
表紙の絵はロヒール・ファン・デル・ウェイデンが奥さんを描いたのではないかと言われているもので、30年以上前にベルリンのダーレムの美術館で見た時に魅了されたという個人的な思い出があります。

向こうの美術館はフラッシュ焚かなければ写真OKなので、いろいろ撮りましたが、この絵はこちらをじっと見つめる目の力強さがすごくて、500年間俺を待っていてくれたんだと思ったのでした 笑)
というわけで、この絵だけで手に取って読み始めたら、絵の好みがかなり私の趣味と合致して、とても面白く、あちこちにマーカーで線を引いたりして、時間をかけて読みました。
ほぼ年代順に有名な画家たちの作品が解説されるのだけど、その作品が一般的な美術史で取り上げられるものとは少し違っていて、レオナルドやラファエロも取り上げられているけど、どちらかというと北方ルネサンスのロベルト・カンピンやファン・エイク兄弟、ドイツルネサンスのアルブレヒト・デューラーのほうが比重がかかっている。目次を見ればわかるけど、ここにはミケランジェロもレンブラントもフェルメールもゴヤも、そしてなによりフランス印象派が全く扱われていない。ピカソや20世紀の抽象画の画家もいない。最後の二つの章はシャルフベックと、3年ぐらい前に上野で展覧会が開かれたハマスホイの北欧の暗い画家二人と、バウハウスにつながる工芸美術作家ヴァン・デ・ヴェルデという地味さ 笑)
各章がいろいろつながりを持っていて、特に19世紀のローマで活躍したドイツ人画家たちやフランス人たちから、イギリスのラファエロ前派へ関連づけられていく後半の章は、知らないことばかりで面白かった。
で、こうやっていろんな画家たちの絵を見ていくと、やっぱり桁違いに上手だなと思うのはファン・エイク。ファン・エイク以前のロベルト・カンピンや以後のロヒール・ファン・デル・ウェイデンと比べても、描かれている(描かれていない)空気の密度というのか、空間的な奥行きが桁違いに澄んでいて厚みがある。この本とは別の本で読んだんだけど、「アルノルフィニ夫妻の肖像」で後ろの壁にかかっている数珠玉の超拡大写真をみると、フェルメールが200年以上後にやるような光を点として描くことをやっているのだという。一見輪郭を細密に描いているようにみえるファン・エイクの絵だが、この数珠玉には輪郭線はまったくなく、筆でさっとなぞらえただけの色の斑点がおかれているのだそうだ(小林典子「ヤン・ファン・エイク 光と空気の絵画」参照。この本、私にはちょっと専門的すぎて敷居が高すぎ、途中で挫折しました 苦笑)。
というわけで、表題の本に戻ります。一言で言えば面白いです。ですが、この題名はちょっといただけない。買う時ちょっと恥ずかしかったです 笑)扱われている画家がかなりマニアックだし、それなりに西洋絵画を見慣れている人向きでしょう。
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図書館で借りてきました。うーん、すごい小説でした。面白かったと言うと不謹慎と怒る人もいるかもしれません。ネタバレしないように書きますが、東日本大震災で傷ついた二人の親友の娘の、いわば再生の物語です。
あちこちに伏線が張りめぐらされていて、二人の娘の独白の形で話が進みますが、最後の方は本当に感動的です。電車の中で読んでて困りました。出てくる人達の何人かは最初はなんだかわからないのですが、読み進めていくと、あれ?この人は。。。と気が付くことがたくさん出てきます。たとえば「バスは来ない」と教えてくれたおばあさん。
途中からは昔ここでも紹介した
コニー・ウィリスの「航海」を連想していました。なんか、雰囲気がそういう感じだったんですよね。
震災から5年でこういう小説が書けるという作者の小説家としての自負というのか勇気というのか、それもすごい。
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拙ブログでも何度も取り上げた相模原のやまゆり園障害者大量虐殺事件を題材にした小説。何しろ辺見庸だからね、容赦がない。辺見庸は
以前南京事件を扱った「1937」について書いたことがあるので、そちらもどうぞ。
この小説の語り手は重度重複障害で寝たきりの「かたまり」として存在する男女も年齢も不明の「きーちゃん」。目も見えなければ手足も動かすことができず、時々身体が激痛に襲われるけど、思うことはできる。そのきーちゃんを施設で介護する「さとくん」が、ほぼ現実の相模原事件の犯人をなぞっている。ややネトウヨ的なところもあるが善良で真面目な好青年だ。実在の犯人と同様、世の中をよくするためにはどうすればいいのかを考え、同時に人間とはなんであるかを考え、人間の形をしていても人間ではないものは抹殺すべしとの思いに至る。そしてここにきーちゃんの分身とされる「あかぎあかえ」が幻想のように時空をこえて(?)縦横無尽に現れて「さとくん」と議論し、「さとくん」の暴走も止めようとするのだが。。。
人間は「ある」だけでいいのだと言えるか? 小説の中に頻出するカゲロウのイメージが「この世に存在するだけ」という意味を考えさせる。現代の日本人は「さとくん」の主張に対して、正面から答える(反論する)ことができるだろうか?
現代社会にはおぞましいほど「優生思想」がはびこり、普通の人はそれにほとんど気がつかないか、気がついてもスルーする。役に立つか立たないか、生産性があるかないか、経済効率で考えてプラスマイナスどっちなのか、そんな基準で優劣をつけてはいけないはずである。だけど、その「いけないのだ!」という確信の根拠を言葉にできるだろうか? これをみんなが真剣に考えれば、たとえ答えが出なくとも(むしろ安易に答えを出す必要なんかないと思う)、社会は変わると思う。
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先日紹介した「ヒトラーの脱走兵」と並行して読んでいた小説。ドイツの森の中に点在する7つの村に郵便を配達する17歳の少年(従軍し左手を失い、故郷に戻って郵便配達夫の仕事についている)の目を通して、1944年8月から1945年5月までの村の人々の様子が淡々と描かれる。
44年8月といえばすでに西ではノルマンディに米英軍が上陸しパリ解放直前、東ではドイツ軍はソ連軍の前にすでに敗走状態で、国防軍によるヒトラー暗殺計画も失敗して講和の可能性もなくなり、あとはドイツが壊滅するのを待つだけの絶望的な状況。狂信的なナチ支持者はヒトラーによる秘密兵器に期待を託すが、一般の人々でそんなものを信じる人はほとんどいない。
そんな中でも主人公は郵便があるかぎり配達を続け、村の人々から信頼され、人々の置かれた事情を黙って見ている。
そもそも主人公を戦時中の郵便配達夫にするという設定だけで、十分感動的な話になるだろうことは、誰にでも予想できる。戦地からの夫や息子、孫の手紙を届ける一方で、戦死の通知も届けなければならない。
手紙を届ける村の人たちの様子が細かく描かれ、狂信的なナチの少女もいれば戦地の息子や夫を案じる女たちもいる。労働援助にきた捕虜のフランス人の子供を身ごもっている戦争未亡人も、主人公と同じ傷痍軍人も、疎開してきた人たちも、戦死した孫を思い認知症になってしまった老女もいる。かなりたくさんの名前が出てきて、一度しか出てこない人もたくさんいるが、何度も出てくる人もいるので、どの村の誰で何をしているかをメモすることをお勧めします。
最後に、正直にいうとあの結末だけは気に入りません 笑)
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ルートヴィヒ・バウマンという死刑宣告を受けながら九死に一生をえた元脱走兵の復権に向けた活動を中心に、ヒトラー政権下で司法官を務めた裁判官たちの戦後の栄達ぶりと戦後ドイツのナチスに対する多くの人々の複雑な感情が書かれた本で、数年前に紹介した
同じ著者の「ヒトラーに抵抗した人々」や去年の暮れに読んだ
大島隆之の「独裁者ヒトラーの時代を生きる」ともつながり、個人的にはものすごく面白かった。うん、面白かったなんていう言葉は相応しくないな。読みながら何度も怒りを感じた。そしてなんとなくおぼろに感じていたものがつながった気分で、ものすごく勉強になった、と行ってもいいかもしれない。なので、今回は過去記事へのリンクばかりです 笑)
例えば、脱走兵は戦後になってもナチス時代の裁判判決に基づいて前科者扱いされ、一般ドイツ人たちからすら、彼らは犯罪者だと見なされていたとは考えてもみなかったことだった。何しろ第二次大戦中のドイツの軍法会議での死刑の数はほぼ2万人と驚くべき数字。一方アメリカは146人、イギリスに至っては40人だったという。(これも最近紹介した
「軍旗はためく下に」も軍法により死刑になった兵士たちのことで、
吉田裕の「日本軍兵士」とともに、日本軍はひでえと思ったけど、ドイツ軍もひでえもんだわ。)
何しろ不法国家のナチスドイツだ。徴兵拒否や脱走などで処刑された人たちは戦後は問答無用で復権しているのだとばかり思っていた。さらには徴兵拒否で死刑になった人たちは英雄扱いされているものだと思っていた。
テレンス・マリックの映画「名もなき生涯」がまさに徴兵拒否で死刑になった男の話だったが、これだって長年知られずにいたのを、主人公が妻に宛てた手紙が英訳されて知られるようになり、映画になったのだった。
一方で逃亡兵や、前線の兵士たちに無理やり「国防力破壊」の罪を言い渡して死刑判決を出した司法官たちは戦後になっても西ドイツの司法界や大学で栄達を遂げ、尊敬され、権威とみなされ、大往生をとげた。特にシュヴィンゲという戦後は大学教授として軍司法の権威となった奴は、写真見てもわかるでしょ!

