いやあ、ネタバレしちゃあ絶対まずいです。と言いながら、ストーリーはネタバレしないようにしますが、これから書くのはある意味ネタバレに近いかなぁ。。。これから観るつもりの人は今回は読まない方がいいかも 笑)
すごい映画でした。三部構成の筋(ストーリー)がすごい。風景がすごい。俳優がすごい。安藤サクラ、永山瑛太、田中優子、そして子役の二人、特に小さい方。子役ってみててちょっとハラハラするんだけど、そういうところがまるでなかったです。
最初の30分ぐらい、ほとんど安藤サクラの一人舞台みたいで、まるで人形みたいな、生気のない永山瑛太と田中優子の首絞めてやりたい! と思ったんですが 笑) みごとにやられましたね。
最初の謎を後半に回収していくストーリーは、カンヌで脚本賞を取ったというのも納得でした。一方で見る前は全く気にしてなかったし、見始めてもすっかり忘れていたんですが、クィア賞も取ったというのは後半になってようやく思い出し、ああ、なるほどと思いました。
でも、僕が小学校ぐらいの時には、クラスの女の子より、むしろ男の子を好きになったけどね。なんて、問題発言か? 笑) たとえば、トーマス・マンの小説なんて、今の時代に読む人なんかほとんどいないんだろうけど、「トニオ・クレーガー」の気持ちは普通に共感できた。そういう人は珍しくなかったと思う。もっとも「ヴェニスに死す」だと、ひく人の方が多いかもしれないけど 笑)
さて、映画の題名だけど、「怪物だーれだ」に惑わされてはいけないと思う。視点を変えればそれぞれにそれぞれの言い分があるわけで、そういう意味では自分の視点だけでしか物事が見えないのに、相手の、あるいはその他の人たちの視点を無視して我を通そうとするのが「怪物」なのかなぁ、と思ったりしました。まあ、ある意味怪物だらけの「今」を明確に批判しているとも言えるでしょう。
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VIDEO 午前中の吉祥寺の映画館は、2割と言うところでしょうか。年齢層は、自分も含めて老人ばかりでした 笑)
しかし、一昨日の選挙で、日本の6割以上の人は日本が統一教会に乗っ取られようが、防衛費増強によって生活がキツくなろうが、原発事故で住めなくなろうが構わない、少なくとも今は構わないと思っているってことがわかっちゃいましたからね。
政治のやってきたことをまるで天変地異の避けようがないことのように見ている人が多数派なのかもしれません。そんな中で私が票を入れたれいわの候補者が当選したことは、市議会とはいえ、ほんの少し嬉しかったけど、、、
というわけでこの反アベ映画、安倍のやってきた印象操作と嘘と改ざんとゴリ押し、ヤクザや統一教会とのつながり、マスコミへの脅しの手口がよくわかります。本人がやってる感を醸しだすことこそ大事と言ったアベノミクスも、岸田があっさり失敗を認めちゃう。
しかし、冒頭安倍の献花に長蛇の列を作った人たち、安倍を対韓国で思いっきり持ち上げていた右翼の太ったおじさんらは、統一教会の韓国原理主義的反日傾向と自民党の繋がりを、どう折り合いつけてるんだろう? ホント、謎です。
途中顔を隠した官僚が語る「総理大臣のテロ」とか、マスコミの中にも二重スパイみたいなのがいて、リークするとそれを上司にチクるようなのがいるなんて話も、頭クラクラしました。
まあ、見ていて怒りがまた沸々と湧いてきましたわ。ただ、安倍の父方の祖父は戦時中大政翼賛会にも属さず清貧を貫いた平和主義者だったというのは、ちょっと驚きました。母方の妖怪・岸信介とは雲泥の差なのね。また、父親の晋太郎が下関のコリアンタウンの人たちの力になっていたっていうのも驚き。要するに安倍晋三ってのは妖怪に乗っ取られてしまったわけね。
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正月早々、この水谷豊主演の刑事ドラマがあちこちで話題になっていたので、たまたま娘が予約録画していたので見せてもらった。このTVドラマを見るのは初めて。
なるほど、最後は映画「新聞記者」
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3525.html みたいに、実際の政治や社会の出来事を暗示させるような台詞があって面白かった。特に最後の水谷豊の大物政治家を一刀両断にする台詞がたいへんな迫力だった。
「彼らはあなた方のように何かあればすぐに病院の特別室に入れるわけではない」なんて台詞は、即座に橋下徹とか石原なんとかを連想させるし、「あなた方にとって低賃金で働く労働者は国民ではなく物というわけですか」なんていうのも、今の政治状況をちょっと冷静に見れば、政府が国民のことなんかまるで考えてないことはコロナ対策やオリパラの強行開催でわかったはずだ。
「12歳の少年が何もかも受け入れて、諦めてこの世は自己責任だという。困ったときに助けを求めることすら恥ずかしいことだと思い込まされている。それが豊かな国、公正な社会と言えるでしょうか」なんて、少し前の自民党の片山某や青山某なんている議員たちがさんざん煽ったことを思い出させる。
そもそもが20世紀には存在しなかった「自己責任」という言葉。この言葉が大嫌いだとは、説ブログでは散々繰り返してきた。
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-2860.html だけど、この言葉って相変わらず大きな力を持っていることは、この前の選挙で、まさにこの言葉を体現しているような政党の「維新」が躍進したことからもはっきりわかる。同時に、この言葉は決して人々の間から自然発生的に出てきて広まった言葉ではなく、まずはイラク人質事件のときの役人や政治家やマスコミから出てきたものだろう。むろんそこには新自由主義とかネオリベと呼ばれる経済優先の、金儲けのためには法律を変えることすらするような権力者たちのやり方が反映されていたんだろう。
「自分達の利益しか考えない愚かな権力者たちがこのような歪んだ社会を作ったんですよ」というセリフも、普段から山本太郎の街宣なんか聞いてて、政治が社会と、そしてひいては個人の生活と直結していることを意識していれば、納得いくセリフだ。脚本は太田愛という人で、この人の「天空の葦」という小説の噂は少し前から聞いていて、読んでみようと思っているところだった。
