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古川真人「ラッコの家」(ネタバレ)

2019.09.26.23:42



この作者は相模原事件について考え続けているというので、図書館で借りてきました。

表題作は、主人公は80前の老女で、一人称ではないけど、この老女の意識の流れのように、文章は句点を少なくしてズルズル続いていきます。九州地方で一人暮らしをしている主人公のところに姪たちがやってきて世間話をしていくんだけど、その合間にその現時点の出来事の延長のように過去の記憶や夢が混じり込みます。それがとても巧みで、心地よいです。例えば、寝入り端にラジオを聴きながら夢うつつで物を考えていると、ラジオは朝の番組をやっていて、自分が寝ていたことに気がつくなんていうシーン。

他にも、どこか映画的で、ベルイマンの「野いちご」を連想しました。そこにさりげなく姪の子供に全盲の子供がいて、そこに不要な人間というキーワードが出てきます。表題のラッコも上手い具合に最後のオチ?につながります。上手いです。

もう1つ収録されている「窓」(こちらの方が長い)という作品は道具立てがわかりやすいです。全盲の兄と暮らしている小説家志望の無職の青年が主人公で、兄は全盲ながら企業に就労しているので、主人公が兄の送り迎えを担当しているという設定(全盲の兄の描写が、全盲の娘がいる私にとっては「あるある」で(特に兄の友人たちとのやりとりの、どこかのんびりした悠長な感じ)、おそらく作者の実体験だろうと思います)。

主人公は兄のためを思って、近所で起きた孤独死についても、あるいは相模原の事件についても話題にせず、いわば「窓」を締め切ったまま、社会の不快な出来事を遮断して、兄を守ろうとします。障害者を守るという意識がぐるりと回って「差別」に繋がってしまうのではないか、ということに気がついた主人公が「窓」を開けるというとても気持ちの良い清々しい終わり方。

そして、「ラッコの家」であったような現実と夢がいつの間にか入れ替わっているような眩暈感が、ここでもありますが、こちらはクリストファー・ノーランの「インセプション」という映画にあったような多重夢的な感じで、この人の持ち味なのかもしれません。

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古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」(ネタバレ)

2019.07.03.20:56



1943年キスカ島を撤収した日本軍が置いていった4頭の軍用犬たちとその子孫の数奇な運命を、20世紀の戦争を舞台に描いた小説。発熱でうとうとしている間、目がさめると読んでいましたわ。

なにしろ波乱万丈のお話がすごい。現在(20世紀末)のロシアの元KGBの暗殺者と日本のヤクザとその娘のエピソードと、1943年から89年までのそれぞれの犬たちの子孫とその飼い主たちの人生・犬生が交互に描かれていて、その話がどれも冒険活劇みたいで面白い。しかも部隊もアリューシャン列島のキスカ島からアラスカ、アメリカ本土、メキシコ、一方ハワイや朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争と部隊も太平洋を越えユーラシア大陸の奥地まで。

出てくる犬も犬ぞりを引いたり軍用犬になったり麻薬探査犬になったり、はてはスプートニクで宇宙へ行ったライカ犬たちの末裔も混じってきて著者自身があとがきで「想像力の圧縮された爆弾」と表現しているけど、まあ見事に爆発しました。

犬ってやっぱり健気で見ててつらいわなぁ。私も子供の頃から犬は何匹か飼った。みんな雑種で庭で飼って、名前は最初の頃はずっとペスだった。最後に飼ったペスはフィラリアで血便で血まみれになって死んだ。もう2度と犬は飼わないと思ったのに、妹が結婚後父と母がポメラニアンを飼って、これにはペスという名前はつかなかった 笑) 今は前に書いたように、全く人馴れしない保護猫が一匹いる。こいつはみてて辛くならない。むしろいつか見てろよ、とっ捕まえてぐしゃぐしゃに撫でてやるからなぁ、と手ぐすね引いてる状態 笑)

閑話休題。文庫本の裏表紙には「エンタテイメントと純文学の幸福なハイブリッド」とあるんだけど、うーん、僕は純粋なエンタテイメントだと思う。まあ、純文学とエンタメの差ってなに?って言われると難しいけど、エンタメはある意味完結してしまっているのに対して純文学の方はそうではないっていう感じかな。結末はハピーであれバッドであれ関係ないでしょう。犬に語り掛ける口調で畳み掛けるような短い文章を連ねて、読みやすいし、人も犬もどんどん死ぬ。死ぬところの状況や気持ちや感情なんていう甘いものはまったくないハードボイルドさ。ただ、ものすごく波乱万丈の面白さがあるけど、最後の方、ちょっとよくわからないところもあるんだなぁ。

ここからネタバレ

人間の主役の一人、「大主教」と呼ばれる元KGBの暗殺のプロは旧ソヴィエトの体制に忠実を誓い、その結果としてソ連が崩壊した現在(1990年?)に憎悪を抱き、腐敗した社会を憎悪し、ロシアマフィアを次々と殺している、とそういう理解でいいんだろうか? だけどそれを日本のヤクザにやらせたのはなぜ?

それから、最後から二つ目の「1990年」と題された短い章で、「大主教」がこれまで訓練してきた犬を、ベルカをのぞいてすべて殺すシーンがあったけど、ヤクザの娘を閉じ込めた「死の街」の数十頭いる犬はあらためて訓練し直したのだろうか?なんかこの辺の時間的なつながりがぼんやりしてしまってうまく掴めてないのかな? 僕は。「大主教」の最後のシーンも犬に取り巻かれているわけだし、それは1991年のことで、その前の年にベルカをのぞいて皆殺しにしちゃったんじゃないの? どうもあの「1990年」の章がよくわからない。


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奥泉光「雪の階」覚書き

2019.06.10.23:25

雪の階

600ページ近い長編。1936年の2月末をフィナーレに華族の二十歳の娘笹宮惟佐子と幼い頃の遊び相手(おあいてさん)で女流カメラマンの牧村千代子が友人の心中事件の真相を追う小説です。

というと推理小説のように思われるかもしれませんが、日中戦争直前、美濃部達吉の天皇機関説をめぐる争いや英米派とドイツ派の確執、霊力を持つ女が率いる宗教団体や社会改革を求める青年将校たちが登場する重厚な小説です。

なので、推理小説とかミステリーの面がお話を引っ張っていくんだけど、それ以上に戦争前夜の雰囲気が味わえて、もしかしたらそれによってミステリーとしての集中度は少し薄まっているかもしれません。

それでも牧村千代子と記者の蔵原が鉄道を使って心中事件の足跡を追うところなどはミステリーの楽しさを味わえるし、一方で笹宮惟佐子(この華族らしい落ち着き払った美貌のリケジョには、途中からかなりびっくりさせられます)の方は机の前で推理を働かせる知性派で、その対称性も面白いです。

ミステリーとしての完成度も高いと思いますが、普通の推理小説とは違って、奥泉光特有の眩暈感も味わえます。そして現代日本を予言するような、しかしそれは純粋日本人を守るというナチスばりのレイシズムが絡んでくるところなどは現代日本の風潮に対する批判でもあるのでしょう。

だけど、それ以上に文体が素晴らしい。息の長い文章に、今ではあまり使わない戦前の用語が散りばめられ、時々そこに絢爛たる比喩が現れます。以前ここでも紹介した「シューマンの指」でもそうでしたが、この比喩の面白さだけでも、個人的には楽しかったですね。一つだけ引用しておきます。

「話の隙を見つけて、鹿沼に紅玉院と云う寺があると聞いたのですがと話の水門を開くと、ああ、ありますよ、と珈琲好きの記者はスイと水路へ泳ぎ入ってくる。」(327)

そこらに転がっている小説とはレベルの違いを感じさせる傑作だと思います。


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トルストイ「イワン・イリイチの死」

2019.05.30.23:39

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古典ってやっぱりすごいから残ってるんだよね。今の時代に合わないと言う人もいるかもしれないけど、これを読めば古典のすごさがわかるだろう。トルストイと言う人はドストエフスキーなんかよりもずっと冷酷な目を持った人だったんだろうなぁ。褒め言葉です。

