傘を忘れて豪雨の中、新宿駅から100メートルぐらいのところにある映画館まででずぶ濡れになりました 笑)

無声映画の大傑作というか、映画史を語る時に必ず最初の方で出てくる「カリガリ博士」の現代版という触れ込みに惹かれて見てきましたが、なるほど、映像的にはすごいです。背景の街の風景が、上の写真のように大きく歪んでいて、「カリガリ博士」の抽象的な背景を、リアルなウィーンの街にした感じです。ほとんどがブルーバックの合成だということですが。。。
だけど、背景の歪み以上に、画面の傾きが気になりましたね。普通の室内の風景でも、必ず画面が微妙に傾いていて、これだけでも不安感、不安定感が感じられます。それと画面がずっとセピア調のくすんだような暗い色合い。
時代は1920年後半。主人公は第一次世界大戦に出征して、ソ連に抑留後解放されてウィーンに戻ってきた、元敏腕刑事ペーター。この刑事役の俳優がトルコ系らしいんですが、ものすごい存在感のある顔で、むちゃくちゃ良いです。
その元刑事と一緒に復員してきた仲間たちが次々と殺されていく連続猟奇殺人事件が発生します。
オーストリアは現在ではほとんど存在感のない小国ですが 笑)中世以来、ハプスブルク大帝国だったわけで、ナポレオン以降落ちぶれつつあったとはいえ、第一次対戦前は、現在のポーランド南部からチェコスロバキア、ハンガリー、クロアチア、スロヴェニア、ウクライナやルーマニアの一部、イタリア北部等々を領土とする多民族国家として中部ヨーロッパの大国だったわけです。それが第一次大戦で中部ヨーロッパの領土をほぼ失い、皇帝も廃位、カトリックの信仰も揺らぐ状態になってしまった。
そうした大きな変化と不安の時代の雰囲気が、歪んだ建物や傾いた画像、暗い画面でうまく表されていました。どことなく
以前3回にわたって紹介した「バビロン・ベルリン」の雰囲気があります。出てくる女優も同じだし。
映画としてとても面白かったです。主人公を同じにしてシリーズにできるんじゃないかとすら思いました。ただ、二箇所、どうもおかしなところがあります。一つはバウアーの射殺。もう一つは終盤のシュテファン大聖堂でのミサはどうなった?? 特にミサの方は、見終わってどうにも納得いかん。あの箱はどうなったの? 私なんか見落としてる??
というわけで、時代がとても気になる時代で、その意味でも面白かったし、雰囲気がとてもいい感じで、映画を見る楽しみは満喫しましたが、お話が破綻しているような気がするんですよねぇ。。。
***追記(9/15、22:45)
うーん、ひょっとして、シュテファンドームでの「箱」は嘘だったのかなぁ。。。そんな気がしてきました。これ以上書くとネタバレになるのでやめますが、そうだとしても、どうも納得できん!
***追記(9/15、23:15)
今、ネットで予告編を見てて、警視のヴィクトールという主人公の友人が出てくるんだけど、この人が最初に登場するシーンはものすごくいいシーンなんですよ。この人をもっと活躍させればよかったのに、という気がしてきました。前半のエピソードなんかも意味ありげなのになぁ。。。そういうわけで、映画を見る楽しさは90点ぐらいつけていいけど、お話としては60点かなぁ 笑)
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暑い暑い新宿で先ほど観てきました。金曜日の12時半からの上映で、もっとガラガラかと思ったけど、20人ぐらい入ってましたかね。
原作のシュテファン・ツヴァイクの「チェスの話」はものすごく面白い小説です。だからこの映画、途中までは原作にない奥さんやゲシュタポの検事がでてきたり、友人が拷問で殺されたり、また特に隠しておいたチェスの本が見つかったりして、不満でした。
そもそも原作は最初、チェスの王者でありながら言葉すらまともに話せない無教養な男という魅力的な人物が出てきます。それが主人公かと思うと違っていて、チェスのコマに触るのは25年ぶりという男がそのチェスの王者と対等に戦い、その理由を「わたし」が聞くという結構になっています。
ウィーンの弁護士だった彼は、管財人として修道院の財産を管理していたんですが、それを奪おうとするゲシュタポの心理的拷問で、なにもない部屋に一人で閉じ込められて気が狂いそうになります。だけどチェスの本をうまく手に入れて、そこに出ていた150の歴史的な棋譜を丸暗記して、果ては自分を相手に頭の中でチェスをすることで名人級の腕になったわけですが、「チェス中毒」という狂気にも陥ってしまいます。
確かに原作はゲシュタポから逃れる経緯がちょっと都合良すぎるような気がしたし、最後のパニックはこういう終わり方にしてしまうのか、と思ったものでした。
だけど、映画では最後の方になると、この設定を崩して、ええっ?? と思うようなどんでん返し。原作の最後のパニックをこういうふうにしたのは、おおっ、と思いましたね。
最初は、原作が好きな小説だっただけに、あ〜あ、ちょっとやりすぎだろ、と思っていたんですが、見終わって、チェスの王者をあるものの象徴として描くところなんかは、なるほどなぁと思いました。でも、そこまででよかったと思うんだけどなぁ。。。最後の「カリガリ博士」を思わせるオチはどうなんでしょうねぇ 笑)
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昨日のニュースだけど、映画についてもずいぶん書いた拙ブログとしては一言入れておこう。正直、あんまりゴダールの映画を面白いと思った記憶がないんだよねぇ。むろん「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」、他にも「アルファヴィル」とか「男と女のいる舗道」とか「軽蔑」とか、「ゴダールのマリア」とか、「パッション」とか、思いつくままに題名をあげてみたが、うーん、あまりはっきりと覚えているところがない。
特に「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」は複数回見ているけど、どうも見ていて楽しくなかった。トリュフォーはまだ面白かったけど、ゴダールはどうも僕の感性に合わんな、ということだった。要するに画面から抒情性が感じられなくてね。SF映画の「アルファヴィル」も全然ダメだったなぁ。「ゴダールのマリア」なんか2部構成で1部はなんとかいう女流監督が撮って、2部はゴダールが撮ったという触れ込みだったけど、2部より1部の方が面白かった記憶がある。音楽に凝ったり、映像色彩に凝ったりしているのだろうけど、どうも僕には面白さがわからなかったなぁ。
というわけで、一応、映画についてもよく書くブログでもあるので、映画史に残るゴダールの死去を機会に書いておきます。しかし、自殺幇助制度なんてのがあるのね。現時点では日本でこんな制度はできませんように、と言っておきます。
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1967年のチェコの2時間45分の白黒映画です。13世紀のボヘミアが舞台。当時のこの地域って地主は盗賊みたいなもので、雪の多い寒い気候と狼だらけの森の中、汚い毛皮の服を身にまとい、城というより高台の廃屋みたいなところに住んでいて、王の外国人使節を襲って人質を取ったりして生活しています。
登場人物も入り組んでいて、途中で誰が誰だかわからなくなります。しかし、白黒の画面がとても綺麗です。フライヤーには「『アンドレイ・ルブリョフ』や『七人の侍』などと並び評され」とありますが、まあ、白黒の映像的には確かに方向性は似ているかなぁ。細部にこだわる大道具小道具の類も同じものを感じます。最初の方では
ゲルマン監督の「神々のたそがれ」を思い浮かべたりしましたが、あそこまでぐちゃぐちゃではないですが 笑)
サイレント映画のような画面いっぱいの説明文が出てきて、この後のシークエンスが先に説明されるんですが、それでもなかなかストーリーがわかりづらいし、そもそも登場人物の見分けが、特に最初の方ではまるでつきません。もう一度見ればずいぶん違うのでしょう。ただ、もう一度行くかなぁ。。。??