だけど、確かに水谷豊の最後のシーンはすごいセリフだし、格好も良いし、カタルシスを感じさせはするんだけど、だけどなんかガス抜きみたいになってしまって、現実の政治に対する怒りにまでつながっていくのかなぁ。。。
まあ、もちろんTVドラマ(にかぎらずアートや芸術)にそこまで求めるのはどうなのか、とも思うけどね。それと、ドラマの雰囲気としてどうもあちこちの一瞬のおふざけが過ぎるような気もする。緊張感がどこか足りない気がするんだけど。。。まあ、これは僕の好みの問題かもしれないけどさ。なんか最後の子供の母親の改悛ぶりも、見ていてこそばゆい。お子ちゃま向けのドラマという感じがもろに前面に出ている。まあ、個人的にも、こうしたスカッとして終わりってのがね、あまり好きではないんだよね 苦笑)
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アマゾンプライムで見ました。この映画、途中で見るのをやめる人もいるでしょうけど、この映画を忘れられなくなる人もきっといるでしょう。わたし? もちろん。。。苦笑)
今回も多少ネタバレしてますが、アマゾンプライムの説明ではすでに「ほとんどの人々が消えていく中、遂に(主人公の)ターニャは(アンドロイドの)レオナに見守られながら最期の時をむかえることになる」とあるし、そもそも題名が題名だし、ネタバレに怒る人は、たぶん途中で見るのをやめる人でしょう 笑)
近未来の話。いくつもの原発が爆発して日本は住めなくなっている。人々は順次受け入れてくれる海外へ難民となって出ていくことになっていて、現時点では第七次の海外移住を許可された人が発表されている。この順番は政府が発表するもので、どういう基準かははっきりしないが、貧乏人や前科のある者、一人暮らしの者などは後回しにされているのではないかと、人々はうすうす感じている。
主人公は10歳の時に両親と共に南アフリカから難民としてやってきた30代(?)の白人女性ターニャで、両親はすでになく自らも病気に苦しみながら、身辺の世話をしてくれるアンドロイドのレオナを話し相手に人里離れた一軒家に住んでいる。そんな彼女を心配してくれる友人のバツイチ女性の佐野さん(知らない女優だけどこれがとてもいい)と、恋人の在日韓国人のサトシが時々彼女を訪ねてくれる。説ブログとしては、サトシが人のいなくなった街のことを語る回想シーンでリカンベント(寝そべるように乗る自転車)に乗っているっていうのもポイントが高くなるところ 笑)
この映画はアンドロイドが出演したことで有名になったようだけど、途中ほとんどそれはどうでも良いことのように思われた。ただ、ラストのシーンではこのアンドロイドに泣かされる。
映画全体が、ターニャの住む家の窓辺に置かれたソファ、その窓から見える荒涼としたセピア色の風景、動きの少ない長回しのシーンと自然の音を強調していて寂しい雰囲気だし、ボソボソとモノローグのようなセリフが語られ、ときどきアルヴォ・ペルトを意識したような(一瞬ペルトの音楽かと思った)悲痛な音楽が流れる。
放射能に汚染された土地で、ターニャは病気もあってまもなく自分は死ぬということを知っている。佐野さんもサトシもいなくなり、避難も拒否した絶望的な状況の中、アンドロイドのレオナは日本語、フランス語、ドイツ語の詩をターニャに読んで聞かせる。この設定がとてもいいとおもうけど、途中の詩を読むシーンがそれほど多くのないのが残念。もっといろんな詩を読んでほしかった。
でも、最期の方で、瀕死のターニャに詩を聞かせるシーンがある。このシーンは画面が歪んで、ジャンプカットも交えながら、すでにあの世の世界なのではないかとおもわせる痛ましさがある。ヴィム・ベンダースの「ベルリン 天使の詩」でも、事故で瀕死の男が周囲の人に対する悪態や後悔を考えているところへ、天使が頭をゴッツンコすると、男の独白が詩句の断片のような美しい言葉だけになるシーンがあるけど、僕もその時が来たら、ぜひ天使に頭ゴッツンコをしてほしいと思う。
その後、ラストへ向かう窓辺のソファーで裸で横たわるシーンは、色調も構図もワイエスのヘルガの絵のようで、窓からの風でレースのカーテンが揺れるところなども、おそらくワイエスの絵を意識しているんだろう。とても美しいシーンだった。
「被害者かどうかということなら、被害者だと思います、でもだから加害者じゃないかどうかは、すいません、こたえられません。」
これはアンドロイドが発するもので、ターニャが難民となった理由として南アフリカでの逆差別と白人虐殺があったと語るシーンでのもの。それを聞いた恋人の在日韓国人のサトシが、それって本当なの?といいながら気を悪くして帰った後に、南アフリカでの白人であった自分たちは被害者だったのかと問われてアンドロイドはこう答える。
これは最近流行りの歴史相対主義で、だから在日韓国人のサトシは気を悪くしたのだろう。だけど、このセリフは差別のことだけでなく、原発そのものに対する日本人への言葉としても当てはまるのかもしれない。
***追記 2021,4/26, 12:30
うーん、見てから3日経ってるんですが、ときどきふと思い出しています。けっこう忘れられない映画の一つになってるかも。。。
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この映画は30年以上昔、地上波の深夜に見ました。その後21世紀になり、長くDVDも出てないし、内容的にもTVでやることはないだろうなと思っていたんですが、地上波ではなかったけどCSで少し前に放映してくれました。
うーん、歳月とは恐ろしい。こんな低予算映画だったんだ。昔見たときは何しろ圧倒されて、その圧倒されたと言う記憶だけが強く印象に残っていて、細かいところなどあまり覚えていなかったんですが、今回見ると出演者も少ないし戦争のシーンはほとんど当時の記録写真やスチール写真の連続です。ただ、最後の左幸子の「お父ちゃんは天皇陛下に花をあげてもらうわけにはいかねえ」というセリフだけははっきり覚えていたんですけどね(ただ、もっと怒りに震えながらこのセリフを言うような記憶があったけど、今回見ると怒りより悲しみですね)。
多分映画を見た後に原作を読んだんだろうと思います。それもあって映画の印象が強まったんでしょう。いや、日本の反戦映画としてはトップクラスだと思いますよ、言うまでもなく。何より原作にはない左幸子の最後のセリフが、よくこんな映画撮れたなとびっくりしたものでした。