学生時代からドストエフスキーは随分読んだけど、トルストイはほとんど読まなかった。なんとなくドストエフスキーの方が高尚そうな感じがしていた 苦笑)日本の小説家でも当時好きだった高橋和巳や埴谷雄高なんていう作家はドストエフスキーマニアだったし、なんとなくトルストイはもう一つ前の世代の白樺派とかヒューマニズムと繋がるイメージだった。若い頃には素直になれなかったから、ヒューマニズムなんて「臭い」って思っていた。前にも書いたように、それでもせめて「戦争と平和」は読んでみようと何度か試みながら挫折していた

でも20年ぐらい前、30代の終わり頃に「アンナ・カレーニナ」を読んだら、想像以上にモダンな印象で、意識の流れのような描写もあったりしてすごいと思った。

と言うわけで、正直にいうと、この小説はもう40年も前から読みたいと思いながら、読めなかった小説だった。死とは他人の死であって自分の死ではない。ここでも人々はイワン・イリイチと親しい人々ですら、彼の死と向き合おうとしない。これは実存主義哲学やハイデガーなんかでいわれていることだ。

イワン・イリイチの葬儀から話が始まり、彼の人生が語られるという映画的な構造で、彼の青春時代から恋愛と結婚、そして子供の誕生と夫婦の不仲というありふれた人生が語られる。子供が生まれ、職場での妬みや成功、あるいは友人たちとのトランプ遊びへの熱中、そして新居を手に入れて丁度を整えている時に梯子から落ちて腹を打つ。これがほぼ全体の4割程度のところで、そのあとは、その怪我が原因でどんどんイリイリの体調が悪くなっていく様子が描かれる。

イワン・イリイチは判事だからそれなりの地位にいるけど、死を前にして自分の人生は間違いだったと感じなければならない。でも間違いじゃない人生なんてあるんだろうか? 召使いの農民の純朴なゲラーシムは「戦争と平和」の農民兵プラトン・カタラーエフと同じく、トルストイの考える理想的な死生観を体現しているんだろうと思えるけど、全てをそのまま受け入れ、死に対しても目を逸らさないと言う態度は理念としては良くても実生活でなんでも受け入れて疑問を持たないことがいいことだと言う風につながりかねないんじゃないか。

それでもイワン・イリイチの最後は、やっぱり「戦争と平和」のアンドレイ・ボルコンスキーの死と同じような、なんとなく救われたような暗示で終わるのがホッとした。しかしすごい小説だね。多くの人が読むべきだと思います。

追記(6/1, 14:40)
FBでのコメントで、高級官僚やガリ勉秀才に読ませてやりたいですね、というコメントをもらいましたが、本当にそうですね。安倍がこれを読むとは思えないけど、そのバックでやりたい放題の連中には是非とも読んでみろ!と言いたい。ただ、ひょっとしたら秀才君たちはすでに読んでいるかもしれません。知識の一環として、読んだことがあるというアリバイ作りで読んだだけで、すでに忘れたかもしれないけど、もう一度読んでみてどんなことを思うか、ぜひ聞いてみたいなぁ。


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アンソニー・ドーア「すべての見えない光」

2019.05.10.23:59

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1944年、ドイツ軍がすでに敗色濃厚のフランスブルターニュのサン・マロの町で、アメリカ軍の爆撃により無線機器担当のドイツ人少年兵が地下防空壕に閉じ込められ、一方全盲のフランス人少女が砲撃に怯えながら自分の家の中で隠れている。彼らはその数日後に出会い、半日ほどでまた別れる。その合間に時代を遡って少年と少女の戦前からの人生が描かれ、彼らをつなぐものが説明される。

以下、ネタバレ含みます。

小説内の現在と過去を交互に描きながら、全体の接点がわかるようになっていくというのは、よくあるやり方で、拙ブログでも紹介した「ベルリンは晴れているか」でも同じようなことが行われていたけど、こちらは最終的に現在まで繋がってもっと込み入っているし、安易な謎解きを用意していない。

彼らをつなぐものは、つまり、少女の祖父が戦前にサン・マロから放送していた科学のラジオ放送、それを少年は妹と一緒に自分で組み立てたラジオで聞いていたのである。そしてそれが接点となって、のちに少年と少女が出会うことになる。ラジオ放送に代表される無線電波は、多分表題の見えない光のことなんだろうと思われる。

主な登場人物はそう多くないけど、どの人も主役にして良さそうな魅力がある。僕は特にこの小説のキーになるダイヤモンドを追う末期癌の上級曹長が、あんまり出てはこないけど気になった 笑)

少女の父はパリの博物館で鍵の管理をしていた。彼は娘と一緒にドイツ軍を避けてサン・マロへ移住するのだが、その際、博物館の秘宝の巨大なダイヤモンドを託される。それは父娘が匿われる大叔父の家の町の模型の中の一軒の家に隠される。このダイヤモンドを追って、上記の末期癌の上級曹長が登場するんだけど、最終的には彼はダイヤモンドを目にすることができるか、というのも、僕としては結構ハラハラした。

ただ、このダイヤモンドが最後どうなったのかが、よくわからない。最後まで読み終わってすぐにダイヤモンドはどうなったんだ? と思って少年と少女が別れるシーンを読み直したけど、これがかなり入り組んでいるし、謎めいている。このあたり、単純に謎解きしてしまうエンタメ小説とは決定的に違うところだ。

文体が現在形の短い文章を積み上げていくもので、正直に言ってちょっと読みづらい。それからドイツ語のカナ表記でフォルクゼンプフェンガーとかホイシャンと出てくるけど、これは絶対ヘン。フォルクスエンプフェンガーだし、ホイスヒェンだよ。まあ、大筋とは関係ないけど。

500ページ以上の長編だけど、少年のナチスのエリート養成学校(いわゆるナポラ)での学校生活も、出てくる校長や鳥の好きな親友、大男の上級生や少年の才能を認めて助手として優遇する教師など、古典的な少年小説のようだし、少女を取り巻く善意の人々や密告屋、第一次大戦のPTSDを患う大叔父や家政婦の老女たちのレジスタンス活動のエピソードも面白い。少女が点字で読む「海底二万マイル」の中からの引用やラジオ放送での文句、壁を通り抜けて現れる死者たちの亡霊も詩情がある。あっと驚くような結末ではないけど、最後の余韻も良いし、お話の展開も予想を裏切る。星4つというところかな。


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真藤順丈「宝島」覚書き

2019.03.27.14:42

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直木賞受賞作品。さすがに面白かった。描かれているのは、敗戦後アメリカ統治領となった沖縄で、米軍倉庫や基地から様々なものを盗み出す義賊の少年たち(戦果アギヤーと呼ばれる)と一人の少女、浮浪児らの、1952年から72年(沖縄本土復帰)までの人生が描かれている。嘉手納基地に忍び込んだ戦果アギヤーのリーダーが行方不明になり、残された仲間はその謎を抱え込んだまま、それぞれ戦後の沖縄で実際に起きた刑務所暴動やアメリカ軍機の小学校への墜落事件に巻き込まれ、最後は本土復帰が決まった後に起きたコザ暴動の騒乱の中でみんなが集まり、それまでの謎が明らかになる。

最近もドキュメンタリーになった伝説的な政治家瀬長亀次郎が何度も出てくるし、悪名高いキャラウェイ高等弁務官(翁長知事が官房長官の菅をキャラウェイ高等弁務官に重なると言ったこともある)も登場する。そうした歴史の中に虚構の主人公たちを紛れ込ませるやり方は、同じ直木賞の候補になった深緑野分の「ベルリンは晴れているか」とも似ているけど、所々に見られるユーモアや、何より「語り部(ユンター=地霊)」の語り口の軽快さが心地よい。そしてこの語り部が自らを「時間を往き来して、風の集積となって ー 現在を生きる島民たちに、先立った祖霊たちにも向けて、語りから出来事を再現する試みをつづけている」(p. 354)という設定にしているところが、何か叙事詩めいた壮大さを感じさせる。そしてそれが最後の最後にものすごく生きてくる。最後はえらく感動する。ある意味、謎解きはどうでもいいけど、この最後の命のつながりを感じさせるところに感動した。

面白い事ばかりではない。ここには僕ら本土の人間にとっては耳が痛い苦言もたくさん出てくる。そして現代の沖縄をめぐる状況も、当たり前だけどあぶり出される。この小説に出てくる悪役のダニー岸は現在もたくさんいる。これらのダニー岸たちの画策に乗せられないようにしたいし、できればこうしたダニー岸たちには一刻も早くご退場を願いたいものだ。


