2017 10 << 123456789101112131415161718192021222324252627282930>> 2017 12

映画「婚約者の友人」(半分ぐらいネタバレ)

2017.11.14.01:04



月曜の夕方、この映画を見てきた。時代設定、舞台、映像が僕のツボだった。第1次世界大戦が終わった1919年のドイツ。主人公アンナの婚約者フランツ(これが原題)は戦死し、彼女はその婚約者の両親の元に下宿している。小津の「東京物語」の原節子のように、血のつながりがない婚約者の両親に尽くしているし、両親からも愛されている。その婚約者の墓の前に花を捧げて泣いているフランス人アドリアンが登場。戦前のパリでフランツと一緒に過ごした友人だと言う。

このアドリアンがまた、ドイツ人らしい顎のはった峻厳な顔をした人たちの街で、エラのない細い顔をしてて、ただひたすら「おフランス」な顔立ち。戦争が終わったばかりでフランスに対する反感の中、フランツの両親も最初はフランス人だというだけで、アドリアンを拒否しているが、徐々にフランツの友人だったということで受け入れ始める。

以下、ネタバレの暗示あり 笑)

エーリヒ・マリア・レマルクの第1次大戦を舞台にした「西部戦線異常なし」という小説の中に、敵味方入り乱れた砲撃の中を敵味方の兵士たちが右往左往する中、主人公が砲撃でできた穴に飛び込んで伏せていると、そこに敵兵が飛び込んでくる。主人公は夢中で銃剣で敵を刺す。ところが砲撃の中、主人公は我に帰るとトドメを刺す勇気がなくなってしまう。穴の外は銃弾が飛び交い、嵐のような砲撃の中、外へ飛び出すことはできず、瀕死の敵のあえぎ苦しむ声を聞きながらその場にじっとしているしかない。

ものすごく恐ろしいシーンで、この小説は映画化されていて、映画の中でも恐ろしいシーンだった。主人公は徐々に罪の意識に苛まれ、瀕死の男を介抱し、彼が死ぬと彼の胸元から軍隊手帳などを取り出し、写真や手紙を見つけ、殺した男の名前を知る。戦争が終わったら細君に手紙を書くと決意したり、殺した相手が印刷屋であることを知ると、生き残ったら自分も印刷業をやろうと思ったりする。

しかし、夜を越えて二日間続いた銃撃・砲撃が終わり、穴から出て味方の元に戻ると、その話を誰にもせず、しばらくすれば、自分自身もそれを忘れてしまう。恐ろしいエピソードである。


さて、この映画はパートカラーで、現在のシーンは白黒、思い出のシーンやアンナとアドリアンが打ち解けてピクニックに行くシーン、アンナの夢のシーン、そして最後のシーンだけがカラーになる。カラーのシーンも美しいけど、モノクロの、それも特にドイツの街のシーンが素晴らしい。ハネケの「白いリボン」を思い出させるような街の様子は、ドイツに心惹かれてきた僕にとってのツボだった。

アドリアンが語る戦前のフランツとの友好関係は、トリュフォーの「突然炎のごとく」の文学青年のドイツ人ジュールとフランス人ジムのよう。それぞれフランスの詩に魅せられたドイツ人フランツとドイツ語を巧みに操るバイオリニストのフランス人アドリアンという設定も自然である。だからこそ、そういう若者が戦場に行き、殺しあわなければならなかったということの悲劇性が強まる。

前半はドイツを舞台に、フランス人アドリアンの嘘が、そして後半は舞台をフランスに移し、ドイツ人アンナの嘘が見るものをハラハラさせる。不在のフランツに対する嘘。とはいえ、アドリアンの嘘は概ね予想がつくし、アンナがフランスに行ってから起きることも、多分そうなるだろうと想像がつく。むしろアドリアンが告白した真実をアンナがフランツの両親に話すのかどうか、それが一番のサスペンスだろう。

ただ、僕としてはそういうサスペンス面以上に、ドイツの街の白黒映像や、アドリアンがフランツの遺品のバイオリンで演奏するショパンのノクターンのバイオリン編曲版に心踊る思いだった。

出てくる俳優の顔がいい。フランツとアドリアンは典型的なフランス人とドイツ人の青年の顔だし、ドイツ人女性のアンナに対して最後の方で出てくる娘ファニーも、いかにもフランス人という感じ。そしてフランツの両親とアドリアンの母の対照的なことも、うーん、ドイツ人ってやっぱりこんな顔したやつ多いよね、フランス人はやっぱ、こんな顔だね、と納得させられた。そして最後、いわくあるマネの絵を見るカラーの映像のアンナの微笑んだ顔に、少しほっとする。

しかし、この後の歴史を知る僕らには分かっている。この十数年後にはヒトラーが政権を取り、再びドイツとフランスは戦火を交えることになる。その頃アンナやアドリアンは40から45歳ぐらいで、子供が男の子だったら戦争に駆り出され、殺し合いをしたかもしれないのである。

雰囲気も音楽も、設定も映像も、そして脇役たちの造形も、とてもいい映画だった。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

スポンサーサイト

映画「ゴッホ 最後の手紙」

2017.11.07.18:31

このところ映画がメインになってるような拙ブログです 苦笑)

話題になっていたので題名の映画を見てきました。売りがファン・ゴッホの絵でアニメーションになっているということで、どんなもんかなと思っていたんだけど。。。

僕はあまり面白く感じませんでした(あ、言ってしまった 笑) 確かに見たことのある絵が動いて角度が変わったりするのは面白いけど。。。 むしろファン・ゴッホの死の謎(自殺なのか)の話の方が興味深かったです。

アルマン・ルーランの肖像というのがあるけど、僕はこの映画を見るまで知りませんでした。
f0104004_2362864.jpg
© http://vangogh.exblog.jp/6829193/
父親の郵便配達人ジョゼフ・ルーランの肖像の方はいくつもあるし、何しろヒゲがすごいので有名ですが、この映画の主人公は息子のアルマンが主人公で、ファン・ゴッホの死後、弟テオに宛てた手紙が出てきたので、それをテオに手渡しに行くという話です。しかし、テオはファン・ゴッホの死後半年ほど後で梅毒で死んでしまっていました。アルマンが、モデルになった人々に話を聞きながら、ファン・ゴッホの死は自殺ではないのではないか、という説にたどり着くというのがお話ですが、ちょっとテンポがゆるくて、時々眠くなりました。また、関係者(ファン・ゴッホの肖像画のモデルになった人たち)の回想シーンでは油絵風ではなく、中世の祭壇画などにあるグリザイユという技法のような、セピア調の白黒のリアルな絵になっています。
d0187477_10125252.jpg
(これが父親のジョゼフの肖像の一つ)

まあ、よく知られているように、何しろ人類愛に燃えながら、激しい気性が災いして、自分を気にかけてくれている人ともぶつかり、傷つき、傷つけ、なんともお気の毒な人です。ただ、最近もどこかで読みましたが、ファン・ゴッホの耳切り事件は、切り取った耳を
、言われているように馴染みの娼婦に手渡したのではなく、顔に障害があった娼館の娘に対する連帯感から、その娘に渡したのではないかという説があるそうだし、この映画の説のように、本当は自殺ではないが、自殺だと言い張ることで銃を撃った者をかばったのではないかと言われたりして、優しいなどという言葉では言い表せないぐらい無私の愛情に満ち溢れた人だったんでしょうね。

と、そんなことを思いながら帰りの電車の中で、こんな映画を以前にも見たことがあるぞ、と思い出しました。拙ブログでも大昔に書いた「ブリューゲルの動く絵」という映画でした。あれもブリューゲルの十字架を運ぶイエスの絵を活人画のように動かすということをやっていたんですが、どうも動かすことに一生懸命になってしまって映画としての面白さは今一つという映画でした。そういう意味では今回のこの映画も、ゴッホの油絵でアニメーションにするということに力を使い果たしてしまったんじゃないか、と、そんな気もします。そういえば、ブリューゲルもこのゴッホもポーランド映画ですねぇ。。。

ポーランド映画というのは偶然にしても、どちらも奇をてらっているところがあって、こういう話題性で勝負するよりも正攻法の映画、例えば古くはヨス・ステリングの「レンブラント」(これは無名だけど傑作だと思います)とか、拙ブログでも紹介した二本の「エゴン・シーレ」の方が、僕としてはずっと面白く見ることができたと思っています。

ところで、この映画、TVでもいろんなところで紹介していて、そのおかげか、月曜の夕方なのに満員でした。字幕だと絵にかぶるので、わざわざ吹き替え版をやっているところへ行ったんですが、字幕版だとどうなんでしょうかね? 



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「針の眼」など

2017.10.29.11:59

昨夜、1981年の表題の映画を見ました。ドナルド・サザーランドが英国で活動するナチスのスパイの役で、前半はサザーランドの立場で捕まりそうになりながら窮地を脱するシーンにハラハラしましたが、後半は一転、サザーランドと恋に落ちた人妻が、彼の正体を知り、追い詰められていくのにハラハラしました。


で、思い出したのが「鷲は舞い降りた」という英国映画。マイケル・ケイン、ドナルド・サザーランド、ロバート・デュバル、アンソニー・クェイル、ドナルド・プレザンスという英語圏の一癖二癖ありそうな有名俳優たちがみんなドイツ軍の役という、一昔前の戦争娯楽映画で、しかもチャーチルを拉致するよう命じられるという話。この豪華メンバーに対して、アメリカ軍やイギリス軍の役をやる俳優はこぞって無名ばかり。内容は007ばりの荒唐無稽さですけど、溺れる子供を救おうとして正体がばれちゃうというシーンなんかもあって、こういう映画をイギリスの観客たちはどういう気持ちで見ていたんでしょうかね?