こいつ絶対悪党だよ。それもインテリの悪党、一番たち悪い奴、間違いなし!って顔してます(人を外見で判断してはいけません 苦笑) いや、つい興奮して。。。汗)
例えば、
拙ブログで映画を紹介したゲオルク・エルザー、ヒトラー暗殺計画で処刑された彼の事件が正当に評価されたのは最近のことだった。同じく
「ヒトラーへの285枚の葉書」という映画になった
ハンス・ファラダの「ベルリンに一人死す」のハンペル夫妻のことだって、ファラダはこの小説を戦後すぐに書いたのに話題にはならず、最近英訳が出て大ヒットしたおかげで知られるようになった。
さらには1960年ごろに強制収容所の看守たちを裁いた裁判を描いた
「顔のないヒトラー たち」やその裁判の指揮をした
検事フリッツ・バウアーの業績が映画になったのも、やっと21世紀になってのことだ。
これまでの反ナチ抵抗運動として有名なのは軍人による
ワルキューレ作戦と、ミュンヘンの大学生たちによる「白バラ」だった。だけど、これによって、特に前者のドイツ国防軍のヒトラー暗殺未遂事件によって、ナチは悪かったが国防軍は悪くなかったという神話が出来上がったわけだ。そして「白バラ」の方も有名になりすぎたおかげで、他にもたくさんいた市井の反ナチ活動家たちが隠されてしまった面があったわけ。
先日紹介したばかりの盲人オットー・ヴァイトの抵抗だって、そして彼と関連があったローテ・カペレと呼ばれる普通の市民たちによる反ナチ活動だって、一般に知られるようになったのは最近のことだった。同時に国防軍が実は東部地域での一般人やユダヤ人の大量虐殺に関わっていたことも、やっぱり最近になってようやく知られるようになった。
「ジェネレーション・ウォー」でも国防軍兵士のトム・シリングは気弱ないじめられっ子の文学青年だったが、いつしか少女を正面から射殺するような虐殺者になっていく。また兄のフォルカー・ブルッフは脱走兵となる。こんな内容、おそらく西ドイツ時代には絶対に描けないストーリーだったのだろう。この本を読むとそれがよくわかる。でも惜しむらくは(ネタバレしちゃうけど)。トム・シリングは最後死んでしまうけど、実際は生き残って、当時のことにはほっかむりした元国防軍兵士がたくさん、その天寿を全うした。
ティモシー・スナイダーの「ブラッド・ランド」にもあった話だが、アウシュヴィッツがホロコーストの代名詞になってしまったけど、実は東部戦線では、アウシュヴィッツをはじめとした収容所で殺されたユダヤ人の数の3倍の数の人たち(主にユダヤ人)が殺されたそうだ。アウシュヴィッツはそうした、ドイツ人にとって「より不都合」な事実を押し留める堤防の役割を果たしたわけだ。
戦後のドイツは脱ナチ化を果たしたと思っていたが、対外的にはともかくドイツ国内ではとんでもなかった。東西ドイツが統一して関係者もどんどん鬼籍に入ってやっと真実が明かされるようになったわけだ。それは
障害者大量虐殺計画T4作戦に関連して、ドイツ精神医学会がやっと反省の弁を述べることができるようになったのに似ている。
追記(2021, 1,21, 12:50)
昨日書き忘れたので追加します。
主役のバウマンら脱走兵や徴兵忌避者が復権するに当たって、時間以上に重要だったのが歴史学者たちの研究が与えた影響だった。裁判の判決にもそうした学問的な成果が強く反映されている。それを著者は次のように言っている。
「戦後史、とりわけナチス支配の過去の清算に関わるドイツの政治が反ナチ運動の研究成果と密接な関係にあり、その研究の成果を受容して文化政策・歴史政策(具体的には歴史教育・政治教育)が作られてきた(。。。)これを言い換えると、それだけ人文系諸学が今なお現実政治においても重要な存在となっているということだ。それを支えるのは「知」を尊重する歴史的伝統と風土だろう。」(p. 252)
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オットー・ヴァイトはナチスの時代のベルリンで、障害のあるユダヤ人たちをブラシやホウキを作る自分の盲人作業所に雇い、ゲシュタポとやりあい、ユダヤ人たちを無名の協力者たちと共に匿い続けた盲人である。
オットー・ヴァイトの名前は拙ブログでも出したことがある(これは5年前に書いたことで、当時は山本太郎の主張など知らなかったが、彼が言っていることと同じことを書いているのは、我ながら自慢したい)。
この本はヴァイトの生涯を追いながら当時のナチス期のユダヤ人たちや障害者の状況も詳しく描かれ、圧倒的な面白さだった。一般にナチスと障害者と言えば、
拙ブログでも何度か書いた T4 作戦による重度障害者の継続的な虐殺が思い浮かぶが、軽度や盲・ろうの障害者たちはどのように生活していたのかは、考えたことがなかった。
驚いたことに、ナチスは多数の重度障害者を殺害する一方で、国家の労働力として活用できると考えた障害児たちに対しては、「就学義務法」を制定して彼らに就学の機会を与えたのである。1936年に「ヒトラー・ユーゲント法」によって青少年全員がユーゲントに加入しなければならなくなったときにも、それより前にすでに障害児たちのヒトラー・ユーゲントのようなものが存在していて、盲学校の生徒たちがハイル・ヒトラーの手を挙げている写真も掲載されている。ことほど隅々に至るまでナチスのプロパガンダが浸透し、国民たちがみんなナチスを支持していたわけだ。
一方でユダヤ人たちは海外へ移住しようとしても、高齢や障害が移住先から入国を拒否される理由になった。身内に障害者や高齢者がいるユダヤ人家庭に選択肢は二つ。移住可能なものだけが国外に逃れるか、家族みんなでドイツにとどまるかだった。映画「ソフィーの選択」みたいな選択はそこかしこで行われていたわけだ。そして1942年の
「ヴァンゼー秘密会議」後は出国など論外、見つかればそのまま収容所へ送られるようになっていく。
そんな中で盲人ヴァイトは多くの無名の協力者たちと共に多くのユダヤ人たちを助け匿う。その手口は賄賂だった。そして隠れたユダヤ人たちのために闇市場で仕入れたものを融通する。しかしゲシュタポの一斉検挙や、密告、ナチスの手先となったユダヤ人の「捕まえ屋」によって、雇っていたユダヤ人たちは次々と捕まり収容所へ送られ、多くがそこで殺害される。
無名の協力者たちが面白い。ナチスに反抗的な警官たちが集められた第16管区警察署の無名の警官たち、牧師、医者、工場主、クリーニング店主、そして何より強烈な印象を与えるのが娼婦のポルシュッツだろう。それ以外にも多数の協力者がいた。
「ヴァイトのように今日までその名を知られている「英雄」でなくとも、当時のドイツには、ユダヤ人に対しそれぞれの立場でささやかな善意を示そうとした人々がいた」(p.131)し、「密告が奨励される当時のドイツでは、ヴァイトのような救援者の行動を口外せず、「見てみぬふり」をしてくれるだけでも立派な善意の表現だった」(p.139)のである。