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オリヴィエ・ゲーズ「ヨーゼフ・メンゲレの逃亡」

2019.03.11.02:01

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ヨーゼフ・メンゲレ、アウシュヴィッツの死の天使と呼ばれた医師。過去様々な映画で悪の権化のモデルとして描かれ、戦後南米へ逃げ、とうとう逃げ切り天寿を全うした男。ダスティン・ホフマンの「マラソンマン」でローレンス・オリビエがやった「白い天使」は完全にメンゲレがモデルだそうだし、「ブラジルから来た男」ではグレゴリー・ペックがメンゲレそのものの役で出ているそうです(こちらは未見【追記参照】)。以前拙ブログで紹介した「顔のないヒトラーたち」は戦後のドイツで若い検察官たちがなんとかメンゲレを逮捕しようとして、一歩の差で逃す話でした。また「アイヒマンを追え」とか「検事フリッツ・バウアー」なんかも見てると、この小説がさらに楽しめるでしょう。特に「アイヒマンを追え」は作者のゲーズがシナリオに参加し、それが縁でこの小説を書くことになったんだそうです。

ところで、私はメンゲレと言われると、なぜかダーク・ボガードの顔がかぶるんですよね。

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左がメンゲレ、右がダーク・ボガード、って、並べるとあんまり似てないか 笑)

この人はアウシュヴィッツに到着した列車から降りてきたユダヤ人の選別をした人で、左へ合図すれば労働力として使え、右に合図すればそのままガス室へ(左右逆かもしれません)というのを自らやっていたそうです。また医者ですから医学実験に使える双子を集め、無茶苦茶な実験をいろいろやったそうです。つまり、ナチスとしてはゲルマン民族を増やしたいから、自在に双子が産めるようになれば人口が増えるわけで、そのための実験をしていたと言われています。

先日のT4作戦のパネル展示会でも感じたことだけど、医者ってのは良心を失うととんでもなく残酷になれるようです。何しろ人の死には慣れているわけですからね。ただ、この小説(!)ではそうしたアウシュヴィッツでのメンゲレの様子はほとんど出てきません。

仲介者を介してイタリアからアルゼンチンへ逃げ、たくさんのナチス戦犯たちとともに、偽名を使い分けながら、現地のナチス信奉者たちに庇護され匿われながら南米各地を逃げ回り、家族から見捨てられながら、最後に息子の非難にさらされるけど、後悔する事はついにないまま、ブラジルの海辺で心臓麻痺で死ぬまでを、かなり淡々と描いています。

しかし、こういう小説ってフランスからたくさん出てますね。ロベール・メルルの「死はわが職業」ではアウシュヴィッツの所長ルドルフ・ヘスを主役に据えた小説だったし、ローラン・ビネの「HHhH」はプラハでのナチスナンバー3のハイドリヒ暗殺を淡々と描いていました。この小説もこの「HHhH」の雰囲気があるかな。

あるいはここ何年かで一番圧倒された海外小説のジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」も、これは完全なフィクションだけど、元ナチス親衛隊の中佐の回顧という体裁をとった、実在の人物てんこ盛りのものすごい話で、作者はアメリカ人らしいけどフランス語の小説でした。

優秀な医者で、時代があんな時代でなければ、普通にどこかの大学で医学を教える教授になっていたのかもしれないし、普通に虚栄心や嫉妬心を持ち合わせた普通の人間として家族に囲まれ、普通の人生を終えたのかもしれない。だけど、とんでもないことをやらかした後も、何ら良心の痛みも感じず、アイヒマンと同じように命令に忠実に従っただけだと言い続けます。

アウシュヴィッツでの選別も、多くのユダヤ人をガス室に送らず救ったという論理で悪びれるところもなく、さらに、収容所を使って自分よりもうまい汁を吸った者がいるし、産業や銀行、政府組織が膨大な利益を上げていて、「制度がそれを奨励し、法がそれを許可した、殺人は国家の事業だったのだ」(p.157)と、全く後悔の様相なし。その上自分を匿ってくれた人たちに対しても感謝どころかバカにし、奥さんを寝取り、ダメだ〜こりゃ。

こうして描かれたメンゲレの生涯のあと、最後に著者はこんな言葉で小説を終えます。

「二世代か三世代が経過し、記憶が衰弱し、先の大量虐殺の最後の証人が去っていく頃、理性は陰り、一部の人間たちはまたぞろ悪を吹聴しはじめる。/夜の無限がどうか私たちから遠くにとどまっていてくれますように。/警戒、人間は影響を受けやすい生き物だから、人間こそ警戒すべきだ」(p. 239)

まあ、私が言いたい事は、またいつものことです。メンゲレは普通の人だったんですよ。それが空前絶後の悪を成した。メンゲレは私たちと違う人間ではなく、私たちだって、時代が時代ならメンゲレになったかもしれないってことです。まあ、私なんかはメンゲレみたいに優秀じゃないから収容所の看守程度だったことでしょうけど 苦笑)

登場人物も次々出てきて、どの人物が重要かが分かりづらく(私はメモしながら読むことをよくやりますが今回もそうしてみました)、正直に言って読みやすい小説ではないです。予備知識も、ちょっと偉そうに言ってしまえば、最初に書いた映画ぐらいは見ていた方が良いでしょう。

追記(2019年、3月22日)、このときは未見だったんですが、偶然TVで見ました。なるほど、グレゴリー・ペックの怪演ぶりはすごいわ。しかしここでのメンゲレの末路はやっぱりアメリカンな映画らしく都合よく描かれてます。どうもこういうところがね。アメリカ映画が好きになれない理由だな 苦笑)


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中村文則「逃亡者」から「公正世界仮説」について

2019.03.07.13:27

表題は東京新聞朝刊で連載中の小説です。現在ほぼ150回を超えたところ。中村文則らしくサスペンスフルなストーリーに、むき出しの現代社会批判が含まれてて、まあそういう所を小説らしくないと言うこともできるかもしれないんだけど、作者の思いは強く伝わってきます。何れにしても新聞小説というのをこういう風に毎朝欠かさず読んでいるのは記憶にないです。

昨日、今日(3月6日、7日)と「公正世界仮説」というのが出てきました。個人的には初めて聞く言葉だったんだけど、ウィキにも載ってますね。アメリカで実験結果から出された説のようです。以下、中村文則の小説の言葉で説明します。

「人々は、基本的に、この世界は公正で安全であって欲しいと願う。自分たちの世界が、理不尽に不条理に危険が存在する社会ではない方がいい。努力は報われ、悪いことをすれば罰せられる」

「だから広く広がる物語というものは、ほぼこの公正世界仮説に沿うように作られている。正義は勝ち、努力は報われ、悪は敗れる」

「だから物語では、(中略)何かの犯罪者が現れた時、その犯罪者にも過去に様々なことがあったり、同情すべきことがあったりすると、社会や人間という存在全体に関わる話になってしまう。だから犯罪者は生まれながらに特殊で、犯罪者的資質を備えた同情の余地のない悪魔と考えたくなる。そしてそういう犯罪者が罰せられると人々は安堵し、その安堵は時に快楽を連れてくる。罰した時に犯罪者にも同情すべきことがあると、モヤモヤとしたものが残りストレスだからだ」


これって拙ブログで言ってきたことと通じます。説ブログのモットーの漱石の言葉も同じことだし、拙ブログでは99.99%の普通の人と0.01%の悪人がいるわけではないと言ってきた(何回書いたか後で調べてみます 笑)のも同じことです。僕が死刑に反対だと言ってきたのも、南京事件やナチスの蛮行について書いてきたことも、すべて同じ土台をもとにしています。僕は言葉は知らないまま、この「公正世界仮説」というやつを散々批判してきたんだと膝を打った次第。

そして同時に現代の日本の社会を覆う雰囲気にも当てはまるような気がします。ここまであからさまに、露骨に、武田砂鉄の言葉を借りれば、「私たちは繰り返し、ねぇ国民のみなさん、これからあなたたちを騙しますからね、ほら、ほら、今、騙してますからねと公言」(「日本の気配」p.79)している政権に対して、ほとんどの人が無関心でいられるのはこの「公正世界仮説」というやつが働いている結果なんじゃないでしょうか?


