2018 05 << 123456789101112131415161718192021222324252627282930>> 2018 07

ブルーム・オブ・イエスタディ(ネタバレ)

2018.06.16.16:32

320_201806161627581dc.jpg
軽やかな音楽と、ポカンととぼけたような変なユーモア。なのに設定はナチ高官の孫と、その高官にガス室へ送られた女性の孫の話。二人ともちょっとイカれたホロコーストの研究者で、ホロコーストの会議を開こうとしている。だけど、深刻な話になるかと思いきや、なんだかとんでもない話に。

まず主役のナチ高官の孫(ブルーメン【花】という名前)の夫婦関係がなんじゃこりゃ?とあっけにとられる始まりで、ブルーメンは自分の奥さんが男と逢引に出かけるのを見送り、どういう夫婦なの? 今のドイツってこんななの? と呆れる。ヒロイン(ザジ)の方はフランスから来たユダヤ人で、ブルーメンの所属するホロコースト研究会に研修に来たという設定。しかもどこで知り合ったのか映画では説明されていないけど、ブルーメンの同僚と恋人関係。この恋人関係もかなりあけすけに話すんだけど、この辺りも、今のヨーロッパってこんななの? って驚かされる。

この二人が衝突し合いながら、自分たちの祖父(ナチ)と祖母(ユダヤ人)が住んでいたラトビアのリガへ旅行し、徐々に意気投合、愛人関係になっていくというよもやの展開 笑)

実はブルーメンはインポテンツで、奥さんが男と逢引するのを許しているのもそのせいなんだけど、ブルーメンはザジとならデキちゃう。で、二人は結婚すると言ってブルーメンは奥さんを、ザジの方は愛人を捨てそうになるんだけど、最後の最後に少年だったブルーメンがナチ崇拝少年だったことがバレて、ザジは去って行ってしまいます。

なんじゃこの映画? という感じで見ていてあっけにとられることばかり。何しろ登場人物たちの唐突な行動にしばし呆然。ブルーメンは突然同僚に殴りかかって歯を折っちゃったり、会議の席で言いたい放題かと思うと、ザジの方も車から犬を投げ捨てたり、ペンキを頭からかぶったり、風呂場で自殺未遂したり。さらにはあまりにあけすけなセックスの話にもちょっと私の感覚ではついていけない。

だけど、こりゃなんなんだ、と思いながらふと思い出したのが、早死にしたファスビンダーという監督の「マリア・ブラウンの結婚」という映画。アメリカに体を売りながら渡り歩く主役の女マリア・ブラウンは戦後のドイツの象徴であり、最後に監督がこんなのダメだ!とばかりに自爆させる終わり方でした。

この映画もハチャメチャな展開に騙されてはいけません。これは加害者と被害者の和解の話なんですね。つまりブルーメンは現在のドイツを象徴し、一方でザジの方は被害者のユダヤ人(とは限らないのでしょうけど)を象徴しているとすると、インポテンツだったドイツが被害者に許されるかと思えながら、結局被害者は過去のナチを許せず、二人の関係は破綻、「シェルブールの雨傘」みたいな切ないラストシーンになっちゃうことで、本当の和解(許し)は可能かどうなのか、それともあれは和解し(許し)たのか? 

「暗夜行路」じゃないけど、許すとは忘却のことだとすると、まあ、そう簡単に忘れることはできないのかもしれません。ただ、最後の最後のザジの娘の名前のオチが、途中で語られる詩と関連するんだけど、このオチがよくわかりませんでした。そもそもオチなのか? ブルーメンに朗読して聞かせた詩のカルミナという名前を娘につけたということで、彼女は娘に命名するときにブルーメンのことを思い出したのでしょうか? それはともかく、最後の決別の時のブルーメン、泣きながら鼻水たらすんだけど、映画であれほど盛大な鼻水見たのは初めてだわ 笑)

この映画はドイツの過去の加害性の話です。こういう映画が日本でも作れないかなぁ、と思ったのでした。


よければ、下の各ボタンをポチッとお願いします(まあ、大した意味ないですので、ポチッとしなくても構いません。おまじないみたいなもんです 笑)


にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村
スポンサーサイト

映画「ルイ14世の死」(ネタバレ)

2018.06.15.23:24

IMG_1819_convert_20180615232009.jpg
渋谷のイメージ・フォーラムで金曜の4時過ぎからの回でしたが、お客さん6人でした 笑) まあ、すげー映画でした。

太陽王ルイ14世が左足の壊疽になり、徐々に体力が衰え、死んでいく何日間(何週間?)かを、8割は豪華な服とかつらをかぶって横たわる王の寝室で、しかも半分はろうそくの明かりの中で、長回しのカメラで撮り続けるドキュメンタリーのような映画です。

ルイ14世を演じているのが「大人は判ってくれない」のジャン・ピエール・レオ。1960年頃の「大人は判ってくれない」で、ラスト海を見るために延々と走り続け、最後の瞬間にこちらを振り向いた少年が、この映画では77歳のルイ14世です。こっちも年取るわけだ。

王が寝ている寝室には宮廷の工事の許可をもらいに来る人や主治医以外の大学の医者たちや怪しげな薬を持って馳せ参じた偽医者や枢機卿などが次々に現れ、宮廷の廷臣や女官たちは体調の悪い王を心配して詰めかけ、王が帽子を脱げばブラボー、何かを食べてもブラボー、ビスケットを食べたと言って拍手という調子です。

何しろ横になっているのに写真のような馬鹿でかいかつらをかぶっていて、水を飲みたいと言いながら、コップが水晶のいつものコップじゃないと飲むのを拒否。

音楽は途中でルイ14世が横たわったままこちらを見ていると、突然モーツァルトのミサ曲が始まり、それが呆れるほど突然、中途半端にブチっと切れます(無論劇中の音楽ではなく映画のBGMです。モーツァルトまだ生まれてませんから)。

死にそうになっているのに、公務の書類を見なければならず、挙句に強引に何かを食べさせられ、ワインを飲まされてむせ返り、最後はもう口すら開けることができないのに、水を飲まされるお気の毒な太陽王。最後の死ぬシーンなんか、本当にリアルでそのまま実際の時間を写し取ったかのようなテンポでした。ただ、実は最後の方、トイレへ行きたくて、早く死んでくれえ、と思ってしまった 笑) 

アルベルト・セラというスペインの監督ですが、他の映画も見てみたいと思いました。でも、まあ、よっぽどこの手の映画が好きな人にしかお勧めしません 苦笑)


よければ、下の各ボタンをポチッとお願いします(まあ、大した意味ないですので、ポチッとしなくても構いません。おまじないみたいなもんです 笑)


にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ラブレス」

2018.04.14.14:05



またまたロシア映画です。監督はアンドレイ・ズビャギンツェフという人。実は僕は全く知りませんでした(ロシア映画好きを公言するものとしては少々恥ずかしいぐらい、有名映画祭で賞を幾つもとっている人らしいです)。人間は他人と密な関係を欲する動物で、密な関係の一番は結婚なんでしょうが、この映画のような修羅場を迎えなければならないとあらかじめ知っていたら、誰も結婚なんぞしないでしょうね。

昔イングマール・ベルイマン監督の古典的名作「野いちご」を初めて見たとき、多分大学に入ったばかりの頃だったと思うんだけど、冒頭を始め何度も出てくる夢のシーンに圧倒されるとともに、もう一つびっくりしたのが、人前で派手に喧嘩をする夫婦の姿だった。いやぁ、西洋人って人前であんな風に夫婦喧嘩をするんだ、と思った。まあ、ベルイマンという人がそういう男女の修羅場を何度もくぐってきた人なんだろうけど 笑)

さて、この映画、ロシア映画らしい画面の構図の美しさが随所で見られるけど、話の激しさはあまりロシア映画っぽくないです。完全に愛情の冷め切った、というより憎み合っている夫婦が主人公です。それぞれ愛人がいて、さっさと離婚してお互いに新たな結婚生活を送りたいと考えていますが、二人の間には12歳になる息子がいます。二人ともに、この息子を引き取るつもりはなく、息子は完全にお荷物扱い。と、その息子が家出して行方不明になります。警察に届けても埒あかず、ボランティアの家出捜索PKO(ロシアにはそんなのが本当にあるそうです)にお願いして探しますが、見つかりません。二人は本当に息子が心配で探しているのか、それとも自分たちの今後の新しい生活のことを考えて、息子を探しているのか。。。そして息子はどうなったのか?

風景が「サイの季節」のようなセピア色の樹木や、水墨画のような木々と霧の風景だったり、いい感じです。そしていかにもロシア映画らしい長回しと、画面上で何かが起こるまでの「待ち」のタイミングが一拍長いのも、ロシア映画らしさを感じさせます。でも、映像以上に内容でしょう。例えば、同じロシア映画でも、大御所のタルコフスキーやアレクセイ・ゲルマン、あるいはアレクサンドル・ソクーロフなんていう監督たちはストーリーの内容の密度にこれほどこだわらなかった(こだわらない)ような気がします。それに対して、この映画では、セックスの描写なども含めて、生活の細部に対する描写のリアリティがものすごくあります。

内容的には重いです。嫌になるぐらい重いし、ラストも同じことの繰り返しになるであろうと思われます。西欧で恋愛というのは12世紀の発明という説があるそうです。子育てのバイブルと言われる「育児の百科」の著者松田道雄には「恋愛なんかやめておけ」という本もあるようです。恋とかいうやつぁ、まあ、ある意味壮大な勘違い、ただの性欲をオブラートに包むためのものに過ぎないなんて、私はそこまでシニックにはなれませんが 笑)

カンにさわる音楽が秀逸。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「エルミタージュ幻想」覚書き

2018.04.07.22:25



やれやれ、ソクーロフという監督はなんちゅう映画を作るんでしょうか! 

