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レイモン・プリドール頌

2019.11.14.10:08

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我が家にあった当時モノのキーホルダー。プリドールが二つありました。無論オークション 笑)

さらに我が家にあるミロワール誌で一番古い1976年のものから。この年がプリドール最後のツールで、一方、この後一世を風靡するフレディ・マルテンスがツール初出場となったのでした。この歳プリドールは40歳で総合3位になってます。マルテンスの方は総合8位でスプリント賞獲得。

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しかし主なレースの記録を見ると、プリドール、やっぱり2位とか3位が目立ちますね。世界選手権では74年の2位は昨日も書きましたが、61、64、66年と3回3位になってます。

ツールでは3回の2位と5回の3位。大きなレースで優勝がないのか、と言われれば、そんなことはありません。ブエルタでは64年優勝、パリ〜ニースも2勝しているし、クラシックではミラノ〜サンレモやフレッシュ・ワロンヌも優勝してます。フランスのナショナルチャンピオンにもなってますね。

何しろ人気があった選手で、ある時期のフランスの人気投票で好きなフランス人ナンバーワンに輝いたそうですし、惜しいところで勝てなかったことが、さらにその人気をヒートアップさせていったのでしょう。そして1960年にプロ入りしてから77年の引退まで、一貫してメルシエ・チームで走り続けたことでも有名です。無論メルシエはサブスポンサーが次々変わるので、メルシエXXに名称が変わったり、逆にサブスポンサーになってXXメルシェになったりするんですけど、より良い待遇を求めてチームを変えるのが常識の世界で、こうした一本気なところも、そして何より、愚直で誠実であまりベラベラホラを吹かないところも人気の原因だったのかもしれません。


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プリドール死去

2019.11.13.22:53

と言うわけで、最近は往年の名選手の死や病気ばかりが拙ブログのニュースになっております。

最近ではクロスの世界チャンピオンでロードでも参戦すれば台風の目になっているマチュー・ファン・デル・プールのおじいちゃんとして有名ですが、フランスではある時期、間違いなく一番愛されたフランス人の一人だったはずです。

アンクティルの全盛期、そしてそのあとにはメルクスが登場と、ツールに5勝する二人を前に、とうとうマイヨ・ジョーヌを一度も着ることができず、彼ら最大のライバルたちがいなかった時には落車でリタイア(1968年、73年)したり、ジモンディやエマールにマイヨ・ジョーヌをまんまとかっさらわれたり、運がなかったと言われる選手。15年に渡りツールに出場し、その間8回3位以内に入りながら、とうとう1位はなかった選手。

まあ、本人は自分はブエルタにも勝ってるし、プロで200勝近くあげているんだ、と胸を張っていたようですが。世界選手権でも74年にメルクスに次いで2位。そしてツール100年の時のアンケートで史上最高のツールとされた64年、もうツールのコースになることはないであろう、ル・ピュイ・ド・ドームで、総合優勝するアンクティルと肘をぶつけ合う激しいバトルを見せながら、55秒差でやっぱり2位。ツールの歴史には万年2位とか、不運を絵に描いたような選手が何人もいますが、そんな中でも最も印象的な選手の一人だったと思われます。

前にも何度か書いたことですが、プリドールにとって最大のライバルだったアンクティルが53歳で亡くなる時、プリドールは死の直前(前日と書いてある資料もあります)にアンクティルを見舞いに行くと、アンクティルはこう言ったそうです。

「レイモン、悪いな、また君は僕より後だ」

今、アンクティルに遅れること三十年以上遅れてゴールしたプリドール、先にゴールしたアンクティルは彼を笑顔で迎えてくれた、と願ってやみません。

合掌。


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チポッリーニの心臓手術

2019.11.10.10:56

マリオ・チポッリーニって言っても、今の若い自転車ファンは知らないでしょうねぇ。5時間の手術でステントを入れたということです。

チポッリーニは、知らなかったんだけど、離婚した奥さんからDVで訴えられていたんですね。10月に裁判所で聴聞があって、その後倒れたそうで、手術自体は2週間前に行われていたそうです。やっと状態が安定して公の場にも出てこれるようになったとのこと。

医者は、「想像以上に深刻な状態だった。死んでもおかしくなかった」なんて言ってます。冠動脈の異常で引退後に何度か問題視されていたそうです。

チポッリーニの話。「笑っちゃうぜ、だってアスリートとして健康で強くパーフェクトだったのに、今はそうではないんだ。山でも風に向かってでも、500ワットで走れていたのに、何か正常じゃないって気になっていた。現役時代に酷使しすぎたんだな。遺伝的な問題だとさ。」

チポッリーニというとゴール直前で両手を上げて後ろを振り向くパフォーマンスで有名でしたが、個人的にはあまり好きではありませんでした。というか、むしろ嫌いでしたね。他にも変なマイヨのパフォーマンスもあまり気に入らなかったかなぁ。なので、当時チッポのライバルのジャモリジーヌ・アブドゥヤパロフやエリック・ツァーベルを贔屓にしてました。個人的にチッポというとすぐに思い出すのはこのシーン 笑) 1992年のヘント・ヴェフェルヘム。15分ありますが、見所は最後の5分。



先頭でゴールラインを超えたアブドが表彰式までやってますが、もちろんその後降格で、優勝はチポッリーニです。ただ、このビデオを見直すと、怒ったチポッリーニは途中で踏むのをやめて、危うくヨハン・カピオに差されそうになってますね。

アブドの名誉 笑)のために書いておくと、前年度はアブドゥがチポッリーニを押さえ込むようにして優勝してます。まあ、92年は前年のお返しとばかりにチッポがアブドを押さえ込もうとしてるので、思わず手が出て、ついでにカタパルトしちゃったのかもしれませんね 笑)


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ジモンディ、死去

2019.08.17.13:26

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(我が家にあったジモンディのキーホルダー。まあ、今の目で見りゃあちゃっちいもんですが、もう50年前のものですからね)

76歳。まだ早いなぁ。シチリアでの休暇中に心筋梗塞で亡くなったそうです。60〜70年代のメルクスの好敵手とされた選手です。1973年にはメルクス、オカーニャ、マルテンスと4人のゴール勝負で勝って世界チャンピオンになっています。これについては以前にも色々書きましたし、Arturoさんからも詳細なコメントがありましたが、まあ、要するに、この中ではマルテンスのスプリントがピカイチだったのに、彼のフランドリアチームはシマノが付いていたため、メルクスがお前は勝つな!と言った(マルテンス自身の主張)という「伝説」?「神話」? があります。

