2018 01 << 12345678910111213141516171819202122232425262728>> 2018 03

映画「ハイドリヒを撃て」

2018.02.16.00:22

永山則夫で十分暗くなったところへ、なんでこんな映画を見たかなぁ 苦笑) いやあ、いろんなナチものを見てきたけど、この映画、これまで見てきた中で一番救いがない。

ハイドリヒはナチでナンバー3だった男で、彼の元でユダヤ人抹殺が決定された。そのハイドリヒを、イギリスに亡命していたチェコ人とスロバキア人がパラシュート降下して暗殺するよう命じられる。

これは史実だし、他にも「暁の七人」やフリッツ・ラング監督の「死刑執行人もまた死す」という、ハイドリヒ暗殺の映画があるし、文学作品でもローラン・ビネの「HHhH」という小説を紹介したこともある。だから結末はわかっているし、ハイドリヒ暗殺が成功したことによって、その後リディツェという村がナチスによって消滅させられたこと、プラハのレジスタンス組織が完全に壊滅したこと、関係者たちがむごたらしく殺害されたこともわかっている。映画によればハイドリヒ一人が暗殺されたことで、ナチスは五千人以上のチェコ人を報復のために殺害(そのほとんどはただの市民だ)したそうである。

主人公の暗殺者の一人が、プラハのレジスタンス組織から、殺害の具体的な計画や、逃亡のこと、それによって予想されるナチスによる報復などを問いただされると、彼はこういう、「命令なのだ。」 

これってアイヒマンと同じじゃないのか? ユダヤ人をアウシュヴィッツへ送るGoサインを出したアイヒマン、戦後15年経って南米に逃げていたところをつかまり、イスラエルで裁判にかけられて絞首刑になったナチスの中佐だ。これについても拙ブログでは「アイヒマンを追え」という映画を紹介したことがある。彼は裁判で「自分は上からの命令に従い、なすべきことを『誠実に』なしたのだ」と胸を張って言った、自分はユダヤ人を直接この手で殺したことは一度もない、と。

裁判を傍聴した哲学者のハンナ・アーレントは「凡庸な悪」という言葉で、自分の行いによってどんな結果が生じるかを考えず、命令されたことを諄々と行う組織の歯車の一員であったアイヒマンを語り、ユダヤ人社会から激しいバッシングを受けることになる。

それはともかく、ハイドリヒを暗殺すればどうなるかはわかりきっていたはずだ。そもそも暗殺せよとチャーチルが命じたのだろうけど、この命令そのものがあまりにずさんだ。どうやって暗殺するかは決まっていない。プラハのレジスタンスと相談せよというわけである。暗殺後の逃走経路だって決まってない。場当たり的な暗殺計画なのである。レジスタンス側はこの計画に反対したし、実際、暗殺計画は失敗した。一週間後にハイドリヒが死んだのはこの時の傷が、たまたま敗血症を発症したからである。

同じように救いがないナチものの映画はたくさんある。例えば「白バラの祈り」なんてのもなんの救いもないし、軍人たちによるヒトラー暗殺失敗を描いた「ワルキューレ」なんかも救いがない。最近の「ヒトラー暗殺、13分の誤算」「ヒトラーへの285枚の葉書」なんかもそうだ。

だけど、このハイドリヒを撃ては、イギリスで現地の状況なんか全く省みることのない最高責任者や参謀達が、ハイドリヒを殺してこい、と命令し、命令された方も、現地のレジスタンスや匿ってくれた人たちの危険など顧みず、結局みんな死んでしまうし、無関係の人たちもたくさん死ぬ。

「白バラの祈り」や「ワルキューレ」、あるいは「ヒトラー暗殺」や「285枚の葉書」は抵抗運動をした「英雄」たちの話で、自分たちは死んでしまうが、他の無実の人間たちを巻き込むことはない(285枚の原作「ベルリンに一人死す」は無実の親類も巻き込まれてしまうが)。だけど、ここでの暗殺者たちは単純に「英雄」と言ってしまっていいのかどうか。例えばこれも前に紹介したデンマーク映画「誰がため」では、反ナチスの暗殺者二人は、直接ドイツ人を殺せば報復として無関係なデンマーク人が何人も殺されることがわかっているから、彼らが狙うのはナチに迎合しているデンマーク人だった。

映画の作りとしては、徹底して暗殺者の側だけを描き、ドイツ側の事情などは全く描かない。例えば同じハイドリヒ暗殺を描いた「暁の七人」では、ハイドリヒ(アントン・ディフリングという俳優がやっていた)がいかに凶々しいかが描かれるシーンがある。また、戦時中に作られた、まさにアップ・トゥ・デイトな「死刑執行人もまた死す」でのハイドリヒも憎々しげな悪党ぶりを見せる。だけどこの映画では劇中ハイドリヒが出てくるのは襲撃シーンだけ。ドイツ側にズームアップされる人物はなく、ナチスの側の冷酷無比度はハンパがない。最近はナチス側の事情にやや甘めの映画が多かったから、この点についてはすがすがしさすら感じる。

と書きながら、もう一度見たいとは、全く思わない。最初に書いたように、なんでこの時期にこんな惨憺たる映画を見ちまったんだろうなぁ、と多少の後悔すら感じている 苦笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

スポンサーサイト

映画「シェーン」とアラン・ラッド

2018.02.05.18:43

アラン・ラッドと言っても、普通の人は知らないでしょうね。映画「シェーン」の俳優だと言えば思い浮かぶ人も多いかと思う。個人的には映画史上ナンバーワンの美男俳優だと思っているんだけど、これを言っても同意してくれる人はあんまりいない 苦笑)
IMG_1445_convert_20180205181003.jpg

「シェーン」は僕が生まれて初めて一人で映画館で見た映画。多分中学1年の時、渋谷のプラネタリウムがあった東急の映画館で見たんじゃないかと思う。高校時代には原作本が出て、それも買って読んだけど、映画の印象が強くて、映画と違うシェーンの黒っぽい服装とか、会話の口調とかにいまひとつな感じがした(上の写真は当時のパンフレットと原作本)。

なんで「シェーン」が見たかったか、と言われてもよくわからない。ただ、母親が熱烈な洋画ファンで、特にタイロン・パワー(この俳優の顔がすぐに思い浮かぶ人はかなりのマニアか70以上かな)が好きで、いろんな話を聞かされた。ちなみに母はグレゴリー・ペックをダイコンと言っていた 笑)ペックはともかく、「シェーン」も、もしかしたら母から聞いたのかもしれない。ただ母が西部劇を見るかなあ、という気もするが。

で「シェーン」だ。この後TVでもなんども放映され、その度に見たから、多分なんども見た。ある時、え〜っ? 「シェーン」ってこんな映画だったんだぁ、とびっくりしたのは、シェーンとジョーとその奥さんのマリアンの三角関係の話だということに気がついた時だ。

子供の時に見た時はそんなことまるで気がつかなかったし、印象は何しろ殺し屋ガンマンのジャック・パランスとシェーンの決闘シーンばかりが強く記憶に残ったんだったと思う。実はこの西部劇はピストルを撃つシーンは3回しかない。シェーンがジョーイ少年にせがまれて、石を撃つシーンと、殺し屋ジャック・パランスがエリッシャ・クック・ジュニアの気弱いくせに無理している開拓者を撃ち殺すシーン。そして最後の決闘シーン。

多分、これは当時TVでよく放映されていた普通の西部劇、バンバン撃ち合いばかりだった西部劇とは随分違っていたのではないかと思う。今見直してみると、クラフトンの雑貨屋のカタログのような細部のこだわりがすごいし、銃声が3回しかない分、その音がTVで見ていた西部劇とは違って、ものすごい迫力だった。子供の頃は善良な開拓民に対して、極悪な牧畜カウボーイたちの戦いだと単純に考えていた。でも、何度か見て、シェーンに撃ち殺される牧畜業者にも言い分があり、それがきちんと描かれていることがわかってきた。単なる水戸黄門みたいな勧善懲悪ドラマではなかった。

この映画の中で唯一、本当の悪党であるジャック・パランスややった黒ずくめの殺し屋は、エリッシャ・クック・Jrを撃ち殺した後も笑みを浮かべている。殺しに慣れているのである。人殺しを楽しんでいるのである。しかし、シェーンも実は同じ穴のむじなであることが最後にわかる。彼はパランスと牧畜業者の親玉を撃ち殺した後、銃をくるくると回転させてホルスターに納めるのである。つまり、彼もまた人殺しに慣れていて、人を殺した後、自分の銃さばきに酔って、「いつものように」慣れた手つきで格好をつけるのである。

そう考えると、最初の方で、ジョーイ少年が持っていたライフルのカチャッという音に反応する様は、実は彼はお尋ね者で賞金稼ぎに追われているのではないか、と思われる節もある。最後にシェーンがジョーイ少年に語る「殺しの烙印」という言葉も、今回の三人を殺しただけでなく、それ以前にかなりたくさんの人間を殺してきたことを暗示しているのだろう。

何れにしても、この最後のシーンのアラン・ラッドの美男ぶりには、男の僕で惚れ惚れする。
cd17acb243b839868cb3dac2be46cd09.jpg


アラン・ラッドは「シェーン」だけで名を残していると言ってもいいだろうけど、調べると結構面白い映画に出ている。その一番手は「拳銃貸します」かな。映画としては突っ込みどころがいっぱいあるけど、アラン・ラッドがやった帽子をかぶった殺し屋。この時ラッドは29歳。子供に優しく、猫を可愛がり、猫を虐待するおばさんをひっぱたき、ターゲットを非情に殺すという役柄だけど、小柄なラッドがシャープな動きでなかなか良い。コートの襟を立てて表情をあまり表さないところは、多分アラン・ドロンが「サムライ」でやった殺し屋がこのラッドのパクリ(オマージュともいう 笑)ではないかと思うんだけど。
ThisGunForHire1.jpg

他にも「華麗なるギャッツビー」が原作の「暗黒街の巨頭」も悪くない。レッドフォードがやったのと比べると、ラッド版の方がギャッツビーの嘘つき度合いが高いかな。それとこの映画では惚れた女と再会するところの煩悶の演技がなかなか見せます 笑)ただ、最初と最後が友人の回顧録みたいになっていて、すごいやつだったといい続けられるんだけど、どこがすごいのかが、ひとつよく分からない(もっともこれはレッドフォード版でもそうだと思うけど。ちなみにデカプリオ版もあるけど、これは見てません)。それにレッドフォードよりもアラン・ラッドの方がずっと二枚目だと思うけどどうだろう?
aladdo-07.jpg

あと、昔はTVでも放映していた「島の女」(原題は「イルカに乗った少年」で、TV放映の時はこの題名だったんじゃないかなぁ)は、ソフィア・ローレンと共演で、これは体格負けしてたかなぁ。それと、この時ラッドは40代後半で、やや顎のラインもふっくらしてて、若いグラマーなローレンはともかく、ラッドを見たくてというと、ちょっとがっかりします。

他にもツタヤディスカスで検索すると、やはり29歳の時の「ガラスの鍵」とか、33歳の時の「青い戦慄」なんていう、いわゆるフィルム・ノワールや、「別働隊」という37歳の時に主演したサスペンスで、全盛期の二枚目ぶりを見ることができるので、興味ある人はどうぞ。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「9日目 ヒトラーに捧げる祈り」(ネタバレ)