そもそもこの手のイギリス映画って、主役がドイツ軍人というのが他にもいくつか思い浮かぶんですね。1957年に作られたハーディー・クリューガー主演の「脱走四万キロ」という映画も、メッサーシュミットのパイロットが英国に不時着して捕虜となり、そこから見事脱走するという映画なんですが、これなんかも、当時のイギリス人はどんな思いで見たんだろう? クリューガーが逃げ延びて、最後に言い訳のように、実話を基にしていて、主人公はのちに戦死したとかテロップが出たと記憶しているんですが、少なくとも見ている最中、イギリスの観客はクリューガーに感情移入できたんでしょうかね?


他にもやはり1950年代末に作られたナチスの小型戦艦シュペー号を扱った「戦艦シュペー号の最後」なんていう映画は、なんかイギリス軍の格好悪さが目立つような気がする映画でした。最後はシュペー号は潔く自爆してしまうし、なんかイギリス人としては「とりにがし」感が強いんじゃないかなぁ、なんて思ったものです。


これらの映画で出てくる主役のドイツ人たちはみんな高潔でフェアで、そしてこれが一番大事なのかもしれませんが、決してハイル・ヒトラーはやらないことです。ただし上官とか悪役になるのはガチガチのナチだったりすることもありますが。。。この点はドイツ側を主役に据えたイギリス以外の国で作られた戦争映画、例えばペキンパー監督の傑作「戦争のはらわた」とか、デンマーク映画のくせに英語の「第27囚人戦車隊」なんかでも共通しているところでしょうか。




以前、刑事フォイルに感激して、何度も拙ブログで書いたんですが、こういう過去のイギリスの戦争映画を見ていると、フォイルの中に出てくるドイツ人の扱いにも一本の線が見えてくるような気がします。そういえば、少し前には英国製の「SS・GB」という、もし英国がドイツに占領されていたら、という架空の設定のドラマもやってました。しかし、こういうのを面白がることができるゆとりが羨ましいよねぇ。それとも戦勝国だからこそできるのかな?



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「みかんの丘」と「とうもろこしの島」(ネタバレ)

2017.10.25.23:39





どちらもグルジア(ジョージア)とアブハジアの争いを背景にした、非常に美しいシーンの多い映画だけど、そもそもアブハジアとグルジアの争いってなんだ? 調べるといろいろ書いてありますが、どうも要領をえない。まあ、冬のオリンピックがあったソチのすぐ南側、黒海とカスピ海の間にある地域のグルジアの一部アブハジアが1990年代初頭に独立を求めて武力闘争になったということのようです。この地域、映画の中でも出てくるけど、言葉もグルジア語とアブハジア語はだいぶ違うようだし(とうもろこしの島ではアブハジ語はわからないとグルジア人が言っています)、宗教的にも東方教会からイスラムまで入り混じっているようで、複雑怪奇な地域のようです。

「みかんの丘」はこの微妙な地域に移住してきてみかんを栽培していたエストニア人の老人(エストニアはこれまたここから3000キロぐらい北西方向のバルト三国の一番北の国です。アルヴォ・ペルトの国ですね 笑)が主人公で、アブハジアの傭兵のチェチェン人(イスラム教徒)とグルジア人の兵士(キリスト教徒)が負傷してこの主人公の家で介抱される。お互いに憎み合って、罵り合いながら、助けてくれたエストニア人の老人の手前、少しづつ和解の気配を見せながら、最後は。。。という内容です。

日本語というか中国の故事で言えば呉越同舟というやつで、主役のエストニア人の老人の顔がとてもいい顔をしています。似たような映画にボスニア・ヘルツェゴビナの映画で「ノーマンズランド」というのがありましたが、あそこでも敵同士が最前線の境界地帯、ちょうどどちらの陣地でもないところで呉越同舟になってしまうという映画で、和解と敵対の緊張関係の中、最後はやっぱり。。。でした。


一方「とうもろこしの島」はちょっと雰囲気が違います。この二つの映画は背景が同じだけに一緒に語られることが多いようですが、僕の個人的な好みから言えば、こちらの方が圧倒的に好きです。

「みかんの丘」をクサすつもりはないんですが、やっぱり最後のところが不満です。デウス・エクス・マキナという言葉があります。直訳すると「機械仕掛けの神様」。これは古代ギリシャの演劇で話がもつれにもつれ、どうにも収拾がつかなくなった時に、都合良く舞台の上から機械仕掛けで神様が降りてきて、すべてのもつれを一気に解きほぐして、はい、大団円という結末に至るための手段ですが、全く逆の意味で、この言葉を思い出しました。

つまり、チェチェン人傭兵(アブハジア側)とグルジア兵士が少しお互いを理解し合い、和解への糸口が見えた時に、アブハジアの兵士たちが現れて、仲間であるチェチェン人傭兵を敵と疑い、今まさに殺そうとした瞬間にグルジア兵士が彼を助けるためなのか、単に敵だからなのか、発砲してチェチェン人傭兵を救い、自分は殺されてしまうんですね。

ちょうど二人が和解して、この後どうするんだろう、どういう結末を迎えるんだろう、というところで、都合良く、絶対悪が機械仕掛けの神様よろしく登場して、結末をつけてしまう。なんか、安易だな、面白くないな、と思ったのでした。

それに対して「とうもろこしの島」は、もっと謎かけをたくさんしたままです。そもそもが映画としても非常に前衛的なことをしています。私はサイレント以外で、映画が始まってから20分以上セリフも音楽もない映画というのははじめてでした。「ニーチェの馬」も最初の台詞までだいぶ待たされますが、音楽は最初から鳴り続けます。しかも始まって20分でようやく二言三言喋ったと思ったら、そのあとまた30分以上登場人物たちは一言も喋りません。しかも音楽もなし。結局音楽はエンドロールが始まるところで初めて鳴るんじゃないでしょうか?

こう聞くと、きっと退屈だと思うでしょうけど、そうでもありません。物語はほぼアブハジアとグルジアの境界を流れるパラタ・エングリ川の中州だけで進行します。この川は春に濁流が流れて上流のコーカサス山脈から土砂が流され中洲ができます。周辺の農民はその中洲で、春から秋にかけてトウモロコシを栽培して冬に備えるというのが慣例になっているわけですが、川を挟んで向こう側はグルジア領、こちらはアブハジア領というわけで、いわばノーマンズランドになっている危険な最前線でもあるわけです。

映画はその中洲に老農夫がやってくるところから始まり、孫娘も加わって、そこに小屋を作りトウモロコシを栽培する様子を、音楽も会話もないまま映し続けます。この12歳ぐらい?の孫娘がいいんですね。顔立ちがとても美人なんですが、何しろ田舎の娘らしく、そばかすだらけ。で、そのトウモロコシ畑に怪我をしたグルジア兵が倒れていて、二人はそれをかくまうんですが。。。

この二人は中洲に住んでいるわけではないですが、この中洲以外のシーンはほとんどなく、また回復したグルジア兵がどうなったのかもはっきりしません。孫娘と親しくなって、それを老人が咎めるような目で見て、兵士は怯えたような目で見つめるシーンの直後、場面が変わるともう兵士はいません。おそらく中洲を去って帰って行ったのだろうとは思いますが。。。

最後は季節外れ?の濁流に中洲が流され、トウモロコシを収穫していた老農夫は濁流にのまれますが、孫娘は船に乗っていて助かるようです。「ようです」というのはこのシーンの後ボートに乗る娘の姿が映ることがないんですね。この濁流にのまれる中洲のシーンもとても素晴らしいシーンで、大雨の中、徐々に小さくなって崩れていく中洲とトウモロコシ畑と小屋が心に残ります。両親がおらず、老人に頼っていた孫娘はどうなったのかを考えると胸が痛むシーンではありますが、この間に彼女も成長していて(生理があるシーンがあります)、おそらく一人でしっかりと生きていくのだろうと思いたいところです。

最後に、翌年また中洲ができたところへ若い農夫がボートでやってきて、娘が大切にしていた手作りの人形を掘り出し、大切にボートの座席に置くシーンで映画は終わります。振り返ってみれば、老人も最初の方のシーンで中洲からパイプらしきものを掘り出し、後生大事に持っていました。

人間同士がいがみ合い、争い合い、殺し合い、老人は自然の前に命を落とし、孫娘は成長していき、時は流れていき、同じことが繰り返され。。。だけど、新たにやってきて、最後の人形を大切に扱う農民の姿は、老人たちの後継者として、彼らの生きた証をつなぐシーンのようにも思われます。老人も、だからこそ、掘り出したパイプを大切に持っていたのでしょう。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

ヘルツォークの映画「問いかける焦土」

2017.10.16.19:22

IMG_1151_convert_20171016191413.jpg

拙ブログでも書いたことのあるヴェルナー・ヘルツォーク監督。今東京の新宿で特集を組んでいて、20世紀に作られたものだけですが、10本を上映中です。僕は「ヴォイチェック」とこの「問いかける焦土」を見てなかったので、この二本と、大好きなんだけど、しばらく見ていない「カスパー・ハウザーの謎」をなんとか時間をやりくりして見てこようと思った次第。