またツールでは65年、ネオプロとして22歳で優勝しています。これはジモンディにとってものすごくラッキーなことでした。1つは、本来彼はツールのメンバーに選ばれておらず、病気になった選手の代わりに出場することになったということ、そしてもう1つは、何より怪物メルクスがまだ登場する前だったことでしょう。そしてこの勝利によってプリドールがまたまた2位になったのでした。

ジロでは3回総合優勝してますね。しかしここでも69年の優勝は微妙なものでした。この件についてもすでに書きましたが、つまりメルクスがドーピング違反を理由に途中で失格にされて、繰上げでジモンディが総合トップになり、そのままマリア・ローザを守ったのでした。ところでジモンディはジロに14回参戦していますが、全て完走、しかも15位以下になったことがありませんでした。

そしてブエルタは68年に総合優勝、この時点で三大ツールに勝った二人目の選手になったのでした。一人目はアンクティルです。

さらに、パリ〜ルーベとグランツールの両方に勝った最後の選手というのはケリー(ブエルタ88)が最後ですが、ジモンディはパリ〜ルーベにも勝っています。他のクラシックでは、ミラノ〜サンレモ、ジロ・デ・ロンバルディア(2勝)などですね。イタリアチャンピオンにもなってますね。

1998年パンターニがツールで優勝した時、表彰台に上ってマイヨ・ジョーヌを手渡した初老のジモンディ、とても品が良く、穏やかで、スタイルも良く、格好良かったです。でももうあれから20年以上になるんですね。

合掌


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50年前のジロ メルクス失格

2019.06.01.21:17

rsnに載っていた50年前のジロ・ディ・イタリアの話題。1969年はエディ・メルクスが総合トップでドーピングチェックに引っかかって失格になったのでした。ただ、このドーピング騒動、かなり怪しいことで有名です。なんてったってあの時代のイタリアですからね 笑)

この騒動、メルクスのドキュメンタリー La Course en Tete (1974) でも扱われている有名な話です。(52分ぐらい)

この冒頭のジモンディが勝つ73年の世界選手権の映像は今見てもワクワクしますよ。メルクス、ジモンディ、オカーニャ、マルテンスの四人のスプリントですからね。それ以外もこのドキュメンタリー、貴重な映像満載だし、何より16、7世紀の作曲家プレトリウスの舞曲音楽が映像に呆れるほどマッチしています。最後のスローモーションシーンなんか涙出そうになります。ぜひご覧になってくださいませ。

それはともかく、前年の68年、メルクスはジロで総合優勝していて、連勝は確実と思われていたところ、TV局のRAIがメルクスのドーピングを報道、TVクルーやレポーター達がサヴォナのホテルでメルクスの部屋に入り、ジロのレースディレクターがメルクスに失格を告げるシーンを放送したのでした。最初は驚き、その後ドーピングを否定しながら泣き崩れるメルクスの映像はヨーロッパ中に広まったのでした。

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前日第16ステージで、メルクスは5日前に獲得したマリア・ローザを守っていたのですが、二日前に検査された尿から興奮剤が出たということで失格。しかし、ベルギーはもちろんフランスのメディアも、マフィアが絡んでいて、イタリア人以外の優勝が続くことを許さなかったのだという推測を掲載します。

翌日、突然総合トップになったフェリチェ・ジモンディはマリア・ローザの着用を拒否しますが、むろん儀礼的なもので、彼にとって2回目の総合優勝が決定します。そしてメルクスはドーピングだとされたわけですからUCIはメルクスを二ヶ月の出場停止にします。これによりメルクスはツールも出場できなくなったのですが、これに対してベルギー車連が猛烈な抗議。UCIはそれを受け入れて出場停止は二週間に短縮、メルクスはツール・ド・フランスに初出場することができたのでした。

ツールでの成績はもう予想通り。ステージ6勝、2位4回、3位1回。つまり全ステージ22のうち半分で3位以内というものすごさ。総合優勝は無論のことスプリント賞も山岳賞も独り占め!! 翌年のジロでは改めて総合優勝。結局ジロでもツールでも5勝!!

まあ、マフィアが絡んでいたかどうかは藪の中だし、そもそもドーピングチェックそのものがまだ未熟な時代の話です。2年前のヴァントゥでのトム・シンプソンの興奮剤による死亡事件でようやくUCIも重い腰を上げたところだったので、信ぴょう性もかなり怪しいものだったでしょうし、医者と選手がツーカー状態だったのは70年代終わり頃でも証言されていることですので、完全潔白なメルクスが陥れられたのは間違いない、なんて断言はできませんが。。。


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パトリック・セルキュ逝去

2019.04.20.10:53

さてさて、この名前を知っている人も少数派でしょう。東京オリンピックの1000メートルTT金メダリストです。スプリントの世界選手権もアマでも優勝、プロでも優勝。冬場のトラック競技6日間レースでは通算88勝とダントツの数字を残しています。なるほどトラックの短距離の選手か、と思うでしょうが、それが昔の選手は現在では考えられないことをします。

65年のプロ入り後しばらくはトラック競技で勝利を重ねたり、一キロTTの世界記録を更新したりするんですが、メルクスと同じファエマチームに入ってからロードレースでも上位に入り出します。69年にはパリ〜ルーベ8位、へント〜ヴェフェルヘム9位、ミラノ〜サンレモ11位、フレッシュ・ヴァロンヌ15位、翌年にはジロに出場してステージ勝利を挙げ、さらに74年にはツールでもステージ優勝を挙げます。結局ジロでのステージ勝利は13!! ツールでのステージ優勝が6勝!!! 