2018.02.01.01:41

少し前までは拙ブログでも何度か引用したマルティン・ニーメラー牧師の詩がある(長くなるからここに引用はしないので、興味があればリンク先をみてください)。このニーメラー牧師もナチ時代に収容されていたのがダッハウの強制収容所、聖職者ブロックで、この映画での重要な舞台になる。

まあ、この手の映画は題名や副題に必ずヒトラーが入る 笑) ちょっと思い出すだけでも、「スターリングラード大進撃、ヒトラーの蒼き野望」とか、「ヒトラーへの285枚の葉書」とか「ヒトラー最後の代理人」とか、「ヒトラーの忘れもの」とか「ヒトラーの審判、アイヒマン最後の告白」とか、「ヒトラーの追跡」とか「顔のないヒトラーたち」とか、まだまだある。「わが教え子ヒトラー」に「ヒトラーの贋札」「ヒトラー暗殺、13分の誤算」とか「ホロコースト、アドルフ・ヒトラーの洗礼」なんてのもあった。最近も「ヒトラーに屈しなかった国王」なんかがある。まだ見てないけど。

いや、「ヒトラー最後の12日間」とか「帰ってきたヒトラー」とか、トム・シリングが若きヒトラーを演じた(まさしく怪演!!)「我が闘争、若き日のヒトラー」みたいに実際にヒトラーが出てくるならまだしも、上記の「スターリングラード大進撃、ヒトラーの蒼き野望」なんて拾い物のいい映画だったけど、ヒトラーもスターリングラードも大進撃も野望も全くでてこなかったもんね。ヒトラーが主役の「ヒトラー最後の12日間」や「帰ってきたヒトラー」だって原題にはヒトラーのヒの字もない。いわんや、ヒトラーが全く出てこない上に羅列した映画の原題においてをや(だけど、どれもそれぞれ良い映画だったことは強調しておきます)。

というわけで、この映画にも副題に「ヒトラーに捧げる祈り」っていう全く意味不明の副題が付いているけど、ストーリーは、というとこんな感じ。バイエルン州のダッハウ強制収容所にあった聖職者ブロックに、反ナチ的行為によって収監されていたルクセンブルク人神父のクレーマーがなぜか突然釈放されて帰国する。そしてそこでナチス親衛隊の少尉から、ナチスに協力しないルクセンブルク大司教を懐柔して、ナチスとカトリック教会の橋渡しを務めるよう命じられる。ルクセンブルク大司教はバチカンのローマ法王とも親しく、もし彼がルクセンブルクを占領しているナチスを認めれば、バチカンとナチスの関係がより一層深まるわけである。そして、クレーマーが万が一逃げた場合はダッハウの神父たちは皆殺しにされ、逆に大司教の懐柔に成功すれば神父たちは解放される。猶予は9日間。もし失敗すればクレーマーは再びダッハウへ戻らなければならない。

冒頭ではダッハウでの過酷な強制労働の様子やポーランド人神父の虐殺が描かれ、収容所の描写として、その過酷さが上手く描かれていると思う。無論、アウシュヴィッツのユダヤ人たちを描いた「サウルの息子」みたいな圧倒的な臨場感はないけど(「サウル」は別格だから比べたら気の毒か)。

冒頭、重労働に苦しむクレーマーにノルウェー人神父がわずかな水を分け与えるシーンがある。そして、帰国を許されたクレーマーが汽車に揺られていると、向かいの少年が彼にパンを分け与えてくれるシーンがある。さらに、親衛隊少尉からもらったチョコレートを、クレーマーが道で遊ぶ幼い少女に与えるシーンがある。施しの重要性が強調されるが、映画が進んでいくと、クレーマーは最初に水を分けてくれた神父が弱っていた時に、彼を見捨てた過去を抱えていることがわかる。

ところで、聖職者だからみんな強制収容所へ送られたわけではなく、反ナチ的発言や行動によって収容されたわけで、主人公のクレーマーもパリでパルチザンと接触指導していたことがある。まあ、神を信じる宗教者であれば、ナチスの人種思想に反感を持つのは当たり前だろうけど。そんな彼が釈放されたのは、ルクセンブルクの大司教とのつながりがあるのと、彼の家族がルクセンブルク経済界の大物という一族だからである。

ヴィキペディア(ドイツ語)で調べてみると、最初は適当に振り分けられて一般収監者たちと一緒にいた聖職者たちは、1940年末にダッハウに作られた聖職者ブロックに集められたそうで、収容延べ人数は2700人ほどだった。そのうち1000人余りが死亡(死亡率45%強)した。国籍別ではポーランド人が65%強。ポーランドはカトリック国で、そこでの神父の影響力は非常に高かったから、スラブ民族を奴隷化しようとしたナチスにとってはインテリたちと同様、邪魔な存在だったわけである。だから、この映画の中でもポーランド人神父が虐待の末に残虐に処刑される。まあ、それでもドイツ国内の強制収容所は、アウシュヴィッツを始めとするドイツ国外の強制収容所よりはまだマシだったそうだし、そんな中でも聖職者ブロックの収容者たちは、一般の収容者たちに比べればずっとマシだったそうだ(死亡率45%強でも!!)。特にカトリックの場合はバチカン(=ローマ法王)のプレッシャーがあったようで、ミサ用にワインが出たりビールが出たらしい。

さて、この映画のキーワードは「ユダ」だ。慇懃でありながら峻厳という、いかにもナチエリートの雰囲気を持った親衛隊少尉は、もともと神父になろうとしていたのに、それが実現する直前に親衛隊に入隊したという経歴で、論文のテーマもユダだったという設定。しかもルクセンブルク大司教を懐柔できなければ、自分自身が東欧の強制収容所に左遷させられることになっている。だから彼も必死である。というのは、彼は一度すでに強制収容所で働いていた過去があるからである。とは言っても、エリートだから強制収容所で働いていたという過去も、看守とか、そういう下っ端だったわけではなかったのだろう。本人も、そこで自分は何もしなかった(=囚人を虐待・殺害しなかった)と言っている。ただ、何が起きているかは見ていたと言っている。

さて、その少尉は主人公クレーマーにユダになれと言う。もちろん、ユダはイエスを銀貨30枚でローマに売り渡した裏切り者である。だけど、逆説的に考えれば、ユダの裏切りによってイエスはキリストになったとも言えるわけである。このようなユダの役割は、最近のユダ福音書の発見による後付けで(拙ブログでも小嵐九八郎の「天のお父っとなぜに見捨てる」で、こうしたユダの役割について紹介したことがある)、ナチスの時代にこんなことをいう人はいなかったんだろうと思うけど。要するにユダがいなければイエスは殺されなかったし、その後の弟子たちの布教と殉教死もなかったわけで、キリスト教という宗教が成り立ち得なかった。つまりユダはイエスを裏切ることにより(神の意思だ!)、イエスを永遠なものにするとともに、キリスト教を成立させる、という複雑な役割を担ったというわけである。

つまりここには、少尉自身が、神父になる直前に教会を捨ててナチに加わったという意味で、神に対して負い目があり、また他方で、主人公のクレーマー自身が、苦しい時にコップ一杯の水を分けてくれたあのノルウェー人神父が弱っている時に、労働現場で見つけた水(壊れた水道管から垂れる雫に過ぎないのだが)を分け与えなかった、という負い目を抱えている。そして、少尉は、あのまま神父になっていたら何もできなかったが、ナチスに入党することにより世界史に名を残すことが出来ると夢想する。つまりユダが裏切ったことによってキリスト教が成り立ったことと自らを重ねている。

友を見捨てたクレーマーにも、個人的なナチへの反感を捨てて(つまり神父としての良心を捨てて)大司教を説得すれば、彼の家族はもちろん、収容所にいる神父たちも開放すると約束される。さて、クレーマーは自らの意思を裏切るユダとなって、ルクセンブルク大司教を説得するのか、それともダッハウへ戻ることになるのか? って、まあ、戻るに決まってますわなあ。

映画のテーマとしては地味(だから日本では公開されなかったんだろう)だけど、個人的にはかなり面白かった。特に親衛隊役のアウグスト・ディールがはまり役だった。彼もルクセンブルク大司教の懐柔に失敗したので東欧の強制収容所の高官として左遷させられ、戦後は戦犯として処刑される運命が待っているのかもしれない。一方、主役のクレーマーをやったウルリヒ・マッテスは「ヒトラー最後の12日間」で、全く似てないゲッベルス(笑)をやった俳優だけど、何しろ容貌魁偉、ガリガリの頰と金壺まなこは一度見たら忘れられない。収容所に入れられた神父という役はある意味ぴったりだろう。

映像的にも墓地のシーンの色調を抑えた色合いや、帽子をかぶってマントを羽織ったクレーマーのシルエットなど印象的だった。ルクセンブルクで撮影したのだろうと思うけど、谷間の上にある坂の多い町の風景や建物や橋(?)なども記憶に残りそうな美しさ。監督は「ブリキの太鼓」や「魔王」、「シャトーブリアンからの手紙」や「パリよ、永遠に」のフォルカー・シュレンドルフ。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「手紙は覚えている」 危険! 完全ネタバレ

2018.01.19.01:29

この映画はネタバレしたら面白さは半減ですので、観てない方は絶対に読まないように。そしてもし可能ならこの映画を観てから読んでくださいませ。

いや、驚愕のラストという映画は色々あることでしょうけど、これほど衝撃的な終わりはあまりないです。その点ではどなたにもお勧めできます。鬱エンドがダメという人は除く 笑)

**以下完全ネタバレです**

現在のアメリカ、90歳になる主人公ゼヴは認知症を患っていて、半年前から夫婦で施設に入所していましたが、1週間ほど前に奥さんを亡くしています。この主人公の老人をやってるのがサウンド・オブ・ミュージックのトラップ大佐のクリストファー・プラマー。寝ていて目がさめるたびに、必ず「ルース」と先立ってしまった奥さんの名前を呼びながら起きるんです。これがなんとも辛い。

奥さんのユダヤ教による服喪があける行事で、ゼヴもその息子もユダヤの帽子をかぶっていて、どうやらユダヤ人の一族であることがわかります。そして同じ施設にいる車椅子のマックスから、アウシュヴィッツの看守長で自分たちの家族を殺したルディ・コランダーという男に復讐するという約束を果たせ、と言われます。

ところが認知症のゼヴはその約束をしたことを覚えてない。そこでマックスが全てやるべきことを一部始終手紙に書いてゼヴに渡します。ゼヴは施設の職員のいない隙をついて、マックスが手配したタクシーに乗り込み、計画を実行しようとします。

復讐すべき相手はルディ・コランダーの偽名で元囚人のふりをしてアメリカへ逃げたとされ、その名前の人間はアメリカとカナダに4人いて、ゼヴは途中で拳銃を手に入れて、一人ずつ会いに行くんですが、これが一種のロードムービーみたいで、電車や長距離バスの車内からの風景も美しく、うたた寝して目がさめるたびに「ルース」と亡き妻の名を呼ぶ老人の姿に、なんとも胸がつぶれる思いがします。

