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映画「道中の点検」の検閲のこと

2019.11.02.19:29



この映画のことは以前にも「神々のたそがれ」「炎628」についての文で、うろ覚え状態で書いたことがあったけど、今回改めて見た。1971年のアレクセイ・ゲルマン監督の最初の長編映画。第二次世界大戦の独ソ戦が舞台で、ドイツ軍の捕虜になり、その後ドイツ軍に加わったものの、再びソ連軍パルチザンに投降する。だけど、パルチザンのメンバーは、一度はドイツに寝返った奴など信じられない、すぐに殺すべきだと言う者もいる。ところがパルチザンのリーダーは彼を試すことにする。

アレクセイ・ゲルマンという監督は上記の「神々のたそがれ」以外でも、拙ブログで何度か紹介した。

再び映画「神々のたそがれ」
映画「フルスタリョフ、車を」

この二作ともに、白黒のワンカットの長い、ストーリーの説明がないわかりづらい映画。どこかボッシュの絵のような禍々しさを感じさせるのも、人々の画面内での動きが独特で、主役の前を多くのエキストラたちが繰り返し横切ったり、変なモノローグのようなブツブツいう声が小さく聞こえたりするせいだろうか。

この「道中の点検」ではそうした特徴がそれほど出てこないけど、それでも冒頭の男の顔を写すところや、雪の中の風景、照準器越しに見えるドイツ軍兵士たちのアップに、ボソボソと言う狙っている男の声とか、何か普通の映画ではないと感じさせるものがある。

それとこの映画はタルコフスキーの映画で出てきたロマン・ブイコフ(「アンドレイ・ルブリョフ」の道化)、アナトリー・ソロニーツィン(「アンドレイ・ルブリョフ」の主役、「ソラリス」のサナトリウス博士、「鏡」の通りすがりの医者、「ストーカー」の作家)、ニコライ・ブルリャーエフ(「僕の村は戦場だった」のイワン、「アンドレイ・ルブリョフ」のラストのエピソードの鐘作りの少年)、それにウラジーミル・ザマンスキー(「ローラーとバイオリン」の作業員)が出ているのも、むちゃくちゃ嬉しかった。

特にブルリャーエフが裏切り者として出てきて、最後のシーンで主人公たちがバレてしまう決定的な役割を演じているのは、「僕の村〜」ではドイツ軍に対する憎しみに燃える少年斥候の役だっただけに楽しい。

この「道中の点検」は冒頭に書いたように71年にできたのに、公開されたのは85年。14年も何があったか? 検閲である。この映画は80年代末に日本で初公開された時に見た。その時は14年も公開禁止になっていて、ゴルバチョフのペレストロイカのおかげで公開が許された映画ということで話題になった。僕も反ソ的な映画を期待して見に行き、見終わって一体どこが反ソ的なんだ? と拍子抜けさせられた。

つまりドイツ軍のために働いたソ連人がいるということが、当時のソ連政権にとっては認められなかったのだ。この映画は検閲を通らなかった時点でフィルムを廃棄するはずだったという。だが、様々な人の善意や偶然によりフィルムは廃棄処分にならずに残された。ということは、ソ連時代には廃棄されてしまったフィルムがたくさんあるということなんだろう。

今から見れば、こんな検閲理由なんて信じられない。悪い冗談だとしか思えない。しかし、旧ソ連はそういう国だったのだろう(ただし、ズビャギンツェフの映画「ラブレス」はその前の「裁かれるは善人のみ」がロシアの政権の逆鱗に触れたせいで、フランスやドイツ、ベルギーから出資してもらったという)。

僕らの住む現在の日本は、当時のソ連のような独裁国家・収容所国家ではない。安倍がやることが独裁的だというのはある程度当たっているとは思うが、少なくとも権力批判をする人間が収容所に入れられることはまだない。そんな国で、政権が気にくわない文化事業が潰されるというのは、ソ連のような上からの検閲ではなく、検閲を支持する一部の国民がいるからだ。

例の愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」、展示を見ることもせずに抗議の電話を嫌がらせのようにかける人々。

ソ連のようなケースなら政権が崩壊すればなんとかなる(もっとも今のロシアも上記のごとし)かもしれないけど、今の日本の状況はもっと深刻かもしれない。


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自転車レースと映画(色々ネタバレ)

2019.10.22.23:44

自転車と映画といっても、パンターニのドキュメンタリーアームストロングの映画のように正面から自転車レースや選手がテーマになっている映画ではありません。本題とは全く無関係に、さりげなく出てきたり、会話に出てくる自転車レースのシーンや話題のことです。そんな映画を4篇ほどご紹介。

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ルイ・マル監督の「鬼火」(1963)
アル中の治療入院からシャバに戻った男が、かつての友人たちが幸せそうなのに嫉妬して、ただ単に彼らに冷や水を浴びせたいだけで、嫌がらせのように拳銃自殺するまでの二日間を描いた映画です 笑) エリック・サティのピアノ曲が、この映画のなんともやりきれない暗い雰囲気を高めます。

この映画、街中でプロの自転車レースがおこなわれているんですね。先導車について集団が走って行くシーンと拡声器での放送が聞こえます。最初に映画館で見たとき、主人公のモーリス・ロネが道を横断しようとして立ち止まると、風のように自転車が二台かすめすぎるシーンがあったと記憶しているんですが、その後TVで2、3回見てるんですが、そのシーンが見当たりませんでした。あれって記憶捏造したのかなぁ。。。それとも版が二つ(以上)ある可能性もあるかなぁ。。。

暗い顔をしたモーリス・ロネの前を全速で風のように過ぎ去る自転車の姿に、何か「刹那」という言葉を連想して、この映画のテーマとも関係するのか、と思ったのですが、どうもそのシーンがその後見つけられずにいます。

「ルシアンの青春」(1974)
この映画では親ナチスの自転車のチャンピオンという登場人物が出てきて、バルタリなんか怖くなかった、むしろベルギー人のシルベール・マースの方が手強かったとかいうシーンがあったことはすでに書いた通り。

監督は「鬼火」と同じルイ・マルで、この監督はおそらく自転車レースが好きだったんですね。1962年のツール・ド・フランスのドキュメンタリー「ツール万歳」なんて短編も撮っています。もう10年前に銀座のエルメスで見たことがあるんですが、まるで記憶に残ってない 笑)

この映画はフランスがナチスに占領されていた時代、たまたまナチス側についてしまった10代?の青年の悲劇で、映画そのものとしてはものすごい映画だったと思います。

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ジャン・ルノアール監督の「大いなる幻影」(1937年)
第二次大戦の始まる2年前に作られ、まさにこの映画に描かれたことが幻影となってしまいました。第一次世界大戦中の話で、捕虜となったフランス人貴族や平民たちとドイツ人貴族の捕虜収容所の所長(エーリヒ・フォン・シュトローハイムという怪優が演じています)の話で、特に仏独の貴族階級の二人の友情が泣かせます。

この映画の最初の方で、主人公の平民労働者のジャン・ギャバンが、ユダヤ人銀行家のマルセル・ダリオと話すシーンで、ツール・ド・フランスが最高だ、ファベール、ラピーズ、ガリグー、トゥルスリエ、みんなものすごいぜ、と、第一次世界大戦前、ツール黎明期、ほとんど神話の世界のような選手たちの名前を列挙するのでした。
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「かくも長き不在」(1961年)
戦争が終わって15年、パリで、廃墟になった教会の前でカフェを経営する女(オーソン・ウェルズの「第三の男」で有名なアリダ・ヴァリ)が街で戦時中ゲシュタポに連れて行かれて行方不明になった夫と思しき浮浪者を見つける。しかしその男は記憶を失っていて、親類を読んで面通ししてもらうけど、近しい親類にも関わらずわからない。むしろ別人ではないかと助言する。茫漠感が残る映画で、同じ年のアラン・レネの「去年マリーエンバートで」みたいな、記憶ってなんなのかという眩暈感を感じさせる映画です。まあ、それよりはずっとメロドラマの色合いが強いですが、最後の夜の街で点在する人影とか、終わり方が謎めいて寄る辺ない感じが、なんとなく「マリーエンバート」を思い出させたのかもしれません。

さて、この映画は最初の方でカフェでみんながラジオに耳を傾け、ネンチーニはどうなってる?と言っているシーンが出てきます。1960年のツール・ド・フランスの優勝者ガストーネ・ネンチーニです。イタリア人。この日はパリ祭という設定なので、1960年のツールの第18ステージということになり、コースはアルプスです。ところがここに、今日のコースはどこだ?と聞く常連客の男性がいて、それに対してツールに関心のない客の女性がトゥルマレでしょ、と答え、それに対して男が、トゥルマレ?じゃあアルプスか?と聞くシーンが続きます。ん? トゥルマレ峠はアルプスではなくピレネーの峠ですねぇ。。。ここはツールにあまり関心のない二人のやりとりが、どちらも違っていて、結果、正解になっているという変なシーンで、知っているフランス人なら笑うシーンなのかなぁ?

それから、よくわからないんだけど、あそこで出てきてネンチーニを気にしている人たちはイタリア系なんでしょうか? それとも、この時ネンチーニが総合トップだったから気にしているのでしょうか? 

