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1952年のツールを古雑誌で(5)最終回

2021.02.18.13:10

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But et Club. Le Miroir des Sports の7月18日号です。表紙は総合トップのコッピ、二位のオケルス、そして後ろにロビックです。

今日は18ステージから。バニエール・ド・ビゴールからポーまでの149キロの山岳コースですが、ここで勝ったのもコッピでした。

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ピレネーでも勝者はコッピというわけで、ピレネーを自分のテリトリーとしていたロビックとしては悔しくてたまらなかったことでしょう。上の大きな写真はトゥルマレ峠へ向かう途中の村、サン・マリー・ド・カンパンを行く先頭集団です。この村はツール黎明期の伝説の村ですね。1913年、トゥルマレ峠でフォークを折ってしまった総合トップのユジェーヌ・クリストフがこの村までトボトボと歩いてきて鍛冶屋で道具を借りて自力でフォークの溶接をして走り続けたという、ホントかあ??という逸話が残っています。

右の写真は無論コッピで、キャプションではトゥルマレ峠の頂上4キロ前でアタックするともう誰もついてこれず、淡々としたペースでハンドルの上を持って走り続けたと。したの小さいのはそのコッピを必死で追うオケルスとカレアで、ロビックはすでに千切れているようです。

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上の表題はマイヨ・ジョーヌが灰色のオービスク峠を突き進むみたいな意味のようですが、写真はトゥルマレ峠の頂上を通過するオケルスとカレアで、さらに100メートルぐらい後ろにロビックとジェラベールが見えています。

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こちらがトゥルマレ峠(左)と霧のオービスク峠を単独先頭通過するコッピです。

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このままコッピが独走で優勝するかと思っていると、残り15キロで追走グループのルイス(総合3位)、オケルス(総合2位)、ロビック、ボーヴァンに吸収されます(上)。散々一人で逃げ続けてきたので、現代の常識ではもうここまでですけど、この時代はそうではないんですね。

アタック合戦に乗じてコッピが残り3キロでアタック。単独でゴールです(真ん中右)。下は2位争いで、オケルス(左)とロビックの小柄な二人の猛烈なスプリント。

19ステージはポー〜ボルドーの平地195キロ。ここではオランダ人のハンス・デッケルスという選手が逃げ切り優勝。続く20ステージはボルドからリモージュへの平地228キロで、こちらはフランス人のジャック・ヴィヴィエという選手が同じく僅差の逃げ切り優勝となりました。

このステージではこんな写真も掲載されています。
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これ今やったら全員失格ですね。でも80年代のレースシーンでは、審判まで遮断機を持ち上げるのを手伝ってるシーンがありました 笑)

そして21ステージ。リモージュからピュイ・ド・ドームへの上りゴールの245キロ。ピュイ・ド・ドームは史上最高のツールと言われる64年のアンクティルとプリドールの一騎打ちで知られる山で、九十九折で登っていくのではなく、螺旋階段のように、山の周りをぐるっと回って登っていくんですね。(アンクティル対プリドールについてはかつて書いたので詳しくはそちらで。)

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表題はピュイ・ド・ドームでのコッピのジャンプ前の小競り合いみたいな意味でしょうか? 右下はゴールまで50キロの時点で逃げる3人。左からバルタリ、ジェミニアニ、そしてプロ入りしたての12ステージの勝者オランダのノルテンです。

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こちらはピュイ・ド・ドームの登り口での3人。三者三様のスタイルで登って行きます。

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こちらもピュイ・ド・ドームの戦い。上の写真が逃げる3人で、このちょっと後に、写真では一番辛そうに見えるノルテンが二人を切り離し単独で逃げて行きます。

中段の三枚は後ろで追いかけるコッピ、オケルス、ロビックの姿。しかし写真にはないんですが、コッピがここからアタックしてバルタリとジェミニアニに追いこし、ノルテンに追いつくとそのまま後ろで体力温存。ゴール400メートル前でアタックして、ゴールではノルテンに10秒差をつけて優勝(下)しました。

これには後日談があって、翌日のステージでコッピがわざわざノルテンのところにやってきて、最後にツキイチで前に出なかったことを詫びたそうです。同時に、ノルテンの将来性を称揚していつかチャンピオンになるだろうと言ったそうです。

しかし、その後のヤン・ノルテンはツールとジロでステージ優勝を1回ずつ挙げただけでした。この雑誌でも将来コーブレットのようになるだろうと書かれていますが、事故や怪我で才能を発揮できなかったようです。フーゴー・コーブレットについてはこちら

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さて、52年のツールを取り上げる最後の号は7月21日号です。表紙は表彰式でのコッピ。肩からかけているのが優勝者へ与えられるタスキですね 笑)

その前に第22ステージはクレルモン・フェランからヴィシーまでの63キロのTTステージでした。このステージは途中経過を見ると、フィオレンツォ・マーニとスタン・オケルスのかなり激しい鍔迫り合いだったようで、ラスト20キロの途中の通過タイムは常にこの両者が互いに2秒とか3秒の差でトップタイムを出し合っていますが、ゴールでは結局2秒差でマーニが優勝です。コッピは休息日 笑)で3分遅れの14位でした。

そして最終ステージ。23ステージはヴィシーからパリまで。距離はなんと最終日にして354キロって、これ何やねん? 嫌がらせ? 完走した選手へのご褒美でしょうか 苦笑) レースは結局15人ぐらいの集団が80キロ地点から逃げて、280キロ近く逃げ続けてスプリントとなり、フランス人のアントナン・ロランという選手が優勝でした。

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これは表彰式前後のコッピの百面相。表紙の写真もこのシリーズの一つでしょう。

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こちらは表彰式と凱旋周回の様子ですね。当時は最終日はパリのパルク・ド・プランスという自転車競技場がゴールになっています。

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こちらは総合2位のスタン・オケルスと3位のベルナルド・ルイス。まあコッピがオケルスに28分差をつけてぶっちぎっちゃったので、2位や3位は影薄いです。ちなみに4位はジーノ・バルタリ、5位に大口叩きのジャン・ロビック、6位に第三の男フィオレンツォ・マーニとなってます。

というわけで5回に渡って1952年のツール・ド・フランスをBut et Club. Le Miroir des Sportsというスポーツ専門写真週刊誌を元に見てきました。最後までお付き合いくださった方にお礼申し上げます。この週刊誌はまだまだたくさんあるので私としても見切れてないし、少しずつ今回のような形でまとめておきたいと思っていますが、果たしていつになることやら。。。何しろフランス語はね、自動翻訳と辞書とで格闘しなけりゃならないので 苦笑)


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1952年のツールを古雑誌で(4)

2021.02.17.15:17


But et Club. Le Miroir des Sports の7月14日号です。表紙はコッピとジェミニアニです。ピレネーのペイルスールド峠の写真。自転車のパーツ関連はどうも知識不足ですが、ジェミニアニのブレーキはマファックのセンタープルでしょうか?写真で見ると結構これ使っている選手が多いですが、コッピは私の世代では見慣れたサイドプルのカンパでしょうか。

胸のポケットにチューブラータイヤ襷掛けで鬱陶しいだろうなぁ。胸のポケットも便利そうだけど、いろいろ入れるとかなり邪魔そうでもあります。

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第15ステージはアヴィニヨンからペルピニャンへの255キロ。上はニームにあるローマ時代の遺跡の前をサイクリングペースの集団。下は先頭を逃げるジョルジェ・デュコーと、バルタリのアシストとして有名なジオヴァンニ・コッリエリ。結果的にはフランス人デュコーがアタックして、ゴールではコッリエリを9分近く引き離して優勝ですが、後ろの追走集団はほぼ25分遅れっていうのが、まあ、今日の目からするとびっくりですね。

16ステージはペルピニャンからトゥールーズへの平坦な200キロで、スタート前のインタビューでロビックだけは相変わらず敗北を認めず強気の発言をしていたようです。最近はこういう破天荒な選手っていなくなってしまって、みんな優しく穏やかで慎み深くなってしまったような気がしますね 笑)

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このステージも暑かったようです。上の写真には、選手たちは泉の誘惑に耐えられなかったと表題がついてます。しかし得体の知れぬ泉の水なんか飲んじゃって大丈夫なんでしょうか 笑) よく旅行ガイドブックなんかではヨーロッパの水道水はそのまま飲まないほうがいいと書いてあるし、実際私の友人は水道水飲んで下痢になったと言ってましたがね 笑)