一人目のルディ・コランダーはブルーノ・ガンツがやっていて、元国防軍の兵士でロンメルの元で戦ったことがわかります。二人目は寝たきりの老人でアウシュヴィッツにいたと言いますが、看守ではなく同性愛で収容されていたことがわかり、これもハズレ。三人目はすでに3ヶ月前に亡くなっていて、その息子の州警察の警官にもてなされますが、やはりアウシュヴィッツの看守ではなかったことがわかります。で、この息子がハーケンクロイツの旗を壁に貼り、ヒムラーの写真を飾っている、絵に描いたようなネオナチ野郎で、ゼヴはユダヤ人の正体がばれて罵られ、犬をけしかけられて彼を撃ち殺してしまいます。

ついに四人目のルディ・コランダー、本名オットー・ヴァリシュのところへ。これが「Uボート」でヒゲ面の艦長をやったユルゲン・プロホノフ。多分かなり老けメイクをしているのだと思いますが、最初見たときは誰だかまるでわかりませんでした。名前を見てかなりのショックでしたね 笑)

さてこのコランダーがゼヴとの再会を喜んでいるように見えるんですね。このあたりから、あれ? これは何かあるな、と思わせます。いや、それ以前のところでゼヴがピアノでワーグナーを演奏するんですね。いうまでもなくワーグナーはユダヤ人にとっては憎むべき作曲家でしょう。ワーグナー自身は無論19世紀に死んでますから迷惑な話でしょうけど、ヒトラー始めナチが一番もてはやした音楽家ですからね(無論ワーグナー自身も反ユダヤ的なことを言ったり書いたりしています)。

さて、ゼヴはコランダーに、家族の前で自分の正体を正直に言えとピストルで脅し、そこに行方不明の父を探していた息子も到着、クライマックスとなります。

で、ホントのホントに、完全ネタバレです。

ピストルを手にコランダーに迫ったゼヴは、コランダーからゼヴこそがオットー・ヴァリシュであることを告げられます。二人ともにアウシュヴィッツの看守長でたくさんのユダヤ人を殺し、戦後、二人で囚人番号の刺青を彫り合って逃げたということがわかります。ゼヴはコランダーを撃ち殺し、「思い出した」(これがこの映画の原題)と言って自殺します。

施設ではこの事件を報じるニュースを見ながら、マックスが全ては自分が仕組んだ通りに進んだことを知るわけですが、その表情は満足感とは程遠いものです。

話としてはとてもうまくできていて、何しろ主人公のクリストファー・プラマーは目がさめるたびに「ルース」と亡き奥さんの名前を呼ぶので、思いっきり感情移入。なんとかうまくことが運べばいいが、と思うわけです。だから三番目のコランダーの場面ではネオナチ野郎を撃ち殺すシーンも、第三のボスキャラをやっつけた感じで、いよいよ本丸へ、と気持ちは高ぶります。で、最終ボスキャラかと思ったら、探していたのは実は自分だったなんていう正邪逆転の大どんでん返しですからね。

ただ、見てしばらく経ってみると、マックスが全てを操っていたというのが今ひとつ面白くない。おそらく冒頭の約束というのも、実際にはしていなかったのでしょう。だから、マックスがゼヴの認知症につけ込んで、最初から全てを仕組んだ上でのことだったのでしょう。

それから認知症と言っても、自分のナチ時代を丸々すっぽりと忘れるなんてことがあるのかどうか。途中、クリスタルナハトというナチの暴虐事件のことは覚えていたりするわけですから、ちょっと都合良すぎない?って感じもあります。また、息子もユダヤ教徒であることがわかりますが、ゼヴはユダヤ人ではなかったわけで、戦後アメリカへ渡ってユダヤ人のふりをしてたのでしょうけど、変な話、割礼はどうしたんでしょう? 息子の様子から見れば、熱心なユダヤ教徒のようなので割礼しているわけでしょうけど、お父さんは??

確かにドストエフスキーの小説によく出てくるように、嘘をつき続けた人間が自分のついた嘘を真実であると信じてしまうことってあるのかもしれないけど、それでも認知症だからといって、戦前の記憶がフラッシュバックしないはずはないと思うんだけど。と、映画の粗探しっていうのはあまりすべきではないかもしれないんですけどね。

途中ピアノを弾くシーンが2回出てきて、一つは上に書いたようにワーグナーを演奏するんですが、クリストファー・プラマーはもともと音楽家になりたかったそうだからものすごく達者なものです。しかし、その前に、彼がメンデルスゾーンを弾くシーンで、彼のピアノの先生がユダヤ人だったことが暗示されているので、ゼヴことオットー・ヴァリシュ及びその家族はユダヤ人に対して反感を感じてはいなかったということなのでしょう。だけど、たとえそうだとしても、アウシュヴィッツの看守長になれば、たくさんの人を殺さなければならなかった。そしてうまく逃げ、そして忘れた。

ナチに限らず、戦争という「国家」が始めたことに、「個人」が巻き込まれていく時のおぞましさを感じさせられます。文句もいっぱいつけたけど、でも素晴らしい映画でした。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「栄光のランナー 1936年ベルリン」

2018.01.02.23:28



今年は映画の話から。「ヒトラーのオリンピック」で金メダル4つを獲得したアフリカ系アメリカ人、ジェシー・オウエンスの映画。いやあ、面白かった。ちょうど去年の末からフィリップ・カーのミステリー、ベルニー・グンターシリーズを読みふけっていて、最後の「死者は語らずとも」がベルリンオリンピック直前を舞台にしていて、ブランデージのことが出てきたりしたのと、以前読んだナゴルスキーの「ヒトラーランド」で書かれていたオウエンスの話なども思い浮かべて、とても面白く見ることができた。

こういう実在の過去のアスリートの映画というと、「炎のランナー」を連想するのだけど、どうも僕は苦手(だって、市川崑の「東京オリンピック」なんかを思い出せば、感動させようという作為が気持ち悪くて見てられないでしょ?)だけど、この映画ではオウエンスの走るシーンを感動的に盛り上げるようなことをしていない点も好感を持った。

ただ、主な登場人物のうちの三人については、ちょっと言いたいこともある。

まず、リーフェンシュタールが、単に映画を撮ることだけに夢中で、人種的偏見もないし、ナチの思想にも無関心な人で、しかもゲッベルスが撮影に横槍を入れてきたかのように描かれていたけど、完全に彼女の自伝で述べている話をそのまま使っているような気がした。彼女の自伝が信ぴょう性に疑問符が付いているのは有名な話である。

それからジェレミー・アイアンズが演じたアベリー・ブランデージ。この人はナチスの人種差別政策に対して、この映画で見られるような反感など感じていなかっただろう。冒頭に書いたカーのミステリーでもブランデージはむしろ悪役。そして、実際、ナチスに親近感を抱いていたと思われるような発言を繰り返しているし、この映画のように、ゲッベルスに脅されて、ユダヤ系の選手をリレーから外すという「苦渋の決断」はなかっただろうと思われる。ブランデージがレイシストであったことは、多分間違いない。

そして、オウエンスの好敵手として有名なルッツ・ロング。ダフィト・クロースという、個人的には最近よく見る若い俳優がやっていて(「愛を読む人」、「戦火の馬」、「フリッツ・バウアー」、「ミヒャエル・コールハース」)、好感が持てるんだけど、歴史上、あそこまで反ナチ的な気持ちがあったのかどうか。確かにこの後弁護士になり、インテリだったことは間違いないようだけど、ちょっとあまりに良い人にしすぎじゃないだろうか。ただし、リーフェンシュタールやブランデージと違って、こちらは本当のところはどうなのかわからないけど。

主人公のオウエンスの愛嬌のある顔や、典型的な美人顔のレニ・リーフェンシュタール(これは「ブラックブック」のオランダ人美人女優カリス・ファン・ハウテン)は雰囲気がよく出ていたし、ある程度似ていて違和感なく見られた。

それに対して、違和感という点で決定的なのはゲッベルスだ。小柄なのはいいとしても、ゲッベルスは小児麻痺の後遺症で歩き方に特徴があったはずだし、何より吸血鬼のような、唇が薄く酷薄な、そしてちょっと狂気を帯びたようなアジテーターの雰囲気がまるでない。むしろ結構端正な二枚目で、髪型も違うし、絶対ゲッベルスに見えない。

肝心のヒトラーはアップや正面がほとんど無いことで、うまくかわしているだけに、あのゲッベルスだけは許せん! 笑)

それから、オウエンスは母国アメリカで黒人として差別され続け、ベルリンオリンピックで優勝した後も差別され続け、馬と競争させられたりしたわけで、その点についてはほとんど触れられていなかったのも不満。

それに対して、ベルリンでは、この映画でもほんの少しだけ出てくるけど、当初不安を感じていたような差別を受けることはなく、それどころかすごい人気者になった。帰国後、彼はこう言っている。「わたしはドイツではつねに、礼儀正しさと思いやりを持った対応を受けた。アメリカ国内のどの土地であっても、ドイツで過ごしたのと同じくらいの年月を、頻繁とはいわずとも、個人的な侮辱や差別を少しも受けずに過ごすことは不可能だっただろう。ドイツでは、そんな思いをしたことは一度もない」(ナゴルスキ「ヒトラーランド」p.293)

オリンピックから5年後には強制収容所やポーランドやソ連で、多くの人たちを大量生産マシーンのように殺していったドイツ人たちは、このオリンピックの時期だけ、羊の皮をかぶっていたのだろうか?そんなはずはない。

連想するのは辺見庸の「1937」に出てきた話だ。1937年、ヘレン・ケラーが来日して大歓迎された。人々はヘレン・ケラーに感動し、講演中に彼女の財布が盗まれるという事件が起きた時、数多くの人たちが日本人として詫びる手紙を彼女に送った。そしてそのような日本人が、その同じ年の12月、南京で「人間の想像力の限界が試されるような」大虐殺をし、国内ではそれを祝って提灯行列が大々的に行われた。

結局正月早々、またまた拙ブログのモットーが出てくる。世の中には99.99%の普通の人と0.01%がいるわけではなく、普通の人が良いことも悪いこともする。最初に書いたベルニー・グンターシリーズの中で探偵グンターがシニカルに語る言葉はこんなだ。

「この前の戦争で何か一つ証明されたことがあったとしたら、それは、誰でも誰かを殺せるということだ。必要なのは口実だけ。そして、銃だけさ。」



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「否定と肯定」

2017.12.25.23:59

IMG_1315.jpg

あまりに現在の社会の状況にドンピシャ当てはまることばかりで、もう個人的にもデジャヴ感満載の映画だった。パンフレットに木村草太が書いていることは、そこに何も付け加えることがないぐらいこの映画と現代の日本を結びつけてくれる。

個人的にも今年はFBのあるグループで南京虐殺全否定の女性とやりあって呆れ返ったので、この映画を見ながら、そして「悪役」のアーヴィング(ティモシー・スポールという俳優で、憎まれ役を実にうまく演じている。画家ターナーの役をやっているそうだ)の主張を聞きながら、ずっとそれを思い出していた。

否定派のやり方は洋の東西を問わず同じだ。それは、一点突破方式で、それが通れば全否定。ガス室はなかったと主張し、生存者に向かってドアは右にあったか左にあったかを問うて、各生存者の主張に齟齬があれば、それで彼らを嘘つき呼ばわりしてガス室の存在も全否定する。