シンドラーのリストが映画になり、ドイツ国内にもユダヤ人を積極的に助けようとした人たちがいたことが知られるようになり、おかげでこのヴァイトもベルリンのシンドラーと呼ばれているそうだ。しかし、自らも障害者だったヴァイトの方がシンドラーよりもずっと感動的だろう。それにこの本に描かれているヴァイトの姿の方がずっと深みのある映画が作れそうだ。ユダヤ人を単なる被害者にしているのではなく、「捕まえ屋」なんていうナチの手先も出てくるし、その「捕まえ屋」にも逃げ切る奴もいれば、お役御免で収容所へ送られる奴もいる。
上に書いた娼婦のポルシュッツのインパクトは大きい。戦後になっても、娼婦ゆえに不道徳な女とみなされた彼女は1977年に亡くなるが、写真は一枚も残っておらず、娼婦の彼女がユダヤ人を匿い続けたのはなぜかはわからない。しかも彼女は闇市での取引きで逮捕され、また厳しい「尋問を受けても一切口を破ることはなかった」(p.222) のである。彼女を「ナチスに抗った娼婦」という題名で本を書く人が出てくることを祈る。
ヴァイトはドイツ敗戦後もユダヤ人のための老人ホームと孤児院の運営に尽力した。だが、戦後のドイツでは東西どちらにおいても、ユダヤ人救援者たちに関心が湧くことはなかった。これは拙ブログで映画を紹介した、
ヒトラーを暗殺しようとしたエルザーもそうだった。また海外でも悪の帝国にユダヤ人を救おうとした人たちがいたことは都合が悪かった。結局関係者がほとんどみんな死んでしまった今になってようやく、顕彰のためのプレートや、殺されたユダヤ人たちの名前の刻まれた「つまずきの石」が道に埋め込まれるようになったというわけだ。
不思議なことだが、こうした「沈黙の勇者」たちは戦後になっても自分たちが行ったことを声高に語ることはなかった。自分はユダヤ人を守ったのだと主張する連中は、その多くがナチスの主張に唯々諾々と従った連中たちだった(
アウシュヴィッツでユダヤ人の生死の選別を行ったメンゲレは、選別を行ったことによって死ぬべきユダヤ人を救ったのだと言い放った)。
彼らはなぜ自らの命すら危険にさらしてまで、ユダヤ人を助けたのだろう? その理由は色々あるだろうけど、この本の最後の方にある話は、ただ救援者たちを「正義」にしてしまう(つまりレッテルを張ってしまう)のではなく、人として生きるということはどういうことなのかを考えさせてくれる一助になると思う。
「ヴァイトにとってもユダヤ人たちは単なる救援対象ではなかった。自分たちを心からしたい、信頼を寄せるユダヤ人たちの存在は、障害者として社会の中で「弱者」の位置に追いやられてきた彼に、人としての誇りを与えてくれるものだったろう。それは娼婦として蔑まれてきたポルシュッツにとっても同様だった。
ヴァイトたちはユダヤ人に多くのものを与えたが、ユダヤ人たちもまた、ヴァイトたち救援者に多くのものを与えてくれたのである。」(p.252)
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NHKで放映されたドキュメンタリー「独裁者ヒトラー 演説の魔力」の、番組内では放送できなかったインタビューをまとめたもの。この番組はYouTubeに上がってますね。大丈夫なのかな? 笑)
僕は、ヒトラーの時代を知る現在100歳前後の老人たちが何人もインタビューされるこのTV番組を、放送当時(去年のはじめ)見ているけど、印象として、どこか食い足りない感じがした。ヒトラーのことを語る老人たちの生き生きとした様子がどこか居心地が悪い気がすると同時に、ヒトラーの演説映像を見る老人たちがみんなニコニコと目を輝かせているのに、それをスルーしてヒトラーに誑(たぶら)かされた人々が戦争によってどのような運命を迎えたかという結末、兵士として死んだ若者たちの墓や殺害されたユダヤ人たちを祈念する「つまずきの石」(本の表紙がそれ)へ、強引につなげていったような印象を持った。
で、そのテレビでは映されなかった老人たちのインタビューがこの本に収録されているわけだが、その多くが実はどうやらTVでまとめることが難しい方向へ向かっていったものだったようだ。当時ヒトラー を熱狂的に支持した人たちにとって、戦後、当時の自分を全否定することなど、普通なかなかできるものではないのだろう。
老人たちの多くは戦争になる前までのヒトラーは良いヒトラーで、戦争をしたからこそヒトラーは悪者になったのだと信じている。つまり良いナチスと悪いナチスがあると。TVでも出てきたが、育ての親がユダヤ人だったので収容所に入れられ廃人同様になったにもかかわらず、ヒトラーを信頼しきって空軍兵士として戦った老人が、ヒトラーの演説を称して、ベートーヴェンの第九の最終楽章のような高揚感だったとニコニコしながら話し、ナチスの党歌を口ずさむ。結構ショックだ。
TV番組ではヒトラーの演説の魔力という題名通り、その演説がどれほど人々を魅了したかをメインに描いていたが、この本ではその演説に魅せられた人々が戦後になっても、戦争が終わって4分の3世紀も経っているというのに、そして戦後のドイツでいかにヒトラーがやったことがひどいことだったかが語られ尽くしたと思えるのにもかかわらず、三つ子の魂百までじゃないけど、当時の熱狂が忘れられず、いまだに魅せられていて、それを自分の中でどう辻褄(つじつま)合わせしようとするか、という心理が扱われている。
無論インタビューされている老人たちがいまだにヒトラーの考えを受け入れている差別主義者だとは全く思わない。彼らがヒトラーが主張したようなユダヤ人やスラブ民族は劣等民族だと、今現在考えているはずはない。彼らが嬉々として語るのは当時の感動・感激の思い出なのだろうと思うが。。。
全身全霊をかけて信頼を寄せ、そのために命すらかけた過去とどう向き合うか? なかなかリアルに想像できるものではないだろう。
この本、当時のドイツの状況をわかりやすくまとめていて、ナチスのことなんかよく知らないという人にもおすすめです。
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裁判は終わり死刑の判決がくだって、世間はこの事件のことを済んだこととして忘れつつある。
この本を読みながら、
少し前に山本太郎が語ったこの事件の分析のことをずっと思い出していた。「役に立っていることを社会に示したいから、役に立たないと思い込んだ障害者を殺した」というやつだ。著者の雨宮処凛は山本太郎の盟友であるから、当然こうした意見交換はしていたんだろうと思うとともに、ひょっとしてこうした問題についての山本太郎のブレーンが雨宮処凛なのかもしれないと妄想したりした。
事件当初、とうとうと自説を述べ続ける犯人にナチスの優生思想の再来かと思わされたこの事件。結局のところ「優生思想でもなんでもない。単純な嫉妬」「社会的に何もできない者(=障害者)が、優遇されてノウノウと生きているのに対するやっかみ」に過ぎなかったという最首悟の言葉が一番ピンとくる動機のように思える。
