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フィリップ・カー 「ベルリン三部作」

2017.11.18.18:15

作者はイギリス人、しかもヴィキで調べたら生まれた日が僕と全く同じで、それだけで親近感が湧きました 笑)

ナチスの時代前後を舞台に、ドイツのフィリップ・マーロウみたいな、思いっきりハードボイルドな探偵(途中刑事にもなります)ベルニー・グンターが活躍するミステリー小説です。まとめて一月ほどかけて、読み終わりました。




時代設定が僕にとって非常に関心のある時代で、この時代についてはそこそこ読んできているつもりなので、いろいろと面白く読めました。実際の事件や実在の人物が次々に出てくるし、当時の雰囲気もよく出ているんだろうと思います。ただ、主人公のベルニー・グンターの饒舌なユーモア感覚が、あんまりドイツ人らしくないかなぁ 笑)それから、翻訳はとても読みやすくていいんですが、ただ一つ、主人公の私立探偵グンターが、実在したナチの高官のハイドリヒやネーベとタメ口なのがどうも気になります。

3つのお話はどれも、1936年のベルリンオリンピックや1938年のズデーテン侵攻からミュンヘン会議を経て、有名な水晶の夜と呼ばれるユダヤ人迫害暴動、そして戦後の48年の元ナチのグループ(これは映画「愛の嵐」とか「将軍たちの夜」とか「オデッサ・ファイル」なんかを思わせる)と米英とソ連の権力争いからベルリン封鎖へ至る事件をうまく配して、ミステリーとしても面白いと思います。

ただ、僕の印象では、昔読んだチェコのパヴェル・コホウトの「プラハの深い夜」というのが、ナチス占領下のプラハでチェコ人の刑事とゲシュタポの検事が協力しあってサイコパスを追うという話で、圧倒的な面白さと感動があって、どうしてもこれと比べると、読後の感動の割合がかなり負けてるかなぁ。 笑)


ところで、この3部作には続編があって思わずまとめて買ってしまいました。こちらは今の所3冊ですが、本国ではさらに続きが出ているようです。少なくとも今年の残りの読書はこの残りの3冊ですかね。




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佐藤亜紀「スウィングしなけりゃ意味がない」

2017.07.05.23:05



ナチスドイツ時代のハンブルクで、ナチにより退廃芸術として禁じられたジャズにうつつを抜かす青年たちを描いた日本人作家による小説です。

津島佑子の「狩りの時代」に、ヒトラーユーゲントの話が出ていました。そこから当時の青少年たちについて知りたいと思って読んだ「ナチ独裁下の子どもたち」という本で、スウィング団という反ナチ(?)グループがあることを知り、それを扱った日本人の小説が出たと聞いていて、やっと読んだのでした。

このスウィング団、思想的な反ナチではなく、自分たちがここちよいと思うものを禁じられたことに対する抵抗として、ゲリラ的にパーティーを開いたりしますが、主人公たちは富裕層のボンボンで、兵隊にもならずに済むような恵まれた奴らです。

しかし、そんな彼らも時代とともに。。。

ハンブルクというと、第二次大戦中にドレスデンとともに、連合軍の激しい爆撃にさらされたことで有名です。昔、20世紀の時代にはシムシティという、街を作っていくゲームがありました。僕は友人のところで数回やったら飽きましたが、その中にハンブルク1944というのがあって、ハンブルク市の火災を消し止めつつ、街を復興させていくシミュレーションになっていました。

そういうわけで、この小説でもハンブルクが爆撃にさらされるシーンが出てきて、このシーン、私は電車の中で読んでいて乗り過ごしました 笑)

事実に基づいた小説で、時代背景や史実をかなり克明に追いかけ、細部の道具だけのリアリティもあるし、実在の人物も出てきたりして、すごい小説だと思うんですが、文章がどうにも気に入らない。特に会話の間の地の文が、主語のない、いわゆる体験話法みたいな文章を多用していて、僕としてはとても読みづらく感じた。

会話自体も現代の若者ことばで、ちょっと違和感を感じます。特に最初の数十ページは、読むのやめようかと思ったぐらい。ただ、読み終わった今はやめなくてよかったと思っています 笑)

登場人物たちの名前も覚えづらく、冒頭の地図と登場人物のページをコピーすることをお勧めします。さらに、その登場人物一覧も前半の人物がメインなので、後半には、ここに名前が出てこない重要人物も出てきます。書き加えていった方がいいでしょう。

読みながら、70年以上前の話ではなく、近未来ディストピア小説ではないか、と思ったりしたけど、今の時代にこういう話を書くことに、作者には、言うまでもなく、なんらかの含意があるのでしょうね。



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津島祐子「狩りの時代」について

2017.01.20.09:22



津島祐子が2016年2月に死ぬ直前まで書いていた小説だそうだ。戦前から福島の原発事故後までの時間で、仙台の北村家と山梨の小森家の様々な登場人物が登場する話なので、家系図を書きながら読むことをお勧めします。この二つの家族は次男と次女が結婚していることでつながりがあるのだけど、おじさんやおばさん、いとこたちが次々に出てくる。

テーマは人々の無意識のうちにある差別意識だ。少なくとも著者の娘の津島香以のあとがきによれば、生前、津島祐子本人がそう言ったそうだし、去年の夏に起きた相模原事件のことを考えると、作者がもう少し長生きしていれば、この事件を経た後に、この小説にどんな風に手を入れていっただろうな、と考えさせられる。

差別がテーマと言ったけど、声高に差別を否定しているのではなく、人間というのは必ず差別意識を抱えている、それをどう自覚するか、そして自覚したら、それをどうするか、ということを問うているのだと思う。

主人公(と言っていいのだろう)の絵美子は兄が障害者で(この障害者の造形がけっこうリアルで、僕などは読むのがけっこう身につまされた)、その兄をめぐっていくつものエピソードが出てくるし、戦前に日本を表敬訪問に来たヒトラーユーゲントの逸話やナチスの障害者安楽死作戦といったベタな差別の話から、アメリカへ渡った原子物理学者の叔父の名誉白人的な立場や、絵美子が行う仙台の同世代の親類たちと都会の子である自分との比較など、いろいろなところで差別意識が暗示される。

例えば、こんな文章はどう読めるだろう?「かわいらしい子どもがいれば、天使のようだ、とひとはいう。天使は、醜い顔をしていてはいけないのだ。」(23ページ)

かわいいかかわいくないか、頭がいいかよくないか、役に立つか立たないか。人間は皆それぞれ違う。それはそれぞれの個性だと言われる。違うから区別するわけだが、しかし、区別にこのような価値付けをすれば差別につながっていくだろう。区別と差別の違いは、実はものすごく微妙だ。

それはともかく、それぞれの登場人物の作り込みがすごく、それぞれにものすごいリアリティがある。そして、それぞれのエピソードが時空を超越して、思い出の断片のように次々と出てくる。それが時代順ではなく、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。だから年表を作るとさらに楽しめるかもしれない。

確かに作者が完成させる前に死んでしまったため、全体のまとまりが足りないようにも感じられるし、特に最後のとってつけたような叔父の夢の話などは、まだまだこれからまとめるべき話だったんだろうと思わせるけど、逆にこの叔父の夢の話は、作者自身の最後を思わせて痛切でもある。

差別意識は誰にでもある。前に書いたように、障害児の父親である僕にだってある。だからしょうがないといって、その意識を解放してしまえば、人間の質が間違いなく下がると思う。常に自らの内にある差別意識を自覚し、それを恥じることをしなければならないんだと思う。そういう差別意識というものを考えるためにも、この小説を読む意味はあると思う。もちろん、意味なんて考えなくたって、人物造形やエピソードのリアリティが面白いし、小説を読む楽しさを満喫できると思う。



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崔実(チェシル)「ジニのパズル」覚書き(完全ネタバレ)

2016.08.24.10:58



噂に違わぬ面白さだった。昨夜、読み始めたら、結局最後まで一気に読んでしまった。あえて言えば青春小説なんだろう。最後のシーンにはひどく感動した。

主人公は在日朝鮮人少女のパク・ジニ。小説の構造は枠構造のようになっていて、彼女はオハイオの高校で、今、退学しようかという状況にある。そんな状況でホームステイ先のおばさんのアドバイスで、彼女は自分の朝鮮学校時代のことを綴り始める。

彼女は、日本人小学校でも、朝鮮中学校でも、オハイオの高校でも、決して孤立しているわけではない。確かに、誰にでも好かれているわけではないけど、それぞれどこででも、気を使ってくれる友人がいるし、朝鮮学校では好意を寄せる男子学生だっている。確かに自分のためだけで、授業が日本語で行われたりして、朝鮮語がうまくできないことで、居心地の悪い思いをしたり、ちょっとしたイジメじみたことはあっても、それほど深刻な事態にはならない。教師たちも変な奴はいても、総じて教育熱心で生徒たちのことを親身に考える。