ガス室に、生存者が証言した煙突状の毒ガスを放り込んだ穴があったというところを捉えて、それが見つからない、つまり穴がないかった以上ガス室はなかったと言い張る。木を見て森を見ないやり方だが、これが思ったより効果的なのは、例えば朝日の従軍慰安婦問題を思い出せば明らかだ。

吉田某が嘘をついていたから従軍慰安婦はいなかったという、例の朝日事件。朝日が謝罪したことで、一気に従軍慰安婦はいなかったことにされた。少し前までは吉田の嘘を暴いた秦郁彦自らが、「これを持って従軍慰安婦の強制連行がなかったということはできない」と言っていた(現在の秦郁彦がどう言っているかは知らない)。そういう慎みがあったのだ。

いずれにせよ、前にも書いたことだが、否定派は事実がどうであれ、否定していることを世間に知らせ、それによって世間に、この問題(この映画ではアウシュヴィッツ)が、肯定する人もいれば否定する人もいるのだと思わせておくことができれば、それで目的は達成できたわけである。マスコミも両論併記などと言って、自分たちの判断を棚上げして両論併記することで「公平中立」と思い込む。

アーヴィングは裁判で負けた後も、相変わらず言い逃れを続け、裁判の判決など意味がないような顔をする。この点も、洋の東西を問わず、歴史改竄主義者たちのやり口は同じだ。論破されても同じことを言い続ける。真実はどうでもいい、嘘でも言い続ければ、それを信じたがる連中もいる。だからこういう人たちとは同じ土俵で議論しても時間の無駄で、以前書いたように、お祓いの方が有効な手立てである 笑)

ところで、この映画は実話で、登場人物たちも実在の人物だそうだ。主人公のリップシュタットはもちろん、アーヴィングも存命である。それなのにこういう映画を作れるということにおどろかされる。アーヴィングのやったことは、資料のうち、自分の主張に都合の良いところだけを抜き出し、都合の悪いことには触れずにおくというもので、それは裁判所が指摘して、アーヴィングの敗訴となったわけなのである。しかし、同じようなことはすでに日本の裁判所でもあって、例えば南京事件は裁判所が一貫して大虐殺があったことを認定している。しかし、日本ではこんな映画は作れないだろう。両論併記の掛け声に真実と嘘を併記するようなマスコミの国では絶対無理だろう。

それはともかく、強く印象に残ったシーンがある。主人公の弁護団がアウシュヴィッツを見に行くシーンで、法廷弁護士が、主人公からアウシュヴィッツを見てどう感じたかと質問されて言うセリフ。

「恥を感じた。もし自分があのような立場に立たされたら、自分だって同じことをしただろう」

彼は殺されたユダヤ人たちのことではなく、ユダヤ人を殺した者たちの立場に自分を置いて考えたのだ。この視点が多くの人には欠けているのではないか、強くそう思う。

映画は月曜の2時半からの回を見たのだけど、7割がた埋まっていて、しかも思ったより若い人も多かった。映画としてもとても面白かった。すでに結果は最初から知られているわけだから(ヴィキペディアの日本語版でもこの裁判については書かれている)、そういう意味ではハラハラドキドキする法廷劇というものではないけど、主人公リップシュタットの心情の変化やイギリスの裁判の特徴、事務弁護士(これはTVの「シャーロック」でモリアティをやっていた俳優だった)と法廷弁護士がいることなど、いろんな意味で面白かった。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

チェコスロバキア映画「火葬人」(ネタバレ)

2017.12.01.23:59

いやあ、気持ちの悪い映画でした。短いクローズアップのショットを重ねたり、広角レンズ(?)のアップを使ったりして、白黒映画ですが、ちょっとおどろおどろしい雰囲気。主人公の男がまたなんか気持ちが悪い。ぶつぶつ喋り続けるんだけど、どうもその内容も火葬という自分の仕事に取り憑かれているような狂気を帯びている。ユーチューブに全編があったけど、字幕なし。でも、映像の雰囲気だけでも味わえますので、おヒマでしたら適当なところを見てみてください。短いカットと不気味なクローズアップに気持ち悪くなること請け合い 笑)



チェコスロバキアというと、気持ちの悪い人形劇映画のシュヴァンクマイエルという監督がいる。このコマ撮り人形による不気味な世界とは違うんだけど、どこか不安を煽るような感じに、それに通じるものがあるのかも。あるいは半年ぐらい前にミステリーチャンネルでやっていたチェコ製のミステリー。これもグロテスクでなんか独特の雰囲気があった。そういえば、そのミステリーでキーになっていたのがヒエロニムス・ボッスの絵だったけど、この映画でも全く同じ絵が出てくるシーンがある。

オーストリアがナチに併合された(1938年)とか、チェコの国境そばまでナチスが近づいているというセリフがあるから、舞台設定は1938年末か39年初めだろう。戦争直前の雰囲気の中で、主人公は20年間プラハの火葬場に勤めている男。彼は自分の職業に取り憑かれていて、単に死人を火葬して灰にするだけでなく、自分はそれによって魂を解放しているのだと信じている。

そんな男が、ナチスの脅威の中、第一次大戦で戦友だったドイツ系の友人にそそのかされ、自分にドイツ人の血が混じっていると思い込むとともに、それまで気にもしていなかったユダヤ人を気にしだす。そして愛する妻が半分ユダヤの血が混じっていると知ると、彼女を殺し、さらに4分の1ユダヤの血がまじっている息子も殺す(娘は取り逃がす)。つまり彼らのユダヤ人としての魂を解放したつもりなのである。

妻と子供を殺すとドッペルゲンガーのように自分自身が現れて、下から見上げるようなカメラ目線。これが広角レンズを使っていて気持ち悪い。それから、主人公は櫛を持ち歩いていて、遺体や自分の子供の髪の毛をとかした後、必ず自分の髪の毛もとかしたり、妻を首吊りさせた後にその解けていた靴ひもを結び直したりする。こういうちょっと神経質なこだわりのようなところも気持ち悪さを倍増させる。

見ながら、これってギャグだよな、と繰り返し考えていた。繰り返し出てくる騒々しい人たちの様子などスラップスティックギャグみたいで、一方で顔のパーツのクローズアップはホラー映画のよう。しかもそれを1、2秒ぐらいの長さで重ねる。内容は寓話風で不条理そのものだし、さすがにカフカの生まれた街だ。

ナチスが迫る時代設定は、この映画が作られた1968年という年を思えば、完全にプラハの春にオーバーラップするし、火葬人の主人公は最後にナチスに雇われることから、収容所の火葬炉を連想させる。

渋谷のイメージ・フォーラムで、上映10分前に着いたら外まで長蛇の列で、整理券番号は72番だった。最近見た映画館では一番人が入っていたかも 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「まともな男」

2017.11.24.22:31


またまた映画の話。今日の午後新宿で見てきたんだけど、観客は10人いなかったなぁ。

「のっぴき」という言葉を辞書で引くと「退き引き(のきひき)」の変化形だと出ている。映画を見ながら、主人公がどんどん「のっぴきならない」状況に追い込まれていくのに、かなりイライラさせられた。途中何度も、主人公のお人好しな反応に、思わず、「あっ、バカ」と口に出したくなった。

主人公は人の良い善良な、だけどちょっと気弱なドイツ人の中年男。妻は作家で夫婦仲はあまり良くない。一人娘を連れてスイスへスキーに行くのだが、そこに上司の娘も一緒に連れて行く。そこには多少の上司へのごますりもあるわけである。ところがコテージに到着して早々に、コテージの管理人の息子と知り合った娘たちがパーティーに参加して、酒を飲んだ挙句に上司の娘がレイプされたと訴える。しかし警察に行くのは嫌だし、親たちには黙っていて欲しいと言われて、黙っていることにした主人公が、その嘘にどんどん絡めとられるように「のっぴきならない」状況に追い込まれていく。

話はとてもうまくできていると思う。妻との関係が今ひとつうまくいっていないというのもポイントで、普通なら女の子のことだし、妻に相談するだろうけど、もともと妻は上司の娘を一緒に連れて行くことに反対していたわけで、この辺りも設定がうまい。主役をやった俳優がまた、いかにもという感じでうまい。「ヒトラーの贋札」でナチス将校をやった役者だった。ヨーロッパ映画を見ていると、俳優たちが演技しすぎないところが、とてもいいと思う。映画を見ながら、なんとも言えない既視感を感じていた。最初の掛け違いからどんどんドツボにはまっていく、こんな話、どこかで読んでるよなぁ、と思いながら、とうとう思い出せないまま、今もなんとなくワジワジしている。大江健三郎の最初の頃の小説にこんなのなかったかなぁ?

ラストはちょっとびっくり。え?こんな終わり方でいいの? 僕の予想では「太陽がいっぱい」みたいなラストになるかな(雰囲気は全く違うだろうけど)と思っていたんだけど。まあ爽快感はないし、見る人が見れば、嫌な映画だと言うかも。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「婚約者の友人」(半分ぐらいネタバレ)

2017.11.14.01:04



月曜の夕方、この映画を見てきた。時代設定、舞台、映像が僕のツボだった。第1次世界大戦が終わった1919年のドイツ。主人公アンナの婚約者フランツ(これが原題)は戦死し、彼女はその婚約者の両親の元に下宿している。小津の「東京物語」の原節子のように、血のつながりがない婚約者の両親に尽くしているし、両親からも愛されている。その婚約者の墓の前に花を捧げて泣いているフランス人アドリアンが登場。戦前のパリでフランツと一緒に過ごした友人だと言う。

このアドリアンがまた、ドイツ人らしい顎のはった峻厳な顔をした人たちの街で、エラのない細い顔をしてて、ただひたすら「おフランス」な顔立ち。戦争が終わったばかりでフランスに対する反感の中、フランツの両親も最初はフランス人だというだけで、アドリアンを拒否しているが、徐々にフランツの友人だったということで受け入れ始める。

以下、ネタバレの暗示あり 笑)

エーリヒ・マリア・レマルクの第1次大戦を舞台にした「西部戦線異常なし」という小説の中に、敵味方入り乱れた砲撃の中を敵味方の兵士たちが右往左往する中、主人公が砲撃でできた穴に飛び込んで伏せていると、そこに敵兵が飛び込んでくる。主人公は夢中で銃剣で敵を刺す。ところが砲撃の中、主人公は我に帰るとトドメを刺す勇気がなくなってしまう。穴の外は銃弾が飛び交い、嵐のような砲撃の中、外へ飛び出すことはできず、瀕死の敵のあえぎ苦しむ声を聞きながらその場にじっとしているしかない。

ものすごく恐ろしいシーンで、この小説は映画化されていて、映画の中でも恐ろしいシーンだった。主人公は徐々に罪の意識に苛まれ、瀕死の男を介抱し、彼が死ぬと彼の胸元から軍隊手帳などを取り出し、写真や手紙を見つけ、殺した男の名前を知る。戦争が終わったら細君に手紙を書くと決意したり、殺した相手が印刷屋であることを知ると、生き残ったら自分も印刷業をやろうと思ったりする。

しかし、夜を越えて二日間続いた銃撃・砲撃が終わり、穴から出て味方の元に戻ると、その話を誰にもせず、しばらくすれば、自分自身もそれを忘れてしまう。恐ろしいエピソードである。


