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「ブッツァーティのジロ帯同記」の評

2023.05.30.10:43

今年の初めに出た拙訳の1949年のジロ・ディ・イタリアの本「ブッツァーティのジロ帯同記」について、京都の日本イタリア会館の谷口和久さんという方が Corrente (コレンテ)という会誌に詳しい論評を書いてくださいました。

これ読めば本を読まなくても大丈夫 笑)それぐらい詳しく紹介してくださいました。ありがたいことです。リンクを貼っておきますので、お時間のある時にどうぞ。

http://italiakaikan.jp/culture/publish/img/Corrente391.pdf#page=4


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コカコーラボトル

2023.03.29.11:11



ほぼ新品のコカコーラボトルを友人から譲っていただきました。といっても、若い人たちはなに?これ??でしょうけど 笑)

これ1986年のツールを見るとこのボトルがツールのオフィシャルボトルだったんだろうと思います。その後もしばらく続いたような気もするけど。。。いずれにしても、NHKでツールの総集編を放送した時、このボトルが画面一面に大量に並んでいるシーンがあってみんな欲しがりましたねぇ。だから日本でも手に入るようになったら、ロードに乗っている人たちはみんな買ったんじゃないでしょうか? 私ももちろん何本か持ってました。

IMG_6871.jpg
イノーをエースにレモンやJF・ベルナール、スティーヴ・バウアー、当時は珍しかった巨漢選手キム・アナーセン(アンデルセン)、二枚目のニキ・リュッティマンらを擁したラ・ヴィ・クレールのチームTT、みんなコカコーラボトルです。

IMG_6872.jpg
後にトリプルクラウンとなるロッシュとイノー。

IMG_6874.jpg
デルガドさまもこのボトル

IMG_6875.jpg
これはジャン=フランソワ・ベルナールです。すごい後ろ乗りで、現在のフォームとまるで違います。私の世代だと、今の前乗りのフォームはあまり格好良くないという印象の人が多いんじゃないでしょうかね。当時はこういうフォームを真似してましたが、いかんせん手足がこんなに長くないのでね 苦笑)

IMG_6878.jpg
1986年はレモンとイノーの確執なんて言われて、戦前からレモンを勝たせると言い続けたイノーが中盤にレモンに対して5分以上のリードを奪ってしまって、実はイノーはこの時ツール6勝目を狙ったのではないか、と今だに物議を醸している年です。この年の象徴のようなステージがラルプ・デュエズでの手を取りながらのゴールシーンですが、この時も二人はコカコーラボトルでした 笑)

さて、いただいたのはいいんだけど、僕はコレクターではないので使います。でも、普通に使うと1、2年でコカコーラの文字は消えちゃうでしょうね。実際には水を入れずに飾りとしてボトル入れに入れておいてもどのぐらいもつものか。実際にデ・ローザボトルをそうやって大事に使ったことがあったけど数年でデ・ローザの文字は消えましたからね。

当時のボトルは下の方が心持ち細くなっていて、今のボトルとちょっと形状が違うんですよね。当時物のボトルってヤフオクなんかでも張ってるんだけど、ものによってはとんでもない値段になるし。。。

というわけで、こうすれば劣化しないよという案があったらぜひ教えてくださいませ 笑)

Arturoさんに感謝。


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グラン・カミーノ、雪で途中キャンセル

2023.02.24.12:27



ゴール20キロ前でキャンセルになりました。この時点では3人がまだ逃げていたようですがね。上の YouTube で見るとヴィンゲゴールが審判カーにかなり詰め寄ってますね。最後までレースをやりたかったのかな?

雪といえば、2013年のツィオレクがカッさらったミラノ〜サンレモ(拙ブログではデーゲンコルプのブログで紹介しました)も、途中でニュートラルになって、選手たちはチプレッサ峠をバスで越えて降りてからレース再開なんていうことをしていました。あの時はキャップの鍔が凍結して氷柱が下がってましたからね。

YouTube にはいろいろありますが、雪でニュートラルになるところがありました。


雪といえばこれも拙ブログでは何度か書いた1988年のジロ・ディ・イタリアのガヴィア峠。デルガドの講演会でも質問がでて、あんな寒い日のレースは生涯で2回しかなかった、対策なんて当時は何もしなかった、なんて言ってました