BGMが結構すごくてグレゴリオ聖歌のような短旋律で、ヴォカリーズのようでありながら、明らかに歌詞があるところもあって、映像と明らかに関連していることを歌っているんじゃないかと思ったんですが、字幕がないので、実際はどうなのかわかりません。
中世のこの地域はキリスト教が人々の間に行き届いている時代ではないけど、立派な教会の修道院(これだけが唯一この映画の中で出てくる清潔感がある綺麗な場所です)が丘の上に聳えていたりします。主人公のマルケータもその修道院へ入ることになっていたんですが、隣の地主の盗賊騎士に攫われて暴行されたにも関わらず、互いに恋に落ちてしまうというのがメインのお話。
しかし、裏を読めばこの時代のキリスト教と土着の信仰のせめぎ合いなのかな、なんて思いました。途中に何度も出てきて、ナレーションと語り合う(?)乞食修道士も、キリスト教の教えに基づいて生活を送っているようには見えません。
たとえば、ベルイマンの「第七の封印」や「処女の泉」なんかも、キリスト教と土着の信仰の対立が出てきます。ただ、この二つの映画のベルイマンは、その後のベルイマンからは想像もつかないことですが、明らかにキリスト教信仰に肩入れしていますが。また、
タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」にもキリスト教の教えに反する土着の乱行パーティーのようなシーンがあり、それは官憲によって取り締まられていました。
チェコ映画は
以前ここでも紹介した「火葬人」(1968年)がものすごい映画で、いまでも時々思い出すような強烈なインパクトがありました。あの映画も今回のものもほぼ同じ時期の映画です。
この時期のチェコ映画はこの映画と同じ67年の映画で、アカデミー外国語作品賞をとったイジー・メンツェル監督の「厳重に監視された列車」という、艶笑譚のようなユーモラスな話が最後の5分で全部ひっくり返るような衝撃的な終わり方をする映画もありました。
他にも65年の「大通りの店」なんて、この時代の共産党政権のもとで、よくこんな話(ナチスに併合された時代にナチスに協力したチェコ人たちと無関心だった主人公)を映画にできたな、と思うような映画もあって、いわゆるチェコ・ヌーヴェルヴァーグの時代だったんですが、68年夏にワルシャワ条約機構軍が「プラハの春」を潰して、チェコ映画の春も終わってしまったのでした。
さて、個人的には好きなタイプの映画ですが、この暑いなか、すでに4回目のワクチンは打ったとはいえ、渋谷の照り返しのひどい中をもう一度見に行くというのは、うーむ、ちょっとなぁ。
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見たのはほぼ1週間近く前。今年初めての映画館でした。お客さんは10人居なかったですねぇ 笑)
1931年ベルリン、大学を出てタバコ販売のコピーライターをしている作家志望の青年ファビアンが、法学士で映画会社で働きながら女優を夢見るコルネリアと恋人になる。映画を一言で言えば恋愛映画だ。ファビアンはとても善良なやつで、でも世渡りが下手だから仕事をクビになる。一方彼女の方はとんとん拍子で女優への道を駆け上がる。
ファビアンには親友がいる。大金持ちの息子で文学博士号を得ようとするラブーデ。二人はこのワイマール共和国末期、ナチス台頭期の怪しげな、爛熟したベルリンの街のキャバレーを夜な夜なうろつく。
拙ブログでも紹介した「バビロン・ベルリン」やライザ・ミネリ主演の映画「キャバレー」の時代だ。街のあちこちにナチのポスターと共産党の落書きがあるけど、映画の中では政治的な混乱はあまり描かれない。最後の方で大学が、徐々にナチのシンパや党員に乗っ取られていくのだろうということが少し暗示されるぐらいだ。
映画はいろんな伏線が貼ってあって、出だしからしてものすごくおしゃれ。現代のベルリンの地下鉄駅を移動撮影で通路を通って階段を上がると、そこは1931年のベルリン。この時代は、よく現代に通じるものがあると言われるし(監督もそれを意識していると言っている)、拙ブログでもなんとなくそういうイメージで書いたことがある。インフレと失業で貧富の差は広がり、社会は不寛容になるとともに閉塞感に満ちている。
こう書くと、たしかに現代に通じると思うけど、キャバレー文化の爛熟のイメージは、今の日本にはないような気がする。若い人たちはあんな自堕落でエロチックで活動的な生活を送っていないように思えるし(僕が知らないだけかもしれないけど)、あんなに活気があるようには思えない。
他にも街路で突然「つまずきの石」がアップになるシーンがある。これは20世紀末から始まったプロジェクトで、ナチスの時代に迫害されて殺された人たちが住んでいた家の前に埋め込まれた金色のプレートで、これも現在に繋がるイメージとして、わざわざアップにしたんだろう。なんとなく
ここで3年半前に紹介した「未来を乗り換えた男」を思い出していた。
あの映画では逆に現在のフランスで、ファシズム国家ドイツから亡命した難民の男女が、ドイツ軍が攻めてくるという情報に怯えながらメキシコへ亡命しようとする話でしたが、こちらは、街を行く人たちの服装や車は1930年ごろのものだけど、間に挟まれるのは白黒の当時の記録映像で、CGを使って当時の街並みを再現することはしないし、上記のように現在が紛れ込む。
他にも、何度も「泳ぎを習おう」というポスターが写るんだけど、これも最後になって伏線だったことがわかるし、途中友人のラブーデが銃口を覗き込むシーンがあるけど、これもある意味伏線だった。
所々に挟まる、ちょっと皮肉なナレーションがなかなかいい。ベルリンに来た母と別れる時に、ファビアンは20マルクをバッグにそっと入れておく。家に帰ると母が置いて行ったお土産の中に20マルク入っているのを見つける。やれやれという顔をするファビアンの顔に「数学的には差し引きゼロだが、優しさの方程式ではこの数字は残る」とかいうナレーションが被る。ラストは僕は好きなタイプだなぁ 笑) ファビアンが常に肌身離さなかったメモ帳が、ナチスの焚書の映像にかぶり、この後のベルリンがどうなっていくかが暗示されて終わる。
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岩波ホール、平日の午前の部は20人ぐらいでした 笑)
以前書いた「ゲッベルスと私」のシリーズ第二弾。前作はナチスの宣伝大臣ゲッベルスの秘書をしていた女性が100歳を過ぎてインタビューに答えたものだったのに対し、今回のはナチスに追われ、アウシュヴィッツを始め4つの収容所で6年かを生き抜いたオーストリア、ウィーンのユダヤ人の男性が、前作の女性と同様100歳を超えてインタビューに答えたもの。
前作とおなじく、カメラは固定で黒い背景を前に老人が語る姿を写し続ける。音楽もナレーションもインタビュアーのセリフもないのも、インタビューの合間に当時の記録映像などが挟まれるのも前作と同じ作りです。
今回はオーストリアの状況がメイン。オーストリアは現在では永世中立国だし、音楽の宮古ウィーンを首都にした小国で、平和国家のイメージがあるかもしれない。だけどナチスによるオーストリアの併合、いわゆるアンシュルスについては村上春樹の小説「騎士団長殺し」にも出てくるけど、これはオーストリアでは99%のオーストリア人(ユダヤ系は除く)が併合に賛成した。これは
以前紹介したテレンス・マリックの映画「名もなき生涯」の主人公が村で唯一併合に反対するという設定でした。
オーストリアは戦後はナチスによって侵略されたと称して、自分たちが率先して行ったユダヤ人迫害などの悪事には頰被(ほおかむ)りを決め込んだわけです。しかも、終戦後の最初の大統領となった左翼の政治家すら、収容所から解放されたユダヤ人たちが首都ウィーンに戻ってくることを禁じていて、明らかにナチでなくても、またナチの後も、反ユダヤ主義を完全払拭できてなかったことがわかります。
インタビューでも怒りを込めて語られますが、収容所で8歳から12歳の子供を集めて授業をしていたユダヤ人は戦後ビルの管理人として働いたが、そのビルを所有する大会社の重役には元SSが収まっていたそうです。
洋の東西を問わず、本来戦争責任を問われるべき人間たちが戦後、平和な時代になっても良い地位を占めたわけ。例えば日本ならA級戦犯の岸(安倍の祖父)が首相になり、オーストリアではナチス突撃隊将校で、ユーゴで残虐行為に関与した疑いがあったクルト・ワルトハイムが大統領になったように。
今回の主役男性は長年オーストリアで講演活動を続けてきた人だそうで、前回のゲッベルスの秘書の女性のような、言い淀んだり、沈黙が続いたりという、見ていてハラハラするようなところはなかったですね。その意味では映像として、前作の方が面白かったかなぁ。
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レオナルド・ダ・ヴィンチは高校時代にNHKで「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」というドラマに夢中になりました。このドラマを書籍化したものも手元にあります。これについては以前拙ブログにも書いたことがありました
http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-1076.html。
2005年に日本円にして13万円で落札されたボロボロの絵画が、2017年には500億円以上になって、絵画オークションで史上最高値で落札されます。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたとされるキリストの肖像「サルヴァトール・ムンディ」。そこに至るまで、そして落札後現在に至るまでを追ったドキュメンタリーですが、おもしろかったあ。
なにしろ17、8世紀ごろにはイギリス王室に存在(財産目録にある)していたことは確かだけど、その後100年以上どこにあったか不明だった絵で、そもそもこの絵がイギリス王室のものと同一かどうかもわからない。また13万で落札された時は5つに割れていたそうで、その後アメリカの修復家が修復したけど、その修復の仕方もヨーロッパの専門家からは批判されます。そもそもそれ以前にも(仮にこれがレオナルドの真筆だとしても)後世の加筆がかなり激しかったようです。
そんな絵を、美術商やオックスフォード大学の名誉教授、美術館の学芸員、ロシアの新興財閥やサウジの王子などなど、いろんな人がいろんな思惑で、レオナルドの真筆であると思い込む。
そこに本物であるかどうかには興味がないマーケティングの専門家が、みごなイメージ戦略でこの絵の価値を高めた結果、この絵は500億というとんでも無い額にまで高騰する。
一方で、これはダ・ヴィンチの弟子たち(=工房制作。ちなみに弟子や工房によるサルヴァトール・ムンディの絵は2、30枚あるそうです)によるものだと主張する専門家や学芸員も現れ、ルーブルでの展覧会で展示されると噂されていたのに、展示は見送られ、その後、どこにあるのかも不明のまま、現在に至る、というわけです。
一応500億で落札して所有しているのはサウジの、例のジャーナリストの殺害を命じたのではないかと噂されている王子らしいですが。。。(この映画の中ではこの事件についての言及は全くなしなのは、どういう思惑があったんでしょうね?)