エルミタージュはサンクトペテルブルクにある収蔵美術品数世界最大の美術館。サンクトペテルブルクは西洋かぶれのピヨートル大帝が18世紀初頭に沼地に作った人工都市なので、歴史はたかだか300年の新しい街です。ピヨートル大帝やエカテリーナ女帝、それに最後の皇帝ニコライとその一家、そしてそれらの間に現在のシーンが90分ワンカットで映し出されます。

ヒッチコックの「ロープ」だったか、確か全編ワンカットという映画はありました。また大島渚の「日本の夜と霧」でワンカットが異常に長く、当時の技術ではそんなに長くフィルムが続かないので、登場人物たちが電信柱に隠れたところでつないで、ワンカットのように見せるなんていうアクロバットみたいなことをやってました。

それをこの映画は、エルミタージュ美術館の中で延々と場所を移動し、時間を超えた場面を、ものすごい数の人の中を、豪華にして絢爛たる大舞踏会の中を、カメラがどんどん移動していきながらの文字どおり90分ワンカットです。ヴィキペディアで見ると4回撮影して4回目にやっと成功したとか。

それにしても、カメラが廊下をブレることなく移動したかと思うとそのまま空を飛ぶように移動し、果てはオーケストラの上空から映したりして、どうやって写したんでしょう? ちょっと魔法のような感じです。

ところで、この映画の結構は、カメラがナレーターの目になっていて、どうやら人々にはこのナレーターが見えないらしい。つまり、ナレーターは時空を超えて、様々な時代のワンシーン(全てたわいもないシーンばかりで、劇的なシーンはありません)を見ながらエルミタージュ美術館の中を移動していきます。同時にもう一人時空を超えている存在が、ちょっと吸血鬼的なシルエットの黒服の男です。この男とナレーターがやりとりしながら、カメラ(=ナレーター)は彼を追いながら、このエルミタージュで起きた300年の歴史の一場面を見ていくというのがこの映画の結構です。この黒服の男はナレーターとは違って、その場にいる様々な時代の人には見えていて、彼らと直接会話したり遮られたり踊ったりします。

ただ、ちょっとわかりづらいのはいつものことですね。廊下を進んでいくと、暗い部屋の中で、突然ピヨートル大帝が怒っていたりします。そして部屋を移ると突然現在の人々が絵を見ていて、そこで黒服の男は現実の美術館の館長と話し合い、また部屋を変わるとエカテリーナ女帝が演劇を見ていたり、ニコライの子供達や家族が食事をしていたり、最後は19世紀の帝政ロシアの壮大な大舞踏会のシーンで、その中をカメラが動き回るとともに、黒服の男もみんなと一緒に踊っています。

どうやら台詞から、この黒服の男は古い西洋の代表みたいな感じらしく、西洋に対する複雑なロシアの感情が表れているのかもしれません。まあ、ピヨートル大帝が西欧風の街を作ることを目指したのがサンクトペテルブルクの街ですし、そこに西欧の美術を大量に買い漁って集めたというのも、ある意味で後進国ロシアの西欧コンプレックスの表れですから、このあたりはそれを念頭に置いておいた方がいいのだろうとは思いますが、まあ、あまりよくわかりません 苦笑)

何しろ本物のエルミタージュの建物を使っていますから、ヴィスコンティもかないませんね。登場人物の数も物凄いし、それらの人たちの衣装なども素晴らしいです。とても贅沢な90分という感じですが、こちらの集中力も要求される面もあります。つまり、気を抜くと寝ちゃうってことですね 笑)


にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

ソクーロフの映画「モレク神」

2018.03.25.00:00

これは面白かったです。1942年春ということは、破竹の勢いだったナチスドイツがスターリングラードで前年末に敗れて、第二次大戦の潮目が変わった時期に、南ドイツのヒトラーの個人山荘ベルヒテスガルテンにヒトラーとゲッベルス夫妻、秘書のボルマン夫妻がお供のSSらを引き連れてやってきます。山荘にはヒトラーの愛人エーファ・ブラウンが住んでいて、これが何ともお茶目で魅力的です。この映画はヒトラーというよりエーファ・ブラウンが主役です。

ヒトラーに囲われて大豪邸の山荘で、多くの料理人や小間使、召使らにかしずかれながらも退屈していて、一人全裸でバレーを踊ったり、体操のつり輪をしたりしていたエーファ・ブラウンが何ともチャーミング。

ヒトラーも料理を運ぶ小間使の女性たちを、自分たちと同じ食卓に座らせたり、気さくなところを見せます。

ところで、登場する有名人たちがヒトラーもゲッベルスもボルマンも本物に非常によく似ています。ソクーロフは「太陽」でイッセー尾形に昭和天皇を演じさせ、イッセー尾形も、おいおい右翼が殴りこみに来るんじゃないの?っていうぐらい天皇になりきってました。口をモゴモゴさせるところなんか、ヲイヲイ、大丈夫かよ、と思いましたね。

特にゲッベルスは、これまで映画で見たゲッベルスの中で一番似てましたね。小柄で甲高い声で足を引きずりながら歩く姿は、少し前に見たジェシー・オウエンスの映画での長身でハンサムなゲッベルスにがっかりさせられていただけに、感心しました。特に横顔の頭の形なんかはゲッベルスそのまま。

ヒトラー役もブルーノ・ガンツの総統閣下や「帰ってきたヒトラー」の役者より似てると思いましたね。ただ、ちょっと背が高すぎるのと、菜食主義者だったヒトラーの腹があんなに出てたとは思えないけど 笑)

山荘ではみんなで食事をしたり、ピクニックに行って踊ったり、ニュース映画やフルトヴェングラーの指揮する第九の映像を見たりと、淡々と、例によって長回しの、時々歪んだ画面が続きます。

まあ、気まぐれな、そして突然怒鳴り出すヒステリックな、いかにもヒトラーらしいところも何度か出てきます。

腫れ物に触るような周りの人間たちのヒトラーに対する怯えたような気遣いに対して、まるで気遣いのないのがエーファ・ブラウンで、彼女にとってヒトラーはただの恋人に過ぎません。最後は風呂場で下着姿のヒトラーが興奮したように、エーファが望むような結婚して子供を作り、普通の家族として生活したいという思いを、自分の使命のためにありえないのだ、と演説口調で怒鳴り出すんですが、エーファはそんなヒトラーのケツを蹴っ飛ばして鬼ごっこを始めます。

テーブルの上で追いかけてくるヒトラーを蹴飛ばし、机を隔てて逃げ回り、床の上を転げまわりながら取っ組み合い。嬌声を上げるエーファの声に、突然白黒の飛行士の映像が挟まります。あれはなんなんだろう? 多分セックスの暗示のはずなんだけど。。。そして電話のベルの音で、ヒトラーが出発することがわかり、大慌てで服を着てエレベーターで降りていくエーファ。この時の暴れっぷりからヒトラーと別れのシーンもなかなか魅力的です。

ヒトラーといえば、絶対悪みたいな存在で、一種狂気に捕らわれたような不気味で残虐な男とされがちですし、そのヒトラーの愛人のエーファについては、ほとんど無視されることが多いような気がします。

つまり、人類の敵ヒトラーの愛人なんてちょっとわけわからんよね。マクベス婦人のような夫に悪事を教唆する悪女ではないし、美人だし、なのに、ヒトラーのやることに口出ししたとは思えないし、ヒトラーの愛人であることを利用して何か私服を肥やしたりしたわけでもないし(そういう人は日本にもいるようですが 笑)。。。

エーファ・ブラウンとヒトラーのこういうところを切り取って見せたというところに、ソクーロフらしさがあるのでしょう。

これまでも拙ブログで書いてきたことだけど、ヒトラーをただの狂人とか怪物とか悪魔として描いてはダメなんだと思うんですよね。無論人類史上稀に見るとんでもないことをした(させた)人であることは間違いないけど。そういう点ではオウムの麻原にも通じる問題があるんだと思います。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

ソクーロフの映画「静かなる一頁」(ネタバレ)

2018.03.22.00:09

IMG_1621.jpg

今、東京の渋谷では写真のような特集をやっています。そんな中で表題の映画を見てきました。この後も「モレク神」と「エルミタージュ幻想」はなんとか算段をつけて見に行こうと思っていますが、どうなることか。。。

ソクーロフの映画では、拙ブログでは「ファウスト」について書いたことがありました。その時に感じた画面の歪みやワンシーンの長さ、セピア調の鈍い色のカラー映像、セリフの少なさや、そもそも写っている物が何なのかよく分からないようなシーンとか、汚れたでこぼこの壁面とか、「ファウスト」で不思議に思われたことは、だいたいすでにこの映画でも取り入れられていたようです。もっとも、 でこぼこの壁面はタルコフスキーを始めロシア映画ではよく出てきますが。

冒頭の集合住宅と運河を写す長いシーンから、すでに画面が斜めに歪んでいます。しかもそれがずっと続く感じで、さらに、当初白黒の映画かと思うと、かなり抑え気味のカラー映像のシーンが出てきて、それが画面転換せずにいつの間にか白黒になっていたりします。舞台は集合住宅とその周辺の街中なのでしょうけど、どこかの教会堂か納骨堂みたいな暗い地下のようなところで、樹木が映るシーンもあるから外なのかもしれませんが、空は全く写りません。たぶん映画を通じて、一度も空は映らなかったと思います。地面の方は雨上がりのように濡れていて、ところどころに水溜まりが出来ていたりして、そんなところに金をせびるゴロツキや娼婦たちがたむろしています。そして画面の外からまるで夢うつつのぼんやりしている時のように、遠くで人々の話し声や笑い声が聞こえてきます。

この映画、ドストエフスキーの「罪と罰」を基にしているというのですが、それがわかるのはほぼ終わり近くなって、主人公のラスコーリニコフ(?)と娼婦ソーニャ・マルメラードワ(?)が対決するシーンになってからで、それまではどこが「罪と罰」なのか、まるでわかりません。そもそも今、上で名前の後ろに(?)をつけたのは、映画の中ではこの主役二人の名前はわからないからです。

確かに途中で人々の会話の中に高利貸の女が殺されたというセリフがあるけど、原作ではこの殺害シーンは始まって比較的すぐのシーンのはずなのに、映画ではラスコーリニコフ(?)はいかにもラスコーリニコフらしく思いつめたような暗い表情で街を歩き回っているだけ。

だけど、この二人が対決するシーンだけはそれまでと違って原作をなぞっているようです。つまり、金貸しの老女とその妹を殺してしまったラスコーリニコフは純真な娼婦ソーニャにそれを告白すると、彼女は汚してしまった大地に口づけして神に許しを請い、自首するようにと進めるシーン。

映画のこのシーンは、それまでと画面構成が全く違っていて、ソーニャ(?)とラスコーリニコフ(?)の二人の顔が画面いっぱいに並んで映りながら、長回しで話をするんですが、そのやり取りの緊張感がまたかなりすごいものがあります。そしてこのシーンでも画面の外の水の音(?)、外の運河の流れる音でしょうか?そんな音がかすかに聞こえています。この音の効果は結構印象的です。