このステージの勝者はアンドレ・ロッセール。第二ステージに続いてこのツール2勝目です。このステージは10人以上の集団スプリントで決着したようです。

で、休息日。選手たちの様子です。
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コッピ(左上)とバルタリ(左下)は別格で一人ベットに横になってますが、アシスト選手たちは相部屋なんでしょうか。右上は当時の有名な歌手のティノ・ロッシからインタビューを受けるロビック。右下はジェミニアニが夫人と少し前の But et club 紙を見ているところです。

で、いよいよ17ステージはトゥールーズからバニエール・ド・ビゴールまでの山岳コース204キロ。
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左の教会の前を登るのはアレス峠でアタックしたドットという選手。右下はペイレスールド峠で先行する有力選手たちです。左からコッピ、ジェミニアニ、オケルス、ジェラベール、ロビック。

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上記の5人からペイレスールドの頂上でジェラベール(右)がアタック、ロビックがそれに反応しますが、山岳賞はジェラベールです。後ろに小さく見えるのがコッピですね。

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しかしこの下りでアタックしたのはジェミニアニでした(左)。そのまま次のアスパン峠では後続に1分ほどの差をつけ、ゴールのバニエール・ド・ビゴールでは1分以上の差で単独ゴール。2位争いは20人弱の集団ゴール(右の一番下)。

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ゴール後はさしものラファエル・ジェミニアニといえども食前酒サン・ラファエルというわけにはいかず、ペリエです 笑) 第8ステージに続いて2勝目。 つづく


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1952年のツールを古雑誌で(3)

2021.02.16.14:34

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But et Club. Le Miroir des Sports の7月10日号です。表紙は強気の発言で人気者だったジャン・ロビック。戦後再開第1回目の47年のツールで最終日に逆転優勝した選手です。最終日に逆転というのはTT以外ではこのロビックだけ。

何しろ言いたい放題で、この次の年から3連覇する同郷のルイゾン・ボベをガキ扱いして「俺が面倒見てやらあ」と馬鹿にし、コッピもバルタリもちっとも怖くねえ、とホラ吹きまくり 笑) そのくせ走り方は顔を歪めて体を振りながらスピードを上げ下げさせるインターバル的な走り方だったようで、写真からもわかるように悲壮感あふれる魅力的な雰囲気を持っています。大変な人気者だったようです。

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第12ステージはセストリエールからモナコへの山岳ステージ251キロ。ですが、表紙を開くと出てくるのがジノ・バルタリがファウスト・コッピにホイールを渡したという文字と写真。マイヨ・ジョーヌのコッピ(真ん中カスクの選手)がパンク。すると10年来のライバル(「良き」ライバルでは決してなかったわけですが)だった老バルタリ(右・背中を見せている)が止まって自分のホイールを差し出します。

このステージでは砂利道でコッピはチェーンを外したり(下左)、ゴール6キロ手前で再びパンクしてフィオレンツォ・マーニからホイールを受け取ったり(下右)。

このステージで優勝したのはオランダ人ヤン・ノルテン。この選手はこの年6月にプロ入りしたばかりで、まだプロのキャリア1ヶ月という選手でした。このオランダ人、この後も大注目を浴びる若手選手となります。ちなみにこのステージも1位は単独逃げきりで2位にほぼ1分半の差をつけてます。
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伴走車が時代を語りますね。

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13ステージはモナコからエクサン・プロヴァンスの平地ステージ214キロ。左の写真はモナコをバックに海岸沿いを走る集団。白黒ですが、なんとも華やかな感じです。右ページ上左はゆっくり走っていた集団の中でコッピが落車し、すかさずアシスト(ゼッケン31)が自分の自転車を差し出しているところです。自転車を直したらこのアシスト選手が乗って追いかけ、追いついたところで改めてコッピと自転車を交換したとあります。このステージの優勝はフランスのラウル・レミイという選手。3人のゴールスプリントだったようです。

14ステージはエクサン・プロヴァンスからモン・ヴァントゥを超えてアヴィニヨンへの178キロ。この号の表紙がロビックだったのはこのステージの勝者だからです。

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写真はヴァントゥへ向かう途中のようです。ピストバンクのような傾斜したコーナーの下方をいくのがロビックです。チェーンの様子からかなりの凸凹道のようですが、上も完全に砂利道ですね(写真をクリックすると大きくなるはずです)。

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こちらはコッピとバルタリを含む追走グループがヴァントゥを登るところです。結局ロビックが2位のバルタリたちに1分半以上の差をつけてゴール(下右)。

総合は相変わらずコッピが2位のスタン・オケルス(上の追走グループの真ん中小柄な選手)に25分以上の大差をつけています。(つづく)


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1952年のツールを古雑誌で(2)

2021.02.15.10:56

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But et Club. Le Miroir des Sports の7月3日号です。表紙は第8ステージで勝ったフランスの人気選手ジェムことラファエル・ジェミニアニ。

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さて前日に続き、第6ステージはナムール〜メスの228キロ。このステージも山岳ではないのに2位に5分半以上の差をつけてイタリアの第三の男と呼ばれたフィオレンツォ・マーニ(右上 この年のイタリアチャンピオン)が逃げ切り優勝です。この選手については書いたことがありました。これによってマーニがマイヨ・ジョーヌとなります。

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このステージは熱い日で、第1ステージ優勝のファン・ステーンベルヘンは途中の水飲み場で水浴びを始めてそのままリタイアしました。このファン・ステーンベルヘンという選手、クラシックを得意としていて、当時のベルギーでは人気ナンバーワンだったそうですが、その年のクラシックに一つでも勝てばあとはどのレースに出るかは自分で決められるというような契約だったと言われていて、この年もパリ〜ルーベに勝っていたので、暑いし辛いし総合上位無理のツールは顔見せでさっさと辞めちゃったようです。今では考えられない契約です 笑)

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また後ろの集団で落車やパンク、メカトラが多かったようで、コッピもパンクしています。

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第7ステージは個人TT。メス〜ナンシーの60キロで、これはコッピの圧勝でした。

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途中前輪のパンクがあって大きくタイムロスしたにも関わらず、最終的には2位に30秒以上の差をつけています。

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第8ステージはナンシー〜ミュールーズの252キロ。このステージはアルザス地方の小さな山をいくつか越えるステージでしたが、ジェミニアニがやっぱり5分以上の差で単独逃げきりに成功です。

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彼が勝ったことを伝える紙面の端にはちゃっかりコマーシャルが 笑) サン・ラファエル・カンキナという食前酒です。スポーツマンのための食前酒だそうです 笑) ジェミニアニのファーストネームがラファエルなので、55年からこのメーカーをスポンサーにしたチーム、サン・ラファエル・ジェミニアニというチームができ、もちろんそのエースが彼となります。彼は自転車のプロチームが一般企業をスポンサーにした最初の選手の一人です。

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続いて7月7日号はもちろんコッピが表紙ですが、隣でフランスのクライマー、ル・ギュイが頑張ったことも。

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第9ステージはミュールーズからローザンヌの238キロ。9人の逃げが決まって、そのままゴールスプリントでスイスのヴァルター・ディッゲルマンが優勝しますが、普段はトラックの、しかもドミフォンを専門とする選手だったようです。

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そしてとうとう、ツール初登場、今ではツールのきつい登りの代名詞にもなっているラルプ・デュエズ山頂ゴールステージの第10ステージです。上の右側はスタート前のバルタリとコッピ。真ん中右側はこの時代のツール名物のホースによる水掛けですね。カスクの選手はビックマウスで有名な自信屋ジャン・ロビック。下の写真が面白いです。今ではありえないけど、道端にコカコーラのトラック(キャラバン隊の一台だそうです)が止まって選手たちが殺到しているシーンです。まだ缶ジュースがない時代でコーラもビンですね。栓抜きはあったんだろうか? いずれにしてもかなり熱い日だったようです。

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左端からちょっと切れちゃったけど、このステージで勝負するぜ!と大言壮語のロビックが登りに入り、トレードマークのカスクをかなぐり捨ててアタック。後ろではコッピやバルタリをはじめクライマーたちがサバイバルレース。右ページの上は逃げていたロビックにコッピが後ろから迫ります。そしてゴールではコッピがロビックに1分20秒の差をつけてゴール。とうとう本命コッピがマイヨ・ジョーヌとなりました。右側の二つの写真をちょっと大きくしておきます。
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休息日を挟んでの第11ステージもブール・ドワザン〜セストリエールの上りゴールステージ。