この時代は、選手はタイツやレッグウォーマーして走ってはいけなかったんですよね。腕カバーや長そではOKだったんだけど。

1980年のリエージュ・バストーニュ・リエージュも雪の中のレースで、まあ、この時代は結構選手の人権が蔑ろにされていた時代で、ときどき強行日程に選手たちがストで対抗していたりしていましたが 笑)

ここで優勝したイノーはのちのインタビューで、この時どっちかの薬指が凍傷になって今でも感覚がないんだと言ってました。

まあお茶の間でぬくぬくテレビ観戦の身としては、雪の中のレース、もっとやれ〜!という気持ちもありますが。。。笑)


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ウルリヒ、Amazon でドキュメンタリーになる

2023.01.13.16:29

いやはや、正月早々喉風邪をこじらせて、咳と鼻水、さらにひどい声枯れと髪の毛かき上げるだけで頭のあちこちがチクチク痛いし、コロナか?と、とうとうドンキで買った980円のキットを使ってしまいました。陰性でした。というわけで、今年に入ってまだ1キロも自転車に乗ってないんですよね。あ、買い物自転車には乗りましたが 笑)

というわけで、ヤン・ウルリヒのニュースが載っていました。今年Amazonが4部構成の大型ドキュメンタリーを作るそうです。ドイツ国内のTV番組なら去年のツール前に放送されたらしいんですが、ここでは本人はインタビューに答えることはなかったそうです。Amazon との契約上の問題があったんだと。

だから Amazon のドキュメンタリーはドーピングも含め、全ての話題を自分の口で話すことになると言ってますね。

ウルリヒの話「このドキュメンタリーの後、(全てのテーマがもう一度議論され、その後願わくば最終的に決着がついたら)たぶんいくつかの扉がまた開くことになるだろうと思っている。そうなれば、僕ももう少し自由に人生を歩むことができるだろうと。

ただ、どこかのチームの監督になることは多分もうあり得ないだろうね。でももし誰かが僕を必要としたら、僕はなんだってやる気はある。でも僕の方から売り込むことは絶対ない。

ドキュメンタリーは物凄くエモーショナルなものだ。確かに以前も想像してみたことはあったけど、今はそれが本当になるんだ。以前はずっと思い出さないように抑え込んでいた。でも今は見つめ直すことが大切だ。簡単なのことではないよ。もちろん涙がでることもよくある。」

ウルリヒはアームストロングのようなクセのある人間ではなかったように思うんだけどね。普通に誰からも好かれていたと思う。それだけにドイツ国内でのドーピングや飲酒などでのトラブルで、ものすごいバッシングを受けてたからね。

現在、ランス・アームストロングとカリフォルニアをサイクリングしているそうで、アームストロングもだいぶ丸くなったんでしょうかね?


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ヴィットリオ・アドルニ逝去

2022.12.28.11:44

先日エフェネプールが大差の独走勝ちした世界選の時に、戦後一番の大差はアドルニだと書いたばかりでした。

クリスマスイヴの日に亡くなったそうです。85歳。1968年の世界チャンピオンで、他にも65年のジロでも総合優勝しています。

ほぼ10分の大差をつけた68年の世界選手権は YouTube にあります。画像はまあ、当時のものですから 笑)



ちょっと我が家にあった本を2冊引っ張り出して調べてみました。
(参考文献 Walter Rottiers: Die großen Radsport-Stars, München,1991、Helmer Boelsen: Die Geschichte der Rad-Weltmeisterschaft, Bielefeld, 2007)

この世界選はイタリアのイモラサーキットとその周辺の周回コースを18周、277Km で行われ、難度としてはフツーの世界選コースだったようです。

レースは4周目からの8人の逃げにアドルニと、2回世界チャンピオンになっているリック2世こと、リック・ファン・ローイが混じり、8週目からは4人に、そして13週目にはファン・ローイら残っていた選手たちもチギレて、残りの5週80キロ近くをアドルニが独走で、最終的に戦後最大、世界選史上では1928年のジョルジェ・ロンセの17分33秒に次ぐ大差で優勝ということになりました。