この後小説ではさらにこんな風に続いていきます。

「気づいただろうか。公正世界仮説の危険は、この考えが人々の中で強くなりすぎると、弱者批判に転じることだ。世界は公正で安全だと思いたい。だから何かの被害者が発生すると、君にも落ち度があったのでは? と人は問うようになる」

「つまり死にゆく人間に公正世界仮説では「過失」を要求する。あんな失敗をしたから君は死んだというように。社会背景も消え、悪をなした人間は問答無用に悪人で(中略)公正世界仮説は社会の問題を個人に還元する」

つまり、自業自得という言葉であり、また21世紀に入って突然猛威を振るっている「自己責任」という言葉を支えているのがこの「公正世界仮説」と言えるでしょう。

そして結論です。

「つまり、公正世界仮説的な物語が世の中に広がると、その分だけ、世界や社会を改善しようと思う人間が減るのだ」

拙ブログで取り上げてきた映画や小説は、多分、あくまで多分だけど、この「公正世界仮説」を否定するものばかりだったような気がしてます。これに気がつくと、もう勧善懲悪の水戸黄門的ドラマや本は結構という気持ちになります。ただ、これを完全否定できない自分もいたりするんじゃないか、と思ったりしてね 苦笑)


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保坂和志「ハレルヤ」覚え書き

2019.02.17.21:05



この作家の小説を読むのは初めてでした。4編のうち3編は飼ってる猫の連作みたいな感じです。最初猫が出てきて、「花ちゃん」とか「チャーちゃん」とかあって、うーん、とちょっと引き気味で大島弓子の漫画を思い出したりしたんですが、何かが起きて、その結末がどうかなって、というわけではなく、ずらずらと話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、とりとめもなく続く感じ。いや、飼い猫の死を書いているので何も起きないわけではないんですけどね。

最初の3編は文章もまさにそういう感じで、普通なら句点(。)にするところを読点(、)でどんどんん繋げていって、慣れるまで、いや慣れても、「ん?」と読み返すことがよくありました。20世紀に書かれた4編目の「生きる歓び」だけは普通の文章なので、この作家の21世紀に入って開拓していったやり方なのでしょう。

例えばこんな文章はどうでしょう。花ちゃんとペチャはどちらも猫の名前です。

「花ちゃんはペチャはLアスパラギナーゼの効果が一ヶ月半くらい経った頃から鼻梁がまた少しずつ着実に腫れてきたが花ちゃんのリンパ腫は二ヶ月経ってもエコーで腫瘍らしき影は、週に一回、見るたびにどんどん見えなくなった。」(p.40)

って、最初の「花ちゃんは」ってどこにかかるの? とか、

「すぐにそれには飽きてこのあいだ奥さんが死んで、自分ひとりになって奥さんがいたときと同じように朝四時に起きてお粥を炊いている、妻がいなくなった家も私も空っぽだという手書きのハガキをくれた、カルチャーセンター時代の私より三十歳ちかくも年上の人にコインランドリーの外の道に出て電話した、すでにだいぶ高く上がっていた十三夜くらいの月を見上げながら30分近く話した、その人は、(後略)」(p.66)

この文章などは句点(。)で文章が完結するまで、まだこの倍の文章が続いています。

まあ、普通学校でこんな文章を書いたら直されるわなぁ。かなり時間をかけて迷路のような文章を作り上げていくんでしょうけど、これが慣れてくると、結構心地よかったりします。ただ、これ、外国語、特に主語をはっきりさせたい言葉だと翻訳できないよなぁ、と思ったりもしますが。

追記(2019、2/18、16:50)
読み終わったあとの昨夜猫の夢を見ました。うちにも全く人慣れしない保護猫がいるんですけど、夢に出てきたのは表紙の写真の隻眼の三毛の花ちゃんでした。小説は何か特別な事件があるわけでもないし、謎解きがあるわけでもないから、きっと内容の個別のところは忘れてしまうだろうけど、全体的な雰囲気というのか、あのいつまでも続いていきそうな文体というのか、あの感じはもしかして忘れられないものになったのかもしれません。

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中路啓太の小説「GHQ」

2019.02.07.23:29



副題はゴー・ホーム・クイックリー。日本国憲法が出来上がるまでの、GHQ民政局と日本の内閣や国務大臣らとの綱引きを、実在の人物内閣法制局官僚の佐藤達夫を主人公にして描いた「小説」。

途中まではアメリカの横暴さ、日本に自分たちの考える民主的な思想を押し付けようとする、ある意味植民地宗主国的な態度が強調され、現在の日本国憲法がアメリカによる押し付けであることが強調される。これでもって、現在の憲法は押し付けだから変えるべきだと主張する人も当然出てくるだろう。だけど、ここで描かれる佐藤達夫をはじめとする日本側の面々は、なんとかアメリカ側との折衝で意地を見せようと一生懸命である。果たしていま憲法を変えたがっている連中は、これらの人たちの真摯さを10分の1でも持っているだろうか? 同時に、この本の結末は押し付けだから変えるべきだという方向へは向かわない。

最後の方で白洲次郎が言う、押し付けかもしれないけどプリンシプルがしっかりしている、日本人にあれだけしっかりしたものが書けたかは疑問だと言うセリフや、主人公佐藤達夫の家の庭に、他ではなかなか育たなかったヨーロッパ由来のスノードロップの花が育つことを、日本の地にアメリカによる押し付け憲法が根付く比喩として語るラストから、著者の思いは伝わると思う。

現在の憲法の条文を見ながら読むことをお勧めします。


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大江健三郎「セヴンティーン」覚え書き

2019.01.27.22:17

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大江健三郎は今から40年前、遅れてきた読者でしたが、随分読みました。昔の新潮社の「大江健三郎全作品」シリーズもまだどこかにあるはず。ただ、「同時代ゲーム」以降はほとんど読んでません。その後障害者との共生を高く評価されてノーベル賞を取ったわけで、その後の大江もいつか読もうと思ってはいるけど、障害ある子どもの親となって、逆にどうも手が出ないままです。

今回、これまで全く読むことができなかった「セヴンティーン」の第二部「政治少年死す」が収録されているというのが売りの「大江健三郎全小説3」を市の図書館から借りてきました。

なぜこれまで読むことができなかったかというと、これが文芸誌に発表された時代に、右翼による殺人事件「風流夢譚事件」なんかがあって、この作品もその流れで皇室を愚弄していると批判され、出版社が腰が引けてしまったためでした。初出の雑誌も図書館から撤去され、あっても大江のページだけ切り取られていたりしたそうです。

今読んでみると、確かに大江健三郎の露悪趣味全開だけど、17歳の少年が持つ自己嫌悪と自己顕示欲、さらにはその自己嫌悪の社会(他者)嫌悪への変化、あるいは何か支えとなるものを求める気持ちなんかに、結構感動しながら読みました。

20歳ぐらいの頃って、何か支えになるもの、それで世の中を一刀両断できるようなものを求めていたのは実際覚えがあるし、僕の場合だと遠藤周作のせいで一瞬キリスト教にそれを求めようとした瞬間があったような気がします 苦笑)

ただ大江の場合、どうしてもよく理解できないのが性的なものと天皇制のつながり。大江の中でも「性的人間」も読んだ記憶があるけど、読んでる最中は面白いけど、なにこれ?だったと思いますね。今回も正直にいうと実感としてはよくわからない。右翼少年の存在の支えとなる天皇に対する愛が性的オーガスムにつながるなんて、??です。

しかし文章はうまいしやっぱりノーベル賞作家です。すごいわ。右翼少年の心情を揶揄したり愚弄するのではなく、そのまま真摯にストレートに描き出せるというのにびっくりさせられます。自分の信じるものとは全く相いれないことを信じている人間を主人公にして、しかもそれを否定的に描くのではなく、その人物になりきったかのように描くというのが驚きですね。自分の信じるものをそのままむき出しで書くことはできても(というか昨今の小説はそれが多い気がします)、こういうのってなかなかできないでしょう? 