さて、原作ではその後ラスコーリニコフはソーニャに言われた通り大地に口づけして罪を告白するけど、人々にはそれは聞こえないのだったと思います。だけど、この映画ではそうなりません。この最後の場面、ちょっと不思議な雌スライオンの巨大な像の下にもぐりこんだラスコーリニコフがとる行動は母胎回帰なんでしょうか? よく分かりませんが、「ファウスト」でもラストは原作とまるで違っていたし、まあ、わからなくてもいいんでしょう 笑)

1時間10分程度の短い映画ですが、タルコフスキー系列の映画といっていいでしょう、眠りを誘うような水の音や、急激な動きがあまり無い画面、ゆっくりと壁面だけをパンする映像など、油断するとあっという間に意識を失いますのでご注意を 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ハッピーエンド」

2018.03.13.20:47

またまた映画の話。昨日のゲルマンの「フルスタリョフ、車を」に比べれば、ハネケはまだ親切な分かりやすい映画を作るんだな、と納得した次第 笑) 今回はネタバレしません。

今日は日暮里で人と会うことになっていて、その帰りに有楽町で見てきました、ミヒャエル・ハネケ監督の表題作。ハネケは拙ブログでは「愛 アムール」「白いリボン」を紹介したことがありましたが、まあこの人はなんとも即物的な映像を作る人ですわ。

今回はスマホで写しているビデオがなんども使われます。特にスマホで始まり、スマホで終わります。月並みだけど、スマホが人々のつながりを薄めているということもあるんでしょう。お金持ちの一族もそれぞれみんな悩みや心配事を抱えているのは当たり前と言えばそうなんですが、その描き方がねぇ。ハネケ節満開ですわ。

それにしても、固定カメラで映っている画面、画面のどこで何が起こるかわからないから目を離せません。始まってすぐの工事現場のシーンもそうだし、息子がアパートに謝りに行くシーンもそう。え?っていう唐突な出来事が淡々と 笑)

例えば漱石の「門」が「それから」の続編と言えるとすれば「愛 アムール」の続編と言ってもいいでしょう。特にジャン・ルイ・トランティニアンの祖父が少女に告白するシーンを見れば納得すると思います。この少女、劇中では13歳ですが、むちゃくちゃ上手ですねぇ。普通の何もしない無表情の顔が自然すぎて、すごい。日本のいわゆる名子役たちって、なんか演技しすぎって感じがあってね。ところで、彼女なぜか I♡JapanのTシャツ着てます 笑)

最後もああいう終わり方をするのか、という終わり方。しかも音楽もなく突然の暗転。ハネケという人はよく言われるように、確かにイヂワルな人です。さらに言えば、「ピアニスト」でもそうだったけど、絶対ヘンタイです 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「フルスタリョフ、車を」

2018.03.13.08:13

先日に引き続き、ロシアンカルトシリーズで、ゲルマン監督の「フルスタリョフ、車を」を見てきました。平日の昼間なのに結構人が入っていましたね。驚きでした(もっとも途中で出て行った人もいましたが 笑)。このゲルマン監督のの「神々のたそがれ」は2度見に行ったことは書いたことがありました。

映画「神々のたそがれ」
再び映画「神々のたそがれ」

今回もびっくりさせられましたが、「神々〜」を見ていたので、ああ、よく似てるなと思いました。ワンカットが長く、その中でいろんな人がふざけているような行動を取るんだけど、それを逐一カメラが追わずに放っておく、というような不思議な感覚を味あわせてもらいましたわ。まあ、あえて言えば「フルスタリョフ〜」を見た後に「神々〜」を見るべきだったかな。

ただ、正直に言って、なんだかわからない。本当にわからない。特に始まってからしばらくの間は誰が誰だか、なにがなんだかわからないままです。狭い室内空間で、たくさん人が雑然と出てくるんですが、この人たちなんなの?(見ていくとどうやら家族らしいんですが結局説明らしい説明はないです) そんなところも「神々〜」と似てます。炎の色が白く映るような光度の高いハレーションを起こしそうな白黒画面だったり、音響の臨場感がすごかったり、いろんな無意味なものが雑然と置かれている室内や、騒々しく汚いのも「神々〜」と同じ。

登場人物の名前がドストエフスキーの小説の中の名前と同じ人が何人か出てきます。ソーニャ・マルメラードワは「罪と罰」のヒロインだし、ワルワーラも多分「貧しき人々」のヒロインの名前でしょう。他にもあるのかもしれません。だけどそれが何の意味があるのかがわかりません。

主役は脳外科医で軍の将軍でユダヤ人で、大家族なんだけど愛人がいたりして、その様子が「神々〜」と同じように乱雑で人々が入り混じり、勝手なことをしたり、叩き合ったりしています。随分たくさんの人が叩き合うんですが、それが演技じゃなく本気で叩いてるんじゃないか、と不安になるぐらい激しいです。

その彼が突然の失脚で極寒の収容所に連れて行かれ、囚人仲間にいわゆるカマを掘られたり殴られたり、雪の上を這いつくばったりとひどい目に遭わされますが、これまた突然解放され、瀕死のスターリンを診療して救うよう要請されます。でもスターリンは放屁しながら死にます。当然主人公は始末されるのかと思いきや、突然時間が10年飛んで、彼は電車に乗って飲み食いしているところで電車が遠ざかっていって映画は終わります。

冒頭が夜で車のヘッドライトが近づき、犬が駆け寄ってくるシーンでボイラーマンが殴られKGBに(?)拉致されるシーンで始まり、最後は10年後に出所したこのボイラーマンが電車に乗ると、主人公がいるというふうになっていて、このボイラーマンは全く無関係なんだけど、映画全体のワクみたいな役割を果たしてるようですが。。。

非常に不親切な映画だから、ストーリーを追うとか理解しようとすると腹が立ってくるかもしれません。ネットにある解説を読んでおくことはお勧めしますが、でもそうやって予習しても大して意味ないかも。ただ映像の動きにこちらの気分を同調させるのがいいのかもしれませんね。

いつかもう一度見てみたいと思うけど、なかなか根性入れないともたないなぁ。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「スタフ王の野蛮な狩り」(ネタバレ)

2018.03.10.23:20

IMG_1576.jpg
東京では今こんなシリーズを連続上映しています。今日は1979年のソ連製ホラー映画。ただし、ホラーなんていう言葉を使うとかなり誤解を呼びそうです。サスペンスというべきかな。何しろ上品だし、ロシア映画らしい画面の美しさがあります。

1980年ごろから90年頃にかけて、東京の巣鴨にあった三百人劇場というホールで、何度かソビエト映画の全貌というシリーズを上映しました。そこでこの映画を一度見ているんですが、途中の印象的なシーンをいくつか除くと、ほとんど内容は忘れていましたね。

1900年のベラルーシが舞台らしいです。嵐の晩に雨宿りのためにある邸宅に宿を乞うた若き民俗学者の青年。各地に伝わる伝説の収集をしているのですが、その邸宅には若く美しい女主人ナジェージダが、召使たちと住んでいます。そしてその召使が説明するところによると、17世紀、農奴制からの解放を求めた農民たちの反乱軍の頭領スタフ王を殺したのがこの館の先祖の領主で、スタフ王は殺される間際に領主の子孫を末代までもたたり続けてやると呪ったとのこと。

その後この一族には次々に不幸が重なったということで、末裔の娘であるナジェージダも、屋敷内で聞こえる物音などにおびえて暮らしています。スタフ王が三十人の騎馬兵を連れて人びとを狩るという噂もあります。

召使の老婆に魔物が憑くのを防ぐおまじないをしてもらったりするオールヌードのサービスシーンなんかもありますが 笑)ナジェージダの成人の祝いに集まった怪しげな連中と、そうした連中の変死事件が続き、主人公の青年もスタフ王の軍勢を実際に目撃したりします。

途中旅芸人の一座がスタフ王の物語の人形劇をやったりしますが、この人形劇がなかなか秀逸です。

しかし、変死事件の被害者となった召使の日記から、主人公は館内での不審な足音の正体と、スタフ王の正体も暴くことに成功。農民たちと、犯人を追い詰めます。

最後に青年は騒乱罪で逮捕されることになりますが、ナジェージダは、ラスコーリニコフについていくソーニャのように、彼についていくのでした。ちゃんちゃん。

この映画の最後のところで、今日は1901年の元旦だというセリフがあり、20世紀になったことが告げられます。同時に子供達の顔のアップがずっと移り、また、オカルトじみた事件の真相は理性できちんと謎解きできるものであることが暗示されますが、これって19世紀のスタフ王の亡霊のような迷信に踊らされる迷妄の時代が明けて、唯物論的・マルクス主義的・科学的な20世紀の始まりが宣言されているということなんでしょうね。20世紀を担う子供達のアップで終えないと、ソ連ではきっと上映させてもらえなかったのでしょう。

こうしてストーリーを思い出しつつ書いてみて、はたと思い当たりました。「スリーピー・ホロウ」というティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の映画がありました。首なし騎士の亡霊が人々の首を狩るというグロテスクでスプラッターなホラー映画。この映画はロシア版のスリーピー・ホロウの伝説みたいなものなのでしょうね。制作された時代も違うし、映画技術の面でもまるで違うから比べるのもどうかと思いますが、そういえば、こちらはオカルトのまま終わりましたね。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ハイドリヒを撃て」

2018.02.16.00:22

永山則夫で十分暗くなったところへ、なんでこんな映画を見たかなぁ 苦笑) いやあ、いろんなナチものを見てきたけど、この映画、これまで見てきた中で一番救いがない。

ハイドリヒはナチでナンバー3だった男で、彼の元でユダヤ人抹殺が決定された。そのハイドリヒを、イギリスに亡命していたチェコ人とスロバキア人がパラシュート降下して暗殺するよう命じられる。

これは史実だし、他にも「暁の七人」やフリッツ・ラング監督の「死刑執行人もまた死す」という、ハイドリヒ暗殺の映画があるし、文学作品でもローラン・ビネの「HHhH」という小説を紹介したこともある。だから結末はわかっているし、ハイドリヒ暗殺が成功したことによって、その後リディツェという村がナチスによって消滅させられたこと、プラハのレジスタンス組織が完全に壊滅したこと、関係者たちがむごたらしく殺害されたこともわかっている。映画によればハイドリヒ一人が暗殺されたことで、ナチスは五千人以上のチェコ人を報復のために殺害(そのほとんどはただの市民だ)したそうである。

主人公の暗殺者の一人が、プラハのレジスタンス組織から、殺害の具体的な計画や、逃亡のこと、それによって予想されるナチスによる報復などを問いただされると、彼はこういう、「命令なのだ。」 