だけどテポドン騒動による日本人からの暴行がきっかけで、彼女は、大人たちの身勝手な建前、組織絶対の態度、朝鮮学校の教師や生徒たちの事なかれ主義に対して「革命」を起こそうとして、朝鮮学校としては決定的な騒動(金日成と金正日の肖像写真をベランダから投げ捨てる)を起こし、施設に閉じ込められる。

こうした辛い過去を文字化したことで、彼女はオハイオの学校、ホームステイ先のおばさんの元へ戻り、彼女の再生が暗示されて終わる。表題のパズルのピースがはまったのだろう。

これは朝鮮学校という、普段僕らはほとんど知らないところ(映画「パッチギ」ではヤンチャなやつらばかり出てきたけど、ここではいたって普通の中学生だ)を舞台にしているから、興味深いのではない。彼女が思う大人たちの欺瞞・偽善・事なかれ主義、周囲の生徒たちの、そうした大人たちへの達観したような無関心・順応に対する怒りの気持ちは、誰でも共感できるものではないだろうか。

それにしても、僕の時代の在日作家たち、イ・フェエソン(李恢成)やキム・ソクポム(金石範)の八方塞がりのような深刻で重苦しい雰囲気とはまるで違うし、文章そのものも、どこか全体にホワホワした軽やかな感じなのは、最近の女流作家に共通しているような気がする。

途中に挟まる北朝鮮への帰国運動で海を渡った祖父からの手紙で、このブログでも紹介した映画「かぞくのくに」を思い出した。当たり前の話だけど、在日韓国・朝鮮人だって、個人としては、みんな現在の独裁的な北朝鮮という国にはうんざりしているわけだ。

普通の人に、ぜひ、読んでほしい。



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川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」(後半ネタバレ)

2016.07.21.12:19

前に書いたことがあるけど、ネイティブ・アメリカンの言葉に7代先のことをを考えて行動しろというのがある。 7代先のぼくらの子孫は、今の時代を振り返って、どう思うだろう? 僕ら今の時代に生きる人たちは、7代先の日本は、世界は、どうなっていればいいと思っているんだろう? 


川上弘美の「大きな鳥にさらわれないよう」を読んだ。ものすごく面白かった。平易な文章だけど、結構時間をかけて読み、最後の方では読み終わってしまうことが悲しくなった。そして、読み終わった後に、もう一度全体の構成を確認するために、あちこちつまみ読みをした。

最初、読み始めてしばらくして、もう40年ぐらい前に夢中になったレイ・ブラッドベリの「10月はたそがれの国」とか「火星年代記」を思い出した。透明感あふれる雰囲気に、昔読んだ萩尾望都のSF漫画を思い出し、不吉な不安感に諸星大二郎のSF漫画を思い出し、最後の「母」の話に手塚治虫の火の鳥を思い出した。

衰弱しながら没落へ向かう雰囲気と舞台になっている世界のシステムが、共通している連作短編集かと思っていると、途中、ヤコブとイアンが登場して、話がおぼろげながら繋がっていることがわかってくる。そして最後から二つ目の話で、この小説で描かれている世界像がはっきりし、最後の章で最初の章につながる。それぞれの話がどれも面白い。

(この後、この小説の世界をネタバレしてます)

グローバル化し、遺伝子操作でクローン生成が簡単になり、人工知能が人類の能力を超えても人類は滅亡へ向かわざるをえない。そこで小さな集落に隔離して、それぞれの集落で遺伝子の変化を待ち、さらにそれらを混雑させて新しい(滅亡へ向かわない)人類を発生させることを目論む。そのために、クローンと人工知能が合体した母たちにより、クローン発生させられた見守りたちが、何千年にもわたって代替わりを続けながら、人類の新たな遺伝子の変化を見つけ、そうした変異体を母たちの元に送りこみ、新たな人類の発生を待つというのが、この小説の世界である。だけど、結局、人間は同じことを繰り返していく。

そうなんだよね。人類は宇宙の果てまで見つけられそうなぐらいの科学の進歩を成し遂げたけど、過去に学ばず、一時の感情に流され、目の前の利益追求に一喜一憂する。将来のことなど本気で考えず、「暢気に大戦やらテロやら汚染物質拡散やらを綿々と続け」(p.94) ていく。ましてや7代先なんて考えるはずもない。

最後のネアンデルタール人はジブラルタル海峡で滅んだという。宇宙の果てすら見つけようとしている現生人類だって、いずれ消えていく運命なのだろう。



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村田沙耶香 「消滅世界」 覚書き(ちょっとネタバレ)

2016.06.02.01:06



人工授精のレベルが驚異的に上がって、もはや、子供を産むために性交渉を必要としなくなった世界の話。夫婦の間での交渉は「近親相姦」と呼ばれて忌み嫌われ、家族が子供を得るためには人工授精に頼っている。かろうじて残された性欲は恋人(本当の人間の場合もあるが、大抵はアニメキャラ)との恋愛ごっこに委ねられる。

そんなショッキングな、というか、センセーショナルな設定で有名になってしまったようだけど、僕は後半の主人公たち夫婦が人工授精により受胎したことで、どんどん気持ちが離れていってしまうところがとても哀しかった。

そして、そんな実験都市の「楽園(エデン)システム」に徐々に慣れていって「家族システム」を忘れていく主人公たちの様子が、ちょうど現代の社会の中で、これだけ無茶苦茶なことが起こっているのに、慣れていってしまっている僕らに重なった。

設定はSF的で、昔読んだ伊藤計劃の「ハーモニー」という小説のような、裏返しされたディストピア小説のような感じがした。最後のショッキングなシーンでは、なぜか河野多惠子の「幼児刈り」なんかを連想したのは、子供が出てくることと、生理的、感覚的な気持ち悪さのせいかもしれない。

主人公の雨音(あまね)は両親の「近親相姦」によって生まれた娘だが、母親はそれを誇らしげに娘に語る。娘もそんな母親の呪いにかかったように性欲を捨てきれない。最後のところも含めて、ある意味で母と娘の葛藤という古風なテーマが真ん中を貫いている小説なのかもしれない。

設定が設定だけに、かなりあけすけで露骨な言葉やシーンもあって、電車の中で読むのが憚られたが、とても面白かった。ただ、宣伝文句のような「近未来の日本の姿」だなんて、まるで思わないけど。



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吉村萬壱「バースト・ゾーン」

2015.12.10.00:37


二週間ほど前に読み終わったんだけど、ちょっと忙しくてまとめられなかった。

この人の小説は以前「ボラード病」を拙ブログでも書いたことがある。これより10年近く前に書かれた小説だ。かなりのエログロであるとともに暗喩に満ちている。以下、ネタバレにならないように紹介します。

三部に別れていて、第一部はテロが頻出する東京とおぼしき町。テロリストに怯えた人々が無実の人をリンチにかけ、自警団は警備を口実に強姦などやりたい放題、人々は愛国を叫び、政府は敵を殲滅せよ、大陸の戦闘に志願せよと叫ぶ。政府に対する疑問を少しでも口にすれば、その人間はすぐにいなくなる。オーウェルの「1984」や映画の「未来世紀ブラジル」なんかを連想するようなかなりすごいディストピア。これは時期的にもイラク戦争に触発され、東京を中東のどこかの町に見立てたという面もあると思うのだが、この前の「秘密保護法」と「戦争法案」のおかげでこうした管理社会が迫っていると思うし、テロの脅威はこの小説が書かれた時代よりも数段高まるだろう。

第二部に入ると主人公たちは志願して大陸の戦闘に従軍する。この様子が日中戦争を連想させる。同時に、第一部でのひょっとしてありうるのではという不安をかきたてるような話が、第二部では完全な怪奇と幻想のSFのような話になる。最終兵器と喧伝されている「神充」と呼ばれているものの正体が、ある意味で想像を絶する。だけどちょっといくら遺伝子操作したとしても、こんなのはさすがにあり得ないだろうというような話になる。いろいろな意味で非常に漫画的。でも、ここでもそうした遺伝子操作を含めた現在の生命科学批判になっているのかもしれない。

第三部はかなりひねった状況の種明かしとともに、なんとも暗澹たる結末。ただ、テロリストの正体はまあこうなるだろうな、というものだったかな。でもそれ以外は、特に主人公たちの末路は、なかなかすごい話です。