うーん、トリノの聖骸布っていうのがあります。処刑されたキリストを包んだ布で、キリストの顔と体が布に転写されているというもの。まあ、現在の人でこれを本物だと信じる人はいないでしょうけど、キリスト教徒の中には信じる人もたくさんいるわけで、何年かに一回公開されるとものすごい数の人が集まって泣いています。
また、これも
以前拙ブログで書きましたが、例の偽ベートーヴェン事件の時のことを思い出しました。難聴の作曲家という触れ込みで「HIROSHIMA」という曲が、クラシックの曲としては大ヒットしたけど、実は別に作曲家がいたという話で、音楽に付随する「物語」が、僕らの「感動」にどれぐらいの影響力を持っているのか、なんてことを書きました。まあ、この事件もすっかり忘れられてしまいましたが、
森達也の「FAKE」というドキュメンタリーも紹介したことがありましたっけ。
つまり、今回の絵も展示会では涙を流しながら鑑賞している人がたくさんいるわけです。そして上記のマーケティングの専門家はそうした人たちの姿を感動的な映像にして、レオナルドの真筆であるというイメージを盛り上げたわけですが、その感動には、この絵の作者がレオナルドだという知識(先入観)がどれぐらい影響を及ぼしているのでしょう? 逆に、これがレオナルド個人ではなく、彼の弟子や追随者による作品だとしたら、それを知った上でもやっぱり涙を流せるのか? そうすると、芸術作品に感動するっていうのはどういうことなんだろうと思っちゃいます。同時に美術品のオークションや取引のダークサイドも、かなりおぞましいものがあることを教えてもらいました。
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ルーマニアのドキュメンタリーだけど、これがドキュメンタリーらしさがまるでない。出てくる人たちがみんな俳優のようにカメラを全く意識していない。そもそも新聞社の編集会議や大臣の執務室で、カメラが揺れることも音声が途切れることもなく、普段の様子を撮るってのだけでもすごいことだ。
2015年、ルーマニアでライブハウスの火事があり27人が亡くなった。怪我をした人たちは病院に運ばれ、それからしばらくして次々に死んで、結局全部で64人が死亡する。政府も病院も治療はドイツ並みの立派なものだったと言うが、良心的な医師や看護師が内部告発し、製薬会社が消毒薬を10倍に薄めていたことがわかる。さらに病院経営者や政治家が多額の賄賂を受け取っていたこともわかってくる。
何しろすごいよ、火傷で病院に入院している患者の体にウジが湧いてるんだから。その映像とともに顔出しで内部告発した女医さん、その後大丈夫だったんだろうか。
それを調査報道で、保健大臣をはじめ内閣総辞職に追い込んだのがスポーツ新聞社の編集長たちで、前半は彼らの活躍ぶりが中心になる。会見上で鋭い質問を飛ばし、製薬会社社長や病院経営者たちの張り込みをして追求していく。
一方、辞職した大臣の後釜として、正義感あふれる銀行家で慈善家の若い人物が職につき、中盤からは彼が中心になる。それとともに、途中何度か火事で重度の火傷を負い、手の指をほぼ全部失った建築家の女性が、自らの身体のケロイドをさらした写真活動の様子も挟まれる。彼女の大きな写真が大臣室の壁にかけられているのが何度も映る。
新大臣はそれまでの製薬会社と医療と政治の癒着に切り込んでいくのだが、敵対勢力による彼に対するネガティブキャンペーンも行われ。。。そしてルーマニアの総選挙が近づいてくる。。。しかし予想では投票率は低そうだ。。。
まあ、権力は腐敗する、国は必ず嘘をつくというのはどこの国でも同じようだ。同時にこの映画で映し出されているのはコロナ前の時代で、現在のルーマニアも御多分に洩れず極右排外主義・コロナはただの風邪的勢力が勢力拡大しているわけで、おそらく、この映画に描かれた利権と政府の腐敗ぶりはさらにひどくなっているんだろう。どうにもお気の毒である。
まあ、他国のことをお気の毒なんて言ってられるような立場にないのは、日本だって結局利権でがんじがらめの国になっているわけで、それは原発だってそうだけど、今回のコロナ騒動でも中抜き利権のためにアベノマスクをくばったり、GoToトラブルならぬトラベルやったり、無理無理のオリパラやって、患者が激増してもオリパラのせいじゃないと言い張ったわけだからね。利権を全てなくせ、なんてのは無理だけど、利権に目が眩んで国民の命なんか興味がない政治家ってのは、ルーマニアにも日本にもたくさんいるわけだ。
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見たのは何度目だろう。記憶にある限りでも3回は見てる。なにしろ息苦しいんで、そうそう繰り返し見ようとは思わないんだけどね。2日前にNHKのBSでやってたので思わず録画して見ちゃいました。
最初に見た時はヒトラー周辺とベルリンの一般市民の話がごちゃごちゃしていて、なんか集中度が足りない気がしたんだけど、監督の意図は、ヒトラーと彼を囲む上層部のどうしようもなさと、ベルリンの一般市民の苦しみの対比で、それを繋ぐのがあの禿頭のクリスティアン・ベルケルがやった軍医なんだな(このベルケル、
サイコサスペンス映画の傑作でナチスの暗喩にもなっている「エス」とか、
デンマークの暗殺者の映画「誰がため」のドイツ人将校とか、
ヒトラー暗殺計画の「ワルキューレ」で暗殺をベルリンから指揮する将校とか、強面のわりに良い人の役を演じることが多い気がする 笑)。
で、ゲッベルスとヒトラーがそうした一般市民の苦難について、それぞれ同じようなことを言う。
現場での防衛の指揮をとっていた武装親衛隊のモーンケがゲッベルスに、武器のない市民軍が犬死していると訴えると、ゲッベルスは「彼らが選んだ運命だ。我々は国民に強制していない。彼らが我々に委ねたのだ、自業自得だ」と言い放つ。
また国民を心配する軍需大臣シュペーアに対して、ヒトラーもこう言う、「我が国民が試練に負けても、私は涙など流さない。彼らはそれに値しない。自分で選んだ運命だ。自業自得だ。」
この二つのセリフが映画の一番の主張だと思った。失敗した権力者たちの呆れるほどの無責任さ!