さて、この映画はパートカラーで、現在のシーンは白黒、思い出のシーンやアンナとアドリアンが打ち解けてピクニックに行くシーン、アンナの夢のシーン、そして最後のシーンだけがカラーになる。カラーのシーンも美しいけど、モノクロの、それも特にドイツの街のシーンが素晴らしい。ハネケの「白いリボン」を思い出させるような街の様子は、ドイツに心惹かれてきた僕にとってのツボだった。

アドリアンが語る戦前のフランツとの友好関係は、トリュフォーの「突然炎のごとく」の文学青年のドイツ人ジュールとフランス人ジムのよう。それぞれフランスの詩に魅せられたドイツ人フランツとドイツ語を巧みに操るバイオリニストのフランス人アドリアンという設定も自然である。だからこそ、そういう若者が戦場に行き、殺しあわなければならなかったということの悲劇性が強まる。

前半はドイツを舞台に、フランス人アドリアンの嘘が、そして後半は舞台をフランスに移し、ドイツ人アンナの嘘が見るものをハラハラさせる。不在のフランツに対する嘘。とはいえ、アドリアンの嘘は概ね予想がつくし、アンナがフランスに行ってから起きることも、多分そうなるだろうと想像がつく。むしろアドリアンが告白した真実をアンナがフランツの両親に話すのかどうか、それが一番のサスペンスだろう。

ただ、僕としてはそういうサスペンス面以上に、ドイツの街の白黒映像や、アドリアンがフランツの遺品のバイオリンで演奏するショパンのノクターンのバイオリン編曲版に心踊る思いだった。

出てくる俳優の顔がいい。フランツとアドリアンは典型的なフランス人とドイツ人の青年の顔だし、ドイツ人女性のアンナに対して最後の方で出てくる娘ファニーも、いかにもフランス人という感じ。そしてフランツの両親とアドリアンの母の対照的なことも、うーん、ドイツ人ってやっぱりこんな顔したやつ多いよね、フランス人はやっぱ、こんな顔だね、と納得させられた。そして最後、いわくあるマネの絵を見るカラーの映像のアンナの微笑んだ顔に、少しほっとする。

しかし、この後の歴史を知る僕らには分かっている。この十数年後にはヒトラーが政権を取り、再びドイツとフランスは戦火を交えることになる。その頃アンナやアドリアンは40から45歳ぐらいで、子供が男の子だったら戦争に駆り出され、殺し合いをしたかもしれないのである。

雰囲気も音楽も、設定も映像も、そして脇役たちの造形も、とてもいい映画だった。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ゴッホ 最後の手紙」

2017.11.07.18:31

このところ映画がメインになってるような拙ブログです 苦笑)

話題になっていたので題名の映画を見てきました。売りがファン・ゴッホの絵でアニメーションになっているということで、どんなもんかなと思っていたんだけど。。。

僕はあまり面白く感じませんでした(あ、言ってしまった 笑) 確かに見たことのある絵が動いて角度が変わったりするのは面白いけど。。。 むしろファン・ゴッホの死の謎(自殺なのか)の話の方が興味深かったです。

アルマン・ルーランの肖像というのがあるけど、僕はこの映画を見るまで知りませんでした。
f0104004_2362864.jpg
© http://vangogh.exblog.jp/6829193/
父親の郵便配達人ジョゼフ・ルーランの肖像の方はいくつもあるし、何しろヒゲがすごいので有名ですが、この映画の主人公は息子のアルマンが主人公で、ファン・ゴッホの死後、弟テオに宛てた手紙が出てきたので、それをテオに手渡しに行くという話です。しかし、テオはファン・ゴッホの死後半年ほど後で梅毒で死んでしまっていました。アルマンが、モデルになった人々に話を聞きながら、ファン・ゴッホの死は自殺ではないのではないか、という説にたどり着くというのがお話ですが、ちょっとテンポがゆるくて、時々眠くなりました。また、関係者(ファン・ゴッホの肖像画のモデルになった人たち)の回想シーンでは油絵風ではなく、中世の祭壇画などにあるグリザイユという技法のような、セピア調の白黒のリアルな絵になっています。
d0187477_10125252.jpg
(これが父親のジョゼフの肖像の一つ)

まあ、よく知られているように、何しろ人類愛に燃えながら、激しい気性が災いして、自分を気にかけてくれている人ともぶつかり、傷つき、傷つけ、なんともお気の毒な人です。ただ、最近もどこかで読みましたが、ファン・ゴッホの耳切り事件は、切り取った耳を
、言われているように馴染みの娼婦に手渡したのではなく、顔に障害があった娼館の娘に対する連帯感から、その娘に渡したのではないかという説があるそうだし、この映画の説のように、本当は自殺ではないが、自殺だと言い張ることで銃を撃った者をかばったのではないかと言われたりして、優しいなどという言葉では言い表せないぐらい無私の愛情に満ち溢れた人だったんでしょうね。

と、そんなことを思いながら帰りの電車の中で、こんな映画を以前にも見たことがあるぞ、と思い出しました。拙ブログでも大昔に書いた「ブリューゲルの動く絵」という映画でした。あれもブリューゲルの十字架を運ぶイエスの絵を活人画のように動かすということをやっていたんですが、どうも動かすことに一生懸命になってしまって映画としての面白さは今一つという映画でした。そういう意味では今回のこの映画も、ゴッホの油絵でアニメーションにするということに力を使い果たしてしまったんじゃないか、と、そんな気もします。そういえば、ブリューゲルもこのゴッホもポーランド映画ですねぇ。。。

ポーランド映画というのは偶然にしても、どちらも奇をてらっているところがあって、こういう話題性で勝負するよりも正攻法の映画、例えば古くはヨス・ステリングの「レンブラント」(これは無名だけど傑作だと思います)とか、拙ブログでも紹介した二本の「エゴン・シーレ」の方が、僕としてはずっと面白く見ることができたと思っています。

ところで、この映画、TVでもいろんなところで紹介していて、そのおかげか、月曜の夕方なのに満員でした。字幕だと絵にかぶるので、わざわざ吹き替え版をやっているところへ行ったんですが、字幕版だとどうなんでしょうかね? 



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「針の眼」など

2017.10.29.11:59

昨夜、1981年の表題の映画を見ました。ドナルド・サザーランドが英国で活動するナチスのスパイの役で、前半はサザーランドの立場で捕まりそうになりながら窮地を脱するシーンにハラハラしましたが、後半は一転、サザーランドと恋に落ちた人妻が、彼の正体を知り、追い詰められていくのにハラハラしました。


で、思い出したのが「鷲は舞い降りた」という英国映画。マイケル・ケイン、ドナルド・サザーランド、ロバート・デュバル、アンソニー・クェイル、ドナルド・プレザンスという英語圏の一癖二癖ありそうな有名俳優たちがみんなドイツ軍の役という、一昔前の戦争娯楽映画で、しかもチャーチルを拉致するよう命じられるという話。この豪華メンバーに対して、アメリカ軍やイギリス軍の役をやる俳優はこぞって無名ばかり。内容は007ばりの荒唐無稽さですけど、溺れる子供を救おうとして正体がばれちゃうというシーンなんかもあって、こういう映画をイギリスの観客たちはどういう気持ちで見ていたんでしょうかね?


そもそもこの手のイギリス映画って、主役がドイツ軍人というのが他にもいくつか思い浮かぶんですね。1957年に作られたハーディー・クリューガー主演の「脱走四万キロ」という映画も、メッサーシュミットのパイロットが英国に不時着して捕虜となり、そこから見事脱走するという映画なんですが、これなんかも、当時のイギリス人はどんな思いで見たんだろう? クリューガーが逃げ延びて、最後に言い訳のように、実話を基にしていて、主人公はのちに戦死したとかテロップが出たと記憶しているんですが、少なくとも見ている最中、イギリスの観客はクリューガーに感情移入できたんでしょうかね?


他にもやはり1950年代末に作られたナチスの小型戦艦シュペー号を扱った「戦艦シュペー号の最後」なんていう映画は、なんかイギリス軍の格好悪さが目立つような気がする映画でした。最後はシュペー号は潔く自爆してしまうし、なんかイギリス人としては「とりにがし」感が強いんじゃないかなぁ、なんて思ったものです。


これらの映画で出てくる主役のドイツ人たちはみんな高潔でフェアで、そしてこれが一番大事なのかもしれませんが、決してハイル・ヒトラーはやらないことです。ただし上官とか悪役になるのはガチガチのナチだったりすることもありますが。。。この点はドイツ側を主役に据えたイギリス以外の国で作られた戦争映画、例えばペキンパー監督の傑作「戦争のはらわた」とか、デンマーク映画のくせに英語の「第27囚人戦車隊」なんかでも共通しているところでしょうか。




以前、刑事フォイルに感激して、何度も拙ブログで書いたんですが、こういう過去のイギリスの戦争映画を見ていると、フォイルの中に出てくるドイツ人の扱いにも一本の線が見えてくるような気がします。そういえば、少し前には英国製の「SS・GB」という、もし英国がドイツに占領されていたら、という架空の設定のドラマもやってました。しかし、こういうのを面白がることができるゆとりが羨ましいよねぇ。それとも戦勝国だからこそできるのかな?



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「みかんの丘」と「とうもろこしの島」(ネタバレ)

2017.10.25.23:39





どちらもグルジア(ジョージア)とアブハジアの争いを背景にした、非常に美しいシーンの多い映画だけど、そもそもアブハジアとグルジアの争いってなんだ? 調べるといろいろ書いてありますが、どうも要領をえない。まあ、冬のオリンピックがあったソチのすぐ南側、黒海とカスピ海の間にある地域のグルジアの一部アブハジアが1990年代初頭に独立を求めて武力闘争になったということのようです。この地域、映画の中でも出てくるけど、言葉もグルジア語とアブハジア語はだいぶ違うようだし(とうもろこしの島ではアブハジ語はわからないとグルジア人が言っています)、宗教的にも東方教会からイスラムまで入り混じっているようで、複雑怪奇な地域のようです。

「みかんの丘」はこの微妙な地域に移住してきてみかんを栽培していたエストニア人の老人(エストニアはこれまたここから3000キロぐらい北西方向のバルト三国の一番北の国です。アルヴォ・ペルトの国ですね 笑)が主人公で、アブハジアの傭兵のチェチェン人(イスラム教徒)とグルジア人の兵士(キリスト教徒)が負傷してこの主人公の家で介抱される。お互いに憎み合って、罵り合いながら、助けてくれたエストニア人の老人の手前、少しづつ和解の気配を見せながら、最後は。。。という内容です。

日本語というか中国の故事で言えば呉越同舟というやつで、主役のエストニア人の老人の顔がとてもいい顔をしています。似たような映画にボスニア・ヘルツェゴビナの映画で「ノーマンズランド」というのがありましたが、あそこでも敵同士が最前線の境界地帯、ちょうどどちらの陣地でもないところで呉越同舟になってしまうという映画で、和解と敵対の緊張関係の中、最後はやっぱり。。。でした。


一方「とうもろこしの島」はちょっと雰囲気が違います。この二つの映画は背景が同じだけに一緒に語られることが多いようですが、僕の個人的な好みから言えば、こちらの方が圧倒的に好きです。

