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山本太郎「僕にもできた!国会議員」

2019.10.15.18:47



この本、最初図書館で借りて読み、カンパのつもりで改めて購入することにしました。僕は「本物」を嗅ぎつける鼻は比較的良いと思っている。そんな僕が言うぞ! 笑)

山本太郎、これは本物だ。

この本は雨宮処凛がインタビュアーになったり説明を書いたりして、議員になった山本太郎がどのような法案づくりに関与したか、それによって世の中がどう変わったかを説明してくれる。どこかの講演で、一人で何ができるか?と問われた山本は一人でできることは限られているからみんなの力を貸して欲しいと言っていたが、その一人でもできた、限られたことが、この本ではいくつも挙げられている。

例えば西日本豪雨の際の被災地への小型重機100台、女性活躍推進法の付帯決議へのDV・ストーカー問題追加、生活保護世帯の子どものための制度変更、野宿者支援、入国管理局の外国人支援。。。

これを見てもわかるように、「彼が寄り添ってきたのは、被災者やDV被害女性、生活保護世帯の子ども、野宿者、外国人といった「最も弱い立場に置かれた」人々だ。声を上げられない、あげても掬い上げてもらえない確率が高い人々だ。」(p.62) 自分の票にはなりそうもない人々たちへの支援だ。

そしてこう言う。「僕が目指す社会は、究極は、頑張らなくても生きていける世の中です。(。。。)余裕が欲しい。
 何をもって頑張るかは個人差があるので、それを測るのは難しい。でも、頑張れない時に頑張ってもロクなことがないから、ゆっくり休んで、それを国が支えて、そろそろ力が湧いてきたという時に頑張ってもらう方が、ずっと生産性は高いですよ。だって、無理しても壊れるだけだもん。
 だから、「いいよ、頑張らなくても」という世の中になればどんだけいいか。今はあまりにも地獄すぎると思うんです(152)

これって拙ブログのモットーに挙げている八尋光秀さんの言葉と完全に一致するだろう。なんども繰り返してきたけど、どうして日本はこんなに弱肉強食みたいな社会になってしまっただろう? みんなが「自己責任」とか言う言葉に乗せられて、生活保護世帯やホームレスを叩くような下劣な国になってしまったんだろう? 小泉の規制緩和とやらで「自助」「共助」ばかりが強調されて「公助」と言う視点が消えてしまった。しかし国ってなんのためにあるんだ? 人のためにあるんじゃないのか? 

いいんだ、俺は普通に頑張ってきたから普通に生活できている、頑張れば誰だってなんとかなるんだ、と言う人もたくさんいるんだろう。でなければこんな社会が続くはずはない。でも、そう言う人だって、本当はこの先どうなるかわからないではないか。

さらに、経済のことはよくわからないけど、最近では保守陣営にすら、山本太郎が言っていることは間違っていない、消費税は0%にできるし奨学金チャラも可能であると認める人も出てきたと言う。財政難なんだから消費税は必要とか、これからの少子高齢化の時代に消費税で社会保障をしっかりやってもらわなくちゃ、と言う人は見事に政府が流すデマに乗せられている。詳しくはYouTubeで山本太郎が言っていることを聞いてもらえばわかるけど。

と言うわけで、山本太郎に大きな期待をかけている人は多い。でもこれもずっと昔ここに書いたことだけど、ヒーローを待っていても、世界は変わらないんだよね。http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-1100.html

この本でも山本太郎の友人で災害支援団体の人がこう言っている。

太郎にお願いだけじゃダメじゃない。そうじゃなくて、太郎、一緒にやっていこうぜって人をどう増やしていくか。太郎一人がカリスマになるんじゃ変わらないもん。太郎もそれを望んでないと思うし。(28)

こういうことなんだと思う。そして、政治を変えても社会は良くならないと思っている人たちには、ここまでの政治の失敗が今のこのような殺伐とした社会を作ったのだから、政治を変えることで良い社会にすることも可能だ、と言う山本太郎の言葉を紹介しておく。

おまけ

昨日(10月14日)の東京新聞で、魚住昭というノンフィクションライターが山本太郎のことを一種のポピュリズムだから「ヒュット極右政党に変わってしまうかもしれない危うさがある。ウオッチが必要だと感じる」と言っていたが、トンチンカンも極まれりだ。何か山本太郎に乗ることを軽薄だと思っているリベラル(=反安倍・反自民=サヨク)も多いようだ。その際の決まり文句は「ポピュリズム」だ。

ポピュリズムについては拙ブログでも、薬師院仁志の本を紹介したのでそちらをどうぞ。
薬師院仁志「ポピュリズム」覚書き

しかし、こんなユルフン【この言葉の意味、今の人たちわかりますかねぇ 苦笑】な言葉でわかったようなことを言わないでほしいね。この人も普段の発言はリベラルな方だと思うが、どうして山本太郎が極右政党に変わる? 山本太郎の何を見てるんだろう?? ちょっと呆れ返った。


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古川真人「ラッコの家」(ネタバレ)

2019.09.26.23:42



この作者は相模原事件について考え続けているというので、図書館で借りてきました。

表題作は、主人公は80前の老女で、一人称ではないけど、この老女の意識の流れのように、文章は句点を少なくしてズルズル続いていきます。九州地方で一人暮らしをしている主人公のところに姪たちがやってきて世間話をしていくんだけど、その合間にその現時点の出来事の延長のように過去の記憶や夢が混じり込みます。それがとても巧みで、心地よいです。例えば、寝入り端にラジオを聴きながら夢うつつで物を考えていると、ラジオは朝の番組をやっていて、自分が寝ていたことに気がつくなんていうシーン。

他にも、どこか映画的で、ベルイマンの「野いちご」を連想しました。そこにさりげなく姪の子供に全盲の子供がいて、そこに不要な人間というキーワードが出てきます。表題のラッコも上手い具合に最後のオチ?につながります。上手いです。

もう1つ収録されている「窓」(こちらの方が長い)という作品は道具立てがわかりやすいです。全盲の兄と暮らしている小説家志望の無職の青年が主人公で、兄は全盲ながら企業に就労しているので、主人公が兄の送り迎えを担当しているという設定(全盲の兄の描写が、全盲の娘がいる私にとっては「あるある」で(特に兄の友人たちとのやりとりの、どこかのんびりした悠長な感じ)、おそらく作者の実体験だろうと思います)。

主人公は兄のためを思って、近所で起きた孤独死についても、あるいは相模原の事件についても話題にせず、いわば「窓」を締め切ったまま、社会の不快な出来事を遮断して、兄を守ろうとします。障害者を守るという意識がぐるりと回って「差別」に繋がってしまうのではないか、ということに気がついた主人公が「窓」を開けるというとても気持ちの良い清々しい終わり方。

そして、「ラッコの家」であったような現実と夢がいつの間にか入れ替わっているような眩暈感が、ここでもありますが、こちらはクリストファー・ノーランの「インセプション」という映画にあったような多重夢的な感じで、この人の持ち味なのかもしれません。

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薬師院仁志「ポピュリズム」覚書き

2019.08.27.23:29

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ものすごくわかりやすくて面白かった。

ポピュリズムっていう言葉は今世紀になってやたらとよく聞く言葉だけど、どうも意味がよくわからない言葉だった。よく言われていたのは、この本でも徹底的に批判されている橋下徹だろうけど、最近では山本太郎までポピュリストのレッテルが貼られる。でも、僕の印象ではポピュリズムというのは扇動によって「ザマアミロ」と悪意を掻き立てる、というものだったから、山本太郎をポピュリストというのはどうも違和感があった。そういうわけで、この言葉のもっと正確な定義を知りたかったのが、この本を読んだ理由だ。

しかし面白かった。いろいろとアフォリズムと言いたくなるような文が出てくる。例えば、「多くの人々の『本音』が汚れていくとき、ポピュリズムが台頭する」(p.18)とか、「ポピュリストによる民衆扇動は、まるでパンドラの箱を開けるように、誰もが心に抱える負の部分に火をつける」(p.64-5)なんて、僕のポピュリズムという言葉のイメージとドンピシャで一致する。

この本によれば、ポピュリズムの定義としては、反エリート・反エスタブリッシュメントであることが第一条件である。ポピュリストたちはまず自分たちが国を支配する一握りのエリートに対して反旗を翻す人民の代表者であると自己規定する。そして、自分たちを批判する学者やインテリたちは人民の敵なのである。厄介なことに、彼らは「批判を浴びれば浴びるほど、人民の敵たるエリート層との戦いを演出しやすくなる。自分を批判するものこそ、非エリートたる人民の敵だ」(p.92)とすればいいのだ。