ヒトラーはドイツ国民のほとんどが支持したと思われているかもしれないけど、ワイマール共和国時代に行われた選挙ではナチスは全体の3分の1の得票率で、共産党とそれほどの差はなかった。人々がこぞってハイル・ヒトラーとやっている記録映像をよく見るが、あれはプロパガンダだ。
そして、3分の1で政権を取った後、最初は共産党を禁じて議員を逮捕し、その議員数が減った国会で過半数となる数字合わせをし、続いてナチス以外の政党を禁止、全権委任法によってヒトラーは大統領と首相を兼ねる総統になった。
たしかにナチスの熱狂的な支持者たちはヒトラーやゲッベルスに「委ねた」と言えるかもしれないけど、その他の普通の人たちは、なにしろ
反ナチのビラ巻いただけで死刑だから、別の道を選びようもない。自業自得とはとても言えないだろう。
もっとも、ナチスを快く思っていなかった人たちもほとんどすべて沈黙しているだけだったわけで、沈黙は承認と変わらないと言うなら、自業自得と言われても反論できないかもしれないが。。。まあ、何が言いたいかわかりますね? 笑)
その意味でも、最後に実際のヒトラーの秘書トラウドル・ユンゲが出てきて、白バラという反ヒトラー運動で処刑された女子大生ゾフィ・ショル(
これもものすごい映画になっています)の名を挙げて自分の過ちを認めるシーンも、この映画制作者たちが何を主張しているかがわかるでしょう。
映画として、ヒトラーをただのモンスター、悪の権化として描くのではなく、犬を可愛がり、女性や子供に対しては優しく、常に彼のそばに付き添って最後は結婚するエーファ・ブラウンを愛する普通の人として描くのは、まあ当然と言えば当然なんだけどね。作る方としては結構勇気がいっただろうね。少なくとも戦後のドイツはヒトラーという怪物に国民は騙されたのだ、というスタンスが見え隠れしていたから、そういう意味では戦後60年経ってようやく、という気もする。
まあ、拙ブログでは何度も繰り返してきたけど、人間って99.999%の普通の人と0.0001%の悪人がいるわけではないんでね。どんな悪事をした人でも普通の人なんだよ。ただ、そう思うと不安になるからね。悪党は悪党、自分はそうじゃないって切り分けたくなるけど、誰だって同じ条件が整えば同じことをしかねない、という自覚が大切だと思う。まあ、何度も書いたことだけど 笑)
*
さて、この映画、見るたびに残念なのは、
前にも書いたけど、名優ブルーノ・ガンツの顔がヒトラーが残念ながら、見れば見るほど似てないってことだ。突然ヒステリックに怒鳴り出し、その場の感情まかせの、判断力などありゃしない人間性は、きっとヒトラーってこういう人だったんだろうと思わせる迫力があるけどね。でもこの時のガンツは60代半ば、ヒトラーは55で死んでるからねぇ。ちょっと老けすぎだったよね。
ついでに言うと非常に特徴的な顔をしたウルリヒ・マッテス(この人は
「9日目」という映画で神父役でとても良かった)がやったゲッベルスも、足を引きずり体を傾けて歩く格好は、きっと本物もこうだったんだろうと思わせるけど、やっぱり顔はまるで似てない。
ハイノ・フェルヒのシュペーアと
「検事フリッツ・バウアー」でタイトルロールをやったウルリヒ・ネーテンのヒムラーが雰囲気出てたかな。
まあ、ほとんどがコンクリート地下壕ブンカーの中だし、たまに外に出れば戦闘シーンだし、見るのにそれなりの覚悟がいりますが、ネットで登場人物などのおさらいをしてから見れば、見終わってそれなりの思いが強烈に残るだろうと思います。
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今日は午前10時から午後5時まで、お昼ご飯を挟んで、坂口尚の1980年台の漫画「石の花」を読んでました。第二次世界大戦中のユーゴスラビアを舞台にした漫画なんですが、なにしろ全5巻、1400ページ、主要登場人物だけも20人以上という大長編。史実に沿った非常に濃い内容です。
その後パソコンの前に座ったんだけど、流石に目が全然焦点合いません。いやはや、歳ですねぇ。。。苦笑)
この漫画、実はNHKのBSで一昨日放映されたエミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」という映画のせいで思い出して、納戸の奥から引っ張り出してきたのでした。間違いなく25年ぶりぐらいで読んだんじゃないかなぁ。
戦争が始まりユーゴスラビアがナチスドイツに蹂躙される、、、と簡単に言えないのがこの国の悲劇です。ユーゴスラビアという国は5つの民族が4つの言語と二つの文字を使い、3つの宗教を信じている国家で、ナチスドイツに占領された時にも、反ナチ色が強かったクロアチアに対し、セルビアではファシスト団体がナチに協力し、多くの人々がナチスを歓迎した(歓迎したふりをした)のでした。
一方国内の反ナチのパルチザングループにも、戦前の国王を担ごうとする王党派組織と、共産主義組織があって、互いに反目し合っています。そこに強制収容所の物資を横流しして、この戦時に私服を肥やそうとする連中や、ナチスの優生思想と社会的ダーウィニズムを信じて疑わないSSのエリート将校も出てきて、さらには裏切り者やスパイや二重スパイも入り乱れるなか、主人公の少年と少女は数奇な運命に翻弄されるわけです。
坂口尚らしいリリカルなシーンが多いし、絵が上手い。登場人物はものすごい数になりますが、人物の描き分けも明確だし、戦車や戦闘機の格好良いこと 苦笑)
クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」の方もだいぶ前に観てます。パンフが出てきました。

こちらは第二次大戦から1990年代の内乱に至るまでのユーゴが舞台で、一人の女を巡って二人の男とドイツ人将校が鍔迫り合い、パルチザンとなった一方の男をもう一方が戦争は終わってないと騙して、地下に潜伏させ、自分はその女と結婚して戦後のユーゴで政府の要職につくが、地下に潜っていた連中が外に出てみると、ユーゴの内戦の真っ只中で。。。
「石の花」で描かれた第二次大戦中のユーゴスラビアの民族的・イデオロギー的対立は20世紀末のユーゴの内戦において再燃するのですね。
主人公たちの生き方が戦中戦後のユーゴ史を暗示するような作りなのは、
ギリシャの監督テオ・アンゲロプロスの映画のようだけど、長回しで静謐なアンゲロプロスとは違って、飲み食いのシーンが多く、騒々しくパワフル。
冒頭からブラスバンドが小走りで変に陽気な音楽を奏で続け、しかもなにかドリフのコントのようなうるさくふざけたシーンの連続。俳優の演技もどこか大袈裟なコミカルさがあるし、取っ組み合いになっても酔っ払いの喧嘩みたいだし、銃をぶっ放してもどこかリアリティがないし、ゲシュタポによる拷問もモンティパイソンみたいです。
ところが、後半に入ると、ドタバタした中での悲痛で美しいシーンがいくつも出てくる。特に逆さ吊りになったキリスト像の周りを燃えながら旋回する電動車椅子のシーンと、それにつづく教会の鐘の引綱で首を括った男の姿と、その前を飛ぶアヒルのシーンはなかなか忘れられない悲痛なシーンだと思う。
最後の井戸から水の中を泳いでいき、おそらく死後の世界でみんなが一堂に会するシーン(
これ前に書いたけど、テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」のラストみたいです)も、どこか騒々しく美しく、そして悲痛。この変なアンバランスさにたじろぐ、そんな映画です。
というわけで、今回は今はもう存在しないユーゴスラビアという国をキーワードに坂口尚の漫画とクストリッツァの映画のご紹介でした。共通項はどっちもヒロインがかわいい。坂口尚の描く少女は、手塚治虫の少女より恥ずかしげで儚げ。クストリッツァの映画ではつねに美(小)女が出てきますが、「アンダーグラウンド」の女優もとんでもなく美人です 笑)
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トルコ映画です。第二次大戦が始まり、イギリスにもナチスドイツにもつかず、のらりくらりと参戦を回避したトルコ。普通に第二次大戦を図式化すればイギリス(連合軍)=善、ナチスドイツ=悪、となるだろうけど、西洋の戦争なんかに巻き込まれたくないトルコにとっては、ここではどっちも悪。