最後の雨宮処凛と渡辺一史の対談の中で、渡辺が言うことが、僕らも、そして何よりマスコミも、もっとしっかりと意識すべきポイントだと思う。つまり渡辺はこう言っている。少し長くなるが、書き写し、ポイントを箇条書きにしてアンダーラインを引いておく。
「この事件が報じられるたびに、植松被告の主張も繰り返し報じられるわけですが、彼の主張は、その前提からして間違っていることを指摘する人があまりいない。(中略)植松被告は「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」という主張から事件を起こしましたが、(中略)意思疎通の取れない障害者」を一方的に安楽死させるなどということは、安楽死が合法化された国であっても不可能です。(中略)植松被告の考えに同調して、「日本でも安楽死を合法化すべきだ」などという人がいますが、安楽死という言葉の正確な意味を知った上でそう言っているのか、そこをまずしっかり確認しなくてはいけない。」
本人の同意がない「安楽死」などない。それは虐殺というのだ。「それともう一つ、障害者を安楽死させるべき理由として、「障害者にかかるお金は無駄だから」とか「それが財政難の元凶だ」などと植松被告は言っていますが、これも現実を見ると全く違います。日本の年間の障害福祉予算は、国の一般会計のたかだか1%台ぐらいで、さほど大きな額ではないです。国際比較をしても、日本の障害者関係の公的支出(対GDP比)は、OECD諸国の中で極めて低い水準にあることは専門家の間では常識なんです。」
障害者福祉の国の予算は財政難の元凶になるはずがないぐらい低い。「さらにいうと、障害福祉予算というのは、別に障害者が飲み食いして懐に入れて浪費しているわけでは全然なくて、その大部分は健常者(介護者)の給料になっているわけですからね。」
しかも予算のほとんどはは障害者を介護する健常者の給料。「そして、もらった給料の中から所得税を払い、住民税を払い、社会保険料を払い、日々の消費を行い、人によっては結婚して家庭を作り、その地域での暮らしを支えるお金になっているわけです。」
山本太郎がよく言う「誰かの借金は誰かの貯蓄・資産になる」を連想する。「そうして、そうやって作られたケアの仕組みや福祉制度というのは、自分や自分の家族が困ったときにもお世話になれるシステムです。障害のある人たちがいるおかげで、そうしたシステムが発達してきたことを考えると、逆に障害者の存在が、社会を助けてくれているとも言えるんです。」
情けは人の為ならず、自分のためなんだよ、という話だ。当たり前の話だろう。「メディアもあの事件を報じると同時に、植松被告の考え方は根本から間違っていることをしっかり発信することが大切だと思います。」(以上全て p.211ー3)
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いやはや、むちゃくちゃだよ、旧日本軍。こんな国の兵士にならなければならなかったなんて、なんて気の毒な旧日本軍の兵士たち。
1937年の日中戦争の始まりから1945年夏の敗戦までのうちで、1944年以降に全戦没者310万の9割を占めるというのは、
今話題の任命拒否された加藤陽子の本でもかつて教えられた。
しかもその死者たちの半分以上は敵の弾に当たったのではなく、マラリアや栄養失調などの病死や餓死だった。また戦死として報告されることが多かった自殺者の数も、他国の軍隊以上に多かったという。
この本が書かれた理由の一つとして、著者は「日本社会の一部に、およそ非現実的で戦場の現実とかけ離れた戦争観が台頭してきた」(209)ことや「日本礼賛本」や「日本軍礼賛本」による日本軍の過大評価の風潮に対し、「戦場の凄惨な現実を直視する必要がある」(212)という思いだと言っている。
日本軍は個々の兵士の健康状態など気にもしない。例えば従軍歯科医師がほぼいなかったために虫歯の蔓延を引き起こし、内地部隊では古参兵や上官による理不尽な私的制裁(リンチ)により死者が出ても罪に問われず、結果、「極度の過労と栄養の不良が結核の温床となっ」(101)た。
すでに1940年から、補給兵站の不備を補うために現地調達、「現地自活」(つまりすでに常態化していた中国民衆からの略奪)を軍の方針として強行し、捕虜になることを禁じ(1937年にはまだ捕虜になることを認めていたそうだ)、作戦・戦闘を全てに優先させて「補給、情報、衛生、防御、海上護衛など」(139)を軽視し、軍服も軍靴もその他の装備も、そして何より兵器も敵とは比べものにならぬほどに劣悪であったにもかかわらず(それを指摘した前線からの書簡を東條英機は握り潰す)、最後はみんな死ねとばかりの特攻作戦。声変わりもしていない少年たちをかき集め死地に赴かせ、死なない奴は臆病者だと言わんばかりの上層部。そしてそう命令した奴らは戦後ものうのうと天寿を全うしたわけだ。
戦闘機パイロットだったある元陸軍大尉の言葉だ。
「戦争が激化する。負け戦が多くなり、戦死者が激増し始める。そうなると、本人の勲功の多少に関わらず、いつまでも生きている将や兵が白い目で見られたり、皮肉や嫌味を言われたりと言う奇妙な傾向が現れ始める。恨まれたり、妬まれたり、どうかすると戦死しなかったというだけの理由で卑怯者呼ばわりされたりもする(中略)それにしても、貴様はいつまで生きる気かなどと、上官が部下を捕まえて嫌味がましく口にする風潮というものが、果たしてアメリカやイギリス、中国の軍隊内にもあったであろうか」(121)
旧日本軍兵士たちは、敵の弾で殺された者の数よりも、間接的な意味も含めれば、味方に殺された数の方が多かったのだと言っても過言ではない。
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以前
第一部を読んだ時に書いたんですが、第二部ようやく読みました。「暗黒森林」ではありません。「黒暗森林」です 笑)
うーむ、これって第三部があるそうで、来年の春に出るらしいけど、この後どうつなぐんだろう? ある意味、この第二部で完結してると思うんですけどね。ただ、第二部で宙ぶらりんのままのエピソードが一つあるから、あれかな? 笑)
第二部は第一部よりストーリーが単純でわかりやすいですね。この後は第二部のネタバレはしませんが、第一部の方のネタバレはちょっとだけ(ホントにちょっとだけ)してるかもしれません。
第一部の最後で三体人が地球に向けて智子(ソフォン)という9次元だか11次元だかの微少な陽子コンピュータ?をいくつも発射して、おかげで人類の行動は筒抜けなのと、なぜかはよくわからないんだけど、それのおかげで科学の進歩を邪魔されて人類は窮地に陥ります。三体人たちは地球侵略のために三体星を大軍団ロケットで出発し、450年後には地球に到着してしまう。
三体の科学力は人類のはるか上を行っていて、しかも上記の陽子コンピュータのおかげで人類の行動はバレバレ。どうやっても勝ち目はない。さあ、人類はどうすれば450年後にやってくる三体人に勝てるのか? 勝てないのか?