これってアイヒマンと同じじゃないのか? ユダヤ人をアウシュヴィッツへ送るGoサインを出したアイヒマン、戦後15年経って南米に逃げていたところをつかまり、イスラエルで裁判にかけられて絞首刑になったナチスの中佐だ。これについても拙ブログでは「アイヒマンを追え」という映画を紹介したことがある。彼は裁判で「自分は上からの命令に従い、なすべきことを『誠実に』なしたのだ」と胸を張って言った、自分はユダヤ人を直接この手で殺したことは一度もない、と。

裁判を傍聴した哲学者のハンナ・アーレントは「凡庸な悪」という言葉で、自分の行いによってどんな結果が生じるかを考えず、命令されたことを諄々と行う組織の歯車の一員であったアイヒマンを語り、ユダヤ人社会から激しいバッシングを受けることになる。

それはともかく、ハイドリヒを暗殺すればどうなるかはわかりきっていたはずだ。そもそも暗殺せよとチャーチルが命じたのだろうけど、この命令そのものがあまりにずさんだ。どうやって暗殺するかは決まっていない。プラハのレジスタンスと相談せよというわけである。暗殺後の逃走経路だって決まってない。場当たり的な暗殺計画なのである。レジスタンス側はこの計画に反対したし、実際、暗殺計画は失敗した。一週間後にハイドリヒが死んだのはこの時の傷が、たまたま敗血症を発症したからである。

同じように救いがないナチものの映画はたくさんある。例えば「白バラの祈り」なんてのもなんの救いもないし、軍人たちによるヒトラー暗殺失敗を描いた「ワルキューレ」なんかも救いがない。最近の「ヒトラー暗殺、13分の誤算」「ヒトラーへの285枚の葉書」なんかもそうだ。

だけど、このハイドリヒを撃ては、イギリスで現地の状況なんか全く省みることのない最高責任者や参謀達が、ハイドリヒを殺してこい、と命令し、命令された方も、現地のレジスタンスや匿ってくれた人たちの危険など顧みず、結局みんな死んでしまうし、無関係の人たちもたくさん死ぬ。

「白バラの祈り」や「ワルキューレ」、あるいは「ヒトラー暗殺」や「285枚の葉書」は抵抗運動をした「英雄」たちの話で、自分たちは死んでしまうが、他の無実の人間たちを巻き込むことはない(285枚の原作「ベルリンに一人死す」は無実の親類も巻き込まれてしまうが)。だけど、ここでの暗殺者たちは単純に「英雄」と言ってしまっていいのかどうか。例えばこれも前に紹介したデンマーク映画「誰がため」では、反ナチスの暗殺者二人は、直接ドイツ人を殺せば報復として無関係なデンマーク人が何人も殺されることがわかっているから、彼らが狙うのはナチに迎合しているデンマーク人だった。

映画の作りとしては、徹底して暗殺者の側だけを描き、ドイツ側の事情などは全く描かない。例えば同じハイドリヒ暗殺を描いた「暁の七人」では、ハイドリヒ(アントン・ディフリングという俳優がやっていた)がいかに凶々しいかが描かれるシーンがある。また、戦時中に作られた、まさにアップ・トゥ・デイトな「死刑執行人もまた死す」でのハイドリヒも憎々しげな悪党ぶりを見せる。だけどこの映画では劇中ハイドリヒが出てくるのは襲撃シーンだけ。ドイツ側にズームアップされる人物はなく、ナチスの側の冷酷無比度はハンパがない。最近はナチス側の事情にやや甘めの映画が多かったから、この点についてはすがすがしさすら感じる。

と書きながら、もう一度見たいとは、全く思わない。最初に書いたように、なんでこの時期にこんな惨憺たる映画を見ちまったんだろうなぁ、と多少の後悔すら感じている 苦笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「シェーン」とアラン・ラッド

2018.02.05.18:43

アラン・ラッドと言っても、普通の人は知らないでしょうね。映画「シェーン」の俳優だと言えば思い浮かぶ人も多いかと思う。個人的には映画史上ナンバーワンの美男俳優だと思っているんだけど、これを言っても同意してくれる人はあんまりいない 苦笑)
IMG_1445_convert_20180205181003.jpg

「シェーン」は僕が生まれて初めて一人で映画館で見た映画。多分中学1年の時、渋谷のプラネタリウムがあった東急の映画館で見たんじゃないかと思う。高校時代には原作本が出て、それも買って読んだけど、映画の印象が強くて、映画と違うシェーンの黒っぽい服装とか、会話の口調とかにいまひとつな感じがした(上の写真は当時のパンフレットと原作本)。

なんで「シェーン」が見たかったか、と言われてもよくわからない。ただ、母親が熱烈な洋画ファンで、特にタイロン・パワー(この俳優の顔がすぐに思い浮かぶ人はかなりのマニアか70以上かな)が好きで、いろんな話を聞かされた。ちなみに母はグレゴリー・ペックをダイコンと言っていた 笑)ペックはともかく、「シェーン」も、もしかしたら母から聞いたのかもしれない。ただ母が西部劇を見るかなあ、という気もするが。

で「シェーン」だ。この後TVでもなんども放映され、その度に見たから、多分なんども見た。ある時、え〜っ? 「シェーン」ってこんな映画だったんだぁ、とびっくりしたのは、シェーンとジョーとその奥さんのマリアンの三角関係の話だということに気がついた時だ。

子供の時に見た時はそんなことまるで気がつかなかったし、印象は何しろ殺し屋ガンマンのジャック・パランスとシェーンの決闘シーンばかりが強く記憶に残ったんだったと思う。実はこの西部劇はピストルを撃つシーンは3回しかない。シェーンがジョーイ少年にせがまれて、石を撃つシーンと、殺し屋ジャック・パランスがエリッシャ・クック・ジュニアの気弱いくせに無理している開拓者を撃ち殺すシーン。そして最後の決闘シーン。

多分、これは当時TVでよく放映されていた普通の西部劇、バンバン撃ち合いばかりだった西部劇とは随分違っていたのではないかと思う。今見直してみると、クラフトンの雑貨屋のカタログのような細部のこだわりがすごいし、銃声が3回しかない分、その音がTVで見ていた西部劇とは違って、ものすごい迫力だった。子供の頃は善良な開拓民に対して、極悪な牧畜カウボーイたちの戦いだと単純に考えていた。でも、何度か見て、シェーンに撃ち殺される牧畜業者にも言い分があり、それがきちんと描かれていることがわかってきた。単なる水戸黄門みたいな勧善懲悪ドラマではなかった。

この映画の中で唯一、本当の悪党であるジャック・パランスややった黒ずくめの殺し屋は、エリッシャ・クック・Jrを撃ち殺した後も笑みを浮かべている。殺しに慣れているのである。人殺しを楽しんでいるのである。しかし、シェーンも実は同じ穴のむじなであることが最後にわかる。彼はパランスと牧畜業者の親玉を撃ち殺した後、銃をくるくると回転させてホルスターに納めるのである。つまり、彼もまた人殺しに慣れていて、人を殺した後、自分の銃さばきに酔って、「いつものように」慣れた手つきで格好をつけるのである。

そう考えると、最初の方で、ジョーイ少年が持っていたライフルのカチャッという音に反応する様は、実は彼はお尋ね者で賞金稼ぎに追われているのではないか、と思われる節もある。最後にシェーンがジョーイ少年に語る「殺しの烙印」という言葉も、今回の三人を殺しただけでなく、それ以前にかなりたくさんの人間を殺してきたことを暗示しているのだろう。

何れにしても、この最後のシーンのアラン・ラッドの美男ぶりには、男の僕で惚れ惚れする。
cd17acb243b839868cb3dac2be46cd09.jpg


アラン・ラッドは「シェーン」だけで名を残していると言ってもいいだろうけど、調べると結構面白い映画に出ている。その一番手は「拳銃貸します」かな。映画としては突っ込みどころがいっぱいあるけど、アラン・ラッドがやった帽子をかぶった殺し屋。この時ラッドは29歳。子供に優しく、猫を可愛がり、猫を虐待するおばさんをひっぱたき、ターゲットを非情に殺すという役柄だけど、小柄なラッドがシャープな動きでなかなか良い。コートの襟を立てて表情をあまり表さないところは、多分アラン・ドロンが「サムライ」でやった殺し屋がこのラッドのパクリ(オマージュともいう 笑)ではないかと思うんだけど。
ThisGunForHire1.jpg

他にも「華麗なるギャッツビー」が原作の「暗黒街の巨頭」も悪くない。レッドフォードがやったのと比べると、ラッド版の方がギャッツビーの嘘つき度合いが高いかな。それとこの映画では惚れた女と再会するところの煩悶の演技がなかなか見せます 笑)ただ、最初と最後が友人の回顧録みたいになっていて、すごいやつだったといい続けられるんだけど、どこがすごいのかが、ひとつよく分からない(もっともこれはレッドフォード版でもそうだと思うけど。ちなみにデカプリオ版もあるけど、これは見てません)。それにレッドフォードよりもアラン・ラッドの方がずっと二枚目だと思うけどどうだろう?
aladdo-07.jpg

あと、昔はTVでも放映していた「島の女」(原題は「イルカに乗った少年」で、TV放映の時はこの題名だったんじゃないかなぁ)は、ソフィア・ローレンと共演で、これは体格負けしてたかなぁ。それと、この時ラッドは40代後半で、やや顎のラインもふっくらしてて、若いグラマーなローレンはともかく、ラッドを見たくてというと、ちょっとがっかりします。

他にもツタヤディスカスで検索すると、やはり29歳の時の「ガラスの鍵」とか、33歳の時の「青い戦慄」なんていう、いわゆるフィルム・ノワールや、「別働隊」という37歳の時に主演したサスペンスで、全盛期の二枚目ぶりを見ることができるので、興味ある人はどうぞ。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「9日目 ヒトラーに捧げる祈り」(ネタバレ)

2018.02.01.01:41

少し前までは拙ブログでも何度か引用したマルティン・ニーメラー牧師の詩がある(長くなるからここに引用はしないので、興味があればリンク先をみてください)。このニーメラー牧師もナチ時代に収容されていたのがダッハウの強制収容所、聖職者ブロックで、この映画での重要な舞台になる。

まあ、この手の映画は題名や副題に必ずヒトラーが入る 笑) ちょっと思い出すだけでも、「スターリングラード大進撃、ヒトラーの蒼き野望」とか、「ヒトラーへの285枚の葉書」とか「ヒトラー最後の代理人」とか、「ヒトラーの忘れもの」とか「ヒトラーの審判、アイヒマン最後の告白」とか、「ヒトラーの追跡」とか「顔のないヒトラーたち」とか、まだまだある。「わが教え子ヒトラー」に「ヒトラーの贋札」「ヒトラー暗殺、13分の誤算」とか「ホロコースト、アドルフ・ヒトラーの洗礼」なんてのもあった。最近も「ヒトラーに屈しなかった国王」なんかがある。まだ見てないけど。