現実社会のいろいろなことを思い浮かべることの出来る暗喩に満ちた、しかしエログロと暗澹たる世界観の小説。以前にも書いたように、こういう救いのない世界を描いたSFは好きです。かなり長い小説だけど、読み始めたら途中でやめることはなかなか不可能だと思う。お勧めします。



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堀田善衛「時間」など

2015.09.30.00:00

南京虐殺はなかったとか、日本軍は世界一立派な軍隊だった、なんていう言葉がネット上のあちこちに見られる時代になってみると、実際に日中戦争を体験した小説家たちが書いたものはなんにもならなかったのか、とがっかりする。人間は過去に全く学ばない。過去を知ろうとしない。自分の信じたいことを過去に重ねたがる。雑誌「週刊金曜日」に辺見庸が連載していた「1937」に導かれて何冊かの本を読んだ。


堀田善衛の表題の小説の主人公は1937年末、南京に住んでいた中国人の富裕階級のインテリで、身重の妻と5歳の子供を日本軍によって殺され、虐殺された同胞の死体処理をさせられたあげく、自らも処刑されるところを偶然に助かり、密かにスパイ活動を続けながら、日本軍の元大学教員だった情報将校の召使いとして働いている。それが主人公の日誌の形で綴られていて、起こった事件の描写以上に観念的な思想が大部分を占めているので、ある意味では非常に読みにくい。観念的な表現が多く、戦争の臨場感はかなり薄いし、リアリティがあまり感じにくい。むしろ従妹からの伝え聞きの部分で語られる、黙々と焼き物を壊すロイド眼鏡の日本軍将校の話などに、かなり不気味なリアリティを感じる。

南京虐殺の「被害者の数」がしばしば論争の的になる。だが、その正確な数についてはもう永久に分からないのだろう。だからそれをよいことに南京虐殺はなかったなどと言い出す輩(やから)も出てくる。だけど、たとえば実際に日中戦争に従軍した石川達三の有名な「生きている兵隊」だけでも読んでみれば、いわゆる「皇軍」はとんでもないことをしたのは間違いない。他にも実際に従軍した元兵士たちの証言はたくさんあるわけだし、もし、日本軍が中国で南京に限らず虐殺事件を起こしていないと主張するのなら、日本人はとんでもない嘘吐きばかりだということになるだろう。だが具体的な「被害者の数」となれば分かりっこない。しかし、「数」が問題なのだろうか?

「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある」(新潮文庫「時間」p.57)

こういうことなのだと思う。30万でも3万でも、死んだのは「何万人」という数字ではなく、「一人一人が死んだ」、「一人一人の死が、何万にのぼったのだ」。



他にも古山高麗雄の「二十三の戦争短編小説」や富士正晴の戦争小説も読んだ。古山高麗雄の小説では死んだ妹への空想の手紙を書き続ける兵士の「蟻の自由」が圧倒的に感動したけど、あちこちで徴用という言葉に欺されて連れてこられた朝鮮人慰安婦の話が繰り返される。また、二十三の、とあるけれど、実際はほとんどが現在の目から戦争を振り返って見たエッセイのような、私小説のような短編小説群である。

富士正晴の小説は、どこか語り口にとぼけたようなユーモアがあるのだけど、書かれている内容は言い逃れの出来ない皇軍の悪辣非道な犯罪行為。特に強姦のありふれた様相。小説の中の登場人物たちはこんな台詞を吐く。

「余り暇なので、今から思ったらどうしてあんなことしたかと思うようなこともした。ぞっとするね。ぞっとするが、やってる時は平気だった。」(「ちくま日本文学全集 富士正晴」p.146-7)

「女を襲いそれを犯すということは男にとってむしろ手柄話の気味を帯びるものであることがわたしにはこわかった。そのくせ、わたしは女を襲いそれを犯すということをしなかったわけではない。ただわたしはそれによって手柄話の一つを加え得るような心理にならず、むしろはかなさを切実に感じた。犯した自分も犯された相手もはかないものに見えた。」(同 p.202)

念のために言っておくが、小説だから作者の想像、つまりウソだ、と言ってすましてしまう人はまさかいるまい。こういう日本軍のやったことに対する認識は、僕の世代ぐらいだとごく普通に持っていた。大江健三郎のなにかの小説にあった言葉だと記憶しているけど、ある時代の日本では、男が数人集まれば、その中の何人かは人を殺したことがあったのである。古山高麗雄は戦後何年も経ってから「過去」というエッセイ風の小説の中でこんなふうに書いている。

「私は、私と同年配の、秘密を墓場にまで、誰にも語らずにかかえて行く男の姿を思う。悪いのはみんな戦争なんだ、とお定まりの文句を言ってみても、本人としては、人によっては何かがのこる。人柄に人気のある会社のお偉いさんが、もしかすると、(。。。)安易に殺すべき相手ではない人を一人、あるいは数人殺していて、戦争のせいだけにはしきれないでいる。あるいは、何とも思っていない。お偉いさんのなかにも、そうではないお父さんのなかにも、五十年前に、中国人の少女を、あるいは老婆を、強姦した人がいる。それを妻子に秘匿して、しかし、戦争のせいだけにしきれないで、たまに、ひそかに思い出す人がいる。思い出して、ある人はいささかつらい気持ちになる。だが、それはほんのちょっぴりだろう。他人事のようにしか思えない人もいる。何も感じない人もいる。まだ私が三十歳前後の、戦後いくらも立っていない頃、つらい気持ちになるどころか、自分が行った殺人や強姦を、得意げに話していた奴がいた。そういう奴もいるが、死ぬまで隠し通そうとする人もいるだろう。」(文春文庫版「二十三の戦争短編小説」p.564)

ある意味ではこうして皇軍がやったことは各自が墓の中まで持って行ってしまった。おかげで現在の最初に書いたような体たらくだ。だが、彼らを僕らは責められるだろうか?

武田泰淳に「汝の母を!」という短編小説がある。これも辺見庸の連載から教わったものだが、ネットでも読める。ここをクリック。この小説についてはもう言葉もない。内容をここに紹介するのも勘弁してほしい。そして、自分がその場にいたらと想像する。せめて「『ほんとにひどいよう。やれって言う方がムリだべよ』」と「困り切ったようにつぶや」くことが出来ていただろうか。そして、上の古山の言葉のように、戦後だいぶ立ってから「思い出して、(。。。)いささかつらい気持ちに」なったのだろうか。

これはものすごく辛いことではあるけれど、僕らの父祖がこうしたことをしたというのは否定しがたい。だけど、実際に戦争に行っていない僕らは、そうした父祖を軽々に非難することなどできない。しかし彼らがしたことを知っておかなければならない。そして、戦争になれば誰でもそうするということも。だからこそ戦争はしてはいけないのである。

----2015、10/25----
いくつか加筆・変更しました。



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金原ひとみ「持たざる者」覚書き(ネタバレ注意)

2015.08.22.10:19

なんとなく芥川賞をとったときの印象がヤンキーのねえちゃんみたいで読んだことがなかったんだけど 苦笑)、初めて読んだこの小説はものすごく面白かった。何年も後に読んでも面白く読めると思う。文章もへんに凝ったことをしない、読みやすさがある。なるべくネタバレにならないように紹介したいけど、まあ、以下ネタバレ、かなりしてます。

4人の人物による独白という構成。最初は原発事故後の放射能に対する危機感を妻と共有出来ない男の焦りが、とてもうまく描かれていると思った。あの当時、僕も同じような不安を感じ、いても立ってもいられないような気持ちになったのを思い出した。

二人目は海外から戻ってきたエリート女性の独白。最初の男の独白はこの女性と一緒に酒を飲みながら、自分の幼い娘と妻との放射能に対する意識の齟齬が回想され、その顛末が語られるのだが、この章ではそれを引き取って、女の一人称で、店を出た後の話(かなりH 笑)が続くと共に、一見エリートで怖いものなしのように思われたこの女性も。。。このエピソードは、同じような経験をしているので、読みながら非常に辛かった。

この二人の会話と女性の回想の中に2,3回ほど出てくる女の妹(シングルマザー)の独白が三つ目の章になる。彼女もまた原発事故が怖くて英国へ移住している。はたからみると天真爛漫で、なにごとも良い意味で、行き当たりばったりの、なんとかなるさという軽やかさがあるように見られているのだが、当たり前だが、本人にして見れば、当然行く末に対する不安もあるわけである。

この三つ目の章で、会話の中に一度だけ出てくる女が四つ目の章の主人公。英国へ赴任した夫について行って、英国になじめず、やっと日本に戻ってきたのだが、家に戻ると。。。という話で、このエピソードはかなり読ませる。特に三人目の自由人の女との比較で、チマチマした「くだらない」日常で一喜一憂するリアルさは、この章だけでも独立した小説になりそう。(後日記 いや、独立させると3番目の女との対照がなくなってしまうから、これでいいのでしょうね 8/23)

