手記により、自ら、元会津藩士で、死刑になるところをすんでのところで助かったと述べたらしい。そして、さまざまな資料から、戊辰戦争のころ、会津藩士に偽金札作りで死刑になるところを逃げた同名の人物がいることがわかるのだが。。。むろんその人物が若き日の田中一雄だったのかどうかはわからないままだけど、
先日も引用したジョージ・エリオットという19世紀イギリスの女流小説家の言葉を思った。
「歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓に眠る人々のお陰で、物事がさほど悪くはならないのだ」。
*
前から書いていることだけど、被害者やその家族が加害者を殺してやりたいと思うのは当たり前である。しかし、事件とまるで無関係の人までが、誰かを「殺してやりたい」と思うのは、よく考えてみれば異常なことではないだろうか? だけど、今の世の中では死刑制度賛成が80%以上だという。
維新のようなトンデモ政党が人気があるのも、そうした風潮と無関係ではないんだろうと思う。
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以前、「ナチスに抗った障害者」という本を紹介したけど、この本はその続編と言っても良いと思う。
読んでいて、無名の人々の善意のエピソードに何度も目頭が熱くなった。その数十倍の悪意と、さらにその数百倍の無関心が満ち溢れたナチスドイツの密告社会のなかで、さらに後には爆弾が落ちてくる戦火の中で「市民的勇気」を発揮して、「自分にできる精一杯の」(p.152)行動をした人々を、本当に心の底から尊敬する。
この本によるとユダヤ人を匿うことに手を貸したドイツ人は少なくとも2万人はいたという。そのうち氏名がわかっている人は半数以下(p.144)。直接的に匿うことはしなかったとしても、ちょっとした親切や見て見ぬふりをするだけでも、かなりの勇気が必要だったことだろう。ユダヤ人にバターを提供したことで1年半の懲役刑を喰らった農夫もいたのである。
積極的にユダヤ人たちに隠れ家を提供した人はもちろん、自分の身分証明書を偽造身分証明書作成のために提供し、後に無くしたと役所に再発行してもらった人も、これはとてつもない勇気を必要としたことだろう。無論そういう人たちのエピソードはそのままシンドラーのリストみたいな映画にできそうである。でも僕が強く心打たれたのは、地下鉄で息子が空腹で泣き出した時に、そっとポケットに包装紙に包まれたサンドイッチを押し込み、涙ぐんだ目でそっと微笑んだ老婆(p.124)だった。
映画「名もなき生涯」の最後に出てきた「歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓に眠る人々のお陰で、物事がさほど悪くはならないのだ」というジョージ・エリオットのメッセージを思い出した。
著者は最後にこう書く。「【社会が余裕を失い】追い詰められ、余裕を失うにつれて、(。。。)人びとは生き延びるために「多数者」の側にわが身を置こうとする。(。。。)ナチス・ドイツだけの特異な姿ではない。いつの時代にも、どの国や集団でも起こりうる事象なのだ」(p.275)
著者が言いたいことは一目瞭然だろう。今の時代だからこそ、多くの人たちに読んでほしいと思った。
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少し前にNHKで放映されていたドラマ「ガラパゴス」も派遣労働者の問題を扱ったもので、ものすごく現代日本社会を映し出しているな、山本太郎の街宣の副読本になりえるな、と思ったものだったけど、今月の100分で名著はナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」が堤未果の解説で取り上げられていた。
この本は出た時にかなり話題になったし、拙ブログでも2回にわたって取り上げたので、リンクしておきます。興味のある人はどうぞ。
「ショック・ドクトリン」(まだ読書中)
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-843.html「ショック・ドクトリン」覚え書き
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-861.htmlTVの放送に戻るけど、いやぁ、中曽根の時代から日本に持ち込まれた新自由主義経済という、公的社会保障制度を解体して中流階級を崩壊させ、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏人にする、というグローバル経済政策。それが小泉の時代により先鋭化されたと明確に語られて、ちょっとびっくり。世界中にこの新自由主義経済を広めたシカゴボーイズは日本にもいますと、さすがに竹中平蔵の名前はださなかったけど、ちょっとでも山本太郎の街宣なんかを聞いた人ならピンときたことだろう。