以上、ここに挙げた映画はどれも映画史に残る傑作に数えられています。日本語版のウィキペディアでも「ルシアン」以外は乗っているし、ヴェネチア国際映画祭(鬼火と幻影)やカンヌ国際映画祭(不在)で賞を取っているし、「ルシアン」はノーベル賞作家が脚本に参加と錚々たる映画です。特に「大いなる幻影」はオールタイムベスト100で繰り返し上位に入ってます。

ただ、どれもフランス映画ですねぇ。イタリア映画でジロを話題にしているシーンが出てくる映画があっても良さそうな気がするけどねぇ。。。思い当たらないなぁ。


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映画「ゴールキーパーの不安」(ネタバレ)

2019.10.12.12:39


原作のペーター・ハントケがノーベル賞ということで、「ベルリン天使の詩」は有名すぎるから、へそ曲がりの私としては、同じくハントケの原作をヴィム・ヴェンダースが映画化(初長編)した「ゴールキーパーの不安」を紹介します 笑)

昔見たときにはどこが面白いねん! さっぱりだわ、と思ったものでしたが、さすがに「サタンタンゴ」を一月ほど前に見たばかり。もうこの程度では怖くないですね 笑)

サッカーのゴールキーパーが試合中に審判を小突いて退場になり、試合中に着替えて帰ってしまいます。映画を観にいき、受付嬢と仲良くなって一夜を過ごすも、翌朝、理由もなく彼女を扼殺。冷静に指紋などを拭き取り、バスに乗って昔の彼女?に会いに行きます。。。何しろ淡々としてて説明がないし、殺人のシーンもアップもなく、え?殺しちゃったの? という感じ。しかもその直後のシーンが主人公が丸まって寝ているシーン。人殺してそのまま寝ちゃったのね?? もう理解不能であります。その後も淡々と日常の生活のワンシーンが積み上げられるだけ。ですから、最後まで劇的なことは起こらず、追い詰められる犯人のサスペンスもないままです。

全く見当違いかもしれないけど、やけに劇的な音楽と日常的なつまんないやりとりを切り取る場面の連続に、ゴダールの「アルファヴィル」の音楽やつなぎ方を思い出したりしました。内容はまるで違いますが。

あと、主人公はやたらと映画を観に行きます。ただし、最初にちらっと映る西部劇?らしき白黒映画のワンカットを除き、彼が映画を観ているシーンはないんですけど。ただ、題名は二つわかります。一つは「レッドライン7000」というハワード・ホークス監督でジェームズ・カーン主演のカーレースアクション映画とドン・シーゲル監督でリチャード・ウィドマーク主演の「刑事マディガン」。

当時のヴェンダースが好きだった映画なんでしょうね。残念ながら私はどちらも観てません。でもジョン・ウェインの西部劇で有名なハワード・ホークスとクリント・イーストウッドの「ダーティー・ハリー」で有名なドン・シーゲルですから、だいたいどんな映画か想像がつきます。そして、このヴェンダースの映画の雰囲気はこうしたアメリカの「面白い」映画の雰囲気はまるでありません 笑)

一箇所やたらと綺麗なオレンジ色と青の夕焼けが出てきますが、ヴェンダースがこの10数年後に作った「パリ・テキサス」を連想しました。


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映画「サタンタンゴ」(ネタバレ)

2019.09.14.01:41

サタンタンゴ

今日(9月13日)から東京渋谷のイメージフォーラムで上映が始まりました。お昼の12時半から夜の8時半過ぎまでの長丁場。昔タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」「アンドレイ・ルブリョフ」「惑星ソラリス」「鏡」の4本立てという無茶苦茶な 笑)オールナイトを大井町にあった映画館で見たことがありましたが、一作だけでは映画館で見た一番長い映画でした。以前ここにも書いたソ連版「戦争と平和」も昔オールナイトでみましたが、あれだって全4部で7時間弱(いろんな版があるみたいですが)。

とこで、初日でしたが、どうでしょう?4割ぐらいの入りだったかなぁ。明日は監督のタル・ベーラの講演があるのですが、気が付いた時にはすでに予約で満席でした 涙)

しかし、昨日は自転車に7時間以上乗り、今日は映画で7時間以上 笑) 疲れが出て途中で寝ちゃうんじゃないかと不安だったんですが、瞬間的に意識が飛んだ瞬間がなかったとは言いません 笑)が、なんとか持ちました。

お話はどこかでこんな話を見たことがあるな、と思っていたんだけど、途中で、拙ブログでも紹介したことのある韓国アニメの「FAKE 我は神なり」だ!と思いました。無論あちらではカルト宗教がらみの詐欺の話でしたが、こちらはむしろ警察のスパイの詐欺師の話です。

ある貧しい農村が舞台。荒れてて、それぞれ村人同士で不倫しあってたり、村落で集めた金を持ち逃げしようと画策していたり。。。しかも秋の雨季が始まり村は泥だらけ。辺りの風景は平野で単調な道の脇に時々枯れ枝ばかりのような寂しい10本程度の木の生えた林があるだけ。

そんなところへ2年前に死んだと言われていた男が帰ってきて預言者のように弁舌巧みに振舞い、新たな農村コロニーのようなものを作ると称して村人たちの金を巻き上げてしまう。しかしてその実体は警察のスパイで、農民たちのことを警察に報告している。そしてそんな村落の様子を、家の中から双眼鏡で観察しているアル中の医者が逐一ノートに書き取っている。。。そして最後の結末もこのアル中の医者が映画冒頭の説明文を繰り返すことで、映画全体の円環が閉じるような作りになっている。。。

ただ、ストーリーはどうでもいいんだろうなぁ。白黒の映像の美しさが特筆ものだし、人々が移動するシーンを全く省略せず、道を歩く人たちの姿を正面から、あるいは背後から延々と映し続ける(背後から近距離で延々と後頭部と背中を写すのなんか、タル監督の助手をしていたネメシュ・ラースロの「サウルの息子」の原点がここにあるなと思わせます)。例えば、雨の中、ある家の玄関が写っている。それが30秒ぐらい延々と写され、やっと人が登場して玄関から入る。そしてその後また30秒はそのまま雨だけが振り続ける玄関が写し続けられる。30秒と書いた数字はいい加減だけど 苦笑)、だいたいそんな感じ。誰かが道を向こうに向かって歩いていく。その後ろ姿を延々と写し続ける。多分、あれは500メートル以上歩いているんじゃないかなあ。これまた500メートルという数字はいい加減 笑)

また、お話の真ん中に出てくる少女がすごい。知的な障害があるという設定だけど、歩く姿が、どのくらいだろう?正確にはわからないけど印象としては5分ぐらい延々と正面から映し出されるんだけど(タイマー持って行って測りたかったなぁ 笑)、無表情でものすごい存在感。どこかで見たような雰囲気だな、「ニーチェの馬」の娘みたい、タル監督はこういう顔が好きなんだろうな、と思っていたんだけど、帰りにパンフを見たら、なんのことはない、「ニーチェの馬」の娘の17年前の姿だった 笑) 「ニーチェ〜」が2011年、この映画は1994年というわけで、この娘はその後タル監督の「倫敦から来た男」でも出ていて、ぼんやりした顔なんだけどやたらと印象的。

さて、7時間以上の映画、何しろ長〜いワンカットの連続で、しかも顔のアップのまま動かず喋らずじっとしているシーンも多く、そういう緊張感ってのは流石に疲れます。雨の中、トラックの後ろに乗った農民たちの顔を写していくシーンはタルコフスキーの「ストーカー」のトロッコのシーンを思い出しました。このトロッコは有名なシーンで、映画史上最も眠くなると言われています 笑) ただ、この「サタンタンゴ」の方は音楽が鳴り続けていますが。

前半では村人それぞれを中心にした1日の出来事が描かれます。その際、同じシーンが別の視点から再現されます。これがかなり面白いです。前のエピソードで描かれたシーンが別の登場人物が見ている形で繰り返されます。それが全部で3回か4回あります。それぞれのエピソードではデブでアル中の医者のエピソードと、上記の少女のエピソードが面白く、あっという間に時間が過ぎたという印象です。後半は預言者然とした詐欺師が中心のエピソードになります。

しかし、もうこれで映画に関しては怖いものはないですね 笑) 個人的には「ニーチェの馬」の方が好きですが、この映画もきっと今後何度も思い出すことでしょう。

***追記: 9/14、11:40
一部加筆しました。


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ズビャギンツェフの映画(3)「エレナの惑い」

2019.09.08.21:06

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第三作目は「エレナの惑い」。これは話がわかりやすいし、映像的にも他の作品と比べれば、びっくりするようなことはしてない。前作のヴェラの祈りが絵画のような風景(僕が思い出したのは映画の「1984」の中で主人公が何度か思い出す美しい風景があったけど、それを連想した)だったのに対して、これはむしろ室内が圧倒的に多い。冒頭シーンでもそうだけど、室内の光と陰のコントラストが面白い。監督は映画ごとに画面の色調やカメラワークを変えてるんじゃないかなぁ?

主人公のエレナは50代半ばぐらいだろうか? 実業家の夫は70ぐらいだと思われる。それぞれ再婚で、それぞれに前の結婚での息子と娘がいる。夫が十年前に入院した時に看護師だったエレナと結婚し、都会の高級マンションに住んでいる。夫はスポーツジムに通い、バイアグラを飲んで朝からエレナを誘ったりして元気なんだけど、突然心臓麻痺で倒れる。とりあえず一命を取り留めるのだけど、遺書を書くと言い出し、財産は自分の娘に相続させ、エレナには遺族年金で生活できるようにすると言う。

エレナの息子は働く気もないどうしようもないクソ男だけど、そんな男にも家族があって15、6歳?の子供がいる。エレナはその子(=孫)をえらく可愛がっていて、大学へ裏口入学させようと考えている。しかしそのためには金が必要なのである。そこで、エレナはどうしたか。まあ想像できるでしょうけど、今回もネタバレはしません。

エレナが住んでいる都会の高級マンションと、息子家族が暮らす発電所のある町の狭く汚いアパートで、ロシアの格差社会を暗示し、そこに暮らす孫たち少年の生活もなんともやりきれないものがある。

エレナと夫は年齢相応に仲が良さそうに見えるが、唯一ぶつかるのがこの息子たちと、夫の方の娘のことだ。娘の方もこれまたどうしようもないクソ娘なんだけど、父親は彼女を愛していて、遺産を全て残そうとする。