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ガリビエ峠の上りでアタックしたコッピ(上)は頂上を2位に3分近い差をつけて通過し、その後もモンジュネーブル峠では2位に4分半、ゴールのセストリエールでは7分以上の大差をつけてゴールです。一方コッピがアタックした直後にパンクに見舞われたジャン・ロビック(下)は、モンジュネーブル峠ではコッピとの差を2分ほど縮めたのですが、ゴールでは11分以上遅れて万事休す。

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コッピはキャプションによれば、ほとんど全力を出すことなく淡々と昇り続け、ライバルたちには彼を止める力はなかったとあります。

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ちなみにジェミニアニとサン・ラファエル・カンキナのコマーシャルがありましたが、今度のこれもコマーシャルなのか? ゴール後のコッピが「俺のペリエを!」を言ったそうです。(隣はイタリアチーム監督で伝説の選手ビンダ)

さて、この時点で総合2位に20分近い大差をつけてますから、ほぼ52年のツールの総合争いはコッピで決まってしまったわけですが、まだやっと中盤です。この後も最後まで見ていきましょう。(続く)


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1952年のツールを古雑誌で(1)

2021.02.14.16:53

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   1952年ツール・ド・フランスコース

オークションなどで大量に手に入れた昔の自転車雑誌、そろそろ少し整理したいと思いながら、号数順に並べるぐらいしかできてません 笑)

今回は But et club, Le miroir des sports という1920年に創刊され、いろいろ名前を変えながら1968年まで続いたスポーツ専門の写真週刊誌をご紹介。まあこれもたくさんあるんですが、今回は1952年のツール・ド・フランスの期間中に出た7冊です。週刊誌といいながら、発効日付が4日に一回ぐらいの割合で出ているようで、この辺りどうなっているのかよくわかりません。いずれにしても、TV放送がなかった時代、速報はラジオとレキップ紙が頼りで、数日遅れでこうした写真週刊誌でレースの細かい状況を反芻するというのが正しいスポーツファンのあり方だったのでしょう。
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6月25日から始まったこの年のツール、雑誌の方は6月30日号が最初でその前の号が欠けているのでツールの下馬評などは見られませんが、この号では第1ステージから第5ステージが詳しく紹介されています。表紙は第5ステージで2位に入ったコッピ。キャプションにはコッピ早くも牙を剥く、みたいなことが出ているので、この年のツールはジロでも総合優勝したコッピが49年についで2度目のダブルツールを達成するかが注目の的だったのは間違いありません。
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最初のステージはブレスト〜レンヌの246キロ。グランデパールのブレストのお祭り騒ぎは今も変わらないですね。左の方で選手たちがいろいろふざけあっている写真が載っています。
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でレースが始まります。
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集団の先頭にはコッピも時々顔を表すけど(真ん中の右側の写真の左端がコッピです)、3人の逃げが決まって、結局レンヌの競技場でのスプリントはリック・ファン・ステーンベルヘン(リック1世)が圧勝(一番下の写真)。まあ、ファン・ステーンベルヘンは2回世界チャンピオンになっているスプリンターですから、「大した努力もせずに快適な勝利を収め、今年最初のマイヨ・ジョーヌ」とキャプションにはあります。ちなみにコッピは6分半遅れの大集団ゴールですね。

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第2ステージはレンヌからル・マンまでの181キロ。ここでは6人ほどの逃げが決まって、ベルギーのロッセールという選手がステージ優勝ですが、後ろの大集団で頭をとったのは、やっぱりファン・ステーンベルヘンでした(下の左側)。

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第3ステージ、ル・マンからルーアンはフランス人のロールディ(ゼッケン37 )とゴーティエという二人が逃げてロールディが優勝し、ボーナスタイムもあって総合トップになります。

第4ステージはルーアンからルーベへの232キロ。無論北の石畳が見どころです。
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優勝はモリネリスという選手(右上横向き)で2位に2分半の差をつけて独走ゴールです。この時代、ライバルチームの逃げを、身を粉にして追いかけ、追いついたらそこで役割終わりという現在のアシストのシステムはないですから、結構簡単に逃げが決まります。しかもタイム差は審判や監督の車が頼りだしね。

第5ステージはルーベからナムールの197キロ。ここでも逃げが決まって、最後は一人独走でルクセンブルクのディーデリヒ(下の写真の左上真ん中の小柄な選手)が2位に5分以上の大差をつけてゴールですが、総合は相変わらずロールディのままです。
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ただ、表紙でも見たようにこのステージ2位はコッピで、上の写真の右上のコッピの写真のキャプションは、後半でカウンターアタックを決めたコッピは先行する選手たちを一人、また一人と追い抜いていくが、ディーデリヒには追いつかなかったというようなことが書いてあります。そして、コッピの総合は一気に6分差の5位へジャンプアップ。

この年のツールの最大の見所はツール史上初の山頂ゴールとなった第10ステージのラルプ・デュエズ、11ステージのセストリエール、21ステージのピュイ・ド・ドームの三つのステージで、コッピが果たしてこの三つのステージでどう戦うか、だったわけですが、山が始まる前にすでに総合で上位に位置されてはね。というわけで次は2冊まとめて第11ステージのセストリエールまで見てみましょう。(つづく)


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1969年ミロワール、ホーデフロート

2021.02.01.12:40



古いミロワールの話題です。69年4、5月号の表紙はヴァルター・ホーデフロートという選手です。20世紀からのファンなら、あのビヤルネ・リースやヤン・ウルリッヒのチーム・テレコムの監督だと思い浮かぶでしょうか?

何しろ69年はメルクスの全盛時代で、毎年のように年間50勝しちゃうようなとんでもない選手と一緒にレースを戦わなくちゃならないなんて、まあお気の毒ですわなぁ。そんな中にもメルクスをやっつけた選手が何人か、名前を残します。ヴァルター・ホーデフロートもそうしたうちの一人です。

69年のメルクスは前に書いたようにツール・ド・フランス初出場で六冠王 笑)でしたが、五大モニュメントもミラノ〜サンレモとツール・ド・フランドル(ロンデ・ファン・フラーンデレン)、リエージュ・バストーニュ・リエージュの三つで優勝、パリ〜ルーベは2位(ジロ・デ・ロンバルディアは不出走)という成績ですからね。今ではちょっと考えられないですねぇ。

そんな中でパリ~ルーベでメルクスを破ったのがこのホーデフロートでした。写真の自転車のサイズからも分かるように、比較的小柄なスプリンターでプロのキャリアはぼほメルクスとかぶっていますが、プロ15年間で163勝してますね。日本人としてはアマチュア時代の64年の東京オリンピックのロードの銅メダリストだという点が重要かな 笑)あ、モニュメントには4勝してます。それから、ツールの最終ステージがシャンゼリゼになったのは75年からなんですが、その映えある第一回シャンゼリゼの優勝者でもあります。やっぱりロードレースの歴史に名を残す選手の一人でしょう。

さて、ページを開くとメルクスやジモンディがいたにもかかわらず、ホーデフロートが凱旋!というキャプションとともに単独で逃げる写真です。

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左のページではフランスの人気者プリドールがリタイアするのと、最終的にトップ5が出る逃げ集団の様子が写ってます。この集団もホーデフロートのアタックででき、この集団から単独アタックを決めて勝利するわけです。調子も良かったしモチベーションも高かったのでしょう。

表紙のカラー写真でもわかりますがバーコン使ってますね。この人の他のレースでの写真を見るとノーマルなダブルレバーなので、これはパリ〜ルーベに特化した仕様ですね。

ホーデフロートは独走で2位のメルクスらに2分39秒の大差をつけてゴール。追走集団には他にもジモンディ(1965年優勝)とデ・フラーミンク(4回優勝)がいて、このメンツで優勝は孫子の代まで誇れるでしょうね。

結果を見ると、メルクスはこの次のモニュメント、LBLでも優勝しますからもし仮にこのゴーデフロートがいなかったら、メルクスのモニュメント4連勝なんてとんでもないことになっていたところでした。

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途中では雪の舞い散ることもあったようです。最近のパリ〜ルーベでは雪はおろか雨もほとんど降らないですね。

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右はホーデフロートのゴールシーン、左は第二集団(2位争い)と第三集団(6位争い)のゴールシーンです。で、YouTube を検索するとありました。残念ながらちょっと上下に潰れ気味の画面と無音ですが、雰囲気は感じられますね。