今の感覚からすると、後ろの追走集団は何していたんだ? ということになりますが、これには当時のレース界の事情が大きな影響を与えたようです。

レース前日の夜、ジャク・アンクティルらベテラン選手の何人かがホテルで対メルクス包囲網を敷くことを提唱したと言われています。

メルクスはこの時まだ23歳ですが、すでに前年に世界チャンピオンになっていて、このシーズンもジロ・ディ・イタリアとパリ〜ルーベをはじめ、すでに32勝していました。だから、後ろではメルクスマークで牽制しあって、追走の協力体制が取れなかったというのと、イタリアチームが完全に抑えに入ったのが、この大差の最大の原因ですね。逃げにはベルギーのファン・ローイが入っていたわけですが、この大ベテランが日の出の勢いの若造メルクスのために走るはずはなく、最終的な結果を見ると2位のヘルマン・ファンスプリンゲル以外は6位までイタリア人が占めています。メルクスは8位止まり。イタリアチームの総合的な強さが際立っていますね。

ではアドルニはイタリア期待の選手だったかというと、これがまたかなりビミョー。イタリアチームでの期待度はフェリッチェ・ジモンディ、ジャンニ・モッタ、ミケーレ・ダンチェッリ、フランコ・ビトッシの順番で、そもそも、アドルニは68年シーズンが始まる前にテレビのスポーツバラエティショーでコメンテーターとして出演するようになって、チームとも揉めて罰金まで払わされ、世界選のメンバーに選ばれたのも最後の最後だったようです。

アドルニは自転車競技を始めたのが19歳とかなり遅かったようですが、アマチュアとして22歳の時にローマオリンピックの団体追い抜きの補欠選手になり、翌年からプロになって、33歳で引退しています。生涯勝利数は40とありますね。ステージレースの総合が6つ、個人TTが6つ含まれ、3大ツール全てでステージ優勝しています。

引退後もUCIの運営に関わり、現在のワールド・ツアーシステムの構築に貢献したとのことです。 rip.

追記(12/31、23:28 イタリアチームが後ろで押さえに回ったというところを追記しました)


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1960年代ミロワール誌多数ゲット 笑

2022.10.01.12:25

名称未設定

ヤフオクで1960年代のミロワール・デュ・シクリスムを25、6冊手に入れました。さっそく我が家の悪戯猫がこれ見よがしにクンクン、スリスリ、ゴロゴロしにやってきました 笑) 我が家にはやたらと愛想の良い保護猫のこいつと室内で飼っている野良猫の二匹がいるんですが、野良猫のやつには以前ミロワールの表紙をボロボロにされたことがあるので、気をつけないといけません 苦笑)

もっと古い自転車雑誌だと、以前紹介したル・ミロワール・デュ・スポールや、その後継雑誌 But et Club (以前1952年のコッピのやつを何回かに渡ってここで紹介したことがあります)もあるんですが、日本でも有名だったミロワールの創刊年の号というのが嬉しいです。

ネット検索してみるとミロワール誌は1960年1月に隔月刊で発行されて6号まで出た後、1961年1月から月刊発行になり、ナンバリングも1号からにリセットされたようなことが書いてあります。

というわけで、今回手に入った中で一番古いのがこれ。
IMG_6155.jpg

このクラシックの王者リック・ファン・ローイが表紙を飾っている1961年5月の号はリセット後の第5号というわけです。ちなみにリセット後の第1号は前年末に亡くなったファウスト・コッピへの献呈号だったそうです。見てみたいけど、これはプレミアついているだろうからなかなか出てこないだろうなぁ。

しかしこのミロワール・デュ・シクリスムもフランス共産党系の出版社から出ていたってのが、ちょっと驚きですわ。これは別の号ですが、当時の広告も楽しいです。
IMG_6156.jpg

ビール会社の名称がドイツ語的なのでアルザス地方のビールだろうと思ってググってみたら、たしかにアルザスの醸造所でしたが、1989年に倒産して、現在この名称はハイネケンが取得してアフリカで主に売られているとあります。栄枯盛衰。。。

さて、1961年といえば先日亡くなったゴダールの「勝手にしやがれ」が1960年なので、ヌーヴェルヴァーグのはじまった頃。ルイ・マルの「死刑代のエレベーター」とかトリュフォーの「大人はわかってくれない」とか「突然炎の如く」とか、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」とか、フランス映画の黄金時代ですね。

届いた雑誌、まだパラパラ見ただけですが、そのうちヒマを見てご紹介していきましょう。ただ製本の質が良くないから取扱注意だな 笑)