冒頭の早朝の枯れ枝のカラスから始まって、小津安二郎か?っていうような人のいない室内を繰り返し写した後、エレナが目を覚まし、夫を起こして朝食の準備をし、二人向かい合って食事をするまでの10分ぐらいを、ほとんどリアルタイムじゃないか、っていうテンポで写す。このシークエンスはさすがにワンカットではないんだけど、後半、クライマックスのワンカットはすごい。あることを待つエレナの姿から台所であるものを燃やすまでの5分以上のワンカット。カメラの動きも、エレナの反応も、エレナの前で燃える炎のアングルも、そして何よりその難しいシーンを演じきるエレナ役の女優の演技力もものすごい。そういえばズビャギンツェフの映画の俳優たちの演技はみんなものすごいレベルの高さだと思う。

そしてラストは冒頭の枯れ枝のアップ。しかし冒頭と違ってカラスはいない。そして時刻は夕暮れ時だ。このラストも普通の映画ならどんでん返しが待っているはずなんだけどね。こうした終わり方ってロシア的なのかも。少し前に読んだチェーホフの短編に「谷間」と言うのがあったけど、あれもこんな感じだった。勧善懲悪とかつじつま合わせというものを徹底的に拒否している感じだ。

どこかの映画館でズビャギンツェフの特集か連続上映会でもやってくれないかしらん? ただ、陰々滅々だからなぁ。。。 笑)


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ズビャギンツェフの映画(2)「ヴェラの祈り」

2019.09.08.20:56

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亡き父の残した田舎の家に滞在しにきた一家の波乱万丈の数日間の話。そういえば前作の「父、帰る」も1週間の出来事でした。

冒頭、突然疾走する車が出てきて、運転する男は主人公の兄で、腕に撃たれた傷があるシーンから始まる。これも、このシークエンスが終わるまで、いやその後も何の説明もない。だけど、途中での会話から、これまた何となくお話は作れそう。

さて、田舎の家でくつろいでいると、突然妻が主人公の夫に妊娠したけどあなたの子供ではない、と言う。え?? というわけで夫は友人たちや同僚たちを疑い始める。妻の不倫の相手は誰なんだ?? でもそれがハリウッド映画のように過剰に夫に感情移入しない。何だか淡々と展開していく。夫も相手と思しき男のところへ拳銃を持って押し掛けるんだけど、てめえ、ぶっ殺してやる!みたいな激情的なところはなく、雨の中、車を止めてぼんやりしているうちに寝込んでしまったりする。

この作品も後半でびっくりの展開になるが、これもネタバレしないほうがいいんでしょうねぇ。そして、とてもスタイリッシュに始まる最後の20分ぐらいが、謎解きのようになっているんだけど、それでも謎は残る。しかし風景の映像は素晴らしいし、様々な細部のこだわりがすごい。特にあの丘の斜面に立つ教会のコントラストの強い映像はそのままシュールな絵画のようで、いつまでも観ていたいと思うぐらい美しい。そして思わせぶりなシーンも満載だ。子供達がレオナルドの受胎告知のジグソーパズルをやっているシーンなんか、処女懐胎したマリアとその夫ヨゼフに対する主人公夫婦の対称性を表しているんだろうし、水の流れていなかった川に向かって、最後に雨が降って水が流れて注いでいく水路を延々と写すシーンなんかも、話の流れが繋がったことを暗示しているのだろうか? 

完全に謎なのは、途中中盤で電話(固定電話がこの映画の中では重要な小道具)が鳴り主人公が出ると相手は若い娘で、一言も発しないままバッハの「マニフィカト」のレコードをかけてそれに受話器を向けている。この娘は誰? この15秒ほどのカット以外にはこの娘は出てこないので、この映画の話に関係ないのかもしれない。唐突に流れるバッハの「マニフィカト」による暗示かと思うのだけど、よくわからない。「マニフィカト」はマリア賛歌とも呼ばれるもので、受胎したマリアの神に対する感謝の祈りだから、この映画の内容とも関係すると思う。

テーマは「愛」だ。このズビャギンツェフという監督は家族の愛が常にテーマになっているようで、この「ヴェラの祈り」でも、寝る前に子供が読まされる聖書の文句はうわべだけ取り繕ったところで愛がなければ無意味だというようなことを言っていた。夫の態度に対する批判なんだろうと思う。夫は結局妻を愛しながら、自分のことばかり気にしているのである。ただねぇ、これって辛いものあるよね 苦笑)

この映画でも最初と最後は一本の樹木や疾走する車の通過する道。特に後者は逆方向で繰り返される。最後の麦束を集める農婦たちと、彼女たちが歌う歌が、なんとなくこの映画の神話的なイメージを高めているかも。でもよくわからない。


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ズビャギンツェフの映画(1)「父、帰る」

2019.09.08.20:34

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すでに拙ブログでは「ラブレス」「裁かれるは善人のみ」という2つの映画について書いた。アンドレイ・ズビャギンツェフという監督の映画は全部で五作あるので、遡って観てみた。いや、どれも凄いです。何がすごいって、映画としての密度がすごい。全くエンタメにしていない真実度がすごい。暗示的に示される謎めいた作りと見終わってからの余韻がすごい。繰り返し見ても飽きない。いや、むしろ繰り返し見ることで再発見がある。こういう風に、作った作品が全て凄く繰り返し見たくなる監督はなかなかいないだろう。タルコフスキーぐらいかな?

ズビャギンツェフの第一作は「父、帰る」。12年間不在だった父親が突然帰ってくる。妻と母親と男の子兄弟二人は当惑気味であるが、帰った翌日には父親は息子二人に旅に出ようと誘う。14、5歳?の兄の方はそれでも父とうまくやろうとするが、12、3歳の弟の方はことごとく反発する。

父が帰った時に子供達が本物の父かを見比べるために父の写真を探すのは、旧約聖書の画集の中からである。だからだろう、帰ってきた父親はやけに旧約的・家父長的な父親で、無口だが威圧的である。で、反発しながら親子3人でキャンプしながら海?に出てボートで孤島に向かう。この映画は多分ネタバレしない方がいいでしょう。テーマも神話的アーキタイプとして言えるところはあるけど、それを言っちゃったら完全ネタバレだからねぇ。。。何れにしても後半でびっくり仰天の事態になり、最後は。。。しかし、ひょっとしてこれって監督自身の父親に対するイニシエーションだったのかも、と思ったりしました。なんのことかわからない? まあ、騙されたと思って見てください。びっくりするよ 笑)

ともかく映像としての密度がすごい。それから例によって謎がたくさん。しかもそれらの謎は映画の中では種明かしされない。父は誰に電話していたのか? 父が掘り出した箱は何なのか? 父が12年も不在だったのは何故なのか? まあ、なんとなくお話は作れそうな材料が並べられているけど。。。

ズビャギンツェフ、どの映画でも、最初と最後に同じものが出てくるのはかなり意図してやっているんだろう。「裁かれるは善人のみ」では、まるで何か巨大生物の死骸のような沈みかかった廃船。この図はコントラストが強調されていて圧倒的だし、途中に出てくるクジラの骸骨?と相同をなす。そういえば船や水面は、いろんな映画に出てくるけど、常にコントラストが強調されているような気がする。「ラブレス」ではリボン?が引っかかったあの冬枯れの巨木。どれも最初と最後で同じものが映し出される。

この映画では冒頭の水中のボートや物見櫓(灯台?)が最後にも出てくる。特に物見櫓はそれぞれ違うものではあるけれど、冒頭では取り残された少年を母が迎えに来てくれるが、最後の方では父に追われてそこへ逃げるという逆の舞台になる。明確な意図ありだよね。

父の立場になって、自分になつかない子どもとの葛藤と見るか、それとも子どもの立場で強権的な父との葛藤と見るかによって、イメージが変わりますね。僕は最初に見た時には前者で、2度目に見た時には後者の見方でした。

***追記:9/14, 12:59
加筆しました。


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映画「裁かれるは善人のみ」(完全ネタバレ)

2019.08.19.13:43

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以前紹介した「ラブレス」と同じアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の2014年の映画。こういう映画が大好きだあ 笑)いろんな暗示があちこちにふりまかれていて、話をわかりやすく説明せず、重く暗く、最後もカタルシスなんてかけらも無い。

以下、ネタバレしますが、私は2度目に見たときのほうがよくわかったし、退屈せずに面白く見られたので(むしろ1回目の方が眠くなった 笑)、ネタバレが問題な映画ではないと思います。ロシアや東欧映画にはこういうタイプが多いですね。というか、僕がそういう映画を好んで見てるってことかな 苦笑)

さて、いろんな暗示と書いたけど、むしろ暗示は1つ、政治的なものだ。悪辣な市長の執務室にはプーチンの肖像が掛けられていて、これでもうすでにかなりアブない。主人公らがみんなで河原で小銃や機関銃をぶっぱなすシーンでは、歴代のソ連の指導者たちの写真をマトにしようとする。直接プーチンの名は出てこないが、最近のやつはしばらくは壁にかけて熟成させるなんて言う。

だけど、何よりひたすら悪がはびこり不公平がまかり通る理不尽な現代ロシア社会に対する批判がこの映画が描きたかったものだろう。その意味では黒澤明の「悪いやつほど良く眠る」を思わせる。

権力者は警察も司法も宗教も、そしてマフィア?すら支配下に置き、主人公たちを追い詰めていく。不当な立ち退き命令によって先祖伝来の家を追われそうになっている主人公は旧友の弁護士をモスクワから呼んで対抗しようとするが、市長に対する被害届を提出に行くと拘束され牢屋に入れられてしまう。これはすぐに釈放されるのだが。。。弁護士も市長の過去を調べ上げて資料を揃え、主人公の求める額の金で取引しようとするが、一旦うまくいったように見えながら、逆にボコられ脅されて逃げ帰ってしまう。

原題は「レヴィアタン」 旧約聖書に登場する海の怪物で、この映画の中でも海の中をのたうつクジラが決定的なシーンで出てくるし、海辺にクジラ?の巨大な骸骨が出てくるけど、むしろホッブスが「リヴァイアサン」でこの怪物を国家の比喩(良い意味らしいです)で使ったように、この映画ではおそらく権力のことではないかと思う。それは司祭が主人公に語るヨブ記の中のレヴィアタンを人間が逆らっても無駄な怪物という意味で語っていることからもわかる。

「レヴィアタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕らえて屈服させることができるか。ヨブは運命を受け入れて140まで生きた」

つまり権力を屈服させることはできない。運命を受け入れば幸せになれるということだ。それを受け入れなかったために主人公は妻を亡くし自らは妻殺しの冤罪(?)で刑務所に入り、先祖から受け継いだ家は最後パワーショベルによって破壊される。

最初に見たときに、一度は市長を追い詰めた弁護士が襲われ、そのまま泣き寝入りのようにモスクワへ帰ってしまうのが何故なのかと思ったのだが、もう一度見直したらすぐ前に市長と司教が会食するシーンがあり、そこで裏から何か手を回したのだと思われる。あるいは娘のことを言われたから家族のことを心配したのだろうか?