いや、「ヒトラー最後の12日間」とか「帰ってきたヒトラー」とか、トム・シリングが若きヒトラーを演じた(まさしく怪演!!)「我が闘争、若き日のヒトラー」みたいに実際にヒトラーが出てくるならまだしも、上記の「スターリングラード大進撃、ヒトラーの蒼き野望」なんて拾い物のいい映画だったけど、ヒトラーもスターリングラードも大進撃も野望も全くでてこなかったもんね。ヒトラーが主役の「ヒトラー最後の12日間」や「帰ってきたヒトラー」だって原題にはヒトラーのヒの字もない。いわんや、ヒトラーが全く出てこない上に羅列した映画の原題においてをや(だけど、どれもそれぞれ良い映画だったことは強調しておきます)。

というわけで、この映画にも副題に「ヒトラーに捧げる祈り」っていう全く意味不明の副題が付いているけど、ストーリーは、というとこんな感じ。バイエルン州のダッハウ強制収容所にあった聖職者ブロックに、反ナチ的行為によって収監されていたルクセンブルク人神父のクレーマーがなぜか突然釈放されて帰国する。そしてそこでナチス親衛隊の少尉から、ナチスに協力しないルクセンブルク大司教を懐柔して、ナチスとカトリック教会の橋渡しを務めるよう命じられる。ルクセンブルク大司教はバチカンのローマ法王とも親しく、もし彼がルクセンブルクを占領しているナチスを認めれば、バチカンとナチスの関係がより一層深まるわけである。そして、クレーマーが万が一逃げた場合はダッハウの神父たちは皆殺しにされ、逆に大司教の懐柔に成功すれば神父たちは解放される。猶予は9日間。もし失敗すればクレーマーは再びダッハウへ戻らなければならない。

冒頭ではダッハウでの過酷な強制労働の様子やポーランド人神父の虐殺が描かれ、収容所の描写として、その過酷さが上手く描かれていると思う。無論、アウシュヴィッツのユダヤ人たちを描いた「サウルの息子」みたいな圧倒的な臨場感はないけど(「サウル」は別格だから比べたら気の毒か)。

冒頭、重労働に苦しむクレーマーにノルウェー人神父がわずかな水を分け与えるシーンがある。そして、帰国を許されたクレーマーが汽車に揺られていると、向かいの少年が彼にパンを分け与えてくれるシーンがある。さらに、親衛隊少尉からもらったチョコレートを、クレーマーが道で遊ぶ幼い少女に与えるシーンがある。施しの重要性が強調されるが、映画が進んでいくと、クレーマーは最初に水を分けてくれた神父が弱っていた時に、彼を見捨てた過去を抱えていることがわかる。

ところで、聖職者だからみんな強制収容所へ送られたわけではなく、反ナチ的発言や行動によって収容されたわけで、主人公のクレーマーもパリでパルチザンと接触指導していたことがある。まあ、神を信じる宗教者であれば、ナチスの人種思想に反感を持つのは当たり前だろうけど。そんな彼が釈放されたのは、ルクセンブルクの大司教とのつながりがあるのと、彼の家族がルクセンブルク経済界の大物という一族だからである。

ヴィキペディア(ドイツ語)で調べてみると、最初は適当に振り分けられて一般収監者たちと一緒にいた聖職者たちは、1940年末にダッハウに作られた聖職者ブロックに集められたそうで、収容延べ人数は2700人ほどだった。そのうち1000人余りが死亡(死亡率45%強)した。国籍別ではポーランド人が65%強。ポーランドはカトリック国で、そこでの神父の影響力は非常に高かったから、スラブ民族を奴隷化しようとしたナチスにとってはインテリたちと同様、邪魔な存在だったわけである。だから、この映画の中でもポーランド人神父が虐待の末に残虐に処刑される。まあ、それでもドイツ国内の強制収容所は、アウシュヴィッツを始めとするドイツ国外の強制収容所よりはまだマシだったそうだし、そんな中でも聖職者ブロックの収容者たちは、一般の収容者たちに比べればずっとマシだったそうだ(死亡率45%強でも!!)。特にカトリックの場合はバチカン(=ローマ法王)のプレッシャーがあったようで、ミサ用にワインが出たりビールが出たらしい。

さて、この映画のキーワードは「ユダ」だ。慇懃でありながら峻厳という、いかにもナチエリートの雰囲気を持った親衛隊少尉は、もともと神父になろうとしていたのに、それが実現する直前に親衛隊に入隊したという経歴で、論文のテーマもユダだったという設定。しかもルクセンブルク大司教を懐柔できなければ、自分自身が東欧の強制収容所に左遷させられることになっている。だから彼も必死である。というのは、彼は一度すでに強制収容所で働いていた過去があるからである。とは言っても、エリートだから強制収容所で働いていたという過去も、看守とか、そういう下っ端だったわけではなかったのだろう。本人も、そこで自分は何もしなかった(=囚人を虐待・殺害しなかった)と言っている。ただ、何が起きているかは見ていたと言っている。

さて、その少尉は主人公クレーマーにユダになれと言う。もちろん、ユダはイエスを銀貨30枚でローマに売り渡した裏切り者である。だけど、逆説的に考えれば、ユダの裏切りによってイエスはキリストになったとも言えるわけである。このようなユダの役割は、最近のユダ福音書の発見による後付けで(拙ブログでも小嵐九八郎の「天のお父っとなぜに見捨てる」で、こうしたユダの役割について紹介したことがある)、ナチスの時代にこんなことをいう人はいなかったんだろうと思うけど。要するにユダがいなければイエスは殺されなかったし、その後の弟子たちの布教と殉教死もなかったわけで、キリスト教という宗教が成り立ち得なかった。つまりユダはイエスを裏切ることにより(神の意思だ!)、イエスを永遠なものにするとともに、キリスト教を成立させる、という複雑な役割を担ったというわけである。

つまりここには、少尉自身が、神父になる直前に教会を捨ててナチに加わったという意味で、神に対して負い目があり、また他方で、主人公のクレーマー自身が、苦しい時にコップ一杯の水を分けてくれたあのノルウェー人神父が弱っている時に、労働現場で見つけた水(壊れた水道管から垂れる雫に過ぎないのだが)を分け与えなかった、という負い目を抱えている。そして、少尉は、あのまま神父になっていたら何もできなかったが、ナチスに入党することにより世界史に名を残すことが出来ると夢想する。つまりユダが裏切ったことによってキリスト教が成り立ったことと自らを重ねている。

友を見捨てたクレーマーにも、個人的なナチへの反感を捨てて(つまり神父としての良心を捨てて)大司教を説得すれば、彼の家族はもちろん、収容所にいる神父たちも開放すると約束される。さて、クレーマーは自らの意思を裏切るユダとなって、ルクセンブルク大司教を説得するのか、それともダッハウへ戻ることになるのか? って、まあ、戻るに決まってますわなあ。

映画のテーマとしては地味(だから日本では公開されなかったんだろう)だけど、個人的にはかなり面白かった。特に親衛隊役のアウグスト・ディールがはまり役だった。彼もルクセンブルク大司教の懐柔に失敗したので東欧の強制収容所の高官として左遷させられ、戦後は戦犯として処刑される運命が待っているのかもしれない。一方、主役のクレーマーをやったウルリヒ・マッテスは「ヒトラー最後の12日間」で、全く似てないゲッベルス(笑)をやった俳優だけど、何しろ容貌魁偉、ガリガリの頰と金壺まなこは一度見たら忘れられない。収容所に入れられた神父という役はある意味ぴったりだろう。

映像的にも墓地のシーンの色調を抑えた色合いや、帽子をかぶってマントを羽織ったクレーマーのシルエットなど印象的だった。ルクセンブルクで撮影したのだろうと思うけど、谷間の上にある坂の多い町の風景や建物や橋(?)なども記憶に残りそうな美しさ。監督は「ブリキの太鼓」や「魔王」、「シャトーブリアンからの手紙」や「パリよ、永遠に」のフォルカー・シュレンドルフ。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「手紙は覚えている」 危険! 完全ネタバレ

2018.01.19.01:29

この映画はネタバレしたら面白さは半減ですので、観てない方は絶対に読まないように。そしてもし可能ならこの映画を観てから読んでくださいませ。

いや、驚愕のラストという映画は色々あることでしょうけど、これほど衝撃的な終わりはあまりないです。その点ではどなたにもお勧めできます。鬱エンドがダメという人は除く 笑)

**以下完全ネタバレです**

現在のアメリカ、90歳になる主人公ゼヴは認知症を患っていて、半年前から夫婦で施設に入所していましたが、1週間ほど前に奥さんを亡くしています。この主人公の老人をやってるのがサウンド・オブ・ミュージックのトラップ大佐のクリストファー・プラマー。寝ていて目がさめるたびに、必ず「ルース」と先立ってしまった奥さんの名前を呼びながら起きるんです。これがなんとも辛い。

奥さんのユダヤ教による服喪があける行事で、ゼヴもその息子もユダヤの帽子をかぶっていて、どうやらユダヤ人の一族であることがわかります。そして同じ施設にいる車椅子のマックスから、アウシュヴィッツの看守長で自分たちの家族を殺したルディ・コランダーという男に復讐するという約束を果たせ、と言われます。

ところが認知症のゼヴはその約束をしたことを覚えてない。そこでマックスが全てやるべきことを一部始終手紙に書いてゼヴに渡します。ゼヴは施設の職員のいない隙をついて、マックスが手配したタクシーに乗り込み、計画を実行しようとします。

復讐すべき相手はルディ・コランダーの偽名で元囚人のふりをしてアメリカへ逃げたとされ、その名前の人間はアメリカとカナダに4人いて、ゼヴは途中で拳銃を手に入れて、一人ずつ会いに行くんですが、これが一種のロードムービーみたいで、電車や長距離バスの車内からの風景も美しく、うたた寝して目がさめるたびに「ルース」と亡き妻の名を呼ぶ老人の姿に、なんとも胸がつぶれる思いがします。