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アブデル=カダール・ザーフのこと

2022.03.29.11:24

ちょくちょく上位で見かける名前だな、と思っていたら、ヘント・ヴェフェルヘムでアフリカ大陸出身の黒人種として初優勝したビニアム・ギルマイ。昔のイノーのインタビューで、しばらくすればアフリカ大陸出身者が自転車競技の上位を独占するような時代が来るかもしれないと言ってましたが。。。



ラポルトのアタックに対する反応も、最後のスプリントも勝負どころがバッチリでした。しかしまだ21歳。この先まだ活躍しそうです。というわけでアフリカ大陸出身の選手として一番最初に有名になったのが、表題のアブデル=カダール・ザーフという選手。1950年のツールでレース中にワインをがぶ飲みして倒れて有名になったんですね。

この人は当時まだフランス領だった北アフリカのアルジェリア出身で、イスラム教徒だったそうです。つまり、酒は飲まないんですね。それがこの年のツールはものすごく暑かったそうで、耐えられずに、沿道でよく冷えたワインのボトルを一気飲みして昏倒したと言われています。YouTube に記録映像があります。



映像でわかるように、ザーフは二人で逃げています。そうなんですね。ゴール前30キロ弱の地点では単独でリードして、ほぼこのまま逃げ切りが決まりそうだったようです。

もちろんリタイアですが、これでものすごく有名になっちゃったんですね。日射病と急性アルコール中毒でツールをリタイアした選手ってわけです。人気者になったザーフはあちこちのクリテリウムレースに呼ばれて大金を稼ぐとともに、酒のコマーシャルでポスターにまでなってしまいます。

ザーフ

この時のザーフのチームは北アフリカチーム【当時は国別対抗】で、6人のメンバーでしたが、ザーフ以外はフランスからの移民の末裔で白人種。その点でも珍しがられたのでしょう。ザーフは7年間のプロ生活で、ヨーロッパでのレースでの勝利はありませんでしたが、ツール・ド・フランスに4回出場して、ステージ5位というのが2回あります。このとき酔っ払わなければ、いわゆるアフリカ系初のツールのステージ優勝者として名前を残せたのでしょうがねぇ。というわけで、おそらくその栄誉を担うのはギルマイになりそうな予感が。。。


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ツール覇者の身長

2022.01.25.11:39

前のポリットの記事で190センチ以上と言ったわけですが、私が自転車のロードレースに興味を持った頃の有名選手たちってみんな170~175ぐらいの選手が多かったんですよね。

1980年台のツールの優勝者を見てみるとこんな感じ。

1980 ヨープ・ズーテメルク 173cm
1978,79,81,82,85 ベルナール・イノー 174cm
1983, 84 ローラン・フィニョン 174cm
1985, 89, 90 グレッグ・レモン 178cm
1987 ステファン・ロッシュ 175cm
1988 ペドロ・デルガド 171cm

うーん、この資料はウィキペディアの各国語版などから持ってきたものなので信憑性は???です(印象としては、最近実際に並んだことがあるデルガドhttp://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3184.htmlが171cmもあったかな、という気がしてます 笑)が、いずれにしても170センチ台、それも前半ですね。

なので186cmのインドゥラインが91年から5連勝したのは驚きでした。ただ、その後に続いたビヤルネ・リースもヤン・ウルリヒも183、4cmで、大型で馬力があって、そのくせ長い登りも強いという選手の時代になったのかと思われたのでした。だから大男たちを登りでぶっちぎった172cmのパンターニが人気者になったのも、なんとなく頷けるものがあります。

もっと昔のツールを制覇した有名選手たちの身長もわかる範囲で見ておくとこんな感じ。

1938,48 ジノ・バルタリ 172cm
1949,52 ファウスト・コッピ 177cm
1958 シャーリー・ガォル 173cm
1957,61~64 ジャック・アンクティル 176cm
1969~72, 74エディ・メルクス 182cm
1973 ルイス・オカーニャ 178cm
1965 フェリチェ・ジモンディ 181cm