宗教が弾圧されていたソ連時代のタルコフスキーはロシア正教に対して強い敬慕の思いを繰り返し語っていたけど、ロシア正教が権力となったソ連崩壊後のズビャギンツェフの態度はそれとは真逆。ただ、映像はどこか宗教的な雰囲気があるので、監督が無神論者であるかどうかはわからない。ひょっとしたら廃墟の教会がなんども出てくるが、それがラストの立派な白と金の教会との対象で、本来の信仰が堕落してしまったことを示しているのかもしれない。

映像的にロシア映画に特有の長回しはあまりないけど、決定的なシーンは画面の外で行われるのはブレッソンやロシア系の監督たちに多いやり方。何しろ風景の荒涼感がすごい。プリブレジヌイという町の名前が出てくるので、どこらへんだろうと検索したらいくつか引っかかるんだけど、この映画の舞台とは思えない内陸だったり、ロシアの飛び地のカリーニングラードだったり、どうもよくわからない。ただ、海辺の寂れた町で、家々はどれも廃屋のよう。巨大生物の死骸のようなボロボロの半分沈んだ廃船が最初と最後(だけではないが)に非常に印象的に写されて、この映画の雰囲気を見事に表している。

ただ1つ救いがあるとすれば、最後に残された少年を引き受ける主人公の友人夫婦だろう。でもそれだけだな 苦笑)

「ラブレス」でも少年はどうなったのかわからないままだったが、この映画でも妻の死は自殺だったのか他殺(夫が犯人であるとは思えないので、市長の差し金か?)かは不明のままで、このあたりの作りも好みだわ 笑)

同時に、日本でもレヴィアタンは猛威を振るっているようで、ロシア社会を笑えなくなりつつある。


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テオ・アンゲロプロス監督の「アレクサンダー大王」

2019.06.09.23:17

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いやはや、半分は苦行だわ 苦笑) だけど、時々、もう本当にハッとするような美しい場面が出てきて、観てよかったと思わされます。特に始まって15分ぐらい? の森の中の円形の空き地が黄金色にスポットライトを当てられたように輝き、そこに白馬がいて、「アレクサンダー大王」がかぶとをかぶり馬に乗るシーン。延々と10分近くワンカットワンシーン。

前から何度か書いているように、ワンカットの長いシーンってどうも心惹かれる。ただ、何しろアップが全くないし、構図のわざとらしさやセリフの少なさ、説明の少なさに、これってなに?と思う。まあ、はっきりいって予習した上で見るべき映画で、ネタバレ? それってなんのことですか? という映画。

テーマはアンゲロプロス監督ですから、例によって19世紀から20世紀にかけてのギリシャの近代史。ある村が一人の教師のもとで原始共産制で営まれ、義賊のアレクサンダー大王と呼ばれる脱走犯が英国貴族たちを人質にしながら、部下を連れてその村へ合流する。そこにイタリアから亡命してきた無政府主義者たちも合流。さらに政府軍がやってくるけど、カリスマ性があるアレクサンダー大王においそれと手は出せないままにらみ合いが続く。

アレクサンダーは英国貴族たちを盾に自分たちの罪を問わないことと、英国資本によるギリシャの地の搾取をやめさせることを求める。

そんな話を例によってアップのない長回しのカットで描いていきます。何しろカットが長く、動きがない。カメラはゆっくりと360度パンして周囲の風景を映し出し、その間、緑のないガレ場のような斜面に黒い衣装の人たちが泰西名画のような配置でポツンポツンと、まさに絵画のように動かずに立っている。

ギリシャらしく神話のようであるとともに、混乱のギリシャ近代史が暗示され、極めて政治的(この言葉はこの映画が作られた1980年ごろには反資本主義的という意味です)であって、それが何か古典芸能のような様式化された動きで描かれていく。

最後は無政府主義も原始共産制も、そしてアレクサンダー大王の持つカリスマ性も国家権力の前に全て敗北するわけだけど、非常に象徴的な映像でそれを見せる。これが英雄に対するオマージュなのか、それとも独裁者の末路と考えるべきなのか。。。

最後のアレクサンダーの名前を継承した子供が大都市へ逃げていくのは、アレクサンダー的なもの(独裁的であったり反資本主義的だったり反権力だったり)の芽がギリシャの地に入っていったということの暗示なのかな。この映画が作られた頃のギリシャは社会主義政権だったから、アンゲロプロスの政権に対するエールなのかな、なんて思ったりした。

アレクサンダー大王をやったのはイタリアのオメロ・アントヌッティという名優。タビアーニ兄弟の監督した「父・パードレ・パドローネ」や「サン・ロレンツォの夜」、スペインのビクトル・エリセ監督の「エル・スール」、同じくスペインのカルロス・サウラ監督の「エル・ドラド」でアギーレ役をやった禿頭の印象的な顔をした人でした。


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映画「メトロポリス」と階級社会

2019.04.26.19:09

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1927年に公開されたドイツの映画に「メトロポリス」というのがある。これはフリッツ・ラングというユダヤ系監督の白黒サイレント映画だ。僕は1970年代終わり頃に完全サイレントのフィルム上映で、(どこだったか思い出せないけど)カラカラという映写機の音しか聞こえない狭い映写室で見た。フィルムは痛みがひどいし、ところどころに挟まる文字による解説も読みづらくストーリーもよく分からなかった。

その後1980年代にモローダーという作曲家が派手なロック風の音楽をつけて、うっすらと色もつけて公開して大ヒットした。その後モローダー版もTVで見たけど、これはこれでストーリーが分かりやすかったけど、騒々しくちょっと違和感も感じたものだった。

この映画ではスターウォーズの金色のロボットのモデルとされるロボットが出てきたり、摩天楼の未来都市やマッドサイエンティストが出てきて、いろんな意味でその後の様々なSFに影響を与えた映画とされている。

そして、この映画の舞台は権力者階級と地下で奴隷のように働かされる労働者階級に別れた世界である。この設定も後世のいろんなSFに影響しただろうと思われる。例えばアニメの「未来少年コナン」のインダストリアなんかもそうだ。

映画自体はこの上級指導者階級の若者と労働者階級の娘の恋と階級の和解がテーマになっている。この和解というのが、ヒトラー台頭中の左右が衝突し合う混乱のワイマール共和国時代、これがユダヤ系映画人たちの精一杯の主張だったんだろうけど、今の目から見ると権力者階級と労働者階級の和解なんてかなり安易。

と言いつつ、最後に見たのは何十年も前だ 笑)なんでそんな昔に見た映画を思い出したか、と言えば、無論東京の池袋で起こった元高級官僚の老人の暴走事件のせいだ。ちまたではこの老人が容疑者ではなく「さん」付けでマスコミに載っていることに、「上級国民」であるがゆえに逮捕されないという話が広まっているらしい。実際過去の老人による交通死亡事故はことごとく逮捕されているし、運転手が怪我をしていても同様に即日逮捕されているそうである

ただ、今の時代でなければ、87歳の老人の暴走事故がこんなに騒がれただろうか? いや、無論母娘が亡くなったし、他にも怪我をした人がたくさんいるわけだから、大きなニュースにはなっただろうけど、人々がこんな形で怒っただろうか?

森友事件や安倍友のレイプもみ消し事件や原発問題など、忖度(こんな漢字、少し前までは読めなかったよね)やら改ざんやら廃棄が日常的になってしまった時代、マスコミ、特にNHKニュースの露骨なやり方を見る限り、今回もマスコミによる忖度ではないのか、と疑いたくなるのは当然だろう。今はそんな社会なのだ。これを僕は安倍的社会と呼ぶ。戦後最低最悪の社会であることは間違いない。ただし、マスコミの忖度というのはどうだろうか。実際は昨日の東京新聞でも書いていたように、逮捕されない場合は肩書き、肩書きがわからなければ「さん」づけになるというのは理解できる。

しかしそうだとすると、やっぱり警察による忖度が働いているのではないか、と疑うのも当然のことだろう。となると、マスコミとしてはなぜ警察が逮捕しないのかを積極的に追求してもらいたいものではある。警察が逮捕しないから「さん」づけ、ではあまりに警察発表のままであって、マスコミとしての存在意義が危ぶまれるのではないか。オーウェル風に言えば、マスコミが権力の主張をそのまま出すのでは広報だ。


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映画「メッセージ」など(ネタバレ)

2019.04.21.00:00

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CSで新世代SFと銘打って「パッセンジャー」「メッセージ」「ライフ」をやってたのを録画して、三晩続けてみました。「メッセージ」がダントツで雰囲気が良かったけど。。。 苦笑)

お話としては「パッセンジャー」がうまくできていたけど、あの二人、子供は作らなかったんだね。まあ、それはともかく、主役の二人は忘れても、あのバーテンロボットはなかなか忘れられないだろうなぁ。

「ライフ」は「エイリアン」そのもので、苦手な映画。今さっき見終わったところだけど、TVで見たにも関わらず、心臓ばくばくになりました。何れにしてもホラーはダメです。好きな人にはたまらないだろうけど、僕としては映画館で見なくて良かったというところでしょうか。映画館で見てたらまた「エイリアン」の二の舞で、しばらく映画館へ行けなくなったかも 笑) でも、「ゼロ・グラビティ」でもそうだったけど、無重力状態の映像がすごいですね。