「みかんの丘」をクサすつもりはないんですが、やっぱり最後のところが不満です。デウス・エクス・マキナという言葉があります。直訳すると「機械仕掛けの神様」。これは古代ギリシャの演劇で話がもつれにもつれ、どうにも収拾がつかなくなった時に、都合良く舞台の上から機械仕掛けで神様が降りてきて、すべてのもつれを一気に解きほぐして、はい、大団円という結末に至るための手段ですが、全く逆の意味で、この言葉を思い出しました。

つまり、チェチェン人傭兵(アブハジア側)とグルジア兵士が少しお互いを理解し合い、和解への糸口が見えた時に、アブハジアの兵士たちが現れて、仲間であるチェチェン人傭兵を敵と疑い、今まさに殺そうとした瞬間にグルジア兵士が彼を助けるためなのか、単に敵だからなのか、発砲してチェチェン人傭兵を救い、自分は殺されてしまうんですね。

ちょうど二人が和解して、この後どうするんだろう、どういう結末を迎えるんだろう、というところで、都合良く、絶対悪が機械仕掛けの神様よろしく登場して、結末をつけてしまう。なんか、安易だな、面白くないな、と思ったのでした。

それに対して「とうもろこしの島」は、もっと謎かけをたくさんしたままです。そもそもが映画としても非常に前衛的なことをしています。私はサイレント以外で、映画が始まってから20分以上セリフも音楽もない映画というのははじめてでした。「ニーチェの馬」も最初の台詞までだいぶ待たされますが、音楽は最初から鳴り続けます。しかも始まって20分でようやく二言三言喋ったと思ったら、そのあとまた30分以上登場人物たちは一言も喋りません。しかも音楽もなし。結局音楽はエンドロールが始まるところで初めて鳴るんじゃないでしょうか?

こう聞くと、きっと退屈だと思うでしょうけど、そうでもありません。物語はほぼアブハジアとグルジアの境界を流れるパラタ・エングリ川の中州だけで進行します。この川は春に濁流が流れて上流のコーカサス山脈から土砂が流され中洲ができます。周辺の農民はその中洲で、春から秋にかけてトウモロコシを栽培して冬に備えるというのが慣例になっているわけですが、川を挟んで向こう側はグルジア領、こちらはアブハジア領というわけで、いわばノーマンズランドになっている危険な最前線でもあるわけです。

映画はその中洲に老農夫がやってくるところから始まり、孫娘も加わって、そこに小屋を作りトウモロコシを栽培する様子を、音楽も会話もないまま映し続けます。この12歳ぐらい?の孫娘がいいんですね。顔立ちがとても美人なんですが、何しろ田舎の娘らしく、そばかすだらけ。で、そのトウモロコシ畑に怪我をしたグルジア兵が倒れていて、二人はそれをかくまうんですが。。。

この二人は中洲に住んでいるわけではないですが、この中洲以外のシーンはほとんどなく、また回復したグルジア兵がどうなったのかもはっきりしません。孫娘と親しくなって、それを老人が咎めるような目で見て、兵士は怯えたような目で見つめるシーンの直後、場面が変わるともう兵士はいません。おそらく中洲を去って帰って行ったのだろうとは思いますが。。。

最後は季節外れ?の濁流に中洲が流され、トウモロコシを収穫していた老農夫は濁流にのまれますが、孫娘は船に乗っていて助かるようです。「ようです」というのはこのシーンの後ボートに乗る娘の姿が映ることがないんですね。この濁流にのまれる中洲のシーンもとても素晴らしいシーンで、大雨の中、徐々に小さくなって崩れていく中洲とトウモロコシ畑と小屋が心に残ります。両親がおらず、老人に頼っていた孫娘はどうなったのかを考えると胸が痛むシーンではありますが、この間に彼女も成長していて(生理があるシーンがあります)、おそらく一人でしっかりと生きていくのだろうと思いたいところです。

最後に、翌年また中洲ができたところへ若い農夫がボートでやってきて、娘が大切にしていた手作りの人形を掘り出し、大切にボートの座席に置くシーンで映画は終わります。振り返ってみれば、老人も最初の方のシーンで中洲からパイプらしきものを掘り出し、後生大事に持っていました。

人間同士がいがみ合い、争い合い、殺し合い、老人は自然の前に命を落とし、孫娘は成長していき、時は流れていき、同じことが繰り返され。。。だけど、新たにやってきて、最後の人形を大切に扱う農民の姿は、老人たちの後継者として、彼らの生きた証をつなぐシーンのようにも思われます。老人も、だからこそ、掘り出したパイプを大切に持っていたのでしょう。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

ヘルツォークの映画「問いかける焦土」

2017.10.16.19:22

IMG_1151_convert_20171016191413.jpg

拙ブログでも書いたことのあるヴェルナー・ヘルツォーク監督。今東京の新宿で特集を組んでいて、20世紀に作られたものだけですが、10本を上映中です。僕は「ヴォイチェック」とこの「問いかける焦土」を見てなかったので、この二本と、大好きなんだけど、しばらく見ていない「カスパー・ハウザーの謎」をなんとか時間をやりくりして見てこようと思った次第。

で、今日、まず、表題の映画を見てきました。1991年の湾岸戦争のドキュメンタリーですが、印象としては「コヤニスカッティ」みたいな感じでした。コヤニスカッティではフィリップ・グラスの不思議な音楽が魅力的でしたが、こちらではワグナーやアルヴォ・ペルト、あるいはヴェルディやマーラーやグリーグの音楽がBGMで、しかもワーグナーだとジークフリートの葬送行進曲とか、ヴェルディはレクイエムだし、ペルトはもう言うまでもなく暗いし、こういう美しくも、人間の愚かさを感じさせる映像によく合ってました。

イラクがクウェートへ突然攻めて行った1991年の湾岸戦争、この映画ではイラク軍によって息子を殺された母親や、父親を殺されて口をきかなくなった子供などのインタビューも出てくるけど、戦闘シーンがあるわけではないし、ただ捨てられていった砂漠の壊れた車などのガラクタが延々と空撮で映され、石油の真っ黒い大きな水溜りがアップで撮られ、だけど、やっぱり印象に強く残るのは砂漠の空撮と、なによりイラクが撤退時に火をつけていったクウェートの油田火災の風景でした。

ボッシュの絵の地獄図のような火と真っ黒な煙の物凄さ。残念なことにそれがとても美しいんですねぇ。環境破壊だし、資源の無駄遣いだし、美しいなんて言っていいのか、とも思うんだけど、あの映像はちょっと忘れられない。

ヘルツォークの映画はいつでも風景とともに、意外なものにびっくりさせられるんですが、この黒煙もうもうの砂漠の火災の消火活動をしている人たちが、最後に火が消えて吹き上がっている石油に、なぜか、もう一度火をつけます。茶色い石油が棒状に吹き上がっているところへ火の付いた松明のようなものを投げ入れると、石油が一気に燃え上がり炎の柱になり、黒煙を噴き出します。何故あんなことをしたのかの説明は全くなし。まあ、ヘルツォークらしいといえばそれまでですが。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「動くな、死ね、甦れ」

2017.10.13.22:53

IMG_1113.jpeg

新宿でやっているヘルツォークとこの映画と、どっちにしようか迷ったのですが、こちらにしました。この映画は数年前にTVの衛星放送でやっていたのを見たことがありました。なにしろ最後のところのわけのわからなさにぶっ飛んだ、という印象でした。見終わって、なんだったんだ?今のは?とTVの前からしばらく動けなかったですね。

監督はヴィターリー・カネフスキーという人で、ソ連時代に無実の罪で8年投獄され、50を過ぎて初めて監督として映画を作り、しかもその後二本取った後、ぱったりと映画を撮ることをやめてしまったそうです。

舞台はスーチャンという日本海側、ナホトカの北にある炭鉱の町。この町にはソ連の収容所があり、多くの囚人が入れられている一方で、抑留された日本人もいます。いわゆるシベリア抑留者たちです。極東の町で荒んだ雰囲気があり、終戦直後なので物資も足りず人々の心も殺伐としていて、子供たちがたくさん出てくるけど、どの子供もみんな悪ガキの風貌風体。町はそこらじゅうに泥の水溜りがあり、住居もバラックの粗末なものばかり。こう言うぬかるみの風景ってロシア映画ではおなじみ感があります。

終戦からほどない時期だから腕や足のない傷痍軍人も出てくるし、モスクワで学者だった狂った老囚人とか、妊娠すれば収容所から出られると思って、男を誘い、断られて泣きじゃくる若い女の囚人とか、人々の心も酷い状態なのがよくわかります。

主人公はそうした子供たちのうちの一人の少年と少女です。その少年がいたずらが度を過ぎて、機関車を転覆させ、町を逃げて都会(ナホトカか?)へ出て行って、そこで宝石強盗の手伝いをさせられ、さらに口封じのために殺されそうになって、迎えに来た少女と一緒に逃げるが。。。というのがあらすじでしょうか。

監督カネフスキーのデビューのきっかけを作ってくれたのは、拙ブログでも2度にわたって紹介した「神々のたそがれ」のアレクセイ・ゲルマンだそうで、そう言われると、似たような作風かもしれません。
映画「神々のたそがれ」
再び映画「神々のたそがれ」

子供たちの演技が素晴らしいのは言うまでもないけど、主役の男の子が素のままの悪童ぶりなのに対して、少女の方は大人びていて、落ち着き払って、物静かで、男の子の嫌がらせにも善意でお返しをするような優等生的な子です。こういう女の子って小学校の頃いたなぁ。やたら頭が良くて超然としていて、男の子からいたずらされても大人の対応をする学級委員っていう感じの子。

音響効果が不思議な映画で、BGMらしい音楽はほとんどないけど、登場人物が怒鳴り散らすように歌う下卑た歌とか、抑留された日本人が歌うよさこい節や炭坑節が雪が残る泥だらけの荒涼とした風景の中で、不思議な雰囲気を醸し出します。それとやたら会話の音がかぶって騒々しい一方で、汽車が転覆するシーンでは全くの無音になり、転覆後に人々が駆け寄る足音だけが聞こえてくる、という不思議な感じも。

そして何より不思議なのが、時々監督の声だと思うのですが、映画の中に入ってきます。そもそも映画の出だしが「用意はいいか? スタート」というナレーションが入って始まり、最後のシーンも監督の声がかぶる。「子どもを写すのはそのぐらいでいいから、女を追え」という音声が入ってくる。だけど、他にも、子供達が愉快そうに笑っている声にかぶるように大人の男性の笑い声が聞こえる。よくわからないんだけど、これも監督の笑い声ではないでしょうか?