で、今日、まず、表題の映画を見てきました。1991年の湾岸戦争のドキュメンタリーですが、印象としては「コヤニスカッティ」みたいな感じでした。コヤニスカッティではフィリップ・グラスの不思議な音楽が魅力的でしたが、こちらではワグナーやアルヴォ・ペルト、あるいはヴェルディやマーラーやグリーグの音楽がBGMで、しかもワーグナーだとジークフリートの葬送行進曲とか、ヴェルディはレクイエムだし、ペルトはもう言うまでもなく暗いし、こういう美しくも、人間の愚かさを感じさせる映像によく合ってました。

イラクがクウェートへ突然攻めて行った1991年の湾岸戦争、この映画ではイラク軍によって息子を殺された母親や、父親を殺されて口をきかなくなった子供などのインタビューも出てくるけど、戦闘シーンがあるわけではないし、ただ捨てられていった砂漠の壊れた車などのガラクタが延々と空撮で映され、石油の真っ黒い大きな水溜りがアップで撮られ、だけど、やっぱり印象に強く残るのは砂漠の空撮と、なによりイラクが撤退時に火をつけていったクウェートの油田火災の風景でした。

ボッシュの絵の地獄図のような火と真っ黒な煙の物凄さ。残念なことにそれがとても美しいんですねぇ。環境破壊だし、資源の無駄遣いだし、美しいなんて言っていいのか、とも思うんだけど、あの映像はちょっと忘れられない。

ヘルツォークの映画はいつでも風景とともに、意外なものにびっくりさせられるんですが、この黒煙もうもうの砂漠の火災の消火活動をしている人たちが、最後に火が消えて吹き上がっている石油に、なぜか、もう一度火をつけます。茶色い石油が棒状に吹き上がっているところへ火の付いた松明のようなものを投げ入れると、石油が一気に燃え上がり炎の柱になり、黒煙を噴き出します。何故あんなことをしたのかの説明は全くなし。まあ、ヘルツォークらしいといえばそれまでですが。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「動くな、死ね、甦れ」

2017.10.13.22:53

IMG_1113.jpeg

新宿でやっているヘルツォークとこの映画と、どっちにしようか迷ったのですが、こちらにしました。この映画は数年前にTVの衛星放送でやっていたのを見たことがありました。なにしろ最後のところのわけのわからなさにぶっ飛んだ、という印象でした。見終わって、なんだったんだ?今のは?とTVの前からしばらく動けなかったですね。

監督はヴィターリー・カネフスキーという人で、ソ連時代に無実の罪で8年投獄され、50を過ぎて初めて監督として映画を作り、しかもその後二本取った後、ぱったりと映画を撮ることをやめてしまったそうです。

舞台はスーチャンという日本海側、ナホトカの北にある炭鉱の町。この町にはソ連の収容所があり、多くの囚人が入れられている一方で、抑留された日本人もいます。いわゆるシベリア抑留者たちです。極東の町で荒んだ雰囲気があり、終戦直後なので物資も足りず人々の心も殺伐としていて、子供たちがたくさん出てくるけど、どの子供もみんな悪ガキの風貌風体。町はそこらじゅうに泥の水溜りがあり、住居もバラックの粗末なものばかり。こう言うぬかるみの風景ってロシア映画ではおなじみ感があります。

終戦からほどない時期だから腕や足のない傷痍軍人も出てくるし、モスクワで学者だった狂った老囚人とか、妊娠すれば収容所から出られると思って、男を誘い、断られて泣きじゃくる若い女の囚人とか、人々の心も酷い状態なのがよくわかります。

主人公はそうした子供たちのうちの一人の少年と少女です。その少年がいたずらが度を過ぎて、機関車を転覆させ、町を逃げて都会(ナホトカか?)へ出て行って、そこで宝石強盗の手伝いをさせられ、さらに口封じのために殺されそうになって、迎えに来た少女と一緒に逃げるが。。。というのがあらすじでしょうか。

監督カネフスキーのデビューのきっかけを作ってくれたのは、拙ブログでも2度にわたって紹介した「神々のたそがれ」のアレクセイ・ゲルマンだそうで、そう言われると、似たような作風かもしれません。
映画「神々のたそがれ」
再び映画「神々のたそがれ」

子供たちの演技が素晴らしいのは言うまでもないけど、主役の男の子が素のままの悪童ぶりなのに対して、少女の方は大人びていて、落ち着き払って、物静かで、男の子の嫌がらせにも善意でお返しをするような優等生的な子です。こういう女の子って小学校の頃いたなぁ。やたら頭が良くて超然としていて、男の子からいたずらされても大人の対応をする学級委員っていう感じの子。

音響効果が不思議な映画で、BGMらしい音楽はほとんどないけど、登場人物が怒鳴り散らすように歌う下卑た歌とか、抑留された日本人が歌うよさこい節や炭坑節が雪が残る泥だらけの荒涼とした風景の中で、不思議な雰囲気を醸し出します。それとやたら会話の音がかぶって騒々しい一方で、汽車が転覆するシーンでは全くの無音になり、転覆後に人々が駆け寄る足音だけが聞こえてくる、という不思議な感じも。

そして何より不思議なのが、時々監督の声だと思うのですが、映画の中に入ってきます。そもそも映画の出だしが「用意はいいか? スタート」というナレーションが入って始まり、最後のシーンも監督の声がかぶる。「子どもを写すのはそのぐらいでいいから、女を追え」という音声が入ってくる。だけど、他にも、子供達が愉快そうに笑っている声にかぶるように大人の男性の笑い声が聞こえる。よくわからないんだけど、これも監督の笑い声ではないでしょうか?

ところで、この最後のシーンのアヴァンギャルドぶりには、きっと誰でもぶったまげると思います。そして同時に、悲痛な映画のラストシーンというのは沢山あるだろうけど、この映画のラストの胸裂けるような悲痛さも半端ではありません。

金曜日の夕方で、こんなマニアックな映画だけど、思ったよりお客さんは入ってました。ただ、面白かったのは僕もそうですが、多分全員一人で来てたようだったことです。まあ、デートで観る映画じゃないわなぁ。


よろしければ下のボタンを押してください。

にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ザ・ウェイブ」(ほぼネタバレ)

2017.08.22.18:22



非常にわかりやすい映画だし、現代社会のいろんなケースを連想することは容易だろう。原作者はアメリカ人で、自分自身の経験をもとにしたものらしいが、それを現在のドイツに置き換えてある。

高校の体験授業で独裁制について教えることになった教師が、まず、授業中だけ、自分のことを苗字に「さん」づけで呼ぶこと、というルールを決めると、最初のうちは面白がっていたり反抗的だった生徒たちが、徐々にクラスの一体感を感じ始めて、どんどん暴走する。

確かにクラスがまとまって、それまでクラスの中では異端とみなされていたトルコ系の生徒も差別感を感じないようになれる。それまでいじめられていた生徒がそうした一体感の中でどんどん気が大きくなり、エスカレートしていく。

みんなで白いシャツとジーンズという「制服」や、挨拶のポーズを決めて、HPを立ち上げ、シンボルマークまで作って、街中のあちこちにいたずら書きを始める。

ちょっとしたカリスマ性があれば大衆操作なんてチョロいチョロい。しかも教師が言わなくても、生徒たちがどんどん忖度して、ユニフォームを着てなければ仲間はずれにしたりする。

仲間で団結するということは、仲間でないものに対しては排除したり敵意を見せたりしがちなのである。

しかもこの映画では、主人公の教師は最初から人望があったり、カリスマ性があったわけではない。最初の授業で自分のことを「さん」付けの苗字(それまではファーストネームで呼んでいた)で呼び、発言するときは立ち上がってすること、と決めたことから、自然と教師に権威ができてくる。

昔、日韓W杯で最優秀選手になったドイツのGKオリバー・カーンが、TV番組?で日本人の小学生たちを相手にアドバイスした時、日本人小学生たちの行儀の良さに呆れたとコメントしていた。ドイツの小学生たちはもっと行儀が悪いし、おしゃべりはうるさいし、話を聞いてないやつもたくさんいるのに、日本の小学生はすごい!と、半分呆れながら感心していた。ある意味、ドイツから見たら日本の学校なんてのはかなりの管理教育に見えるんだろうね。

それはともかく、こうしてクラスに一体感が出てくるとともに生徒たちの学習意欲も高まるし、不良たちと付き合っていた生徒も真面目になる。管理する側が独裁的な手法をとると、人は容易にそれに快感を覚え、生きがいを感じるとともに、管理する側もとても楽ちんになるわけだ。権力者が独裁制に憧れる理由もよく分かる。安倍さまを支持するネトウヨ、なんていうのが簡単に連想できるシチュエーションではある。

俳優は教師役が「エーミールと探偵たち」で悪役をやったユルゲン・フォーゲル。「エーミール」では歯並びの悪い、いかにも悪党そうな、一種吸血鬼じみた雰囲気を出していた。

あまり他の映画で見ないな、と思っていたんだけど、少し前に見た「ローゼン・シュトラッセ」に出ていた。

主人公の生徒もどこかで見たなと思ったら、「ナポラ」の主役。そういえば監督も「ナポラ」の監督だった。




にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ヒトラーへの285枚の葉書」(いろいろネタバレ)

2017.07.22.22:54

昨日は仕事の後に「ベルギー奇想の系譜展」を見て、さらに夕方この映画を見てから、日本最年長DJのいる餃子屋さんで痛飲。 

というわけでこの映画、以前その原作「ベルリンに一人死す」について書きました。原作は傑作だと思います。映画はこの原作を知っていると、登場人物がかなり「映画的」になっています 笑) つまり、小説より人間関係がわかりやすくなっているし、かなりマイルドです。