昔「2001年宇宙の旅」の無重力状態では鉛筆が一本浮いてるだけでも、どうやって撮ったんだろう? ロケット添乗員の女性が磁石付きの靴?でゆっくりと回転して上下逆になるのや、宇宙船の中をぐるぐると3次元に走るシーンなんかも、それだけで、うわぁすごい! と思ったものでしたが、最近のSFと比べたらさぞかし手間暇かかっただろうに、CGには全くかないませんね。ただ、映画ってのはCGでいくらすごくてもね。かくいう私は「ジュラシック・パーク」途中で寝ましたから 笑)

さて、一番雰囲気が良かった「メッセージ」(昨日見たんだけど、見終わった瞬間にもう一度最初から見直しました 笑)です。1番のテーマとなるのが人類の「時間概念」の大転換。これってどこかで騙された感が抜けない話でねぇ。昔読んだSFに、フィリップ・K・ディックの「逆まわりの世界」というのがあって、時間が逆回転を始めた世界の話だったけど、それだとピストルで誰かを撃ち殺すことは無理だろう!って思ったものだった 苦笑) それはともかく、時間が流れでないというのはわかったようでわからない話だよね。壮大な哲学的雰囲気でなんとなく納得したような気になりそうだけど、よ~く考えてみると、うーん。。。時間が流れではないって感覚、過去も現在も未来も同じ平面にあるってどうなるんだろう? それによって未来がわかるようになるんだろうか? そういえば「インターステラー」なんかも5次元とか言ってたけど、どうも今ひとつ納得いかんのよね 笑)まあ、「インターステラー」はそれ以外にも最後土星のそばに放り出されて、どうして助かるのよ! とまあ、文句つけたいところは色々あったりするけど 笑)

さて、この映画の哲学的な面は、そうしたちょっと騙された感を前提にしている。つまり、未来がわかるとしても、人は将来自分に襲いかかってくる不幸を避けようしないか? この映画で言えば、子供が幼くして死ぬことが分かっていながら、あるいは夫とは離婚することが分かっていながら結婚したり子供を作ったりするのだろうか? 変な連想だけど、見終わって僕が連想したのは出生前診断のことだったけど、これは今の僕にはちょっと軽々に語れない話なので。

ただ、人はみんないつかは死ぬ。そんな自分の死という未来を見ることができたとしても、やっぱり生きるのをやめたりしないだろう。ホモ・サピエンスの歴史は20万年ぐらい、その間、いろんな人が生きて、それぞれの物語を紡いできたわけで、その物語には長いものもあれば、当然短いものもあっただろう(17世紀スウェーデンの墓地の発掘調査から、当時その地域の人たちの平均年齢は17歳だったそうだ!)。この世に生まれるというのはそういう様々な物語に一つその人の物語を追加することなんだと思う。決して誰かのために役立つからとかいう効率的なことを価値観にしてはいけないんだろうと思う。まあ、なんかエセ宗教じみてきたけど 苦笑)

映画のミニマルミュージックというかオスティナートというか、延々と反復する音楽と、カットバック(むしろカットフォワードというべきか)の映像が繰り返される瞑想的な雰囲気は、どこかテレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」とかを連想させて、とても良かったし、主人公の女優エイミー・アダムスが僕の好きなタイプだったし 笑)巨大宇宙船の映像もびっくりするものだったけど、あのタコ型エイリアンだけはちょっとなぁ 笑)


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映画「サンセット」(完全ネタバレ)

2019.03.19.23:18

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「サウルの息子」の監督ラースロー・ネメシュによる第二作目。前の「サウル〜」の舞台がアウシュヴィッツだったのに対して、今度は1913年のブダペスト。この時代はオーストリア・ハンガリー二重帝国の時代です。オーストリアというのは今でこそ日本にニュースなどほとんど入ってこないし、大学生の中にすらカンガルーやコアラのいるオーストラリアと間違える人がいるような小国ですが 笑)、歴史的に見れば陽の沈まない大帝国だった時代もあるんですよね。そんな大帝国も19世紀半ばにはイタリアやプロシアとの戦争で連戦連敗でボロボロ、もともと中部ヨーロッパの大帝国だけに多言語・多民族国家だったから内部から崩壊しそうだったので、泣く泣くハンガリーと妥協してオーストリア皇帝がハンガリー王も兼ねる二重帝国となったわけです。まあ、これは心ある人たちからはクソ帝国(カカーニエン)と呼ばれていたようですが。

そして、そうした欺瞞にあふれたこのクソ帝国、この映画にも出てくる皇太子夫妻がセルビアで爆弾テロで暗殺されて第一次世界大戦が始まり、その敗北によって崩壊するわけです。だから映画の題名「サンセット」はそういう含意があるのは明らかです。

さて、「サウル〜」で圧倒されたのは主人公の後ろに張り付いて離れないカメラでした。シーンのかなり多くがサウルの後頭部の大写しで、その周辺の音響がすごく、周りの状況はピントが合ってなくてボケボケで、でも何しろアウシュヴィッツですから、周囲で何が起きているかは特別な想像力なんかなくても誰でもわかります。

この映画でもほぼ同じやり方が踏襲されていて、主人公の女性の後頭部のアップがかなり頻繁に出てきます。しかもハンディカムで、あまりスタビライザーを効かせてないみたいでやたら揺れます。そしてワンカットの長いこと。また登場人物たちがよく見極めがつかない。あれ? この人さっき出てきた人だよな、と思いつつ、誰だっけと思っているうちにもう話は先へ進んでます。

というわけで、主人公の娘は当時オーストリア・ハンガリー領土だったトリエステ(現在イタリア最東部)からブダペストの帽子屋へ就職しようと出てきた娘ですが、どうやら反政府グループの指導者となっているらしい実の兄を探して怪しげな場所に出入りしたり、兄が殺したと噂される貴族の家を探りにいったり、果てはその帽子屋へやってきたオーストリア皇太子夫妻と絡んだりしますが、結局兄とは何だかわからないまま、会うことができません。そう書くと迷宮的な、めくるめくようなおどろおどろしいカフカ的、ボルヘス的雰囲気を連想するかもしれないんだけど、むしろヴィスコンティ的な絢爛豪華な上流階級の雰囲気満載で、迷宮という言葉とは合わないかなあ。

というわけで何しろ主人公の後頭部ばかりで、画面の視野は狭いし、出てくる人たちが誰が誰だかよくわからなかったりするし、正直一度見ただけだとよくわからない。うん、僕もできればもう一度見たい。まあ、半年後のツ●ヤかな 笑) 

そうしてついに最後には暴動が起こります。主人公の娘の後頭部に張り付いて離れなかったカメラがここでお役御免とでもいうかのように離れていきますが、暴動の闇の中、立ち去っていく娘の後ろ姿はピントが完璧に外れてぼけぼけ。

そして突然画面が変わって、第一次大戦の塹壕の中になります。雨がザーザー降っている中、カメラが誰かの目になって、左右に疲れ切った兵士たちが寄りかかっている中をどんどん進んでいき、正面に従軍看護婦となった主人公の娘が、ここで初めて(?)カメラを正面から見つめ、ちょっとだけ微笑んで、映画は終わります。

だけど、これ何なんだろう? カメラの目は、本編の中でついに会えなかった兄なんでしょうか? それ以上に最後の娘の笑顔は、前作の「サウル〜」のラストを思わせるし、その時と同じくラスト暗転してからもずっと雨の音が聞こえるのも「サウル〜」と全く同じです。

正直にいって、「サウル〜」のような圧倒的な迫力と衝撃はありませんでした。個人的にも期待していたほどではなかったかなぁ。。。でも監督がこのスタイルをどのぐらい貫き続けるのか、ちょっと興味はあります。

音響効果が、周囲の会話や物音を拾ってそのまま流すようなやり方で、臨場感がものすごくある点は前作の「サウル〜」と同じです。音楽はシューベルトの「死と乙女」が繰り返し流れ、ああ、そういえば同じ時代の画家エゴン・シーレを描いた映画の副題が死と乙女だったっけと連想がつながりましたが、あちらは同じオーストリア・ハンガリー二重帝国でもウィーンで、この時代のウィーンを舞台にした映画な多いし、シーレやクリムトだけでなくフロイトやマーラーもウィーンで、それに対してブダペストを舞台にした映画ってあまり思い浮かびませんね。


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映画「狂気の行方」

2019.03.16.10:49

狂気の行方

ヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画です。総指揮はデヴィット・リンチだそうだけど、映画界きっての変な監督二人がタッグを組んで、とんでもない変な映画ができたかというと、それほどでもないような気がします。いや、変だよ、変、それは間違いない。だけど期待していたほどではないです 苦笑)

しかし、写真を借りてきたアマゾンのカスタマーレビューは散々ですね。レビューした人の半数は星ひとつ 笑) ただ、レビューしている人たちは一様にデヴィット・リンチらしさがない、あのリンチの世界はないという論調なんですが、僕としてはリンチよりもヘルツォークの方がずっと好きなので(というか、デヴィット・リンチはあまり見たことがない)、この映画は一見してヘルツォーク節(ぶし)満載という感じでした。

ヘルツォークの過去の映画をたくさん思い出させられました。何しろこの監督は「取り憑かれた人間」というのが好きみたいだしね。キンスキーがやった映画なんかみんな何か取り憑かれてたよね。「アギーレ、神の怒り」が典型だろうけど、「フィッツカラルド」も吸血鬼になった「ノスフェラトゥ」も「ヴォイツェク」も「コブラ・ヴェルデ」も、どれもみんな何か狂気を孕んだ執念のようなものを感じさせる主人公ばかりです。

そもそもキンスキーと自分の関係を綴ったドキュメンタリー「キンスキー、最愛の敵」なんかを見ると、監督自身が「取り憑かれてる」狂人じゃないか、と言いたくなるところもありますからね。他のドキュメンタリーでもそうですが、ヘルツォークのナレーションは淡々としていて、思わせぶりだったり見得を切るようなことをしないんですが、「キンスキー」ではその落ち着いた声で、キンスキーを殺す計画を立てたとか言ってしまうので返って怖かったりします。