スパイ映画としてはヒヤヒヤ感は薄いかなぁ。ハリウッドのスパイ映画だったら、スパイ活動をもっとハラハラ危機一髪の感じにするんじゃないかと思うんだけど。そうは言っても主人公とヒロインの設定がおもしろく、途中、え?! と思う素晴らしいシークエンスもあった。
ただし、史実に基づいているというけど、お話のポイントになる T4作戦という悪名高い障害者(児)の抹殺計画は、史実では組織的に行われたのは戦争が始まる前までで、その後はこの映画に描かれるような組織的なやり方はしてなかったんだと思う。いや、ドイツ国内では戦前に7万以上が殺害され、中止の命令が出た後も医者や看護師が密かに続行して、最終的には20万ぐらいの人が殺害されているんだけど、この映画にあるように、トルコにいる障害児(国籍はドイツなんだと思うけど)をブルガリアの収容所に送って殺害するというのは、史実ではないだろうと思うんだけど。そして、もちろんヒロインとの関係も思いっきり無茶苦茶盛っているんでしょう 笑)
また、映画の冒頭、第一次大戦末期のトルコでのアルメニア人大虐殺が暗示されるシーンだけど、このジェノサイドは現在のトルコは国として認めてないから、映画人としての勇気が必要だったんじゃないかと思う。またチャーチルがトルコに来てイノニュ大統領と会談するシーンなんかも事実に即しているんでしょう。ここ、結構個人的にはツボったとこでした。戦闘機や大砲を餌に、なんとか連合軍側にトルコをつけたいチャーチルの話を、仲介した通訳は、大統領は耳が遠いのです、とはぐらかす 笑)いいなぁ、ぜひこれは歴史上の事実であってほしいものです。
主役は一見、「シェーン」の悪役ジャック・パランスみたいな悪党ヅラなんだけど、話が進展していくとともにとても魅力的に見えてくるから不思議 笑) 一方のヒロインの方は古風な金髪美女で個人的に好きなタイプ 笑) いや、これ大切なところです。私、男優に目が行きがちで 笑)女優であまり気に入ったと思うことがないんですよね 苦笑)
周りを固める重要な役柄のイギリスとドイツの大使付き副官も、どちらも一癖二癖ありそうな役者を配していて、こういうところにインパクトのある顔の俳優ってのが、映画を一層面白くするんだと思う。
ただ、最後の終わり方は僕の好みじゃないな 笑) それとヒトラー、やっぱり似てません 笑)
(T4 作戦については拙ブログも何度か取り上げたのでリンクしておきます。)
死刑制度について(初めてT4作戦の名前を出したのはもう10年以上前。まだ日本ではほとんど知られてなかったし、関係書もあまりなかったと思う)
NHKハートネット「障害者と戦争」ナチスによる障害者虐殺パネル展示会岡典子「ナチスに抗った障害者」よければ、下の各ボタンをポチッとお願いします(まあ、大した意味ないですので、ポチッとしなくても構いません。おまじないみたいなもんです 笑)

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CS放送でやっていたので懐かしくなって、思わず録画して見ちゃいました。元祖脱力系映画。ニューヨークで暮らすハンガリー系のチンピラ野郎とその気弱な友人。そこにいとこの10代の娘がやってきて、しかし事件は何も起きません 笑) 日々のなかの一片を1、2分ぐらいのワンカットで映し、そうしたシーンを1秒ほどの真っ黒な画面を挟んでつぎつぎ繋いでいくんですが、一つ一つのシーンは別になにも面白くないのに、なんとなく繋がりで見ていくとユーモラスなんですね。特にラストのポカンとした終わり方は秀逸です。
昔のメモによると、この映画は1986年の2月に有楽町にあった映倫の試写室で見たようです。当時親類に試写会の券がもらえる立場の人がいて、その人がよく僕にそれを回してくれたのでした。映倫の試写室っていうのはビルの中のかなり狭い部屋で、たぶん20人ぐらいが定員だったんじゃないでしょうか。
ここ以外にも東方東和の試写室とか、いろんなところでこの種の試写会を見に行きましたが、どこでやってもタバコは吸い放題だし、知り合い同士と思しき人たちが上映中にもときどきこそこそ話していたりしてましたっけ。ラジオの応募でもらえる一般向けの試写会と違って、文字通りロードショー前の映画を評論家なんかに見てもらって、場合によってはコメントなんかをもらうというための試写会だったのだと思います。
これが入場時に配られたレジメ。

最初に懐かしくなってと書いたのは、この時となりに座っていた人がやたらと声出して反応していたんです。おっほっほ、こりゃおかしっ、って感じで中盤からはずっと過剰反応だろ!ってぐらいうるさい 笑)まあ、35年前のことで、多少記憶が捏造されている可能性もありますが 苦笑)思い出の中では体を揺すって笑っていたっていう感じです。
当時はまだこんな言葉はなかったけど、「うざい!」って感じで、ちょっと困ったなと思いつつも、映画が終わって明るくなって、なにげに隣を見たら、TVの水曜ロードショーの解説で有名な水野晴郎さんだったのでした。この歳になると、いろいろ図々しくなってますから、同じ状況になれば絶対話しかけたと思うんですが、当時はまだ若くて、「おおっ!」と思っただけで終わってしまいました。あの時の水野さんは50代半ば、TVでは「いやあ、映画ってホントにいいもんですね」の決め台詞で有名でした。2008年に76歳で亡くなっています。合掌。
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イタリア映画。70代の父母と暮らすダウン症の30代の娘ダフネ。母が突然死んでしまい、母の故郷の村で葬式を上げて街に戻り、それまでの生活を続けていこうとするが、父の落ち込み方は尋常ではない。そこで娘は父に、徒歩で母のお墓参りをしようと提案する。
うーん、ダウンシンドロームの人が重要な役割を担った映画って、ベルギー映画の「8日目」とか、アメリカ映画の「チョコレート・ドーナッツ」とか、あるいは日本でも松田聖子が母親役でやったTVドラマが10年以上前にあった。どれも感動的だったけど、僕はむちゃくちゃ不満も感じた。どうして最後はダウンの主役はみんな死ぬことになってしまうんだろう?? 特に「チョコレート・ドーナッツ」はむちゃくちゃ感動的で、ゲイのカップル、黒人弁護士、障害児と差別されるものたちの抵抗が描かれているのに、最後はみんなが後悔することで終わる。
だからその意味でこの「わたしはダフネ」はずっと好感が持てる。主人公ダフネを取り巻く人たちがみんなダフネに自然に接する。ダフネのスーパーの同僚たち、父と泊まる宿屋の老夫妻、山岳警備兵?の二人組、みんな、ちょっとちょっと、と言いたいぐらいダフネに対して普通の女性に対するように接する。宿屋の夫の方に至ってはダフネの手を取り恭しくキスする。
だから、ダフネの方でも自然に、そしてチャーミングに自己主張する。病院で母の死を知らされ看護婦が鎮静剤を与えようとする。「なんの薬?」「涙を止める薬」「いらないわ、私は泣きたいの!」なんてやりとりに泣かされる。
秋のトスカーナ地方の曇天の自然の中を歩く父とダウンの娘って、きっとやろうと思えばもっと泣かせる映画だってつくれたんだろうけどね。母の死も含め、変に情緒的な煽り方をしない点はうれしい 笑) いわゆる喪失と再生の物語だけど、ラストの「再生」の象徴は、一瞬ポカン、そしてしばらくしてグッとくる。
何度か書いたように、私の次女はダウン症だから、切り替えの速さや、頑固さ、褒められてついニコニコしながら下を向く仕草など、いろんなところでアルアルがあって笑った。
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明日までというので強引に 笑)渋谷のユーロスペースで見てきました。
東西ドイツ統一後、旧東ドイツでの国家保安局、いわゆるシュタージという組織のやってきたことにより、東ドイツの人々は疑心暗鬼に囚われました。さまざまなTVドキュメンタリーなどでも知られているように、このシュタージという組織は、東ドイツで反体制的な人間をスパイし、一般の人々にも密告を奨励したということで、ドイツはナチスの時代のゲシュタポと東ドイツのシュタージと二つの悪名高い公安組織を生み出した国とみなされています。