続いて、ポピュリストたちは論理的な議論は放棄し、人々の感情に訴える。人々が誰でも「心に抱える負の部分に火をつける」(p.65)。「中身を持たないポピュリストたちは(。。。)他者を否定することによってしか自分を肯定することができない」(p.83)。だから「架空の敵を作り上げる」(p.73)が、実際にその敵が存在してなくても構わないのである。「メディアを駆使して敵の幻影を膨らませることに成功すれば十分」(p.73)なのである。しかも、扇動には「中身のない旗印 ー「改革」がその典型ー を掲げるのが最も好都合」(p.163)なのである。

つまり、「現代型ポピュリズムは、『人民vs人民の敵』という二元論と、『デマと民衆扇動の結合』という2つの特性を持つことになる」(p.79)。ポピュリストの「こうした扇動は、民意に迎合した支持者獲得というよりも、むしろ民意を誘惑する信者獲得に近いであろう」(p.83) 。

この本ではこうしたポピュリズムがはびこる原因として2つのことが強調される。1つは民主主義が多数決だと勘違いしている昨今の風潮である。つまり、代議制民主政治というのは、「全国民の縮図となるように代表者を選び、議会で熟議を尽くし、合意形成を図ること」(p.101)であるはずなのだ。ところが、ポピュリストは「選挙を、国民の代表を決める手続きではなく、国民からの権力移譲を正当化する儀式に掏り替える」(p.84) 。 本来「普通選挙は、代表者を選ぶ手続きであって、権力を委譲する人物を定める手段ではない」(p.102)はずなのに。

選挙は我々国民の中から代表者を選ぶ手続きなのだ。だからこそ、今回のれいわのふなごさんや木村さんという重度の障害者が選ばれたことの意義があるのだ。去年(2018年)の記事だが、障害ある人は人口の7.4%だそうである。障害といっても様々だからこの統計は乱暴といえば乱暴だが、それでも国会議員の数は700人強。その7%は50人近くになる。障害者の代表としてこの二人プラス国民民主の横沢議員をで3人というのは少なすぎると言えるだろう。

閑話休題。このように民主主義が多数決だと勘違いすれば、まっとうな議論など封殺され、「多数さえ押さえれば、『悪』に政治的正当性を付与(。。。)することが可能となる」(p.115)のである。ここから先はもう全体主義へまっしぐらだ。

もう1つ、ポピュリズムがはびこる原因としてあげられるのが、小泉の頃から盛んに言われ出した「小さな政府」というキーワードである。これまた勘違いされることが多い言葉だが、本来の「小さな政府」は(。。。)単に官や公に所属する人間の数が少ないことではない(。。。)小さな政府と人件費が安上がりな政府とを混同してはならない。小さな政府は自由放任を旨とするものであり、強い力を持たないのである。独裁者が強大な公権力を握り、国民を全面的に統治するような体制は、小さな政府などではない」(p.105)のである。

山本太郎が政権を取ったらすぐにやるとした8つの緊急政策の中に、「公務員を増やす」というものがある。ところがこれがすこぶる評判が悪い。リベラルな人たちの間でもこれにだけは反対だという人が多いが、先進国の中で比べれば、日本の公務員数の比率は極めて低いのである。比較的比率の低いドイツでも日本の2倍の比率の公務員がいる。アメリカで3倍弱、スウェーデンなんか4.6倍だ。そして日本の公務員の給与は逆に突出して高い。本来、公務員の給与は民間の給与の基準とされるべきはずだと思うのだが?

何れにしてもこの「小さな政府」という言葉は影響力が強く、そこには橋下が盛んにやった役人批判の影響も大きいのだろう。要するに「安上がりの政府をつくることが『民』を助けることであり、それが『民』主主義だと」(p.108)勘違いされ、それは極端な話、「一人の為政者が最小の政府」で、「独裁者への全権委任が最も安上がりだ」(p.108)となりかねないのである。

つまりポピュリズムから独裁や全体主義まで想像以上に近い。

この本では他にも「リベラル」という言葉が日本では完全に誤解されていることや、トランプやフランスの国民戦線の巧妙なアジテーション、あるいは世界で最も民主的だとされたワイマール憲法のもとでヒトラーが生まれたことなども説明されている。

とてもわかりやすいしガッテンいく解説で多くの人に読んでもらいたいと思った。何れにしても山本太郎を「ポピュリズム」というキーワードで語ることの間違いは理解でした。


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古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」(ネタバレ)

2019.07.03.20:56



1943年キスカ島を撤収した日本軍が置いていった4頭の軍用犬たちとその子孫の数奇な運命を、20世紀の戦争を舞台に描いた小説。発熱でうとうとしている間、目がさめると読んでいましたわ。

なにしろ波乱万丈のお話がすごい。現在(20世紀末)のロシアの元KGBの暗殺者と日本のヤクザとその娘のエピソードと、1943年から89年までのそれぞれの犬たちの子孫とその飼い主たちの人生・犬生が交互に描かれていて、その話がどれも冒険活劇みたいで面白い。しかも部隊もアリューシャン列島のキスカ島からアラスカ、アメリカ本土、メキシコ、一方ハワイや朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争と部隊も太平洋を越えユーラシア大陸の奥地まで。

出てくる犬も犬ぞりを引いたり軍用犬になったり麻薬探査犬になったり、はてはスプートニクで宇宙へ行ったライカ犬たちの末裔も混じってきて著者自身があとがきで「想像力の圧縮された爆弾」と表現しているけど、まあ見事に爆発しました。

犬ってやっぱり健気で見ててつらいわなぁ。私も子供の頃から犬は何匹か飼った。みんな雑種で庭で飼って、名前は最初の頃はずっとペスだった。最後に飼ったペスはフィラリアで血便で血まみれになって死んだ。もう2度と犬は飼わないと思ったのに、妹が結婚後父と母がポメラニアンを飼って、これにはペスという名前はつかなかった 笑) 今は前に書いたように、全く人馴れしない保護猫が一匹いる。こいつはみてて辛くならない。むしろいつか見てろよ、とっ捕まえてぐしゃぐしゃに撫でてやるからなぁ、と手ぐすね引いてる状態 笑)

閑話休題。文庫本の裏表紙には「エンタテイメントと純文学の幸福なハイブリッド」とあるんだけど、うーん、僕は純粋なエンタテイメントだと思う。まあ、純文学とエンタメの差ってなに?って言われると難しいけど、エンタメはある意味完結してしまっているのに対して純文学の方はそうではないっていう感じかな。結末はハピーであれバッドであれ関係ないでしょう。犬に語り掛ける口調で畳み掛けるような短い文章を連ねて、読みやすいし、人も犬もどんどん死ぬ。死ぬところの状況や気持ちや感情なんていう甘いものはまったくないハードボイルドさ。ただ、ものすごく波乱万丈の面白さがあるけど、最後の方、ちょっとよくわからないところもあるんだなぁ。

ここからネタバレ

人間の主役の一人、「大主教」と呼ばれる元KGBの暗殺のプロは旧ソヴィエトの体制に忠実を誓い、その結果としてソ連が崩壊した現在(1990年?)に憎悪を抱き、腐敗した社会を憎悪し、ロシアマフィアを次々と殺している、とそういう理解でいいんだろうか? だけどそれを日本のヤクザにやらせたのはなぜ?

それから、最後から二つ目の「1990年」と題された短い章で、「大主教」がこれまで訓練してきた犬を、ベルカをのぞいてすべて殺すシーンがあったけど、ヤクザの娘を閉じ込めた「死の街」の数十頭いる犬はあらためて訓練し直したのだろうか?なんかこの辺の時間的なつながりがぼんやりしてしまってうまく掴めてないのかな? 僕は。「大主教」の最後のシーンも犬に取り巻かれているわけだし、それは1991年のことで、その前の年にベルカをのぞいて皆殺しにしちゃったんじゃないの? どうもあの「1990年」の章がよくわからない。


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金子勝「平成経済 衰退の本質」

2019.06.22.01:41

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平成の30年間の日本経済の惨憺たる歴史を説明解説するとともに、華々しく打ち上げられたアベノミクスとやらを「出口のないネズミ講」として徹底的に批判した本。批判だけでなく、このポスト平成の経済活動はどうあるべきかの提言も最後に述べられるが、なんども書いてきたように僕は経済については全くの音痴である。だからこの本に書かれている細かい経済用語の多くが理解できていない。それでも平成の時代の日本経済というより日本社会の凋落ぶりはわかる。ある意味、僕が自転車ロードレースに興味を持ってきた30年、この年のツール・ド・フランスの優勝者は、と考えると、芋づる式に当時の自分の状況も思い出されてくる。