番組ではそれほど強調されなかったけど、新自由主義者たちがやったことは犯罪行為に等しい。軍事独裁政権の後ろ盾になり、多くの人が殺されたのである。今の日本政府のミャンマーに対する態度だって、ある意味では同じようなことをしていると言えるだろう。
番組から現在の日本社会・日本の経済政策への明確な批判が聞き取れるはずだけど、どのぐらいの人がこの番組を見たんだろうなぁ。。。
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この本の初めで紹介されている、著者の父が晩年ネット右翼になってしまったという記事は、僕も当時読んだ。この本はその記事を書いてしまった(!)著者が、父が実はネトウヨなどではなかったことを検証しようとする話である。
父のことをいろいろ思い出し、家族や知人に話を聞き、いわゆるネトウヨというものとは違うのではないか、あの世代特有の特性や個人的環境・体験で嫌韓嫌中女性差別的な言い方が出てしまった。そしてそういうことを言うのは恥ずかしい差別に該当する時代になったのに、年齢的にそれをブラッシュアップできなかったというところに決着する。
でも、結局ネトウヨってこういうものなんじゃないのかと思った。この本でも定義を紹介しているガチガチの、盲目的な安倍晋三応援団で、思想の柔軟性を失い、ファクトチェックをせず、自分の発言で誰かを傷つけるのではないかとか、自分がどう見られるかを考えない人たちという4要素を備えた、ザ・ネトウヨ、ネトウヨど真ん中という人は、人口の1%もいないと思う。ただ、国に頼る前に自助努力が大切だと自己責任論を肯定したり、軍備を増強しなければ中国が攻めてくると漠然と信じている人たちはかなりいるだろう。だから維新が人気を得ているわけだ。ただ、このレベルをネトウヨと言えるかどうか。。。
ただ、正直いって、ネトウヨの定義なんかどうでもいいし、著者の父に「ネトウヨ」のレッテルを貼るべきか、違うのかなんていうのも読んでる僕にはどうでもいい(著者にとっては大問題なのかもしれないが)。むしろ逆だと思う。こういう善良な父親が、ネトウヨ(的)になってしまうような時代なんだと思う。普通の人は「月間Hanada」など読まない。人前で youtube でネトウヨコンテンツを流したりしない。
著者の父親と僕の父の経歴は重なるところが多い。ただ、僕の父はほぼ一回り年上の世代だから、ネットにハマることはなかったし、携帯すら持ってなかったから、さすがにネトウヨ的なことは言わなかったが、中盤、著者が父親の人生に思いを馳せ、子供の頃のことを思い出すところに、僕自身の父親を思い出させられた。
著者は亡くなった父親との和解のストーリーとして、そしてそこにリベラルとホシュの和解を重ねて、理解し合うことは可能だったし、今も理解し合うよう努力すべきだと説く。でもムリムリ感は否めない。
和解が可能だとしたら、今の社会のような自己責任と言い合う社会ではない別の価値観を持った、山本太郎が言うような社会ができなければ無理なんだろうと思う。
**追記(6/27,17:10)
この本、一旦販売中止になったみたいです。今は僕が読んだのと違う「編集上の不備」のない版が出ているそうです。うーん、どこに「編集上の不備」があったんだろう? と逆に興味津々 笑)
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図書館で予約したのは去年のことで、ようやく借りることができた。TVやネットで読んだり聞いたりしたことがまとめられた感じで、備忘録として一冊持っていて良い本だと思う。
憲法第15条には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とある。ここの公務員は政治家のことでもある。統一教会に応援された自民党の議員たちが、国政であれ地方であれ、統一教会のお願いを叶えるために邁進するなんてのは憲法違反だし、いわんや講演会会場に文鮮明の写真を飾って、「皆さんの応援のおかげで当選できました。何なりとお申し付けください」(p.76)なんて言うのは完全にアウトだろう。
ましてや、統一教会は外国のカルト宗教だよ? 普段から外国人の参政権反対と煽っている連中は、これをどう考えるんだろう?
教団最高権力者の韓鶴子は、「『日本、特に指導者層の人たちは近代史における過ちをはっきりと認めなければならない』と発言、日本の教団幹部に『ちゃんと日本の指導者たちに、正しい歴史観を教育しなさい』と指示した」(p.121) そうだが、僕なんかはこの点は完全同意だけど、自民党を応援しているネトウヨたちは激怒するところなんじゃないの?