というわけで、今日渋谷のユーロスペースで見てきた「グンダーマン」という映画、1970年台から東ドイツで活躍したシンガー・ソングライターのゲルハルト・グンダーマンという人を描いたものでした。むろん、僕はこの人のことを知りませんでしたが、生まれたのが僕より1年前で、20世紀末に40代前半で死んでいます。 Gundermann で YouTube で検索すれば、当時の歌がたくさんヒットします。
この人、おそらくミュージシャンとしてプロ活動ができたはずなのに、炭鉱の掘削機のドライバーとしての仕事をし続けたんですね。つまりプロレタリアートであることをやめなかったわけ。筋金入りの共産主義者だった。だからこそ、なんでしょうけど、シュタージのスパイとして自分の周囲の人間の動向を当局に伝えていたのでした。
先日の
「ハイゼ家 百年」でもシュタージのことは出てきたけど、なにかかなり恐ろしい組織で、人の弱みに漬け込んでスパイにして密告させていたという印象があったけど、この映画を見るとそうしたイメージとはちょっと違います。この主人公グンダーマンの場合は、共産主義の理想を信じていて、国家に協力することがその理想を実現するために役に立つのだと信じていたのでした。グンダーマンは党のお偉方に対して労働者の立場から耳の痛いことを言うし、自らの理想を国家の現実に対して合わせようとはしません。「国家」に、あるいは「現実」に妥協しないわけ。だからドイツ統一後に、シュタージに協力したことも、単純に自己否定できないのでしょう。
これって単純に善悪を言える問題ではないですね。ナチスの時代のアイヒマンの「凡庸な悪」やオウム事件を連想しますが、信じたことが嘘だった時、その信じたと言うことの純粋さを自分で否定できるのかな、と思ったりします。
映画はドイツ統一後のシュタージのスパイだったことを友人たちに告白しなければならないシーンから始まり、1970年台から80年代と統一以後とが行ったり来たりして、最初の方ではとてもわかりづらかったです。途中で眼鏡で時代を見分けられることがわかって、すこし話がわかってきましたが 笑)特に奥さんになる女性が最初は髭面の男のパートナーで、あれ?この人誰?状態になりました 笑)
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ヴィム・ヴェンダース監督の1993年の映画。1987年の「ベルリン・天使の詩」(ベル天)の続編ということで、公開当時から見たかったんだけど、なんかタイミングが合わないまま見ることあたわず、気がついたら中古ヴィデオでも1万近い値段がついてて、ツタヤにもなかった。少し前にCS放送でやってたのを録画しておいて、やっと見ることができた。
前作のベル天が1987年というベルリンの壁崩壊の2年前の映画で、最後にソルヴェイグ・ドマルタンがカメラ目線で私たちはみんな決断しなければいけないの、みたいなことを延々と言う(説教する 笑)シーンがあったけど、ベルリンの壁が崩壊した後から見れば、東西ドイツ統一へ向けたとても強いメッセージだったんだと思える。

僕はこの映画、主人公のブルーノ・ガンツや相棒のオットー・ザンダーがベルリンの街を徘徊して人々の心の声を聞き取っていくところがむちゃくちゃ好きだ。特に、前にも書いたけど、道路上で交通事故で瀕死のおっさんが、ああすれば良かった、こうすればよかったと後悔しているところへやってきた天使のガンツが頭をゴッツンコすると、そのおっさんの思いが綺麗な詩句の断片のような言葉に変わっていくシーンは、これだけで映画史に残るシーンなんじゃないかと思うぐらい。
今回の「時の翼にのって」はベルリンの壁崩壊から4年、冒頭ゴルバチョフが出てきてびっくりさせられるけど、ベルリンの壁がなくなったのはゴルビーのおかげだとも言えるから、出てくるのは当然か。前回のベル天でガンツの同僚天使だったオットー・ザンダーが主役で、人間になったブルーノ・ガンツはピザ屋になり、空中ブランコ芸人のソルヴェイグ・ドマルタンとの間に子供がいたり、元天使のピーター・フォークが相変わらず本人役で出てきたり、完全な前作の続きになっている。
ベル天で出てなかったのは、天使のナスターシャ・キンスキーと、人間になったザンダーの誘惑者となる堕天使役のウィレム・デフォー。前回、昔のベルリンを知っていたホメーロス役で出てきたクルト・ボワは残念ながらすでに鬼籍に入っていたので、代わりに昔のベルリンを知っていた役どころとして91歳のハインツ・リューマンというサイレント時代からのドイツ映画の伝説が、一見91歳には見えない元気さで出ている。
で、この映画ではウィレム・デフォーが良い。この人いつ出てきても存在感があるし、そもそもが前衛劇団の俳優だったので、なんか雰囲気がアングラ 笑)元天使のくせにザンダーを悪の道へと誘う。ただ、正直に言って後半のストーリーは馬鹿馬鹿しい。面白くない。人間になったザンダーは生きるために武器商人の秘書になるが、歌の歌詞に目を覚まされて密輸された武器を廃棄しようとする。。。
で、この武器商人、どこかで見たことあるような気がしてしょうがなかったんだけど、「荒野の7人」で出てきたホルスト・ブーフホルツだった。
まあ、今回思ったんだけど、ベル天もこの映画も天使の設定がいいんだと思う。実際の人間の危機になんの手出しもできず(もっとも今回のオットー・ザンダーは手出しできちゃうんだけど 笑)、ただ悲しんでいる人の心の声を聞いて、そばにいて頭をごっつんこして美しい言葉を吹き込もうとするだけしかできない。
前作のベル天に比べると図書館でのシーンがなくなり、老ホメーロスもおらず、主人公が天使であるシーンが前半3分の1ぐらいで個人的には、やっぱりベル天の方が好きだな、と思ったけど、前作同様白黒画面の美しさと構図の良さ、ときどき出てくるカラーのシーンの色の美しさ(ヴェンダース映画のカラーの美しさはベル天前の「パリ・テキサス」で実証済み)に、後半の武器密輸品をめぐるつまらんストーリーなんかどうでもよくなる。
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今日は(ってもう昨日になっちまったか)仕事が夕方からだったので、渋谷はイメージ・フォーラムであるドイツ人一族の歴史を描いた3時間半以上にわたる淡々としたドキュメンタリー映画を観てきました。
100年前の1912年に、14歳の監督の祖父が書いた強烈な反戦詩から始まり、それにつづけて、第一次大戦開始直後に同じ祖父が描いたとても微妙な愛国的な詩が朗読される。
この映画は監督のトーマス・ハイゼの祖父母、父母と三代にわたる一族の家族史を描いたドキュメンタリーである。一家の遺品である手紙や日記を、現代のドイツの旧東ドイツに属す地域のモノクロ画面にのせて(時々遺品の中の写真も映るが)、朗読するだけの映画である。
20世紀のドイツは第一次世界大戦、敗戦後の共産主義革命とその失敗、ハイパーインフレ、ヒトラーの台頭、第二次世界大戦と国土を戦場にした末の敗戦、そして戦後は東西に分けられ、特に東ドイツでは社会主義への理想が潰えていき、独裁体制下で密告社会となり、さらに冷戦の終結とその後の東西格差から排外主義的なネオナチの台頭、と20世紀の歴史の主役だったわけだけど、このドキュメンタリーではそうした歴史の決定的な瞬間はほとんど出てこない。
ベルリンっ子の祖父は共産党員で、ウィーンのユダヤ人の娘と結婚する。祖父は教師、祖母は彫刻家だったが、ナチスが政権を取るとユダヤ人はご存知の通り強制収容所へ送られ、多くが殺される。祖母はユダヤ人だったが夫がドイツ人だったために収容所送りは免れるが、父母や一族郎党はみな収容所へ送られる。この経緯が、収容所へ送られたユダヤ人の名簿を延々と移しながら、祖母の日記と祖母に宛てて書かれた親類の悲痛な手紙で語られていく。ドイツ人の祖父も妻がユダヤ人だったために公職追放される。そのときの不服申請嘆願書の手紙が下書きの形で、書き直した文面もかぶせるようにしながら、朗読される。