まあ、途中の話の展開の気宇壮大さは気持ち良いし、三体軍団の「水滴」という超兵器もSFらしい魅力たっぷり。人類の運命はおそらく後450年だという時の人々の対応や、それに対する「面壁者」という人類の命運を任された4人の作戦、そして最後の、宇宙は「黒暗森林」だ、という結末まで、きっとSFが好きな人なら誰が読んでも絶対面白いです。ただ、やっぱり中国人の名前の読み方がなかなか頭に入らない。第一部の主人公の葉文潔(イエ・ウェンジエ)は「ヨウ・ブンケツ」と読み続けたし、今回の主人公羅輯(ルオ・ジー)は結局最後まで「ラ・ショー」と読んでました 笑)
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エボリはサレルノの南東に位置する南イタリアの町。キリストはそこまでしか来なかった、そこより南には足を踏み入れなかったと、イタリア最南端に住む人々は自虐的に語る。
地図で見るとエボリはイタリア半島を足に見立てれば、足の甲の少し上あたりにある。そこからさらに南方へ直線距離にしても100キロ以上南方の山の中の寒村、土踏まずあたりにある村に、反ファシズム運動で捕まった主人公(=著者)は流刑になったのである。1930年代後半の戦争が始まる前である。
その地での8ヶ月を、その村の人間模様や周囲の風景、風俗や迷信について書いた小説(?)である。主人公は医学部を出た作家で画家という、いわばインテリなので、まともな医者のいないこの地では流刑囚にも関わらず重用され、尊敬される。
この本を図書館で借りたのは3月末だったけど、コロナで家に閉じ込められ、慣れないパソコン相手の仕事で忙殺されて、最初のところを30ページ読んだところで長い中断を挟んで、やっと昨日読み終わった。
映画のシーンのように明確な像を結ぶ表現があるかと思うと、どうもダラダラと長くてよく頭に入りづらいところもあったけど、それぞれの逸話がかなり面白く読めた。特に前近代的な迷信(と片付けていいのか?)に、なかなか忘れられない話が多い。
洗礼を受けずに死んだ子供たちの霊モナキッキョは害のない悪戯もするけど、山賊が隠した宝のありかを教えてくれたりする。山賊といえば、イタリア独立時には欠かせない存在で、そんな山賊だった者たちの思い出も出てくる。
あるいは人々から雌牛の娘とされる農婦は、夫も子供もいるのに、自分でも雌牛の娘であることを認めていたりする。名前が呪術的な力を持っていて、現実に作用すると考えられていたりもする。人狼を排除するためのしきたりとか、親族が亡くなった時の泣き女みたいな儀式とか、どれも何か寂しく懐かしい童話のような話が色々出てくる。
「羊飼いたちの古い神々、つまり雄山羊や儀礼用の子羊は毎日人々の通う道を走り回っており、動物や怪物の神秘的世界と人間を分ける確固たる境界は存在しない」(p.156)
だから人と動物は対等なのである。
「見捨てられた村に、ある動物的魔力が広がっているように思えた。正午の静かさの中に、不意に、ある騒音が響いたが、それはゴミの中で転げ回っている雌豚の音であることが分かった。そしてロバの争いえない鳴き声が大きく響き、それがこだまとなって、男根風のグロテスクな不安を掻き立てながら、鐘の音よりもずっと良くとどろき渡った。」(92)なんていう描写はとても映像的な感じがしたけど、どうでしょう?
こういう迷信世界って
昔魔女展で色々見たな、と思ったら、案の定魔女たちも出てくる。結局キリストがここまで来なかったおかげで魔女たちも大手を振って薬草を調合したり、呪文を唱えたりできたのだろう。
他にも、拙ブログとしては自転車選手になることを夢見ている労働者の青年とか、自転車キャップをかぶって仕事をしている修理工が出てきたりして楽しかった。
しかし、当時のイタリアでは、ムッソリーニに反抗した人たちって、南部の僻村への流刑っていう軽い(?)処罰で済んだのね。しかも8ヶ月ほどでエチオピア戦争勝利の恩赦で解放されるし。この後戦争が始まってからのことを考えれば信じられないユルさである。
なお、村人の名前はメモしておいたほうがいいです。たくさん出てくるし、しかも忘れた頃に再び出てきたりします 苦笑)
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とうわけで知り合いから聞いたときは、なに?それ?って状態だったんですが、瞬時に最初と最後だけは決まりました。で、残りは自転車とか評論とか小説とかから出せばいいや、と思って順番に出して行ったんですが、6日目が困った。結局選びようもなくなって、フランス語の自転車の写真集にしたんだけど、アップした直後から後悔 苦笑)
そして先程この本を見つけて、ああ、なんでこれを思いつかなかったんだぁと凹みました。

私の選んだ7冊は以下の通り。







だけど考えてみれば自転車本はすでに出ていたから、絶対に「友川カズキ歌詞集」にすべきでした。6日目を悩んでいたときに気づいていれば即決だったのになぁ。
しかし7冊は無理だわぁ 苦笑)ちなみに6日目の他の候補はこれでした。要するに小説では決めきれなかったので、無難な自転車本を選んだというわけ。
高橋和巳の「邪宗門」
これは学生時代に読んで圧倒され、その後オウム事件の時に思い出しました。ドストエフスキーの「悪霊」
これも書いたことありましたね。ジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」 これはここ10年で一番衝撃的だったかなぁ。
これも拙ブログで書きました。テオドール・シュトルムの「水に沈む」 これは高校時代に読んだ忘れられない小説 笑)
ハンス・へニー・ヤーンの「岸辺なき流れ」 苦笑)
まあ、どれもこれも暗くどうしようもない話ばかり。
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世界的にヒットした中国製のSFです。ファーストコンタクトものと言うのかなぁ。読み終えて、いろんなSF小説や映画の事を連想しました。思い出してみれば、高校時代なんてSF小説ばっかり読んでたからなぁ。
ラインスターの古典的なSFに「最初の接触」と言うファーストコンタクト(これが原題)の小説があって、初めて人類が異星人と宇宙で相対した時の短編小説がありました。オチは結構がっかりしましたが 笑) まあ、ファーストコンタクトものはアーサー・C・クラークの「地球幼年期の終わり」が白眉で、その後2001年にしてもソラリスにしても、あるいは
ここにも書いた映画「メッセージ」でも、ある意味初めて出会った異星人にどう対処するかの話ではありましたからね。きっと他にもいっぱいある事でしょう。
また、アシモフのやはり古典的な傑作とされる短編に、太陽が6つある惑星を舞台にして、何千年ぶりかに6つの太陽が全て隠れる暗黒の夜がやってくる前夜という「夜来たる」というのもありましたから、この「三体」の倍の数の太陽です 笑)
そして、異星人による地球侵略のお話はそれこそ小説にも映画にも漫画にも山ほどあるでしょう。
「三体」は3つ太陽がある惑星という、僕らには想像もつかないような過酷な気象条件にさらされ、何百回と文明を進化させては滅亡させてきた三体人に対し、電波によってファーストコンタクトした主人公?の物理学者の女性がどう反応するかがポイントで、これまであまり見たことのないような驚きでした。彼女は文化大革命によりエリートの父親を殺され、自らも反革命分子として地方で樹木の伐採作業に従事させられるという辛い人生を送っていて、その彼女が、どうするか、これは僕は読んでいて、おおっ!すごい!と思いましたね。同時に今の時代の空気もこの女性の対応を納得させるものがあるのかもしれません。
ネタバレしてはまずいので内容については触れません。冒頭の文化大革命での、少数の敵を見つけた時の人々の暴走ぶりのおぞましさもあれば、現代の、写真のフィルムに写し出されるカウントダウンの話など、ちょっとホラーっぽいところもあり、また傍若無人の警察官によるハードボイルドなところもあり、繰り返し描かれるヴァーチャルリアリティゲーム「三体」のSFらしい世界もあり、読者を飽きさせません。
ただ、最後の「古箏作戦」の章の展開の速さはどうでしょうかねぇ。それまでの時間的な流れの緩やかさに対して、え? これで終わり? って感じで、その後に続く種明かしと言っていいのか、あちこちに張られた伏線が解決つくようになっているんだけど、そこもちょっとあっさりしているような印象かなぁ。でも、まだ二冊も続編があるらしいので、それは出版されれば絶対読むでしょう。
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何度か書いたけど、在日韓国・朝鮮人作家の作品は、若い頃に随分たくさん読んだ。最近でも
チェシルの「ジニのパズル」については拙ブログでも書いた。だけど、韓国語の翻訳小説はひょっとしたら初めてかも。
前半はムチャ面白かった。自分の子供の頃を思い出して、クスッと笑えるところがたくさんあって楽しかった。後半、結婚後の話は、もろに自分のことを思い出させられて、結構辛かった 笑)「進歩的な男性」のポーズをとりたいわけではないけど、僕も主人公の旦那のチョン・デヒョン氏程度かなぁ。。。もう少し「進歩的」だと思いたいところだけど。 ちょっとしょってる?? 笑)
昔、独身時代にフェミニストの富岡多恵子の「波打つ土地」という、男と女の立場を真逆にしたような形で話が進む結構過激な小説を読んだことがあった。細かい内容はまるで覚えてないけど、読みながらフェミニストの男性に対する苛立ちが少しわかったような気がしながらも、どこか納得できないと思った覚えがある。あくまでもその時の気分だけが記憶に残っているんだけど。。。
そこから考えるとこの小説のフェミニズムは随分わかりやすいし、説得力も上がってるように思う。時代も追いついてきたんだろうけど、こちらも3人の娘の親になったこともあるのかな?