*
(むろん個人的には日本の指導者が正しい歴史観をもつべきだと言うのは大賛成だけど、この本にあるように、二世信者が韓国で謝罪行脚をするなんてのは論外だと思う。
これについては説ブログで最初の頃にネトウヨと随分やり合った。要するに原爆投下はアメリカの戦争犯罪だからアメリカという国が謝罪するのは当然だが、日本に来ているアメリカ人の旅行者に謝罪して欲しいなんて思わないだろう。だけどそのアメリカ人旅行者が広島長崎に原爆投下? アメリカはそんなことしてません、と言われたら不愉快だってことだよ。
これを日本と韓国の関係に置き換えて考えてみれば、自ずとこの問題はわかるはずだ。統一教会がいうように、孫子の代まで日本は韓国に貢ぐべきだなんてのは、頭がどうかしている。)
*
こういう韓国原理主義的な統一教会の日本での反社会的行為を見て見ぬふりをしながら、選挙のために応援してもらい、統一教会ではない、勝共連合に共感したのだとうそぶく。「統一教会がやっている勝共連合ではなく、勝共連合がやっている統一教会なんですよ」(p.137) と開き直る。
統一教会の目指すところは、この本にも内部資料とともに書かれているが、統一教会の日本(他にも全部で7つの国がそうだという)の国教化だ。そしてこのカルト教は日本はエヴァ国で、「貢ぐ役割」だと規定している。なんかショッカーなみの冗談としか思えない目標だが、それを国会議員が後押ししていると言っても、あながちはずれていない。
そしてこの点を見ずに、SNSなどで自民党と統一教会の繋がりを指摘すると、必ず反論してくる連中も、統一教会がなんなのかを知ろうとしない。
まあ、この点ではこの本の中でも何度も出てくるメロンとカニの菅原一秀(連れ合いの中学時代の同級生だそうです 笑)の対応なんかは、むしろ後ろ暗さの反映された対応だと言えるし、まだ普通に人間的なのかもしれない。だから捕まっちゃうんだろうけど 笑)
「票のためなら統一教会とも組む人は、保身のためなら国も売りかねない」(p.14) と激怒した自民党の選挙運動を支援した不動産会社社長の言葉を、日本人全体がよ〜〜く考える必要があるはずなんだけど、この前の統一地方選では統一教会と関係した壺議員の90%が再び当選したそうだからね。この本を読むと、日本人は人格が乖離しているとしか思えない。
G7やらウクライナ大統領の来日やらで、岸田政権の支持率が45%を超えているそうだけど、そんな目先のことでどうにでもなる支持率なんて、ほんと、無意味だなと思う。
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面白かったです。漱石は拙ブログのモットーにしているのでもお分かりの通り、大好きな作家ですが、この本を読んで、漱石がますます好きになりました。
昔、古本屋で新書サイズの全35巻の漱石全集を2万円で手に入れて、数ヶ月間漱石ばかり読んだことがありました。さすがに小説までで、文学論以降の評論などは手をつけられませんでしたが。。。

そんな中で、「満韓ところどころ」を読んだ時、漱石が帝国主義的な植民地政策を肯定しているとは思わなかったけど、ときどき中国人についての表現に差別的なものを感じ、漱石も「時代の制約」の中にあったのだな、と思った記憶があります。
それは、この本でも「漱石は、日本人の中国人・朝鮮人に対する差別への知的批判は持っていましたが、自分の内部を厳しく点検して、その批判を血肉化するには至っていなかった」(p. 180)と書かれています。
初期の漱石は、その個人主義的(個人として立っているという「人権重視」とも言い換えられるものでしょう)なものの考え方と、当時の日本の国家主義的なものが、本来矛盾するはずなのに、共存していたので、時々戦争賛美のような言葉を発したり詩を書いてしまっています。
だけど、「満韓ところどころ」を経て、その後のいろんな小説の中に、無論当時の検閲制度下で、当時の日本が進んでいた軍国主義的国家主義的方向を暗示的に、また小出しにしながら、批判します。そして最晩年には「内なる排外的な『国家主義』を克服」(p.274)したわけです。
考えてみれば漱石は日清日露戦争から第一次世界大戦と、戦争の時代に生きてきたわけでした。だけど、漱石の小説をその時代背景を考えながら読んだことが、ほとんどなかったな、と思った次第です。なんとなく漱石の小説って、時代を超えた心理小説のように思っていました。(でも、そう言えば、江藤淳の「漱石とその時代」に、兄嫁との関係の中で「戦争の時代」がキーワードになっていたような気がし始めてきましたが、この本、その後大岡昇平の漱石論の中でめちゃくちゃ批判されていた?ので、記憶から抹消してました 笑)
漱石は1916年に49歳で死んでいます。もしもっと長生きしていれば、日中戦争が始まった時には70歳。どんなことを思ったでしょうね。
もう一度順番に全部読み直したいな、と思わされました。
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図書館で、なんとなく題名に惹かれて借りてきてしまいました 笑)ただ、舞台は今の香港ではなく、第二次大戦前後の香港です。
前半は、日本人とイギリス人と中国人の友人同士が、日本がアメリカに宣戦布告する直前、直後、戦後1年ほど経って、会って酒を飲みながら食事をし、その時々の状況に応じて、思わせぶりな会話を重ねます。舞台劇のようで、変な緊迫感があります。