クラシックでは勝つことができなかったけど、何度もトップテンには入っているし、モニュメントでもトップテンは7回を数えます。要するに中野浩一がツールでステージ優勝する、みたいな話です。最近だと、テオ・ボスなんてのがスプリントやTTで金メダルをとってロードも走ったけど、ロードの方の成績はセルキュとは比べものになりませんでしたね。写真はツール・ド・フランドルで有名なコッペンベルフの壁。

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75歳は若いなぁ、と思います。合掌。


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1962年のツール

2018.12.09.18:39

アンクティルが3勝目をあげた年です。こんな雑誌が出てきました。何度か書いたオークションで大量に手に入れたミロワール・ドュ・スポール誌の1962年7月16日号。

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表紙にいたずら書きがしてあります。。アンクティルと隣は同じサンラファエル・エリュエチームのルディ・アルティヒの写真にヒゲがいたずら書きされてます(無論私が書いたわけではありません 笑)。この年は以前ご紹介した1964年のピュイ・ド・ドームで史上最高のツールと称される死闘を繰り広げることになるレイモン・プリドールが初出場した年です。

そして30年以上続いた国別対抗の制度が廃止されて、トレードチーム同士の戦いになった最初の年でもあります。なので、ここまでツールに出場しなかったクラシックの帝王リック・ファン・ローイがファエマチームの許しを得て出場した年でもあります。

結果を見ると、この年は山岳TTとチームTT以外に平地のTTが2ステージ、計110キロ以上ありました。どちらも無論アンクティルの優勝。特に68キロの第20ステージは2位に3分、3位のプリドールに対しても5分以上の大差をつけてます。プリドールはこの時総合3位で2位のアンクティルに食いついていたんですが。。。

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アンクティルがプリドールに引導を渡すというような意味ですかね。3分前にスタートしたプリドールを40キロ地点で追い抜くところです。

この時点で総合トップだったファエマのヨーゼフ・プランカールトには5分半の差をつけてトップの座を奪い優勝を決定的なものにします。

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プランカールトに対しては1キロごとに5秒、50メートルの差をつけたというキャプションが付いてますが、写真はプリドールを置いてきぼりにするアンクティルです。

まあ、こういうTTで圧勝するというやり方はその後インドゥラインが継承しますが、インドゥラインの時もそうだったように、勝ち方がファン受けしない感じなんでしょうね。だからこの後はプリドールの人気がどんどん高まっていきます。ある時、フランス人に、一番好きなフランス人は誰ですかという質問アンケートを取ったら40%以上の人がプリドールの名前をあげたそうです。

ツールでは悲劇の英雄の方がフランス人好みなのかもしれません。そういう意味ではバルデにはぜひジロやブエルタで優勝してもらって、そしてどうしてもツールだけは勝てない、というのがよろしいかと 笑)


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1937年、ラペビーの変速機

2018.11.23.15:08

いやぁ、昨日の記事は変速機のところがかなり不安で、よくわからないまま書いたんですが、まあ、心のどこかに、どなたか詳しい方がいるはずで、きっとコメントをいただけるのでは、という気持ちもありました。早速フェイスブックで Mさんから教えていただきました。

1937年のラペビーが使った変速機はシュペール・シャンピオンというもので、イタリアはビットリア・マルゲリータが代表格だったそうです。昨日の記事でYouTubeなどで紹介したカンパのカンピオコルサはやはり戦後のものでした。

Mさんのお話では、シュペール・シャンピオンの方は変速機がチェーンステーの下に付くので逆転不要とのことです。


私ぐらいの世代だと、自転車好きはサイクリングで自転車に夢中になるとともに、自転車いじりに夢中になるパターンが多いように思いますが、僕の場合は前にも書いたように、デパートで見たプロモーションビデオでツール・ド・フランスを知り、その選手たちの姿に参ってしまったのでした。

だから前から公言しているように、私の興味はもっぱら選手の方に向いてばかりで、メカの方にあまり向かず、これまでもメカ系では時々ドジを踏んでおりますが、今回も教えていただきました。


ネット検索したらありました。シュペール・シャンピオン、こんな構造ですね。

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© http://www.theracingbicycle.com/images/Super_Champion_006.jpg

ラペビーの自転車、ネット検索したらありました。
Roger-Lapebie-Tour-de-France-1937-winner-Mercier-Super-Champion-groupset.jpg
© https://cycling-passion.com/tour-de-france-winner-groupsets-year-year/roger-lapebie-tour-de-france-1937-winner-mercier-super-champion-groupset/

チェーンステー下のガイドをレバーで左右に引いて、チェーンのたるみは前のチェーンリングの下にあるプーリーを立てたり寝かせたりして取るというメカニズムですかね。ガイドとたるみ取りが連動しているのでしょうか?

一方のビットリア・マルゲリータの方もほぼ同じ構造ですが、チェーンのガイドがチェーンステーの上にあるので、こちらはペダルを逆回転させないといけないようです。
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images-1.jpeg
© https://www.steel-vintage.com/bianchi-saetta-1937-vintage-racing-bicycle-detail

当時の写真だとチェーンステーの上にガイドがあるのか下にあるのか、判然としないものが多いんですが、たるみ取りのプーリーがチェーンホイールのすぐ下か、少し後ろかで、どちらを使っているかがわかりそうです。例えば、こんな写真だと、手前の選手(若き日のバルタリ)がV.マルゲリータで向こう側がS.シャンピオンです。
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© http://www.classiclightweights.co.uk/designs/osgear-hs.html

つまり、昨日のようなエンド内をハブが移動するシステムは戦後のもののようです。でもメカニズムとしてはともかく、選手の負担を考えると、カンパより10年以上前のシュペール・シャンピオンの方が負担が少なそうに思うんですけどね。昨日紹介したカンパだと手を後輪に突っ込みそうですよね。

フェイスブックでコメントをくださったMさんに感謝。同時に、今後、少しこのディレイラーについて調べてみたいと思い始めたところです。



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1937年、ツール変速機解禁時の雑誌

2018.11.22.21:47

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写真はだいぶ昔オークションで手に入れた戦前の写真スポーツ週刊誌のうちの一冊です。1937年7月27日号とあります。スポーツ雑誌と言っても8割以上は自転車です。ル・ミロワール・デュ・スポールをググってみると、1920年に創刊されて名前を変えながら1968年まで続いたとあります。

ミロワールという題名が紛らわしいんですが、フランスでは他にミロワール・スプリントというフランス共産党系のスポーツ週刊誌もあって、こちらは1946年から71年まで続き、また、日本では一番有名なミロワール・ドュ・シクリスムは1960年から94年まで出ていました。

で、表題の1937年の雑誌が扱っているのがこの年のツール・ド・フランス。表紙の下半分がちぎれて無くなってるので残念ですが、顔だけははっきり、この年のツールの覇者ロジェ・ラペビーです。(1948年のツールを扱った「俺たちはみんな神さまだった」で出てくるギイ・ラペビーは彼の弟です。)