ところで、この最後のシーンのアヴァンギャルドぶりには、きっと誰でもぶったまげると思います。そして同時に、悲痛な映画のラストシーンというのは沢山あるだろうけど、この映画のラストの胸裂けるような悲痛さも半端ではありません。

金曜日の夕方で、こんなマニアックな映画だけど、思ったよりお客さんは入ってました。ただ、面白かったのは僕もそうですが、多分全員一人で来てたようだったことです。まあ、デートで観る映画じゃないわなぁ。


よろしければ下のボタンを押してください。

にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ザ・ウェイブ」(ほぼネタバレ)

2017.08.22.18:22



非常にわかりやすい映画だし、現代社会のいろんなケースを連想することは容易だろう。原作者はアメリカ人で、自分自身の経験をもとにしたものらしいが、それを現在のドイツに置き換えてある。

高校の体験授業で独裁制について教えることになった教師が、まず、授業中だけ、自分のことを苗字に「さん」づけで呼ぶこと、というルールを決めると、最初のうちは面白がっていたり反抗的だった生徒たちが、徐々にクラスの一体感を感じ始めて、どんどん暴走する。

確かにクラスがまとまって、それまでクラスの中では異端とみなされていたトルコ系の生徒も差別感を感じないようになれる。それまでいじめられていた生徒がそうした一体感の中でどんどん気が大きくなり、エスカレートしていく。

みんなで白いシャツとジーンズという「制服」や、挨拶のポーズを決めて、HPを立ち上げ、シンボルマークまで作って、街中のあちこちにいたずら書きを始める。

ちょっとしたカリスマ性があれば大衆操作なんてチョロいチョロい。しかも教師が言わなくても、生徒たちがどんどん忖度して、ユニフォームを着てなければ仲間はずれにしたりする。

仲間で団結するということは、仲間でないものに対しては排除したり敵意を見せたりしがちなのである。

しかもこの映画では、主人公の教師は最初から人望があったり、カリスマ性があったわけではない。最初の授業で自分のことを「さん」付けの苗字(それまではファーストネームで呼んでいた)で呼び、発言するときは立ち上がってすること、と決めたことから、自然と教師に権威ができてくる。

昔、日韓W杯で最優秀選手になったドイツのGKオリバー・カーンが、TV番組?で日本人の小学生たちを相手にアドバイスした時、日本人小学生たちの行儀の良さに呆れたとコメントしていた。ドイツの小学生たちはもっと行儀が悪いし、おしゃべりはうるさいし、話を聞いてないやつもたくさんいるのに、日本の小学生はすごい!と、半分呆れながら感心していた。ある意味、ドイツから見たら日本の学校なんてのはかなりの管理教育に見えるんだろうね。

それはともかく、こうしてクラスに一体感が出てくるとともに生徒たちの学習意欲も高まるし、不良たちと付き合っていた生徒も真面目になる。管理する側が独裁的な手法をとると、人は容易にそれに快感を覚え、生きがいを感じるとともに、管理する側もとても楽ちんになるわけだ。権力者が独裁制に憧れる理由もよく分かる。安倍さまを支持するネトウヨ、なんていうのが簡単に連想できるシチュエーションではある。

俳優は教師役が「エーミールと探偵たち」で悪役をやったユルゲン・フォーゲル。「エーミール」では歯並びの悪い、いかにも悪党そうな、一種吸血鬼じみた雰囲気を出していた。

あまり他の映画で見ないな、と思っていたんだけど、少し前に見た「ローゼン・シュトラッセ」に出ていた。

主人公の生徒もどこかで見たなと思ったら、「ナポラ」の主役。そういえば監督も「ナポラ」の監督だった。




にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ヒトラーへの285枚の葉書」(いろいろネタバレ)

2017.07.22.22:54

昨日は仕事の後に「ベルギー奇想の系譜展」を見て、さらに夕方この映画を見てから、日本最年長DJのいる餃子屋さんで痛飲。 

というわけでこの映画、以前その原作「ベルリンに一人死す」について書きました。原作は傑作だと思います。映画はこの原作を知っていると、登場人物がかなり「映画的」になっています 笑) つまり、小説より人間関係がわかりやすくなっているし、かなりマイルドです。



密かに反ヒトラーのビラを配る主人公クヴァンゲル夫妻は、自分たちはナチスの共犯者にならなかった、自らの主体性を放棄しなかったと言って、満足して刑死し、彼らの生き様に心を打たれたゲシュタポのエシュリッヒは押収した葉書をもう一度ばらまくわけで、非常に感動的になっています。

たとえば、これも少し前にブログに書いた「ヒトラー暗殺、13分の誤算」でも、ヒトラーを暗殺しようとして捕まるエルザーの態度に心打たれた検察官ネーベ(名優ブルクハルト・クラウスナーがやってました)は、のちのワルキューレ作戦という軍部のヒトラー暗殺計画に加わって刑死することになっていました。つまり、彼らがやったことは決して犬死ではなかった。一粒の種は地に落ちて死ななければ、一粒のままだが、落ちて死ねば多くの実を結ぶという聖書の言葉をなんとかつなげたいという「いじましさ」を感じてしまうんですね。拙ブログのモットーにしているガンジーの言葉を思い起こしてもいいでしょう。

「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです」

映画のような展開なら、これでいいんですが、原作はこんなに美しく死なせてくれません。原作では映画に出てこなかった、まるで無関係の親類まで巻き込まれていきます。これは辛い。同時にナチスの、まるで白土三平の「カムイ伝」に描かれる話のように、一族郎党がみんな同罪にされてしまうような残虐な社会では、反抗することイコール自分の死であるだけでなく、無関係のものも含めた死になってしまう。

また、夫妻が置いた葉書を読んだ人たちの反応があまり出てこないですが、原作ではナチのような監視密告社会では人々がどう反応するかがとてもうまく描かれています。

原作にはヒトラーユーゲントの青年が語る印象的な言葉があります。「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」というもので、これに対して、主人公夫婦はまさに自ら考えて、従うことをやめたわけですが、それが無関係の人まで巻き込んで死なせてしまう。ナチスのように残虐悪辣な社会で、自らの精神の自由を守ることはどういうことか、なかなか簡単に解決つかない問題でしょう。

映画としては当時のベルリンの雰囲気や、アパートの様子、戦争だから大量に必要になる棺桶製造工場の雰囲気など、とてもリアリティがあり、さらに主役の二人がものすごい存在感です。特に夫のブレンダン・グリーソンという俳優。無口で実直、頑固で表情を表に表すことのない職人という役そのもので、妻のエマ・トンプソンも良いし、前半で出てくるヒトラーユーゲントの青年なんか、僕がイメージするそのまんま 笑) タレコミやの男やユダヤ人の老婦人なんかも素晴らしいです。

ただゲシュタポの警察官をやったダニエル・ブリュールは「グッバイ・レーニン」の好青年やドイツにサッカーを伝えたコッホ先生役のイメージが強すぎて、口ひげつけてもやっぱり童顔だし、僕としてはもっと強面(こわもて)の役者の方が良かったんじゃないかって思うんですけどね 笑)

最後に、まあ、どうでもいいのだけど、やっぱり一言。ドイツを舞台に、出てくる新聞や、キーになる葉書の文字も、そして遠くでスピーカーから流れる言葉もすべてドイツ語なのに、会話だけが完全に英語というのは、やっぱりかなり違和感です。まあ、字幕に集中しちゃえば、あまり気にならないんですけどね 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「おみおくりの作法」(ちょっとだけネタバレ)

2017.06.13.22:59



2ヶ月ほど前にTVでやったのを録画しておいて、昨夜みました。いい映画ってこういうやつをいうんだなぁと、しみじみ思いました。

主人公は、身寄りもなく孤独死した人たちの連絡先を調べたり、遺品を整理したりする民生課の公務員。死んだ人たちを「数」にせず、一人一人の生きた証を求めて、関係者を訪ねたり、葬儀にただ一人参列したりして、書類を作っていく。一方、若い上司は効率化の名の下に、ようするにもっと手抜きをしろと言って、主人公に解雇通告する。

最後の仕事として主人公は、孤独死した、あまりまともな人生だったとは思えない男の娘を探し、葬儀に参列するよう説得し、上等な墓石を準備し、挙句に自分のための墓地を譲ってしまう。そう、この主人公自身が、そもそも孤独な身寄りのない人間で、それは何度か繰り返される寂しい食事のシーンでもわかる。

最後に娘と葬儀の後にお茶する約束をして、そこでそれまで無表情だった彼が少し笑う。これからこの娘と幸せになれるのかな、と思っていると。。。

もう、最後は、え〜っ?!! ひっど〜い!! と思っていると、その最後の最後に奇跡が!

最後の30秒で一気に涙が止まらなくなりましたね。夜中に一人で見てたんだけど、声あげて泣きそうになりました 苦笑) まあ、作り手が見てるものを泣かそうとしているのが露骨にわかる映画って、結構あるわけですけど、この映画は、そういう作り手の「あざとさ」をあまり感じさせません。

主演のエディ・マーサンという俳優が、かなり癖のある顔立ちで、普通あまり好きになれそうにない顔してるんだけど 笑)、それが最後は本当に素敵な顔に思えてきます。同じ街角を同じように歩くシーンがなんども繰り返され、彼の人生が寂しい単調なものであることが暗示され、その顔もず〜っと表情が暗くて無表情なのに、最後の方で笑うんですよね。そして。。。

絶対にオススメです。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ストーカー」を見た (ネタバレ注意)

2017.05.16.00:01

「ソラリス」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「鏡」、「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、「サクリファイス」ときて、これで最後。昨日は友川カズキライブの打ち上げで午前様、睡眠時間が足りてないので、むちゃくちゃ不安だったんですが、今日の仕事は午前中だったので、1時半からの回で見てきました。先に正直に言っておくと、途中、3人が休憩しているシーンで一瞬意識を失いました 苦笑)

タルコフスキー映画でおなじみのシーンや物がたくさん出てきます。ガサガサした壁や円形に対するこだわり。登場人物たちは例によってやたらと転ぶし、のたうちまわる女の姿はソラリスやサクリファイスでもおなじみです。事物がまるで偶然のように落下するし、主人公らに忠実な犬の姿もおなじみ。

よくわからないものが浮遊している水たまりや、首まで浸かりながら渡る池、焚き火や風、ソラリスでも鏡でもノスタルジアでも出てくる丘から見下ろす川と森の風景。そしてサクリファイスで最初と最後に流れるバッハのマタイ受難曲のアリアが、突然口笛で吹かれたりします。さらに、「ルブリョフ」の冒頭のエピソードや「ソラリス」のステーションでもおなじみの男3人組。

今回久しぶりに見て、舞台の背景に原子力発電所がなんども出てくるのに気がつきました。この映画ができたのはチェルノブイリの6年前、フクシマの30年以上前のことです。

ストーリーは広範囲に汚染された?ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域の奥に人間の願いを叶える部屋があると言われ、そこへ、案内役のストーカーと作家と教授の3人が向かうという話。

この3人を今回こんな風に見立ててみました。つまり、ゾーンは神でストーカーは聖職者。神なるゾーンの信奉者であるとともに伝道者でもある。それに対して、そんなものはありゃしないと絶望している作家と、そんなものは権力者に悪用されるだけだから破壊すべきだと主張する教授という図式。宗教的なイメージなのは、ラスト近くで作家が頭にいばらの冠をかぶるシーンでも、おそらく間違いないだろうと思うのですが、こういう風に決めてしまうのは、愚かなことだと言われるのは承知の上で、あえて遊びで 笑)

映像的には、セピア色の白黒、まるで墨のようなコントラストの強い最初のシークエンスと、ゾーンに入ってからの目に鮮やかな緑の自然の対比もすごい。トロッコに乗ってゾーンへ向かう3人のアップの白黒画面が終わると、バアンと音でもしたかのように鮮やかな緑の風景が、突然映し出される時の衝撃。さらに、ゾーンの建物に入った後の色彩を抑えた室内の画面。ただし、そのどのシーンもが、非常にゆっくりとしたテンポで眠気を誘ってきます 笑) 