この映画と原作の関係は、ちょうど芥川の「藪の中」と黒沢の「羅生門」と似ています。シニカルな芥川が三者三様で曖昧なままにしたものを、ヒューマニストの黒沢は事実をはっきりさせてラストにつなげて、ほんのわずかな希望を感じさせながら終わらせたのに似て、「軍旗はためく下に」(原作は陸軍刑法によって死刑になった兵士たちを扱った中短編5篇の連作で、映画はそのうちの2篇を組み合わせています)も、多くの関係者がいろんなことを語りながら確かなことは何もわからないままの原作に対して、映画では事実がはっきりするとともに、関係した元憲兵が罪の意識から自殺同然の死に方をすることになります。
今回当時読んだ文庫本が出てきたのでパラパラと拾い読みしたんですが、原作では上層部のいい加減さに対して、赤紙一枚で戦場につれてこられ、地獄の中に放り込まれた一般国民の怒りが宙ぶらりんのままのような気がするのですが、大衆芸術たる映画ではそういうわけにはいかず、きっちりと結末をつけたんだな、と思ったりしました。ただ、結末はつけたけど、責任者を追い詰めることは全くできないまま、中間管理職のような憲兵だけに責任を押し付けたことに対する怒りが、ラストの左幸子のセリフに象徴されるのでしょう。
しかし、
最近も吉田裕の「日本軍兵士」という新書を紹介した けど、日本軍ってアメリカの物量に負けたというけど、それはそうなんだろうけど、同時に軍隊内部の無責任体質が大きかったような気がします。自分から進んで戦地に来たわけではない一般庶民を見殺しに、いや死ぬことを強要し、「敗戦になって、アメリカ軍に降伏した将官や佐官連中が、その後は自衛隊の幹部になったり政治家になったりしている」(講談社文庫版p.51)わけで、「ゆきゆきて神軍」の奥崎みたいな元兵士が日本ではどうしてもっと出てこなかったのでしょう。戦後の日本で、かつての上官に対する恨みによる殺人事件がもっとあってもよかったのに、と、日頃死刑制度反対と言っている身には恥ずかしいことですが、そんな怒りを感じるのでした。
ところで、最近も
拙ブログの「南京事件」を扱った本を紹介したエントリー にコメントしてきたネトウヨ氏がいました。それを見ていて感じたのは、戦争のリアルなイメージがまるでつかめていないということでした。そういう人には戦後に書かれた様々な小説を、少しは読めよ、と言いたい。
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「逃亡者」、小学生の頃に父がTVでかかさず見ていたものでした。僕は断片的な記憶がありますが、当時はまだ10歳ぐらいで、西洋人の顔の区別があまりつかず、どの人が悪者かもわからず、それほど楽しくなかったんじゃないかなあ 笑)その後再放送をやって、主にそれを見たんだと思います。そこでは、追われている主人公の医師リチャード・キンブルが、よせばいいのに逃亡先で様々な困っている人を助けて間一髪のところで逃げるというワンパターン。追う刑事が冷酷な奴で、立場が変われば完全にサイコパスの犯罪者でしょ! っていう感じでした。
その後浦沢直樹の漫画「モンスター」を読んだときに、逃亡先で起こる人情話と追いかける刑事のサイコパスぶりに、これって「逃亡者」じゃん!と思ったものでした。あ、また読み直したくなってきた 笑)
というわけで今回のTV版リメイク。録画しておいて見ました。渡辺謙と豊川悦司が主役でしたが、うーん、もう少し若い俳優がよかったんじゃないかなぁ 笑)渡辺謙がトレーナー姿で川辺を逃げるところなんか、ちょっとおじいさんおじいさんしててねぇ。豊川も昔のシャープな感じが、ちょっとダヨーンのおじさんみたいな下膨れ顔になってて、冷酷に主人公を追い詰めるサイコパス刑事っていうにはちょっと。。。苦笑)実際最後はサイコパス刑事じゃなくなっちゃうし。
それと、やっぱり昔は監視カメラもドローンも、ましてや顔認証システムもないし、広いアメリカですから逃げ続けられるわけだけど、今の時代、そういう悠長なドラマ運びにはできないからねぇ。そういう意味ではよくアレンジしたと言えるのでしょう。ええ、まあまあ楽しめました。
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拙ブログとしては珍しく日本映画、しかもチャンバラ映画です 笑) この映画、リメイク版の稲垣吾郎が悪辣な殿様をやったのを先に見ていて、いつかこっちも見たいと思っていました。少し前にTVでやったのを録画してやっと昨夜見たわけです。稲垣吾郎の殿様もとんでもない悪党だったけど、途中自分の血を見ると怯えたりする割に、最後はやたらと勇ましくなって、ちょっとバランス悪いなぁ、と思ったものでした。
しかしこの映画、ラストの集団チャンバラが有名らしいですが、僕は、どうしようもない上司を持った部下の悲哀を連想しましたね 笑)ええ、ええ、もちろん昨今の政治がらみの事件を連想したわけです 笑)
明石藩の藩主松平斉韶(なりつぐ)は暴君で、老中が自ら腹を切って訴えた訴状を根にもち、老中の一族郎党を皆殺しにしたり、尾張藩の家老の息子と妻を斬り殺したりやりたい放題のサイコパス殿様。しかし斉韶は将軍の弟であることから処罰できない。そこで江戸の老中の丹波哲郎は旗本の片岡千恵蔵に斉韶の暗殺を命じる。で刺客を十三人集めるわけ。
一方明石藩では配下の切れ者の鬼頭半兵衛が早くも刺客たちの動向に目を光らせる。この人は良識的な人で、藩主がいわゆるサイコパス的な暴君だということも承知していながら、職務のために権謀術数をめぐらし暴君に忠実に仕えるその姿に、はい、みんな想像つきますね、森友の図式を連想しましたよ 笑)
サイコパスの松平斉韶は言うまでもなくあの人ですね 笑)そしてそれを知っていながら、職務のために献身的に暴君に仕える鬼頭半兵衛はサガワさんでしょうか 苦笑) そうなると冒頭斉韶の暴君ぶりを死を持って訴えた老中は、もういうまでもありません。
現実の世の中でもこの映画のように暴君の殿様が成敗されるといいんですけどね。
これ最初に書いたように2010年にリメイクされているんだけど、来週の28日夜にNHKで中村芝翫主演でリメイクTVドラマが放送されるようです。早速予約入れました 笑)