この年はツール史上特別な年でもあります。史上初めて変速機の使用が許された年です。ツールの創始者とされる初代総合ディレクターのデグランジュは、人が機械に使われてはならないと言って、ずっと変速機の使用を認めなかったんですね。それがとうとう解禁になったわけです。当時のカンパの変速機は走りながらクイックシャフトに直結しているレバーでシャフトを緩めて、同時にチェーンを押すシャフトも切り替え、ペダルを逆転させてチェーンを掛け替え、再びクイックシャフトを閉めるというアクロバットみたいなもの。ギアを掛け替えた時のチェーンのたるみはギザギザのついたエンドの中をホイールが勝手に移動するわけ。このYouTubeでみると感動ものです。(ただし、以下の二つの変速機は37年当時のものではなく、もう少し後の戦後のものだと思われます。でも理屈は同じだったんだろう思います。以下2018年11/23 追記。この次の記事で書いたように、この時代の変速機はやはりこのタイプとは違っていて、特にラペビーが使っていたシュペール・シャンピオンというのはペダルを逆回転させる必要がなかったようです。詳しくはこの次の「1937年、ラペビーの変速機」をお読みいただけると幸いです。



変速の状態がわかりやすいのはむしろこちらですかね。


ここではペダルを逆回転させて色々チェンジしてますが、ハブがエンドの中を前後に勝手にずれていくのがよくわかります。最後にクイックシャフトを占めて固定。

さてこの1937年はもう一つ、バルタリのツールデビューの年としても有名です。アルプスに入るやステージ優勝とマイヨ・ジョーヌを獲得、このまま突っ走ってもおかしくなかったんですが、次のステージの下りで橋から小川に転落。大きく遅れ、しかもびしょ濡れ状態で降ったのが原因で、その後ひどい気管支炎になってリタイアしてしまいます。これがなければ、おそらくバルタリがツールでも総合優勝し、その前のジロでも勝っていたから史上初のダブルツールの栄誉に輝いたのではないかと言われていますが。。。

さてその後も事件が起きます。バルタリに変わって総合トップになったのが前年の覇者シルフェーレ・マース。以前ここでも紹介した映画「ルシアンの青春」で元自転車のチャンピオンが語る話の中で、バルタリより怖かったと言われている選手ですね

このマースに対し3分前後の差で追うのがこの雑誌の表紙のラペビーです。ラペビーは(まあ、私が読んだ本では 笑)山岳では車に捕まったりファンに押してもらったりしてたようですが、とうとうそれがバレて1分半のペナルティを喰ったりしてます。

さらにフランスのファンはマースをはじめとするベルギー選手たちに派手なブーイング(ぐらいならいいんですが、トマトを投げつけるようなファンまで出たと書かれてます)、果てはパンクで遅れたマースの集団がラペビーの先頭集団を追走中には、電車も来ないのに遮断機が降ろされるということまで起きたそうです(あくまで私が読んだ本ね 笑)。

結局マースをはじめとするベルギーナショナルチーム全員が身の危険を感じてレースをボイコット。パリまであと4日という16ステージ終了時のことでした。そして、ここにロジェ・ラペビーの総合優勝が決まったのでした。

ところで、このラペビー、1988年に30分程度の「行け、ラペビー」という題名の短編映画が作られています。日本では2009年に東京のエルメスのスタジオで上映されました。私も見に行きましたが、当時すでに80近い老ラペビーがニコニコしながらロードにまたがり颯爽と走っている姿をメインにインタビューがなされていたのだと記憶しているんですが、正直にいうとエルメスなんてものすごい場違いなところで汚いジーパン姿で見に言ったので、そのことばかり記憶にあって、あまりはっきり覚えてません 苦笑)

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これがその時の招待状です。裏はこんなです。ちょっと薄い文字ですが、左下に上映した映画一覧が出ています。
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他にもツール関係の映画を、しかもルイ・マル(上記の「ルシアンの青春」の監督)の「ツール・ド・フランス万歳!」という短編もやったんですねぇ。すっかり忘れてます。「白い恋人たち」でグルノーブルオリンピックの記録映画を作ったクロード・ルルーシュの短編も! これもすっかり忘れてます。拙ブログを始めたのが2010年からなので、その前のことはメモってないのが残念。そういう意味で、見たり読んだりして感動した映画や本などをメモっておけるブログって日記がわりになるんですね。



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史上最高のツール・ド・フランス

2018.11.16.23:59

なんだか忙しく、すっかりご無沙汰ですが、拙ブログの売りは昔の自転車レースですので、久しぶりにそんな記事を。

ツール100年の頃に、フランスのファンに、史上最高のツールのアンケートを取ったそうです。その結果ダントツの1位が1964年のアンクティルがプリドールに55秒差で勝ったツールだったそうです。ついに一度もマイヨ・ジョーヌに袖を通すことができなかったレイモン・プリドールが、もしマイヨを着ることができたとしたら、この年だっただろうと言われています。

特にトップのアンクティルがプリドールに対して56秒差で迎えだ第20ステジ、ブリーヴからル・ピュイ・ド・ドームまでの237.5キロの山頂ゴールステージ。ツール史上でも1、2を争う好レースだったと言われています。

このステージのYouTubeがないかと探したんですが、どうもスチール写真はたくさんあるものの、映像としてはないようです。このDVDには少しだけ出てきますが。。。


ル・ピュイ・ド・ドームという山は山頂部分が狭いのと、道が一つしかないことから、現在のツールではおそらくもう2度とコースに選ばれることはないと思われます。1952年に初登場してコッピが優勝してから13回ツールに登場してますが、1988年を最後にコースになってませんね。山を蛇行するのではなく、山の周囲を螺旋状に回っていくコースになっています。CyclingCols で見ると11キロで925メートル、平均8.5%、最大13%強の、かなりハードな上りコースです。

で、我が家にあるL’Équipe Cols Mythiques du Tour de France という本にはこの時の様子が数百メートルごとに紹介されています。その内のいくつかを紹介しながらレース展開を再現してみましょう。

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まずは麓のゴールまで6キロの地点です。この時点では10人ぐらいの集団です。右から突っ立った特徴的なスタイルのバーモンテス、アンクティル、プリドール、ヒメネス。

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4キロ地点でフリオ・ヒメネスがアタック。この選手は67年に総合2位になっているし、この伝説となっているステージに優勝しているのですが、67年はヴァントゥー山でトム・シンプソンの死亡事件があり、このステージではステージ優勝よりもアンクティル対プリドールに注目が集まってしまって、すっかり忘れられているかわいそうな選手です。

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残り3.5キロではバーモンテスもアタック。アンクティルとプリドール以外の選手はすでに遅れています。