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1969年ツール直前のミロワール

2021.01.27.17:02

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古いフランスの自転車雑誌ミロワールの話題です。69年6月号。表紙はプリドール、ジモンディ、パンジョン、メルクスの4人がカラーですが、中は藁半紙みたいな紙に白黒写真。1969年というと僕は中学2年か?あんまり思い出したくないですねぇ 笑)

「誰も彼も青春を失敗したのだ」(友川カズキ)

あの個人的にはとても恥ずかしい時代に地球の裏ではこんなことで盛り上がっていたんですねぇ。無論私はまだ自転車ロードレースの存在など知らず。ネットで調べると、アポロ11号の月面着陸の年ですね。夜中に起きて一家でTVの前に座ってましたが、別に月の表面にアポロが着陸する画面が映るわけでもなく(当たり前ですね 笑)到着しましたとアナウンサーが言うだけ。翌日に同時通訳付きで月面を動くアームストロングとオルドリンの映像を見たのでしたっけ。

ヒット曲を見ると由紀さおりの「夜明けのスキャット」! 映画は洋画では「空軍大戦略」を父と一緒に観に行ったのでした。

というわけでミロワールに戻って中をパラパラ見ると、優勝予想です。
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左からメルクス(初出場)、ジモンディ(65年優勝)、ヤンセン(68年優勝)、ファン・スプリンゲル(68年2位)、プリドール(万年2位)、パンジョン(67年優勝)、エマール(66年優勝)、アンクティル(5勝)、上から山岳、TT、スプリント、レースへの情熱、肉体的耐久性、精神的耐久性、経験、アシスト、トータルと20点満点で点数がつけられてます。

数字的にはメルクスが150点で2位はアンクティルが149点。ただし、表の上の説明によると、このアンクティルに関しては5勝した当時の数値のようです。69年当時のアンクティルではなく、全盛時のアンクティルも含めることで、それにも1点勝っているメルクスの強さがわかるようにしたわけでしょう(アンクティルはこの年のツールに出てないし、この年を最後に引退します。)。

まあ、結果はこの通りで、この年ツールに24歳でデビューしたメルクスは総合で2位のパンジョンに18分近い大差で優勝し、チーム賞、山岳賞、ポイント賞、それとこの年にあったコンビネーション(ポイント+山岳)も獲得。まあ、上の表でいくと、メルクスだけ全部25点だったって感じですかね 笑)

さらに、この年にはなかったけど、25歳以下の新人賞があればこれも取ってましたね。実質6冠王 笑)ステージも6勝し、11のステージで3位以内。無茶苦茶ですね。それ以上に特筆されるのが17ステージのピレネーの名だたる山岳コースでの独走勝利。YouTube に1分半程度ですがありますね。


いやあ、アナウンサーならずとも、ブラボー、メルクス、ブラボー、メルクスです。後ろで総合2位と3位のパンジョンとプリドールらが追いかけるけど、もう諦め気味ですね。このステージの前の時点ですでに2位に8分差だったんですけど、このステージでさらに8分の差をつけてますからね。ものすごいわ。

というわけで最後にアンクティルとマイヨジョーヌのメルクスのツーショット。
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キャプションは象徴的な握手であるとともに二つの世代間の権威移譲でもあるというようなことが書かれています。しかしメルクス、マイヨジョーヌをズボンにインしてますね 笑) 今では絶対に誰もやらないスタイルです。


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スプレンドールからヒタチへ

2020.06.27.15:50



先日ヴィッケス・スプレンドールのマイヨを手に入れたので、スプレンドールって幾つになったかな、と数えだしたらスプレンドールの後継チームベルギー・ヒタチチームのマイヨもいくつか出てきました。額に入っているクリケリオンのサイン入りの袖口と襟にアルカンシェルの入ったのも入れると全部で10着。写真左端はヒタチのレーサーパンツですが、これは市川さんからの頂き物で、サイズが小さすぎて入らないので履いたことはないんですが、もう20年も前のものなので裾のゴムなどが劣化、生地自体もかなり劣化してます 笑)

他にも真ん中あたりのオレンジのヒタチ、これも86、7年のものですが、これはもうとっくに入らなくなってます 苦笑)

スプレンドールは自転車メーカーだと思っていたんですが(ウィキのオランダ語版では電球などのメーカーと出ているけど、多分これは間違いでしょう)、よくわかりません。市川さんがヒタチに入った時はすでにスプレンドールはスポンサーを降りているので、聞いたことがありません。スプレンドールという自転車が存在していたことは確かなんだけど、こんなマイナーなメーカーが8年間もプロチームのスポンサーなんかできたのかどうか。。。

CYPRESSさんが教えてくれたスプレンドールの自転車の写真はこちら

まあ、それはともかく、1979年(写真の右から2着目の肩が紺色のもの)から86年までチームスポンサーになっていました。お腹が格子模様になっているのがそのマイヨです(右端のアルカンシェルも)。ヒタチの1年目までですね。2年目からヒタチはロッシンに、そしてエディ・メルクスになってしまいました。

しかし、やっぱりスプレンドールの肩が青い奴がやっぱり一番綺麗かな。

追記
ウィキのイタリア語版に79年から89年までの年別のこのチーム(スプレンドールからヒタチ)のスポンサーが列記されてますね。こちらから


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ついにゲット! ヴィッケス・スプレンドール

2020.06.23.19:01

スプレンドールというチームとマイヨについては以前も書いたことがありました。
「スプレンドールのマイヨ」へ

あの時に書いたヴィッケス・スプレンドールのマイヨ、ついに手に入りました 笑)
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これはスプレンドール・ヴィッケス・バウマルクト。以前紹介した83年のスプレンドール・ユーロ・ショップの前の82年のマイヨです。以前のやつはこれ。

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あとは80年のスプレンドール・アドミラル、81年のスプレンドール・ユーロデコール、84年のスプレンドール・モンディアル・モケットの3つがどこかで出ないかなぁ。。。ネット検索すると古着屋で81年のユーロデコールは出てたことがありますね。すでに在庫なしになってるけど。。。残念。


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メルクス、75歳。

2020.06.19.09:43

一昨日ですね。メルクスの誕生日は。ツール・ド・フランスで5勝、ジロ・ディ・イタリアでも5勝、ツールのステージ優勝34勝、マイヨ・ジョーヌを着た日数96日。「人食い人種」(カンニバーレ)と呼ばれた史上最高の選手エディ・メルクスが一昨日75歳になりました。

メルクスは誰にも勝たせようとしない、と言ったチームメイトのクリスチャン・レイモンの言葉を耳にした彼の娘が、まるで人食い人種ね、と言ったのが、そのまま彼のニックネームになったそうです。

確かにメルクスが最初にツールに出場した1969年には、総合優勝だけでなく山岳賞もポイント賞も独り占めですからね。プロとして走った1966年から78年までの間で、世界戦3勝、5大クラシック(ミラノ〜サンレモ、ツール・ド・フランドル、パリ〜ルーベ、LBL,ジロ・デ・ロンバルディア)19勝、ダブル・ツール4回、1974年にはツール、ジロ、世界戦のトリプルクラウン達成、とまあ誰もが認める史上最高の選手でしょう。

去年の秋に友人たちとのサイクリング中に落車して病院に運ばれたんですが、それも完全回復しているようで、現在は週に2、3回、一回に50〜70キロぐらい走っているとのことです。うーむ、週に100〜150キロぐらい走っているってわけですね。10以上年下の僕もそれを目標にしようと言っておきます 笑)


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ジャモリダン・アブドジャパロフのこと

2020.06.14.15:13

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オラフ・ルートヴィヒの時に紹介した1988年のソウルオリンピックの映像で、ルートヴィヒが逃げた後、一瞬の躊躇の後に後ろから追いかけたそうに画面に入ってくる赤いマイヨの選手がアブドジャパロフですね。結果的には5位に終わってしまいましたが、この選手はルートヴィヒより4歳若く、ピースレース(クールス・ド・ラ・ペ)デビューは87年からですね。

初登場のこの東ヨーロッパナンバーワンステージレースで3勝を挙げ、すでに1980年以来30勝以上していたルートヴィヒの最大のライバルになります。

翌年1988年のピースレースでは第1ステージで1位アブドゥ、2位ルートヴィヒ。第4ステージ、第8ステージ、第11ステージでは1位ルートヴィヒ、2位アブドゥと熾烈ですねぇ。多分後輩のアブドゥがルートヴィヒを徹底的にマークしていたんでしょうね。