最初の章はむろん原発事故が大きなモチーフになっていて、夫婦の間でその危機意識に大きな差があることがポイントになっていて、この後もこれが前提に話が進むんだろうと思っていると、ほかはそれほど直接的に原発事故が大きな影響を持っているわけではない。三つ目は放射能が怖くて英国へ逃げてきたはずなのに、実は成りゆきで英国にきてしまったことになっていて、原発事故についてあまり深刻に考えているわけではない。そして、最後の章は原発事故はまるで無関係。だけど、ある意味で原発事故後の話であって、濃淡はあっても「それぞれの家庭に、それぞれの原発事故がある」(46ページ)し、それぞれの人に、それぞれの事情がある、ということなのかもしれない。だからこそ、この後、最後の章に出てくる芳子さんの独白も想像してみるといいんじゃないだろうか。

それぞれ主役の性格や置かれている立場は全く違うけど、どの話にもものすごいリアリティがある。それと、心理描写の細かいところで女流作家らしい発想がある気がする。傑作だと思う。



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戦争を振り返る何冊かの小説

2015.06.18.01:35

ドイツやフランスの戦争中のことを現代の目から振り返る小説を続けて何冊か読んだ。



メヒティルト・ボルマン「沈黙を破る者」
ドイツのこの小説は父の遺品から出てきた知らない男の身分証明書と若い娘の写真を手がかりに、ナチスの時代の過去を探っていく話で、6人の男女の青春と彼らの運命が描かれるんだけど、現在と過去が交互に描かれながら、途中現代の殺人事件が起きたりして、最後は非常に象徴的な終わり方をする。父の正体がわかるこの終わり方は非常に苦い。同時に、これは前の世代の罪、父祖たちの罪を象徴的に現代のドイツ人が確認するということなんだと思う。そしてまた父と写真の娘の正体は戦後ドイツの経済的繁栄の欺瞞性の象徴にもなっているのかもしれない。

6人はさまざまな運命を辿り、それぞれに辛い恋があり、親衛隊員になって羽振りを利かせたり、戦死したり、兵士に向かず自殺したりする。以前拙ブログで紹介したドイツのTVドラマ「ジェネレーション・ウォー」を思い出したりして、かなり面白く読んだけど、推理小説としては、小説内では描かれていない父の後半生を想像するとき、ちょっと結末に無理があるような気がする。まあ、いわば、バレないはずないだろう、と突っ込みたくなる 笑)



ピエール・アスリーヌ「密告」
こちらはフランスの小説。ナチによる占領時代のある作家のことを調べていたユダヤ系フランス人が、パリの国立文書庫で偶然自分の妻の親類をアウシュヴィッツへ送って死なせることになった密告の手紙を見つけてしまう。そこから密告した老女を追いかけ追い詰めていく。このあたり、なんとなく大昔に読んだドストエフスキーの「地下生活者の手記」の意地悪な主人公の露悪的な独白を思い出した。人が嫌がることを陰湿にやるような、一種ストーカーじみた主人公にはあまり感情移入できないだろう。ところが、この密告に関わった当時のナチの犬(フランス人刑事)に話を聞くところから、この老女の姿が一変する。この刑事の台詞がこれまた以前紹介した「慈しみの女神たち」の主人公と同じで、命令されたことをやったに過ぎないと言い放つ。

しかし、これは「凡庸な悪」と形容されたアイヒマンも同じことだが、ナチスのような徹底的な上意下達の組織の中で、罪とはなにかという非常に難しい話につながる。上からの命令に対して、良心で対抗できるのか、自分が、あるいは自分の親しい者が不利益を被っても、場合によっては死んでも、悪を行わないでいることができるのか?

同じことは日本軍にも言えるだろう。中国で新兵の訓練と称して捕虜を縛り付け、銃剣で殺させた話は有名である。このような状況に置かれたとき、これを拒絶できるか? たぶんできない。僕も含めて、ほとんどの人は殺人者になる。そして、平和な時代になったとき、ほとんどの人はこれを、命令だったんだ、しかたがなかったんだ、と自らに納得させるのだろう。アイヒマンは特別な人間ではなかった、逆に言えば、誰だってアイヒマンになる可能性はある。

小説に戻ると、ナチに占領されていた時代のフランスは密告社会で、人々はさまざまな理由から他の人間を密告した。これは最近では東ドイツでもそうだったわけで、こういう社会にいることは、自由が取り戻された後も、とてつもない深い傷を残す。フランスが解放されたあとは、今度はそうしてナチに協力したり、レジスタンスやユダヤ人を密告したり、あるいはドイツ人と親しかったフランス人たちはナチス協力者(コラボ)として迫害される。

主人公はどうすればよいのか? 老婆を許すべきなのか、しかし密告のおかげで親類が死んだのである。だが、それはすでに半世紀も前のことなのだ。そうした戦後生まれの主人公の煩悶に対して、密告にもかかわらず九死に一生を得て生き延びた親類の一人の、自らも被害者であるとともに、密告した老婆も被害者であるということなのだろう、知っててもしらないふりが、普通の人にできる唯一のことなのかも知れない。



パトリック・モディアノ 「1941年 パリの尋ね人」
アスリーヌの小説とほぼ同じ頃の小説。1941年の新聞に小さく載った16歳のユダヤ人家出少女の捜索広告から、この少女と家族の生涯を再構成しようとする「わたし」の話。むろん「わたし」はこの少女の生涯を正確に再現することなどできない。たくさんの情報や写真や同時代の手紙を紹介しつつ、ナチ占領下のパリの状況を丁寧に説明しながら、分かるところまで彼女の生涯を描写しようとするが、「わたしには永久にわからないだろう。それは彼女の秘密なのだ。哀れな、しかし貴重な秘密であり、死刑執行人も、布告も、いわゆる占領軍当局も、警視庁拘置所も、獄舎も、収容所も、歴史も、時間も(私たちを汚し、打ち砕くもろもろのすべてのものも)、彼女から奪い去ることのできなかった秘密であろう」(171)と言われる。

死んだ人間の思いは消えてしまう。人類が誕生してからいったいどれだけの人間が生まれ、死んでいったんだろうと考えると、めまいがする。この何百億の人間の思いはほとんどすべて消えさり、忘れ去られてしまった。そうした死者たちの群れにはもちろん新兵訓練の名の下に銃剣で殺された無名の中国人もいるし、逆に彼らを殺すよう強要された無名の日本人も強要した日本人もいる。

作者のモディアノ(あの対独協力派の青年の悲劇「ルシアンの青春」の脚本家の一人だそうだ)は、僅かに残された手がかりをもとにして、この小説で、半世紀前におそらくガス室で殺されたあるユダヤ人少女の思いをすくい取ろうとしている。

フランスのこういう小説が「HHhH」みたいな小説につながっていったんだなと感じた。翻って、日本はどうだろう?

少し前に高橋弘希の「指の骨」という小説が、まだ30代の作者による太平洋戦争のほとんど絶望的な状況を描いていると芥川賞候補になり、話題になった。



主語を極力廃した文章は無理がなくとても上手だなと感じたんだけど、アスリーヌやモディアノの問題意識と比べると、なにか決定的に違う。ある意味でただの戦争小説である。そして主人公たちはニューギニアのジャングルの中で、戦闘ではなく熱病や飢餓で死んでいく。つまり被害者である。せっかく戦争をテーマにするのなら、被害性だけでなく加害性も、また善と悪や罪のテーマもあるんじゃないのかなぁ。大岡昇平の「野火」にはそういう面があったと記憶しているんだけどね。

最近ドイツでアウシュヴィッツの会計係だった93歳の元ナチス親衛隊員の裁判が始まった(現在被告病気のために休廷中)。老人は会計係で、実際にユダヤ人たちを殺したわけではなかった。「手を血で染めたこと」はないが、「道義的にみれば罪がある」と言ったそうだ。日本人は戦犯を自らの手で裁くことはできなかった。戦争が終わって70年になろうというのに、いまだにナチスの時代の犯罪を追求し続け、またそうしたことをテーマに、ただ一方的にナチスを悪として断罪するだけではない、非常に重い主題の小説が現代でも書き続けられている国々があるいっぽうで、日本の状況はずいぶんと違うのではないか。戦争を経験した世代には、大岡昇平にしても武田泰淳にしても堀田善衛にしても、そうした重い主題を扱った小説がずいぶんあったはずなのだが。。。