前半は日本人の視点から描かれていますが、後半はイギリス人(正確にはウェールズ人)の視点から書かれていて、新たな人物が登場し、一方で前半の日本人と中国人は遠い噂話のように語られるという作りになっています。
登場人物がすべて一癖も二癖もありながら、結局全て曖昧なまま種明かしはされません。
だけど、会話のテンポも、文章のリズムもとてもよく、読み終わってあっという間だったという感じでした。でも、一方で長い長い旅をしてきたような不思議な気持ちになりました。途中女性の目から見た男の友情が「結局は案外、単純なもの」(p.235) と言われるように、描かれていない背後(戦争)が圧迫感を感じさせながら、それを背景にした友情とその思い出の話です。こういうのは個人的に好きです。
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遠い昔、まだ学生の頃、アイヴァン・モリスの「高貴なる敗北」で大塩平八郎のことを読んで、なんとなく革命家のはしりのような印象を持っていた。
その後、森鴎外の大塩平八郎を読んだけど、話は前日から始まっていて、それまでの大塩の義憤が今ひとつ伝わらず、しかも乱が終わってから、参加者たちが次々死んだり捕まっていく中、大塩本人はひと月以上も知り合いのところに匿ってもらって逃げ続けるのが、どうにもいさぎよくない!という印象だった。
他にも大塩の乱の結果として、「救民」を目指しながら大火事を起こして「窮民」を生んだなんて言われているし、関わった人たち(特に匿ってくれた商人一家)が過酷な刑罰に処せられたこともあって、なんとなく印象は悪かった。
こんな時代だし、フランスやイスラエルでは大きなデモが起きているし、ということで 笑)この「大塩平八郎の乱」、図書館で見つけて読んでみたけど、ちょっと学術的すぎて、予備的なイメージがほぼない私にはレベル高すぎだった 笑) まあ、司馬遼太郎みたいなのを期待してはいけません 苦笑)
乱の前に大塩はいろんな根回しをしていた。蔵書を売っぱらって窮民一万人に金を配ったり、猟師や被差別部落の人たちにも金を渡したり、飢饉の中で餓死していく人たちを救おうとしない豪商たちを非難する檄文をまいたりしていた。それなのに、実際の乱が起きた時に参加したのは最大200人程度だったという話を読むと、白土三平の「カムイ伝」の世界はやっぱり漫画の中だけだったんだねぇ、と思わざるを得ない。
ただ、大塩が死んだ後、大塩様と称して人々から崇め奉られるのは、「カムイ伝二部」にあった人々の首謀者たちを祀る踊りを思わせるところもあるかなぁ。。。庶民とは(無論わたしを含め)情けないものです 苦笑)
大塩平八郎は半日で潰えた乱の後、一月以上隠れしていたわけだけど、この本ではその理由は、大塩が、自分が江戸に送った老中たちの不正を告発する建議書に対する回答を待っていたからだという。ただ、「江戸を撃つことなしに根本的な解決はない」(p.242)という結尾の文章だけど、江戸へ宛てた「建議書」が「江戸を撃つ」ことに直結しない気もした。
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亡くなったのはもう10日も前のことだそうです。
大江健三郎はたぶん僕や少し上の世代だと読んでいる人は多いと思う。たぶん、読んだことがあるというパーセンテージで言えば、現在の村上春樹を凌駕していたんじゃないかと思う。「同時代ゲーム」が出た時も大いに話題になった。個人的には比較的初期の小説にかなり夢中になった。文章は上手いし、シュールな露悪趣味は好みが分かれるかもしれないけど、僕は特に「芽むしり仔撃ち」は何度か読み直し、最後のところで胸が潰れるような思いを繰り返し感じた。
ただ、
これは以前、発禁本 笑)の「セヴンティーン」について書いた時にも言ったんだけど、僕自身は「同時代ゲーム」までで、そこからあとは、本箱にはたくさん並んでいるんだけど読んでない。ノーベル賞を取った時の理由は障がいのある息子との共生を高く評価されたと思うけど、自分が障がいのある子たちの親となったら、返って手に取りにくくなってしまったという感じ。

なんで写真が歪んでるかというと、本箱下の足場が悪くて手が届かない 笑)
ところで、僕は一回だけ遠くからだけど、生の大江を見ている 笑)
原発反対集会の6万人の中に入ってマイクを握っていたのを100メートルぐらい離れたところから見たことは、2011年9月の拙ブログでも書いている。
その後、最近はこういう時代になってしまったから、リベラルな政治意識をはっきりと全面に出した大江健三郎のような人はメディアへの露出度も激減してしまったように思う。だけど、平和運動家としてもそうだろうけど、作家としては昭和から平成への日本文学の代表者だと言っても良いだろう。それも、たぶん桁違いの。
合掌。
追記(3/14,10:20)
今朝の東京新聞の社説で筒井康隆の文言が引用されている。「ずっと大江健三郎の時代だった」
この意味で、僕は平成になってから時代についていってないな、と反省。今年は大江を読むことにします。