1990年に両者ともにプロ入りし、アルファ・ルムという旧共産圏からプロ入りした選手たちで構成されたチームに加入したアブドゥは、ツールに参加するも、パリで4位が最高順位で、そもそもスプリントにもなかなか参加できず、パナソニックという強豪チームに入ってポイント賞を獲得したルートヴィヒとは大きく水をあけられてしまいます。4位に入ったパリのスプリントも3位にルートヴィヒがいるし、ここまではルートヴィッヒを超えることができないという印象だったんですが、強豪チームのカレラに移った翌年のツールで一気にブレークします。



第一ステージ(33分ぐらい)で勝つと第4ステージでもボンテンピのアシストを使って優勝(2時間前後)。かなり危なっかしいコースどりですが、何しろ小柄なので腰を上げながらハンドルを大きく降って必ずどちらかへ寄って行くスプリントで、ゴール後にムセウが怒り狂ってます。今だともしかしたら降格処分かもしれないですね。

まあ、私も当時見てて、何しろスリリングだし、きったねえスプリント、と友人らと話してましたね。で、案の定、クライマックスでやってくれますね。パリの最終ステージです。


これは衝撃的でした。でも一応この後ゴールしてスプリント賞獲得でしたからね、超注目選手になったのでした。まあ、おかげでタシケントの恐怖とかタシケントのカミカゼとか、そんな勇名を馳せることになりました。翌年はツールはトラウマになったか、パッとしなかったけど、ブエルタで4勝してます。

そして1993年のツールでは3勝して2度目のスプリント賞を獲得。特に最終パリのステージで2勝目をあげてます。最終的にツールのステージ優勝9つとスプリント賞2回。プロ入りしてからの成績ではルートヴィヒを上回ったと言えるでしょう。

この後も斜行で失格になったり、派手にチポッリーニを引っ張ったりして、いろいろ話題になったのでした。


しかし、こういう怖いもの知らずのスプリント、最近はゴールスプリントでの斜行や蛇行の判定が厳しくなったから、あんまり見なくなりました。昔の写真なんか見ると自転車を大きく振ってスプリントするシーンがよく見られますが、今、アブドゥが集団の中にいたら3回に1回は失格かも 笑)

だけど、最後は97年のツールの期間中に興奮剤の服用によりドーピング違反で失格になり、そのまま引退してしまいました。この選手アマチュア時代にも興奮剤で引っかかってるんですよね。あのカミカゼスプリントで怖いもの知らずになるために服用していたんですかね。


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オラフ・ルートヴィヒのこと

2020.06.07.15:17

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東欧圏には2週間以上のステージレースがあるらしいということを知ったのは80年代の後半だったと思います。なんで知ったのかは全く思い出せないんだけど。

僕がヨーロッパの自転車レースについて明確に意識したのは1984年の秋だったと思う。以前にも書いたように、池袋の西武か東武のスポーツ用品売り場でエンドレステープで5分ぐらいのツール・ド・フランスの映像を流していて、それに魅入られてロードレーサーが欲しくなったのでした。その後トントン拍子でホビーレースチームに加わり、いろんな情報を得て、どこでどうして知ったか、この東欧のピースレース(クールス・ド・ラ・ぺ)のことを知ったのでしょう。

(のちに1991年初頭にチェコのプラハへ旅行した時、おもちゃ屋で大きな箱に手書きの自転車の絵が描かれたクールス・ド・ラ・ペと表記された、おそらくすごろくみたいなものだったのでしょう、ゲームが置いてありました。)

そんな東欧の自転車レースを知る中で気になったのは、どうやらこのピースレースではとんでもない怪物選手がいるらしいということでした。ルートヴィヒという、いかにもドイツドイツした名前の東独選手で、ステージ勝利数が38ということでした。ちなみに2番目の選手は16勝で桁外れです。

そんな選手の映像をとうとう見られたのはソウルオリンピック。NHKの放送はリアルタイムではなかったし、適当なブツ切れでしたが、ビデオで繰り返し見たものでした。YouTubeにもありますね。



すごいよね。ゴールスプリントを開始したら全く後ろを確認しないまま両手を上げてますからね。スプリントには相当の自信があったのでしょう。

2位になった巨漢選手はベルント・グレーネは91年になってプロ入りし、チーム・テレコムで2年ほど走った後の1995年、本人の言によれば、監督に命じられたEPOを拒否して引退しました。

3位に入ったクリスティアン・ヘンはオリンピック終了後すぐにカレラに入り、さらに92年からテレコムへ。で、そこで1995年から1999年の引退までEPOを摂取していたことを告白しています。

さて、優勝したルートヴィヒの方は翌年のベルリンの壁崩壊のおかげでついにパナソニックへ。すでにこの時30歳。前年は怪我続きでパッとしなかったので、そろそろ辞めどきかなと、本人も考えていたそうですが、ツール・ド・フランスに参加すると第8ステージでスプリントでステージ優勝します。


この時は第3ステージからポイント賞の緑のマイヨを着続け、最終的にポイント賞獲得でした。その後も92年には最終日のパリ・シャンゼリゼでも優勝、結局ツールのステージは3つでしたが、もうあとせめて5年早くプロ入りしていたらなぁ。若い頃にケリーやファンデラールデンとのスプリント合戦が見たかったですねぇ。

90年の世界選手権は宇都宮で、個人的にはルートヴィヒを見たかったんですが、怪我で来日しませんでした。

タイプとしてはデーゲンコルプみたいなタイプだったんだと思います。個人的にはパリ〜ルーベに勝つんじゃないかと思ったんですがねぇ。結局プロになってから6年連続でこのレースに参加し、92年から2位、3位、4位と3年連続で惜しいレースでした。

92年の2位は優勝したデュクロ・ラサールを単独で追い、ソロで2位になったんですが、カメラはデュクロ・ラサールを映しっぱなしで、どうも記憶に残りません 苦笑)


翌年も3位争いのスプリントではムセウやファン・デル・プールらに対して先頭に立ってそのままスプリントで勝つという強さだったけど、何しろ、この年はデュクロ・ラサールとバレリーニの、色々物議を醸したタイマンスプリントですから、やっぱり3位なんか忘れられてます。


ルートヴィヒも1993年からテレコムに移籍しています。ただ彼の場合はドーピングについては何も発言していないようですが。


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ピーテル・ヴィネンのこと

2020.05.31.15:09

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この選手は1980年代、日本でもシマノやコガミヤタの広告でよく写真を見たのではないでしょうか。
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他にも私は当時のビジネス雑誌の表紙になぜかヴィネンがダンシングして登っていく写真が使われていたのを記憶しています。

この選手、私の友人はよくサンダーバードと呼んでました。なんとなく眉毛まで金髪なところが当時の人気人形劇サンダーバードに出てくる兄弟の誰かに似ている感じがしたからでしょう。
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でも並べると流石に無理があるなぁ 笑)

でも実はこの選手はかなりの変り種です。14歳から18歳ぐらいまで自転車競技に夢中になり、常に上位に入るような成績だったけど、教員になりたくて大学へ進学し、18〜21までは全く自転車のトレーニングはしないで勉強一筋。教員免許も取ったものの、地元の学校の教員の職が空いてなくて、就職浪人中に体力づくりも兼ねて、昔取った杵柄、自転車にでも乗ってみようかと自転車トレーニングを再開したというわけです。そしたら翌年の、当時アマチュアのツールと言われていた東欧圏縦断レース、ピースレースに参加し総合2位。そのままオリンピックモスクワ大会のメンバーになり、終了後23歳でプロ入りすると、81年のツール、ラルプ・デュエズで優勝して新人賞も獲得してしまう。

1981年のラルプ・デュエズのYouTubeが見つからなかったので、ゴールシーンだけですがこちらの30秒過ぎから。


独走でイノーらの追走集団を尻目に優勝です。

さらに2年後の同じラルプ・デュエズで、今度はベルノドゥと1対1のスプリントになり、2勝目。こちらのYouTubeは40分ぐらいありますが、画面が横に潰れているのが残念。


ラルプ・デュエズを2勝しているのは他にはヘンニ・コイペルとズーテメルクとブーニョとパンターニ(アームストロングもそうでしたが剥奪)だけですから、大変な名誉でしょう。現在ラルプ・デュエズのコーナー13番と15番に彼の看板が掲げられているそうです。