父はおそらく二分の一ユダヤ人としてかなり辛い思いをしたと思われるが、強制労働収容所を生き残り、戦後、恋多き女だった母と結婚して監督のトーマス・ハイゼが生まれることになる。しかし父は祖父の影響で共産主義者だったから東ドイツにとどまり、ベルリン大学で教鞭を取ることになる。
東ドイツも社会主義・共産主義の理想をお題目に唱えながら、ただの独裁国家、密告国家になっていき、父は徐々に政権から睨まれ、大学を辞めざるを得なくなるとともに、シュタージ(国家保安省。ナチス時代のゲシュタポみたいなものと考えれば遠くないでしょう)に監視される。
特に父はベルリン大学で哲学教授だったこともあり、旧東ドイツの著名な作家たち(主に反体制的)とも交流があった。そうした有名な作家も、東西ドイツ統一後には、シュタージの協力者だったと言われたけど、実は母も一時シュタージの協力者とならざるを得なかったことも、朗読された手紙からわかる。
そして映画は2014年、父はすでになく、母も介護施設にいる。おそらく今年中に亡くなるだろうと、淡々と監督のナレーションが入る。
最後のシーンを除き、ほとんどが手紙や日記、公的な履歴書の写しなどを、監督自身が読み上げていくという構成で、そこに流れるシーンは主に廃墟となっているかつての東独の廃墟と化した建物や、巨大な風力発電用の風車、鉄道や駅、無数のレールが並ぶ転轍場などで、ときどき語られている人物の写真がはさまる。
いろんな映画を思い出した。特に去年見た
「ある画家の数奇な運命」は時代と場所が完全に被るし、また、後半のドイツ統一後の旧東側の人々の心情は
「希望の灯り」(これもいい映画でした)を思い出した。
普通のドキュメンタリーなら、この映画に出てくる一族の日記や手紙の朗読に被せて、その時代の記録映像などをながすのだろうけど、それを全くやってない。上にも書いたように、祖母の兄弟が明日は強制収容所に送られるのかもしれないという不安を書いた手紙の朗読では、収容所に送られたユダヤ人たちの名簿が延々と(おそらく20分以上?)映し出される。普通ならアウシュヴィッツとかの、たとえば現在の映像とか、あるいはヒトラーの映像とか、当時のユダヤ人を映す映像とか、そんなものがでてきそうなものだが、まったくない。だから、20世紀のドイツのことを知らなければ、わかりづらいというのは間違いない。だけど、なんとも言えない余韻が残る。特に監督のトーマス・ハイゼは1955年生まれ。ほぼ僕と同じ年齢だし、祖父の生まれたのは1898年だというから、僕の祖父とこれまた同じ(僕の祖父は97年)。ただ父母は僕の父母より少し年上だけど、やはり自分の一族のことを連想せざるを得ない。
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ヴィスコンティの1957年の映画です。晩年のヴィスコンティは自らの出自もあって、なんとなく絢爛豪華な金ピカセットのイメージがありますが、この映画は敗戦後の娼婦やホームレスがいる白黒の風景です。
若い頃マリア・シェルが大好きでした。「居酒屋」はTVですけど、何回も見ました。笑顔も魅力的だけど、泣き顔がとても綺麗で、悲劇向きの女優ですね。
ジャン・マレーはけっこう歳だと思うけど、まあ、格好いいです。撮り方なのかもしれないけど、肩幅が結構広く、大男のように見えます。子供の頃、「トリスタンとイゾルデ」を映画化した「悲恋」という映画がNHKで放映されたことがあって、若い頃のジャン・マレーってまるで美術室にあった石膏像みたいだと思ったものでした。対するマストロヤンニも美男だし、タイプとしてジャン・マレーと同タイプの顔だと思うんだけど、ジャン・マレーに比べるとちょっとコミカルかなぁ 笑)
いずれにしても、この映画、マストロヤンニが可哀想過ぎるけど、原作のドストエフスキーってマゾヒストだからね 笑)
運河と橋が重なる構図の美しさと、最後の雪のシーンが悲劇を盛り上げます。ラストは知っていても魅せられます。
回想シーンへの転換も印象に残りました。マリア・シェルがマストロヤンニと一緒に廃墟の片隅に座って、カメラがパンするとそこにジャン・マレーとマリア・シェルが一緒にいる回想シーンに展開したり(ワンカットではありませんが、ワンカットかと思わされます)、振り向くと同様に回想シーンに入るところなんかもとてもおしゃれです。
戦後すぐのイタリアが舞台で爆撃?にあった廃墟と思しき瓦礫のような建物があちこちにあり、時代を感じさせます。
ストーリーはまあ、あれですね。大抵の人はマリア・シェルの自分勝手さに怒ることでしょう 笑)ラストのマストロヤンニが雪の明け方、とぼとぼと歩いていると犬が彼に絡むんですよね。おみごと!
でもやっぱり、どんなに自分勝手でもマリア・シェルだもんね 笑)
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前にも書いたように、このところYouTubeでサイレント映画の名作をいくつも見ています。1903年の世界初の西部劇映画「大列車強盗」、1913年の最初の怪奇劇映画「プラハの大学生」などはクローズアップもないし、カメラもほとんど動かないし、ある意味では壮大な舞台での演劇の延長みたいな感じがしますが(とは言っても「プラハの大学生」はドッペルゲンガーの話で二重露出で演劇ではできないようなことをやってますが)、1916年の「イントレランス」になるとかなり複雑なストーリーと場面転換が繰り返され、現在リメイクしてもあまり変わらないものができるだろうと思えるぐらいレベルが高いです。先に書いた
「霊魂の不滅」や
「死滅の谷」も今見ても十分感動します。初期の映画っていうのは結局演劇ではできないことを常に探していたんでしょうね。
だから、サイレント映画を見るというのは、こちらの集中力も要求されます。受動的にぼんやり見ていてもよくわからなくなります。そういう意味ではそれなりの覚悟で見ないといけません 苦笑)
さて、数日前に見たのは1924年のドイツサイレント映画の傑作とされる「最後の人」。主演はエーミール・ヤニングスという戦前の名優、というか戦前のドイツで一番有名な俳優かもしれません。通常はマレーネ・ディートリヒ主演の「嘆きの天使」でディートリヒに翻弄される高校教師ウンラート教授をやった人です。また、アメリカに渡って、第一回アカデミー賞の主演男優賞を取っています。ただ、なにしろこの時代の人ですから、ナチ政権下では積極的に宣伝映画に出演して終戦後は否ナチ化の影響で映画に出ることはなくなり失意のうちに65歳で亡くなります。
お話はベルリンの高級ホテルで、金ピカモールの立派な制服を着たドアマンが、年齢による衰えからトイレの番人に配置換えされます。彼は安いアパートにめいと一緒に住んでいるんですが、ドアマンの制服で帰宅し、出勤する彼は住民たちから非常に尊敬されています。しかし配置転換により、立派な制服はホテルに返さなければなりません。翌日は一緒に住んでいるめいの結婚式。なんとかして制服姿で出席したいと考えた彼はこっそり制服を盗み出して参加し対面を保つのですが、翌日、もうドアマンではなくトイレの番人であることがばれてしまい、常々彼を尊敬していたアパートの人々から総スカンをくらいます。
トイレの番人としてうなだれた寂しげな彼の姿で映画は終わります(上のジャケットの写真)。というか、終わるはずだったんですね。ところが、ここでこの映画唯一の字幕が出ます。映画製作者は主人公に対して同情を禁じ得ないので、彼はトイレで急死した大金持ちの遺産を受け継ぐことにしたと。。。そしてその後くだんのホテルの食堂で、彼に配置換え辞令を出した支配人にかしづかれながら高級食材に舌鼓をうち、かつて制服を盗み出した時に助けてくれた夜警の老人とともにホテルの従業員たちにチップを振り撒きながら馬車に乗って去っていきます。
この取ってつけたようなラストは評判が悪かったらしいですが、無茶苦茶皮肉が効いていて、おそらくハリウッド流のハッピーエンドを馬鹿にする意味があるんだろうと思うけどどうでしょうかね。