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チェコから来た古いアームチェアをオランダで修理に出したら、ハーケンクロイツの印が押された書類が出てきた。それを手掛かりに、その時代背景とともに関係者も含めて、持ち主の人生を探るドキュメンタリー。
書類の持ち主は署名からローベルト・グリージンガーというSSの将校で、博士号を持った法務官であることがわかる。いわゆるナチのエリート知識人部隊の一員だ。
SSというと、誤解を恐れずに言えば、格好良い(以前どっかのアイドルグループがそれに似せた服を着て、海外からも批判されたことがあった)黒い制服を着て、髑髏のついた帽子を斜に被っているという印象だけど、

こんな感じ
この本の主役のグリージンガーは「一般SS」というやつで、独ソ戦が始まった頃にはロシアにも出征しているが、その後、プラハに赴任して普通の背広を着てお役所業務に励んでいた。無論その業務によって運命を変えられたチェコ人たちがたくさんいたわけだが。
椅子から出てきた書類はパスポートから公務員試験合格証明書まで、この男の存在を証明するはずの貴重な書類ばかり。パスポートにはハンサムな男の写真が貼られている。著者はこの男の一家を探しだし、各地の図書館や公文書館で資料を漁り、この男と家族の人生を追いかける。同時に、戦前のドイツの南西部の雰囲気や戦後の生き残ったドイツ人たちのナチスに対する複雑な反応も描く。
個人的には、ドイツの大学、太宰治の短編小説に「アルト・ハイデルベルヒ」という題名のものがあったけど、まさにそのアルト・ハイデルベルクの雰囲気がある、古き良き時代のドイツの大学が、実は学生にも教師にも積極的なナチズム信奉者が多く、特にプロテスタントの上流中産階級出身者はナチズムと親和性が強かったというのはちょっとショックだった。
「のちに言われるように、大学は一握りのナチ狂信者に乗っ取られて学問の独立性を失ったわけではなかった」(p.194)
当時の多くのドイツ人たちはナチスの党員になれば出世しやすいし、いろんな面で優遇される可能性が高くなるという実利的な面に目が眩んで党員になったのだと思いたいところだが、実際はこの主役のグリージンガーも含めて、すでにそれ以前から人種差別的、優生思想的な考え方に慣れていたと言える。
そして言うまでもないことだけど、彼らが家庭では良き父親で夫で、母親から見れば大切な息子、仲間たちの間では愉快な楽しいやつで、上司からは「優秀で誠実な職員」だと評価され、休みの時には「レコードプレーヤーでクラシック音楽を聴きながら」(p.251)くつろぐ、普通の人間なのである。映画や漫画で描かれるサディスティックなサイコパスなどでは決してない。
結局、拙ブログのモットーの漱石の言葉「悪い人間など世の中にいない、平生はみんな善人だが、いざというまぎわに、急に悪人に変わる」につながるとも言えるが、それ以前にもう一つ、時代の雰囲気、空気というものが人を作ることも忘れてはならないと思う。
1920年代から30年代にかけて、ドイツの大学や中産階級には、人種差別や優生思想的な空気が醸成されていたのだ。そういう空気の中で育った若者は、戦争という「いざというまぎわに」、とんでもないことを一斉にしかねないということだ。
その意味では、すでに今の日本にも優勢思想的なことをTVで堂々と述べるような学者がもてはやされ、困っている人を自己責任と称して切り捨てる安倍的社会になってるのが恐ろしい。
本に戻ると、なぜ椅子に書類を隠したのかとか、ロシアで何をしたのかなど、さまざまな謎が見事にスパッと解決し、うぉ〜っとはならない。ミステリー小説ではないので当たり前だ。だけど、それぞれの人に、それぞれの人生があり、その経験の全てが次の世代に伝わるのではなく、むしろそのほとんどが忘却の彼方に消えていくのだ、という無常感の余韻が、これまた誤解を恐れず言えば、心地よい。
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昔、それこそ半世紀前に読んだアシモフのSFに、「宇宙の小石」っていう、60歳になったら安楽死させられる未来を舞台にした話があったけど、それを本気で面白おかしくTVで子供相手に言っちゃう大学教員が出てくるような世の中になるとはね。。。
僕なんかは
以前よく引用したニーメラー牧師の詩を連想しちゃうけどね。最初は老人、次はきっと障害者だろうな、その次はLGBTQかな? そして役に立たないとみなされた人たちが最後に来るのかな。でも、そう言う社会になったら、そこで終わらないだろうなぁ。新たに差別できる対象を探してくるんだろうね。
というわけで、ロシアのウクライナ侵略とコロナパンデミックの最中に行われた対談。だけど残念なのは、本の発行日から見て、この対談は安倍銃撃事件の、おそらく、直前に行われたということだ。この二人が、あの後の政界の統一教会汚染についてどんな話をしたかを想像すると、この点がホントに残念。
もっとも、こんな標題をつけちゃうから、切腹しろ、とか言い出すやつも出てくるんだろうけどね 苦笑)
それはともかく、この本、いろいろ面白い話が次々に出てくるんだけど、池田の過激さを養老がうまく受け流しているような雰囲気がある。だから、圧倒的に面白いのは池田の発言だ。
特に、みんな自分の人生にせよ、何かしら意味をつけたがるが、「世の中、意味のないことの方が多いし、なくて構わないのに、「意味という病」に侵されているんだな」(p.140)と言って、「この形質にはこういう意味がある」という論文は書けるけど、「この形質にはなんの意味もない」という論文は学会誌に載せてもらえないと言う。