1986年の日米半導体協定から日本の産業の弱体化が始まる。その後のバブル崩壊からその後始末となる銀行の不良債権処理の失敗で、企業は経営破綻を避けるために借金の返済に努め、政府も企業に対する減税でこれを支援、借金返済後もこうした政策が続けられた結果、企業は利益剰余金(内部留保)を積み上げ、賃金抑制と雇用解体によって非正規雇用が増えて格差が拡大していったというストーリーは実感として理解できる。

そこに至る原因は単純明快だ。戦後の日本の無責任体質がすべての原因である。この無責任体質に乗って、バブル崩壊後も経営責任や監督責任は曖昧にされ、平成は「失われた30年」になった。

無責任体質どころか、戦犯が総理大臣になったのだ、この国は。天皇は我が身を守るために沖縄をアメリカに譲り渡し、原爆投下すら容認した。最高責任者が責任を取らなかったのだ、それより下の、若い人たちを無意味に死なせた戦争の責任者たちの多くが知らん顔を決め込んだのは当然である。

この無責任体質は「新自由主義」と親和性が高く、「すべては市場原理が決めると言う論理は、なにもしない「不作為の無責任」を正当化」(p.94)する。「責任を問われるべき経営者や監督官庁にとって、これほど都合の良い政策イデオロギーはなかった」(p.94-5)と言うわけである。

これまでも拙ブログで書いてきたように、僕は「自己責任」という言葉の胡散臭さをずっと書いてきた。本来責任を取るべき権力者たちが責任など取らず、一般庶民に自己責任を押し付ける。困っている人を見捨てるための便利な言葉だ。

「コンクリートから人へ」を謳った民主党政権も、その意味ではこの流れを止めることはできず、そこに東日本大震災とそれにまつわるフェイク情報が重ね合わされて、結局まともなことをほとんど実行できなかった。

第二次安倍政権になると「中韓に追い抜かれつつある国民の屈折した感情を、戦争責任を曖昧にする歴史修正主義で解消」(p.123)しようとすることで、人々の心の奥底にある差別意識を解放させて、いわば溜飲を下げさせて人気を得ようとした。

同時に途上国の独裁政権ではないのか?と思える仲間内の優遇や不正の数々(森友、加計、南スーダン日報、データ隠しに基づく「高度プロフェッショナル」制度、勤労統計などの統計不正、閣僚のスキャンダル)。「安倍政権は税金を集め、その税を使って支出して国民を統合するという、まっとうな政治の基盤を徹底的に壊してきた」(p.128)のである。

安倍政権になってから法人税減税による減収は5.2兆円で、その結果は企業は内部留保を積み上げ、企業同士が受け取る配当収入を増やしただけだそうだ。

先日の共産党の小池晃の、「大企業に対する法人税を中小企業並みにすれば4兆円、株で儲けた富裕層に対する所得税をまともなものにするだけで3兆円がでてくる」というのを聞けば、安倍がやっていることは、国体(=天皇)が守られさえすれば、国民は死滅してもいいと考えていた大日本帝国と変わりはない。実際、この本が出た後に起きたことだからここには書かれていないが、年金は当てにするな、自己責任で老後のために2000万貯めろというのなど、国のあり方として絶対に許されるものではない。

さらに原発にしがみつき、世界的なエネルギー転換から置いてきぼりを食らっているとともに、再生エネルギーをめぐる新たな産業の芽を摘んでいる。そもそも生活保護の給付金を減らすことには賛成する人たちは、その額とは比べ物にならない「もんじゅ」や六ヶ所再処理工場での無駄遣いを何故怒らないのだろう?

それにもかかわらず、安倍政権は潰れない。多くの人たちが安倍政権を積極的に支持しているわけではなく、他に支持できるものがないからという消極的な理由であることは世論調査などからもはっきりしているのだが、それを支えているのが、安倍政権のポピュリズム、つまり「人々を煽る扇動型ではなく、人々を諦めさせる黙従型」(p.136)のポピュリズム(=衆愚政治)であるという。

要するに公文書やデータを改竄して失敗をごまかし、政治家がいくら不正を行っても謝罪会見だけして居座り続け、沖縄の民意を無視して工事を強行し、まともに審議もしないで強行採決で欠陥法案を採決していけば、人々の間に「またか」という気分が蔓延し、それに慣らされていく。「諦めとニヒリズム」だけが引き出され、人々を政治から遠ざける。投票率が低い選挙なら組織票がある党が勝つのはわかりきったこと。前にも書いたが、この政権はめちゃくちゃをやって国民に呆れられれば、それだけ安泰になるのである。

そしてアベノミクスという「出口のないネズミ講」は、「我が亡き後に洪水よ来たれ」という究極の無責任体制である。

この本には最後に(1)社会基盤として透明で公正なルール、(2)教育機会の平等、(3)開発独裁国家のような「縁故資本主義」をやめて、新しく伸びている産業(情報通信やバイオ医療やエネルギー転換)を念頭に置いた「成長戦略」、(4)電力会社の解体、(5)地域分散ネットワークシステムへの転換、(6)財政金融機能の回復が提言されている。これらすべてが現在の悲惨な日本社会にとって本当に救いになるのかどうかは、専門家ならぬ僕にはわからないけど、(1)や(2)、(5)などは普通に納得できるものだ。

僕が理想だと思っている拙ブログのモットーのような、「社会は強い者がより強くなるようなためにあるのではない」という社会、それは、たとえ今すぐに安倍政権が潰えたとしても、かなり時間がかかることなんだろう。


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奥泉光「雪の階」覚書き

2019.06.10.23:25

雪の階

600ページ近い長編。1936年の2月末をフィナーレに華族の二十歳の娘笹宮惟佐子と幼い頃の遊び相手(おあいてさん)で女流カメラマンの牧村千代子が友人の心中事件の真相を追う小説です。

というと推理小説のように思われるかもしれませんが、日中戦争直前、美濃部達吉の天皇機関説をめぐる争いや英米派とドイツ派の確執、霊力を持つ女が率いる宗教団体や社会改革を求める青年将校たちが登場する重厚な小説です。

なので、推理小説とかミステリーの面がお話を引っ張っていくんだけど、それ以上に戦争前夜の雰囲気が味わえて、もしかしたらそれによってミステリーとしての集中度は少し薄まっているかもしれません。

それでも牧村千代子と記者の蔵原が鉄道を使って心中事件の足跡を追うところなどはミステリーの楽しさを味わえるし、一方で笹宮惟佐子(この華族らしい落ち着き払った美貌のリケジョには、途中からかなりびっくりさせられます)の方は机の前で推理を働かせる知性派で、その対称性も面白いです。

ミステリーとしての完成度も高いと思いますが、普通の推理小説とは違って、奥泉光特有の眩暈感も味わえます。そして現代日本を予言するような、しかしそれは純粋日本人を守るというナチスばりのレイシズムが絡んでくるところなどは現代日本の風潮に対する批判でもあるのでしょう。

だけど、それ以上に文体が素晴らしい。息の長い文章に、今ではあまり使わない戦前の用語が散りばめられ、時々そこに絢爛たる比喩が現れます。以前ここでも紹介した「シューマンの指」でもそうでしたが、この比喩の面白さだけでも、個人的には楽しかったですね。一つだけ引用しておきます。

「話の隙を見つけて、鹿沼に紅玉院と云う寺があると聞いたのですがと話の水門を開くと、ああ、ありますよ、と珈琲好きの記者はスイと水路へ泳ぎ入ってくる。」(327)

そこらに転がっている小説とはレベルの違いを感じさせる傑作だと思います。


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トルストイ「イワン・イリイチの死」

2019.05.30.23:39

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古典ってやっぱりすごいから残ってるんだよね。今の時代に合わないと言う人もいるかもしれないけど、これを読めば古典のすごさがわかるだろう。トルストイと言う人はドストエフスキーなんかよりもずっと冷酷な目を持った人だったんだろうなぁ。褒め言葉です。

学生時代からドストエフスキーは随分読んだけど、トルストイはほとんど読まなかった。なんとなくドストエフスキーの方が高尚そうな感じがしていた 苦笑)日本の小説家でも当時好きだった高橋和巳や埴谷雄高なんていう作家はドストエフスキーマニアだったし、なんとなくトルストイはもう一つ前の世代の白樺派とかヒューマニズムと繋がるイメージだった。若い頃には素直になれなかったから、ヒューマニズムなんて「臭い」って思っていた。前にも書いたように、それでもせめて「戦争と平和」は読んでみようと何度か試みながら挫折していた