21世紀に入るとこんな感じ。ちなみに記録を消されたけどアームストロングは177cmだそうです。

2006 オスカル・ペレイロ 177cm
2007,09 アルベルト・コンタドール 176cm
2008 カルロス・サストレ 173cm
2010 アンディ・シュレック 186cm
2011 カデル・エヴァンズ 174cm
2012 ブラッドリー・ウィギンズ 190cm
2013,15,16,17 クリス・フルーム 186cm
2018 ゲラント・トーマス 183cm
2019 エガン・ベルナル 175cm
2020,21 タデイ・ポガチャル 176cm

ツール見たいな長い登りがあるコースだと、どうしても大柄だと不利ですから、ときどき180cm台の選手がでてくるとしても、おおむね170台ということになりますかね。次は世界選手権の優勝者の身長でも調べてみましょうか。


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1990年のパリ~ルーベ

2022.01.15.17:46

1990ParisRoubaix3-500x311.jpg

先日1993年のパリ〜ルーベで、最後のゴールスプリントで8cm差というのをご紹介しましたが、今回はミリ単位の差です(昔のサイスポの記事では 2cm と書いてありますが、P.Sergent: A century of Paris-Roubaix に従います)。



エディ・プランカールトとカナダのスティーヴ・バウアー、それにエトヴィク・ヴァン・ホーイドンクの3人が逃げ続けてルーベのヴェロドロームに入ってきたところで追走してきたマルティアル・ガヤンと、プランカールトのチームメイトのジャン・マリー・ヴァンペルスが追いついて、ヴァンペルスがプランカールトのアシストとして前を引きます。うーん、どの選手も懐かしい名前です。

スプリントだけならプランカールトがスプリンターとして有名でしたが、最後尾につけたヴァン・ホーイドンクがバンクの上に上がって、そこから一気にアタック。バウアーがそれに反応、一テンポ遅れてプランカールトがそれを追い、最後はバウアーをさしたのでした。

でもこの差だと本人たちもわからなかったんでしょうね。どちらもガッツポーズはしません。上の横からの写真で見てもよくわかりませんね。手前がバウアーですが、やはり数ミリ差でしょうか。

この年はドイツ統一の年で、旧東ドイツのオラフ・ルートヴィヒ(16位)やヤン・シュール(25位)、ウーヴェ・アンプラー(30位)やポーランドの前年度アマチュアチャンピオンだったヨアヒム・ハルプチョク(14位)、同じポーランドのゼノン・ヤスクラ(DNF)や旧ソ連のドミトリ・コニチェフ(DNF)と、それまでは西側のプロレースに出られなかった選手たちも出場した年です。特にルートヴィヒは翌年から9位、2位、3位、4位と活躍しますが、現時点までで旧共産圏出身の選手の勝利はジョン・デーゲンコルプだけです。(デーゲも今住んでるのはフランクフルト近郊だから、旧共産圏というのはちょっと無理があるかなぁ。でも、生まれたのは89年1月、まだ東ドイツですね 笑)


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1993年のパリ〜ルーベ

2022.01.10.15:14

1993年のパリ〜ルーベです。ベートーヴェンの7番の交響曲のBGMがなかなか合っています。



というわけで、フランコ・バッレリーニと前年度優勝のジルベール・デュクロ=ラサールのスプリントで、8cm差でデュクロ=ラサールが勝ったんですが、完全に自分が勝ったと思ったバッレリーニ、やっちゃいましたってやつです。これだけ盛大にガッツポーズしちゃったので、現場の場内放送でもバッレリーニが優勝!と流しちゃったそうですが。。。。

というわけで、ゴール後の落胆ぶりが尋常じゃないです。

「もう二度とパリ〜ルーベは走らない。いや、もう二度と自転車には乗らない。なんてこった。全てパーフェクトだったんだ。俺が一番強かったんだ。」(P.Sergent: A century of Paris-Roubaix による)

で、落胆した彼はもう二度と自転車に乗らない、どころかすぐに自転車に乗って1週間後のリエージュ・バストーニュ・リエージュに21位完走、3ヶ月後にはツールでステージ優勝した挙句、「もう二度と走らないと言っていたパリ〜ルーベで翌年も3位。さらに次の95年のパリ〜ルーベでは独走でついに優勝してます。さらに98年には2回目の優勝も果たし、3勝しているモゼールについでP~R複数回優勝のイタリア人となりました。