最初と最後が現在で、いわゆる「枠小説」(って今ではあまり言わなくなったね)で、間に主人公キム・ジヨンの生まれてから現在に至るまでの女性ならではの人生とその時々の韓国社会の様子が描かれる。女性として生まれてきたことによる様々な不利益は、かつての日本でも当てはまるんだろうけど、儒教的価値観がかなり強く残っている韓国より現在の日本は随分マシ、と言えるかどうか。。。人のふり見て我がふり直せ。
自民党の女性議員を別にすれば 笑)、普通の女性なら絶対面白く読めるだろうと思う。なかなか連れ合いに勧めたいとは思わないけど 苦笑)そして、男性は自分の「進歩度」が試されるかなぁ 笑)
ところで、韓国人の名前をカタカナで書かれると、なかなか覚えられないし、そもそも男か女かの判別がつきません。登場人物で名前のある人は少数だけど、それでもメモしながら読んだ方が良いでしょう。
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このところ並行して読んでいた本です。
今から5億年も前のカンブリア紀に「カンブリア爆発」と呼ばれる、生物の進化が一気に進んだことが書かれたスティーブン・ジェイ・グールドの名著「ワンダフルライフ」を少し前に読みました。理解しきれなかったところも多かったんだけど何しろ面白くて、もっと図版の多いものをと思い購入したのが土屋健著の「エディアカラ紀・カンブリア紀の生物」というこの本。
期待にたがわず化石の写真や古生物の絵が豊富でとても楽しく読めました。グールドの本がもう30年前のものであるのに対して、こちらは2013年発行なので、カンブリア紀より前のエディアカラ紀のことや、グールド本で扱われていたバージェス頁岩より古い澄江(チェンジャン)で見つかった化石など、この間にわかったこともたくさん盛り込まれています。
一方でこのところ明るさが異常なほど低減したというニュースが飛び交うベテルギウス。新聞でも話題になってますね。明日にも爆発するんじゃないかなんて言われてもうだいぶ経ちますが、去年の秋ぐらいから一気に暗くなっているそうです。爆発すれば昼間でも見えるぐらい明るくなるそうで、数週間は続く派手な天文ショーになると言われています。
で、2011年に出た野本陽代「ベテルギウスの超新星爆発」、買ってからず〜っと忘れていたんですが、部屋の整理をしていたら出てきたので、古生物と並行して読んでみることにしました。
まあ結論から言えば、「明日にでも爆発か」と言われるけど、宇宙の世界での「明日」って言うのも上記の古生物の話と同じで、「今日から10万年後までのいつ爆発してもおかしくない」(p.37)っていうことみたいです 苦笑)
また、超新星爆発すると、640光年という比較的近い距離 笑)なのでガンマ線など有害なビームによってオゾン層が破壊されるんじゃないか、なんていう意見もあるらしいですが、この本によれば、この心配もベテルギウスの自転軸が地球の方向とはずれているから大丈夫とのことです。
でも、この本でベテルギウスのことに絞って書かれているのは前半だけで、後半は宇宙論の歴史と最新の、宇宙の膨張が加速しているという話などが書かれているので、表題はベテルギウスの話題に引っ掛けて、釣り気味の題名かも 笑)
カンブリア紀が5億年、宇宙の年齢は137億年、地球の誕生は46億年、なるほど10万年なんて宇宙にとっては「明日」ですね。なお、カンブリア紀の頃には無論まだベテルギウスは誕生していません。
また、この本によれば、星の誕生というのは、分子雲の中でいくつもの濃いガスの固まりが作られて、徐々に星になっていくんだそうで、一個だけ生まれるというよりはいくつもの星が同じ時期に作られて集団を形成するものなんだと。つまり、太陽にも兄弟に当たる星がいくつもあったはずなんだそうです。だけどできて46億年、その間にまとまりをなくし、離れ離れになり、今では太陽の兄弟に当たる星がどれなのかは全くわからない。
でもひょっとしてカンブリア紀の生物たちが生きていた頃にはまだ太陽の兄弟星がはっきりわかる程度に空に輝いていたのかも、なんて考えるとちょっと楽しい。そもそも5億年前の星々は現在とは配置が随分違っていたはずです。
で、こんなことを考えながら読んでいました。人類(ホモ・サピエンス)なんて誕生して高々20万年、猿と見分けがつかないようなヒト属でも700万年。それに対してカンブリア紀の、例えばアノマロカリスなんかは誕生から絶滅まで5000万年以上だし、三葉虫に至っては2億年以上栄えたわけ。あっ、身近なゴキブリだって3億年ぐらい前からいます。生きた化石だもんね 笑) しかし、それに対してホモ・サピエンスはこのままでいけばあと数百年ももたないでしょうね。
というわけで最初に書いた古生物の本、これはシリーズでこの後「オルドビス紀・シルル紀の生物」、「デボン紀の生物」、「石炭紀・ペルム紀の生物」。。。と全10巻まで続いて行きます。のんびりと暇なときに図版を眺めているだけでもかなり楽しそうです。
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関東大震災時に行われた人種差別に基づいた大虐殺(あえてこの言葉を使いたい。なぜなら、同じように人種差別に基づいたナチスドイツによる1937年の「水晶の夜」事件での死者が100人足らずだったのに、こちらの死者は数千人に上るからである)については、同じ著者の本を紹介したことがあったのでそちらもご覧いただきたい。
「加藤直樹「九月、東京の路上で」覚書き」なぜ題名が「トリック」なのかといえば、虐殺否定を主張する工藤美代子・加藤康男夫妻の本が、書いた本人たちですら信じていないようなことを、様々なトリックを用いて強弁しているからである。この本では主にこの工藤・加藤夫妻の書物を取り上げ、その「汚い」(言葉の正しい意味で「汚い」)やり方を徹底的に暴く。
世の中には資料を誤読して、間違ったことを主張している本はたくさんあるだろう。だが、夫妻の書いた本は、悪意の塊である。様々な文献の都合の良いところだけを引用、都合の悪いところは省略して、あたかも震災時に朝鮮人による暴動があったかのように書くのである。完全なデマ、のちになってそれがはっきり否定されるデマの部分を切り出して、それを暴動のあった「証拠」だと言い張り、果ては存在しない史料や証言を捏造するのである。
関東大震災では昼食どきだったため、大規模な火災が起きた。それを「火災があれほど広がったのはおかしい、誰かが放火したに違いない、だから『朝鮮人の放火があったとされるゆえんである』というめちゃくちゃな三段論法」(p.68)。こんな「汚い」本をよくまあ出版社も出したものだと呆れる。産経新聞出版部だそうだ 笑)
少し前の山本太郎の街宣でも、質問者が震災時の朝鮮人の暴動のことを唐突に発言して、山本太郎がいなしたことがあった。また、僕自身、
一見ネトウヨではないかのようなふりをしながら、偉そうに海外の文献がどうとかこうとか言っているネトウヨ氏から何度もコメントももらったことがあった。無論それには当時の僕の分かる範囲で反論したが、今なら同じようなコメントを貰えば、この本をもとに、完膚なきまでに論破できる。何れにしても、読みながらデ・ジャ・ヴ感満載だった。つまり
以前紹介した山崎行太郎の曽野綾子批判、
「南京事件」を否定する連中や
「沖縄問題」のデマを流す連中、
映画「主戦場」に出てきた慰安婦問題を否定する連中と同じなのだ。彼らは「事情を知らない一般読者を驚かせ(。。。)耳目を引きつけることができれば、それで十分なのである」(p.85) 「実際にあったか否かについて二つの対立する学説がある、と言う構図にさえもっていければ、否定論者の”勝ち”だと言うことだ。そうなれば一般の人々は、歴史の素人である自分にはどちらが正しいかわからないので判断保留にしようとか、真実は多分その中間にあるんだろうとか考えるようになる。」(p.135)
しかし、これらの否定論者たちはみんな、あったことをなかったことにして、何がしたいのか? そしてそれにコロッと騙されてしまう人たちがいる。ただ、こういう人たちはおそらく信じたいんだろう。なぜそんな、冷静に考えれば誰が考えたっておかしいと思うようなことを信じたいんだろう? まあ、よく言われるように、自己肯定感を個人ではなくもっと大きな国というものに仮託しているんだろう。自分はもっと尊重されるべきだという不満が、そのはけ口として少数者に対する差別意識と結びつく。残念だけど、そういう人たちはこの本を手に取ることは決してないだろう。