一人目のルディ・コランダーはブルーノ・ガンツがやっていて、元国防軍の兵士でロンメルの元で戦ったことがわかります。二人目は寝たきりの老人でアウシュヴィッツにいたと言いますが、看守ではなく同性愛で収容されていたことがわかり、これもハズレ。三人目はすでに3ヶ月前に亡くなっていて、その息子の州警察の警官にもてなされますが、やはりアウシュヴィッツの看守ではなかったことがわかります。で、この息子がハーケンクロイツの旗を壁に貼り、ヒムラーの写真を飾っている、絵に描いたようなネオナチ野郎で、ゼヴはユダヤ人の正体がばれて罵られ、犬をけしかけられて彼を撃ち殺してしまいます。

ついに四人目のルディ・コランダー、本名オットー・ヴァリシュのところへ。これが「Uボート」でヒゲ面の艦長をやったユルゲン・プロホノフ。多分かなり老けメイクをしているのだと思いますが、最初見たときは誰だかまるでわかりませんでした。名前を見てかなりのショックでしたね 笑)

さてこのコランダーがゼヴとの再会を喜んでいるように見えるんですね。このあたりから、あれ? これは何かあるな、と思わせます。いや、それ以前のところでゼヴがピアノでワーグナーを演奏するんですね。いうまでもなくワーグナーはユダヤ人にとっては憎むべき作曲家でしょう。ワーグナー自身は無論19世紀に死んでますから迷惑な話でしょうけど、ヒトラー始めナチが一番もてはやした音楽家ですからね(無論ワーグナー自身も反ユダヤ的なことを言ったり書いたりしています)。

さて、ゼヴはコランダーに、家族の前で自分の正体を正直に言えとピストルで脅し、そこに行方不明の父を探していた息子も到着、クライマックスとなります。

で、ホントのホントに、完全ネタバレです。

ピストルを手にコランダーに迫ったゼヴは、コランダーからゼヴこそがオットー・ヴァリシュであることを告げられます。二人ともにアウシュヴィッツの看守長でたくさんのユダヤ人を殺し、戦後、二人で囚人番号の刺青を彫り合って逃げたということがわかります。ゼヴはコランダーを撃ち殺し、「思い出した」(これがこの映画の原題)と言って自殺します。

施設ではこの事件を報じるニュースを見ながら、マックスが全ては自分が仕組んだ通りに進んだことを知るわけですが、その表情は満足感とは程遠いものです。

話としてはとてもうまくできていて、何しろ主人公のクリストファー・プラマーは目がさめるたびに「ルース」と亡き奥さんの名前を呼ぶので、思いっきり感情移入。なんとかうまくことが運べばいいが、と思うわけです。だから三番目のコランダーの場面ではネオナチ野郎を撃ち殺すシーンも、第三のボスキャラをやっつけた感じで、いよいよ本丸へ、と気持ちは高ぶります。で、最終ボスキャラかと思ったら、探していたのは実は自分だったなんていう正邪逆転の大どんでん返しですからね。

ただ、見てしばらく経ってみると、マックスが全てを操っていたというのが今ひとつ面白くない。おそらく冒頭の約束というのも、実際にはしていなかったのでしょう。だから、マックスがゼヴの認知症につけ込んで、最初から全てを仕組んだ上でのことだったのでしょう。

それから認知症と言っても、自分のナチ時代を丸々すっぽりと忘れるなんてことがあるのかどうか。途中、クリスタルナハトというナチの暴虐事件のことは覚えていたりするわけですから、ちょっと都合良すぎない?って感じもあります。また、息子もユダヤ教徒であることがわかりますが、ゼヴはユダヤ人ではなかったわけで、戦後アメリカへ渡ってユダヤ人のふりをしてたのでしょうけど、変な話、割礼はどうしたんでしょう? 息子の様子から見れば、熱心なユダヤ教徒のようなので割礼しているわけでしょうけど、お父さんは??

確かにドストエフスキーの小説によく出てくるように、嘘をつき続けた人間が自分のついた嘘を真実であると信じてしまうことってあるのかもしれないけど、それでも認知症だからといって、戦前の記憶がフラッシュバックしないはずはないと思うんだけど。と、映画の粗探しっていうのはあまりすべきではないかもしれないんですけどね。

途中ピアノを弾くシーンが2回出てきて、一つは上に書いたようにワーグナーを演奏するんですが、クリストファー・プラマーはもともと音楽家になりたかったそうだからものすごく達者なものです。しかし、その前に、彼がメンデルスゾーンを弾くシーンで、彼のピアノの先生がユダヤ人だったことが暗示されているので、ゼヴことオットー・ヴァリシュ及びその家族はユダヤ人に対して反感を感じてはいなかったということなのでしょう。だけど、たとえそうだとしても、アウシュヴィッツの看守長になれば、たくさんの人を殺さなければならなかった。そしてうまく逃げ、そして忘れた。

ナチに限らず、戦争という「国家」が始めたことに、「個人」が巻き込まれていく時のおぞましさを感じさせられます。文句もいっぱいつけたけど、でも素晴らしい映画でした。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「栄光のランナー 1936年ベルリン」

2018.01.02.23:28



今年は映画の話から。「ヒトラーのオリンピック」で金メダル4つを獲得したアフリカ系アメリカ人、ジェシー・オウエンスの映画。いやあ、面白かった。ちょうど去年の末からフィリップ・カーのミステリー、ベルニー・グンターシリーズを読みふけっていて、最後の「死者は語らずとも」がベルリンオリンピック直前を舞台にしていて、ブランデージのことが出てきたりしたのと、以前読んだナゴルスキーの「ヒトラーランド」で書かれていたオウエンスの話なども思い浮かべて、とても面白く見ることができた。

こういう実在の過去のアスリートの映画というと、「炎のランナー」を連想するのだけど、どうも僕は苦手(だって、市川崑の「東京オリンピック」なんかを思い出せば、感動させようという作為が気持ち悪くて見てられないでしょ?)だけど、この映画ではオウエンスの走るシーンを感動的に盛り上げるようなことをしていない点も好感を持った。

ただ、主な登場人物のうちの三人については、ちょっと言いたいこともある。

まず、リーフェンシュタールが、単に映画を撮ることだけに夢中で、人種的偏見もないし、ナチの思想にも無関心な人で、しかもゲッベルスが撮影に横槍を入れてきたかのように描かれていたけど、完全に彼女の自伝で述べている話をそのまま使っているような気がした。彼女の自伝が信ぴょう性に疑問符が付いているのは有名な話である。

それからジェレミー・アイアンズが演じたアベリー・ブランデージ。この人はナチスの人種差別政策に対して、この映画で見られるような反感など感じていなかっただろう。冒頭に書いたカーのミステリーでもブランデージはむしろ悪役。そして、実際、ナチスに親近感を抱いていたと思われるような発言を繰り返しているし、この映画のように、ゲッベルスに脅されて、ユダヤ系の選手をリレーから外すという「苦渋の決断」はなかっただろうと思われる。ブランデージがレイシストであったことは、多分間違いない。

そして、オウエンスの好敵手として有名なルッツ・ロング。ダフィト・クロースという、個人的には最近よく見る若い俳優がやっていて(「愛を読む人」、「戦火の馬」、「フリッツ・バウアー」、「ミヒャエル・コールハース」)、好感が持てるんだけど、歴史上、あそこまで反ナチ的な気持ちがあったのかどうか。確かにこの後弁護士になり、インテリだったことは間違いないようだけど、ちょっとあまりに良い人にしすぎじゃないだろうか。ただし、リーフェンシュタールやブランデージと違って、こちらは本当のところはどうなのかわからないけど。

主人公のオウエンスの愛嬌のある顔や、典型的な美人顔のレニ・リーフェンシュタール(これは「ブラックブック」のオランダ人美人女優カリス・ファン・ハウテン)は雰囲気がよく出ていたし、ある程度似ていて違和感なく見られた。

それに対して、違和感という点で決定的なのはゲッベルスだ。小柄なのはいいとしても、ゲッベルスは小児麻痺の後遺症で歩き方に特徴があったはずだし、何より吸血鬼のような、唇が薄く酷薄な、そしてちょっと狂気を帯びたようなアジテーターの雰囲気がまるでない。むしろ結構端正な二枚目で、髪型も違うし、絶対ゲッベルスに見えない。

肝心のヒトラーはアップや正面がほとんど無いことで、うまくかわしているだけに、あのゲッベルスだけは許せん! 笑)

それから、オウエンスは母国アメリカで黒人として差別され続け、ベルリンオリンピックで優勝した後も差別され続け、馬と競争させられたりしたわけで、その点についてはほとんど触れられていなかったのも不満。

それに対して、ベルリンでは、この映画でもほんの少しだけ出てくるけど、当初不安を感じていたような差別を受けることはなく、それどころかすごい人気者になった。帰国後、彼はこう言っている。「わたしはドイツではつねに、礼儀正しさと思いやりを持った対応を受けた。アメリカ国内のどの土地であっても、ドイツで過ごしたのと同じくらいの年月を、頻繁とはいわずとも、個人的な侮辱や差別を少しも受けずに過ごすことは不可能だっただろう。ドイツでは、そんな思いをしたことは一度もない」(ナゴルスキ「ヒトラーランド」p.293)

オリンピックから5年後には強制収容所やポーランドやソ連で、多くの人たちを大量生産マシーンのように殺していったドイツ人たちは、このオリンピックの時期だけ、羊の皮をかぶっていたのだろうか?そんなはずはない。

連想するのは辺見庸の「1937」に出てきた話だ。1937年、ヘレン・ケラーが来日して大歓迎された。人々はヘレン・ケラーに感動し、講演中に彼女の財布が盗まれるという事件が起きた時、数多くの人たちが日本人として詫びる手紙を彼女に送った。そしてそのような日本人が、その同じ年の12月、南京で「人間の想像力の限界が試されるような」大虐殺をし、国内ではそれを祝って提灯行列が大々的に行われた。

結局正月早々、またまた拙ブログのモットーが出てくる。世の中には99.99%の普通の人と0.01%がいるわけではなく、普通の人が良いことも悪いこともする。最初に書いたベルニー・グンターシリーズの中で探偵グンターがシニカルに語る言葉はこんなだ。

「この前の戦争で何か一つ証明されたことがあったとしたら、それは、誰でも誰かを殺せるということだ。必要なのは口実だけ。そして、銃だけさ。」



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「否定と肯定」

2017.12.25.23:59

IMG_1315.jpg

あまりに現在の社会の状況にドンピシャ当てはまることばかりで、もう個人的にもデジャヴ感満載の映画だった。パンフレットに木村草太が書いていることは、そこに何も付け加えることがないぐらいこの映画と現代の日本を結びつけてくれる。