バッレリーニ、フォームが首が埋まったような肩を怒らせたフォームで、私としてはそれほど好きな選手ではなかったんですがね。この時はラスト30キロをデュクロ=ラサールと二人で逃げ、途中デュクロ=ラサールは自分は去年優勝しているし、今回はもうダメだとブラフを掛けたという話もあり、実際前を引く率はバッレリーニの方が多かったようで、そんなこんなでゴールスプリントも自信があったんでしょうね。

バッレリーニはその後世界選のイタリア代表チームの監督を務めてチポッリーニ、ベッティーニX2、バランと3人、4回の世界チャンピオンを生み出したんですが、2010年に40代半ばで、アマチュアの自動車ラリーの事故で亡くなってしまいました。合掌。


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クリケリオンの自転車

2022.01.08.11:47

1987hitachirossincaludecriquielion.jpg
© https://fortyfour16.wordpress.com(下にリンクしてあるコレクターの方のブログから借りてきました)

正月早々、アメリカのクリケリオンとスプレンドール・ヒタチファンのコレクターとFaceBook でひょんなことから意気投合、友達になってメッセンジャーでやりとりしていました。

クロード・クリケリオン、2015年に脳卒中で58歳で亡くなった元世界チャンピオン。私がこの選手のファンだったことは拙ブログでも何度も書きました。

元世界王者クリケリオン、危篤か?http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-2013.html
クリケリオン、逝去http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-2015.html
クリケリオンのことhttp://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3743.html
さらにクロード・クリケリオンhttp://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3744.html
もう一つクロード・クリケリオンhttp://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3746.html
88年世界選手権、クリケリオ〜〜ンhttp://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-3747.html

これ以外にも87年のスーパークリテリウムのときの話も5回にわたって書いたので、ご興味ございましたらどうぞ。

懐かしのスーパークリテリウム87 サイン会篇http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-17.html

まあ、クリケリオンなんて言われても、日本で名前を知っている人はロードレースにかなりエンスーしちゃってた人でしょう 笑) 昔Jスポの解説で栗村さんが当時好きだった選手としてクリケリオンの名前を上げていましたが。。。

ところが世界にはやっぱりいるんですねぇ 苦笑)冒頭のアメリカ人、やっぱりクリケリオンとスプレンドール・ヒタチのファンで、クリケリオンが実際に乗っていた自転車をコレクションしているそうです。そのブログがこちら。

https://fortyfour16.wordpress.com/2020/05/06/a-second-claude-criquielion-hitachi-rossin-bike-surfaces/

もちろんパソコンの自動翻訳などを利用しながら 笑)読んでみると、なかなか興味深いです。1987年のヒタチ・ロッシンチームでクリケリオンが乗った(おそらく間違い無いでしょう)ロッシンを手に入れるまでの顛末が書かれています。

https://fortyfour16.wordpress.com/2019/05/31/a-look-at-david-verbekens-claude-criquielion-hitachi-rossin/?fbclid=IwAR34lMXBY3T8suEhqLnXUBpBW9spJH9EP0_rL4XL1zr5KjUjJTwu-VZtcCE

こちらはその1年ほど前にクリケリオンが87年のツールで乗っていた自転車を所有しているベルギー人のところでの話。まあ、サイズ的にシートは芯々で540は今僕が乗っているデ・ローザと同じですが、トップが570ってのは、これは乗れないな。しかもステムの突き出しが120なんてのは完全に理解を超える世界 笑)

ようするに手足が長かったんでしょうね。前にも書いたけど、我が家にあるサイン入りのクリケリオンマイヨも、着てみるとお腹が出てしまいます。身長は僕とほぼ変わらないか、むしろ1〜2cmクリケリオンの方が高かったはずなんですが、胴の長さは僕より短かったってことでしょう 苦笑)

むかし市川さんがまだヒタチの選手だった時に聞いた話ですが、ベルギーの自転車屋でフツーに現役選手が使ってた自転車が売ってたりしたそうです。値段的に見ても、それほどびっくりするような値段ではなく、普通に中古の自転車という感じだったと。

ただ、もう亡くなって5年以上、現役時代から数えて30年経っているので、今後はもうそうそう出てこないでしょうねぇ。ヤフオクで出てたら絶対買いたいけどね 笑) ただ、個人的にはロッシンより青と黄色のスプレンドールが欲しいけどね。むろんロッシンの方がずっと綺麗だし上のランクの自転車なんでしょうけど。。。