だが、嘘を承知で書いた人の方は、まさか信じたい人たちの自己肯定感だけのために、言うなればそういう人たちが気持ちよくなれるだけのために、この本を書いたわけではあるまい。
「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ(万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のために尽くせ)」(教育ニ関スル勅語のウィキより引用)
つまり「美しい国」ニッポンのために、ひいては自分たちのために一般庶民が死んでくれることを密かに願っている、そういう人たちがいるのである。
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正式な表題は「琉球新報が挑んだファクトチェック フェイク監視」と「ああ、愛しき古生物たち〜無念にも滅びてしまった彼ら〜」と言う2冊です。
両方とも市立図書館から借りてきたもので、ファクトチェックの方だけ読み始めたんだけど、何しろ出てくる話の不快さ、気持ち悪さに、これだけ読んでると頭おかしくなりそうだわ 笑)と思って、前から機会を狙っていた古生物の絵本も並行して読んで、精神的なザワザワ感を中和させようとした次第。
ファクトチェックの方は主に沖縄市長選挙の時にネットで拡散されたフェイクニュースと、それに対して琉球新報が新聞紙上で行ったファクトチェックの記事をまとめたもの。
何しろ悪質なフェイクは与党を応援(?)する陣営からのものが圧倒的に多い。そしてその悪意に満ちたフェイクニュースが、差別をネタに楽しんでいる人たちによって拡散されていく。だが、「連日、悪質な投稿を繰り返していた複数の登録者(=サイト)が、県知事選終了後、ピタリと投稿をやめ、登録を削除した」(p.86) つまり、デマを広めるためだけで作られたサイトなのである。おぞましい話である。
こういうことだ。「選挙は民主主義の根幹をなす重要な制度である。怪情報を流布させて対立候補のイメージダウンを図る手法が横行するなら、政策そっちのけの泥仕合になってしまう。民主主義の自殺行為でしかない。」(p.54)
というわけで沖縄に限らず、デマの発信は与党応援団から発せられるものが圧倒的に多い。これは歴史がいずれ検証するだろうけど、今という時代の日本の社会は、後世間違いなく日本人が恥じるものになるだろう。
いや、そもそもが差別的でヘイトを含むフェイクを広めている人たち自身が、自分がやっていることが恥ずかしいことであると、冷静になった時には自覚している。それは少し前、かなり悪質なヘイト発言を撒き散らしていた世田谷区の年金事務所長が、本名がバレた瞬間に、自分の過去の発言を削除し、同時に謝罪したことでもわかる。彼は自分がそれまで匿名でやっていたことが「悪いこと」だとわかっていたのだ。
匿名だからできるのだ。本名では言えないような心の奥底にある悪意の塊を、匿名だと言えてしまう。そう言えば、FBなどでも明らかにネトウヨだと思える発言をしている人はだいたい匿名だったり自分の写真を載せない。逆に安倍を批判している人たちは自分の写真を載せている人が多いし、本名(おそらく?)を名乗っている人が多い。
と、そんな不愉快な気分を払拭するのは、やっぱり古生物だよ。なん億年も前に生きていたアノマロカリスに思いを馳せると、それだけで、今という嫌な時代を忘れることができる 笑) この本ではイラストがとても魅力的で、話も面白い。暗い本や重い本、腹の立つ本を読む時には、やっぱりネアンデルタール人とか古生物のような化石時代の話や、宇宙の話を一緒に並行して読むと精神衛生上いいです 笑)
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この本は完全に表紙に惹かれて手に取った。副題は「軍はなぜ市民を大量殺害したか」
扱われているのはゲルニカ、上海・南京、アウシュヴィッツ、シンガポール、リディツェ、沖縄、広島・長崎で、この中ではシンガポール(中国系の市民の日本軍による虐殺)とリディツェ(ハイドリヒ暗殺の報復として地図から消された村)以外は誰でも聞いたことがあるだろうと思う。
そして、これらの話の中で、南京やアウシュヴィッツ、リディツェについては拙ブログでも映画や本と絡めて書いたことがある。
南京関係は:
清水潔「『南京事件』を調査せよ」南京事件個人的論争顛末記 笑)笠原十九司「南京事件論争史」アウシュヴィッツは:
ギッタ・セレニー「人間の暗闇」など(完全ネタバレ)映画「否定と肯定」映画「サウルの息子」リディツェは:
ローラン・ビネ「HHhH」映画「ハイドリヒを撃て」だけど、読んでいてめまいがするほどの怒りを感じたのは沖縄の章だった。米軍に投降した市民(乳幼児まで含む)を殺害した後、自らは米軍に投降して戦後を生き延びた指揮官たち。しかも、彼らは戦後になってインタビューを受けても全く反省の色を見せず、それどころか胸を張る。
鹿山正や、
大江健三郎の裁判で有名になった赤松嘉次のインタビューの一部が再録されているが、怒りのあまり頭がクラクラした。アメリカ軍からの依頼で降伏を説得に来た女子供を即座に殺害したり、一家皆殺しした後、家に火を放ち、5歳や2歳の子供やもっと小さな乳児の殺害を「措置」と称して正しかったと言い張り、良心の呵責もないどころか、日本軍人として誇りを持つと言い放つ(p.210以下)。
先日ここにも書いた「日本鬼子(リーベンクイズ)」に出てきた皇軍兵士の老人たちも中国で同様のことをしたが、鹿山や赤松のように開き直りはしなかった。これだけでもこの両者には何か決定的な違いがある。
一方、シンガポールでもあるいは沖縄でも、シンドラーや杉原千畝、あるいは「戦場のピアニスト」に出てきたユダヤ人を救うホーゼンフェルトのような人が日本にもいたことが挙げられている。シンガポールで市民を救った篠崎護や、虐殺直前に市民たちを逃がした無名の日本兵の話がホッとさせられる。また沖縄ではひめゆりの少女たちに自決せず投降するよう命じた永岡敬淳大尉の名前が出ている(しかし、厄介なのはこういう人格者たちを持ち出して日本軍の蛮行の否定につなげようとする人がいることである)。
書かれているのはどれも凄まじい話だけど、この本ではそれぞれの事件の情景を描き、それぞれそのような非人間的なことが行い得た理由が語られている。でも結局は差別意識と想像力の欠如が大きい。敵は人間ではないという差別意識と、そこで死んでいく者たちのことを想像する力の欠如。そしてこの本でもう一つ強調されているのが、上官の命令という絶対的権威。命令だったから仕方がなかったのだ、という言い訳はアイヒマンもアウシュヴィッツの所長ヘスも言っていることだ。
この本では最後にドイツと日本が戦後になって市民の大量殺害とどう向き合ったかが書かれている。現在のドイツの軍人法には、「第二次世界大戦期における国防軍や親衛隊の「命令への絶対服従」がもたらした負の歴史への反省に基づき、上位者の命令を絶対的権威とは見なさない、つまり「無条件の絶対服従」を下位者に要求しない制度を用意している」(p. 268)そうである。兵士には「抗命権」があり、実際にそれが行使された実例も載っている。
仮に市民を殺すような命令に対して、兵士にはそれに従わない権利が保障されたというのは、逆に言えば、命令を下す方にとっても非倫理的な命令をためらわせる効果がある。
一方の自衛隊法は、「上位者は常に無謬であり、間違った命令を部下に下すことはないという、かつての日本軍と同様の「上位者無謬神話」に基づいて策定されている」(p.280)
まあ、軍隊など無くしてしまえば市民を大量虐殺もなくなると簡略化してしまいたいところだが、現在の日本ではこれは説得力がまるでないだろうな。そうであれば、この兵士に与えられた「抗命権」は、現代のこの世に存在する軍という組織が国際法に違反したり、個人の尊厳や良心の自由を侵害するような行為をしないようにするための歯止めに、かろうじて、なるのかもしれないと思う。