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ここからは邪魔するもののない、二人だけの戦い。ステージ争いはスペイン人の二人に任せて、総合争いを目指してアンクティル対プリドールの伝説的なバトルが開始されますが、物の本によると、バーモンテスがアタックした時にプリドールはついて行こうとしたとか。ところがそこでアンクティルが一言、「スペイン人に持ってかれちまうぜ」。これを聞いて、プリドールはアンクティルの余力を考え、追うのをやめたと言われています。実際はアンクティルはこの時ちぎれそうだったけど、精一杯のブラフを仕掛けたのだと言われています。

以下延々と続く二人のつばぜり合い。
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これはおそらく一番有名な写真ですね。アンクティルは現在の戦法ならプリドールの後ろに付いただろうと思うんですが、両者横並びで登っていくんですね。しかもこの螺旋状のコース、外側(つまり崖側)にプリドール、山側にアンクティルという形ですが、それもアンクティルは計算づくでそうしたと語っています。

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あと900メートルでとうとうプリドールがアタック。アンクティルを引き離します。

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必死に追うアンクティル。

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勢い余ってプリドールはカメラマンバイクにぶつかりそうになります。

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アンクティルを押した観客を注意する審判バイク。

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二人のゴールですが、アンクティルはゴール直前にアドルニにも抜かれてステージ5位。しかし、序盤のブラフのおかげでプリドールに対する遅れを42秒に抑え、14秒差でまだマイヨ・ジョーヌを守ったのでした。この後翌々日の最終日のTTでブーイングの中、プリドールに21秒の差をつけて5度目の総合優勝を遂げました。

翌1965年は、一説ではアンクティルはプリドールに敗れるのを恐れてツールを欠場したと言われていますが、最大のチャンスだったのに、プリドールは今度はイタリアのジモンディに2分40秒の差をつけられて、やっぱり2位に終わっていますが、それはまた別のお話。



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ガーミンフォアランナー405

2018.10.31.23:11

メーターの話は先日京王閣フリマへ行って大昔のザックスユーレーのフォークにつけるタイプの奴の話をしました。

僕が自転車ロードレースに興味を持ったころ、ロードにスピードメーターを付けるなんてトーシロだという雰囲気があって、ホビーチームに入ってからも周りでは誰もメーターなんかつけてる人はいなかったんですが、84年にレモンがメーターを付け始めるとちょっと雰囲気が変わります。

ちょっと古いミロワールをパラパラやると、レモンも1983年に世界チャンピオンになり、その後はメーターなんかつけてなかったんですがね。

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それが翌年84年の春になるとこんなメーターをつけてます。たぶんアボセット製でしょう。

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このあとはずっとアボセットのメーターとオークレーのスキー用みたいな大きなサングラスがレモンのトレードマークになりますね。

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これが急激にプロトン内に広まるかと思うと、それがそうではなかったんですね。特に87年、88年とレモンが猟銃事故でレースに出ず、89年のカムバックのツールでもほとんどレモンしかメーターを付けてませんでした。プロトンの中でメーターをつけるのが当たり前になるのはおそらく91年ごろから。それでもインドゥラインやブーニョつけてませんでしたね。

一方日本では85、6年ごろからキャットアイからアボセットよりふた回りぐらい大きいメーターが出て、草レースの世界ではそこそこ見かけるようになったのでした。僕もキャットアイのやらアボセットも、それからドイツ製の防水の立方体のメーター 笑)も使いましたが、やっぱりハンドルの真ん中を持ちたいという思いから、冒頭のフォークにつけるタイプをかなり長い間愛用していたのでした。

しかし、当時創刊したばかりのバイシクルクラブ誌にはレモンのインタビューでメーターを使う利点が滔々と述べられていて、逃げていて後ろの集団が48キロで追ってくるのをサポートカーから聞かされたら、こちらはメーターで50キロをキープすれば逃げ切れると言っていて、そのデジタルな考え方に驚かされたものでした。実際のレースはそういう風にはいかないでしょうけど、メーターが一つのデジタルな目安になるというのが新鮮に感じたのでした。

まあ、ホビーレースの世界ではレース中にメーターを見て何かを決定したり判断するなんてのは無理で、レース後に最高速度や距離、平均速度を見て喜ぶのが関の山でしたが。

で、今のビンテージデ・ローザになってからはメーターなんて絶対つけられません 笑)だけど、距離ぐらいは知っておきたいということで、ここ10年以上ガーミンのフォアランナー405を愛用してます。腕時計型で、僕は日常生活で腕時計をする習慣がないんですが、自転車に乗っている時だけはこれ。時計もしてないのに白く日焼け残しの跡があって、半袖になると不気味だったりするんですがね 笑)去年スマホにしてからはアプリで Strava とか Road Bike なんていうアプリも入れてはいるんですが、これはあくまでも帰宅後に見るぐらいですね。

で、その愛用の405がとうとう壊れました。そもそもこのところ充電池の持ちが悪く、3時間もたないぐらいで、通勤自転車だと帰りは途中で消えてしまうような状態。ベルトも千切れて、一度交換したんですが、また千切れかかっていて、とうとう充電してもうんともすんとも言わなくなりました。というわけで早々にアマゾンでポチっ。新しいのが来ました。やっぱり気持ちいいですね。

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伝説のラルプ・デュエズゴールの再現なるか? 苦笑)

2018.07.19.10:57

1985年のツールはイノーが鼻骨を骨折しながらも同じラヴィ・クレールチームのレモンがいろいろ悶着起こしながらイノーに勝利を譲ったとされる年です。その時の口約束に、来年はレモンを優勝させるから、というのがありました。

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鼻骨骨折後、霧のピレネーで喘ぐ鬼の形相のイノー 笑)

開けて1986年、イノーはレモンの勝利をアシストすると言いながらゼッケン1はイノーがつけ、しかもピレネーではデルガドとともにアタック、レモンを置いてきぼりにして約5分半の差をつけてしまいました。レモンとしては内心穏やかなはずはないですね。口約束ですからね。

一方イノーによれば、ライバルたちに罠を仕掛けたのだと。。。その後終盤のアルプスでレモンがイノーを逆転、18ステージのラルプ・デュエズゴールのステージでは、総合2位のウルス・ツィンマーマンを二人の波状攻撃で振り切り、二人仲良くクロワ・ド・フェールを超え(この時の下り、NHKの放送では時速120キロとか言ってました)て、仲良く肩を組むようにして、二人とも笑顔でラルプにゴールしたのでした。