当然意味があることだけが大切になれば、意味がなければ(役に立たなければ)消してしまえ、というところにつながるだろう。そしてそのちょうど正反対のところにあるのが、山本太郎がよく言う「生きているだけで価値があるんだ」という世界観なんだと思う。あらためて、山本太郎があらがおうとしているものがはっきりした。
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いやあ歳のせいか、ぎっくり腰が一向に万全になりません。夕方は大体横になってるので、こんな本を読みました。ネタバレはしません。

今から十数年先の近未来。ヴァーチャルリアリティ空間が現実の空間と重なって、脊髄損傷によって首から下が動かない主人公の脳外科医が、脳に埋め込む「テレパス」を使って、現実世界では介助ロボットを、VR空間ではアバターを自由に動かし、視力と記憶を失った少女の外科手術を行えるようになっているという設定。
この少女は一体何者なのか、この少女をめぐる七人の登場人物は?? というミステリー。
途中所々に、誰のモノローグかよくわからない章が挟まるんだけど、これって結構ミステリーでやられる手法だよね。
以前に書いた(個人的には大傑作だとおもっている)チェコミステリー、コホウトの「プラハの深い夜」や
葉真中顕の「絶叫」に似てる。
VRの世界って時々TVなんかでもアイマスクみたいなのをかぶってゲームをしている人を見るけど、実際にやったことがないので、この小説にあるようなリアリティがあるのかよくわからない。ただ、こういう世界が小説の舞台になるんだなぁ、と爺っ様は感じた。
ただ、途中でふと、こんな話読んだことがある、と連想したのは大友克洋の漫画。有名な「アキラ」の前の「ファイアーボール」という漫画がなんとなく思い出された。と言いながらファイアーボールの内容はあまりはっきり覚えてないんだけどね 笑)
個人的意見としては、最後がちょっと拍子抜けだし、後味もあまりよくないけど、前半はかなり楽しめた。でも、種明かしと活劇になる後半は、あまり乗れなかったかなぁ。
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どうも歳のせいか、ぎっくり腰の状態が今ひとつ良くなっていきません。かれこれ1週間になるんですがねぇ。というわけで、1日数時間は横になっているので、その間に読んだ本です。

「特攻」については最初の頃からよく書いてきた。拙ブログを始めてすぐに
西川吉光という人の「特攻と日本人の戦争」という本を結構詳しく紹介しているので始まって、最近でも
川端康成と「特攻」の本を紹介した。
死んだ若者たちのことを考えたり、遺書を読んだりすれば、彼らがあまりにかわいそうで、美化して上げなくては、という気持ちになるのは、人間として当たり前の心情だろうと思う。だけど、その一方で、では彼らに「特攻」を強いた上官たちはどうしたのかを一緒に考えないと、「特攻」については絶対危ない方へ向かうというのは当初からの直感としてあった。これは今ではネトウヨ作家に成り下がってしまった作者の
「永遠の0」について書いた時にも言ったことだ。
戦果からみれば、この本の中である生徒が言ったように、特攻は「何の意味もない国のプライドとかいうための犬死作戦」(p.138)だったとも言える。こう書くと、反発する人も多いだろう。でもこの点を忘れて、単に美化して感謝して、とやったら、この国はまた同じことを繰り返すだろうと思う。
なによりも、戦後もおめおめと生き続けた特攻を命じた者たちが「特攻」を美化することに熱心だったことからも、彼らのベクトルが自己保身に向かっていることは明らかなのである。特攻隊員はお国のために自ら志願して勇ましく死んだ、その「真実」を身近で見ていた自分が後世に伝えなくてはならない、というのが、彼らに「志願しろ」という無言の命令を与えて、「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」(p.49)と言いながら、戦後もおめおめと天寿をまっとうした奴らのやり方だった。
この本に出てくる大西道大が戦後になって特攻隊員の遺族に会いにいった時のエピソードなど、本当にはらわた煮え繰り返る思いしか湧かない。
「元司令官は仏壇に手を合わせた後(中略)『どうしてこのように小さいお子様がいて、なぜご主人は特攻に行ったのでしょう』と言った。【未亡人は】一瞬、大きく「あなたさまは。。。。」と声を荒げ、あとは押し黙った。」(50)
ナチスドイツはユダヤ人たちを組織的かつ大規模に、効率的に殺害したとよく言われる。しかし日本軍は
「若者の侠気と、それに甘える老人の卑しさ」(古処誠二)にたよって、部下が必ず死ぬ戦法を組織的かつ大規模に取ったのである。
この本の最後の方で、若い社会科教員たちが「戦争」のテーマを授業で避けようとする傾向があるとして、彼らが、「『戦争』を『不快』なものととらえ、『戦争』に結びつく反省や謝罪、責任というものを考えなくていいように、『戦争』そのものを教材として『除去してしまいたい』と考えているような気がしてならない」(154)と書いているが、これは教員だけの問題でもないんだろうと思う。そして、『戦争』を『政治』に変えても同じようなことが言えるのかもしれないと思う。