でも20年ぐらい前、30代の終わり頃に「アンナ・カレーニナ」を読んだら、想像以上にモダンな印象で、意識の流れのような描写もあったりしてすごいと思った。

と言うわけで、正直にいうと、この小説はもう40年も前から読みたいと思いながら、読めなかった小説だった。死とは他人の死であって自分の死ではない。ここでも人々はイワン・イリイチと親しい人々ですら、彼の死と向き合おうとしない。これは実存主義哲学やハイデガーなんかでいわれていることだ。

イワン・イリイチの葬儀から話が始まり、彼の人生が語られるという映画的な構造で、彼の青春時代から恋愛と結婚、そして子供の誕生と夫婦の不仲というありふれた人生が語られる。子供が生まれ、職場での妬みや成功、あるいは友人たちとのトランプ遊びへの熱中、そして新居を手に入れて丁度を整えている時に梯子から落ちて腹を打つ。これがほぼ全体の4割程度のところで、そのあとは、その怪我が原因でどんどんイリイリの体調が悪くなっていく様子が描かれる。

イワン・イリイチは判事だからそれなりの地位にいるけど、死を前にして自分の人生は間違いだったと感じなければならない。でも間違いじゃない人生なんてあるんだろうか? 召使いの農民の純朴なゲラーシムは「戦争と平和」の農民兵プラトン・カタラーエフと同じく、トルストイの考える理想的な死生観を体現しているんだろうと思えるけど、全てをそのまま受け入れ、死に対しても目を逸らさないと言う態度は理念としては良くても実生活でなんでも受け入れて疑問を持たないことがいいことだと言う風につながりかねないんじゃないか。

それでもイワン・イリイチの最後は、やっぱり「戦争と平和」のアンドレイ・ボルコンスキーの死と同じような、なんとなく救われたような暗示で終わるのがホッとした。しかしすごい小説だね。多くの人が読むべきだと思います。

追記(6/1, 14:40)
FBでのコメントで、高級官僚やガリ勉秀才に読ませてやりたいですね、というコメントをもらいましたが、本当にそうですね。安倍がこれを読むとは思えないけど、そのバックでやりたい放題の連中には是非とも読んでみろ!と言いたい。ただ、ひょっとしたら秀才君たちはすでに読んでいるかもしれません。知識の一環として、読んだことがあるというアリバイ作りで読んだだけで、すでに忘れたかもしれないけど、もう一度読んでみてどんなことを思うか、ぜひ聞いてみたいなぁ。


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アンソニー・ドーア「すべての見えない光」

2019.05.10.23:59

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1944年、ドイツ軍がすでに敗色濃厚のフランスブルターニュのサン・マロの町で、アメリカ軍の爆撃により無線機器担当のドイツ人少年兵が地下防空壕に閉じ込められ、一方全盲のフランス人少女が砲撃に怯えながら自分の家の中で隠れている。彼らはその数日後に出会い、半日ほどでまた別れる。その合間に時代を遡って少年と少女の戦前からの人生が描かれ、彼らをつなぐものが説明される。

以下、ネタバレ含みます。

小説内の現在と過去を交互に描きながら、全体の接点がわかるようになっていくというのは、よくあるやり方で、拙ブログでも紹介した「ベルリンは晴れているか」でも同じようなことが行われていたけど、こちらは最終的に現在まで繋がってもっと込み入っているし、安易な謎解きを用意していない。

彼らをつなぐものは、つまり、少女の祖父が戦前にサン・マロから放送していた科学のラジオ放送、それを少年は妹と一緒に自分で組み立てたラジオで聞いていたのである。そしてそれが接点となって、のちに少年と少女が出会うことになる。ラジオ放送に代表される無線電波は、多分表題の見えない光のことなんだろうと思われる。

主な登場人物はそう多くないけど、どの人も主役にして良さそうな魅力がある。僕は特にこの小説のキーになるダイヤモンドを追う末期癌の上級曹長が、あんまり出てはこないけど気になった 笑)

少女の父はパリの博物館で鍵の管理をしていた。彼は娘と一緒にドイツ軍を避けてサン・マロへ移住するのだが、その際、博物館の秘宝の巨大なダイヤモンドを託される。それは父娘が匿われる大叔父の家の町の模型の中の一軒の家に隠される。このダイヤモンドを追って、上記の末期癌の上級曹長が登場するんだけど、最終的には彼はダイヤモンドを目にすることができるか、というのも、僕としては結構ハラハラした。

ただ、このダイヤモンドが最後どうなったのかが、よくわからない。最後まで読み終わってすぐにダイヤモンドはどうなったんだ? と思って少年と少女が別れるシーンを読み直したけど、これがかなり入り組んでいるし、謎めいている。このあたり、単純に謎解きしてしまうエンタメ小説とは決定的に違うところだ。

文体が現在形の短い文章を積み上げていくもので、正直に言ってちょっと読みづらい。それからドイツ語のカナ表記でフォルクゼンプフェンガーとかホイシャンと出てくるけど、これは絶対ヘン。フォルクスエンプフェンガーだし、ホイスヒェンだよ。まあ、大筋とは関係ないけど。

500ページ以上の長編だけど、少年のナチスのエリート養成学校(いわゆるナポラ)での学校生活も、出てくる校長や鳥の好きな親友、大男の上級生や少年の才能を認めて助手として優遇する教師など、古典的な少年小説のようだし、少女を取り巻く善意の人々や密告屋、第一次大戦のPTSDを患う大叔父や家政婦の老女たちのレジスタンス活動のエピソードも面白い。少女が点字で読む「海底二万マイル」の中からの引用やラジオ放送での文句、壁を通り抜けて現れる死者たちの亡霊も詩情がある。あっと驚くような結末ではないけど、最後の余韻も良いし、お話の展開も予想を裏切る。星4つというところかな。


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金子文子「何が私をこうさせたか」覚書き

2019.04.13.22:47

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先日紹介した映画「金子文子と朴烈(パク・ヨル)」で、意地悪な看守が、金子文子が書いた獄中手記を読んで徐々に二人に同情するかのように態度を軟化させ、最後はひっそりと彼らの裁判の傍聴までするというエピソードが挟まれていた。僕としては、この看守役のあごひげの、いかにも高圧的な官憲らしい顔と、その後の何か感じるところがあるかのような顔にとても心打たれた。

その獄中手記を読んでみたいと思って、図書館で予約したら、映画のせいもあったのか、2人待ちだった。で、読んだ。なるほど、ものすごい話だった。この本は、映画でも彼らに同情的な検事として出てきた立松懐清の勧めに従って幼い頃からの生い立ちを書いたものだけど、よくもまあ、こんな人生を送ってきた22、3の娘が、これほどまでに立派な文章を書けることに、まずびっくりする。

父と母は金子文子の出生届を出していない。そして父は母の妹と駆け落ちする。残された母の方も、次々と男を変える。しかし何れにしても呆れるような貧乏暮らし。文子は無籍者ゆえに学校にも行けない。朝鮮の祖母と叔母の元に預けられると、もうほとんどグリム童話の継母か魔女のお婆さんにいぢめられる娘状態。まあ凄まじい。

さらに日本に戻ってきてからもろくな目に合わないで、露店で粉石鹸を売るところなどアンデルセン童話のマッチ売りの少女を連想して、胸ひしがれる思い。キリスト教に救いを求めたり、社会主義者たちに希望をつないだりするけど、どちらも欺瞞を感じて幻滅する。

そうしたことが実に表現力の豊かな言葉で語られるのだが、その文才に本当に驚かされる。ものすごく頭の良い人だったのだろう。ただ、朴烈というアナーキストに惚れた彼女が、アナーキズムについてもっと雄弁に語るかと思ったのだが、それはほとんどない。

朝鮮時代を回顧して「朝鮮にいる時私は、自分と犬とをいつも結びつけて考えていた。犬と自分とは同じように虐げられ同じように苦しめられる最も哀れな同胞(きょうだい)かなんかのように感じていた」(214)と書くのだが、これがのちに朴烈の「犬ころ」という詩に感動することに繋がるのかもしれない。

朝鮮時代、一度は死のうとしながら、世の中には愛すべきもの、美しいものがたくさんあると感じて死ぬのをやめた彼女が結局刑務所内で自殺してしまうのは、ひょっとしてこの手記を書いたことで自分の存在証明を全うしたと思ったからではないか、そんな気がする。


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吉村仁「強い者は生き残れない」

2019.04.07.16:17

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副題は「環境から考える新しい進化論」。すでに10年前の本なので、進化というのが強い者が生き残ってきたわけではないというのはもう一般的になっていると思う。なのに、21世紀に入り、ナチスとともに滅んだと思われた社会ダーウィニズムが復活したような感じだ。生存競争は「競争」である以上強い者が勝つと考える弱肉強食の世界。それを是とする経済活動。弱い者が困窮するのは自己責任だと言われ、それで納得させられてしまう社会。勝てば官軍、勝つためには倫理意識など吹っ飛ばしてなんでもあり。