また、最近は名前が出てこないけど、ウィナー・アナコナ、何年か前のブエルタで結構活躍した選手の名前がこのヴィネンから取ったと言っていましたね。ただ、なんでウィナーなんだ?と思ってヴィキをちょっと探したら、英語のアナコナのところで確かにヴィネンから取ったけど間違えてウィナーになったと出てました 笑)

何しろ好きなものと聞かれて読書と音楽と言い、どんな?と尋ねられると即座にロシア文学とクラシック音楽と答えるそうで、本も2冊出しているそうです。一冊は以前私も種本として 笑)拾い読みしました。
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マリノ・レハレッタのこと

2020.05.08.01:52

日本でも自転車ロードレースが少しはTV放映されたり人々の話題になったりし始めた1990年ごろ、この選手は三大ツール全てに出場する選手として話題になっていました。同時に90年のツールではステージ優勝もしていました。僕としては先に書いたクリケリオンとなんとなくかぶる印象でした。つまり、山岳に強く、そこそこ名前を見かけるし、ツールでは上位に入るけど、ちょっと地味目。

ちょっと調べたらブエルタで82年に総合優勝しているんですね。ただしこれは一旦総合優勝が決まったアンヘル・アローヨがドーピングで引っかかって失格、繰上げでの優勝という、まあ、名前だけ残ったというやつでしたが。

バスクの選手らしく、何しろクールでした。2000年ごろに活躍したロベルト・ライセカというバスクの選手がいましたが、この人も怖い顔してて、優勝してゴール越える時にも怖い顔のまま十字をせわしなく切って、インタビューでも笑顔を見せないというどっかのラグビー選手みたいでしたが、このレハレッタもそんな感じでしたね。

私の印象は1982年のサロンニが勝った世界選手権でのレハレッタが一番最初の印象です。無論リアルタイムで見たわけではありません。1985、6年ごろにダビングにダビングを繰り返してほとんど輪郭が雨の中の水彩絵の具の絵みたいになったアメリカのビデオを見たのでした。この年の世界選についてはサロンニのものすごいアタックについて以前紹介したことがありましたが、その時のYouTubeはすでに見られなくなってますね。残念。

優勝したサロンニもすごかったけど、同じぐらいびっくりしたのがレハレッタ。ラスト1周のジャンが鳴ると集団からアタックして半周ぐらい一人で逃げ続けます。

当時のダビングにダビングを重ねたビデオがまだ残ってました。45分強。久しぶりに見ました。ただ、あまりに画質がひどいのでYouTubeにあるかと探したけど上記のようにすでになく、ラストの1、2分の映像しかヒットしませんねぇ。なのでTVの画面をスマホで撮りました。

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一人逃げ続けるレハレッタ。当時ホビーチームのみんなで日曜の早朝6時に皇居の半蔵門に集まって練習し始めたばかりで、集団の中にいると楽チンでそこから飛び出すなんていうのは夢のようなことだったし、正直理解できなかったから、すげえ!と思いました。しかし半周以上逃げたところで捕まります。

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ところがラスト2キロぐらいでしょうか、ここで再びレハレッタがアタックするんですよ。左端が彼。

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画像がすごくてなんだかわかりませんね 笑) 

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しかしこのアタックもアメリカのジョナサン・ボイヤーに追いつかれて潰されます。

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ちょっと見えづらいですが、後ろの青い星条旗がボイヤーですが、この時はボイヤーがものすごい勢いで逃げ切っちゃうんじゃないかと一瞬思ったところへ、同国人のレモンがサロンニを連れてアタックして、終わってみればサロンニのアシストをしたみたいになって、一部非難を食らったようですが 苦笑)

まあ、ラストのサロンニのアタックはこちらのYouTubeをどうぞ。



レハレッタは結局5位でゴールしました。この選手って僕の第一印象は、これも以前書いたけど、白土三平の「カムイ伝」で抜忍カムイを追うカラミの手風(てぶり)という冷酷な追忍のがいましたが、その印象でしたね。

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ちっとも似てない? ではこんな表情だったらどうでしょう 笑)

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ちょっとはカラミの手風っぽくなったでしょう? 笑)


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88年世界選手権、クリケリオ〜〜ン

2020.04.14.15:47

(クリケリオンというと地元のクラシックLBLでモレノ・アルジェンティンにどうしても勝てなかったということでも有名ですが、こちらは以前書いたのでそちらをご覧ください。)
思い出のLBL

さて、クリケリオンといえば、世界チャンピオンになったことより、地元で2度目の世界チャンピオンになり損ねたことで有名かもしれません。

この時の舞台ロンセという街はすでにベルギー人に取っては非常にビミョーな過去のある街だったんですね。63年の世界選手権、それまで2度の世界チャンピオンになっていたリック・ファン・ローイが地元で3度目の世界チャンピオンを目指し、ゴール直前で無名のチームメイトのベノニ・ベヘイトに差されてしまう。
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ベルギー人が優勝したのはいいけれど、英雄ファン・ローイではなく全く無名の若造が、あろうことか英雄を後ろから差すなんて! というわけで表彰式は誰も嬉しそうではありません。
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さて、そのロンセで2度目の世界チャンピオンのチャンスだったのに、ゴール75メートル前でバウアーが肘を出して、クリケリオンは落車。ゴールまでを歩きながら抗議しました。



まあ正面から見るとよくわからないんですが、こちらの28分ぐらいからを見ると、クリケリオンのアタックに反応できそうにないと思ったか、とっさに肘が出たんでしょうね。コースを塞ぐタイミングではなかったですね。


このドキュメンタリー番組は三人の当事者だけでなく、当時の選手たちも出てきて面白そうなんだけど、全編オランダ語 苦笑) ついでながら、上に書いたベヘイトがファン・ローイを差してしまう映像も11分過ぎぐらいからあります。

この後の経緯は、バウアーがTVであれは俺が悪いのではないと発言、それを聞いたクリケリオンは、本人の言うところでは、レースから2日後にはもう忘れていたそうですが、チーム監督の後押しもあってバウアーに損害賠償を請求する裁判闘争になりました。無論こんな訴えが通っちゃったらスポーツの世界が大変なことになるだろうから敗訴しましたが 苦笑)

まあ、たらればは観戦する側につきもの。もしあそこでクリケリオンが落車しなかったらどうなったか? フォンドリエストはスプリントはあまりないですから(何しろこの年のミラノ〜サンレモではフィニョンとタイマンのスプリントで負けてるぐらいですし)、バウアーは後ろから追いついてきたばかりですからねぇ、とベルギー人は考えるでしょう 笑) ちなみに市川さんは、あれはどっちにしてもずっとツキイチだったフォンドリエストが勝ってましたよ、と言ってましたっけ。

さて、この次の年のアムステルゴールドレースではエリック・ファン・ランカーが単独で逃げ切り優勝するんですが、追走集団でクリケリオンとバウアーの直接対決が実現します 笑) 上のドキュメンタリーでも最後の方に出てくるんだけど、改めてYouTube貼っておきます。


この時のマスコミはファン・ランカーの優勝そっちのけでクリケリオンがバウアーに勝ったことを見出しにしたのでした。というわけで、裁判は無茶でしたが、ここでバウアーにスプリントで勝ったことでクリケリオンとしては溜飲を下げた、と言えるでしょう。

上のドキュメンタリー番組の最後にクリケリオンはこう言っています。

「クリケリオンという名前が出ると、人々は1988年のロンセを連想するだろうけど、それは辛いことだ。1984年の世界チャンピオンだと思い出して欲しい」


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もう一つクロード・クリケリオン

2020.04.13.12:30

いやはや、自宅からなれないことをやらなければならず、結構な負担ですわ。やってみれば、きっと思うほど大変ではないのかもしれないけど。。。

昨日後半を紹介した、クリケリオンが優勝する87年のツール・デ・フランドル(ロンデ・ファン・フラーンデレン)の前半も面白いです。



すっかり忘れていたけど、この時のコッペンベルフは伝説になっているシーンがあったのでした。上のYouTubeで36分ぐらいからのコッペンベルフ、一人で逃げてきたイェスパー・スキビーがここで落車して審判車に自転車を踏んづけられてしまうんですね。このシーンは日本のTVでも放送されたことがありました。

次の年からかなり長い間、ここは危険すぎると言ってコースから外されてしまったのでした。今のコッペンベルフは道幅を広げ、勾配も少し緩くなっているそうです。

実際この年も後ろの方では落車で、例年通りのカーニバル状態。結局ここで前にいて落車せずに済んだ10人程度が先頭集団を形成して、その後三人ほどが後ろから追いつくけど、結果としてこの逃げが決まってしまったのでした。