それはともかく、この映画、実に面白いことをいくつもやっているんです。まず配置換えの辞令を読むシーンは大きな文字で、配置換えの理由は年齢による衰えだという文字をカメラがパンしながら写しますが、最後のところで突然画面がぼやけます。つまりカメラはドアマンの目なんですね。涙で文字が滲んだわけでしょう。さらに街を歩いてホテルの新しい若いドアマンを遠くからこっそり眺めるシーンでは突然高層ホテルが湾曲して彼の頭の上にのしかかってきます。他にも結婚式でしこたま酔ったときの酩酊ぶりが映像が二重になることでわかるようになってます。窓の中にいる人に外からカメラが近づいていき、窓ガラスを通り抜けてアップになるなんていう、のちになればオーソン・ウエルズの「市民ケーン」でもっと巧妙にやられたり、ヒッチコックの映画なんかでもなんどか出てくるシーンもあります。
主役のエーミール・ヤニングスの演技は、正直に言えば現代ではやりすぎでしょう。彼がドアマンではなくなった途端に彼を嘲り笑うアパートの住民たちの演技も、今の映画ではまずお目にかからないでしょう。それもこれもサイレント映画、セリフで心情を表現できませんからおのずと大袈裟な身振りが必要になるわけでしょう。
内容についても、いろんなことを考えさせられます。制服というものの持つ権威と、それに対する人々の変なありがたがりようは、
以前ここに書いた「ちいさな独裁者」でも、一兵卒の脱走兵だった主人公が大尉の制服を着るとプチ独裁者に豹変しました。
むかし読んだクラカウアーの「カリガリからヒットラーまで」という映画評論では、制服が一つの権威として機能し、人々がその権威に敬意を抱きありがたがるというのを、後のナチスにつなげて解釈していましたが、たしかにそういう文脈で考えれば、上の「ちいさな独裁者」もわかりやすくなります。さらに人々の権威に盲従する真理というのも、
以前書いたハンス・ファラダの小説「ベルリンに一人死す」にでてきた人々の「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」なんていうセリフを思い出させます。
というわけで、YouTubeに日本語版はないようですが、アマゾンでは購入可能ですね。淀川さんの解説付き。買っちまおうかな 笑)
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先日の「霊魂の不滅」に続くサイレント映画の傑作シリーズ 笑)
いや、不肖わたくし、実はサイレント映画って普通の映画ファンの中ではかなりたくさん見ている方だと自負しております。そんな私が断言します。
すごいものを見てしまった!!
調べたら「死神の谷」という題名で日本語字幕付きが出ていたんですね(現在絶版)。
もともとの原題は「疲れた死神」。死神っていうと大きな鎌を持って人々の命を笑いながら刈り取っていくというイメージで、怖く恐ろしく悪意のある者という印象がありますが、ここで出てくる死神は、人々の命を刈る自分に嫌気を感じています。人の生死を司るのは神であって自分ではない、死者を黄泉の国へ迎え入れる自分の役割にうんざりしているという役どころ。なので、主人公の娘にいろいろな条件を出してくれますが。。。
原題の「疲れた死神」というのはここから来ているし、実際そう言います。だから憂鬱な顔をしたまま表情が変わりません。この死神役の役者がものすごく良いです。ベルンハルト・ゲツケという人で、調べるとナチスの時代を生き延び1960年代まで生きた俳優で、ヒッチコックの最初期の映画で主役を演じたこともあるそうです。ふと先日亡くなった切られ役の福本清三を思い出しました 笑)が、こんな感じで出てきます。

それはともかく、お話が非常に古典的寓話風で、最後は手塚治虫の火の鳥のような感動を呼び起こします。あやうく泣きそうになりました 笑)
監督は
拙ブログでも以前書いたことのある「メトロポリス」のフリッツ・ラング。死の壁の前に佇む死神の姿はものすごく絵になります。

また、蝋燭で人の寿命をあらわすシーンなんかはその後何百と真似されたイメージですね。

ところで、死の壁のシーンは最初の方だけなんだけど、もっと出てきてもよかったですね。ほかにも最初の方に出てくる街の有力者たちが、最後の方でもう一度出てきてなにか役割を担って欲しかったかなぁ。
まあ、現代の見る人を飽きさせないテンポのよい映画を見慣れた目にはいろいろ文句も言えるでしょうけど、間違いなく傑作です。
しかし、まだまだYouTubeにはサイレント映画がたくさんありますね。今夜は何にしよう? 「ゴーレム」? 「プラハの大学生」? 笑)
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1920年、100年以上前のスウェーデン映画ですね。もちろんサイレントです。 ウィキペディアにも載ってますが、映画史上最初期の傑作の一つです。少し前にAmazonプライムで見つけて見たんですが、映像としてのすばらしさに対して、字幕の日本語が10年前の自動翻訳でもここまでひどくないだろうと言うぐらいの酷さ。意味不明なだけでなく、男が話しているのに女言葉になっていたりします。ただ、映像が面白いのでなんとか最後まで見ましたが。
そうしたらYouTubeにもあったので、これも同じバージョンなのか確かめたくて見てみました。結果、日本語訳がまるで違います。無論こちらの方が比べ物にならないくらい良いです。間違ってもAmazonプライム版を見てはいけません。確認のためと思っていたのに、見始めたら一気に最後まで見直してしまいました。Amazonプライムではよくわからなかったところがはっきりしました。
(最初YouTubeを埋め込んでいたんですが、どうもうまく機能しないのでここにリンクを貼っておきます。)
YouTube「霊魂の不滅」へ同じくYouTubeでは100年以上前のサイレント映画の傑作をたくさん見ることができます。たとえば「イントレランス」や「カリガリ博士」、「戦艦ポチョムキン」や「メトロポリス」なんかは日本語の字幕付きでアップされています。
「イントレランス」なんかは3時間近いですが、セットがすごいだけでなく最後の方の説明なしのカットバックなんかは圧倒されます。そして話自体も最後の方はかなり感動的。今見ても普通に感動します。
こういう最初期の映画を見ると、映画っていうジャンルは発明されて四半世紀も経たないうちにほぼ完成形にまで到達していたんだなと思いますね。この「霊魂の不滅」では二重露光と呼ぶらしいですが、死神や霊魂は透けて見えて、自分の魂が自分の体から離れたり、壁やドアも通り抜けたりして、だけど普通の人には見えないっていう撮り方をしていて、まあ、今見ればちゃっちいと思うかもしれないけど、すでに100年前にやられていたわけです。
内容は、酒に溺れて妻子を捨て、不実を繰り返し、たまに反省したかのように見えながら、人々の善意を嘲笑い踏みにじってきた中年男が死神を前にして自分の人生を反省する話。まあ、ベタです。最後はキリスト教信仰が、いわゆるデウス・エクス・マキーナってやつになってて、それによって救われるってのも、現代の人間にはなかなか付いていけないかもしれません。
でも、見終わって心に残るんですよ、これが。大晦日の晩に死んだ罪人は、つぎの1年間、死神となって死者の魂を回収する馬車の御者にならなければならないという設定で、その死神と馬車の絵柄が幻想的で美しいんですね(上の写真がそれで、よく見ると馬や馬車が透けているのがわかるでしょう)。まあ、100年前の映画だと言う意識が評価を上乗せしている面もあるでしょうけど。
監督はヴィクトル・シェーストレムで、主役の男(ちょっと私は渡辺謙を連想しました 笑)も演じていますが、この人は僕としてはベルイマン監督の「野いちご」の主役の老人として印象に残っています。つまり1920年に中年男の役をやった俳優が1960年ごろの映画では老人役で出ている。そうか、1920年って僕にとってはとんでもなく大昔の印象があるわけですが、よく考えてみれば40年。僕の歳になると40年の年月というのがどのぐらいの時間かのイメージがあるわけで、二十や三十の時には40年ってとんでもない長い年月の気がしたでしょうけどね。
まあそれはともかく、YouTubeには版権切れなんでしょうか? ずいぶんたくさんの昔の映画がアップされてます。どれも画像が良いし、しばらくハマりそう。
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