だけど、ちょっと冷静になって考えれば、このまま行けば人類は滅ぶのではないかと感じる人もいることだろう。僕もそう考える一人だ。

この本は地球40億年の生命の歴史をバックに、環境変動のリスクを避ける様々な生物の生存戦略の例をあげながら、生物が環境の変化にどのように対処して生き残ろうとしているかを解説する。環境変動はダーウィンの自然選択説には取り込めていなかった要因だそうである。そして生き残っているのは「強い者」ではなく、環境の変動に対して共同で協力しあった者だと主張する。それを様々な生物の世界を例にし、「共生する者」が進化すると結論づける。当然の帰結として最終章での現在の新自由主義的な社会に対する批判は手厳しい。

同時に北欧の社会民主主義に一つの可能性を見ている点で、僕としてはとても嬉しい。「国民に対する社会保障が厚く、日米の格差社会が生むような、困窮する階層がない。誰も生活苦に見舞われないような社会を維持するために、自由競争をある程度制限し、高い税金を貸して、福祉・環境・医療などの社会保障を充実させている。これらの国々の制度は、協力体制の進化という点では重要で、人類の将来のあるべき方向の一つの可能性を示していると思う。」(p. 209)

生物の40億年に渡る歴史は大量絶滅の歴史だ。一番直近なのが6500万年前の恐竜が絶滅した隕石の衝突とされるけど、過去わかっているだけでも5回の大量絶滅があった。そして現在人類が環境に圧力をかけたことにより生物の大量絶滅の6回目が進行中である。人類だってこのままいつまでも安泰ではないだろう。「社会の中で、ある生物がどんなに相対的に有利になったとしても社会全体が崩壊してしまっては、元も子もない」(p.220〜1)のである。

前にも書いたけど、僕はこのところよく、2〜3万年前のネアンデルタール人の絶滅のことを考える。最後のネアンデルタール人はジブラルタル海峡の洞窟で海を見ながら死滅したと言われる。なんて寂しい風景だろう。現生人類だって、近い将来、そういう日がやってくるのだろう。しかし、それを少しでも遅らせようとするのが僕らの考えるべきことではないだろうか? 共生社会はどうやればできるのだろう?



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斎藤美奈子「日本の同時代小説」

2019.04.02.00:07

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先ほど読み終わったところだけど、いやあ、むちゃくちゃ面白かった。時代と小説の繋げ方、切り取り方に感心した。

僕よりも少し前の世代だと、文学というのは男子がおのれの一生をかけて悔いなきもの、たとえ人生を棒に振ったとしてもそれだけの価値があるもの、というイメージは素朴に信じられてたはずだ。それを称して斎藤美奈子は「ヘタレ知識人」や「ヤワなインテリ」の貧乏自慢、タワケ自慢、恥自慢と一喝、昭和初期の私小説とプロレタリア文学もどちらもこの傾向があると喝破する。斎藤美奈子は僕と同じ年。だけどこんな表現、絶対男には思いつかない。これって変な意味ではなく、女性だからこそ見抜けたんじゃないかなぁ? 

1960年代から10年ごとに区切って2010年代(2018年)までの社会的な背景をからめながら、その時代の主流となった文学的傾向が実にうまくまとめられている。伝統的な「私小説」と「プロレタリア小説」という括りが現在にまで姿かたちを変えて連綿と続いていることを明らかにする見立ても痛快。私小説が郷ひろみに繋がってっちゃうのなんか、怒る人もいるかもしれない 笑) それ以外にも、あまた出てくる「決めの言葉」に笑わされる。

例えば、平野啓一郎の西洋中世を舞台にした「日蝕」を「コスプレ」と称しているのは大笑いした。あるいは村上龍を「破壊派」、村上春樹は「幻想派」、中上健次は「土着派」なんて言う。個人的に記憶に残る小説が出てこなかったりすると残念だけど(例えば僕としては在日韓国・朝鮮人作家たち)、切り取り方だから致し方ないだろうし、きっと文学史的な意味での名作はほぼ網羅されているんだろうと思う。

あちこちに赤ペンでラインを引き、紹介されている小説で面白そうなものがあると付箋を貼って、実に楽しい読書体験だった。こうして時代ごとに分けて説明されると、自分がかなり偏った読書をしていることもわかった。60〜80年代の小説に比べて、90〜2000年代の小説は読んだことがあるものがぐっと減って、2010年代の小説になると読んだことがあるものが再び増えた。60〜80年代や2010年代だと読んでなくても名前ぐらいは知っているものが多いのに対して、90〜2000年代は題名を全く聞いたことがないものがかなりあった。個人的にこの頃は日本の小説にあまり興味を持ててなかったんだな、と得心した次第。

しかし1960年以後の小説をこうして俯瞰的に見直すと、21世紀に入って新自由主義とやらで弱肉強食化した日本の社会がどんどんひどくなっていることが実感される。何しろ戦争と格差社会とディストピアが21世紀になってからのキーワードとされているぐらいだから、20世紀はいろんな悩み苦しみがあったとしても、のどかな時代だったんだな、と思えてくる。

読んだことがある小説が紹介されていると嬉しいけど、紹介の仕方がうまいので、読んだことがないものは読みたくなるし、何よりその時代とのつながりが実にうまく説明されていて、その説明の仕方が何しろ面白いし、読んだことがあるなしに関わらず、文学は時代を映すんだということを実感させてくれる、素晴らしい本だと思う。

最後に斎藤美奈子は日本の同時代小説の未来の可能性を暗示していますが、さて、それはどんなでしょう? 

(加筆訂正しました。4/2、16:20)


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真藤順丈「宝島」覚書き

2019.03.27.14:42

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直木賞受賞作品。さすがに面白かった。描かれているのは、敗戦後アメリカ統治領となった沖縄で、米軍倉庫や基地から様々なものを盗み出す義賊の少年たち(戦果アギヤーと呼ばれる)と一人の少女、浮浪児らの、1952年から72年(沖縄本土復帰)までの人生が描かれている。嘉手納基地に忍び込んだ戦果アギヤーのリーダーが行方不明になり、残された仲間はその謎を抱え込んだまま、それぞれ戦後の沖縄で実際に起きた刑務所暴動やアメリカ軍機の小学校への墜落事件に巻き込まれ、最後は本土復帰が決まった後に起きたコザ暴動の騒乱の中でみんなが集まり、それまでの謎が明らかになる。

最近もドキュメンタリーになった伝説的な政治家瀬長亀次郎が何度も出てくるし、悪名高いキャラウェイ高等弁務官(翁長知事が官房長官の菅をキャラウェイ高等弁務官に重なると言ったこともある)も登場する。そうした歴史の中に虚構の主人公たちを紛れ込ませるやり方は、同じ直木賞の候補になった深緑野分の「ベルリンは晴れているか」とも似ているけど、所々に見られるユーモアや、何より「語り部(ユンター=地霊)」の語り口の軽快さが心地よい。そしてこの語り部が自らを「時間を往き来して、風の集積となって ー 現在を生きる島民たちに、先立った祖霊たちにも向けて、語りから出来事を再現する試みをつづけている」(p. 354)という設定にしているところが、何か叙事詩めいた壮大さを感じさせる。そしてそれが最後の最後にものすごく生きてくる。最後はえらく感動する。ある意味、謎解きはどうでもいいけど、この最後の命のつながりを感じさせるところに感動した。

面白い事ばかりではない。ここには僕ら本土の人間にとっては耳が痛い苦言もたくさん出てくる。そして現代の沖縄をめぐる状況も、当たり前だけどあぶり出される。この小説に出てくる悪役のダニー岸は現在もたくさんいる。これらのダニー岸たちの画策に乗せられないようにしたいし、できればこうしたダニー岸たちには一刻も早くご退場を願いたいものだ。


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オリヴィエ・ゲーズ「ヨーゼフ・メンゲレの逃亡」

2019.03.11.02:01

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ヨーゼフ・メンゲレ、アウシュヴィッツの死の天使と呼ばれた医師。過去様々な映画で悪の権化のモデルとして描かれ、戦後南米へ逃げ、とうとう逃げ切り天寿を全うした男。ダスティン・ホフマンの「マラソンマン」でローレンス・オリビエがやった「白い天使」は完全にメンゲレがモデルだそうだし、「ブラジルから来た男」ではグレゴリー・ペックがメンゲレそのものの役で出ているそうです(こちらは未見【追記参照】)。以前拙ブログで紹介した「顔のないヒトラーたち」は戦後のドイツで若い検察官たちがなんとかメンゲレを逮捕しようとして、一歩の差で逃す話でした。また「アイヒマンを追え」とか「検事フリッツ・バウアー」なんかも見てると、この小説がさらに楽しめるでしょう。特に「アイヒマンを追え」は作者のゲーズがシナリオに参加し、それが縁でこの小説を書くことになったんだそうです。