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クロワ・ド・フェールの下りを二人で逃げる

それを先ほど思い出していて、いや〜な気分 笑)になりました。いや、先のゲシュケの日記の最後にも書いたんだけど、まさか、フルームとゲラント・トーマスが二人で仲良く肩組んでゴールなんてしないだろうなぁ 笑)


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1986年ツール・ド・ジャポンと88年鳥海山

2018.06.04.22:03

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実家の納戸をゴソゴソやっていたらダンボール箱からとんでもないものが出てきました。1986年のオリベッティ・ツール・ド・ジャポン千葉ニュータウンステージの参加賞Tシャツと、1988年の鳥海山のヒルクライムレースのTシャツ。

ご覧の通り、よれよれ穴だらけだけど、ウェスにでもしようととっておいたのをそのまま忘れ去ったんだろうなぁ。捨てちゃう前に記録しておきましょう。

千葉ステージの売りはホビーレース初のチャンピオンクラス100キロ。私は一般クラスで55キロでした。完走したけど順位は覚えてません。もう一つの鳥海山は結構乗り込んでいたのに、前日に酒盛りやって飲みすぎてダメ(確か34位とかだったと思います)。

他にも入賞盾やトロフィー、メダルが出てきましたわ。ちょっと自慢しちゃいましょう 笑)
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ご覧のように一般クラスで入賞したのは何度もあったんですが(覚えてるだけでもまだ7位が二回、9位が一回あったはず)、それでチャンピオンクラスに出場することになって、ところがこのクラスになったら一気にレベルが上がって、全く歯が立たなかったですね。一回完走したけど、ほぼ最下位でゴールで、他は全て途中リタイアでした。

ホビーレースには20世紀に都合30〜40レースぐらい出ていると思うんですけど、結局落車なしでした。前にも書いたことがあるけど、西湖では集団落車が右前のところで起きて、波のようにこちらに迫ってきて、誰かのヘルメットが僕の足にコツンとぶつかった、なんていうきわどいこともあったんですけどね。あのワクワクドキドキ感をもう一度味わいたいとは思うけど、もう無理だわ 笑)


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1993年ミラノ〜サンレモペナント

2018.06.03.15:23



こりゃなんじゃ?というようなものですね 笑) これも先の85年世界戦ミルクポットと同様に Arturo さんからの頂き物。アイロンをかけて壁にぶら下げてみました。 ちなみに左のはメルクスのペナント。こちらはオークション 笑)

1993年のミラノ〜サンレモのペナントです。スタート前に市長さんとかが選手の前で手にしているやつですかね?

1993年のミラノ〜サンレモは優勝はマウリツィオ・フォンドリエスト。ポッジオの頂上手前でアタックするとそのまま一気に差を広げて逃げ切り勝ち。まあ、昔はファウスト・コッピが100キロぐらい単独で逃げて優勝したなんてのもあったみたいですけど、このレースの勝利って圧倒的にこのケースが多いですかね。ユーチューブにありました。



レースの展開はこれでわかるでしょうけど、観戦の臨場感という点では、こちらもオススメです。いかにも素人が写してるんだけど、そしてフォンドリエストが通過するまで2分ぐらいあるんだけど、そしてあっという間なんだけど、さらには最後はなんじゃこれ?なんだけど、それでもこの臨場感は、冷静なTVの映像とは比べられないものがあります 笑)



さて、いろいろ本を見てたら大昔のミラノ〜サンレモの写真もありました。このレースって第一次世界大戦中も1916年を除いてすべて開催されてたんですね(ついでながら、第二次大戦中も終戦間近な44年と45年は中止だけど、それ以外はずっとやってますね。そこまで自転車が好きかい、イタリア人!)。

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これは1918年、神話の時代の 笑) コスタンテ・ジラルデンゴが初優勝した時の写真。伴走車が装甲車ですよ。

というわけで、私の部屋の壁もそろそろスペースがなくなってきました 笑)
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この逆側の壁には友川カズキの色紙やバッハの楽譜のファクシミリが 笑)


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1985年世界戦記念ミルクポット

2018.05.27.18:52

なんじゃあ、こりゃあ、というものを常連コメンテーターのArturo さんからたくさんもらいました。まず第一弾としてこんなもの。

1985年のイタリアであった世界選手権の記念ミルクポットですかね?
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1985年の世界選手権というと印象が強い人も多いのではないでしょうか。私もそうです。何しろ優勝者ズーテメルクは38歳でしたからね。当時29歳、ホビーチームに入って、日曜の早朝に皇居の周りで練習をし始めた頃。38歳はものすごい老人に思えたものでした。

当時のビデオで見ると、15人ほどの集団で、スプリントの強いレモンとアルジェンティンの戦いになりそうだったんですが、オランダだけ3人いてそれが功を奏しました。


イタリアがアルジェンティンとコンティの二人以外、他は見事にバラバラで、ラスト2キロ弱でズーテメルクがスルスルと逃げた瞬間は集団の前の方にオランダ人二人がいたため、みんな動けなかったですね。しかもコンティはその直前にアタックしてたみたいだし。

というわけで、このミルクポットどうやって使おう? 私はコレクターではないので、基本使います 笑)

この後も不思議なものが出てきますので、お楽しみに 爆笑)


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バルタリ、イスラエル名誉市民に

2018.05.03.14:51

イスラエルという国に対して、個人的には好感を持っていません。何しろ、この国が平和条約を結ぶためには国民投票と国会の70%の了承が必要なのに対して、戦争宣言は首相と防衛大臣の二人の決定で可能で、国会や政府の了承は不要なんだそうです(by ダニー・ネフセタイさんのFB)

確かにナチスドイツによって酷い目にあわされた民族だけど、それが現在のユダヤ民族の免罪符になるわけではないですからね。ヨーロッパは過去の経緯があって、イスラエルを批判することに及び腰なのだからこそ、日本は本来西欧とは違うアプローチができたはずなんだけどね。安倍とネタニヤフってものすごく相性良さそうだからね。

というわけで、憲法記念日ですが、憲法の話はここではしません 笑) 今日の話題はジノ・バルタリです。すでに彼は、2012年に「諸国民の中の正義の人」の称号を与えられたことは、拙ブログでも書いたことがあります