ドキュメンタリーといえば、登場人物同士の室内でのやり取りのシーンがドキュメンタリー風。さらに濁流やペルーの岩山が「アギーレ」をすぐに連想させる。それから、突然登場人物たちがカメラの方を見て、ストップモーションのように動きを止めるシーンがあるんですが、これもかつて「アギーレ」で、ジャングルの中でみんなが一斉に、まるで記念撮影でもするかのようにカメラの方を向いて止まるシーンがあって、それを思い出しました。

そしてやっぱり出てきました、今回も。 動物(生物)ですよ、動物(生物)。

「アギーレ」ではリスザルの大群、「ノスフェラトゥ」では広場を埋め尽くすハツカネズミ、「神に選ばれし無敵の男」では真っ赤なカニの大群、「シュトロツェックの奇妙な旅」ではニワトリが永遠に踊るんじゃないかっていう変なシーンがあったし、ニワトリといえば「小人の饗宴」でも印象的な小道具でした。それがここではダチョウの大群とフラミンゴでした。そう言えば、拙ブログで以前紹介した「バッド・ルーテナント」も自動車事故の現場に唐突にワニが仰向けに転がってピクピクしてたし、イグアナが出てきたかと思うと、最後は水槽の中にサメの大群でしたっけ。

お話は、殺人事件発生! と呼び出しをくらった刑事ウィレム・デュフォー(この人も変な俳優だよねぇ。キンスキーの迫力には負けるけど)がパトカーで現場に直行すると、母親を殺した青年が人質をとって立てこもっている。そこに犯人の婚約者の娘、犯人が所属していた劇団の演出家ウド・キアー(この人も昔は美男俳優だったようだけど、なんか目が狂気を帯びた感じの見てる人を不安にさせるような顔立ちです)、隣人の母と娘がそれぞれ事情を刑事に話し、それぞれの話がカットバックで描かれます。干渉しすぎの母親の元で、犯人が徐々に人格を崩壊させて狂っていくのがわかるような構成になっていて、最後に人質を解放しろと言われて解放した人質は。。。笑)

いやあ、なんともなぁ。。。ヘルツォークの映画が好きだというのでしたらおすすめですが、そうでなければサスペンスらしいものもないしハラハラドキドキさせられるわけでもないし、単調なつまらない映画かもしれません。


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ソヴィエト映画特集(続き)

2019.02.24.22:15

昨日に引き続き新宿から新宿湘南スカイライナーというやつに乗って行ってきました。川崎市市民ミュージアムのソヴィエト映画特集。今日はタルコフスキーの「惑星ソラリス」が午前の部で、午後はロプシャンスキーの「ミュージアム・ヴィジター」という映画でした。昨日今日と4本やった中で唯一見てない映画なので、かなり期待してたんですがね 笑)

「惑星ソラリス」は一昨年渋谷で見たときにブログに書いたので、ここで書くのはやめますが、フィルムでの上映で、コマが飛んだり、音もブツブツ言うし、果ては途中で突然真っ暗になり、まあ、つなぎを失敗したんでしょうけど1分近くスクリーンは真っ暗なままで、こんなことって大昔「ベートーヴェンの生涯」という記録映画を見に行ったとき以来でした 笑)でも、そうは言ってもやっぱりすごい映画です。今回もまた至福の時をすごさせてもらいました。

さて、「ミュージアム〜」の方ですが、フライヤによればほぼこんな感じ。なお、以下ネタバレします。

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さあ、干潮時に現れる<ミュージアム>とはいかなるものか。もう相当の期待を持って見ました。干潮は7日間だけで、<ミュージアム>に行くのには3日間かかり、しかも干潮時の海は砂漠のようで方向感覚が狂って、過去<ミュージアム>へ行った人はほとんどが帰る方向がわからず溺死しているということになっています。干潮時にのみ現れ、しかも人を寄せ付けない<ミュージアム>って??

昨日の「死者からの手紙」以上に凄まじいゴミ山、瓦礫山で、3・11を経験した僕らとしてはあの時のことを思い出させられました。この映画は1989年のものですが。その瓦礫の山が画面いっぱいにある中をつづら折りに道路があってそれを登ったり降りたりして行くシーンもすごいし、何より夜になると炎の赤さで、夜のくせに画面が赤いんですよ。ある意味3・11を予告しているような映像です。主人公は<ミュージアム>に行こうと海辺の宿屋に泊まるが、宿屋の人たちは彼をやめさせようとするわけです。

さて、映画の世界は核戦争? の影響により生まれてくる子供の40%は知的か身体かの障害を持っているという世界で、そうした障害のある人たちはその近くの居留地に押し込められていて、その居留地にある教会で居留地から出られるようにと祈っているんですね。主人公は一旦は<ミュージアム>へ行くのをやめるんですが、障害者たちの居留地でメシアとして崇めたてられて再び<ミュージアム>へ行くことを決意します。というか、この辺りの話がよくわからなかったんですが、多分 笑)そうなんでしょう。でも干潮は終わっていて、怒涛の海と雷雨になっていてとても無理。

ん? あれだけ期待させられた<ミュージアム>は? タルコフスキーの「ストーカー」でも確かに、願いの叶う部屋「ゾーン」を目の前にして、みんながただ座り込むだけでしたが、今回もおあずけかよ!! 怒)

というわけで、見事に肩透かしを食らった気分でありました 笑)


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ソヴィエト映画特集

2019.02.23.22:27

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川崎市市民ミュージアムで先週と今週の土日に4回、ソ連のSF映画を上映しています。今日は午前の部がタルコフスキーの「ストーカー」、午後の部はロプシャンスキーの「死者からの手紙」でした。

「ストーカー」の方は一昨年渋谷で見たときに拙ブログでも書きましたから、今日は「死者からの手紙」をご紹介。この映画、1990年ごろに一度見ているんだけど、その後探してもDVDにもなってないし、情報がとても少ない映画でした。なので久しぶりに見たんだけど、途中いくつかと最後のシーンは覚えていた通りでした。ただ、途中の話はほとんど忘れてましたね 苦笑)

核戦争により世界は滅んでいます。それも発射装置のエラーに気づいた責任者がたまたま飲んでいたコーヒーにむせて7秒間の空白が生じた隙に核ミサイルが発射されてしまったというものです。各地にあるシェルターの中に生き残った人たちが細々と生活してますが、外は放射能がひどく、何重にもロックされたシェルターの扉を次々と開けながら防護服とマスクをした上で地上に出ていかなければなりません。

主人公は初老のノーベル賞受賞者の科学者で、放射能障害で寝たきりの妻とともに博物館の地下シェルターで行方不明の幼い子供に当てて手紙を書いています。そこのシェルターには他にも幾家族かが住んでいるんですが、自殺する者もいれば放射能障害?で死んでいく者もいます。主人公の妻も、せっかく闇市で手に入れた薬が間に合わず死んでしまいます。彼らは近いうちに中央シェルターと呼ばれる大きな(安全な?)シェルターに映るよう言われています。主人公が行方不明の子供を探しに孤児たちが集められているシェルターに行くと、中央シェルターへ移動するのは親のいる健康な子供だけで、孤児たちは移動できないことがわかり、自分のシェルターに連れて帰って、そこで枯れ枝のクリスマスツリーで子供達とクリスマスを祝い(このシーンのクリスマスツリーと蝋燭はとても美しいです)、子供達にここを出て自分たちが生きられる場所を探せと言い残して死にます。

最後は放射能の吹雪の中、子供達がまるでブリューゲルの盲人たちの絵のように一列に繋がってよろよろと歩いて行くシーンで終わります。というわけで、何しろペシミスティック。もうユーモアのかけらもないし、孤児たちは親を亡くしたショックで言葉を発しない。まあ暗澹たる映画です。以前紹介した同様の人類文明が滅んだ後の親子を描いた「ザ・ロード」程度の希望すらない酷さでした。かすかに希望のようなものがあるとすれば、子供達のうちの一番年長の子に、起きたことを逐一記録しろ、いつか誰かがどうして人類が滅びたかを知ることができるために、と言い残すところでしょうか。さらに、もし仮にユーモアがあるとすれば、シェルターの中で上半身裸で生活し始めたおばちゃんでしょうかね。しかし、こういう映画って見る人を選ぶよなぁ。。。

この映画の完成後にチェルノブイリの事故があったようで、ここで描かれている防護服や、シェルターを出入りする時の様子などは、フクシマ後のぼくらの目からすればかなり甘いんですが、廃墟となった地上の様子などはセピア調の白黒の映像で、かなりの迫力でしたね。

終了後に井上徹さんというエイゼンシュテイン・シネクラブの人のソヴィエトのファンタジー映画についての公演があり、そこでロシア人にあるメシアニズムの話をして、これが結構なるほどと思わせるものがありました。要するに非常に宗教的という言い方をしてもいいんでしょうけど、それはタルコフスキーの映画にも見られるし、ドストエフスキー的でもあるし、何よりロシア革命そのものもこの方向で、つまり一種のメシアニズムとして見ることができるというわけです。

さて、明日もこの特集があります。明日は同じくタルコフスキーの「惑星ソラリス」と、これまた同じくロプシャンスキーの「ミュージアム・ヴィジター」です。前者はこれまた一昨年渋谷でやったときにブログに書きましたが、後者は初めて見る映画で、ちょっと楽しみな感じです。今日の人の入りはどちらも100人ぐらいでしたかね? 明日は「ソラリス」があるので、ひょっとすると混むかもしれませんが、270人ぐらい収容できるホールなので、多分大丈夫でしょう。

***
追記。2月24日に文言を追加してます。 


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映画「マルクス・エンゲルス」

2019.02.22.17:51

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マルクスもエンゲルスもまるで興味がなく、そもそも「共産党宣言」はアリバイづくり 笑)に学生時代に買ったけど読むはずもなく、共産党員の友人はいるけど、そいつとは政治の話などしたこともなく、なのに最近は左翼あらためパヨク扱いされるアンコウであります 笑)