しかし、願いを叶える部屋が近づくと緊張感が高まり、眠気は吹っ飛びましたね。 暗く不気味な丸い廊下から、非常に印象的な砂丘のような不思議な広間を超えて、大小のフラスコ状のものがたくさん浮いた水たまりのあるゾーンの前室。そしてそこに座り込む3人の前に広がる水たまりの願いを叶える部屋に雨が降り出すシーン。どのシーンを切り取っても映像としての美しさがあるし、どの事物にも意味ありげな謎めいた魅力があります。

最後のシーンの奇跡は、タルコフスキー映画では最初の「ローラーとバイオリン」からこの「ストーカー」まで一貫しています。どの作品でも最後には奇跡が起きます。 「ローラー〜」は家から出られなくなった少年は想像の中で青年に会いに行き、「僕の村〜」ではイワンは妹と水辺でかけっこをします。「ルブリョフ」は無言の行を終了して、傑作イコン群を残すし、「ソラリス」では過去をもう一度やり直そうとするし、「鏡」では死んだ小鳥が生き返り幼年時代へ飛んでいきます。

その意味では「ノスタルジア」と「サクリファイス」はちょっと変わったと思えますね。 「ノスタルジア」の最初の方で自分だけのための美はもういらない、と言うシーンがありますが、これがある意味で象徴的なセリフではないかと思えます。 そして、この「ストーカー」の前と後で、タルコフスキーの「願い」が個人的なものから、もっと全人類的なものに変わっているのではないでしょうか。

こんな風にシーンを言葉にしても詮無いものがあるし、話を何かのアレゴリーだと解釈するのも、この映画をつまらないものにしてしまうのかもしれません。映画というものを言葉で語ることの虚しさを強烈に感じさせる、ものすごい映画だと思います。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「サクリファイス」その他を見た(ネタバレ)

2017.05.13.18:53

例によって東京の渋谷でやっているタルコフスキー監督特集。昨日は「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、今日は遺作の「サクリファイス」と見てきました。少しメモしておきます。

ローラーとバイオリンは最初の作品だけど、短編映画で、すでにタルコフスキー哲学が出てます。ラスト、思いは現実を超えるという暗示でしょうか。晩年の「ノスタルジア」や「サクリファイス」の人類救済のおまじない見たいな話につながるように思います。

「僕の村は戦場だった」は冒頭の樹木のアップ。カメラがだんだんアップの樹木を登っていくシーンで始まるんですが、遺作の「サクリファイス」のラストが全く同じように、カメラがアップの樹木を登って終わります。タルコフスキー映画の円環が閉じたような形で、すでに癌で余命幾ばくもないことを知っていたタルコフスキーは多分意図的にやっているんじゃないかと思います。この映画は主役のニコライ・ブルリャーエフという少年がいいんですね。思い出の中と現在との顔がまるで別人のように違う。思い出(=夢)のシーンも疲れ切ったブルリャーエフが爆睡、その間、遠くで常に雫がポタン、ポタンとリズムを刻んでいます。ブルリャーエフのベッドからはみ出た手がアップになると、なぜかその手から水の雫が落ちています。あれ?と思う間もなくカメラが上に向くと、そこは井戸の底、上から母親とブルリャーエフが覗き込んでいます。何度見てもゾクゾクします。

この映画は、偵察のためにドイツ軍の様子を伺いに行き、殺された少年の話が原作のようですが、映画の最後に死んだゲッベルスの6人の子供達の遺体や、家族を道連れにして自殺したナチの将軍?の子供達が出てきます。メッセージは明らかで、戦争で一番大きな被害を受けるのは子供達だ、と言っているのでしょう。ただ、これはソ連が願う戦争の描き方とは違っていたのでしょうね。

さて、「サクリファイス」です。何しろワンカットが長い。冒頭のシーンからして、計ってないから正確にはわかりませんが、おそらく10分近くワンカットだったんじゃないでしょうか。カメラがあきれるぐらいゆっくりと移動し、登場人物たちが移動していくのに合わせて、少しずつ横に移動しながら近づいて、最初は人物の顔もはっきりわからないぐらい遠いところから始まり、10分近くかけて、気がつくと、すぐそばまで近づいています。全編そんな調子で、カメラは気がつかないぐらいわずかずつ近づいたり横移動したりしますが、そのリズムがなんとも眠気を呼びます 笑) 

ストーリーを言うと、あまりにバカバカしさに笑っちゃうかもしれません。世界戦争が始まり、主人公は神に、もし全てをなかったことにしてくれたら、全てを犠牲に捧げると祈ります。翌朝、目がさめると、全ては何もなかったかのような世界に戻っています。そこで主人公は神との契約通り家に火を放ちます。最後の家に火をつけてからの、約10分のワンカットシーンは、おそらく映画史上に残るものすごいシーンです。全てが計算し尽くされているように家は燃え上がり、煙を吐き、横の車が爆発し、煙が止まって炎だけになり、崩れ落ちる。その前を人々が右往左往し、カメラもそれを追って移動していきます。そのスペクタクルに圧倒されます。

さて、あと月曜に「ストーカー」を見れば、今回のタルコフスキー特集で上映された映画を全制覇になります。「ストーカー」は、多分、また書きます 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「アンドレイ・ルブリョフ」を見た(完全ネタバレ)

2017.05.09.22:03

この映画については前にもちょっとだけ触れたことがあった。 初めて見たのは1981年。その時は予備知識もほとんどなく、映像の美しさやゆったりとしたテンポの心地よさに魅了されたけど、悲惨な時代に芸術家であることの意味に苦しんだ画家が、いわば「飢えた子の前で文学に何ができるか」というサルトル的な絶望を感じ、一旦は筆を折りながら、それにもかかわらず再び絵を描くことを決意する話だと思った。多分、それは外れてないと思うが。

ただ、その後なんども見てきて、主人公ルブリョフはタルコフスキー自身が、かなり露骨に投影されていることがわかってきた。例えば、ルブリョフに対する同僚の批判「確かに絵は上手だ、しかし彼には信仰心が欠けている、単純さが足りない」などという言葉は「確かにいい映画を作るが、彼には政権に対する従順さが欠けている、そして映画も単純さが足りない」という意味だろう。たぶんタルコフスキーの第1作「僕の村は戦場だった」に対するソ連当局の批判であったことは間違いない。

この映画を見ると、いつも、「乏しき時代の詩人」という言葉が思い浮かぶ。ハイデガーという哲学者の本の題名だけど、内容はともかくも、この題名には心惹かれるものがある(昔アマゾンレビュでこの映画について書いた時にもこの題名を使ったことがある)。

この時代の悲惨さは映画全体を通して繰り返し描かれる。最初の旅芸人のエピソードでも、ちょっとでも反権力的な言動を人前で行えば、すぐに捕まってしまう。また、権力者の兄弟げんかに端を発して、弟がタタール人に援軍を頼んだせいで、町は蹂躙され、一般市民が虐殺される。教会に逃げ込んだ市民が虐殺されるシーンは、この映画の20年前に、現実にナチスの手で同じようなことが行われたことを思い出させる(「炎628」)。このエピソードは、スターリンが自分の権力を守るために粛清の嵐を吹き荒れさせている間にナチスが攻めてきたことを、見た人に連想させたことだろう。

異教の祭?(=反体制運動)の翌朝、村人たちは官憲に一網打尽にされる。その時、前夜ルブリョフを助けてくれた女は裸で川に飛び込み、いわば「亡命」していく。それを芸術家の特権で川の上を船で下っていくルブリョフが暗い顔で見送る。プロローグの気球で飛ぶ男も、ある意味で「亡命」未遂の暗示かもしれない。僕は1980年代初めに、タルコフスキーが亡命したというニュースを聞いた時、思わず、タルコフスキーも裸で川を渡ってしまったのだなぁ、とこのシーンを思い出した。

こうした中世ロシア(=スターリン時代・ソ連邦時代)の悲惨な状況の中で、体制の命令によって絵を描く(映画を作る)芸術家の苦悩を考えれば、この映画は分かりやすくなるだろうと思う。しかも、同じ芸術家同士の間でも嫉妬や妬みがあり、また師匠は筆洗いしかさせず、なかなか絵を描かせてくれない。この師匠はフェオファン・グレクという実在のイコン画家だけど、タルコフスキーを当てはめると、エイゼンシュテインあたりになるのだろうか?

最後の鐘を作る少年のエピソードでは、この少年がタルコフスキー自身なのではないか? 少年をはじめとする職人集団は文字通り映画を作るスタッフの集団だろう。様々な内輪での争いがあっても、最終的に少年の元で結束して巨大な鐘を作ることに成功する。その鐘は確かに権力者のために作ったものではあるが、それは結果に過ぎない。同時に、この少年が全て終わった後、実は自分は誰からも鐘の作り方を習っていなかったと告白するけど、これも、タルコフスキーはソ連の監督からは何も学ばなかったという意味に解釈できそう。こじつければ、先の師匠のフェオファン・グレクも史実ではギリシャ人、つまり外国人だ。すると、彼はエイゼンシュテインというよりも、むしろイングマール・ベルイマンや黒澤明あたりをイメージした方がいいのかもしれない。タタールが街を襲うシーンなどは七人の侍を意識しているだろうと思われる。

かくして、ルブリョフは、誰のためでもない、鐘を作ることそのものを目的にしたかのような少年の姿を見て、自らも、長い無言の行の後、再び絵を描くことを決意する。おそらく神のために描くことを。最後、これでもか、と言うぐらい長い時間をかけてルブリョフが残したイコン画が、延々とアップになって映った末に、映画の冒頭倒れた馬が、雨の中で平和そうに水辺で草を食むシーンで終わる。

だけど、こうやって何でもかんでもこじつけて、一つの比喩に固定してしまうことで、この映画がつまらないものに見えてきそうな気もする。むしろ、あちこちに出てくる映像のすばらしさだけに集中してもいいんだろう。例えば、旅芸人が捕らえられて連れて行かれるシーン、手前に3本の木があって川むこうを官憲の馬が3頭歩き、手前をルブリョフたち3人が歩いていくシーンの美しさ! あるいは想像の中で、雪の(!)ゴルゴダの丘へ向かうイエスとマリアらの、ブリューゲルの絵のような風景。あちこちで出てくる俯瞰のアングルの映像。焼けた教会の中に降る雪。その焼けた教会の中で師匠のフェオファンの幽霊?との会話シーンの、画面の外を意識させるような不思議な雰囲気。

主人公をやったアナトリー・ソロニーツィンや仲間の画家をやったニコライ・グリニコは、この後の「ソラリス」「鏡」「ストーカー」でも出てくる(グリニコは前の「僕の村は戦場だった」でも出てくる)し、その他の旅芸人も裏切り者のキリール役の俳優もみんなものすごい存在感だったが、特に知恵遅れの娘と、タタール族の首領が、それぞれ強く心に残る。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村
 HOME 

プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

カテゴリー

openclose

マガジン9条

FC2カウンター

Amazon

ブロとも一覧

検索フォーム