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中村文則「教団X」の感想

2015.04.12.20:51

さて、始まってますね。パリ〜ルーベ。みんながクリストフに注目でしょうし、デーゲンコルプやサガンも虎視眈々、ウィギンズがどう動くか、またルーランツやファン・アーフェルマートがどう動くのか、いろいろ気になります。気持ちはデーゲに優勝して欲しいけど、なんとなく、またまたスプリンターたちの間隙を縫ってテルピーの逃げが成功する、という予感が降りてきました 笑)

さて、今日は次女とタンデムサイクリング。走りながら、昨夜読み終えたこの小説のことを考えていた。

教団X教団X
(2014/12/15)
中村 文則

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この作者の前作の「掏摸(スリ)」は、最後の、どう考えたって不可能だろうというものを掏るトリックに呆れた。ものすごい!と思った。そして、繰り返し現れる塔の描写が、なにか神のイメージのような気がした。だけど途中のエピソードになにか物足りなさを感じなくもなかった。

掏摸(スリ)掏摸(スリ)
(2009/10/10)
中村 文則

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今回の「教団X」、600ページ近くあるけど、なにしろ途中は、川上ソウクン(大昔のポルノ小説作家)も裸で逃げ出すだろう、ってぐらいのところもあって、あっという間に読み終えたという感じがしている 笑)ただ、川上ソウクンの時代のポルノってもっと比喩的暗示的間接的な表現だったのに、今はこういう描写って余りに露骨で直截すぎじゃない? そしてこの直截すぎという面、ここに出てくる社会批判にも通じているような気がする。

中村文則はドストエフスキーが好きだということだけど、確かに神や悪という形而上学的な話で引っ張ったり、途中の登場人物の実存的不安とでもいうのか、なにか自分が自分でないかのような告白に、「カラマーゾフ」のイワンの「大審問官」や「白痴」のイッポリートやムイシキン侯爵の告白を思い出させるようなものがある。そして、なにより最後の大団円的な終わり方がドストエフスキーの長編のように感じられた。こちらの思い込みかもしれないけど。

昔の小説だけど、同じくドストエフスキーに影響されていた高橋和巳という小説家の作品に「邪宗門」という長編があった。戦前に飢餓に苦しみ、子供も餓死させた女が教祖として立ち上げた宗派が戦中の治安維持法などで徹底的に弾圧され、戦後に武力革命を目指して滅んでいくというような内容だったけど、読んだのはなにしろもう30年以上昔のことだから、あまりはっきりと覚えているわけではないし、今回の中村の小説と比べることはできないんだけど、読み終わったときの衝撃で言うと、高橋和巳の圧勝。まあ、読んだときのこちらの年齢も違うしね。

邪宗門 上 (河出文庫)邪宗門 上 (河出文庫)
(2014/08/06)
高橋 和巳

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現在の右傾化した日本社会に対する作中人物の批判は、たぶん作者の思いそのままなんだろうし、その内容に僕もほとんど完全に同意する。だけど、右傾化している社会をむきだしで批判するのは小説としてどうなんだろう? 例えば初期の大江健三郎(前作「掏摸」は大江健三郎賞を取っている)の小説なんかを思い出してみると、直接的、具体的な反権力の言葉はないのに、読み終わってなにか感覚的に大江の社会に対する「否」の思いが伝わってきた。それに対して、この小説では社会に対する「否」が真っ正面から具体的に語られ、説明しすぎ、わかりやすすぎのような気がする。

仏教的な無常観に最新の素粒子の話をからめた松尾正太郎の教義、「人間とは過去から現在の膨大な原子の絶え間ない流れの中に浮かぶ物語」で、「私」という意識は熱量もエネルギー量もないから物理学の法則の埒外、違う層にいるという説などは、以前ここでも紹介した「宇宙は本当にひとつなのか」「宇宙が始まる前にはなにがあったのか?」を読んでいると、よくわかるし面白く読めた。そこにさらに人間がなぜ生きているのかの答えとして、我々は我々の物語を生きるために生きているのだ、という説も、文学者として当然のあっぱれな解答だと思う。さらに、我々は物語の行為者であると同時に、それを観る観客であって、それゆえ我々は生きている限り(=意識がある限り)その自分たちの物語を見届けなければならないという人生の肯定につながるところなんかも、ドストエフスキー的。

それに対して沢渡の邪淫の宗教は、つまるところ、現在の社会が陥っている「気持ちよさ」がキーなのかな? 性の「気持ちよさ」がニッポン万歳という「気持ちよさ」と重なるのだろうか? ただ、教祖の松尾正太郎もエッチな爺さんだから、性を否定しているわけでは、もちろん、ないんだろうけど。



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葉真中顕「絶叫」

2015.04.05.10:59


絶叫絶叫
(2014/10/16)
葉真中 顕

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書評で面白そうと思って読んでみた。そして、面白かった。まあ、基本的に面白くなかった本については、拙ブログで書くことはないけどね 笑)伏線はいろいろ張り巡らされているし、途中からは年表を作りながら読んだ。

失踪や保険金殺人、生活保護や貧困ビジネス、派遣労働やDV、ネトウヨや風俗産業などを絡めながら、どこにでもいる普通の女(名前まで鈴木陽子という平凡さ)が、追い込まれ、転落していく話。現代の日本の社会の閉塞感、息苦しさを切り取って、見事にこの平々凡々な女主人公の人生に重ねていく。ある意味盛り込み過ぎと言えそうなぐらい。同時にこの女が生きてきた日本の社会の変質についても重ねていて、たぶん10年後に読んでも、これほど面白くはないだろうと思う。

この女の人生が「あなた」という言葉で、呼びかけるように描かれるが、それによって、この女は「私だ、俺だ」と読者に思わせる、良くできた仕掛けだと思う。そのせいもあって、かなり後半に至るまで、主人公の女に同情するし、いとおしくすら感じられるのだけど。。。少なくとも僕は平行して語られるもう一人の主人公の女性刑事よりも好きだと思ったんだけど。。。最後は、あらゆるものを振り切って逃げていきながら、あっかんべーをされた気分。

繰り返し現れるのは、人間とは単なる自然現象だ、すべては運であり、選択などない。それなのに自分の人生を自分が選んだものだと思い込んでいる。しかし、神さまがいない以上、そうした自然現象に過ぎない人間には、逆説的だが、何でもできる自由があるわけである。こういう考え方は昔からあるだろうけど、主流にはならなかった。それが今はかなり説得力を持っているのではないだろうか?

読み始めると、読みやすいしなかなかやめられなくなります。おすすめです。



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ガンジーの言葉と再び「ベルリンに一人死す」

2015.04.02.11:33

「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです。」

これまで2,3回触れたことがある植草一秀さんのブログで教えてもらったガンジーの言葉だ。

この文章を読んで、先日書いたファラダの「ベルリンに一人死す」のことを連想した。

主人公たち(実際に小説と同じことをして処刑されたハンペル夫妻がモデル)が行ったことは、結果的には「ほとんど無意味だ」った。でも彼らは、自分たちがやったことが無意味だったことを知らされた後でも、「それをやらなければならな」かったと確信しているのである。読んでからかなりたったんだけど、それでもまだこの小説が心に引っかかっている。

主人公たちの行為をただの自己満足ではないか、とシニカルに評する人もいるかもしれない。特に主人公たちがやった抵抗は単にナチスに反対する文言の書かれた一、二枚の葉書を、こそこそとビルの踊り場などに置いてくるだけだったのだから。さらに彼らのやったことに巻き込まれた無関係の人間が悲惨な死を迎えなければならなかったのだから。精神の自由なんて言っても、そんな抽象的でつかみ所のない言葉に説得力などない、と言う人もいるかもしれない。

だけど、ガンジーの言葉はもう少し具体的にこの主人公たちの行為を補足説明してくれるように感じる。つまり、たしかにファラダの小説の主人公たちにはナチスの支配する「世界を変える」ことはできなかった。でも彼らはナチスの支配する世界によって自分自身を変えて、ナチスに黙って同意し、自らの精神を売り渡して生き続けることを拒否した。

もちろん、今の日本はナチスの時代のように言論の自由は認められず、権力批判をすれば即刻死刑になり、密告が奨励されるようなひどい国ではないけど、それでも「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」(p.185)と考えている国民が増えていることは、選挙の投票率などを見れば間違いない。

圧倒的な時代の流れの中で、個人の力など無に等しい。しかし、ここでもういちど冒頭のガンジーの言葉を引用したい。

「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです。」



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ナンシー・ヒューストン「時のかさなり」

2015.03.28.13:09


時のかさなり (新潮クレスト・ブックス)時のかさなり (新潮クレスト・ブックス)
(2008/09)
ナンシー ヒューストン

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1944年のナチ政権下のミュンヘンから2004年のカリフォルニアまでの60年間、4代にわたるある一族の物語を、年代を逆にさかのぼるかたちで描いた小説です。