ところで、私はメンゲレと言われると、なぜかダーク・ボガードの顔がかぶるんですよね。

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左がメンゲレ、右がダーク・ボガード、って、並べるとあんまり似てないか 笑)

この人はアウシュヴィッツに到着した列車から降りてきたユダヤ人の選別をした人で、左へ合図すれば労働力として使え、右に合図すればそのままガス室へ(左右逆かもしれません)というのを自らやっていたそうです。また医者ですから医学実験に使える双子を集め、無茶苦茶な実験をいろいろやったそうです。つまり、ナチスとしてはゲルマン民族を増やしたいから、自在に双子が産めるようになれば人口が増えるわけで、そのための実験をしていたと言われています。

先日のT4作戦のパネル展示会でも感じたことだけど、医者ってのは良心を失うととんでもなく残酷になれるようです。何しろ人の死には慣れているわけですからね。ただ、この小説(!)ではそうしたアウシュヴィッツでのメンゲレの様子はほとんど出てきません。

仲介者を介してイタリアからアルゼンチンへ逃げ、たくさんのナチス戦犯たちとともに、偽名を使い分けながら、現地のナチス信奉者たちに庇護され匿われながら南米各地を逃げ回り、家族から見捨てられながら、最後に息子の非難にさらされるけど、後悔する事はついにないまま、ブラジルの海辺で心臓麻痺で死ぬまでを、かなり淡々と描いています。

しかし、こういう小説ってフランスからたくさん出てますね。ロベール・メルルの「死はわが職業」ではアウシュヴィッツの所長ルドルフ・ヘスを主役に据えた小説だったし、ローラン・ビネの「HHhH」はプラハでのナチスナンバー3のハイドリヒ暗殺を淡々と描いていました。この小説もこの「HHhH」の雰囲気があるかな。

あるいはここ何年かで一番圧倒された海外小説のジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」も、これは完全なフィクションだけど、元ナチス親衛隊の中佐の回顧という体裁をとった、実在の人物てんこ盛りのものすごい話で、作者はアメリカ人らしいけどフランス語の小説でした。

優秀な医者で、時代があんな時代でなければ、普通にどこかの大学で医学を教える教授になっていたのかもしれないし、普通に虚栄心や嫉妬心を持ち合わせた普通の人間として家族に囲まれ、普通の人生を終えたのかもしれない。だけど、とんでもないことをやらかした後も、何ら良心の痛みも感じず、アイヒマンと同じように命令に忠実に従っただけだと言い続けます。

アウシュヴィッツでの選別も、多くのユダヤ人をガス室に送らず救ったという論理で悪びれるところもなく、さらに、収容所を使って自分よりもうまい汁を吸った者がいるし、産業や銀行、政府組織が膨大な利益を上げていて、「制度がそれを奨励し、法がそれを許可した、殺人は国家の事業だったのだ」(p.157)と、全く後悔の様相なし。その上自分を匿ってくれた人たちに対しても感謝どころかバカにし、奥さんを寝取り、ダメだ〜こりゃ。

こうして描かれたメンゲレの生涯のあと、最後に著者はこんな言葉で小説を終えます。

「二世代か三世代が経過し、記憶が衰弱し、先の大量虐殺の最後の証人が去っていく頃、理性は陰り、一部の人間たちはまたぞろ悪を吹聴しはじめる。/夜の無限がどうか私たちから遠くにとどまっていてくれますように。/警戒、人間は影響を受けやすい生き物だから、人間こそ警戒すべきだ」(p. 239)

まあ、私が言いたい事は、またいつものことです。メンゲレは普通の人だったんですよ。それが空前絶後の悪を成した。メンゲレは私たちと違う人間ではなく、私たちだって、時代が時代ならメンゲレになったかもしれないってことです。まあ、私なんかはメンゲレみたいに優秀じゃないから収容所の看守程度だったことでしょうけど 苦笑)

登場人物も次々出てきて、どの人物が重要かが分かりづらく(私はメモしながら読むことをよくやりますが今回もそうしてみました)、正直に言って読みやすい小説ではないです。予備知識も、ちょっと偉そうに言ってしまえば、最初に書いた映画ぐらいは見ていた方が良いでしょう。

追記(2019年、3月22日)、このときは未見だったんですが、偶然TVで見ました。なるほど、グレゴリー・ペックの怪演ぶりはすごいわ。しかしここでのメンゲレの末路はやっぱりアメリカンな映画らしく都合よく描かれてます。どうもこういうところがね。アメリカ映画が好きになれない理由だな 苦笑)


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中村文則「逃亡者」から「公正世界仮説」について

2019.03.07.13:27

表題は東京新聞朝刊で連載中の小説です。現在ほぼ150回を超えたところ。中村文則らしくサスペンスフルなストーリーに、むき出しの現代社会批判が含まれてて、まあそういう所を小説らしくないと言うこともできるかもしれないんだけど、作者の思いは強く伝わってきます。何れにしても新聞小説というのをこういう風に毎朝欠かさず読んでいるのは記憶にないです。

昨日、今日(3月6日、7日)と「公正世界仮説」というのが出てきました。個人的には初めて聞く言葉だったんだけど、ウィキにも載ってますね。アメリカで実験結果から出された説のようです。以下、中村文則の小説の言葉で説明します。

「人々は、基本的に、この世界は公正で安全であって欲しいと願う。自分たちの世界が、理不尽に不条理に危険が存在する社会ではない方がいい。努力は報われ、悪いことをすれば罰せられる」

「だから広く広がる物語というものは、ほぼこの公正世界仮説に沿うように作られている。正義は勝ち、努力は報われ、悪は敗れる」

「だから物語では、(中略)何かの犯罪者が現れた時、その犯罪者にも過去に様々なことがあったり、同情すべきことがあったりすると、社会や人間という存在全体に関わる話になってしまう。だから犯罪者は生まれながらに特殊で、犯罪者的資質を備えた同情の余地のない悪魔と考えたくなる。そしてそういう犯罪者が罰せられると人々は安堵し、その安堵は時に快楽を連れてくる。罰した時に犯罪者にも同情すべきことがあると、モヤモヤとしたものが残りストレスだからだ」


これって拙ブログで言ってきたことと通じます。説ブログのモットーの漱石の言葉も同じことだし、拙ブログでは99.99%の普通の人と0.01%の悪人がいるわけではないと言ってきた(何回書いたか後で調べてみます 笑)のも同じことです。僕が死刑に反対だと言ってきたのも、南京事件やナチスの蛮行について書いてきたことも、すべて同じ土台をもとにしています。僕は言葉は知らないまま、この「公正世界仮説」というやつを散々批判してきたんだと膝を打った次第。

そして同時に現代の日本の社会を覆う雰囲気にも当てはまるような気がします。ここまであからさまに、露骨に、武田砂鉄の言葉を借りれば、「私たちは繰り返し、ねぇ国民のみなさん、これからあなたたちを騙しますからね、ほら、ほら、今、騙してますからねと公言」(「日本の気配」p.79)している政権に対して、ほとんどの人が無関心でいられるのはこの「公正世界仮説」というやつが働いている結果なんじゃないでしょうか?