今回、ジロ・デ・イタリアが始まる2日前に、今度はイスラエル名誉市民になったそうです。もっとも本人はすでに2000年に物故しているのですが。

バルタリというと、どうしてもファウスト・コッピとの対比で語られることが多いし、日本ではコッピを持ち上げるためにわざわざ貶めるような言い方をされてきた選手でもあります。しかし、前にも書いたことですが、バルタリは戦時中の1943年に、追放される直前の八百人のユダヤ人のパスポート用写真と偽の証明書を発行させるための書類を、フレームとサドルに隠して、フィレンツェからサン・クエリコまでの380キロをトレーニングと称して運んだそうです。

格好いいのは、これをバルタリは生前にはほとんど自分から語ることはなく、死後になってからよく知られるようになったということですね。でも、バルタリに限らず、戦時中に命をかけてユダヤ人や迫害される人たちを助けた人々は、戦後になって自らそのことを語らず、むしろ迫害に加担した人たちが声高に自分こそ迫害に反対したのだと吹聴する傾向が強かったそうですが。。。

バルタリはカトリックの熱心な信者でしたが、そのカトリック教会のトップの当時の教皇ピウス12世のもとでは、ナチスのユダヤ人迫害に対してだんまりを決め込むという対応で、そういう意味ではバルタリが、カトリック教会にもはびこる反ユダヤ的な感情を持たずユダヤ人を助けたことは、大いに評価されるべきことでしょう(ピウス12世については自転車レースのファンで、バルタリとも懇意の人で、上記のような沈黙に対する批判もあるけど、困難な時代の中でできることをしたのだ、と擁護する意見も多いようです)。

ただ、熱心なカトリックのバルタリがイスラエルの名誉市民になれると聞いて、本人はそれほど嬉しかったかどうか。。。

バルタリについては以前にも書いたことがありますし、何よりマソの「俺たちはみんな神様だった」がバルタリが主役の1948年のツールの話なので、興味がありましたら是非どうぞ




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自転車競技マガジン創刊号発見

2018.02.21.12:15



いや、発見ってのは嘘で、どこにあるかはわかってたんですが、久しぶりに引っ張り出してみたというのが本当のところです 笑)

1978年の10月号です。表紙はツール・ド・フランス初出場初優勝した23歳のベルナール・イノー。当時としては画期的なことだったと思うんですが、この年のツール・ド・フランスを取り上げて、カラー写真が6ページ、白黒写真が8ページにわたり、真ん中には見開きでのグラビアも。本文でも6ページにわたり、ステージごとの詳しい優勝争いの経緯が書かれています。そして最後には、この年のツールを揺るがせたドーピング問題についても、結構きれいごとではなく書いてますね。
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これが真ん中の見開きグラビア。シャンゼリゼの表彰台ですね。四人の選手がわかったらビョーキですね。特に山岳賞の右端の選手の名前を知っている人はいないでしょうねぇ。。。実は私もわかりませんでした。よかったビョーキじゃなくて 笑)

この年の第16ステージラルプデュエズでは、ソロアタックを決めて圧勝し、マイヨ・ジョーヌを奪ったミシェル・ポランティエがレース後のドーピングチェックで不正(これについては「ツール100話」で書いたことがありました)が発覚して失格になったのですが、その謀略説も含めて書かれたりしています。

他にも、日本の自転車競技を盛り上げようという意図がわかる構成です。目次はこんな。
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最後には日本アマチュア自転車競技連盟の広報まで掲載されてて、ヘルメットの規格とかがそのまま載ってたりします 笑)

このベースボールマガジン社って、当時卓球マガジンとか陸上競技マガジンなんていういろんな競技に特化した月刊誌をいくつか出していたんだったと思いますが、この自転車競技マガジンは、なぜか、悲願の日本での世界選手権が開催されることになった1990年に、使命を果たしたとか言って休刊になってしまったのでした。ありゃあ、わけわかんなかったなぁ 笑)



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唐突に1991年ツール・ド・スイス

2018.02.09.16:02

昨日ホーイドンクの写真を探していたらこんなものが出てきました。右端が市川選手ですね。
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この年、市川選手が所属していたブライカーチームは、他の色んなチームの選手を加えてツール・ド・スイスに出場したんですね。だからマイヨの胸の文字がバラバラだし、パンツの横の文字も違ってますね。左から四人目なんてカレラのマークでカレラチームの青いジーンズ仕立てのレーパンです 笑)

こんなことができたんですね。そういえば、1995年のツールではテレコムとZGチームが混合チームという形で出ていました。この時は当初テレコムはツールに呼ばれてなかったんですが、抗議したらイタリアのZGと一つにすることになり、テレコムから6人、ZGから3人出場となりました。ただしマイヨは別々だし、連携もあまりなかったようですけどね。

そんな中でツァベルが2勝して、翌年はエースにビャルネ・リース(95年総合3位)を招聘して総合優勝、プロ2年目のヤン・ウルリヒも2位になり、強豪チームになったのでした。

ところで、ブライカーの写真、その後また別の機会に市川さんにもらった絵葉書ではみんなお揃いのマイヨになってますが、実はよく見ると一人だけ違います。写真が小さくて、ちょっとわからないかもしれませんが、この中では一番有名な選手ベアト・ブロイ(左から4番目)だけ、ホィーラーの黄色い帯が入ってます。
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これはベアト・ブロイの個人スポンサーみたいです。このブロイという選手は82年にツールの山岳で大活躍したんですね。ラルプ・デュエズでの優勝を含み、山岳でステージ2勝、総合6位になっています。この時のハンドルに覆いかぶさるようなダンシングはここで見ることができますね。


1時間以上付き合えないというのであれば、41分ぐらいからどうぞ。

しかしほとんどずっとダンシングです。ブロイが映る場面では8割がたダンシングじゃないでしょうか。信じられんなぁ。それと、この時代のポジション。ハンドルとサドルの高さがそれほど差がないです。80年代前半から中頃にかけてはハンドルステムを目一杯上げて、ハンドルとサドルの高さがあまり変わらないスタイルが流行りました。だからですかね、ブロイのダンシング、腕が長すぎるみたいに肘を大きく曲げて左右に張り出すような走り方ですね。

というわけで、ブライカーに所属していながら、自分を個人的に応援してくれるスポンサーの名前を入れてしまう。今では考えられないことですが、のどかな時代だったんですね。



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ロバート・ミラーからフィリッパ・ヨークへ

2018.01.28.15:20

先日の「1985年のブエルタ」のエントリーにコメントを下さった かばきち さんから、ロバート・ミラーの性転換は事実であるというCyclingnews.の記事を教えていただきました。