大江健三郎、本当のことをいうと、昔読んだと言っても断片的なシーンで覚えているところがあるにしても、ほとんど忘れていて、例えば「芽むしり仔撃ち」なんて読んだ時にはものすごく感動して興奮して友人と話したはずなんだけど(話したことは覚えているんだけど)、ほとんど忘れています。時代も変わってしまったし、この「セヴンティーン」にしてもこの時代の政治的な熱はもう遥か昔のことだし、そもそも戦中生まれの人たちの、明日にも死ぬ覚悟というのは僕らには実感できないです。そういう意味では大江健三郎の初期の作品群は古典になってしまったのかもしれませんが、しかし、古典は面白い! 来月中にきっと「芽むしり仔撃ち」を読み直すぞ!と言っておきます 笑)


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深緑野分「ベルリンは晴れているか」覚え書き

2019.01.24.01:11


この小説、落選はしたけど今回の直木賞の候補だったのね。うーん、この本、昨日読み終わりましたが、ここに書くかどうか迷ったんですよねぇ。つまり、最初のうちはかなり面白い。ものすごく調べてあって、当時のベルリンが臨場感豊かに描き出されていると思ったんだけどね。ところがだんだん、ムリムリな感じが強くなってくる。そして最後に至っては、正直言ってなんかなぁ、と思ってしまったのでした。それと結末を知ってしまってから、もう一度最初のポイントとなるシーンを読み直すと、やっぱりちょっと整合性が取れないんじゃないかなぁ。というわけで、本来拙ブログで映画や本の話を書くときには「お勧めします」のスタンスで書いてて、決してクサしたりしないつもりでいるんだけど、今回は批判的なことをたくさん書きます 笑)

舞台装置は僕の最近の興味の中心、終戦直後のベルリンで、作者もものすごく勉強して、資料を読み込んでいるんだろうと思うんだけど、だんだんそうして仕入れた知識のウンチクがうるさくなってくる。どこかの書評にドイツ人が書いたものを翻訳したようだとあったのを読んだが、うーん、全くそうは思えない。例えば、自分の旦那を「ドイツ人としては珍しく云々」なんていう言い方をするかなぁ? 僕の頭の中では主役の少女は今の日本人の高校生のイメージだった。

そして、敗戦後2、3ヶ月の時点の知識としては、17歳の少女がユダヤ人がアウシュヴィッツで殺されたとか、障害者たちが安楽死させられていたということは知らないだろうと思うのだが。。。さらには最後の方でロマの少年が言うパレスチナ人を迫害するシオニズム批判も、ちょっと後知恵っぽい。

そう、この小説は詰め込みすぎだという印象も強い。現実にはただでさえ重たいエピソードが目白押しなのに、それを全部入れ込むのはわざとらしさ、作り物らしさが強調されてしまうような気がする。特に過去に拙ブログでも触れたことが随分詰め込まれている。試しにリンクも貼っておく。

例えば、ユダヤ人共同体での裏切り行為の話や障害者安楽死政策、いわゆるT4作戦、去勢されたロマの少年や「治療」させられた同性愛の少年、全盲のユダヤ人たちを雇って救おうとした自らも全盲のオットー・ヴァイトの話も出てくるし、戦後アデナウアーの片腕となり批判を浴びたナチのグロプケのユダヤ人改名リストまで出てくる。最後の方では「ベルリンに一人死す」のモデルのハンペル夫妻のビラまで出てきた。

小説の内容は、主人公の17歳の少女がソ連軍の依頼でポツダムへ行かなければならなくなるんだけど、彼女に同行するのが「ユダヤ人」の元俳優。彼ら二人がハラハラするようないろんな目に遭いながら、果たして目的地に着いたらどうなるのか、という話が、少女の一人称で書かれ、その合間に主人公の少女が生まれた1928年からこの小説の始まる直前までを三人称の文体で書いた「幕間」と題された話が挟まる。

僕が面白いと思ったのは圧倒的にこの「幕間」の部分だった。これはちょうどナチスが台頭していく時代だが、これは現代日本の社会とも重なるような恐ろしさおぞましさを感じさせられた。例えばこんな文章はどうだろう? 国の名前を変えたら、こんなことを言っている奴って現在の日本にもたくさんいそうだ。

「軍備を整えるのは平和維持に役立つからね。一度も争わずに領土を取り戻せるのもそのおかげさ。フランスやイギリスだって恐れをなしてるじゃないか。総統は全くすごい御方だよ」(p.203ー4)

というわけで、ムリムリミステリーの謎解きじみた結構にする必要があるのかなぁ、と言うのが正直な感想。そういえば同じような感想をこの作者の前作?「戦場のコックたち」でも感じたのでした。今回はリンクだらけ 苦笑)

***追記***
やっぱり言ってしまいます。この小説の時代設定に興味があるのでしたら、本の最後に参考文献として載っているハンス・ファラダの「ベルリンに一人死す」をお勧めします。こちらの方がずっと面白いし圧倒されるし、小説としての作りも上だと思います。

***追記 2(1/26)***
昨晩の東京新聞に直木賞選考の経緯が書かれていて、やはりそこでもミステリー仕立ては不要だという選考委員の話が出てました。そうだよね〜。 笑)


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トルストイの「戦争と平和」本と映画の覚え書

2019.01.07.23:10

若い頃、なんどか読み始めては挫折したトルストイの「戦争と平和」、とうとう昨日読み終えました。去年の7月終わり頃に読み始め、ピエールの父ベズーホフの死のところを読んでいたら私の父が亡くなり、ひと月ほど中断なんてこともあったんですけどね。それ以外にも昔から速読が苦手なので、結局最初のページを開いてから最後のページを閉じるまで5ヶ月以上かかりました 苦笑)

さて、手元にあった昭和の時代に購入した新潮文庫版で読み始めたんですが、途中で岩波文庫で新しい翻訳が出ていると知り、それを見たらコラムや、何よりも地図が付いていて、こちらの方がずっと理解に役立つおまけが多く、2巻目からはこちらで読み出したんですが、どうもどこか違和感。なんかどうもしっくりしないんですよ。で、また新潮文庫版へ戻って、そちらで読み続けることになりました。
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その後も時々あちこち読み比べてみたりしたんですが、岩波の方が訳語が説明的という感じなのと、会話の感じが少し軽い気がしました。ただし、最後のエピローグの第二章、トルストイの歴史観が述べられているところは岩波版の方が読みやすく分かりやすかったですね。

ところで、昔の挫折の原因はピエールとアンドレイ、ナターシャらのお話の部分に挟まるトルストイの歴史観に退屈したからだったんだろうと思うんですが、今読んでみるとかなり納得いくところが多いです。トルストイは一人の英雄の決断によって歴史が動いたわけではなく、人々の総和が歴史を動かしたと言ってるわけで、ナポレオンですら歴史の道具扱いですが、単純化をいさめているだけのことだと思えば、そんなに難しいことを言っているわけではないですし、今の時代にもしっくりくる話です。

また、自由な意思で行うことが人間に本当にできるのかという話なども、それに対して責任が問えるのかと、思わず自己責任という言葉を連想しながら読んだりしました。

ただ、これだけの長編だから仕方ないかもしれないけど、僕としては、ピエールと決闘したり、フラれた腹いせにナターシャの兄ニコライと賭けの勝負で大金を巻き上げたり、最後はパルチザンとして大活躍するドーロホフ、だけど捕虜は取らない(皆殺しにする)と豪語するドーロホフ、暴れ者で決闘屋のくせに、老母と障害のある妹と一緒に暮らしていて極めて優しい息子であり兄であるドーロホフ、なんとも魅力的なこの悪党がその後どうなったのか知りたかったところですが 笑)

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さて、本を読んでいる最中の去年の秋、このDVDが近くのブックオフにあるのをたまたま見つけて即断。このソ連版の「戦争と平和」は大学生の時に初めてオールナイトで見た映画でした。その後だったかその前だったか判然としないんですが、ある年の大晦日から元旦にかけてTVでの一挙放送もありました。最初に原作を読もうとしたのもこの頃だったんじゃないかと思います。

当時、ヒロインのリュドミラ・サベリーエワの可憐さに圧倒されましたね。この人、その後イタリア映画「ひまわり」でも出ていました。ロシア戦線に送られたイタリア兵のマルチェロ・マストロヤンニが負傷して、現地のサベリーエワに救われ、夫婦になっているところへ妻のソフィヤ・ローレンが彼を探しにやってくるという内容で、一面のひまわり畑がバックの大号泣映画 笑)でありましたが、ソフィヤ・ローレンとサベリーエワじゃあ、俺だってサベリーエワだわなぁ、とえらく納得したものでした 笑)