4つの章から成り、それぞれが2004年のカリフォルニアからミュンヘン郊外の村へ、1982年のニューヨークからハイファへ、1962年はトロントからニューヨークと舞台が移動しながら、最後の1944~45年のミュンヘン郊外の村、つまり最初の章の後半に戻ります。

それぞれが一族4代の少年少女が6歳だったときの一人称で描かれていて、最初の章にさまざまな伏線が張り巡らされていて、読み進めるうちにそれが解けてくるというミステリー仕立て。ただし、昨今の日本の小説のように、最後にビックリさせたり、親切すぎる謎解きはしてくれません。それぞれの章が描く年号の間に起こった決定的な出来事は宙ぶらりんのままだったりします。

本の最初に簡単な家系図が付いてますが、余計なお世話かも知れませんが、そこに登場人物の名前をどんどん書き込んでいった方が良いでしょう。そうしないと、章が変わるごとにそれまでのおじいちゃんが父親になっていくわけで、かなり混乱します。特にそれぞれ6歳の一人称の語り手が、アメリカンな自己中のクソガキだったり、素直な良い子だったり章ごとに変わるので、これも混乱度合いを強めます。もっとも、その混乱具合も読書の楽しみの一つだといえますが。

上述のように、60年間の中の四つの時代(ほぼ1年足らず)を切り取るような形で語られますが、そこで背景になっているのはナチスだったりパレスチナ問題だったり、イラク戦争だったり、どうやっても解決の付かない重い話です。しかし、そうした話題(ある意味でこれらの話題はそれほど新鮮みはない)よりも、最初の章の最後に書かれる赤いビロードの服を着た人形の謎が、とても良い余韻を残します。なんとなくオーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」のキーワード「バラのつぼみ」を連想しました。

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ファラダ「ベルリンに一人死す」(ネタバレ注意)

2015.03.21.00:40


ベルリンに一人死すベルリンに一人死す
(2014/11/21)
ハンス・ファラダ

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1946年、ナチスが崩壊してすぐに一気呵成に書かれた大傑作長編小説です! 先ほど読み終わったんですが、最後の「アンナ・クヴァンゲルの再会」の最後のところでは嗚咽が漏れそうになりました。事実に基づいているこの小説の結末はわかりきっていることだし、主人公たちを待っているのは残酷な運命であることを知っていても、前半は読み物(サスペンス)としても、ものすごく面白いです。

主人公の寡黙で堅実で頑固な家具職人の夫とその妻は、フランスが降伏した日、つまり1940年の6月に一人息子の戦死の報告を受けて、ナチスに反対する文言を書いた葉書をビルなどに置くことを決意し、それから2年にわたってゲシュタポの必死の捜査の中、それを続けます。

今の僕らの感覚ではナチス反対のビラをそっと置いてくるだけなんて、なんとまあショボいレジスタンスだ、と呆れるかも知れませんが、当時のドイツではこれだけで完全な国家反逆罪(=ギロチンによる死刑)でした。映画にもなっていて有名なショル兄妹も同じ罪で死刑になっています。

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最初に書いたように前半の主人公夫婦とゲシュタポの捜査はハラハラドキドキで一気に読ませますし、それと平行して描かれるどうしようもない二人の男とその妻と子供のエピソードも後々につながる伏線になり、とてもうまくできています。しかし、後半の数多くの死と拷問の詳細な描写は、正直に言って、読むのかがかなり辛いです。

さて、自分たちの葉書に影響された人々がヒトラーを引きずり降ろして戦争を終わらせることを夢見た主人公夫妻の葉書は、実際には即座に警察に届けられ、何の影響力もないだけでなく、それを拾った人間たちにとってはただの迷惑にすぎず、恐怖と不安を引き起こすだけです。拾った人間たちは、ここにナチスの邪悪な意図があるのではないか、ナチスは自分がどんな反応を示すかを確かめているのではないか、と疑心暗鬼に陥り、最初の数語を読んだだけで当惑し、恐怖に駆られて、ほとんどの人が最後まで読むことすらせずに警察に届けてしまいます。

普通の人たちはみんな、残酷でとんでもない不正が行われていることに気が付いているのに声を上げず、監視や密告を恐れて暮らしています。ナチスの過酷な恐怖政治のなか、狂った世界のなか、孤立無援のなか、自分が正しいと信じた夫婦の行ったささやかな抵抗は、結果だけを見れば、完全な犬死にでした。いや、犬死にどころか、彼らの行為が原因となって、彼らと関係ある何人もの人間が死ぬことになります。ネタバレしてしまえば、この小説の中では、そもそも良心を失わなかった人たちはみな死にます。

だけど、生きるというのがどういうことなのか、何に価値をおいて生きるのかが、ナチスのような極限的な社会では極端なかたちで問われることになるのでしょう。考えることをやめて「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」(p.185)という犬のような生活でいいのか、それとも「死の瞬間まで、自分はまっとうな人間として行動したのだと感じること」(p.502)ができる方が良いのか。ナチスに「黙って同意」し、大切なものを「売り渡し続け」て「ぴしっと折り目のついたズボンをはいて、爪にマニキュアを塗って」生き続けるのが良いのか、それとも「俺は少なくともまともな人間でいられた(。。。)共犯者にはならなかった」(p.559)と死を前にして胸を張って言うべきなのか。「正義のために死ぬより、不正のために生きるほうがいい」(p.503)のか、それとも「生き方を変え」(p.511)て、「全く別の人生」(p.117他)を送るべきなのか。

だけど、その結果として自分だけでなく無実の人間まで巻き添えにしてしまうとしたら、それでも精神の自由を守るために抵抗し続けるべきなのか、そんなものは自己満足に過ぎないのではないのか、そして自己満足のために他の人間を巻き込んでよいのか、しかし、それでは、自らの自由と主体性を放棄して、ナチスに決定権を丸投げした犬の生活に甘んじるべきなのか。それぞれ読んだ人が考えるべきことなんでしょうが、そんな決断を迫られるような社会にならないように祈るばかりです。

少し前に安倍に丸投げすべし、とコメントしてきた「りべおれ」君に、是非とも読んでもらいたいところです 笑)



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若杉冽「東京ブラックアウト」(ネタバレ注意)

2015.02.21.14:26


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(2014/12/05)
若杉 冽

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以前紹介した「原発ホワイトアウト」の続編。前回は某国のスパイのテロによって原発が二度目のメルトダウンを起こすところで終わった。今回はそれを少し遡って、原発マネーをめぐるおどろおどろしい政財官の仕組みを説明しながら、新崎原発の二度目のメルトダウンで首都圏が住めなくなるが、国民は相変わらず権力者の思うがままになり、良心的な官僚たちは無力感を感じるだけという話。

黒澤明の映画に「悪い奴ほどよく眠る」という映画があるけど、あの映画では一番悪いヤツ(画面には一度も出てこないけど、政治化であることは明らか)が想定されているんだけど、ここではもっと組織的なもので、その悪循環に対して一員である人間たちは自分の意志ではどうしようもないわけ。

正直に言ってツッコミ処は満載だと思う。そもそも某国のスパイがなんのためにテロを起こしたのかわからないし(だって、この小説みたいなことになれば放射能で汚染されるのは日本だけじゃないし、小説中でもその後の混乱に乗じて某国が何かしでかすわけでもないらしいしね)、原因究明や捜査が行われたのかどうかもわからない。また、天皇まで登場しちゃうのはどうなんだろうねぇ。確かに今上天皇はここに書かれているような人かも知れないけど、これはちょっと禁じ手じゃなかろうか? それから、反原発意識が露骨すぎることで、かえって読者をヒキ気味にさせてしまうんじゃないだろうか? デマゴギーが前面に出すぎた二流のプロレタリア文学(失礼)を現在読むような感じもある。確かに原発反対派の中にはそうだ、このとおりだと溜飲を下げるかも知れないけど、やや反対ぐらいの人は、こんなことあるかよ、ばからしい、となっちゃうんじゃないかと不安も感じる。

でも、そうは言っても、前回の「原発ホワイトアウト」より面白く読んだのは、語り口に慣れたからだろう。前回書いたように、官僚たちの一般の人々を軽蔑しきった本音があちこちに現れていて、しかも語り手の口調もそういう口調で、作者が本当にエリート官僚だと言うこともあって、なんとも不愉快な読書だったけど、まあ、あたりまえだけど、作者=語り手ではないからね。読者にハッパを掛けるという意味もあるんだろうね。いずれにしても、現実の世界はこんなにひどくないと思いたい。



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閻 連科(えん・れんか)「愉楽」(ちょっとねたばれ)