そういえば私の偽スプレンドール、現在では庭先で雨晒しですが(カバーはかけてますが 笑)、この自転車のことも以前ここで書いたことがありましたっけ。

買い物用駅までロードhttp://tatsuya1956.blog48.fc2.com/blog-entry-816.html


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2006年、ジロのイエンス・フォークト

2021.12.27.22:34

あるふぁさんのコメントに触発されて、ちょっと調べてみました。2006年のジロ・ディ・イタリア第19ステージ。

この年のジロは第8ステージでトップに立ったチームCSCのイヴァン・バッソがそのままリードを広げて、終わってみれば2位に10分以上の大差をつけて優勝したのでした。

で、バッソのアシストだったイェンス・フォークト(フォイクト)が見せた19ステージゴール前のの態度。今の自転車競技ではもう見られない格好よさでした。



このステージはサン・ペレグリーノ峠の山頂ゴールステージ。この日フォークトは、バッソのアシストのために逃げに乗って、ずっと集団の後ろでツキイチ。最後の登りでバッソが大丈夫だとわかるとアシストとしての役割を終了し、スペインのマヌエル・ガラテと二人で逃げます。しかしほぼガラテが前を引いて、フォークトはあまり前に出ません。最後ゴール直前になって、フォークトはガラテの横に並んで彼の肩を叩いて「行け!」と言って勝利を譲ります(3時間13分50秒ごろ)。

ゴール後のセリフがなんとも格好いい。

フォークトの話。「このステージでは僕は他の選手の後ろに付いていただけで仕事を何もしなかったからね。勝利にふさわしくないよ。プレステージの高い勝利を捨てたことはわかるけど、ガラテが勝ったのは、彼がそれに値する働きをしたからだ。」

昨今のレースシーンではまずお目にかかれないシーンではあります。たぶん、今のレースでこの時のフォークトと同じことをしたら、ゴール後に監督からこっぴどく叱られるんじゃないでしょうか 笑)

一方、優勝したガラテも感動しています。

ガラテの話。「フォークトが僕にしてくれたことは決して忘れない。いつかお返しをするつもりだよ。ゴールが近くなったら、彼は僕にこう言ったんだ、自分が勝つわけにはいかない。スプリントするつもりはないよ、って。彼がしたことは、彼が競技の面で立派な勝者であることを証明するともに人間的にもグレートで、僕らがやってるスポーツの素晴らしい面を見せてくれたね。」

この時フォークトはツールですでに5年前にステージ勝利を挙げていたし、逃げ屋として有名な選手でしたが、ジロは初出場。というか、この選手の経歴を見ると、この年のジロまでほとんどイタリアのレースに出場してませんね。でも、この2年後、ジロでソロアタックを決めて勝利を挙げていますので、まあ、よかったよかった。



このステージで39位でゴールしたガラテがお返しとして助けてくれたかどうかはわかりません 笑)


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誰だかわかりますか?

2021.10.20.00:32

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右側は今をときめく、ツール連覇でこれから何連覇するのかとちょっと不安な 笑)ポガチャルですが、左は若い人にはわからないでしょうね 苦笑) 1997年のツール優勝者で、その後7連覇が無効になったランス・アームストロングのライバルだったヤン・ウルリッヒです。

「特別な人との特別な出会い。先週僕はパリで現ツール・ド・フランスチャンピオンのタデイ・ポガチャルとカフェで一緒になったんだ。チャンピオン、素敵な話ができて感謝するよ。」

というキャプション付きでFBに載っていて、思わず反応してしまいました。ウルリッヒ、数年前に見た写真よりだいぶ痩せてるような気がするけど。。。


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1952年のツールを古雑誌で(5)最終回

2021.02.18.13:10

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But et Club. Le Miroir des Sports の7月18日号です。表紙は総合トップのコッピ、二位のオケルス、そして後ろにロビックです。

今日は18ステージから。バニエール・ド・ビゴールからポーまでの149キロの山岳コースですが、ここで勝ったのもコッピでした。

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ピレネーでも勝者はコッピというわけで、ピレネーを自分のテリトリーとしていたロビックとしては悔しくてたまらなかったことでしょう。上の大きな写真はトゥルマレ峠へ向かう途中の村、サン・マリー・ド・カンパンを行く先頭集団です。この村はツール黎明期の伝説の村ですね。1913年、トゥルマレ峠でフォークを折ってしまった総合トップのユジェーヌ・クリストフがこの村までトボトボと歩いてきて鍛冶屋で道具を借りて自力でフォークの溶接をして走り続けたという、ホントかあ??という逸話が残っています。