1984年の秋だったと思うのですが、池袋のデパートのスポーツ用品売り場で、初めてヨーロッパのロードレースの存在を知りました。そこに設置されていた小さなブラウン管に、5分か10分ぐらいのビデオがエンドレスで繰り返し放映されていて、これは前にも書いたことがありますが、ただただ呆然とその前に30分ほど突っ立って動けなくなったのでした。

今でも覚えているシーンは、真っ青な晴天の山岳で一列棒状に走る選手たちの中から一人がアタックすると、後ろから次々にそれを追う選手がスピードを上げ、その美しい風景とスピード感、選手の一人になったかのようなカメラ位置、そして何よりカラフルなマイヨをまとった選手たちの姿に完全に魅了されてしまったのでした。

自転車選手と言われたら、競輪選手のゴツイ体でぶっとい太ももという印象しかなかったから、そこで見た選手たちの華奢な体と細い足にびっくりしました。そんな中に一人の選手が両手を上げてゴールするシーンがあって、その後思い出すと、それがロバート・ミラーだったんじゃないかと思うんです。

ゴール前に横顔がアップになり、長髪をなびかせてて、なんて美しい!と思ったのでした。あの時みたビデオがいつのものだったかは、もう調べようもありませんが、おそらくその直前の84年ツールか、あるいはその前の年のツールの可能性もあったのかもしれません。そして、今調べてみると、83年の10ステージ、ポーからバニエール・ド・ルションでミラーが逃げていたコロンビアの選手(このときはアマチュアで出てたはずです)を千切り、追ってくるデルガドを振り切って優勝してますね。

84年にも、11ステージ、ポーからグゼ・ネージュでミラーがルイス・エレラとデルガドを振り切って優勝しています。僕が見たエンドレスのビデオはそのどちらかのワンシーンだったのでしょう。そうやって考えると、この2年で優勝したローラン・フィニョンが絶対映っていたはずなんですが、それはもう思い出せません。

その後、30年以上ヨーロッパのロードレースに魅了され続けてきたわけですが、ひょっとしたら、きっかけは、ロバート・ミラーの姿だったかも。

というわけで、自転車って普通はメカから入ったり、サイクリングから始まる人が圧倒的多数なのでしょうけど、僕の場合はかなり倒錯していて、ヨーロッパの自転車レースのビデオを見て、それに魅了されて、あんな自転車に乗りたいと、何も知らないまま、このビデオから一月ぐらいで、当時一番安かったビアンキを購入、それから半年も経たないうちに、サンツアーカラーのヴォーグに乗り換え、さらにホビーレースチームに強引に入れてもらい、ホビーレースに参戦し。。。。という具合に、もう後戻りできない状態になったのでした 笑)

というわけで、当時のロバート・ミラーの写真をミロワールなどから拝借。
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そして現在のロバート・ミラーの姿をCyclingnews.comから拝借しましょう。
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10代ぐらいから性的に違和感を感じていたそうで、それをきちんと自覚していれば自転車選手になどならなかったと言ってますね。今は幸せだと。これは実感することは不可能だけど、自分自身の性に対する違和感を抱えながら、男ばかりの社会で勝負にこだわり、それから解放されて、やっと自分自身に対する違和感からも解放されたということでよろしゅうございました。

というわけで、情報コメントを下さった かばきち さんに改めて感謝いたします。どうもありがとうございました。



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1985年のブエルタ

2018.01.22.15:42



本箱からこんなのが出てきました。自転車競技マガジンは1978年末から1990年までベースボール・マガジン社から出ていた月刊誌です。

この写真の3人がわかるとかなりなもんです 笑) 前の二人は割と簡単ですが、マイヨオロの選手はかなりコアかな。

この頃のブエルタは4月終わりから5月初めにかけて行われていたんですね。レース展開を見てみましょう。

最初の方では若いミゲル・インドゥラインが総合トップになりますが、第6ステージのコバドンガの頂上ゴールでペドロ・デルガドが優勝して総合トップになります。しかし次のステージでロバート・ミラーがアタック、デルガドは4分近く遅れて、ペロ・ルイス=カベスタニが総合トップ。2位にミラーが6秒遅れで追う展開。

第10ステージのミラーのアタックで総合トップはミラー。ルイス=カベスタニに30秒近くのリードを取ります。このまま最後から二つ目の第18ステージ。ここまでの総合順位は

1. ロバート・ミラー(プジョー、英)
2. フランシスコ・ロドリゲス(ゾル、コロンビア) 10秒
3. ペロ・ルイス=カベスタニ(MG・オルベア、スペイン)  1分15秒

で、デルガドは6分13秒遅れ。

そして最後から二つ目の第18ステージ。ロバート・ミラーが10秒差を守れるかというところだったんですが、3つある山の2つ目の下りでデルガドがケルメのホセ・レシオと二人でアタックして逃げます。このステージYouTube にありますね。さすがに画像はひどいものですが 笑)



ここからが、この時代のジロやブエルタでよくあったナショナリズムむき出しのレース展開になります 笑) 

トップのミラーは、2位と3位をマークして、6分以上遅れているデルガドを追うことはしません。差はどんどん開いて、残り40キロで3分差。そろそろ追いかけないとやばいというのに、2位のロドリゲスは監督の指示で追走せず、ルイス=カベスタニはデルガドと同じオルベアチームなので追うはずはなく、総合5位のライムント・ディーツェンを要するテカも追走を拒否。

見事なチームを超えたスペイン人連合 笑)の前に、フランスのチームプジョーに属す英国人のミラーはなすすべなく、ここに大逆転がなったのでした。ちなみにロドリゲスのチームゾルも、テカもスペイン国籍のチームです。ミラーとしてはプジョーのアシストが序盤で遅れてしまったのが致命傷になりました。

というわけで、最初の競マガの表紙の3人はデルガドとミラーとルイス=カベスタニでした。デルガドは一昨年来日して、サイン本をゲットしたことは書きました。 ミラーは一時期性転換して女性になったという噂が流れ、ネットには現在のミラーというおばちゃんの写真までアップされたことがありましたが、どうやらガセだったようですね。ただ、現役時代からかなりの変人だったと言われていました。

ルイス=カベスタニはこの時22歳、長身細身の、自転車に乗っている姿が格好いい選手でした。

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この写真は86年のブエルタ(競技マガジンから)のTTです。この写真の感じは、下りのコーナーを走っている時には、よく思い浮かべたものでした 笑) 将来必ずブエルタに勝つと言われたのですが、結局勝てませんでした。



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プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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