個人的にも今年はFBのあるグループで南京虐殺全否定の女性とやりあって呆れ返ったので、この映画を見ながら、そして「悪役」のアーヴィング(ティモシー・スポールという俳優で、憎まれ役を実にうまく演じている。画家ターナーの役をやっているそうだ)の主張を聞きながら、ずっとそれを思い出していた。

否定派のやり方は洋の東西を問わず同じだ。それは、一点突破方式で、それが通れば全否定。ガス室はなかったと主張し、生存者に向かってドアは右にあったか左にあったかを問うて、各生存者の主張に齟齬があれば、それで彼らを嘘つき呼ばわりしてガス室の存在も全否定する。

ガス室に、生存者が証言した煙突状の毒ガスを放り込んだ穴があったというところを捉えて、それが見つからない、つまり穴がないかった以上ガス室はなかったと言い張る。木を見て森を見ないやり方だが、これが思ったより効果的なのは、例えば朝日の従軍慰安婦問題を思い出せば明らかだ。

吉田某が嘘をついていたから従軍慰安婦はいなかったという、例の朝日事件。朝日が謝罪したことで、一気に従軍慰安婦はいなかったことにされた。少し前までは吉田の嘘を暴いた秦郁彦自らが、「これを持って従軍慰安婦の強制連行がなかったということはできない」と言っていた(現在の秦郁彦がどう言っているかは知らない)。そういう慎みがあったのだ。

いずれにせよ、前にも書いたことだが、否定派は事実がどうであれ、否定していることを世間に知らせ、それによって世間に、この問題(この映画ではアウシュヴィッツ)が、肯定する人もいれば否定する人もいるのだと思わせておくことができれば、それで目的は達成できたわけである。マスコミも両論併記などと言って、自分たちの判断を棚上げして両論併記することで「公平中立」と思い込む。

アーヴィングは裁判で負けた後も、相変わらず言い逃れを続け、裁判の判決など意味がないような顔をする。この点も、洋の東西を問わず、歴史改竄主義者たちのやり口は同じだ。論破されても同じことを言い続ける。真実はどうでもいい、嘘でも言い続ければ、それを信じたがる連中もいる。だからこういう人たちとは同じ土俵で議論しても時間の無駄で、以前書いたように、お祓いの方が有効な手立てである 笑)

ところで、この映画は実話で、登場人物たちも実在の人物だそうだ。主人公のリップシュタットはもちろん、アーヴィングも存命である。それなのにこういう映画を作れるということにおどろかされる。アーヴィングのやったことは、資料のうち、自分の主張に都合の良いところだけを抜き出し、都合の悪いことには触れずにおくというもので、それは裁判所が指摘して、アーヴィングの敗訴となったわけなのである。しかし、同じようなことはすでに日本の裁判所でもあって、例えば南京事件は裁判所が一貫して大虐殺があったことを認定している。しかし、日本ではこんな映画は作れないだろう。両論併記の掛け声に真実と嘘を併記するようなマスコミの国では絶対無理だろう。

それはともかく、強く印象に残ったシーンがある。主人公の弁護団がアウシュヴィッツを見に行くシーンで、法廷弁護士が、主人公からアウシュヴィッツを見てどう感じたかと質問されて言うセリフ。

「恥を感じた。もし自分があのような立場に立たされたら、自分だって同じことをしただろう」

彼は殺されたユダヤ人たちのことではなく、ユダヤ人を殺した者たちの立場に自分を置いて考えたのだ。この視点が多くの人には欠けているのではないか、強くそう思う。

映画は月曜の2時半からの回を見たのだけど、7割がた埋まっていて、しかも思ったより若い人も多かった。映画としてもとても面白かった。すでに結果は最初から知られているわけだから(ヴィキペディアの日本語版でもこの裁判については書かれている)、そういう意味ではハラハラドキドキする法廷劇というものではないけど、主人公リップシュタットの心情の変化やイギリスの裁判の特徴、事務弁護士(これはTVの「シャーロック」でモリアティをやっていた俳優だった)と法廷弁護士がいることなど、いろんな意味で面白かった。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

チェコスロバキア映画「火葬人」(ネタバレ)

2017.12.01.23:59

いやあ、気持ちの悪い映画でした。短いクローズアップのショットを重ねたり、広角レンズ(?)のアップを使ったりして、白黒映画ですが、ちょっとおどろおどろしい雰囲気。主人公の男がまたなんか気持ちが悪い。ぶつぶつ喋り続けるんだけど、どうもその内容も火葬という自分の仕事に取り憑かれているような狂気を帯びている。ユーチューブに全編があったけど、字幕なし。でも、映像の雰囲気だけでも味わえますので、おヒマでしたら適当なところを見てみてください。短いカットと不気味なクローズアップに気持ち悪くなること請け合い 笑)



チェコスロバキアというと、気持ちの悪い人形劇映画のシュヴァンクマイエルという監督がいる。このコマ撮り人形による不気味な世界とは違うんだけど、どこか不安を煽るような感じに、それに通じるものがあるのかも。あるいは半年ぐらい前にミステリーチャンネルでやっていたチェコ製のミステリー。これもグロテスクでなんか独特の雰囲気があった。そういえば、そのミステリーでキーになっていたのがヒエロニムス・ボッスの絵だったけど、この映画でも全く同じ絵が出てくるシーンがある。

オーストリアがナチに併合された(1938年)とか、チェコの国境そばまでナチスが近づいているというセリフがあるから、舞台設定は1938年末か39年初めだろう。戦争直前の雰囲気の中で、主人公は20年間プラハの火葬場に勤めている男。彼は自分の職業に取り憑かれていて、単に死人を火葬して灰にするだけでなく、自分はそれによって魂を解放しているのだと信じている。

そんな男が、ナチスの脅威の中、第一次大戦で戦友だったドイツ系の友人にそそのかされ、自分にドイツ人の血が混じっていると思い込むとともに、それまで気にもしていなかったユダヤ人を気にしだす。そして愛する妻が半分ユダヤの血が混じっていると知ると、彼女を殺し、さらに4分の1ユダヤの血がまじっている息子も殺す(娘は取り逃がす)。つまり彼らのユダヤ人としての魂を解放したつもりなのである。

妻と子供を殺すとドッペルゲンガーのように自分自身が現れて、下から見上げるようなカメラ目線。これが広角レンズを使っていて気持ち悪い。それから、主人公は櫛を持ち歩いていて、遺体や自分の子供の髪の毛をとかした後、必ず自分の髪の毛もとかしたり、妻を首吊りさせた後にその解けていた靴ひもを結び直したりする。こういうちょっと神経質なこだわりのようなところも気持ち悪さを倍増させる。

見ながら、これってギャグだよな、と繰り返し考えていた。繰り返し出てくる騒々しい人たちの様子などスラップスティックギャグみたいで、一方で顔のパーツのクローズアップはホラー映画のよう。しかもそれを1、2秒ぐらいの長さで重ねる。内容は寓話風で不条理そのものだし、さすがにカフカの生まれた街だ。

ナチスが迫る時代設定は、この映画が作られた1968年という年を思えば、完全にプラハの春にオーバーラップするし、火葬人の主人公は最後にナチスに雇われることから、収容所の火葬炉を連想させる。

渋谷のイメージ・フォーラムで、上映10分前に着いたら外まで長蛇の列で、整理券番号は72番だった。最近見た映画館では一番人が入っていたかも 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「まともな男」

2017.11.24.22:31


またまた映画の話。今日の午後新宿で見てきたんだけど、観客は10人いなかったなぁ。

「のっぴき」という言葉を辞書で引くと「退き引き(のきひき)」の変化形だと出ている。映画を見ながら、主人公がどんどん「のっぴきならない」状況に追い込まれていくのに、かなりイライラさせられた。途中何度も、主人公のお人好しな反応に、思わず、「あっ、バカ」と口に出したくなった。

主人公は人の良い善良な、だけどちょっと気弱なドイツ人の中年男。妻は作家で夫婦仲はあまり良くない。一人娘を連れてスイスへスキーに行くのだが、そこに上司の娘も一緒に連れて行く。そこには多少の上司へのごますりもあるわけである。ところがコテージに到着して早々に、コテージの管理人の息子と知り合った娘たちがパーティーに参加して、酒を飲んだ挙句に上司の娘がレイプされたと訴える。しかし警察に行くのは嫌だし、親たちには黙っていて欲しいと言われて、黙っていることにした主人公が、その嘘にどんどん絡めとられるように「のっぴきならない」状況に追い込まれていく。

話はとてもうまくできていると思う。妻との関係が今ひとつうまくいっていないというのもポイントで、普通なら女の子のことだし、妻に相談するだろうけど、もともと妻は上司の娘を一緒に連れて行くことに反対していたわけで、この辺りも設定がうまい。主役をやった俳優がまた、いかにもという感じでうまい。「ヒトラーの贋札」でナチス将校をやった役者だった。ヨーロッパ映画を見ていると、俳優たちが演技しすぎないところが、とてもいいと思う。映画を見ながら、なんとも言えない既視感を感じていた。最初の掛け違いからどんどんドツボにはまっていく、こんな話、どこかで読んでるよなぁ、と思いながら、とうとう思い出せないまま、今もなんとなくワジワジしている。大江健三郎の最初の頃の小説にこんなのなかったかなぁ?