密かに反ヒトラーのビラを配る主人公クヴァンゲル夫妻は、自分たちはナチスの共犯者にならなかった、自らの主体性を放棄しなかったと言って、満足して刑死し、彼らの生き様に心を打たれたゲシュタポのエシュリッヒは押収した葉書をもう一度ばらまくわけで、非常に感動的になっています。

たとえば、これも少し前にブログに書いた「ヒトラー暗殺、13分の誤算」でも、ヒトラーを暗殺しようとして捕まるエルザーの態度に心打たれた検察官ネーベ(名優ブルクハルト・クラウスナーがやってました)は、のちのワルキューレ作戦という軍部のヒトラー暗殺計画に加わって刑死することになっていました。つまり、彼らがやったことは決して犬死ではなかった。一粒の種は地に落ちて死ななければ、一粒のままだが、落ちて死ねば多くの実を結ぶという聖書の言葉をなんとかつなげたいという「いじましさ」を感じてしまうんですね。拙ブログのモットーにしているガンジーの言葉を思い起こしてもいいでしょう。

「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです」

映画のような展開なら、これでいいんですが、原作はこんなに美しく死なせてくれません。原作では映画に出てこなかった、まるで無関係の親類まで巻き込まれていきます。これは辛い。同時にナチスの、まるで白土三平の「カムイ伝」に描かれる話のように、一族郎党がみんな同罪にされてしまうような残虐な社会では、反抗することイコール自分の死であるだけでなく、無関係のものも含めた死になってしまう。

また、夫妻が置いた葉書を読んだ人たちの反応があまり出てこないですが、原作ではナチのような監視密告社会では人々がどう反応するかがとてもうまく描かれています。

原作にはヒトラーユーゲントの青年が語る印象的な言葉があります。「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」というもので、これに対して、主人公夫婦はまさに自ら考えて、従うことをやめたわけですが、それが無関係の人まで巻き込んで死なせてしまう。ナチスのように残虐悪辣な社会で、自らの精神の自由を守ることはどういうことか、なかなか簡単に解決つかない問題でしょう。

映画としては当時のベルリンの雰囲気や、アパートの様子、戦争だから大量に必要になる棺桶製造工場の雰囲気など、とてもリアリティがあり、さらに主役の二人がものすごい存在感です。特に夫のブレンダン・グリーソンという俳優。無口で実直、頑固で表情を表に表すことのない職人という役そのもので、妻のエマ・トンプソンも良いし、前半で出てくるヒトラーユーゲントの青年なんか、僕がイメージするそのまんま 笑) タレコミやの男やユダヤ人の老婦人なんかも素晴らしいです。

ただゲシュタポの警察官をやったダニエル・ブリュールは「グッバイ・レーニン」の好青年やドイツにサッカーを伝えたコッホ先生役のイメージが強すぎて、口ひげつけてもやっぱり童顔だし、僕としてはもっと強面(こわもて)の役者の方が良かったんじゃないかって思うんですけどね 笑)

最後に、まあ、どうでもいいのだけど、やっぱり一言。ドイツを舞台に、出てくる新聞や、キーになる葉書の文字も、そして遠くでスピーカーから流れる言葉もすべてドイツ語なのに、会話だけが完全に英語というのは、やっぱりかなり違和感です。まあ、字幕に集中しちゃえば、あまり気にならないんですけどね 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「おみおくりの作法」(ちょっとだけネタバレ)

2017.06.13.22:59



2ヶ月ほど前にTVでやったのを録画しておいて、昨夜みました。いい映画ってこういうやつをいうんだなぁと、しみじみ思いました。

主人公は、身寄りもなく孤独死した人たちの連絡先を調べたり、遺品を整理したりする民生課の公務員。死んだ人たちを「数」にせず、一人一人の生きた証を求めて、関係者を訪ねたり、葬儀にただ一人参列したりして、書類を作っていく。一方、若い上司は効率化の名の下に、ようするにもっと手抜きをしろと言って、主人公に解雇通告する。

最後の仕事として主人公は、孤独死した、あまりまともな人生だったとは思えない男の娘を探し、葬儀に参列するよう説得し、上等な墓石を準備し、挙句に自分のための墓地を譲ってしまう。そう、この主人公自身が、そもそも孤独な身寄りのない人間で、それは何度か繰り返される寂しい食事のシーンでもわかる。

最後に娘と葬儀の後にお茶する約束をして、そこでそれまで無表情だった彼が少し笑う。これからこの娘と幸せになれるのかな、と思っていると。。。

もう、最後は、え〜っ?!! ひっど〜い!! と思っていると、その最後の最後に奇跡が!

最後の30秒で一気に涙が止まらなくなりましたね。夜中に一人で見てたんだけど、声あげて泣きそうになりました 苦笑) まあ、作り手が見てるものを泣かそうとしているのが露骨にわかる映画って、結構あるわけですけど、この映画は、そういう作り手の「あざとさ」をあまり感じさせません。

主演のエディ・マーサンという俳優が、かなり癖のある顔立ちで、普通あまり好きになれそうにない顔してるんだけど 笑)、それが最後は本当に素敵な顔に思えてきます。同じ街角を同じように歩くシーンがなんども繰り返され、彼の人生が寂しい単調なものであることが暗示され、その顔もず〜っと表情が暗くて無表情なのに、最後の方で笑うんですよね。そして。。。

絶対にオススメです。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「ストーカー」を見た (ネタバレ注意)

2017.05.16.00:01

「ソラリス」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「鏡」、「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、「サクリファイス」ときて、これで最後。昨日は友川カズキライブの打ち上げで午前様、睡眠時間が足りてないので、むちゃくちゃ不安だったんですが、今日の仕事は午前中だったので、1時半からの回で見てきました。先に正直に言っておくと、途中、3人が休憩しているシーンで一瞬意識を失いました 苦笑)

タルコフスキー映画でおなじみのシーンや物がたくさん出てきます。ガサガサした壁や円形に対するこだわり。登場人物たちは例によってやたらと転ぶし、のたうちまわる女の姿はソラリスやサクリファイスでもおなじみです。事物がまるで偶然のように落下するし、主人公らに忠実な犬の姿もおなじみ。

よくわからないものが浮遊している水たまりや、首まで浸かりながら渡る池、焚き火や風、ソラリスでも鏡でもノスタルジアでも出てくる丘から見下ろす川と森の風景。そしてサクリファイスで最初と最後に流れるバッハのマタイ受難曲のアリアが、突然口笛で吹かれたりします。さらに、「ルブリョフ」の冒頭のエピソードや「ソラリス」のステーションでもおなじみの男3人組。

今回久しぶりに見て、舞台の背景に原子力発電所がなんども出てくるのに気がつきました。この映画ができたのはチェルノブイリの6年前、フクシマの30年以上前のことです。

ストーリーは広範囲に汚染された?ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域の奥に人間の願いを叶える部屋があると言われ、そこへ、案内役のストーカーと作家と教授の3人が向かうという話。

この3人を今回こんな風に見立ててみました。つまり、ゾーンは神でストーカーは聖職者。神なるゾーンの信奉者であるとともに伝道者でもある。それに対して、そんなものはありゃしないと絶望している作家と、そんなものは権力者に悪用されるだけだから破壊すべきだと主張する教授という図式。宗教的なイメージなのは、ラスト近くで作家が頭にいばらの冠をかぶるシーンでも、おそらく間違いないだろうと思うのですが、こういう風に決めてしまうのは、愚かなことだと言われるのは承知の上で、あえて遊びで 笑)

映像的には、セピア色の白黒、まるで墨のようなコントラストの強い最初のシークエンスと、ゾーンに入ってからの目に鮮やかな緑の自然の対比もすごい。トロッコに乗ってゾーンへ向かう3人のアップの白黒画面が終わると、バアンと音でもしたかのように鮮やかな緑の風景が、突然映し出される時の衝撃。さらに、ゾーンの建物に入った後の色彩を抑えた室内の画面。ただし、そのどのシーンもが、非常にゆっくりとしたテンポで眠気を誘ってきます 笑) 

しかし、願いを叶える部屋が近づくと緊張感が高まり、眠気は吹っ飛びましたね。 暗く不気味な丸い廊下から、非常に印象的な砂丘のような不思議な広間を超えて、大小のフラスコ状のものがたくさん浮いた水たまりのあるゾーンの前室。そしてそこに座り込む3人の前に広がる水たまりの願いを叶える部屋に雨が降り出すシーン。どのシーンを切り取っても映像としての美しさがあるし、どの事物にも意味ありげな謎めいた魅力があります。

最後のシーンの奇跡は、タルコフスキー映画では最初の「ローラーとバイオリン」からこの「ストーカー」まで一貫しています。どの作品でも最後には奇跡が起きます。 「ローラー〜」は家から出られなくなった少年は想像の中で青年に会いに行き、「僕の村〜」ではイワンは妹と水辺でかけっこをします。「ルブリョフ」は無言の行を終了して、傑作イコン群を残すし、「ソラリス」では過去をもう一度やり直そうとするし、「鏡」では死んだ小鳥が生き返り幼年時代へ飛んでいきます。

その意味では「ノスタルジア」と「サクリファイス」はちょっと変わったと思えますね。 「ノスタルジア」の最初の方で自分だけのための美はもういらない、と言うシーンがありますが、これがある意味で象徴的なセリフではないかと思えます。 そして、この「ストーカー」の前と後で、タルコフスキーの「願い」が個人的なものから、もっと全人類的なものに変わっているのではないでしょうか。

こんな風にシーンを言葉にしても詮無いものがあるし、話を何かのアレゴリーだと解釈するのも、この映画をつまらないものにしてしまうのかもしれません。映画というものを言葉で語ることの虚しさを強烈に感じさせる、ものすごい映画だと思います。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「サクリファイス」その他を見た(ネタバレ)