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市川崑の有名なドキュメンタリー。拙ブログでは何度か書いたことがある。この映画を、多分僕は小学校の時に全校で講堂で見たような記憶がある。東京オリンピック当時僕は小学校3年。千葉の登戸(ノブト)に住んでいて、家は東京湾が見える崖の上にあった。崖の下には湾岸道路が走っていて、そこを聖火ランナーが走るというので、学校で声援しに行った記憶もある。僕は小学校3年の3学期に転向するんだけど、ちょうどその頃から、家の前から見えていた海は埋め立てが始まったんだった。
さて、このドキュメンタリー、その後も何度かTVで見ている。少し前にTVで放映されたのを録画しておいた。で、見て、結構あざとい作り方をしているな、と思った。聖火ランナーを見ようとみんなが背伸びして一生懸命上に伸びようとしている瞬間にカメラは彼らの足元をアップで映す。そのほかにも被写体としてやたらと美人ばかり映る。合間に、海外には通用しないだろうけど、ON(王、長嶋)や皇太子妃の正田美智子がなんの説明もないまま映ったりする。
また、映される競技もかなり偏っている。馬術やホッケーや水球なんかは通り一遍の、一応写しましたからね、という感じで、数秒しか映らない。そしてどこが勝ったかもわからない。その一方で陸上競技や体操、日本が活躍した重量挙げや柔道や体操競技、女子バレーの映る時間は長い。同じバレーでも男子バレーは全くなかった。
でも、やっぱり何度見ても震えるシーンというのはある。例えば砲丸投げの選手たちが砲丸を投げるまでのせわしない動き(多分ルーティンワークなんだろう)、他人の目など全く気にしない集中しきった時の顔、スローモーションで捉えた選手たちの歪んだ顔、こういうのを見ちゃうと、前からなんども言っているように、どんなに素晴らしく演技していても、スポーツ映画ってのが全く見るに値しないものに思えてしまう。
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この映画、実は去年の暮れに仕事の後観に行こうとして、映画館で、さあチケットを買おうと思ったら財布を忘れてて、しかもその時は落としたかと思って大慌てで家に帰ったのでした。朝から夕方まで、昼は弁当を持って行ってたから財布の確認を全くしておらず、家に電話してもたまたま家人は不在。家へ帰るまでの電車の中、ネットで「財布を落としたら」なんて項目をチェックして、家にたどり着いたはいいが、今度は鍵を持ってない、まるで笑い話でした。しばらくして連れ合いが戻ってきて家に入ったら、見事に鍵と財布が机の上に置いてありました 苦笑)
というわけで、その後はタイミングが合わず、そうこうするうちに東京では2箇所、しかも一日一回の上映という状態になってしまいました。当初は結構人が入っていたようですが、今日の平日の池袋、10人いなかったかなぁ。。。
だけど面白かったですね。以前
「新聞記者」という映画を拙ブログでも紹介しました が、今回のドキュメンタリーの謳い文句は「映画『新聞記者』は序章にすぎなかったー」です。ただ、あちらはフィクションで、エンターテイメントとしてとても面白い映画でしたが、こちらはドキュメンタリーなので、面白さの質はだいぶ違うと言って良いでしょうね。
主役の望月衣塑子記者のスタミナとメンタルの強さに恐れ入る。彼女が駆け回り追いかけるのは映画「新聞記者」でも出てきた伊藤詩織さんや
前川喜平 さん、他にも籠池夫妻、辺野古の土砂に赤土が混ざっていることや宮古島の弾薬庫、そして何より、望月記者を有名にしたスガ官房長官の記者会見の場でのやりとり。途中東京新聞にかかってきた老人の「望月を殺す」という脅迫電話まで出てくる。
だけど、このドキュメンタリーが撮られた時にはまだどうなるかわからなかった、伊藤詩織さんの民事裁判もまずは結果が出たし、当時はまだ誰も知らなかった最近話題のIRカジノ法に絡んで中国企業から金をもらっていた大臣なんかも出てくるわけで、このドキュメンタリーは現在進行形なんだな。
監督は森達也。一年ほど前に森達也は籠池夫妻のドキュメンタリーを撮っているという噂を聞いたりしていたんだけど、どうやらこの映画のことだったんだね。ところどころで森達也ファンなら誰でもぴんと来るモンタージュが挟まれる。イワシの群れの瞬間的なインサートショットが何度か入る。人間は群れる動物だ、群れになれば強い敵にも立ち向かえる、しかし群れになれば暴走する、と森がいろんなところで言っていることだ。
それからフランスがナチスから解放された後、ドイツ兵と関係した女性たちが髪を剃られて坊主にされた写真が繰り返しインサートショットで映される。最初は禿げた後頭部だけが瞬間挟まるシーンが2、3回あって、その後このシーンについての説明が入る。(僕はこの写真(たくさんある)を見ると、聖書の中の「お前たちの中で罪を犯さなかったものだけがこの女に石を投げろ」というイエスのセリフを思い出すんだけど、これについてはまた項を改めて。)髪を剃られて辱められた女を周囲の人々は、おそらくはののしり声を上げながら笑顔で楽しげに見物している。
森は何度も官邸での記者会見の映像を撮ろうと画策するけれど、結局果たされないまま、最後、丸川珠代の応援演説に来た菅官房長官と望月記者が接近遭遇するところで幕となる。
人間は弱い生き物だから群れて外敵から身を守ってきた。しかし、群れることで見失うことも多い。そんな時、「王様は裸じゃん」と言える人が絶対必要なんだろう。ましてや、マスコミの人間はそういう人間でなくてはならないはずなのだ。このドキュメンタリーの題名にある i の文字。一人称単数の主語を意味しているわけである。
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実はこのドキュメンタリー、先日書いた
「サタンタンゴ」 と同じイメージフォーラムで1週間前に見たものです。
副題は「日中15年戦争・元皇軍兵士の告白」で、14人の元兵士たち、いろんな階級の兵士たちが、自分たちが中国でしたひどいことを語ります。軍医もいれば士官や一兵卒もいます。しかし、2001年公開なので、ここに出てくる元兵士たちはみんなすでに鬼籍に入っていることでしょう。
この映画をみて、ここで自分がしたとんでもないことを語っている老人達に、憎しみを感じる人はいないと思います。だけど、今では好々爺然とした老人達が語る内容はものすごいものがあります。そして、結局、拙ブログのモットーと完全につながります。つまり、
この世の中には0.01%の悪人と99.99%の普通の人がいるわけではない。普通の人がとんでもないことをするから、人間は恐ろしい。