ラストはちょっとびっくり。え?こんな終わり方でいいの? 僕の予想では「太陽がいっぱい」みたいなラストになるかな(雰囲気は全く違うだろうけど)と思っていたんだけど。まあ爽快感はないし、見る人が見れば、嫌な映画だと言うかも。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「婚約者の友人」(半分ぐらいネタバレ)

2017.11.14.01:04



月曜の夕方、この映画を見てきた。時代設定、舞台、映像が僕のツボだった。第1次世界大戦が終わった1919年のドイツ。主人公アンナの婚約者フランツ(これが原題)は戦死し、彼女はその婚約者の両親の元に下宿している。小津の「東京物語」の原節子のように、血のつながりがない婚約者の両親に尽くしているし、両親からも愛されている。その婚約者の墓の前に花を捧げて泣いているフランス人アドリアンが登場。戦前のパリでフランツと一緒に過ごした友人だと言う。

このアドリアンがまた、ドイツ人らしい顎のはった峻厳な顔をした人たちの街で、エラのない細い顔をしてて、ただひたすら「おフランス」な顔立ち。戦争が終わったばかりでフランスに対する反感の中、フランツの両親も最初はフランス人だというだけで、アドリアンを拒否しているが、徐々にフランツの友人だったということで受け入れ始める。

以下、ネタバレの暗示あり 笑)

エーリヒ・マリア・レマルクの第1次大戦を舞台にした「西部戦線異常なし」という小説の中に、敵味方入り乱れた砲撃の中を敵味方の兵士たちが右往左往する中、主人公が砲撃でできた穴に飛び込んで伏せていると、そこに敵兵が飛び込んでくる。主人公は夢中で銃剣で敵を刺す。ところが砲撃の中、主人公は我に帰るとトドメを刺す勇気がなくなってしまう。穴の外は銃弾が飛び交い、嵐のような砲撃の中、外へ飛び出すことはできず、瀕死の敵のあえぎ苦しむ声を聞きながらその場にじっとしているしかない。

ものすごく恐ろしいシーンで、この小説は映画化されていて、映画の中でも恐ろしいシーンだった。主人公は徐々に罪の意識に苛まれ、瀕死の男を介抱し、彼が死ぬと彼の胸元から軍隊手帳などを取り出し、写真や手紙を見つけ、殺した男の名前を知る。戦争が終わったら細君に手紙を書くと決意したり、殺した相手が印刷屋であることを知ると、生き残ったら自分も印刷業をやろうと思ったりする。

しかし、夜を越えて二日間続いた銃撃・砲撃が終わり、穴から出て味方の元に戻ると、その話を誰にもせず、しばらくすれば、自分自身もそれを忘れてしまう。恐ろしいエピソードである。


さて、この映画はパートカラーで、現在のシーンは白黒、思い出のシーンやアンナとアドリアンが打ち解けてピクニックに行くシーン、アンナの夢のシーン、そして最後のシーンだけがカラーになる。カラーのシーンも美しいけど、モノクロの、それも特にドイツの街のシーンが素晴らしい。ハネケの「白いリボン」を思い出させるような街の様子は、ドイツに心惹かれてきた僕にとってのツボだった。

アドリアンが語る戦前のフランツとの友好関係は、トリュフォーの「突然炎のごとく」の文学青年のドイツ人ジュールとフランス人ジムのよう。それぞれフランスの詩に魅せられたドイツ人フランツとドイツ語を巧みに操るバイオリニストのフランス人アドリアンという設定も自然である。だからこそ、そういう若者が戦場に行き、殺しあわなければならなかったということの悲劇性が強まる。

前半はドイツを舞台に、フランス人アドリアンの嘘が、そして後半は舞台をフランスに移し、ドイツ人アンナの嘘が見るものをハラハラさせる。不在のフランツに対する嘘。とはいえ、アドリアンの嘘は概ね予想がつくし、アンナがフランスに行ってから起きることも、多分そうなるだろうと想像がつく。むしろアドリアンが告白した真実をアンナがフランツの両親に話すのかどうか、それが一番のサスペンスだろう。

ただ、僕としてはそういうサスペンス面以上に、ドイツの街の白黒映像や、アドリアンがフランツの遺品のバイオリンで演奏するショパンのノクターンのバイオリン編曲版に心踊る思いだった。

出てくる俳優の顔がいい。フランツとアドリアンは典型的なフランス人とドイツ人の青年の顔だし、ドイツ人女性のアンナに対して最後の方で出てくる娘ファニーも、いかにもフランス人という感じ。そしてフランツの両親とアドリアンの母の対照的なことも、うーん、ドイツ人ってやっぱりこんな顔したやつ多いよね、フランス人はやっぱ、こんな顔だね、と納得させられた。そして最後、いわくあるマネの絵を見るカラーの映像のアンナの微笑んだ顔に、少しほっとする。

しかし、この後の歴史を知る僕らには分かっている。この十数年後にはヒトラーが政権を取り、再びドイツとフランスは戦火を交えることになる。その頃アンナやアドリアンは40から45歳ぐらいで、子供が男の子だったら戦争に駆り出され、殺し合いをしたかもしれないのである。

雰囲気も音楽も、設定も映像も、そして脇役たちの造形も、とてもいい映画だった。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ゴッホ 最後の手紙」

2017.11.07.18:31

このところ映画がメインになってるような拙ブログです 苦笑)

話題になっていたので題名の映画を見てきました。売りがファン・ゴッホの絵でアニメーションになっているということで、どんなもんかなと思っていたんだけど。。。

僕はあまり面白く感じませんでした(あ、言ってしまった 笑) 確かに見たことのある絵が動いて角度が変わったりするのは面白いけど。。。 むしろファン・ゴッホの死の謎(自殺なのか)の話の方が興味深かったです。

アルマン・ルーランの肖像というのがあるけど、僕はこの映画を見るまで知りませんでした。
f0104004_2362864.jpg
© http://vangogh.exblog.jp/6829193/
父親の郵便配達人ジョゼフ・ルーランの肖像の方はいくつもあるし、何しろヒゲがすごいので有名ですが、この映画の主人公は息子のアルマンが主人公で、ファン・ゴッホの死後、弟テオに宛てた手紙が出てきたので、それをテオに手渡しに行くという話です。しかし、テオはファン・ゴッホの死後半年ほど後で梅毒で死んでしまっていました。アルマンが、モデルになった人々に話を聞きながら、ファン・ゴッホの死は自殺ではないのではないか、という説にたどり着くというのがお話ですが、ちょっとテンポがゆるくて、時々眠くなりました。また、関係者(ファン・ゴッホの肖像画のモデルになった人たち)の回想シーンでは油絵風ではなく、中世の祭壇画などにあるグリザイユという技法のような、セピア調の白黒のリアルな絵になっています。
d0187477_10125252.jpg
(これが父親のジョゼフの肖像の一つ)

まあ、よく知られているように、何しろ人類愛に燃えながら、激しい気性が災いして、自分を気にかけてくれている人ともぶつかり、傷つき、傷つけ、なんともお気の毒な人です。ただ、最近もどこかで読みましたが、ファン・ゴッホの耳切り事件は、切り取った耳を
、言われているように馴染みの娼婦に手渡したのではなく、顔に障害があった娼館の娘に対する連帯感から、その娘に渡したのではないかという説があるそうだし、この映画の説のように、本当は自殺ではないが、自殺だと言い張ることで銃を撃った者をかばったのではないかと言われたりして、優しいなどという言葉では言い表せないぐらい無私の愛情に満ち溢れた人だったんでしょうね。

と、そんなことを思いながら帰りの電車の中で、こんな映画を以前にも見たことがあるぞ、と思い出しました。拙ブログでも大昔に書いた「ブリューゲルの動く絵」という映画でした。あれもブリューゲルの十字架を運ぶイエスの絵を活人画のように動かすということをやっていたんですが、どうも動かすことに一生懸命になってしまって映画としての面白さは今一つという映画でした。そういう意味では今回のこの映画も、ゴッホの油絵でアニメーションにするということに力を使い果たしてしまったんじゃないか、と、そんな気もします。そういえば、ブリューゲルもこのゴッホもポーランド映画ですねぇ。。。

ポーランド映画というのは偶然にしても、どちらも奇をてらっているところがあって、こういう話題性で勝負するよりも正攻法の映画、例えば古くはヨス・ステリングの「レンブラント」(これは無名だけど傑作だと思います)とか、拙ブログでも紹介した二本の「エゴン・シーレ」の方が、僕としてはずっと面白く見ることができたと思っています。

ところで、この映画、TVでもいろんなところで紹介していて、そのおかげか、月曜の夕方なのに満員でした。字幕だと絵にかぶるので、わざわざ吹き替え版をやっているところへ行ったんですが、字幕版だとどうなんでしょうかね? 



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「針の眼」など

2017.10.29.11:59

昨夜、1981年の表題の映画を見ました。ドナルド・サザーランドが英国で活動するナチスのスパイの役で、前半はサザーランドの立場で捕まりそうになりながら窮地を脱するシーンにハラハラしましたが、後半は一転、サザーランドと恋に落ちた人妻が、彼の正体を知り、追い詰められていくのにハラハラしました。


で、思い出したのが「鷲は舞い降りた」という英国映画。マイケル・ケイン、ドナルド・サザーランド、ロバート・デュバル、アンソニー・クェイル、ドナルド・プレザンスという英語圏の一癖二癖ありそうな有名俳優たちがみんなドイツ軍の役という、一昔前の戦争娯楽映画で、しかもチャーチルを拉致するよう命じられるという話。この豪華メンバーに対して、アメリカ軍やイギリス軍の役をやる俳優はこぞって無名ばかり。内容は007ばりの荒唐無稽さですけど、溺れる子供を救おうとして正体がばれちゃうというシーンなんかもあって、こういう映画をイギリスの観客たちはどういう気持ちで見ていたんでしょうかね?


そもそもこの手のイギリス映画って、主役がドイツ軍人というのが他にもいくつか思い浮かぶんですね。1957年に作られたハーディー・クリューガー主演の「脱走四万キロ」という映画も、メッサーシュミットのパイロットが英国に不時着して捕虜となり、そこから見事脱走するという映画なんですが、これなんかも、当時のイギリス人はどんな思いで見たんだろう? クリューガーが逃げ延びて、最後に言い訳のように、実話を基にしていて、主人公はのちに戦死したとかテロップが出たと記憶しているんですが、少なくとも見ている最中、イギリスの観客はクリューガーに感情移入できたんでしょうかね?


他にもやはり1950年代末に作られたナチスの小型戦艦シュペー号を扱った「戦艦シュペー号の最後」なんていう映画は、なんかイギリス軍の格好悪さが目立つような気がする映画でした。最後はシュペー号は潔く自爆してしまうし、なんかイギリス人としては「とりにがし」感が強いんじゃないかなぁ、なんて思ったものです。


これらの映画で出てくる主役のドイツ人たちはみんな高潔でフェアで、そしてこれが一番大事なのかもしれませんが、決してハイル・ヒトラーはやらないことです。ただし上官とか悪役になるのはガチガチのナチだったりすることもありますが。。。この点はドイツ側を主役に据えたイギリス以外の国で作られた戦争映画、例えばペキンパー監督の傑作「戦争のはらわた」とか、デンマーク映画のくせに英語の「第27囚人戦車隊」なんかでも共通しているところでしょうか。




以前、刑事フォイルに感激して、何度も拙ブログで書いたんですが、こういう過去のイギリスの戦争映画を見ていると、フォイルの中に出てくるドイツ人の扱いにも一本の線が見えてくるような気がします。そういえば、少し前には英国製の「SS・GB」という、もし英国がドイツに占領されていたら、という架空の設定のドラマもやってました。しかし、こういうのを面白がることができるゆとりが羨ましいよねぇ。それとも戦勝国だからこそできるのかな?



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

 HOME 

プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

カテゴリー

openclose

マガジン9条

FC2カウンター

Amazon

ブロとも一覧

検索フォーム