2017.05.13.18:53

例によって東京の渋谷でやっているタルコフスキー監督特集。昨日は「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、今日は遺作の「サクリファイス」と見てきました。少しメモしておきます。

ローラーとバイオリンは最初の作品だけど、短編映画で、すでにタルコフスキー哲学が出てます。ラスト、思いは現実を超えるという暗示でしょうか。晩年の「ノスタルジア」や「サクリファイス」の人類救済のおまじない見たいな話につながるように思います。

「僕の村は戦場だった」は冒頭の樹木のアップ。カメラがだんだんアップの樹木を登っていくシーンで始まるんですが、遺作の「サクリファイス」のラストが全く同じように、カメラがアップの樹木を登って終わります。タルコフスキー映画の円環が閉じたような形で、すでに癌で余命幾ばくもないことを知っていたタルコフスキーは多分意図的にやっているんじゃないかと思います。この映画は主役のニコライ・ブルリャーエフという少年がいいんですね。思い出の中と現在との顔がまるで別人のように違う。思い出(=夢)のシーンも疲れ切ったブルリャーエフが爆睡、その間、遠くで常に雫がポタン、ポタンとリズムを刻んでいます。ブルリャーエフのベッドからはみ出た手がアップになると、なぜかその手から水の雫が落ちています。あれ?と思う間もなくカメラが上に向くと、そこは井戸の底、上から母親とブルリャーエフが覗き込んでいます。何度見てもゾクゾクします。

この映画は、偵察のためにドイツ軍の様子を伺いに行き、殺された少年の話が原作のようですが、映画の最後に死んだゲッベルスの6人の子供達の遺体や、家族を道連れにして自殺したナチの将軍?の子供達が出てきます。メッセージは明らかで、戦争で一番大きな被害を受けるのは子供達だ、と言っているのでしょう。ただ、これはソ連が願う戦争の描き方とは違っていたのでしょうね。

さて、「サクリファイス」です。何しろワンカットが長い。冒頭のシーンからして、計ってないから正確にはわかりませんが、おそらく10分近くワンカットだったんじゃないでしょうか。カメラがあきれるぐらいゆっくりと移動し、登場人物たちが移動していくのに合わせて、少しずつ横に移動しながら近づいて、最初は人物の顔もはっきりわからないぐらい遠いところから始まり、10分近くかけて、気がつくと、すぐそばまで近づいています。全編そんな調子で、カメラは気がつかないぐらいわずかずつ近づいたり横移動したりしますが、そのリズムがなんとも眠気を呼びます 笑) 

ストーリーを言うと、あまりにバカバカしさに笑っちゃうかもしれません。世界戦争が始まり、主人公は神に、もし全てをなかったことにしてくれたら、全てを犠牲に捧げると祈ります。翌朝、目がさめると、全ては何もなかったかのような世界に戻っています。そこで主人公は神との契約通り家に火を放ちます。最後の家に火をつけてからの、約10分のワンカットシーンは、おそらく映画史上に残るものすごいシーンです。全てが計算し尽くされているように家は燃え上がり、煙を吐き、横の車が爆発し、煙が止まって炎だけになり、崩れ落ちる。その前を人々が右往左往し、カメラもそれを追って移動していきます。そのスペクタクルに圧倒されます。

さて、あと月曜に「ストーカー」を見れば、今回のタルコフスキー特集で上映された映画を全制覇になります。「ストーカー」は、多分、また書きます 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「アンドレイ・ルブリョフ」を見た(完全ネタバレ)

2017.05.09.22:03

この映画については前にもちょっとだけ触れたことがあった。 初めて見たのは1981年。その時は予備知識もほとんどなく、映像の美しさやゆったりとしたテンポの心地よさに魅了されたけど、悲惨な時代に芸術家であることの意味に苦しんだ画家が、いわば「飢えた子の前で文学に何ができるか」というサルトル的な絶望を感じ、一旦は筆を折りながら、それにもかかわらず再び絵を描くことを決意する話だと思った。多分、それは外れてないと思うが。

ただ、その後なんども見てきて、主人公ルブリョフはタルコフスキー自身が、かなり露骨に投影されていることがわかってきた。例えば、ルブリョフに対する同僚の批判「確かに絵は上手だ、しかし彼には信仰心が欠けている、単純さが足りない」などという言葉は「確かにいい映画を作るが、彼には政権に対する従順さが欠けている、そして映画も単純さが足りない」という意味だろう。たぶんタルコフスキーの第1作「僕の村は戦場だった」に対するソ連当局の批判であったことは間違いない。

この映画を見ると、いつも、「乏しき時代の詩人」という言葉が思い浮かぶ。ハイデガーという哲学者の本の題名だけど、内容はともかくも、この題名には心惹かれるものがある(昔アマゾンレビュでこの映画について書いた時にもこの題名を使ったことがある)。

この時代の悲惨さは映画全体を通して繰り返し描かれる。最初の旅芸人のエピソードでも、ちょっとでも反権力的な言動を人前で行えば、すぐに捕まってしまう。また、権力者の兄弟げんかに端を発して、弟がタタール人に援軍を頼んだせいで、町は蹂躙され、一般市民が虐殺される。教会に逃げ込んだ市民が虐殺されるシーンは、この映画の20年前に、現実にナチスの手で同じようなことが行われたことを思い出させる(「炎628」)。このエピソードは、スターリンが自分の権力を守るために粛清の嵐を吹き荒れさせている間にナチスが攻めてきたことを、見た人に連想させたことだろう。

異教の祭?(=反体制運動)の翌朝、村人たちは官憲に一網打尽にされる。その時、前夜ルブリョフを助けてくれた女は裸で川に飛び込み、いわば「亡命」していく。それを芸術家の特権で川の上を船で下っていくルブリョフが暗い顔で見送る。プロローグの気球で飛ぶ男も、ある意味で「亡命」未遂の暗示かもしれない。僕は1980年代初めに、タルコフスキーが亡命したというニュースを聞いた時、思わず、タルコフスキーも裸で川を渡ってしまったのだなぁ、とこのシーンを思い出した。

こうした中世ロシア(=スターリン時代・ソ連邦時代)の悲惨な状況の中で、体制の命令によって絵を描く(映画を作る)芸術家の苦悩を考えれば、この映画は分かりやすくなるだろうと思う。しかも、同じ芸術家同士の間でも嫉妬や妬みがあり、また師匠は筆洗いしかさせず、なかなか絵を描かせてくれない。この師匠はフェオファン・グレクという実在のイコン画家だけど、タルコフスキーを当てはめると、エイゼンシュテインあたりになるのだろうか?

最後の鐘を作る少年のエピソードでは、この少年がタルコフスキー自身なのではないか? 少年をはじめとする職人集団は文字通り映画を作るスタッフの集団だろう。様々な内輪での争いがあっても、最終的に少年の元で結束して巨大な鐘を作ることに成功する。その鐘は確かに権力者のために作ったものではあるが、それは結果に過ぎない。同時に、この少年が全て終わった後、実は自分は誰からも鐘の作り方を習っていなかったと告白するけど、これも、タルコフスキーはソ連の監督からは何も学ばなかったという意味に解釈できそう。こじつければ、先の師匠のフェオファン・グレクも史実ではギリシャ人、つまり外国人だ。すると、彼はエイゼンシュテインというよりも、むしろイングマール・ベルイマンや黒澤明あたりをイメージした方がいいのかもしれない。タタールが街を襲うシーンなどは七人の侍を意識しているだろうと思われる。

かくして、ルブリョフは、誰のためでもない、鐘を作ることそのものを目的にしたかのような少年の姿を見て、自らも、長い無言の行の後、再び絵を描くことを決意する。おそらく神のために描くことを。最後、これでもか、と言うぐらい長い時間をかけてルブリョフが残したイコン画が、延々とアップになって映った末に、映画の冒頭倒れた馬が、雨の中で平和そうに水辺で草を食むシーンで終わる。

だけど、こうやって何でもかんでもこじつけて、一つの比喩に固定してしまうことで、この映画がつまらないものに見えてきそうな気もする。むしろ、あちこちに出てくる映像のすばらしさだけに集中してもいいんだろう。例えば、旅芸人が捕らえられて連れて行かれるシーン、手前に3本の木があって川むこうを官憲の馬が3頭歩き、手前をルブリョフたち3人が歩いていくシーンの美しさ! あるいは想像の中で、雪の(!)ゴルゴダの丘へ向かうイエスとマリアらの、ブリューゲルの絵のような風景。あちこちで出てくる俯瞰のアングルの映像。焼けた教会の中に降る雪。その焼けた教会の中で師匠のフェオファンの幽霊?との会話シーンの、画面の外を意識させるような不思議な雰囲気。

主人公をやったアナトリー・ソロニーツィンや仲間の画家をやったニコライ・グリニコは、この後の「ソラリス」「鏡」「ストーカー」でも出てくる(グリニコは前の「僕の村は戦場だった」でも出てくる)し、その他の旅芸人も裏切り者のキリール役の俳優もみんなものすごい存在感だったが、特に知恵遅れの娘と、タタール族の首領が、それぞれ強く心に残る。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「鏡」を見た

2017.05.06.21:42

先日「地球が滅びる時に見ていたい映画」を書いた時に書いた「鏡」、先日のソラリスに引き続き渋谷の映画館で見てきました。今回は一昨日すでにネット予約しておいたので、ど真ん中の席を確保できました。ほぼ9割がたいっぱいでしたね。