2015.02.15.20:20


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(2014/09/26)
閻 連科

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最初取っつきにくいけど、読み始めてしばらくするとやめられなくなりました。ただ、読み終わって今の気持ちは今一つ納得できん!という気持ち 笑)

中国の内陸の耙耬山脈に受活村という障害者ばかりが住む受活村という農村があって、住民たちはそれぞれができることで助け合いながら「受活」(楽しく生活)している。そこへ県長の柳鷹雀(リュ・インチェエ)という男が、ソヴィエト崩壊でお荷物になっているレーニンの遺体(クレムリンで展示されている)を購入して自分たちの県に記念館を作り展示すれば、世界中から人々が見に来て、入場料などで莫大な金額が手に入り、県は大金持ちになって、そこに住む住民たちはみんな幸せな生活を送れると考える。しかし、レーニンの遺体を購入する金はどうするのか。そこで、この受活村の障害者たちによる特技(絶技)で見せ物団を作って都市を巡回し、それにより購入資金を得ようと考える。まあなにかハチャメチャな話だ。

最初のうちはなんとなく中国映画の「黄色い大地」とか「双旗鎮刀客」の舞台をイメージしながら読みました。ちなみにこの映画はどちらも個人的に一番好きな中国映画です。とくに「双旗鎮〜」のほうはチャイニーズウエスタンという感じで、誰が見ても面白いと思うでしょう。お勧め。まあ、中国映画ってそれほどたくさん見ているわけじゃないけど。

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(2004/01/23)
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閑話休題。この小説、へんに奇をてらったようなところもある。突然、語りが「〜なのじゃ」とか「〜してしもうた」という老人の口調に変わるところがある。だけど、ほとんどのところはごく普通の「〜だった」「〜である」調で、これになにか意図があるのかと思ったら、訳者あとがきに方言のところをそんなふうに訳してみたとある。ただ、これはどうなんだろうなぁ。。。なお、語り手は一番最後の最後で「私は受活に一年あまり滞在したが」と一人称で言って、一気にこの小説のリアリティが増します。

それから各章や註の番号が奇数の章しかない。これもきっとなにか意味があるのかと思いながらも、よくわからない。それから、注釈が一つの章になっていて、そこにこの障害者たちの村の由来や、主役の茅枝(マオジ-)という紅軍(日中戦争時の共産党軍)の足を悪くした女性兵士が住み着き、戦後この村を共産党政権のもとに組み込むことで、村は文化大革命時や大飢饉の時代にひどい目に合うことになるという歴史やエピソードが書き加えられる。この注釈(「くどい話」という表題がついています)で語られるエピソードに、ものすごく面白い昔話風のものや伝奇風のものがある。

障害者たちの見せ物団は大金を稼ぐけど、それが果たしてどうなるのか、また茅枝(マオ・ジー)は革命を村に伝えたことで村人たちをひどい目に合わせた歴史の責任を負って、自分の落とし前をつけることができるのか、そして県長の柳鷹雀(リュ・インチェエ)はレーニンの遺体購入を果たすことができるのか(まあ、これはできるわけないと言ってもネタバレにはならないでしょうね)。なにか昔の大江健三郎や井上ひさしの「吉里吉里人」なんかを思い出しました。とっても面白い小説でした。



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ジョナサン・リテル「慈しみの女神たち」(ネタバレ)

2014.11.29.00:37


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上巻も下巻もエゴン・シーレのアブナイ絵が表紙で、カバーなしでは電車の中で読めません 苦笑)しかし、同時にこの陰惨で不道徳な小説の表紙としてはこれ以上の絵はないかもしれません。

神さまがいなくなってしまった時代のラスコーリニコフ(ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公)という感じでしょうか。ひと月以上前に読み始めて今日の午後にやっと読み終わりましたが、なにしろ疲れました。以下、完全にネタバレですので、この長大な小説をこれから読んでみようと思う方はご注意ください。

主人公はフランスでレース工場を営むもとナチス親衛隊中佐のマックス・アウエ。彼の1941年独ソ戦が始まる時期からベルリンが陥落する1945年4月末までの回想が、上下二段組み900ページにわたって描かれる。アウエは決して悪辣非道で冷酷な悪魔のようなナチスの親衛隊員ではなく、法学博士にして古典文学にも造詣が深く、フランスの典雅なバロック音楽を好む超の字が付くインテリで、人柄も高潔、フランス語も堪能な人間である。

彼はナチス親衛隊の将校として、最初はウクライナで、ショスターコーヴィチの交響曲の題名にもなっているバビ・ヤールのユダヤ人大虐殺に立ち会い、クリミアでコーカサスのユダヤ人たちについて研究し、独ソ戦の転換点となるスターリングラードへ転属した後、頭部に重傷を負ってベルリンへ戻る。そこで今度はイギリス軍の空襲にあったりしながら、ヒムラーのもとでユダヤ人を労働力として使うために、ユダヤ人を絶滅させようとしている収容所所長や、有名なアイヒマンたちと折衝し、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所やハンガリーを視察した末に、ソ連軍に追われながらポーランドからベルリンへ逃げ延びて、ナチスドイツの崩壊を見届けることになる。実在の人物が山のようにたくさん出てきて、訳注もはんぱじゃない。

いわゆるナチスの悪逆非道な犯罪的行為の現場に立ち会った人間ということになり、いろんなエピソードもものすごく、拙ブログでもこれまで書いたことのある「炎628」とか「善き人」とか、ピーター・オトゥールの「将軍たちの夜」、あるいはドイツ映画の「スターリングラード」、それに「ジェネレーション・ウォー」のような映画や、「人生と運命」とか「プラハの暗い夜」、同じコホウトの「愛と死の踊り」のような小説や、フランクルの「夜と霧」やプリモ・レーヴィの「アウシュヴィッツは終わらない」を連想させられた。最後の逃避行中に出くわす子どもたちの軍隊などはゴールディングの「蠅の王」みたいで、なにしろ読みながらめまいがするほどのおぞましい話のオンパレードだった。

そうしたエピソードの合間に、ナチズムのもとで、悪とはなにか、という途方もない思弁が繰り返される。なにしろ主人公のアウエ以外にも、出てくる人物たちがみんな下劣な殺人鬼で、性格の歪んだサディストで、ユダヤ人を憎むレイシストである、というわけではまったくない(もちろん、そういう歪んだサディストも、ただのレイシストもたくさん出てくるけど)。彼らなりに与えられた任務に忠実であり、ユダヤ人を感情的に憎んでいるわけではない。コーカサスの山岳ユダヤ人たちが真正ユダヤ人であるかどうかを親衛隊と国防軍が言い争うシーンなど、学問的な緻密さ、教養の高さを示すと共に、悪い冗談のようであり、かつ、なんと下劣なことか。

また、実在した親衛隊の判事ゲオルク・コンラート・モルゲンという「立派な」法律家が出てきて、アウエと意気投合するが、彼は立場を利用して私腹を肥やす収容所所長や看守を訴追し、命令によってユダヤ人を殺害することと、自らの欲望のためにユダヤ人を殺害することを峻別する。しかし、ユダヤ人が死ぬべき運命であることに対しては何の疑問も抱かない。

アイヒマンも人々を自宅に呼んでバイオリンを合奏したりするし、障害者を安楽死させるT4作戦に関わった家族思いの親衛隊員デルについては「身内に対して善良、他人には無関心で、しかも法を尊重していた。わたしたちの文明化された民主的な都市の誰かれに、これ以上の何を要求できようか」(下巻57ページ)と言われる。

ハリウッド映画のように、ナチスをたんなる悪魔のような下劣な「悪」として、普通の人間と切り離してしまうことに、僕はずっと違和感を感じ続けてきた。結局、この小説も、拙ブログのテーマの一つ、世の中には悪人と善人がいるわけではなく、普通の人が悪いことをするから人間は恐ろしい、という文句を繰り返すための、よい実例だと言えると思う。いずれにしても、普通の人が普通の人を普通に殺して恥じないような時代が来ないことを祈るしかない。

さて、この小説はそうした戦争の話とならんで、主人公アウエの個人的な話も語られる。ここから先は本当に完全にネタバレ。先にアウエは高潔な教養人だと書いたのだが、近親相姦の同性愛者で、性的には変態と言って良いだろうし、なにより犯罪者でもある。ユダヤ人以外にも、義父と母を惨殺(?)し、オルガンでバッハを演奏しているドイツ人貴族の老人を無意味に殺し、命の恩人の大親友すら、やはり無意味に殴り殺す。