本当に恐ろしいのは、偉そうなことを書いているこの僕だって、この14人と同じ状況に置かれたら全く同じことをしていただろうということです。
元兵士達が語る内容についてはすでに
似たような話をいくつも読んだ り、
TV で見たこともある し、
武田泰淳や堀田善衛の小説 や、
辺見庸の本でも似たような話は出てきます 。
だからこの映画の見所は個人的には彼らが語る内容ではなく、カメラの前で語っている彼らの姿でした。ほとんど普通の顔で、深刻ぶることもなく淡々と自分が行った残虐行為を語りながら、なんであんなことができたんだろうと訝る姿に圧倒されます。1つだけ上げれば、若い母親を井戸に放り込み、井戸の周りを泣き叫びながら右往左往する幼児も井戸に放り込むと手榴弾を投げ込んだことを、淡々と語る老人のギャップに愕然とさせられます。
何であんなことができたんだろう? その回答の1つは軍隊の中での理不尽で、陰湿極まりない上級者による新兵いじめにあったとされます。キューブリックの「フルメタル・ジャケット」でも同じように徹底的な罵倒と暴力によって新兵達が人間性を失っていきますが、日本の場合はそれにさらに、上官の命令は天皇の命令だということで理不尽度がアップします。さらにそこに差別感を増幅させた、中国人は人間ではない、という感覚が追加される。。。ナチスがユダヤ人やスラブ人を劣等民族扱いしたのと同じです。多分この2つが相まって、さらには相手が抵抗できない農民達であったことから、何でもできる万能感が彼らを無意味な殺人に駆り立てたのでしょう。
彼ら元兵士達は皆一様に、初めて人を殺した時の恐れと慄きを語ります。つまり、彼らは最初から人殺しではなかった。当たり前です。そして、それはきっと忘れられない記憶なのでしょう。だけどその後何十人、何百人も殺すうちに殺すことがなんでもないどころか楽しくなってくる。笑いながら今日は何人殺したかを仲間と自慢し合うことになる。恐ろしい話です。
観ながら、ここで
何度も書いたことがあるソ連映画「炎628」 や、有名なところでは「戦場のピアニスト」を思い出しました。日本軍がやったこととナチスの特別行動隊(アインザッツグルッペ)というSSのユダヤ人虐殺部隊がやったことは、何の変わりもなかったどころか、日本軍はそこに強姦が加わりもっと酷かったかもしれないわけです。少なくともアインザッツグルッペはユダヤ人をレイプはしていません。数が多すぎてそんな暇がなかったとも言えるのかもしれませんが。。。まあ、こんなことを比べても無意味でしょうね。。。
ただ、見ながら、中国にはアジア版の「炎628」を作る権利はあるな、と思いました。
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いやぁ、面白かった。エンターテインメントとしてのレベルが高い。色恋もなければアクションもないけど、ハラハラするし涙も出るし悔しさや爽快感や怒り。先入観として、もっと明確な安倍政権批判が出てくるかと思ったけど、それほどでもなかった。
いや、特に前半は最近の政治の劣化をそのまま写し取って、というか、実際にあった出来事を連想させるエピソードが組み込まれていて、よくこれを上映できたな、と思ったが、後半のメインストーリーは見事なエンタメ。面白かったあ。
しかし、10年前、20年前なら、この映画に描かれた社会は「未来世紀ブラジル」とか「1984」とかオーソン・ウェルズの「審判」に通じるようなディストピアSF映画だったんだろうけど、今は現実になってしまったんじゃないだろうか?
実際『悪の巣窟』(笑)内閣情報調査室の雰囲気はキューブリックの映画に出てきそうな気持ち悪いほどの清潔感。窓を閉め切った薄暗い部屋の中で無数のパソコンのモニターの明るさだけ。顔が影になって判然としない無数のスーツ姿の男女が無言でパソコンを相手にキーボードを叩いている暗い室内の雰囲気は一種カフカ的なおぞましさがある。
主役の女性記者を韓国人の俳優シム・ウンギョンがやったことは、最初はどうしても日本語の発声の癖が気になるんだけど、途中で彼女はアメリカ育ちだという設定がわかると、そのあとはそれほど違和感を感じないし、なによりこの役をやれる日本人女優はいないだろう。たとえば、もう一人の主役の松坂桃李の奥さん役の本田翼がこの役をやったら、と考えたら 笑)、シム・ウンギョンにして大正解だったと思う。
松坂桃李も演技を見たのは初めてだったけど、思っていた以上に良かった。シム・ウンギョンに情報を初めてリークするシーン、後ろについてくる彼女に電話で見張られていないか確認した後、振り返って彼女を見る一瞬の立ち姿の格好良いこと! そして最後のシーン、憔悴しきった顔で口だけが「ごめん」(たぶん?)と動く。
こういう映画は悪役が本当に憎たらしくないとエンタメにならないんだよね。その意味で内閣情報調査室の参事官をやった田中哲司という俳優もすばらしかった。これ以上ないだろうっていうぐらいの悪役ぶり。なにしろ改ざんもみ消しは無論のこと、一般人すら陥れてフェイク情報をばらまくよう指示する。主役の記者を電話で脅し、しかも自分は日本のためにやっているのだという信念をもっている。
最後、新聞はスクープで政権の目論見を暴くけど、悪役はそれほどショックを受けていないようで、最後に彼が言う、日本には形だけの民主主義があれば良いんだと言うセリフは、権力者たちの本音以外のなにものでもないだろうね。
昨日の初日三度目の回、吉祥寺の映画館60数席は満席でした。
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うーん、映画としての出来がそんなに良いとは思えませんでした。ギャグもやや滑り気味だし、たとえば韓国映画だったらもっといろんな意味でパワーがあるだろうな、と思ったりしました。でも、それでも、こう言う映画は作られなければならなかったのだと思います。
昭和45年前後、娘3人と男の子がいる在日韓国・朝鮮人一家の話です。父と母はいわゆる在日1世で、感情が高ぶると韓国語が飛び出しますが、2世の娘たちは韓国語が話せなかったりします。
父が戦後なぜ独立なった韓国へ帰れなかったかと言うと、彼は済州島の出身で、戦後この島では大変過酷な弾圧があったことは、キムソクポム(金石範)の「火山島」という長編小説でも有名です。だから彼は帰るに帰れなかったわけです。