デジタルリマスター版ということで、画面がとても綺麗なのと同時に、字幕が以前見たのとは違っていました。以前に比べてちょっと説明していて、分かりやすくなったかなぁ。例えば、以前なら、リビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、わかるわよね? フィヨードル・ミハイルヴィッチ? というシーンが「悪霊」のリビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、ドストエフスキーよ。となっていました。

冒頭の吃音症の少年の画面はいうまでもなく「私は話せます」という言葉がキーだし、冒頭の夢のあと、母からの電話で謝ろうとすると母が電話を切ってしまう後のシーンは主人公の母に対する気持ちがそのまま映像になっているシーンだと思います。つまり母に腹を立てているから、突然雨を降らせて母をずぶ濡れにし、リザベータに母を批判させ、最後はシャワーの水も出してやらない。途中も夢のような空想のようなシーンが次々に出てきますが、主人公以外の登場人物、例えば息子のイグナーツの空想だったり、時空を超えて現れた謎の女性がいるところへ老いた母が訪ねてきて、あら、部屋を間違えたわ、というシーンはまさに母が時代を間違えて現れてしまったということでしょう。こういう時空を超えたことは、映画だからこそできるのです。

最後のシーンは、そうした様々な悔恨を抱え込んで寝込んでいる主人公が、それでも、どうにかなるさと言いながら、死んだ小鳥を投げ上げると、小鳥は蘇って幼年時代へ戻っていく。このシーン、バッハのヨハネ受難曲が流れ、何度見ても目頭が熱くなります。今回もそうでした。最後の森の中へと引いていくのだって、フロイト的だと言われるかもしれないけど、母体回帰のイメージです。

それにしても、普通はどうにかなるさ、と言ってもどうにもならない、死んだ小鳥は生き返らない。それなのに、どうにかなるさ、と言って小鳥を生き返らせることができるタルコフスキーはなんとも幸せな人だな、と思います。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「惑星ソラリス」を見た

2017.05.04.23:32

渋谷の映画館、満席の中、最後から3人目の順番で見ることができた。

この映画を初めて見たのは1978年の夏のことだった。その時は先に原作を読んでいて、すっかり原作に参っていたから、メモには、原作の雰囲気はあるけど、よく分からない変な映画だったとある。その後、20世紀に6回映画館で見た。21世紀に入ってからは、おそらく映画館では見ていない。TVやCSでは何度か見ていると思うが。。。

2001年宇宙の旅と並び称される古典的SF映画の金字塔というのが、この映画に貼られたレッテルである。でも今回見てみて、この映画にSF映画のレッテルを貼るのは間違いだろうと思う。原作の設定がものすごく観念的なニューウェーブSFなんだろうけど、この映画はタルコフスキーの個人的な事情がかなりはっきりと出ている。このSF小説をネタに、監督は自分の個人的な思い出を語っている。

確かに、ソラリスステーションにいる(いた)4人は過去に対して人はどう対応するか、を示す4つのタイプに分類できそうだ。1)自殺したギヴァリャンは過去(罪)に耐えられなかったタイプ 2)過去(罪)を科学的な態度と称する客観的な見方で分析して乗り切ろう(やり過ごそう)とするサルトゥルリウスのタイプ 3)過去(罪)を仕方がないものとして諦めるスナウトのタイプ 4)過去(罪)を受け入れ、やり直そうとする主人公ケルヴィンのタイプ。

変な連想だけど、少し前に読んだ清水潔の南京事件の本のことを思い出した。単純にレッテルを張るつもりはないけど、南京事件の証言をした(しなかった)元兵士たちはどのタイプなんだろう? そしていうまでもなく、僕は??

あるいは前半の延々と長すぎるのではないか、と思えるような地球の自然描写。そしてやはり長すぎるんじゃないかと思える首都高速。タルコフスキーがわざわざ日本まで来て撮影したのだとソ連当局にアピールのために、あれだけ長く、あの単調な映像を入れたことが、タルコフスキーの日記から分かるそうだが、でも、結果的には、自然から文明(高速道路)に移り、文明の末路のようなゴミだらけの汚い宇宙ステーションに移動した末に、作り物の自然へ戻っていくという図式を考えると、あの高速道路の単調な映像も必要だったのだろうと思える。

だけど、そんなことより、今回見てて、後のタルコフスキーの映画をいくつも連想させるシーンが、すでにこの映画の時点で満載なのが気になった。例えば、あの故郷の家の感じはサクリファイスの燃える家に似ていたし、その庭から見える谷の風景はノスタルジアに出てくる思い出の風景に似ていた。それは鏡の風景にも通じるものがあった。この映画の本題とはまるで関係なさそうな母親と妻との葛藤の話題も、そしてその二人が似ているのも、鏡の中で描かれるのと同じだ。

つまり、タルコフスキーという監督は極めて個人的なことを、作る映画の中に押し込んでいて、それが普遍性をもつように作っているのである。

全くむちゃくちゃな連想だが、この極めて個人的なことを作品に込めて、それが普遍性をもつ、誰もがそれを自分のことのように感じるようにできる点で、友川カズキを思った。

至福の数時間だった。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「エル・スール」(ネタバレ)

2017.04.15.00:26

IMG_0593.jpg
ビクトル・エリセが「ミツバチのささやき」から10年後に作った第二作目の映画。この映画を見たのは30年前だった。当時は独身だったし、父親と娘の関係なんてよくわからなかった。父役のオメロ・アントヌッティは随分老けている印象だった。今、自分がこの時のアントヌッティよりもずっと年上になり、娘もいる身になった。でも、見方が何か変わったかと言われると、よくわからない。ただ、見終わって胸潰れる思いがしたのは、映画の内容だけではなく、この30年の年月を思ったからだろう。

父と娘の関係を描いた映画だが、娘は7、8歳の時と15、6歳の時で俳優が変わる。特に幼い時の父は魔術師である。振り子を使って、生まれてくる自分を女の子だと言い当てたり、荒野の中を水脈を探し出したりできるし、部屋にこもって何かの実験をしている。

だけど娘は、父がどうやら過去にスペイン内乱のせいで別れた女性を未だに忘れられないらしいことに気がついてしまう。そして父がそれに悩み続けていることも知る。

この後、この7、8歳の娘が自転車で並木道を去っていき、その同じ画面で今度は向こうから15、6歳になった彼女が戻ってくるというシーンの素晴らしいこと。この映画はこれ以外にも、シーンの転換場面が素晴らしい。

15、6歳になった娘はクラスの男の子に恋されている。子供の頃によく遊んでいた庭のブランコもすでにない。父の魔術の象徴のような振り子も、すでに使わなくなったと言われている。ここら辺の娘の父親を見る目の変化の表し方が素晴らしい。彼女はすでに父親を魔術師ではなく、普通の人間、過去の恋に苦しめられている一人の人間として見ている。そして、最後、少女は父が決して戻ろうとしなかった南の地、つまり父の過去へ向かう決意をするところで終わる。

映画の各シーンの密度の高いことは、「ミツバチのささやき」以上だと思う。室内のシーンでは微妙に光加減が変化して行き、実に美しい。聖体拝領のシーンで、教会を嫌っていた共和派の父親が柱の陰から姿を表すシーンの光と影のコントラストなんか、ものすごい立体感のあるシャープさ。

「ミツバチのささやき」でも、舞台にはスペイン内乱が影を落とし、父親は共和派の支持者だったことが暗示されるシーンがあるが、「エル・スール」ではもっとはっきりと、父が共和派の支持者で、そのせいで監獄に入れられたことがあると言われている。

この映画の続編として、亡き父の足跡を辿る娘の話が映画になっても良かったんじゃないかと、そんな気がした。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

最悪のトラウマ映画「ポゼッション」

2017.03.22.15:37

「エイリアン」は怖かった。生涯であれほど怖かった経験はあまり思い浮かばない。

1970年台後半。当時「スターウォーズ」や「未知との遭遇」、さらに「2001年宇宙の旅」のリバイバルがあったり、ちょっとこれらとは一線を画するけどタルコフスキーの「惑星ソラリス」なんかもあって、SFブームみたいな感じだった。そんなSFの一環として、ほとんど予備知識を持たずに映画館に入ったら、これがものすごいホラー映画じゃないの。怖くて怖くて、もう映画が終わって映画館を出たら首が回らないぐらいカチカチになっていました。

その後もしばらくは普通の映画でも、静かなシーンで登場人物たちが耳をすませているような場面では心拍数が異常に上がったものでした。私ホラー映画って全くダメなんですよ。

だけど、今回の「最悪」トラウマ映画は「エイリアン」ではありません。ポーランドの監督アンジェイ・ズラウスキーが作った「ポゼッション」という映画です。イザベル・アジャーニが体当たりの演技をしたことで有名ですが、まあ、あまり見たことのある人はいないでしょう。同じ題名の実話ホラー映画もあるようですが、ここで取り上げるのはホラーとは全く銘打ってません。

長期出張から帰ったらアジャーニ演じる妻がどうも男を作ったようだ、というわけでそれを追う夫の話なんですが、舞台は壁があった時代のベルリン。イザベル・アジャーニというのは、私の世代だと「世界一の美人女優」と言っても賛成する人は結構いたと思います。清楚でフランス人形みたいな「超」の字を付けていいような美人。この美人が、エイリアン?ウェルカム!って言いたくなるような、ものすごいぐちゃぐちゃの、イカかタコか宇宙人か、それとも何か巨大な動物の血まみれ脂肪まみれの臓物か?っていうような、もう筆舌に尽くしがたい気持ちの悪い怪物と H するんですよ。