『政治』を『不快』なものととらえ、『政治』に結びつくものを考えなくていいように、『政治』そのものを(頭の中から)『除去してしまいたい』と考えているような気がしてならない。
追記(2/5 15:35)
所々変換ミスなど変更しました。ご指摘ありがとうございました。
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恒例のぎっくり腰。拙ブログはもうすぐ14年目に突入ですが、いったい何回やってますかね? 都合何日寝込んでいるんだろう? そのうち数えてみましょう 苦笑)
というわけで横になって読んでたのがこの本。
表紙と裏表紙を合わせると、いや合わせなくても色合いだけでブリューゲルの狩人の帰還の左右逆のパロディだってわかる。ちなみに本を開いてパソコンのBGと並べるとこんな。

まあ、
以前も書いたけど、この狩人の帰還をパソコンのバックグラウンドにしている僕としては、この表紙だけでも読んでみたくなりますが、17世紀半ばから末までの話なので、16世紀半ばのブリューゲルのこの絵はちょっとどうかなぁ。。。笑)
1750年ごろから1790年代中頃までのフランドルのヘントの南、たぶん架空の街(?)シント・ヨリスを舞台に亜麻糸商のファン・デール家の双子の姉弟のヤネケとテオと、養子で引き取った一つ年上のヤン・デ・ブルークの話。
この佐藤亜紀という人の小説、以前拙ブログでも
「スウィングしなけりゃ意味がない」というナチスの時代のハンブルクを舞台にした小説を紹介したことがありました。あの時も感じたんだけど、会話の口調が現代風なのはわざとなんでしょうね。今回は特にヤネケ(女性)のセリフが『〜なのよ』みたいな女性言葉はほぼ使わない。なんとなく進撃の巨人のミカサのセリフっぽかった 笑) まあ、このこの時代のヨーロッパなんてミソジニーが常識だっただろうから、その中で自由に生きる女性としての言葉遣いってことなのだろうけど。。。
お話は養子のヤンと双子の姉のヤネケがデキちゃって子供が生まれると、ヤネケはベギン会という、片足を修道院に、もう片足は世間に置いてるような、緩い修道院みたいな組織に入ってしまう。で、そこで何をするかというと、これが学問。ヴォルテールやライプニッツやアダム・スミスを読み、ハレー彗星の軌道計算をしているフランスアカデミーの女性数学者と文通しながら、自ら「確率論」や「富の数学的原理」という本を、弟のテオやヤンの名前で出版して、ヴォルテールから手紙をもらったりする。
フランスだとこの本にも出てくるように女性の学者というのが実際いたようだけど、フランドルだから 笑) 学問に取り憑かれてしまった、そもそもが才能豊かなヤネケに対して、ヤンの方は未練たらたらなんだけど、彼女の自由を尊重し、彼女との間にできた子供レオを引き取り、自分は結局2回の幸福な結婚生活を送って、いよいよ60も近くなり、だけどヤンはまだヤネケに対する思いを断ち切れない。。。いろんな人が登場しては退場していき、そして時代は、イギリスの産業革命とラッダイトの波がフランドルにもおしよせてくる予感の中、ベギン会もヤンの亜麻糸や織布の世界も変わっていくだろうということが暗示され、最後はフランス革命があって、フランス共和国軍によるベルギー占領の時代。。。
まあ、ネタバレはしてません。ヤンの二度の結婚も最初の登場人物紹介を見ればわかるしね。個人的には舞台がフランドルというのが魅力的だし、ベギン会のベギンホーフは昔旅行でブリュージュで見たことがあるし、ベギン会の女性たちの生活も興味深いし、なによりこういう長い時の流れの中で展開していく話は、この年になるとそれだけでも心打つものがある。
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ネタバレしてませんが、これから読むつもりなら読まない方がいいかも 笑)
森達也のこれまでの本を読んできた人なら、最初の方で、ああ、あの話ね、と思うでしょう。前半は、以前深夜のドキュメンタリー枠で憲法1条を映像化しようとして失敗した話が、たぶん実名でそのままリアルに再現されています。どこまで事実かわからないけど。主人公は森克也という名で年齢はアラフォーだから、そのへんの設定は作り物だけど、過去にオウムを映像化していることになっているし、是枝裕和をはじめ、TV業界、映像業界の人たちが、おそらく、実名でどんどん登場します。
なにより天皇皇后(現上皇と上皇后)が明仁、美智子でそのまま登場するってのがこの小説のポイントでしょうか。いや、天皇が出てくる小説って、僕がすぐに思い出せるのは大江健三郎(題名は思い出せないけど、天皇が「あの人」と呼ばれて場面に登場するシーンがあった)や、僕は読んでないけど深沢七郎は大事件になったし、最近では
高橋源一郎の「恋する原発」や、あるいは
若杉冽の「原発ホワイトアウト」だったか、憲法改正の公布を拒否する天皇が登場してました。だけど、この小説では、そうしたチョイ役で出てくるのではなく、この二人が森克也とともに主人公でもあるわけです。
さらに中盤からは山本太郎が重要な役割で登場します。
森達也は山本太郎の応援メッセージを出したぐらいだし、ここに描かれている山本太郎は実物そのままなんだろうと思わせます。ここ大切だから 笑)