最後は一家は住んでいた土地を離れていき、娘たちはいかにもこのころの在日の人たちがたどる3つの典型的な航路へむかっていきます。つまり、長女は北への帰国事業によって北朝鮮へ、韓国人と結婚した次女は韓国へ、そして日本人と結婚した三女は日本に残り、そして、ただ一人の男の子は天国へ。家族はバラバラになります。もう少しポジティブな言い方をするなら、それぞれが自立します。ただ、3人の美人姉妹に、この後どんな運命が待っているのでしょうね。
以前拙ブログで紹介した「伽倻子のために」や「かぞくのくに」 、「パッチギ」なんかを連想しました。
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昨日15日は、吉祥寺に14日にオープンしたばかりのアップリンク吉祥寺、そこで表題のドキュメンタリー映画をやるというので見てきました。パルコの地下にあるおしゃれなシネコンです。
この映画は吉祥寺のアップリンクでは12月20日までで、21日から28日まで渋谷のアップリンクで上映されるそうですので、興味がある方はお間違えなきように。
映画はフクシマの原発事故後3ヶ月で原発ゼロを宣言しとドイツと、まだ事故が収束する前から原発再稼働を始める日本との違いを知りたいと考えた監督の坂田雅子氏が、ドイツ各地で取材したドキュメンタリーです。歴史を遡りながら、ドイツで常に底流にあった自然保護や反原発意識が徐々に高まりついには政府を動かすことになるのがわかります。また、各地での大企業に頼らない、小規模な自然エネルギーによる電力の供給体制も、具体的に紹介されます。
以下、自分の覚え書きのために書きますので 笑)
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冒頭メルケルが2011年6月に脱原発を宣言する議会演説のシーンから始まる。僕は自己紹介でも書いたように北欧の社会民主主義に憧れていたから、保守のメルケルに対する気持ちはあまりポジティブなものではなかったが、ここで一気にメルケルすごい!と思ったものだった。
上映後の監督とゲストの孫埼亮氏との対談でも指摘されていたし、映画の中でも語られるが、まずメルケルが脱原発を決断した最大の理由は直前の反原発デモと州議会選挙でメルケルの保守党が戦後初めて破れたことだったらしい。つまり民意が彼女を動かしたわけである。
しかし、この映画はもっと時代を遡っていく。まず、ドイツはチェルノブイリ事故の前にすでに一度ヴィールという町で原発が建設されそうになった時、住民の反対運動によって建設中止になっていた。すでにその少し前から環境保護だけを訴えた緑の党が注目を浴びつつあったことも影響したのだろう。
だけど、さらに時代を遡ると1968年の学生運動の影響もあったという。この運動は世界的に学生の反乱と言われたものだけどドイツに限れば、ナチスだった親世代に対する反抗という面もあった。
ドイツも日本と同様に戦後すぐに戦時中のことを反省したわけではない。日本で言えば吉田茂のような役割を果たしたアデナウアーの側近がナチだったことは、
拙ブログで紹介した映画「検事フリッツ・バウアー ナチスを追い詰めた男」 にも出てくるし、戦後の司法関係者がナチの民族裁判所でひどい判決を繰り返していた連中だったことや、同様に精神医学関係でも、悪名高い障害者安楽死計画T4作戦に加担していた者が多数いたこともわかってきている。そうした戦後の体制に否を突きつけたのが1968年の学生運動だったようだ。ここで人々は政治に関与することの重要性に気がつく。
登場する人が言う、「政治に関与しないことが間違いだと気づくのに何年もかかった。自分で考えて行動し、世界への責任を持つまでにはさらに時間がかかった」。
あるいは自然エネルギーで経営されたホテルのオーナーはこんなことを言う、「ここの施設にはベンツ1台分ほどのコストがかかりました。僕はベンツ1台買うよりもこっちの方がいいんですよ。いい気分でよく眠れるんです」。
そうした市民の意識の結果がメルケルの脱原発宣言に行き着いたことを、このドキュメンタリーは示している。だけど、上映後の孫埼氏の話はさらに踏み込んで、日独の戦争の終わり方の違いを強調していた。つまりドイツの場合は米英仏ソの四カ国に分割占領されたことで、ドイツという国のアイデンティティを、国民が自ずと考えざるを得なかったのに対して、日本の場合はアメリカの占領の元、アメリカのいいなりになっていればよかった。
サンフランシスコ講和条約で日本が独立した後もその姿勢は結局変わらず、アメリカのいいなりになり続けている。誰かのいいなりになっているのは楽なことである。考えなくて済むのだから。自分の火の粉が降りかかるまでは見て見ぬ振り、というのは今の沖縄のことを考えればよくわかる。
結局この映画を見て思ったのは、確かに意識の高い市民たちが立ち上がれば社会は変えられるのだろうけど、日本でそれが果たして可能だろうか、という諦めに近い気持ちだった。
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昨日の第4回をリアルタイムで観られず、ビデオに撮っておいたので、今見終わりました。
うーん。よくできたドラマだし、面白かったんですが、在日ドイツ人のピアニストや竹山道雄はどういう意味合いを持っていたのかなぁ。。。オランダ人判事が主役の扱いで、彼と接触があった人たちだから出てきたのかなぁ。こんなところではなく他の、検察と弁護側、さらには被告人たちの弁論や発言をもっと詳しく扱って欲しかったな、という気持ちは強いですね。いや、ドラマとしてすごく面白かったのは認めるのですけど。
しかし、いみじくも劇内で誰かが言っていたように、天皇(皇族)を訴追しないで、その下っ端だけを死刑にするなんておかしいっていうのはその通りだと思います。さらに言えば、もっと下っ端のBC級戦犯が1000前後死刑になっているのを思い出せば、「悪い奴ほど良く眠る」という現代社会(だけではないかもしれませんが)につながってくると思います。