しかし、踏んづけていった審判車、自転車踏んだだけでなく警備の警官?にもほとんどぶつかってますね。そしてその後も素知らぬ顔で立ち去って行きます。まあ審判ですから止まっちゃまずいんでしょうけど、マスコミ関係の車だったら翌年度から出入り禁止でしょうね。10年ぐらい前にフーヘルラントがプレスの車に吹っ飛ばされて鉄条網に引っかかってビリビリの血まみれになった時は、そのドライバーは出入り禁止になったんでしたけど、審判車だからねぇ 笑) タイミング的に後ろから追走集団が迫ってきたし、スキビーと集団の間にいるわけにはいかなかったんでしょうけどね。

さて、年代順に行くと、クリケリオンといえば88年の世界選なんですが、それは次回に回して、次の大きな勝利、89年のフレッシュ・ワロンヌをみてみましょう。
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これは41分ぐらいのところ、七人ぐらいの先頭集団からロークスのアタックに乗ったクリケリオンが、最後の登り、有名なユイの壁で、ゴール前100メートル強というところでしょうか、ジリジリとロークスを引き離して勝つという堂々たる勝利でした。

僕はこのレース、当時、まだBSの放送もなかったか、ほぼ普及してなかった頃、朝のNHKのニュースで映像を見ています。7時前のニュースで、時々海外のスポーツを話題にしてたんですね。ツール・ド・フランスの期間は前日のステージの映像(ところが、この映像は実はかなり編集して別の日の映像などを混ぜていたことがのちにわかります 笑)なんかを、毎日ではなかったけど流してました。

その日、眠ボケまなこで、突然クリケリオンとロークス(前年の88年のツールで総合2位でした)が映る映像が流れ、呆然と見ていました。

しかしこの時代、ベルギーのレースはカスク着用が義務付けられていたけど、頭が軽そう。サングラスもしてない選手の方が多いから誰だかわかりやすいです。自転車もこの時代の方がフレームが華奢な感じで、好みもあるかもしれないけど、綺麗です。

というわけで、次回はいよいよ88年の曰く因縁つきの世界選手権をみてみましょう。

(後記 4月14日11時20分、YouTubeをリンクから貼ることができたので差し替えました。)


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さらにクロード・クリケリオン

2020.04.11.14:56

昨日、クリケリオンについてちょっと書いたんですが、この選手は1984年に世界チャンピオンになっていて、以前YouTubeをリンクしておいたら、それが切れているようなので、新しいのをリンクしておきます。


見ての通り、この8分余りの映像の中では最初からクリケリオンが単独で逃げていて、後ろも単独でコンティが追いかけているだけ。実はゴール前20キロぐらいから4、5人のグループからクリケリオンがアタックし、そのまま逃げ切ったんですね。その逃げる瞬間の映像はこちら、4分30秒過ぎぐらいから、ちらっと映ります。


これには前半もあって、クリケリオンが亡くなった直後にアップされたもので、効果音がマーラーの暗い音楽が付いてたりしますが、TV放送されたのはクリケリオンが引退した直後の92年のようです。

この世界選手権はスペインのバルセロナ、モンジュイックの丘を越えるきついコースで、以前紹介した1973年の疑惑の世界選、ジモンディが4人のスプリントを制するのと同じコースだったようです。

今回84年は優勝候補はツールの優勝者フィニョンやイノー、ジロを制したモゼールや前年度のチャンピオンレモンが有力視されていたんですが、日陰でも40度を越える猛暑で、有力選手はみんな途中でやめてしまいました。クリケリオンはこの時点まで、ツールの総合でトップ10には何度か入っていたり、クラシカ・サンセバスチャンで優勝したりしてたんですが、期待度が高すぎで、結果はまだまだという選手でした。まあ、世界選手権ってこういう選手が勝って、その後名選手になるっていうパターンはよくありますね。

で、クリケリオンも昨日写真で見たように、アルカンシェルを着てフレッシュ・ワロンヌに優勝したり、ツールでは総合5位になったり、さらにツール・ド・ロマンディやミディ・リーブルで総合優勝したりして、87年のフランドルで優勝します。これが一番大きな成績でしょうね。
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YouTubeもあります。


1時間以上の長尺ですが、こんなご時世だから、最初から最後までのんびり環境ビデオみたいに流しておくのも良いでしょう 笑) そんな暇じゃない、という方は44分半のクリケリオンの平地でのアタックと59分ぐらいからの追走集団内でのアタックと牽制、そしてクリケリオンのゴール、追走集団でのケリーとファンデラールデンの2位争いスプリントをどうぞ。

終盤一番の難所ヘラールツベルヘンの壁を越えて、残り15キロを切ったぐらいですかね。完全な真っ平らの区間で十人の逃げ集団からスルスルとアタック、一瞬先頭を走っていた黄色いマイヨのケリーが躊躇しますね。そのあとファンデラールデンらが追走に入るけど、本当にこの一瞬の間が命取りでした。

先頭の十人の名前を挙げておきます。さあ、何人わかりますかね? 笑)
ショーン・ケリー
エリック・ファンデラールデン
スティーヴ・バウアー
マルク・セルジャント
スティーヴン・ロークス
ロニー・ファン・ホーレン
アドリ・ファン・デル・プール
ルド・ペーテルス
アラン・パイパー

正直、私はファン・ホーレンという選手は知りませんでしたが、他は結構印象に残っている選手たちばかりです。ルド・ペータースはNHKで86年のツールの総集編の時にバカンスを利用してツールをキャンピングカーで追いかける一家が出てきましたが、その時彼らが追っかけをしていたのが、字幕の中ではルド選手と言ってましたが、このペーテルスでした。アラン・パイパーはプジョーチーム時代のマイヨが我が家にあります。まあ、サイン入りではないので、真偽のほどは定かではないのですが 笑)詳しいことは書けませんが、知り合いがそのまた知り合いから、さらに。。。と、色々巡り巡って私の手元にやってきたのでした。バウアーは次回きっと大きく触れるでしょう 苦笑)

しかし、映像の荒さは仕方ないとしても、乗り方が今とは全く違いますね。登りでも重いギアをワシワシ踏んづけてます。逃げてる時のギアもかなり重いです。どこでだったか、登りでアタックする時には左手を伸ばしてアウターへチェンジしてますからね。この時代、スピードをあげる時には原則としてペダルを速く回すのではなく、ギアを重くしたのですね。

しかし、これやってると、あちこちいくらでも寄り道して仕事になりません 笑) というわけで、クリケリオンについてはまだ書きたいことが色々あるので、この項つづく、ということでまた次回。


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クリケリオンのこと

2020.04.10.14:55

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ヤフオクで懐かしいものを見つけ、思わず落札してしまいました。クリケリオンの名前が入ったグラブ。これ同じものを使っていました。手のひら側はセーム革で、なかなかいい作りで、当時は手袋の中でも高額な方だったと思います。以前のは探しても見つからないので、もうすでに廃棄したんだと思いますが、クリケリオングラブはもう一つ別のタイプが残ってました。こちらはレース以外ではしなかったんですよ。ホビーレースに出るときは必ずこの手袋をしましたが、普段では絶対しないで大事に使っていました。まあだいぶヘタってほつれてますが。
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クリケリオンについてはこれまでもなんども書いてきました。主なものだけでもリンク貼っておきます。
クリケリオンとヴァン・ポッペル
懐かしのスーパークリテリウム87 サイン会篇
思い出のリエージュ・バストーニュ・リエージュ
スプレンドール
買い物用駅までロード
スプレンドールのマイヨ
元世界王者クリケリオン、危篤か?
クリケリオン、逝去

この選手に気が付いたのは1985年だろうと思います。伝説となっている(?)NHKのツール放送があったのがこの年でした。例えば栗村さんはこの放送を見て自転車を始めたと言っていましたし、そういう人は多かったのではないでしょうか? (ついでながら、栗村さん、だいぶ以前の放送で、好きだった選手にクリケリオンを挙げていましたっけ) この放送で、集団の中で一人だけ白い爽やかなマイヨの選手がいたんですね。顔がなんか随分渋くて格好良かった。そのときはなぜ一人だけ白い爽やかなマイヨなのかわからなかったんですが、その後これが世界チャンピオンが着るアルカンシェルマイヨだと知り、ますますこの選手に興味が湧いてきました。