「戦争と平和」に戻ると、同時にソ連ロシア映画特有の叙情性がいいです。例えば重傷を負ったアンドレイが運ばれるシーンでは子守唄が流れ、それをベッドで聞く幼子のインサートショットが挟まったり、馬車で移動するシーンで延々と林の梢の流れる様を写したりします。こういうのを退屈だと思う人もいることでしょうけど、それはハリウッドのアクション映画に慣れすぎているんでしょうね 笑)

また空撮が多いのもこの映画の特徴かもしれません。特典映像で見るとワイヤーロープを張ってカメラを滑らせてとっているようです。今ならドローンで簡単に取れるだろうし、そもそもCGを使えば簡単なんでしょうけど。

大軍団同士の戦闘シーンの臨場感や迫力ある移動撮影もソ連映画特有です。ふと、タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」のタタール人が攻めてくるシーンを思い出しましたが、どちらも音楽をつけているのがオフチニコフというソ連映画音楽界の重鎮で、そのせいもあったかもしれません。

ただ、最後に見てから40年以上?たっていると思うので、ずいぶん印象が違うところもたくさんありましたね。

ところで、ハリウッド映画にも「戦争と平和」はあります。ヒロインはオードリー・ヘップバーンですが、ピエール役のヘンリー・フォンダは完全にミスキャスト、というか、原作でもピエールは悪い仲間たちと騒いでペテルスブルクを追放処分くらったり、人生の指針にフリーメイソンの結社に加入したり、かと思うとまたまた放蕩生活に戻ったり、外見もデブの冴えないやつなんですが、ハリウッドではやっぱり美男美女じゃないと許さないんでしょうかね?

それなのに、もう一方の主役アンドレイはメル・ファーラーがやっていて、こちらはむしろ悪党ヅラというか、ちょっとアンドレイにしては品がない 笑)そもそもストーリーのポイントだけをつまみ食いしているような映画で、ヘップバーンが見たければおすすめだけど、トルストイの原作に色濃く出ている歴史の流れ、時間の流れのような雄大な茫漠とした感動がありません。そもそも最後にかつて決闘したドーロホフとピエールが仲直りするのなんか、えらく御都合主義的な感じがしてね。だからハリウッド映画は嫌いだ! なんてね 笑)

まあ時間的にも7時間のソ連版はハリウッド版の2倍以上の時間をかけているし、国家レベルの予算で作られたし、本編もナレーションでの説明が結構多いので、しょうがないんだろうけど、それでも先に書いたような自然描写や叙情性の点ではソ連版の圧勝だと思います。


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ウィリアム・ゴールディング「後継者たち」(ネタバレ)

2018.07.14.00:01



読みづらい小説です。最初の10ページほどはまるで頭に入ってこないです。原因は訳にあるのではなく、ネアンデルタール人の視点から風景や情景が描かれているからなんですが。彼らがクロマニョン人(ホモ・サピエンス)と出会って滅ぼされるというお話です。視点がネアンデルタール人で、しかも彼らは人を疑うことを知らない平和的な人種なんですが、それに対して道具を使うクロマニョン人たちはラストでも暗示されるように仲間を殺すような新人類です。

また、ネアンデルタールの視点ではクロマニョンたち及びその子孫である我々の欲張りぶり(=独り占めしたがったり、ひいては環境破壊を引き起こす)も見ていて、こんな批判的な描写もあります。

「なぜこの連中はこういう食物を全部持っていくのだろうか(。。。)それにまた役に立たぬ木まで持っていくとは?」(p.134)

ただ、最初に書いたように読みづらい。例えばクロマニョンたちが使う弓の描写は棒を持っていてそれを曲げると小枝が飛んでくるというような具合(ネアンデルタールたちはそれを贈り物と思ったりします)。その他にもよく分からない描写がたくさん出てきて面食らいます。

でも、そんな読みづらさを我慢して読み続けると、さすがに「蠅の王」のゴールディングですからね。ノーベル賞作家ですからね。最後の最後にびっくりするような語りの視点の変化が立て続けに行われます。

訳者あとがきによると、人類の原罪という言葉が出てきますが、確かにアダムとイヴの楽園に住んでいたネアンデルタール人に対してクロマニョン人たちは楽園を追放され人殺しをしてカインの印を付けられた人たちなんでしょう。




実はこの小説の前に「ネアンデルタール人の正体」と「ネアンデルタール人、奇跡の再発見」という本を読んでいました。いや、前にも書いたけど、2万数千年前、ジブラルタル海峡に臨む洞窟で最後のネアンデルタール人が死んだそうです。なんかものすごく悲しいイメージで、その話を読んで以来ネアンデルタール人に興味が湧いてて… いつか現生人類もどこかで最後を迎えるんだろうなぁ、と思ったりするわけです 苦笑) それもこのゴールディングの小説にあるように、独り占めしたがる我々の性(さが)がいずれ人類を滅ぼすのではないかと…

それはともかく、上記の2冊によれば、実際のネアンデルタール人たちはこの小説(1955年)に描かれているような、犬みたいな嗅覚の、類人猿みたいな外見ではなかったようだし、石器も使っていたことがわかってきています。

また、ネアンデルタール人のDNAは、アフリカ南部の地域を除き、ほぼ世界中の人類のDNAの中に2%ぐらい残されているそうなので混血はなされていたわけです。この小説の中でもネアンデルタール人の少女と赤ん坊はクロマニョン人たちに連れて行かれます。少女の方はどうなったのかよくわからないんですが、赤ん坊の方はどうやら大切に育てられていきそうですから、この小説が書かれた頃には混血の可能性を考えた人はあまりいなかったんじゃないかと思うけど、ゴールディングはそれも視野に入れていたのかな?


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北条裕子「美しい顔」

2018.07.07.00:40

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いろいろと物議を醸している北条裕子の「美しい顔」を読んだ。

野崎歓が選評で大絶賛しているけど、そこまでとは思わなかったけど、こういう小説を書ける人ってすごいと思うとともに、いろいろな意味で友達になりたくはないと思った 笑)

それは作者自身が受賞のことばで言うように、「小説を書くことは罪深いことだ」という言葉に現れていると思う。人の悪意を描くためには、作者自らも悪意を溜め込まなければならない。拙ブログで何度か書いた映画「炎625」のナチスの残虐行為をリアルに描き出すためには、監督自らがナチスと同化しなければならない。そしてそれによって傷つく人が出ても躊躇しない。そういう意味で小説に限らず、創作活動というのは罪深いものなんだろうと思う。作者は鉄面皮でなければ務まらない。そしてこの小説はそうした鉄面皮さが報われていると思う。

実際の震災後の様々なエピソードを知っているだけに、読むのが辛いところもあったが、それを別にして、一番強く記憶に残ったのは「本物の夜がやってくる気配」というところ。大きすぎる悲しみの直後には躁状態になっているけど、しばらくして我に返ったときに訪れる「本物の夜」という言葉に、ちょっと古いけど、何か実存的な不安とか恐怖を連想した。

いわゆる「再生」の物語なんだけど、再生のための触媒になる”教師より怖い奥さん”がキーになっていて、このおばさんをどう思うかで評価が変わりそうな気がする。僕はこのおばさんに今ひとつ納得できない。

東日本大震災の被災者の17歳の少女の一人称で描かれるマスコミに対する怒りと、それなのに、それに合わせて、マスコミが望むように演技する道化のような自分に対するねじくれた悪意の描写は、それほど目新しい視点だとは思わないけど、でも読んでいて、そうだよね〜と共感する。何よりこうした少女の体験や心情が完全な創作(作者は被災地に行ったことがないそうだ)だというのだが、この作者の怖いもの知らずの豪胆ぶりにたじろぐ。作品としてというより、作者と題材との関係という意味で評価が高くなりがちなのかな、と思ったりもした。


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パク・ミンギュ「ピンポン」

2018.05.05.19:12


韓国の小説です。最初の4分の3は主人公の中学生「釘」と無口な友人「モアイ」が毎日ボコボコに殴られ、いじめられる話で、そんないじめられっ子二人がが広場にある謎の卓球台で卓球に目覚めて成長していく話かと思いきや、最後は人類のアンインストールをかけて、とんでもない相手と卓球の試合をするという荒唐無稽な話になります。彼らを導くのがセクラテンというフランス人の元卓球選手。