この後小説ではさらにこんな風に続いていきます。

「気づいただろうか。公正世界仮説の危険は、この考えが人々の中で強くなりすぎると、弱者批判に転じることだ。世界は公正で安全だと思いたい。だから何かの被害者が発生すると、君にも落ち度があったのでは? と人は問うようになる」

「つまり死にゆく人間に公正世界仮説では「過失」を要求する。あんな失敗をしたから君は死んだというように。社会背景も消え、悪をなした人間は問答無用に悪人で(中略)公正世界仮説は社会の問題を個人に還元する」

つまり、自業自得という言葉であり、また21世紀に入って突然猛威を振るっている「自己責任」という言葉を支えているのがこの「公正世界仮説」と言えるでしょう。

そして結論です。

「つまり、公正世界仮説的な物語が世の中に広がると、その分だけ、世界や社会を改善しようと思う人間が減るのだ」

拙ブログで取り上げてきた映画や小説は、多分、あくまで多分だけど、この「公正世界仮説」を否定するものばかりだったような気がしてます。これに気がつくと、もう勧善懲悪の水戸黄門的ドラマや本は結構という気持ちになります。ただ、これを完全否定できない自分もいたりするんじゃないか、と思ったりしてね 苦笑)


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相澤冬樹「安倍官邸 vs NHK」

2019.03.05.09:36

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副題は「森友事件をスクープした私が辞めた理由」であるだけに、森友事件を振り返り、何が本当の問題なのかを確認するのには最適の本。著者は元NHKの記者で、しかもご本人曰く「真正右翼」。その「右翼記者」ですら、現在の安倍忖度行政と安倍忖度NHKに呆れているわけで、安倍を支持することで何か右翼思想的なものがあるかのように気取っているネトウヨ連中も少しはモノを考えろよな、と言いたくなる。

森友事件というと、あの籠池理事長とその夫人のオモシロさに目をくらまされてしまって、この事件の本質を見失いがちだ。しかも検察も籠池夫妻を詐欺で捕まえて長期勾留して、完全に本筋から目をそらせようとした。しかし、著者はこの事件の1番の問題点は次の二点だと強調する。

(1)基準を満たすのか疑問のある小学校がなぜ「認可適当」とされたのか
(2)なぜ国有地が大幅に値引きされて売却されたのか

(1)は認可権限のある大阪府の失態であり(2)は格安で売却した国の失態である。つまり森友事件とは行政の不正問題なのである。

(1)の問題は当初「認可保留」となりながらわずか一ヶ月後に臨時審議会が開かれて一転「認可適当」となった。認可権限があった大阪府はトップが大阪維新の会で、なんちゃって野党で実は安倍応援団別働隊であることはご存知の通り。

(2)の問題は約9.5億の国有地(=国民の財産)が1.3億で売却された。8億以上の値引きだ。近畿財務局と財務省官僚らの背任行為である。しかも、この値引き、森友側から8億値引きしてくれと言い出したわけではなかった!! 常識で考えれば、森友の籠池理事長が安倍かその嫁の名前を出して行政を脅したと思うだろう。ところが、なんと!! 実際は森友側ではなく、近畿財務局の方から森友に、いくらなら出せるか聞き出していたというのである。しかもそこで言われた上限額(1.6億)以下で国有地(繰り返すが国民の財産だ)が森友に売られたのである。

しかもその際の公文書をのちに改ざんする。のちにというのは、安倍が国会で自分なり嫁なりが関与してたら議員を辞めると見栄を切った直後だ。そしてこれによって改ざんさせられた職員が一人自殺していることも忘れてはならない。

責任を問われることを何より嫌う役所(行政)が自ら率先してそんなことをするはずがない。そこにあったのは忖度か、それとも安倍の脅しかどちらかだろう。現に安倍はかつてNHKの放送局長に「ただでは済まないぞ、勘ぐれ!」と恫喝した過去があるのだ。常識で考えれば、行政機関が安倍に忖度したのではない、安倍が行政に忖度させたのだ! 

さらに問題はそこで止まらない。NHKでの報道に上層部から様々な横槍が入る。報道局幹部の中にはなんとかこれらの特ダネの価値を骨抜きにしようとしている人たちがいるというのである。

そして司法でも大阪特捜部は「過去に無理やりの起訴を繰り返してきた」くせに「今回に限って無理やりの不起訴で証拠を闇に葬っ」(p.282)て、その後不起訴を決定した特捜部長は栄転した。嘘つきまくって公文書は捨てたとほざき、覚えてないと言い張った理財局長の佐川も、安倍の嫁の秘書だかの女性も、加計問題での秘書官の柳瀬も、ほとぼり済んだらみんな栄転 苦笑)

これだけわかりやすいことをされても怒らない日本人ってすごいね。そのくせ生活保護受給者は思いっきりバッシングする日本人ってほんま怖いわぁ。

いや、安倍政権による日本の闇の一端がわかる本である。無論、報道の裏側でどんな駆け引きがなされているかという話も面白いのは言うまでもないが。


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青山透子「日航123便墜落 遺物は真相を語る」

2019.02.27.09:41

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拙ブログでも紹介した前作の「日航123便 墜落の新事実」の後に読むこと。前作ではまだこれほど断定的ではなかったように感じた。様々な目撃情報や状況証拠を積み重ねてある推定に向かっていくような感じだった。それが今回は完全にはっきりと、かなり断定しているように読める。怒りのパワーも前作よりかなり強い。前作発表後に「陰謀論」だとかなり叩かれたこともこの怒りの原因だろうが、それとともに、安倍政権になってから繰り返される公文書の隠蔽捏造破棄の数々が著者の怒りを倍増させているせいもあるのだろう。実際、当時の運輸省は関連資料をおよそ1トン分も破棄しているそうであるし、ボイスレコーダー・フライトレコーダーの完全な公開も行われていないそうである。

今回の本は前回が目撃情報と状況証拠だったのに対して、遺体を検死した医者たちの聞き取りや、群馬医師会報告に基づいた遺体の統計、それに何より飛行機の残骸を科学分析した結果という証拠も出てきて、前回の推定がそれ以上の説得力を持って伝わってくる。何より著者の思いの強さに(特に後半に行けば行くほど)圧倒される。

要するに、日航123便は国産の巡航ミサイルの洋上実験中に突発事故により垂直尾翼を破壊され、コントロール不能になって迷走を続けながら墜落し、その証拠を隠蔽するために自衛隊が火炎放射器で遺体が炭化するほど焼いたということだ。だけど、もっと恐ろしいシナリオも暗示されている。垂直尾翼を破壊された後迷走を続けるジャンボを自衛隊のファントム2機が追跡し、証拠隠滅のためにミサイルで撃墜し、その隠滅の仕上げに生存者も含めて遺体を火炎放射器で焼却したというものだ。

さすがに後者はにわかには信じられない(信じたくない)けど、オレンジの小さな飛行物体が航跡を残しながらジャンボを追尾していたという目撃談はどう解釈すればいいのかわからない。尾翼を破壊したものとは別のミサイルがジャンボを追尾していたということだとすれば、これをどう考えればいいのだろう? それともファントムはミサイルを阻止するために飛んでいたのだろうか? 

何れにしてもミサイルで垂直尾翼を破壊され、墜落後に火炎放射器で証拠隠滅されたというのは、前作の目撃情報だけだとまだ可能性があるというレベルだったかもしれない。だけど、今作では上記のように、当時の医師たちの聞き取りや遺体の状況の統計(3分の1が飛行燃料の燃焼によってでは考えられない=ありえないほどに炭化していた)、それに飛行機の残骸を科学分析した結果を駆使していて、信ぴょう性はいよいよ高まった。

ただ一つだけ、どうしても腑に落ちないのは、もし仮に、というよりもまず間違い無いのだろうが、火炎放射器で遺体(まさか生存者まで焼いたりしなかったと信じるが)を焼くなどというとんでもないことが、戦場の経験もない普通の自衛隊員(どれほど過酷な訓練を受けているとしても)においそれとできるものなのか? 南京虐殺事件の加担者たちも、戦後になって自らのやったことを告白しているわけだし、そうしたことに加担した自衛隊員の誰一人として内部告発する者が出ていないことが納得できない。著者もこの本の最後で、内部からこれを告発する者が出て欲しいと言っているように見える。

今後残された遺族の中から情報公開を求める訴訟が起こされる可能性が述べられているので、そこで是非ともここに書かれている疑問点をはっきりさせることができれば良いのだが。

***追記(2019, 2/27, 14:20)
この「事件」はネットで検索すると色々ヒットします。中にはこの本で書かれている以上に極端なものもたくさんあるようです。こういうのってあまりやりすぎると逆にトンデモっぽくなり、この本のためにもならないと思います。

同時に著者を売名だとか金儲けのためなどと罵倒するものもたくさんあります。まあ、金儲けったって東大大学院で博士号とった人がこんな辛い本を書いて金儲けを目論むはずないと思うけどね。


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保坂和志「ハレルヤ」覚え書き

2019.02.17.21:05



この作家の小説を読むのは初めてでした。4編のうち3編は飼ってる猫の連作みたいな感じです。最初猫が出てきて、「花ちゃん」とか「チャーちゃん」とかあって、うーん、とちょっと引き気味で大島弓子の漫画を思い出したりしたんですが、何かが起きて、その結末がどうかなって、というわけではなく、ずらずらと話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、とりとめもなく続く感じ。いや、飼い猫の死を書いているので何も起きないわけではないんですけどね。

最初の3編は文章もまさにそういう感じで、普通なら句点(。)にするところを読点(、)でどんどんん繋げていって、慣れるまで、いや慣れても、「ん?」と読み返すことがよくありました。20世紀に書かれた4編目の「生きる歓び」だけは普通の文章なので、この作家の21世紀に入って開拓していったやり方なのでしょう。