ただ、アウエはスターリングラードで頭を狙撃されるのだが、そのシーンは長大な夢幻的なシュールな描写が続き、いつ撃たれたのかも含めて、なんだかよくわからない。そして、その後の話も、ある意味では夢の中の物語のようで、上記の殺人も、母殺しの犯人として執拗にアウエを追う二人組みの刑事も、どれもなにか変な眩暈感がある。アウエの後ろ盾になる大物のマンデルブロートとその取り巻きの美女たちもなにか実在感が乏しく、とくに最後に登場するシーンは本当の話なのかどうか、義父と母の惨殺の真相は二人組みの刑事が言った通りなのか、そもそもその刑事自体が本当に実在したのだろうか? そして最後の最後にヒトラーから勲章をもらうときのエピソードも、冗談を通り越して笑ってしまうような話で、それまでの小説のリアリティがガラガラと崩れていきそうになる。スターリングラードでアウエは死んで、その後の話は彼の魂が見ている夢なのではないかと、そんな妄想すら浮かんだ。

いずれにしても、信念に基づいて強欲な金貸しの老婆を殺し、同時にその妹も殺してしまった19世紀のペテルスブルクに住むラスコーリニコフは、後悔の念に苛まれるとともに、娼婦ソーニャに諭されて自首するし、「悪霊」のスタヴローギンや「カラマーゾフ」のスメルジャコフは自殺するが、ナチズムという信念に基づいて無数の人々を虐殺したアウエはこううそぶく。

「殺す者は、殺される者と同じように人間なのであり、それこそが恐るべきことなのだ。あなたがたは、わたしは人を殺したりしないだろうと言うことは決してできないし、そんなことは不可能であり、せいぜいのところこう言えるだけだ、わたしはひとを殺さないようにと望んでいる、と。わたしだってやはりそう望んでいたし、わたしだってやはり健全で有益な人生を送り、人間たちの中のひとりの人間、他の人々と対等な人間でありたいと思っていたし、わたしだって人々の共同の活動にわたしなりに貢献したいとおもっていたのだ。」(上巻34ページ)

人類の歴史には数え切れないほどの凄惨な出来事がある。そして、それらの当事者の思いは結局この通りなのだと思う。

すさまじい小説だった。



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ローラン・ビネ「HHhH」

2014.10.18.22:55


HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)
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ローラン・ビネ

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1980年代中ごろ、深夜に放送されたドイツのTVドラマ「ヴァンゼー秘密会議」というのがあった。ネットで検索をかけるとケネス・ブラナーが主演した同じ題材のアメリカのTVドラマ「謀議」は引っかかるけど、ドイツの方はほとんど紹介がないですねぇ。YouTube にはあるけど、字幕なしのドイツ語版と英語吹き替え盤。興味があれば、Wannseekonferenz で検索かけてください。

このヴァンゼー秘密会議というのは、ざっくり言えば、ナチスの高官行政官が集まって、ヨーロッパ中のユダヤ人をいかにして絶滅させるか、その際の担当部署や協調関係を確認するための会議だった。これ以前にもすでにユダヤ人の殺害はたくさんあったようだが、あくまでもユダヤ人をドイツ国内から一掃、つまり移送するというのが計画の本筋だったらしい。この会議のあと、600万と言われるユダヤ人大虐殺が本格的に行われていったわけである。

しかし、ナチスがやったユダヤ人虐殺のことを考えると、なんでナチスは第一次大戦に従軍してドイツのために戦ったユダヤ人たちも含めて(有名なアンネの日記のアンネの父親も第一次大戦で従軍している)、老若男女みんなひっくるめて殺しちまったんだろう、と疑問を感じるんじゃないだろうか? だって戦争中の人間なんて戦力だよ。ドイツ軍の軍人にすれば兵力が増えたわけだし、殺すのだって弾が必要だし、毒ガスで殺すとしても開発製造に手間がかかるだろうし、敵に向けて撃つべき弾をなにやってんだ?と思わない?? しかもこのヴァンゼー会議で決められたのは、ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることが戦争以上の最優先事項だという確認だったんだから、いよいよ呆れるしかない。たとえ戦争に勝つことが多少遅れても(負けても、という発想は彼らにはなかったようだ)、ヨーロッパのユダヤ人を絶滅するほうを優先するって、なんかわけが分からないよねぇ。

だけど、それ以前のことを考えると、ヒトラーはユダヤ人に対する人々の憎しみをかきたてて、国民を統合していったわけで、もしヒトラーが反ユダヤ主義じゃなければ、なんていう前提はありえないわけだ。げに、人間誰しも持っている差別意識、恐るべし。

さて、そのヴァンゼー秘密会議を主催したのがラインハルト・ハイドリヒという「金髪の野獣」と言われた男。この男はナチの高官で唯一暗殺された人物だ。その暗殺計画と実行、そしてその後の顛末を描いたのがこの小説、と前振りが長いこと 笑)

舞台はチェコのプラハ。主役はイギリスのチェコ亡命政権によって派遣されたチェコ人とスロバキア人の軍人二人で、この暗殺事件は有名だし、その後のナチの報復によってリディツェという村がひとつまるまる地図から消えてしまったことも有名だと思う。

この小説、作者がいわば手の内を明かしている。この暗殺事件を物語ると同時進行的に、書いている今も語られるっていう、非常に凝った構成で、まあ、書いている作者が物語り中で意見を述べる体裁の小説なんて、別に珍しくはないだろうけどね。ただ、ここで物語を中断して、頻繁に挟まれる作者の思いは、歴史的な事件を描くってどういうことなのか、司馬遼太郎的な描き方ってのは、どうなんだ、って、いろいろと考えさせられた。

小説は、ハイドリヒを暗殺するためにロンドンの亡命チェコ政府から送られたチェコ人とスロバキア人のパラシュート舞台の二人の軍人が、プラハの同志や協力者たちとともに、どうやってハイドリヒ暗殺までたどり着き、実際に計画を実行し(実際には暗殺は失敗したも同然なんだけど)、ハイドリヒはどう死に、その後、実行した軍人や協力者たちがどのように死んだかを追う。だけど、その話がハラハラドキドキの描写によって描かれるわけではない(最後のところは緊迫感があるけれど)。そして物語の最中に、頻繁にこの事件に関わる小説や映画の批評(場合によっては批判)が繰り返され、さらには歴史を描く作者の複雑な思いが吐露される。

「手の内を明かす」と上で言ったのは、たとえば登場人物たちの会話を描いた後に、こんな文章が続く。

この場面も、その前の場面も、いかにもそれらしいが、まったくのフィクションだ。(124)

そしてこう続く。

ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか! (124)

こう書かれちゃうと、もう歴史小説なんか書けないよねぇ。とは言っても、作者自身もそうしたフィクションをついやってしまい、たとえば、生まれたばかりのハイドリヒのことを想像するシーンなんかも挟まれる。そして上のような言い訳を繰り返す。自意識過剰なんだと言われるとそうかもしれないけど、果てはこんなことを書いて、作者の立場にいる自らを非難する。

こんな場面はどうしても必要なわけじゃないし、ほとんど僕が創作したようなものだから、残しておこうとも思わない。(249)

なにか堂々巡りのような、歴史を描くことの困難さがわかる話で、昨今はやりの「真実の歴史」とか言う言葉の無意味さを感じる。



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吉村萬壱「ボラード病」

2014.08.19.21:49


ボラード病ボラード病
(2014/06/11)
吉村 萬壱

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うーむ、こればっかりはネタバレしちゃうわけにはいかない。ストーリーはおろかテーマも言えない。

主人公は小学校5年の女の子。なんの予備知識もなしで読むと、ちょうどまんなかあたりから、少しずつ状況がわかってきて、ああ、こういう話か、と納得する。だから、是非予備知識なしで読んで欲しいところ。だからアマゾンレビュは要注意ね。結構ネタバレしてます 笑) かくいう僕も新聞の文芸欄だったかで題名だけ見ただけで、まったく予備知識なしで読みました。で、読み始めたらやめられなくなった。

表題のボラードって言うのは、桟橋にある、船の係留ロープを固定するための頑丈な鉄の棒のことらしい。みんなで一緒に波に揺れてなくちゃいけない。頑丈に動かないのは病気なんだ。

ちょっとカフカ的というかSF的というか。。。ただメッセージ性はものすごく強い、というか、そのままだね。でもね、今の日本という国は本当にカフカの世界みたいだし、一昔前のSFの悲観的な未来像がそのまま現実になっちゃってるからね。こんなブログを書いている僕もきっとボラード病だな。

前回書いた「原発ホワイトアウト」と比べて、小説っていうのはやっぱりこういうものだよね、こうじゃなくちゃ小説じゃないよね、と言いたいところだ。是非読んでみて下さい。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと努力しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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