それだけじゃないっすよ、この美人女優が地下通路で頭を振り乱し暴れまくりながらゲロを吐く。それもとめどなく。。。完全に私のイザベル・アジャーニのイメージがガラガラと音を立てて崩れ落ちていきました 笑)まあ、もっともこの人「アデルの恋の物語」とか、憑かれた女をやる人ではあったけど。。。ポゼッションというのも憑かれることだし。。。

私が大ファンの町山智浩さんのYouTubeにあった有料解説、出だしのところだけしか聞けませんが、ここに貼っておきます。


映画そのものは何か愛の不毛みたいな高尚なテーマか、と思って見ていたら、何の前振りもなく、突然グロテスクという言葉を絵にするとこうなるか、っていうようなバケモンが出てくるんだもの。ぶっ飛びました。その後も、あのバケモンがまたいつ出てくるか、と怯えながら見ていると、あっさり出てこなくなっちゃうんですよ。

最後のシーンなんかを含めて、あちこちにもう一度見てみたいというようなものがあるんですが、あのバケモンを見るのは金輪際ごめんです。貼り付けたYouTubeにアジャーニと絡む怪物のスチール写真が二つちらっと移りますが、はっきりわかる方の写真は映画に出てきたのとはかなり違います。これは撮影用じゃないかなぁ。。。何れにしても映画の中で出てくるのはこの角度ではないです。まあ、こちらも数十年前に一度見ただけなので、記憶がかなり捏造されているかもしれませんが 笑)



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

地球が滅びるときに見ていたい映画

2017.03.14.23:59

いやぁ、忙しくて、その忙しさに輪をかけたのがスマホ購入。ずっとガラ携だったんですが、先週末1日潰して変えたんですよね。そしたらその日の夜から忙しくなって、何も手につかず、メールも送れないまま、というかアップルIDも取得できないまま。。。やれやれ、どうなるんだ??

というわけで、そういう忙しい時にはあえて、表題のようなことを書いてみようというわけで、私の一番好きな映画は何?と言われたら即座に、タルコフスキー監督の「鏡」です、と答えます。最初に見たのは1980年の6月。岩波ホールでした。最初に見たときはなんだかよく分からないけど、やたら綺麗だった、という感じでした。風と土と水、そして何より火がこれほど意味ありげに出てくる映画はないでしょうね。

IMG_4595_convert_20170315002956.jpg

タルコフスキーは、その前に「惑星ソラリス」を見ていて、これもまた不思議な雰囲気の映画なんですが、これは原作を先に読んでいて、映画ではラストが全く違い衝撃を受けました。その監督が作った映画ということで、かなり気合が入っていたと思います。

一度見て、なんかよく分からないと思いながら気になって気になって、一週間経たないうちに、当時よく一緒に映画を見ていた友人が見に行くというので、じゃあ、俺ももう一度見る、とついて行ったのでした。

二度目に見たとき、台詞の中に「リヴャートキン大尉の姉でスタヴローギンの奥さん」という言葉に、たまたまその少し前に読んだばかりのドストエフスキーの「悪霊」の登場人物だ、ということがピンときて、この映画には、ただぼんやりと映像美といって済ましてはいけない、かなりたくさんの不思議な謎かけがある、と思ったのでした。

冒頭の、映画の中身とは何の関係もないTVを見るシーン、吃音の青年が「私はしゃべれます」という言葉で始まり、最後の「どうにかなるさ」と言って死んだ(?)スズメを投げ上げると生き返って幼年時代の故郷へ飛んでいくシーンまで、冒頭のバッハのオルガンコラールの「古き年は過ぎ去りぬ」から最後の「ヨハネ受難曲」の冒頭の合唱まで、もう今思い出していても、気持ちが高ぶります。

この映画の大きな枠は、「私」という現実には病気で臥せっている男の夢と思い出と想像からできていて、「私」の気分によって夢の中の出来事もいろいろと改ざんされていきますし、思い出もそうなのだと思います。何しろ不思議な映像がたくさん出てきて、いろんな謎解きに誘います。

この映画はビデオなどなかった時期、ぴあという情報誌をいつもチェックしていて、都心でやると必ず見に行きました。多分映画館で20回ぐらい見ていると思います。法政大学の学園祭にまで見に行きました 笑) 今パンフレットを見たら、半券が9枚貼り付けてありましたが、他にもまだ京王笹塚や池袋文芸座などのビラが挟まってました。

IMG_4596_convert_20170315003029.jpg

その後21世紀になってDVDを買ったんですが、これを見たのは結局の所1回か2回か。。。やっぱり映画館で見たいですね。というわけで、地球が滅びるときにはこの映画を見ていたいんですが、地球が滅びるときに映画館が果たしてやっているかどうか。。。

1984年、タルコフスキーが亡くなり、それとほぼ同じ頃、池袋のデパートの地下にあったスポーツ用品コーナーのエンドレスビデオでツール・ド・フランスの映像が流れていたのでした。5分ぐらいの映像でしたが、その前におそらく2、30分立ち止まったまま、呆然と繰り返し見ていました。今から思えば、あれはアルプスで、ロバート・ミラーだったんじゃないかと思うんですね。華奢な金髪をなびかせたその姿にウットリしましたね。こうして、僕の映画の時代が終わり、自転車に夢中の時代が始まったのでした 笑)

というわけで、タルコフスキーの映画については、「鏡」に限らず、いずれまたもっと詳しくご紹介してみたいと思っています。


よろしければ、下の各ボタンを押してくださいませ。

にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「誰がため」

2017.02.23.23:57

やれやれ、恒例のぎっくり腰をまたやってしまいました。土曜日の夜、ツタヤで借りてきたデンマーク映画「誰がため」を見終わって、ソファから立ち上がろうとしたらピキッ! あっ、と思ったらもう遅い、いや〜な違和感が骨盤のあたりに、階段を上って寝室へ行こうとするも、途中からなんとも言えない痛みが。。。なんでしょうね。腰の蝶番が外れて、骨盤が横滑りしちゃうような力の入らない感じ。そして痛み。。。最後の二段は四つん這いになって登ってベッドに転がるように横になりました。

なにしろベッドの上に横になってるしかないし、できれば横向きで寝返りだって打ちたくない。というわけでできることは本を読むしかない。前回は一昨年の11月で、武田泰淳なんかの小説がずいぶん読めたんですが、今回は去年の暮れから寝る前に少しずつ読んでいた電話帳みたいな上下二段組650ページの「昭和の名作名探偵」なんてのが読み終わっちゃいました 苦笑)



で、恨みのデンマーク映画。デンマークってナチスドイツが攻めてきた時1日で降伏しちゃうんですね。この映画はこの時代の二人のレジスタンスの暗殺者を描いた映画です。彼らはドイツ人を直接は狙わないんですね。下手にドイツ人を殺すと報復がひどいから。まあ、デンマークって文化的にも人種的にもドイツ人と近いから被占領国と言っても、スラブ系のポーランドとかベラルーシやウクライナみたいなひどいことはされなかったみたいなんですけど、それでもドイツ人一人殺されれば、無実の一般デンマーク人がまとめて何人も殺されちゃいかねない。なので国内のナチシンパのデンマーク人を暗殺する。だけど、どうもその指示を出している奴が、イギリスからの指示だと言いながら、私腹を肥やし、それを知る者の口封じに彼らを使っているんじゃないかという疑いが出てくる。自分たちが暗殺したデンマーク人たちは本当にナチスのシンパだったのか、敵はどこに? とまあ悩む話です。

暗殺者というと、私などはアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」のマチェク、ポーランドのジェームス・ディーンなんて言われたズビグニェフ・チブルスキーを思い出すんですけどね。もっともこちらは終戦直後で、暗殺の対象はソ連の要人です。これも説明をサラっとしておくと、ポーランドの反ナチレジスタンスには、ソ連の肝いりの共産主義者たちによるものと、ポーランド民族主義者たちによるものがあったんです。ナチという共通の敵がいた間は問題なかったけど、敵がなくなり、今度はこの二つの勢力が争うことになる。マチェクは民族主義者たちのグループの暗殺者というわけです。



この映画はもう古典で、マチェクが暗殺したソ連の要人がマチェクに倒れ掛かり、それを抱えたマチェクの背後で花火が打ち上がるシーンとか、廃墟の教会の中の逆さづりのキリスト像とか、もちろん最後のゴミ捨て場に干してあるシーツのシーンとか、映画の教科書に載りそうなシーンがたくさんあるんですが、何より、あの時代にレジスタンス崩れの反ソ連の暗殺者の悲劇なんていう映画がよく作れたものだという映画です。

で、デンマーク映画に戻ると、二人の暗殺者が片方は有名なマス・ミケルセンで、この人の映画はこのところ「ザ・ドア」というドイツ製のSF映画と「バトル・オブ・ライジング」という歴史物を続けてみていて、結構お気に入りの俳優なんですが、もう一人の方、トゥーレ・リンハートという赤毛の役者がやった暗殺者がものすごく良かったですね。落ち着き払っていて、立ち居振る舞いが、なんかフランスのフィルムノワールの殺し屋、まあ有名なところではアラン・ドロンとかでしょうかね、そんな雰囲気がありました。

さらには、ドイツのゲシュタポの将校をやったクリスチャン・ベルケルという俳優も、非常に特徴的な強面のドイツ人なんですが、「ヒトラー最後の12日間」では比較的まともな軍医の役、「エス」では主人公とともに大活躍する役で、今回もなかなか深い役どころです。比較的得な役柄の多い人のような気がします。顔はかなり怖いけどね 笑)