まあ、情報などほとんどない時代のことですから、ミロワール誌やウィニング誌で写真を見るだけでしたが、当時は結構映ってたんですね。どちらも85年のウィニング誌です。
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ミロワールではクリケリオンがツール・デ・フランドル(ロンデ・ファン・フラーンデレン)の名物の坂ヘラールトヴェルヘンを冬場のトレーニングコースとして紹介している記事もありました。
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リンク貼ったエントリーにも何度か写真を挙げてましたが、長年この選手のポスターを壁に貼っていたんです。で、今はどうなっているか、というと額入りです 笑) サイン入りマイヨも額入りで 苦笑)
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エリック・ファンデラールデン

2020.03.31.12:56

なんとも重苦しい雰囲気が日本を、いや、世界を覆っています。こんな時は昔の選手の話題でも書いておきましょう。この冬の間に、拙ブログではショーン・ケリーアドリ・ファン・デル・プールという80年代に活躍した選手のことを取り上げました。その延長で、今回もケリーやファン・デル・プールと熾烈なスプリント争いをしたエリック・ファンデラールデンのことを書いてみます。

いやあ、格好良かったんですよ。表彰台の顔が、なんとなくアラビアのロレンスのピーター・オトゥールを思わせたんですね。当時あまり情報が多く無い時代、サイスポでもポスター付きで記事になっていましたが、なんども読みましたね。そういえば一番最初に買ったマイヨはパナソニック・ラーレーの長袖でした。

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特にこの上でゴールで自転車を投げている写真。ゆっくり走りながらなんども前へ自転車を投げる練習しましたね 笑) ホビーレースでも一度だけ10位争い 笑)でやったことがあり、9位になりました 苦笑) アップにしてみます。

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この選手、何しろ若い頃からものすごい才能と言われていて、ジュニアの15歳のときの年間勝利数が16勝。まあ、ジュニアのレースがどのぐらいの数あるのかわかりませんが(CyclingArchivesでは上位に入ったらレースが30掲載されています)、ジュニア時代のレムコ・エフェネプールが年間25レースに出て20勝でしたから、ファンデラールデンも勝率は結構高かったのでは無いかと思います。何れにしてもこの年ジュニアのベルギーチャンピオンになってますね。

何しろその後のジュニア時代は毎年常に30勝以上、特に18歳の時は50勝以上上げてますね。こりゃあメルクスだわ。

で、83年に21歳でプロ入りするわけですが、まずプロ入り最初の年で14勝。今なら年間14勝だと最多勝になれますね。内容もすごい。ツールのプロローグでまず優勝です。他にもブエルタで2勝ですからね。翌84年も年間19勝。ツールのステージ2勝で、ベルギーチャンピオンにもなりました。85年は24勝でツールのステージはまたしても2勝。特筆すべきはロンデ・ファン・フラーンデレン(ツール・デ・フランドル)。豪雨のレースでコッペンベルフは今よりずっと狭く、例によってカーニバル状態になります 笑) 最後グラモンの壁でフィル・アンダーソンとヘンニ・コイペルをちぎって独走勝利。いやあ、格好いい。



86年も13勝して、ツールでは緑のマイヨを獲得してますが、区間勝利はなしで、ちょっと不満が残ったかもしれませんが、翌年にはパリ〜ルーベに優勝します。これもドロドロのレースでした。



ミロワールの写真のキャプションは「パラダイスの恐るべき子供」とかいうような意味ですかね。夢見心地の恐るべき子供かな? この持ち方、人差し指と中指の間にブラケットを挟むのも、ハンドルを引きやすかったんですよね。さすがにレースでやったことはないけど。

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ただ、ここまででしたね、黄金時代は。この後2、3年は年間勝利は10勝以上しているんですが、ビッグレースの勝利がぱたっと止まっちゃうんですね。21歳でプロ入りして25歳でパリ〜ルーベに勝つまでの83年から87年までがピークですね。この間にパリ〜ルーベ、フランドル、ヘント〜ヴェフェルヘム、パリ〜ブリュッセルに勝ち、ツールでステージ5勝、スプリント賞も獲得しているのに、88年以降はツールも春のクラシックもほとんど名前が出てこなくなってしまいます。まあ、細かく見ると、一週間以内のステージレースで勝利をあげたり、他のレースでも上位に入ったりしているんですが、ツールの場合、88年以降7回出場6回リタイアですからね。

当時の日本では情報は大きなレースぐらいしか入ってこないし、それまでの活躍が派手だっただけに、どうしちゃったんだろう?の時代が終わり名前も忘れた頃、1996年、サイスポにファンデラールデンの小さな記事が載っていて、パールマンという小さなチームで、ステージレース中宿泊先のホテルで酒盛りをしてレース追放、その後引退発表したというニュースが出ていたのでした。


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昔の BRUTUS

2020.01.25.23:40

色々整理していたら、1980年代の BRUTUS 誌が出てきました。表紙のモデル氏、すね毛がちょっとナンですが、当時の一般的な意識としてはすね毛を剃るなんていうのは知らなかったでしょうからね 笑)
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1982年の10月15日号とあります。この時代、僕は自転車のことなんか何も知らない頃ですから、おそらく誰かからの頂き物でしょう。中を見るとクアーズ・クラシックの紹介とともにアメリカの自転車事情について書かれています。
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写真の配置がなんとなく現在とは違ってゴミゴミした印象です 笑)

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特にアメリカ人としてヨーロッパのロードレース界に参入して活躍したジョナサン・ボイヤー(記事ではジャック・ボイヤーとなっています)が大きく扱われていますね。

ジョナサン・ボイヤーはこの年の世界選手権で最後の最後にアタックして、よもやと思わせた選手でしたが、この時は何しろサロンニがモーターバイクに乗ってるみたいな桁違いのスピードでアタックしてぶっちぎり優勝してしまったのでした。


このビデオで見てもわかるように、グレッグ・レモンもすでにイノーのいるルノーチームに所属していて、ボイヤーの逃げを結果的に潰してしまったわけですが 苦笑)、前年度のクアーズの総合優勝者だったからボイヤーよりビッグネームだったと思うんだけど、この年のクアーズには出てなかったようです。なので自ずとボイヤーに焦点が当てられたわけでしょう。


もう一冊、これは1986年8月1日号。これは自分で購入したものだと思います。82年にはアメリカンでしたが、この年になるとバブル経済直前で、ヨーロッパまで足を伸ばせるようになったんでしょうか。ジロ・ディ・イタリアが特集です。しかし、この表紙の自転車、ボッテッキアのTT用というわけで、いろんなメーカーやビルダーがこの手の最先端未来型・エアロ型のヌメッとした自転車を出してました。
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当時は珍しかった口ひげを蓄えたウルス・フロイラー。モゼールのアワーレコードでブームになった前後ディスクのファニーバイク、アタラのマイヨとともに懐かしいですねぇ。街道の囚人と呼ばれたロード選手たちを意識した囚人服のようなマイヨです。
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この年のジロはロベルト・ヴィセンティーニが優勝でした。ヴィセンティーニはこの優勝よりも、翌年のチームメイトのロッシュとのいざこざの方が印象に強く残ってます。
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さらに1986年というと、前回紹介したバルタリもまだ存命で記事になっています。
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右下の写真が表彰式に出てきているバルタリです。


この雑誌にはさらに86年5月に行われたホビーレース、ツール・ド・ジャパン第一戦の所沢ステージが紹介されています。
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この写真には思い出深いものがあります。私のチームメイトが二人写っています。特に一人は私がチームに入るきっかけを作ってくれた方です。

すでに以前どこかで書いたように、84年の秋、池袋のデパートのスポーツ用品売り場でエンドレスで流れていたツールのビデオに魅了され、それから半月も経たないうちにロード自転車を購入、一人で奥多摩などへ遠乗りしていたんですが、当時まだ創刊直後だったバイシクルクラブ誌にあったトレーニングの記事などを読んで、家のそばでまだ未完成状態だった光が丘公園の周回路でタイムアタックなどしていたのでした。そんなこんなでちょっと持久力がついた頃、2週間続けて奥多摩でお会いした方から練習に来ませんかと誘われて、日曜早朝の皇居周回の練習に参加するようになったのでした。

さて、私自身はこのレース抽選で外れて、この次の第二戦、千葉ニュータウンのステージが人生初レースでしたが、それはまた別の機会に。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとして、こちらにも通知されないまま、ゴミ箱に入れられてしまいます。これは管理ページで迷惑メールをチェックすれば見られるのですが、そんなところは滅多にチェックしないので、承認待ちの印が表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す

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