森達也の本に
「オカルト」というのがあったけど、この小説を読みながら、それも連想しました。これは最初の方から出てくるから、ネタバレにならないと思うけど、カタシロという日本にしか出現しない超常現象じみたものが出てくるんですね。なにか日本の「世間」とか「タブー」とか「穢れ」の比喩なんだろうけど。さらに皇居の地下のラビリンスを天皇皇后と共に行くところなんか、
タルコフスキーの映画の「ストーカー」のゾーンなんかを思い出したりしました 笑) そういやあ、この小説の最後も雨が降ります 笑) タルコフスキーの雨も清めの意味があるから、その点でも共通してるかな 苦笑)
冒頭から登場する天皇皇后のイメージは誰でも納得するんじゃないでしょうか。きっとここに描かれているような人なんだろうと思う。途中からはこの二人の冒険みたいなはちゃめちゃな感じになるけど、最後の方、のこり40ページぐらいから、ちょっと色々物足りなくなりました。カタシロが「穢れ」だとすれば、ラストはピタッとはまって納得できるけど、あの自民党・電通・高天原の標識 笑)は、もっと膨らませてほしかったなぁ。
でもそこまでは、途中でやめられなくなったぐらい面白かった。ただ、森達也の文章ってかなりクセがあるんだよね。そのクセある文体が小説にはそぐわないような気がするんだけど。
最後に、僕の天皇についての考えは以前に書きました。
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安倍が繰り返し「悪夢のような民主党政権」とヒステリックに叫んだものだが、みんなが民主党政権時代よりマシだと思っていた経済の面ですら、安倍政権はまるでひどいものだったということを書いた明石順平の「アベノミクスによろしく」という本を紹介したのは4年以上前のこと
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3090.html。
要するに山本太郎がよく言うように、この25年のデフレで日本はどんどん貧しくなっていく。現状維持がいいから自民党に入れるなんてのは馬鹿の極み。この間、現状維持されたことは一度もないわけだ。
今回のこの本はコロナ禍での安倍の対応と東日本大震災時の原発事故に対する菅直人の対応の比較だ。この本に、仮に安倍を批判したいというバイアスがかかっていると仮定しても、まあ、とんでもないね。要するに菅直人政権時の自民党、特に安倍のやったことは犯罪的だ。原発事故という未曾有の国難に挙国一致で取り組もうという気はまるでなく、単に政権の足を引っ張ることしか考えていなかった。特に安倍はデマを流すということまでしていた。しかもその嘘はいまだにネトウヨ連中が菅直人批判に使っている 笑)まあ、維新の手口だな。
あの時、菅直人政権にも至らないところは多々あったと思う。しかしそれを批判していた野党の自民党が今回与党になって、コロナ禍でどんな対応をしたかを思い出せば、当時の自民党の批判はブーメランどころか、2倍、3倍返しになっているし、菅直人政権が国民に対していかに誠実だったか、安倍政権が国民に対していかに不誠実だったか、がはっきりわかる。
今回のコロナ禍も、日本中の人々が、仮に安倍政権ではなく菅直人政権だったら、いや、トップが安倍以外だったらと考えてみたら良いと思う。まあ、大阪の維新の連中がトップだったら安倍よりもひどいことになっていたかもしれないが 笑)だって実際死亡率ワーストワンだからね。コロナに対する対応はTVに出演することだと思っているんだろうからね。
また、逆に今回のコロナ禍の対応ぶりを見て、もしあの311の時、トップが菅直人ではなく安倍晋三だったら(あるいは松井や吉村だったら 苦笑)どうだったかを考えてみたら良いと思う。まあ、こちらは考えるのもおぞましいことではあるが。
なんと言っても台風で死者が出ている時に赤坂自民亭でみんなで酒飲んでたんだからね。今回のコロナ禍だって、突然の大規模イベントの自粛要請やら全国一斉休校要請やらアベノマスクやら、ほとんどが思いつきだし、まともな説明ひとつできなかったんだからね。たぶん、東電に全ての責任をなすりつけて知らん顔を決め込んだことだろう。
そして、ただただやってます感を醸し出し、成果を自画自賛、「実際には野党側からの相当な突き上げによって実現した【コロナ特措法の】法改正を首相主導で実現したかのようにフレームアップ」(p.90)。10万円の給付だって野党が主張し、公明が創価学会の突き上げで耐えられなくなって進言した結果だったわけだ。
さらにどさくさまぎれでコロナ禍の「対応の失敗を『国民のせい』にして、憲法改正による国民の私権制限につなげるための好材料」(p.107)として利用しようとする。この本で繰り返し強調されているのは、安倍政権は「政治の責任を回避し、責任を国民に転嫁しようとした」(p.257)ということだ。
そして最後は「『国民へのお見舞い』を語るべき立場の首相は、逆に『自らへのお見舞い』を求めるかのような記者会見を残して、一方的に首相の座を降りていった」(p.273)。
ただ、これって問題点をきちんと指摘しないマスコミ、特にTVにも相当問題があるんだろうね。
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