よろしければ、下の各ボタンを押してくださいませ。

にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「エゴン・シーレ 死と乙女」覚書き (ネタバレ)

2017.01.31.00:59



破戒なのか革命なのか
関節のゴツゴツした音は
たまげた構図の中で休む
エゴンシーレは誰なのか(友川カズキ「一人ぼっちは絵描きになる」)

というわけで、土曜日(初日)に見てきたんですが、忙しくてやっと覚書き程度にまとめました。エゴン・シーレという画家が好きかと言われると、嫌い、でも気になる、と答えますかね。

1979年に池袋の西武デパートの上の方にあった美術館で本邦初のシーレの展覧会があった時には見に行きました。その時の印象は死体みたいなグロテスクな色のヌードの女や自画像、しかも陰部を強調するかのように赤く塗ってあって、言葉として最初に思い浮かんだのが「痛ましい」っていう言葉でした。

その後マチュー・カリエールという、「陰鬱」っていう言葉を顔にするとこういう顔か、っていう俳優がやった「エゴン・シーレ」の映画も見に行きました。これは一回目に見たときには人物関係がよく分からなくて、多分その後も2、3回見たはずです。映画自体もあちこち話が飛んでわかりづらかった記憶がありますね。シーレの悲劇的な人生を描いたものでしたが、主役のカリエールの陰鬱な表情と枯れたヒマワリ以外、出てくる風景も女性たちもきれいだし、シーレのあの陰惨な絵のイメージがあまりなく、むしろシーレという人の悲劇性が強く前面に出ていたような印象があります。特に、有名な未成年女児誘惑事件で留置されたシーレが解放された時のシーンが、最後の、エゴンが死んじゃった、と叫ぶ妹の声の後に繰り返され、シーレにとってこの世とは留置場のようなものだったという暗示なのでしょう、そんな終わり方をしてました。

今回の「エゴン・シーレ 死と乙女」では、シーレを囲む女性たちを大きく扱っていて、前の映画では出てこなかった妹ゲルティとの関係や、踊り子モアも重要な登場人物です。特に妹ゲルティとの近親相姦じみた関係は前の映画にはなかったものです。前回の映画もそうですが、今回のはさらにシーレの人生を正確になぞっているようです。この画家が、描く事を何よりも大切にしていて、それこそ「コト」の最中にも、鏡を見てスケッチを始めちゃうような困った人であったことがよくわかります。そもそもが、自分にとって最も大切なはずの、長年連れ添ったモデルのヴァリーを捨てて別の娘エディットと結婚してしまい、あろうことかヴァリーには愛人でい続けてくれ、と頼んじゃうような非常識さ(しかも現実にはエディトの姉とも関係があった可能性が高い)。

このヴァリーという女性もクリムトのモデルだったのに、シーレに「払い下げられて」専属モデルになり、長年連れ添った挙句、シーレは別人と結婚し、第一次大戦の従軍看護婦として23歳で戦病死してしまうかわいそうな人ですし、シーレが結婚したエディトもシーレの死ぬ直前に同じスペイン風邪で死んでしまうわけで、お気の毒な方です。しかもその瀕死のエディトのスケッチをシーレは高熱に苦しみながら描くというすさまじさ。

映画は、シーレがまさに今瀕死の状態にあるところから始まります。瀕死のシーレを救おうと奔走する妹のゲルティと、それと交錯するように、10年ほど前の、妹のゲルティをモデルにしてヌードを描くシーレから始まり、踊り子モアと画家仲間たちと芸術家コロニーを作ろうとして失敗したエピソードが続きます。その後、クリムトから譲られたモデルのヴァリーとの生活、そして家出少女を泊めたことから未成年の少女誘拐・強姦の疑いをかけられた裁判という有名なエピソードが描かれます。この裁判は結局無罪になったけど、ポルノ画家扱いされて、作品の一つを燃やされてしまうわけです。その後、第一次大戦が近づく頃、エディトとアデーレの姉妹と知り合い、エディトと結婚して、兵役に就いた後、間もなくスペイン風邪で死ぬという始まりのところへ戻ってきて輪が閉じたように終わります。

歴史的事実としては死の半年ほど前に開かれた展覧会で大成功を収めるんですが、映画ではそれはあまりわからないですね。

シーレが好きなら、いろんなシーレの絵が出てくるし、「死と乙女」というシーレの有名な絵の題名の由来もわかって面白いのではないでしょうか。ただし、あの絵の成立と題名の由来が本当に史実に基づいているのかどうかは知りません。何れにしても、ネットででも予備知識をつけていった方が楽しめると思います。


よろしければ、下の各ボタンを押してくださいませ。

にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村

映画「アイヒマンを追え」覚書き(ちょっとネタバレ)

2017.01.23.00:16


このところ、フリッツ・バウアーという、戦後ドイツでアイヒマンを追いかけ続けた検事の出てくる映画を3つ見た。ここでも紹介した「顔のないヒトラーたち」、ツタヤで借りてきた「検事フリッツ・バウアー ナチスを追い詰めた男」

そして今上映中の上の映画。

これらの映画を見て思うのは「顔のないヒトラーたち」でも書いたことだけど、やっぱり日本にはフリッツ・バウアーがいなかったというのが残念だった、ということだ。東西冷戦の中、アメリカは共産主義ソ連に対抗するために、西ドイツでも日本でも保守的な政権を望んだ。それに乗じてドイツではナチ残党が、日本でも軍国主義者たちが政府や民間企業でも要職に就くことができたわけである。そんな中で南米へ逃げたアイヒマンを逮捕する術(すべ)を模索し、アウシュヴィッツで残虐行為を行った者たちを裁く裁判を始めたのがフリッツ・バウアーだった。あえて強引に日本に当てはめれば、例えば、人体実験で細菌兵器の開発を目指した731部隊の関係者を訴追したようなものだろうか。

「顔のないヒトラーたち」では主人公の若い検事が、周囲の敵意の中、孤軍奮闘しながら、アウシュヴィッツの死の天使と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレを捕まえようとする。そして、主人公の上司として登場し、主人公に、徹底的にやれ、と後押しするのがフリッツ・バウアーだった。

さらに「検事フリッツ・バウアー」ではまさにバウアー自身が主人公で、アイヒマンを捕まえるために東ドイツ検察やイスラエルの諜報局モサドとつかず離れずの微妙な位置を確保しながら、ナチスの残党が跋扈するドイツの検察や情報部と対決し、さらには首相アデナウアーの側近で元ナチの大物グロプケを裁判にかけようと奮闘する。

「アイヒマンを追え」でもほぼ同じで、アイヒマンを捕まえようとするフリッツ・バウアーがモサドと駆け引きするが、こちらでは東ドイツ検察との関係は出てこない。むしろ、「検事フリッツ・バウアー」より以上に元ナチの連邦刑事局や検察内部の元ナチの悪辣さが強く出ている。

この二つの映画はほぼ同じ時代を扱っていて、登場人物にも事件の推移にも、バウアーのセリフにも重なるところがいくつも出てきて、その点でも面白い。そしてどちらの映画でも(「顔のないヒトラーたち」も)バウアーが信頼する部下がフィクションである点も共通している。

「検事フリッツ・バウアー」では検察の腹心の部下が実はドイツ情報局に情報を流していたという設定で、「アイヒマンを追え」では、同じく腹心の部下が同性愛者(バウアーもそうであることはどちらの作品でも大きく扱われているが、当時同性愛は法律上禁じられていた)で、その情報が連邦刑事局に知られることになる。

東西冷戦体制の中、ナチス時代には何度も殺されそうになった反ナチスのアデナウアー首相は、元ナチスの大物グロプケを確信的に側近にしていた。東ドイツはここを突いて、保守派のアデナウアーを失脚させようと目論む。アメリカも、アデナウアーが失脚して東ドイツに付け込まれるのは困るので、元ナチを断罪するどころではない。

一方、国が出来て間もないイスラエルも、アラブとの戦いで手一杯で、元ナチを追求することに熱心ではない。むしろ、ドイツから援助金や武器を提供してもらいたがっているから、変にアデナウアーを刺激したくないわけである。

前に書いた「ジェネレーション・ウォー」で、主人公の5人組の一人だった歌手志望の娘を弄んだ挙句に収容所送りにして殺したナチの高官が、戦後アメリカ軍の元で仕事をしているシーンが出てきた。結局この男は映画の中では何らお咎めなしだった。あのシーンは、つまり、実際の戦後ドイツの姿だったわけだ。そして、このフリッツ・バウアーをはじめとした若手の検察官たちによって、アウシュヴィッツ裁判と呼ばれる一連の元ナチの親衛隊員たちのアウシュヴィッツでの残虐行為を裁く裁判が行われて、ドイツ人は過去と向き合うことになり、現代のドイツがある、ということになる。では日本は?

ただし、これでドイツすごい! フリッツ・バウアーすごい! と手放しで称賛するわけにはいかない。少し前に紹介したティモシー・スナイダーの「ブラックアース」によれば、アウシュヴィッツ以外の方がユダヤ人やポーランド人、スラブ人の殺害数は圧倒的に多かったという。「ドイツにとってアウシュヴィッツは、なされた悪の実際の規模を著しく小さなものに見せるので、比較的扱いやすい象徴であり続けている」。アウシュヴィッツだけを問題にするのなら、その他の犯罪的行為を不問にすることになる。ただ、それでも日本と比べれば雲泥の差なのは言うまでもない。



にほんブログ村 自転車ブログへ
にほんブログ村
 HOME 

プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと努力しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

カテゴリー

openclose

マガジン9条

FC2カウンター

Amazon

ブロとも一覧

検索フォーム