この映画はなんで見たかというと、アウグスト・ディールという俳優がちょっと気になっていたからでした。と思い返してみると、この人「戦場のブラックボード」でもドイツからフランスへ亡命してきた共産党員の役でしたっけ 笑)

この俳優、「青い棘」という青春映画ではヘルムート・バーガーの再来と言われて、ちょっと気持ちの悪い美男俳優で売り出したんだと思うんですが、僕の印象にあるのは「9日目 ヒトラーに捧げる祈り」という前にも拙ブログでも紹介した掘り出し物映画で、親衛隊のエリート将校で元々は聖職者になりたいと勉強していたという役柄。いかにも頭脳明晰で自信満々のエリート然とした雰囲気があって印象に残りました。ネットで調べたら「ヒトラーの偽札」でも出てますね。この映画は主演のカール・マルコヴィクスという俳優の雰囲気に圧倒されたという印象があって、ディールが出てたなんてまるで記憶にないです。

そんなディール、今回はカール・マルクスの役。しかも20代って無理だろ! と思ったら、思いっきりの蓬髪オールバックと顔じゅうのヒゲでなんとなくそんなものかと若く見えちゃう不思議 笑)

というわけで、プロイセン政府から目をつけられてドイツにいられなくなったジャーナリストのマルクスが妻とともにパリ、ロンドン、ブリュッセルで当時の共産主義者やアナーキスト達と出会い、反発しあい、ブルジョアの息子のエンゲルスと出会って互いに認め合う仲となって、互いの妻たちも一緒に「共産党宣言」を出版するまでを描いた話、というのが内容かな。だから原題は「若きマルクス」。

正直に言って映画としては19世紀中頃の雰囲気がよく出てるとは思うけど、なんかぐちゃぐちゃっていう印象。マルクスの生涯から色々引っ張ってきて盛り込んだと言う感じ。まあ、こちらがマルクスの生涯をまるで知らなかったというのもあるけど。画家のギュスターヴ・クールベの出てくるシーンなんか、どういう位置付けなんだろう??
共産党宣言を読んだことのある人なら最後のところで感動するかもしれないんだけど、何にも知らないからね。ハラハラドキドキするわけでもないし、びっくりするようなシーンもあまりないし、当時の様子がわかるといえばそうだけど、お話としては多少眠くなります 笑)

ところで、びっくりしたのが言語ですよ。ドイツにいるときにドイツ語で話しているのは当たり前けど、エンゲルスはイギリスの父(ドイツ人)と話すときは英語で話し、マルクス夫妻はパリへ逃げてきたら夫婦同士でフランス語で話してる。そういうものなのかな? フランスでフランス語で議論して、熱くなるとドイツ語が出てきたりして。エンゲルスは資本家の父と喧嘩になり、ドイツ語と英語をちゃんぽんで怒鳴りあう。いやぁ、勉強になりましたわ 笑)

今のような時代だからね。これだけ格差が拡大し、権力は金持ちを優遇して貧乏人を苦しめるような政策をどんどん推し進める。我が国だけのことじゃないんだけどさ。

だから、この映画の中でマルクスが言う「”利益”とは”搾取”のことだ」という言葉は、このままの社会が続くなら、いずれ大きな効力を発揮するようになるんじゃないか、と思ったりもするわけ。


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映画「ちいさな独裁者」(ネタバレなし)

2019.02.08.18:39



面白かったぁ。同時に、3日前に見た「未来を乗り換えた男」との類似性にびっくりした。

出だしの荒涼とした風景の中、脱走兵が銃弾をかいくぐって逃げる。泥だらけの顔でズタボロの服装でハァハァいう苦しげな声が響き、なんとか逃げ延びる。その後同じく脱走兵と思われる、これまたズタボロの中年兵士と一緒に農家の納屋に忍び込むが見つかって仲間を見捨てて一人で逃げる。彷徨ううちに脱輪した軍用乗用車を見つけ、食料を探すとトランクの中から大尉の軍服が出てくる。これを身につけた彼は、隊からはぐれた兵士や農家を襲った略奪脱走兵たちを部下にして豹変する。冒頭の彼は泥まみれの顔でビクビクとしているのに、この服を着た途端に態度までナチ高官風になる。


ナチスの軍服って、少し前に似たような服を着たどこかのアイドルグループかなんかがユダヤ人団体から抗議されてたんじゃないかと思うけど、まあ有り体に言ってしまえば格好いいんだわ。服が悪いわけじゃないけどね。というと上記の「未来を乗り換えた男」の時にも書いたようにワーグナーが悪いわけじゃないんだけど、って話に繋がるね。FBで友人が、そうは言ってもワーグナーを聞くとナチスの悪行がオーバーラップするとコメントしてくれたけど、確かにそういう面は捨てきれない。少し前のNHKのドキュメンタリーでヒトラーの演説の魔力を語る90過ぎの老人が、まるでベートーヴェンの第九のフィナーレのような高揚感と言っていた。それってすごくわかる。軍隊マーチというものが存在するわけだし、音楽と暴力って親和性があるのかも 笑)


大尉の服装を手に入れた主人公はそのまま「ちいさな独裁者」になり、部下たちと一緒になって蛮行はどんどんエスカレートしていき、ついには収容所の脱走兵たちを大量虐殺し始める。


この関係ってよくわかる。今の日本の政治だって「森羅万象すべてを担当している」と豪語する(これって多分使い方が間違っているんだろうね 笑)安倍の周りで図に乗って8億円の値引きをしてもらって安倍晋三小学校を作ろうとする奴が出てきたり、レイプを揉み消してもらうジャーナリストや大学作るのを認可してもらう友人とやらも出てくる。周りの官房長官も偉そうに質問に答えなかったり無視したりするし、

この映画でも、部下たちの中には言われたことをクソ真面目に実行する奴もいれば、ハナからこいつは偽物の大尉だと承知の上でついていく奴も、自分の抱えている困難を解消してくれると思って一生懸命の奴も出てくる。さらに連想したのは森達也が言うオウム真理教の麻原と弟子たちの相互作用という言葉だ。


さて、この映画では古いドイツ映画のファンなら知っている曲が2回出てくる。戦前の世界的に大ヒットし、日本でも昔はよくNHKなんかで放映されていた「会議は踊る」の中の「ただ一度だけ」と言う曲。主人公が大尉の服を着て上機嫌でこの曲を歌い、最後の方のどんちゃん騒ぎの中でも歌われる。この映画はいわゆるナポレオン戦争の後のウィーン会議を舞台に、ロシア皇帝とウィーンの街の娘の恋物語で、ただの娘が皇帝の恋人になるという夢のようなお話。まさにただの一兵卒が大尉の服でプチ独裁者になってしまうわけだ。

そして、最後のエンドロール。これはネタバレしないけど、冒頭に先日見た「未来を乗り換えた男」との類似性と書いた。ナチスの時代を映画にするのは歴史ドラマではないっていうことだ。それだけ現在のドイツに限らず世界の情勢に危機感を感じている人が多いわけなんだろう。このエンドロールがなくても、映画の最後の終わり方はなかなかすごかったが、このエンドロールがあることで、凄さが倍増する。

***追記(2/11, 10:45)***
ネットに出てる監督のインタビューを見ると、この映画日本以外では白黒だったらしい。日本でのニーズに従ってカラーにしたとある。びっくり。と、同時に白黒の方を見たかったという気持ちもあります。ただ、ラストのエンドロールのところはカラーにしたんじゃないかなぁ? と思ってYouTubeを探したら、ロシア語版が完全アップされてます 笑)いいのかなぁ、これ?? で、くだんのラストを見たら白黒ですね。ここだけカラーにした方がメッセージ性が強く出ただろうけど、やりすぎになっちゃうかなぁ。


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映画「未来を乗り換えた男」(ネタバレしてないが 笑)

2019.02.06.13:14



現代?のフランスに、ファシズムの国ドイツから政治亡命してきた男の話。いやSFではない。舞台も人々も完全に現代のフランスなのに、話している内容は戦争中の亡命者たちの話す内容だ。ナチスが出てくるわけではない、追ってくるのはフランスの重武装した憲兵たち。ただ、パリはドイツに包囲された、まだマルセイユは大丈夫だ、ピレネーを越えていく、などという切迫した会話と、通過ビザを取るためにアメリカの領事館?へ行ったり、メキシコ領事館で長蛇の列に並んだりする。

もちろんナチスの時代の亡命者たちってこんなだったんだろうなぁと思わせるし、それが現代のマルセイユでもちっとも違和感がないし、迫害者たちがナチスの制服ではなく、黒く分厚い防弾チョッキと防弾ヘルメットに身を包んだ現代のフランスの憲兵たちであってもおかしさを感じさせないのは、国を逃れて不法滞在する人たちっていつの時代にもいるからだと思う。

こういうやり方って例えばシェークスピア劇を舞台を現代にして、とか、ワーグナーのオペラの舞台を現代になんていうのは現代では普通にやることになってるから、それを思えがそれほど斬新とは言えないのかもしれないけど。


そういえば、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」の現代劇版の話です。昔、NHKのFMで年末になるとその年のバイロイト音楽祭の録音を放送したんだけど、1976年初めてパトリス・シェローというフランス人が現代劇にアレンジして演出したのでした。現代劇にアレンジっていうのは地方のオペラ劇場ではそういう演出があったと聞いていましたが、ワーグナーの本家本元のバイロイトでやったというのが大ニュースだったわけです。

すごかったですね 笑) 幕が開くや否や音楽が聞こえないほどのブーイングの嵐。ワーグナーってナチスの音楽というイメージがあって、戦後イスラエルで初めて演奏したバレンボイムは観客に殴られたんじゃなかったかと記憶してますが、そういう「純粋アーリア人音楽の権化」笑)をフランス人が、しかも伝統をぶっ壊すような演出で行なったってことで、演奏中に爆竹が鳴ったりしたし、演奏会でブーイングの嵐って初めて聞いたし、あれ以降もあんなすごいブーイングを聞いたことなかったし、衝撃的でした。