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この作者は相模原事件について考え続けているというので、図書館で借りてきました。
表題作は、主人公は80前の老女で、一人称ではないけど、この老女の意識の流れのように、文章は句点を少なくしてズルズル続いていきます。九州地方で一人暮らしをしている主人公のところに姪たちがやってきて世間話をしていくんだけど、その合間にその現時点の出来事の延長のように過去の記憶や夢が混じり込みます。それがとても巧みで、心地よいです。例えば、寝入り端にラジオを聴きながら夢うつつで物を考えていると、ラジオは朝の番組をやっていて、自分が寝ていたことに気がつくなんていうシーン。
他にも、どこか映画的で、ベルイマンの「野いちご」を連想しました。そこにさりげなく姪の子供に全盲の子供がいて、そこに不要な人間というキーワードが出てきます。表題のラッコも上手い具合に最後のオチ?につながります。上手いです。
もう1つ収録されている「窓」(こちらの方が長い)という作品は道具立てがわかりやすいです。全盲の兄と暮らしている小説家志望の無職の青年が主人公で、兄は全盲ながら企業に就労しているので、主人公が兄の送り迎えを担当しているという設定(全盲の兄の描写が、全盲の娘がいる私にとっては「あるある」で(特に兄の友人たちとのやりとりの、どこかのんびりした悠長な感じ)、おそらく作者の実体験だろうと思います)。
主人公は兄のためを思って、近所で起きた孤独死についても、あるいは相模原の事件についても話題にせず、いわば「窓」を締め切ったまま、社会の不快な出来事を遮断して、兄を守ろうとします。障害者を守るという意識がぐるりと回って「差別」に繋がってしまうのではないか、ということに気がついた主人公が「窓」を開けるというとても気持ちの良い清々しい終わり方。
そして、「ラッコの家」であったような現実と夢がいつの間にか入れ替わっているような眩暈感が、ここでもありますが、こちらはクリストファー・ノーランの「インセプション」という映画にあったような多重夢的な感じで、この人の持ち味なのかもしれません。
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ものすごくわかりやすくて面白かった。
ポピュリズムっていう言葉は今世紀になってやたらとよく聞く言葉だけど、どうも意味がよくわからない言葉だった。よく言われていたのは、この本でも徹底的に批判されている橋下徹だろうけど、最近では山本太郎までポピュリストのレッテルが貼られる。でも、僕の印象ではポピュリズムというのは扇動によって「ザマアミロ」と悪意を掻き立てる、というものだったから、山本太郎をポピュリストというのはどうも違和感があった。そういうわけで、この言葉のもっと正確な定義を知りたかったのが、この本を読んだ理由だ。
しかし面白かった。いろいろとアフォリズムと言いたくなるような文が出てくる。例えば、「多くの人々の『本音』が汚れていくとき、ポピュリズムが台頭する」(p.18)とか、「ポピュリストによる民衆扇動は、まるでパンドラの箱を開けるように、誰もが心に抱える負の部分に火をつける」(p.64-5)なんて、僕のポピュリズムという言葉のイメージとドンピシャで一致する。
この本によれば、ポピュリズムの定義としては、反エリート・反エスタブリッシュメントであることが第一条件である。ポピュリストたちはまず自分たちが国を支配する一握りのエリートに対して反旗を翻す人民の代表者であると自己規定する。そして、自分たちを批判する学者やインテリたちは人民の敵なのである。厄介なことに、彼らは「批判を浴びれば浴びるほど、人民の敵たるエリート層との戦いを演出しやすくなる。自分を批判するものこそ、非エリートたる人民の敵だ」(p.92)とすればいいのだ。
続いて、ポピュリストたちは論理的な議論は放棄し、人々の感情に訴える。人々が誰でも「心に抱える負の部分に火をつける」(p.65)。「中身を持たないポピュリストたちは(。。。)他者を否定することによってしか自分を肯定することができない」(p.83)。だから「架空の敵を作り上げる」(p.73)が、実際にその敵が存在してなくても構わないのである。「メディアを駆使して敵の幻影を膨らませることに成功すれば十分」(p.73)なのである。しかも、扇動には「中身のない旗印 ー「改革」がその典型ー を掲げるのが最も好都合」(p.163)なのである。
つまり、「現代型ポピュリズムは、『人民vs人民の敵』という二元論と、『デマと民衆扇動の結合』という2つの特性を持つことになる」(p.79)。ポピュリストの「こうした扇動は、民意に迎合した支持者獲得というよりも、むしろ民意を誘惑する信者獲得に近いであろう」(p.83) 。
この本ではこうしたポピュリズムがはびこる原因として2つのことが強調される。1つは民主主義が多数決だと勘違いしている昨今の風潮である。つまり、代議制民主政治というのは、「全国民の縮図となるように代表者を選び、議会で熟議を尽くし、合意形成を図ること」(p.101)であるはずなのだ。ところが、ポピュリストは「選挙を、国民の代表を決める手続きではなく、国民からの権力移譲を正当化する儀式に掏り替える」(p.84) 。 本来「普通選挙は、代表者を選ぶ手続きであって、権力を委譲する人物を定める手段ではない」(p.102)はずなのに。
選挙は我々国民の中から代表者を選ぶ手続きなのだ。だからこそ、今回のれいわのふなごさんや木村さんという重度の障害者が選ばれたことの意義があるのだ。去年(2018年)の記事だが、障害ある人は人口の7.4%だそうである。障害といっても様々だからこの統計は乱暴といえば乱暴だが、それでも国会議員の数は700人強。その7%は50人近くになる。障害者の代表としてこの二人プラス国民民主の横沢議員をで3人というのは少なすぎると言えるだろう。
閑話休題。このように民主主義が多数決だと勘違いすれば、まっとうな議論など封殺され、「多数さえ押さえれば、『悪』に政治的正当性を付与(。。。)することが可能となる」(p.115)のである。ここから先はもう全体主義へまっしぐらだ。
もう1つ、ポピュリズムがはびこる原因としてあげられるのが、小泉の頃から盛んに言われ出した「小さな政府」というキーワードである。これまた勘違いされることが多い言葉だが、本来の「小さな政府」は(。。。)単に官や公に所属する人間の数が少ないことではない(。。。)小さな政府と人件費が安上がりな政府とを混同してはならない。小さな政府は自由放任を旨とするものであり、強い力を持たないのである。独裁者が強大な公権力を握り、国民を全面的に統治するような体制は、小さな政府などではない」(p.105)のである。
山本太郎が政権を取ったらすぐにやるとした8つの緊急政策の中に、「公務員を増やす」というものがある。ところがこれがすこぶる評判が悪い。リベラルな人たちの間でもこれにだけは反対だという人が多いが、先進国の中で比べれば、日本の公務員数の比率は極めて低いのである。比較的比率の低いドイツでも日本の2倍の比率の公務員がいる。アメリカで3倍弱、スウェーデンなんか4.6倍だ。そして日本の公務員の給与は逆に突出して高い。本来、公務員の給与は民間の給与の基準とされるべきはずだと思うのだが?
何れにしてもこの「小さな政府」という言葉は影響力が強く、そこには橋下が盛んにやった役人批判の影響も大きいのだろう。要するに「安上がりの政府をつくることが『民』を助けることであり、それが『民』主主義だと」(p.108)勘違いされ、それは極端な話、「一人の為政者が最小の政府」で、「独裁者への全権委任が最も安上がりだ」(p.108)となりかねないのである。
つまりポピュリズムから独裁や全体主義まで想像以上に近い。
この本では他にも「リベラル」という言葉が日本では完全に誤解されていることや、トランプやフランスの国民戦線の巧妙なアジテーション、あるいは世界で最も民主的だとされたワイマール憲法のもとでヒトラーが生まれたことなども説明されている。
とてもわかりやすいしガッテンいく解説で多くの人に読んでもらいたいと思った。何れにしても山本太郎を「ポピュリズム」というキーワードで語ることの間違いは理解でした。
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