例えばこんな文章はどうでしょう。花ちゃんとペチャはどちらも猫の名前です。

「花ちゃんはペチャはLアスパラギナーゼの効果が一ヶ月半くらい経った頃から鼻梁がまた少しずつ着実に腫れてきたが花ちゃんのリンパ腫は二ヶ月経ってもエコーで腫瘍らしき影は、週に一回、見るたびにどんどん見えなくなった。」(p.40)

って、最初の「花ちゃんは」ってどこにかかるの? とか、

「すぐにそれには飽きてこのあいだ奥さんが死んで、自分ひとりになって奥さんがいたときと同じように朝四時に起きてお粥を炊いている、妻がいなくなった家も私も空っぽだという手書きのハガキをくれた、カルチャーセンター時代の私より三十歳ちかくも年上の人にコインランドリーの外の道に出て電話した、すでにだいぶ高く上がっていた十三夜くらいの月を見上げながら30分近く話した、その人は、(後略)」(p.66)

この文章などは句点(。)で文章が完結するまで、まだこの倍の文章が続いています。

まあ、普通学校でこんな文章を書いたら直されるわなぁ。かなり時間をかけて迷路のような文章を作り上げていくんでしょうけど、これが慣れてくると、結構心地よかったりします。ただ、これ、外国語、特に主語をはっきりさせたい言葉だと翻訳できないよなぁ、と思ったりもしますが。

追記(2019、2/18、16:50)
読み終わったあとの昨夜猫の夢を見ました。うちにも全く人慣れしない保護猫がいるんですけど、夢に出てきたのは表紙の写真の隻眼の三毛の花ちゃんでした。小説は何か特別な事件があるわけでもないし、謎解きがあるわけでもないから、きっと内容の個別のところは忘れてしまうだろうけど、全体的な雰囲気というのか、あのいつまでも続いていきそうな文体というのか、あの感じはもしかして忘れられないものになったのかもしれません。

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「オウムと死刑」覚え書き

2019.02.14.12:26

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図書館で借りてきた本。去年の7月に行われた大量処刑の後、それぞれオウムのことを書いてきた作家やジャーナリストのインタビューやエッセイ、論考が載っている。さらに去年の夏にトークを聞いた被害者の永岡英子さんのインタビューも出ている。無論言わずもがなの森達也もいつもの森達也だ。

ここに書いている人たちの共通の認識は、加害者(オウム)を罰するのに加害者(オウム)の心性をもってこれをなした(p.8)という批判である。

星野智幸の言う、オウム内部で「大義のためなら殺していい、殺される人より大事なビジョンがあるのだ、という感性ができてい」て、それがオウム内部では常識化していた。つまり、「今回起こったのは、オウム社会内部のそういう価値観、常識が、外側である一般社会へ侵出したということ」であり、「社会の中に線引きをして、線の向こう側にいるものたちには価値がないとか(中略)存在しなくて良い、抹殺されたとしてもそれは自業自得だという、まさにオウム内部を支配していた感性」(p.142)を一般社会の人々が持っているという指摘、あるいは古川日出男の短いエッセイ「あの七月以降、僕たちはもう、全員オウムの信者だ」という題名がそれを表している。

あるいは奥村大介が言う「教義の上で、殺人をはじめとする行為への一種の合理性が確立されてしまえば、あとはそれを躊躇いなく、様々な技術的手段をも活用し、効率的に実行するばかりである」という文章。この後に奥村はナチスの優生思想から大量殺戮につながった例を挙げるが、無論、この文章は「死刑制度そのもの」をも含意しているのは間違いない。

今回、以前書いた「オウム事件真相究明の会シンポジウム」で野田医師が述べていた神奈川県警とオウムのつながりの話は出てこなかったが、村井刺殺事件や国松長官狙撃事件などを思い出し、何かオウムだけではないもっと深い闇があるだろうと思った。


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中路啓太の小説「GHQ」

2019.02.07.23:29



副題はゴー・ホーム・クイックリー。日本国憲法が出来上がるまでの、GHQ民政局と日本の内閣や国務大臣らとの綱引きを、実在の人物内閣法制局官僚の佐藤達夫を主人公にして描いた「小説」。

途中まではアメリカの横暴さ、日本に自分たちの考える民主的な思想を押し付けようとする、ある意味植民地宗主国的な態度が強調され、現在の日本国憲法がアメリカによる押し付けであることが強調される。これでもって、現在の憲法は押し付けだから変えるべきだと主張する人も当然出てくるだろう。だけど、ここで描かれる佐藤達夫をはじめとする日本側の面々は、なんとかアメリカ側との折衝で意地を見せようと一生懸命である。果たしていま憲法を変えたがっている連中は、これらの人たちの真摯さを10分の1でも持っているだろうか? 同時に、この本の結末は押し付けだから変えるべきだという方向へは向かわない。

最後の方で白洲次郎が言う、押し付けかもしれないけどプリンシプルがしっかりしている、日本人にあれだけしっかりしたものが書けたかは疑問だと言うセリフや、主人公佐藤達夫の家の庭に、他ではなかなか育たなかったヨーロッパ由来のスノードロップの花が育つことを、日本の地にアメリカによる押し付け憲法が根付く比喩として語るラストから、著者の思いは伝わると思う。

現在の憲法の条文を見ながら読むことをお勧めします。


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大江健三郎「セヴンティーン」覚え書き

2019.01.27.22:17

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大江健三郎は今から40年前、遅れてきた読者でしたが、随分読みました。昔の新潮社の「大江健三郎全作品」シリーズもまだどこかにあるはず。ただ、「同時代ゲーム」以降はほとんど読んでません。その後障害者との共生を高く評価されてノーベル賞を取ったわけで、その後の大江もいつか読もうと思ってはいるけど、障害ある子どもの親となって、逆にどうも手が出ないままです。

今回、これまで全く読むことができなかった「セヴンティーン」の第二部「政治少年死す」が収録されているというのが売りの「大江健三郎全小説3」を市の図書館から借りてきました。

なぜこれまで読むことができなかったかというと、これが文芸誌に発表された時代に、右翼による殺人事件「風流夢譚事件」なんかがあって、この作品もその流れで皇室を愚弄していると批判され、出版社が腰が引けてしまったためでした。初出の雑誌も図書館から撤去され、あっても大江のページだけ切り取られていたりしたそうです。

今読んでみると、確かに大江健三郎の露悪趣味全開だけど、17歳の少年が持つ自己嫌悪と自己顕示欲、さらにはその自己嫌悪の社会(他者)嫌悪への変化、あるいは何か支えとなるものを求める気持ちなんかに、結構感動しながら読みました。

20歳ぐらいの頃って、何か支えになるもの、それで世の中を一刀両断できるようなものを求めていたのは実際覚えがあるし、僕の場合だと遠藤周作のせいで一瞬キリスト教にそれを求めようとした瞬間があったような気がします 苦笑)

ただ大江の場合、どうしてもよく理解できないのが性的なものと天皇制のつながり。大江の中でも「性的人間」も読んだ記憶があるけど、読んでる最中は面白いけど、なにこれ?だったと思いますね。今回も正直にいうと実感としてはよくわからない。右翼少年の存在の支えとなる天皇に対する愛が性的オーガスムにつながるなんて、??です。

しかし文章はうまいしやっぱりノーベル賞作家です。すごいわ。右翼少年の心情を揶揄したり愚弄するのではなく、そのまま真摯にストレートに描き出せるというのにびっくりさせられます。自分の信じるものとは全く相いれないことを信じている人間を主人公にして、しかもそれを否定的に描くのではなく、その人物になりきったかのように描くというのが驚きですね。自分の信じるものをそのままむき出しで書くことはできても(というか昨今の小説はそれが多い気がします)、こういうのってなかなかできないでしょう? 

大江健三郎、本当のことをいうと、昔読んだと言っても断片的なシーンで覚えているところがあるにしても、ほとんど忘れていて、例えば「芽むしり仔撃ち」なんて読んだ時にはものすごく感動して興奮して友人と話したはずなんだけど(話したことは覚えているんだけど)、ほとんど忘れています。時代も変わってしまったし、この「セヴンティーン」にしてもこの時代の政治的な熱はもう遥か昔のことだし、そもそも戦中生まれの人たちの、明日にも死ぬ覚悟というのは僕らには実感できないです。そういう意味では大江健三郎の初期の作品群は古典になってしまったのかもしれませんが、しかし、古典は面白い! 来月中にきっと「芽むしり仔撃ち」を読み直すぞ!と言っておきます 笑)


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プロフィール

アンコウ

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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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