ワーグナーを現代劇として演出するというのはナチス色を払拭するための方便だったと思いますが、そしてそれに反対したドイツ人聴衆たちがナチだったわけはないのですが、心情的にドイツ人たちの気持ちはわからんでもないです 苦笑)

今ではワーグナーに限らず、独墺系オペラを現代を舞台にしたアレンジって珍しくなくなっちゃいましたが、なぜか、イタリアオペラはそれをやらないですね。ある意味ドイツとイタリアの歴史や、戦後に背負わざるを得ないものの重さの違いなど、あるいは芸術に対する態度の違いなどを考えさせられます。


閑話休題。映画の話に戻ります 笑)主人公の男(フランツ・ロゴフスキという俳優で、以前紹介したハネケの「ハッピー・エンド」で息子役をやって最後パーティーをめちゃくちゃにしてました。悪党ヅラで、飴舐めながら喋ってない?っつう舌足らずな喋り方です)は、自殺した作家の身分証明書と渡航証明を手に入れ、彼になりすまして船に乗ってメキシコへ逃げようとしています。そこにその自殺した作家を探す妻(こちらも以前紹介したフランソワ・オゾンの「婚約者の友人」の老け顔の美少女パウラ・ベーアが良いです)と、その妻の愛人の医者が絡み、最後はこの監督の前々作「東ベルリンから来た女」の最後と同じ感動的な展開に。ただ、それだけでは終わりません。なんじゃ、こりゃあ?という結末が待ってます。

監督はクリスチャン・ぺツォルトという監督で、上記の「東ベルリンから来た女」で名を売り、その後「あの日のように抱きしめて」という映画で有名になりましたが、この映画、あちこちにこの前作と重なるところがあります。自己犠牲の結末は上に書いた通りだし、別の人間になりすましたらその妻が探しているのが実はなりすました男であり、それを男は彼女に言えないというのは「あの日の〜」のヒロインが夫から妻だと気づかれないという設定の裏返しのようです。そして最後に流れる歌が、映画の内容を補足説明する点も同じで、前回の「あの日の〜」の「スピーク・ロウ」に対して、今回は「ロード・トゥ・ノーホエア」です。

街中やカフェの中のシーンでの周囲の音声が変な臨場感を煽ってきます。無論途中に出てくる少年と聾唖の母親、彼らがいなくなった後のアパートの様子などがなくても、現代のマルセイユが舞台になっているだけで暗示しているものはわかります。最後の音楽とともに、ある意味、親切すぎるかな、とも思ったりしますが。。。

ネタバレしませんが、最後の結末と終わり方は、舞台を現代にしたナチス時代の話という目眩のするような設定でこそ成立するやり方でしょうね。

***追記(2/7、8:56)***
バレンボイムは殴られたの? と拍手コメントで質問されました。うーん、どこかで写真とともに見たような気がしてたんだけど、ネットで調べる限り、殴られてませんね。(Tさんご指摘ありがとうございます) しかもネットで探すと、バレンボイムよりも20年も前にズービン・メータがワーグナーを演奏したとある。一方で、演奏しようとしたけど、その場にいた収容所に入れられていた人たちの抗議でやめたと書いてある記事もあります。他にも無名の指揮者が演奏したことがあるとか、ラジオで間違って流して謝罪したとか、まあ、ワーグナー自身はナチスなんかよりずっと前に死んでるので良い迷惑でしょうけど。もっともワーグナーは確かに反ユダヤ的なことを書いたり言ったりしてるようですが。


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映画「エル・スール」の講演

2019.01.23.22:42



というわけで、FBには行くぞ宣言をしておいたんですが 笑)昨日は東京の秋葉原の区民館で、上記のスペインの映画監督ビクトル・エリセの「エル・スール」についての講演があり、聞いてきました。

映画「エル・スール」については一昨年渋谷で上映されて、その時拙ブログでにも書きました。その時にもちょっとだけ書いたけど、この映画って最後が変に思わせぶりなんですよね。父の過去(南の地=エル・スール)へ向かう決意をするところで終わり、その後少女はどうしたのかがわからない。

今回はその、「映画にならなかったその後のエル・スール」について、シナリオがあるそうで、その本邦初の解説付きで、色々面白かったです。

監督のビクトル・エリセは、スペイン内戦後の敗北した共和派を密かに支持していた人々がその後「内的亡命者」となって、ファシズムの社会の取り込まれることなく、かといって明確な形で反抗はせず(明確に反抗すれば殺されますから)、ただただ精神的な意味での拒絶をし続けたことに注目し、そうした登場人物を映画に描き出してきたということは、なんとなくそうだろうという気がしてました。

「ミツバチのささやき」のお父さん、夜な夜なラジオで密かに外国の放送を聞き、森を子供達と歩きながら毒キノコを憎しみを込めて踏みつける姿には何かあると思わせるものがありましたが、この「エル・スール」ではそれがもっとはっきりとセリフの中でも説明されています。

スペイン内戦は、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」でも主人公は共和派だし、やはり拙ブログで紹介したことがある「蝶の舌」(今回、この映画について一言も出てこなかったのはちょっと不満でしたが)でも主役はやはり共和派の老教師でした(しかもこれをやっていたのは、上記の「ミツバチのささやき」のお父さんと同じ俳優)。一方ファシスト側の男はいかにも悪党ヅラでした 笑)敗者側が主役にならないと悲劇性が高まらないのかもしれないけど 笑)、スペイン映画でファシスト側を主役に据えた映画は、フランコ政権時代だとあるのでしょうかね?

一方で共和派が必ずしも善と言い切れないのは、そこにソ連(スターリン)の影が見えがくれするからで、共和派のために銃を取ったジョージ・オーウェルはのちにスターリン主義を批判する「動物農場」を書くことになります。

何れにしても、敗れた共和派は処刑されたり収容所に入れられたり亡命したりするわけです。そして、僕にとって「地球が滅びるときに見ていたい映画」ナンバーワンのタルコフスキーの「鏡」の中でも、実に唐突に隣の部屋でスペイン人たちが何人も集まって喋っているシーンが出てきます。その間に挟まるのはスペイン内乱の記録映像で、あそこで出てきたスペイン人たちは共和派(親ソ連・スターリン)の亡命者たちだったわけですね。

と、どんどん取り止めがなくなってきました 笑)講演では他にもキーワードとして「霊力」というのが出てきたんですが、思い返せば「ミツバチのささやき」でも主人公の少女アナは最後のところで「霊力」を使ってフランケンシュタインを呼び出すし、もしかしたら子供にはみんなその「霊力」が備わっていて、それがその他のキーワードの「自然」や、霊力を忘れない大人としての「詩人」(=社会に取り込まれず歴史に抗う映画作家など、つまりエリセ自身も含まれるのでしょう)なんかにも繋がるのかなぁ、などと思ったりしましたが。。。


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映画「そして、私たちは愛に帰る」(ちょっとだけネタバレ)

2019.01.16.21:00


なんちゅう題名つけるんや、と思ったけど、なるほど映画のメッセージを表している題名ではある。

というわけで、またまた映画のお話。

ファティ・アキンという最近名高いトルコ系ドイツ人監督の映画。僕はこの監督の映画は「ソウル・キッチン」と「女は二度決断する」を見ているけど、「ソウル~」の方はちょっと暗いコメディ 笑)で、あまり好きなタイプの映画じゃなかったし、「女は~」の方はラストが絶対納得いかなかった。主役のダイアン・クルーガーはすごいとは思ったけど、なんとなく憎しみを煽るような作りが鼻についた。なのでこの映画も人に勧められたんだけど、あまり期待しないで見始めた。結果は、うーん、すごい! 傑作じゃないの!

トルコ人の老人とその息子、トルコ人の中年娼婦とその娘、ドイツ人の女子大生とその母の六人の運命的な出会いとすれ違い。

細かい込み入ったあらすじ、もう一度ビデオを見ながら書こうと思ったけど諦めた。見てください。ただ、上記の六人が、それぞれ探し合うんだけど、ドイツとトルコを行ったり来たりしながら微妙なところで出会えない。

最後に全部のつながりがはっきりするかと思うと。。。

原題は「別の側で」とか「あっち側で」とか、そんなような意味で、トルコ人たちにとってはドイツは自分たちの国とは別の側だし、ドイツ人たちにとってはトルコが別の側ということの暗示かな。それ以外にも親子の世代間のあっちとこっちかもしれない。

ちょっとネタバレすれば、上記の六人のうちトルコ人中年娼婦とドイツ人女子学生が死ぬ(これはネタバレといっても表題になっている)。だけど最後はそれぞれの娘と母がしっかりと抱き合う。そして最後に父と息子も。。。

母を演じているのがハンナ・シグラという女優。アップになった瞬間に、あ、この人知ってる、と昔の知り合いにあったような胸が熱くなるような気持ちになった。この人は「マリア・ブラウンの結婚」という早世したライナー・ファスビンダー監督の映画で有名になった人で、最近ではソクーロフの「ファウスト」でメフィストの妻というなんだかよくわからない役をやっていたけど、この映画でもものすごくいい。

いろんなところに挟まるシーンが印象的で、娼婦の棺がコンベアーで飛行機から降ろされるシーンと、逆に女子大生の棺がコンベアーで飛行機に乗せられるシーンの対称性や、最後のシークエンス、冒頭のシーンが繰り返され、めまいがするようなデジャヴ感を感じさせられる。この映画は3部構成になっているんだけど、1部と2部の出だしはドイツでの平和なデモに対して、トルコでの警官隊とぶつかり合うデモの対比。劇中でトルコがEUに加わればトルコの反体制派弾圧も変わるというセリフが出てくるけど、この映画2007年の映画だ。そんな風にトルコがEUに加わるのも時間の問題と思われていた時代があったんだよね。今じゃ考えられないけど。

そして最後の海に向かって息子が砂浜にしゃがむシーンの余韻が素晴らしい。完成度が高い映画という印象も持った。他のアキンの映画を見たくなった。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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