この名前を聞いた瞬間、昔卓球に夢中だった私は即座にセクレタンのパクリだな、と思いましたね。1970年代後半だったと思いますが、このセクレタンという選手、結構な強豪選手でした。ここというところで勝ちきれず、世界チャンピオンとかには到底届かなかったんですが、その風貌が禿げ上がった頭と口ひげの端正な顔立ち、僕の頭の中でフランス人というとこの人の顔が思い浮かんだものでした。(訳者あとがきによれば、やはりセクレタンから取ったとのこと)


さて、いじめられている「釘」は、変な虚無感と諦念と孤独感を感じています。多くの人々に囲まれながら、多数派に入れない劣等感を感じている前半は、どこかで読んだことがあるような、何か懐かしい感じがしました。子供の頃、僕は別にいじめられていたわけではなかったけど、こう言う茫漠とした感情に、何となく悲しくなったことがあったはずだと、読みながら何度か思いました。

そこに時空を超えた卓球人を名乗るセクラテンが登場、いじめられっ子たちを導く救世主の登場かと思いきや、ハレーすい星が地球にぶつかることを熱望する心折れてしまった人たちの集まりとか、友人「モアイ」がジョン・メーソンという小説家の書いた小説の内容を延々と語る挿話が挟まり、何となくハチャメチャになっていき、最後はもうめちゃめちゃ 笑)人類の存亡をかけた卓球の試合が行われることになります。しかもその相手たるや。。。 笑)

というわけで、このいじめられっ子の感情のリアリティと変なユーモアとわけわからんぶっ飛び具合やリズムの良い文章に、内容は全く違うけど、何となく韓国映画の「オールドボーイ」を連想しました。




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遠藤周作「沈黙」と二つの映画「沈黙」(完全ネタバレ)

2018.02.23.00:47

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昭和49年、値段970円 笑)

スコセッシが作った映画「沈黙」を見ようと思って、実に40年ぶりに遠藤周作の原作を読み直した。主人公のパードレロドリゴが山中を逃げまわるシーンは、唐突に大岡昇平の「野火」を思い出した。初めて読んだ当時と比べて、人々の犬死の歴史をずいぶんたくさん知ったから、この本のテーマ「神の沈黙」については、ロドリゴにあまり感情移入できないし、ある意味で空々しくも感じたけど、しかしそれでも、最後のクライマックスシーンは感動した。

棄教すれば、拷問を受けている貧しい信者たちを救うと約束されたロドリゴに向かって、すでに棄教したフェレイラが言う「もし基督(キリスト)がここにいられたら(。。。)確かに基督は、彼らのために、転んだだろう」というセリフとか、「践むが良い」と語りかけてくる踏み絵に描かれたキリストは、キリスト教から遠く離れた現在の僕にも迫ってくるものがあった。

だけど、先日紹介した映画「9日目 ヒトラーに捧げる祈り」での主人公の神父は、ロドリゴまで極端ではないにしても、反ナチの信念に背いてルクセンブルク大司教を説得すれば、家族はもちろん収容所にいる神父たちも解放されるという条件を出されるが、それを拒否して自らダッハウ収容所へ戻っていく。史実による統計によれば解放されなかった神父たちの半数は死んでいるのだ。遠藤流のキリストならどう言っただろう?

で、映画は1971年に篠田正浩監督で作られた「沈黙 SILENCE」と2016年のマーチン・スコセッシの「沈黙 サイレンス」の二つがあり、どちらも名作とされている。

最初に言いたいのは、両方ともにポルトガル人神父が英語を喋るという違和感。特にスコセッシ版は浅野忠信の通訳不要だろというぐらい、日本人がみんな英語を喋っちゃう。牢屋の中の農夫の娘まで英語を喋っちゃうんだからね。なんか英語万能主義みたいな嫌な気分にさせられた。

まあ、字幕に集中しちゃえば問題ないんだけどね。でもパライソって言っているのにパラダイス?と聞きなおしたり、コンヒサンと言われてコンフェッションと言い直したり、やっぱり違和感出ちゃうでしょ? だから最後のフェレイラとロドリゴの対決で、「神の子(サン)」と太陽(サン)とをかけた話も、おいおい、この二人ポルトガル人じゃないのかよ、と突っ込みたくなる。

原作では、裏切り者キチジローのセリフはこんな感じだ。「パードレ。なあ、聞いてつかわさい。」それが映画では「プリーズ・リッスン・トゥー・ミー」と言われる。なんか、雰囲気が全然違うっしょ?

原作に近いのは篠田版で、原作のセリフがそのまま使われているところが多い。ただ、原作には全く出てこない女郎の三田佳子とか、岡田三右衛門夫妻の拷問と妻岩下志麻の棄教、夫の処刑のシーンは、あえて言うなら、この女っ気のない原作に色を添えるために美女二人をムリムリ出演させたんじゃないの、と勘ぐりたくもなる。また、細かいことを言い出せばきりがないけど、そんな中でも、一人逃げるロドリゴが女物の赤い着物を着るのは原作にはないし、なぜなのかわからない。

これに対してスコセッシ版は篠田版が完全にカットした冒頭のマカオで渡航前、キチジローと会うシーンが入り、この映画でのキチジローの役割の重要性が最初から示されている。しかし、この重要性は最後に、原作にない棄教後のロドリゴの生活の中で、キチジローが彼の下男として働いていることになっていて、原作以上にキチジローに重点が置かれている。

どちらも最後は、正直に言うと気に入らない。篠田版では棄教したロドリゴが妻として与えられた岩下志麻を抱くシーンで終わる。しかもそれを先に棄教したフェレイラが覗き見ている。だけどこれでは、原作が暗示する、カトリックが説くイエスとは違うイエスをロドリゴが信じていることははっきりしない。

原作では棄教したロドリゴが井上様に向かって自分がが戦ったのは自分の心にある切支丹の教えだったと言う。つまり彼は、カトリックの教える強い者のためのイエスではなく、弱い者のためのイエス、踏み絵を踏んでいいんだよ、と教え諭すイエスに対する信仰を獲得したことがわかる。

一方でスコセッシ版では、ロドリゴが老衰で死に、火葬にされるときに、手に十字架を持っている。おそらく彼の妻(妻との関係は非常にドライだったようである)が彼の手に握らせたのだろう。完全にキリスト教を棄てた生活を送りながら、最後の最後に彼なりのイエスに対する信仰を持ち続けたことが暗示されているわけである。その意味ではこちらの方が原作の意図に忠実なのかもしれない。ただ、日本人になり、キリシタン屋敷で生活した彼の下男にキチジローがついていたというのはちょっとやりすぎなんじゃないかなぁ。

俳優陣はどちらもいい。特に今回見て、篠田版の通訳をやったと戸浦六宏の声の良さが印象に残った。キチジローは篠田版のマコ岩松よりスコセッシ版の窪塚洋介の方が、弱く哀れでずるくて卑屈でみっともない姿がよく出てたと思う。ただ、ふんどし一丁で逃げて行く後ろ姿に、ちらっと竹中直人が垣間見られたりしたけど 笑)

井上様は篠田版の岡田英次は立派すぎだけど、スコセッシ版のイッセー尾形も、そのいやらしさの表現、うまいのは認めるけど、やりすぎじゃないかなぁ。原作にある、常に手をさすっているというのは岡田はやっているけどイッセー尾形は、そのような老人らしさを、立ち上がる時に部下の手を借りるという形にしている。

主役のロドリゴは篠田版では無名のアメリカ人がやったが、スコセッシ版のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は最後の方では明らかにキリストの顔を思わせる。途中で水に映る顔がキリストの顔になるシーンもあり、ロドリゴ=キリスト、キチジロー=ユダが強調されているのだろう。それに対して強い信者として波に打たれて4日かかって息絶える塚本晋也のあばらの浮き出た姿もいい。篠田版では塚本がやったモキチやじいさまはあまり大きく扱われない。

フェレイラは篠田版では丹波哲郎がやってて、ちょっとね 笑) スコセッシ版ではリーアム・ニーソン(シンドラーだわ)。ロドリゴと最初に会う瞬間の演技はとても難しいものだと思う。原作ではその瞬間のフェレイラについてこんな風に書かれている。「その目に卑屈な笑いと羞恥の光が同時に走った。それから今度はむしろ挑むようにわざと大きな目でこちらを見下ろした。」