そして先日書いたけど、ドイツ映画の「顔のないヒトラー」のことと思い比べると、いろんな事情があったにしても、やっぱり日本人が自分たちで、当時の責任者たちの戦争責任を問わなかったというのが決定的なんだろうと思います。結局、この東京裁判で全て片が付いたことになってしまったわけで、ドラマの中でも予言されていましたが、安倍の爺さんのA級戦犯被疑者岸信介なんかが、あっさり首相になってしまったわけで、万が一あの裁判でパル判事が主張したように全員無罪にしていたら、東条英機が再び首相になっていたかもしれません。ところで、パル判事を顕彰する碑が靖国神社にはあるそうですが、彼が主張したのは被告たちは当時の国際法では罪は問えないというだけで、もし仮に彼が今も生きていて靖国神社に自分の碑があるなんて知ったら、絶対喜ばないでしょう。
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どのぐらいの人が見たのでしょう。9月10日夜中に再放送するようですので、ぜひ多くの人に見て欲しいと思います。
ネットに蔓延する匿名の虐殺否定説こそが、まさにこの関東大震災時の流言飛語そのものだ、ということがよくわかります。だからこそ、この番組に出てきたさいたま市染谷の、大震災当時村長だった祖父を持つ老人が、当時殺された朝鮮人の墓を前に、孫たちに事件のあらましを述べるシーンは、日本人の良心を見る思いでした。
知る努力、知らせる努力、それが我々に必要なことでしょう。ぜひ、再放送をご覧になってください。
このテーマについてはすでに書いたことがあるので、こちらもよろしければどうぞ。
加藤直樹「九月、東京の路上で」覚書き へ
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VIDEO 森達也のドキュメンタリーで、例の偽ベートーベンと言われた佐村河内守に密着した映画。見ながら思ったのは、拙ブログでも何度か書いたクレヨンしんちゃんのとうちゃんのセリフ。
「正義の反対は別の正義だ!」 舛添騒動の真っ只中、マスコミというものがどういうダイナミズムで動いているかがよくわかる。
このドキュメンタリーの中でもフジTVの番組責任者たちが4人も佐村河内を訪ねてきて、年末のバラエティー特番に出て欲しい、絶対に笑い者したりしない、真面目に番組作りをする、と確約したのに、結局佐村河内が出ないことになると、文字通り笑い者にして面白ろおかしいバカ番組を作る。
映像そのものは、佐村河内夫妻(このドキュメンタリーのテーマが、そもそも「社会の敵」になってしまったこの夫婦愛の話なのかもしれない)が飼っている猫がいい味出している。上の責任者たちが、おそらく心から「佐村河内の将来のため」に誠実に、編集などしないで佐村河内の言葉をそのまま放映すると強調している言葉に、猫の顔のアップが重なる。その瞬間、会場は笑い声で満ちる。ただ、この心理にも、こやつらフジテレビの番組責任者を笑い者にしてやる、という心情が働いているのかもしれないけど。。。ただ、このテレビマンたちの気持ちに嘘はなかったんだろうと思う。それでもああいう番組になってしまうことの恐ろしさ。
何れにしてもあの大騒動の時に、マスコミは裏付けも取らずに、謝罪会見などでは彼の耳の障害を笑い者にした(これについては別の聴覚障害者も登場して怒りをあらわにする)。
その後も小保方さんにしても、野々村議員にしても、アイドルの不倫にしても、そして、今まさにたけなわの舛添にしても、マスコミによる袋叩きの物凄さ。これを気持ち悪い、何か胡散臭いと思わない方がおかしい、というのは、特に
舛添関係ですでに拙ブログでは書いた。そして変なコメンテーターに絡まれた 笑) マスコミも市場原理の中、売れるもの、面白がられるものを作りたいと必死になる、彼らには信念も思想もない、出演者への思いなど関係ない、という森の言葉は、マスコミに対する批判ではなく、むしろマスコミを信じすぎる僕らに対する批判なんだろう。
さて、これネタバレしちゃいけないんだろうなぁ。
でも、やっぱり書いてしまおう。アメリカの雑誌の取材で、あなたが作曲したメロディーの証拠はないのか、と問われて、佐村河内は答えられない。そのあと、森が唐突に、僕はこのドキュメンタリーが終わるまでタバコをやめる、だから、あなたも作曲しましょう。音楽が好きなんでしょう?頭の中に音楽がたくさん鳴っていて出口を求めているんでしょう?と言いだす。すると、次のシーンでは佐村河内がシンセサイザーを購入して作曲を始めている。
結局一つの曲が出来上がる。例のHIROSHIMAに似た雰囲気の壮大な映画音楽のような、なかなか良い曲が出来上がる。その曲が流れ続ける最終シーンはかなり感動的。なあんだ、楽譜なんか読めなくても、作曲ってできるんだ。そして、森達也は、最後の一言で、ここまで作り上げてきたものをひっくり返す。でも、僕は、最後の「絶対秘密」のこのシーン、森の本をたくさん読んできたので、まあ、驚きではなかったね。
最後につけたしておくと、佐村河内とゴーストライターの新垣氏の間で、交響曲「HIROSHIMA」の著作権に関しては佐村河内の元にあることでは争いがないんだそうだ。
次は、本作の中で、インタビューを拒否した新垣氏(本人はやりたそうだったけど、所属事務所が拒否したそうだ)に密着したドキュメンタリーだな、と思って、帰りにパンフを買って電車の中で読みながら帰ってきたら、なんと!!友川カズキが同じことをコメントしていて、びっくりするとともに、とても嬉しくなった。
絶対に面白い。ただし、佐村河内が白か黒かを期待したり、新たなレッテルを貼ったりするために見るのは不純である。この映画を見る意義は、今の日本社会の堕落度を知るためである。ぜひ心ある人には見て欲しいと思った。
ちなみに、金曜4時からの回で、渋谷のユーロスペースは7割がた埋まっていた。こんな地味なドキュメンタリーなのに。。。しかもかなり若い人が多かったのが本当に嬉しかった。
佐村河内事件当時、これについて触れた拙ブログの記事はこちら。少し胸を張って紹介します。
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先ほど、昨日録画しておいた奴を見た。うーん。まあね。漱石の坊ちゃん(原作)って
前にも書いたことがあるけど 、「痛快」とか「青春小説」とかレッテルを貼られているわりに、すっきりしない不愉快な話なんだよね。だから今回の脚色というか改変は、レッテル通り「痛快」なすっきりした話にしようとしたんだろう。いずれにしても漱石の小説の多くは三角関係の話で、しかもハピーエンドにはならないものばかり。そしてそれが余韻を残すものなのにね。