この感じはニーソンの方が雰囲気が出ていたかなぁ。丹波哲郎は、やっぱりどれだけ髭をくっつけたところで、丹波哲郎だってわかっちゃうしね。

映画としては風景や村の様子など、どちらも素晴らしい。音楽は篠田版では武満徹に対してスコセッシ版では音楽の印象はほとんどない。

というわけで、原作は言うまでもないけど、映画もどちらも面白いです。しかし、原作を読んだ上で見ると、面白さも倍増するし、わかりやすくなるでしょう。特に篠田版ではロドリゴと同僚の一緒に日本に密航したガルペ神父の分かれるシーンが説明も何もなく唐突に分かれているので、原作を読んでいることが前提で作られているのかもしれません。



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フィリップ・カー 「ベルリン三部作」

2017.11.18.18:15

作者はイギリス人、しかもヴィキで調べたら生まれた日が僕と全く同じで、それだけで親近感が湧きました 笑)

ナチスの時代前後を舞台に、ドイツのフィリップ・マーロウみたいな、思いっきりハードボイルドな探偵(途中刑事にもなります)ベルニー・グンターが活躍するミステリー小説です。まとめて一月ほどかけて、読み終わりました。




時代設定が僕にとって非常に関心のある時代で、この時代についてはそこそこ読んできているつもりなので、いろいろと面白く読めました。実際の事件や実在の人物が次々に出てくるし、当時の雰囲気もよく出ているんだろうと思います。ただ、主人公のベルニー・グンターの饒舌なユーモア感覚が、あんまりドイツ人らしくないかなぁ 笑)それから、翻訳はとても読みやすくていいんですが、ただ一つ、主人公の私立探偵グンターが、実在したナチの高官のハイドリヒやネーベとタメ口なのがどうも気になります。

3つのお話はどれも、1936年のベルリンオリンピックや1938年のズデーテン侵攻からミュンヘン会議を経て、有名な水晶の夜と呼ばれるユダヤ人迫害暴動、そして戦後の48年の元ナチのグループ(これは映画「愛の嵐」とか「将軍たちの夜」とか「オデッサ・ファイル」なんかを思わせる)と米英とソ連の権力争いからベルリン封鎖へ至る事件をうまく配して、ミステリーとしても面白いと思います。

ただ、僕の印象では、昔読んだチェコのパヴェル・コホウトの「プラハの深い夜」というのが、ナチス占領下のプラハでチェコ人の刑事とゲシュタポの検事が協力しあってサイコパスを追うという話で、圧倒的な面白さと感動があって、どうしてもこれと比べると、読後の感動の割合がかなり負けてるかなぁ。 笑)


ところで、この3部作には続編があって思わずまとめて買ってしまいました。こちらは今の所3冊ですが、本国ではさらに続きが出ているようです。少なくとも今年の残りの読書はこの残りの3冊ですかね。




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佐藤亜紀「スウィングしなけりゃ意味がない」

2017.07.05.23:05



ナチスドイツ時代のハンブルクで、ナチにより退廃芸術として禁じられたジャズにうつつを抜かす青年たちを描いた日本人作家による小説です。

津島佑子の「狩りの時代」に、ヒトラーユーゲントの話が出ていました。そこから当時の青少年たちについて知りたいと思って読んだ「ナチ独裁下の子どもたち」という本で、スウィング団という反ナチ(?)グループがあることを知り、それを扱った日本人の小説が出たと聞いていて、やっと読んだのでした。

このスウィング団、思想的な反ナチではなく、自分たちがここちよいと思うものを禁じられたことに対する抵抗として、ゲリラ的にパーティーを開いたりしますが、主人公たちは富裕層のボンボンで、兵隊にもならずに済むような恵まれた奴らです。

しかし、そんな彼らも時代とともに。。。

ハンブルクというと、第二次大戦中にドレスデンとともに、連合軍の激しい爆撃にさらされたことで有名です。昔、20世紀の時代にはシムシティという、街を作っていくゲームがありました。僕は友人のところで数回やったら飽きましたが、その中にハンブルク1944というのがあって、ハンブルク市の火災を消し止めつつ、街を復興させていくシミュレーションになっていました。

そういうわけで、この小説でもハンブルクが爆撃にさらされるシーンが出てきて、このシーン、私は電車の中で読んでいて乗り過ごしました 笑)

事実に基づいた小説で、時代背景や史実をかなり克明に追いかけ、細部の道具だけのリアリティもあるし、実在の人物も出てきたりして、すごい小説だと思うんですが、文章がどうにも気に入らない。特に会話の間の地の文が、主語のない、いわゆる体験話法みたいな文章を多用していて、僕としてはとても読みづらく感じた。

会話自体も現代の若者ことばで、ちょっと違和感を感じます。特に最初の数十ページは、読むのやめようかと思ったぐらい。ただ、読み終わった今はやめなくてよかったと思っています 笑)

登場人物たちの名前も覚えづらく、冒頭の地図と登場人物のページをコピーすることをお勧めします。さらに、その登場人物一覧も前半の人物がメインなので、後半には、ここに名前が出てこない重要人物も出てきます。書き加えていった方がいいでしょう。

読みながら、70年以上前の話ではなく、近未来ディストピア小説ではないか、と思ったりしたけど、今の時代にこういう話を書くことに、作者には、言うまでもなく、なんらかの含意があるのでしょうね。



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津島祐子「狩りの時代」について

2017.01.20.09:22



津島祐子が2016年2月に死ぬ直前まで書いていた小説だそうだ。戦前から福島の原発事故後までの時間で、仙台の北村家と山梨の小森家の様々な登場人物が登場する話なので、家系図を書きながら読むことをお勧めします。この二つの家族は次男と次女が結婚していることでつながりがあるのだけど、おじさんやおばさん、いとこたちが次々に出てくる。

テーマは人々の無意識のうちにある差別意識だ。少なくとも著者の娘の津島香以のあとがきによれば、生前、津島祐子本人がそう言ったそうだし、去年の夏に起きた相模原事件のことを考えると、作者がもう少し長生きしていれば、この事件を経た後に、この小説にどんな風に手を入れていっただろうな、と考えさせられる。

差別がテーマと言ったけど、声高に差別を否定しているのではなく、人間というのは必ず差別意識を抱えている、それをどう自覚するか、そして自覚したら、それをどうするか、ということを問うているのだと思う。

主人公(と言っていいのだろう)の絵美子は兄が障害者で(この障害者の造形がけっこうリアルで、僕などは読むのがけっこう身につまされた)、その兄をめぐっていくつものエピソードが出てくるし、戦前に日本を表敬訪問に来たヒトラーユーゲントの逸話やナチスの障害者安楽死作戦といったベタな差別の話から、アメリカへ渡った原子物理学者の叔父の名誉白人的な立場や、絵美子が行う仙台の同世代の親類たちと都会の子である自分との比較など、いろいろなところで差別意識が暗示される。

例えば、こんな文章はどう読めるだろう?「かわいらしい子どもがいれば、天使のようだ、とひとはいう。天使は、醜い顔をしていてはいけないのだ。」(23ページ)

かわいいかかわいくないか、頭がいいかよくないか、役に立つか立たないか。人間は皆それぞれ違う。それはそれぞれの個性だと言われる。違うから区別するわけだが、しかし、区別にこのような価値付けをすれば差別につながっていくだろう。区別と差別の違いは、実はものすごく微妙だ。

それはともかく、それぞれの登場人物の作り込みがすごく、それぞれにものすごいリアリティがある。そして、それぞれのエピソードが時空を超越して、思い出の断片のように次々と出てくる。それが時代順ではなく、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。だから年表を作るとさらに楽しめるかもしれない。

確かに作者が完成させる前に死んでしまったため、全体のまとまりが足りないようにも感じられるし、特に最後のとってつけたような叔父の夢の話などは、まだまだこれからまとめるべき話だったんだろうと思わせるけど、逆にこの叔父の夢の話は、作者自身の最後を思わせて痛切でもある。

差別意識は誰にでもある。前に書いたように、障害児の父親である僕にだってある。だからしょうがないといって、その意識を解放してしまえば、人間の質が間違いなく下がると思う。常に自らの内にある差別意識を自覚し、それを恥じることをしなければならないんだと思う。そういう差別意識というものを考えるためにも、この小説を読む意味はあると思う。もちろん、意味なんて考えなくたって、人物造形やエピソードのリアリティが面白いし、小説を読む楽しさを満喫できると思う。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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