ドラマはうらなりやマドンナの行動も生徒たちの態度も、校長や野太鼓も、すべて原作を大きく離れていたけど、TVドラマにするにはこうするしかなかったんだろうなぁ。ただねぇ。漱石の小説を元にしているんだから、水戸黄門みたいに悪い奴が成敗されておしまいなんてつまらない。
今回及川某がやった赤シャツも、漱石自身が、当時帝大出は自分しかいなかったのだから、このモデルは自分だというような嘘ともホントとも思えないようなことを言っているけど、今回のドラマを見ていて、ひょっとしたら本当かもしれないと思った。赤シャツはドラマでも原作でも最後にボコられるけど、漱石自身も自分を殴ってやりたいと思ってたんじゃないだろうか。
それから、又吉・漱石はもう少しうまく使えたんじゃないのかなぁ。
以前書いたロシア版ホームズのように 、実際のホームズが解決した事件は実はこういうもので、それをワトソンが脚色したというやり方で、実際の坊ちゃんはこういう顛末で、それを坊ちゃんのそばで見ていた漱石が脚色したのだ、みたいな、もう一ひねり二ひねりしたやり方ができるんじゃないか、そんな妄想が浮かんだ。ま、思いつきに過ぎませんけどね。
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常連コメンテーターのCYPRESSさんから、小津の映画は今ひとつ合わないというコメントをもらったので、ちょっと追加で書いておきましょう。
小津の映画を退屈だというのは理解できます。取り立てて事件も起きないし、話もオチがあるわけではない。たぶん世界中の半数以上の人はそういうかもしれません。また、どの映画も同じで区別が付かない、という意見もありますが、そういう意見があるだろうというのも想像できます。
たとえばCYPRESSさんが触れている北鎌倉駅。ここでのシーンで一番覚えているのが、原節子と誰だったか。。。「お読みになった? チボー家の人々?」という台詞がありました。でも、それがどの映画だったかは全く思い出せない。前のエントリーで書いた「●子さん、あんた何歳になった」「いやですわ、うふふ」も、何となくそんなイメージがあるだけで、どの映画のどのシーンだったかなんて全く覚えてない。そもそもひょっとしたら、そんなシーンなんかないのかもしれません。
でもそれはどうでも良いんだろうと思います。小津の映画は全部が渾然一体となって全部でひとつの世界なんだろうと思う。
俳優の演技もうまいとは言えない、というのもよく分かる。だけど、小津はたぶん俳優から演技の見せ所を奪っているんですよ。原節子が振り向くシーンだけを60回ぐらいやり直しさせられていた、というのを昔の誰か女優のインタビューで見た記憶がありますが、演技をさせないようにしていたんじゃないのかなぁ。いや、よく知らないけど。
例えば今回の「東京物語」でも東山千栄子が亡くなって間に合わなかった大坂志郎が悲しむシーンは俳優なら見せ所なんだろうけど、「そうかぁ、まにあわなんだか」と、なんとも緊張感のない台詞を言わせるだけだし、息子で医者の山村聡から明け方まで持たないと聞かされた笠が同様に、「そうか、おしまいかのう」と言うだけ。
あるいはこれは「秋刀魚の味」のシーンですが、飲み屋で吉田輝雄が佐田啓二に妹との結婚の可能性を問われると、吉田はすでに諦めて別の女と約束してしまったと言いながら、「ちぇっ、もっと早く言ってくれればいいのに」と言った直後に店の奥に向かって「おーい、ビールもう一本」と叫ぶ。最初に見たときは、このシーンで思わずずっこけました。ユーモアというのとも違う。普通なら深刻な、俳優の見せ所だろうと思うところで、実に巧妙に肩すかしを食らっちゃう。
最近の小津関係の本(書評で読んだだけだけど)によると、小津は従軍してどうやらとんでもないものをたくさん見たようです。なのに、映画ではまったくそうしたことは出てこない。せいぜい「戦争は嫌だね」、とか、「馬鹿が威張らなくなってよかった」とかいう台詞ぐらいしか出てこない。
こういう話を読んだり、上のようなシーンを思い浮かべるとき、小津の映画から、聖書の中の「祈るときは異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思いこんでいる。」という言葉を思い出します。
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今日、NHKでデジタルリマスターの版をやっていたのを録画しておいて、今見ました。
いや、もちろん映画館でも見ているし、TVでも複数回見ているはずなんですが、東山千栄子の死ぬところから葬式のシーンまでが全く記憶から抜けていました。記憶の中では老夫婦が尾道に帰った後、唐突にもう葬儀も終わって、みんなが集まっているというものでした。見直してみれば、ああ、こういうシーンもあった、と思うものばかりなんですがね。
もうなにか新しいことなど言えないぐらい、すべてが語り尽くされた映画でしょう。どのシーンを見ても、気が付くと微笑んでいる自分に気が付き、最後のほうの「私ずるいんですの」というあたりからは、もう涙が止まらなくなっちゃいました。
しかし見れば見るほど原節子は素晴らしい。微笑んでも、伏し目がちになっても、泣いても素晴らしい。でもやっぱりあの微笑んでいる顔が一番でしょうかね。ドイツの新聞には、原節子は日本人に洋風の美の理想を、西洋には理想的な日本人女性像を示した、というような説明がついていました。確かに顔立ちは京マチ子なんかに比べればかなり洋風ですかね。
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笠智衆「●子さん、あんたいったいいくつになった〜」
原節子「いやですわ、お義父(とお)さん、うふふ、28ですわ」
いや、台詞はまったく正確ではありません。ただ、なんとなくこういう台詞が小津安二郎の映画には毎回あったような気がしてなりません。むろんそんなわけないんですが。そしてここで「うふふ」と書いたところで見せる笑い顔が、ぼくにとっては「原節子」です。
でももう一方で、亡くなったというニュースを聞いたときに思い浮かんだもう一つの原節子は黒澤明の「白痴」のナスターシャ・フィリッポブナならぬ那須妙子の高慢ちきで傲岸な女の顔。特に清純な久我美子をいじめるときの悪魔的な雰囲気でした。
でも、やっぱり原節子は「いやですわ、うふふ」ですね。
合掌
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