右の写真は無論コッピで、キャプションではトゥルマレ峠の頂上4キロ前でアタックするともう誰もついてこれず、淡々としたペースでハンドルの上を持って走り続けたと。したの小さいのはそのコッピを必死で追うオケルスとカレアで、ロビックはすでに千切れているようです。

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上の表題はマイヨ・ジョーヌが灰色のオービスク峠を突き進むみたいな意味のようですが、写真はトゥルマレ峠の頂上を通過するオケルスとカレアで、さらに100メートルぐらい後ろにロビックとジェラベールが見えています。

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こちらがトゥルマレ峠(左)と霧のオービスク峠を単独先頭通過するコッピです。

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このままコッピが独走で優勝するかと思っていると、残り15キロで追走グループのルイス(総合3位)、オケルス(総合2位)、ロビック、ボーヴァンに吸収されます(上)。散々一人で逃げ続けてきたので、現代の常識ではもうここまでですけど、この時代はそうではないんですね。

アタック合戦に乗じてコッピが残り3キロでアタック。単独でゴールです(真ん中右)。下は2位争いで、オケルス(左)とロビックの小柄な二人の猛烈なスプリント。

19ステージはポー〜ボルドーの平地195キロ。ここではオランダ人のハンス・デッケルスという選手が逃げ切り優勝。続く20ステージはボルドからリモージュへの平地228キロで、こちらはフランス人のジャック・ヴィヴィエという選手が同じく僅差の逃げ切り優勝となりました。

このステージではこんな写真も掲載されています。
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これ今やったら全員失格ですね。でも80年代のレースシーンでは、審判まで遮断機を持ち上げるのを手伝ってるシーンがありました 笑)

そして21ステージ。リモージュからピュイ・ド・ドームへの上りゴールの245キロ。ピュイ・ド・ドームは史上最高のツールと言われる64年のアンクティルとプリドールの一騎打ちで知られる山で、九十九折で登っていくのではなく、螺旋階段のように、山の周りをぐるっと回って登っていくんですね。(アンクティル対プリドールについてはかつて書いたので詳しくはそちらで。)

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表題はピュイ・ド・ドームでのコッピのジャンプ前の小競り合いみたいな意味でしょうか? 右下はゴールまで50キロの時点で逃げる3人。左からバルタリ、ジェミニアニ、そしてプロ入りしたての12ステージの勝者オランダのノルテンです。

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こちらはピュイ・ド・ドームの登り口での3人。三者三様のスタイルで登って行きます。

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こちらもピュイ・ド・ドームの戦い。上の写真が逃げる3人で、このちょっと後に、写真では一番辛そうに見えるノルテンが二人を切り離し単独で逃げて行きます。

中段の三枚は後ろで追いかけるコッピ、オケルス、ロビックの姿。しかし写真にはないんですが、コッピがここからアタックしてバルタリとジェミニアニに追いこし、ノルテンに追いつくとそのまま後ろで体力温存。ゴール400メートル前でアタックして、ゴールではノルテンに10秒差をつけて優勝(下)しました。

これには後日談があって、翌日のステージでコッピがわざわざノルテンのところにやってきて、最後にツキイチで前に出なかったことを詫びたそうです。同時に、ノルテンの将来性を称揚していつかチャンピオンになるだろうと言ったそうです。

しかし、その後のヤン・ノルテンはツールとジロでステージ優勝を1回ずつ挙げただけでした。この雑誌でも将来コーブレットのようになるだろうと書かれていますが、事故や怪我で才能を発揮できなかったようです。フーゴー・コーブレットについてはこちら

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さて、52年のツールを取り上げる最後の号は7月21日号です。表紙は表彰式でのコッピ。肩からかけているのが優勝者へ与えられるタスキですね 笑)

その前に第22ステージはクレルモン・フェランからヴィシーまでの63キロのTTステージでした。このステージは途中経過を見ると、フィオレンツォ・マーニとスタン・オケルスのかなり激しい鍔迫り合いだったようで、ラスト20キロの途中の通過タイムは常にこの両者が互いに2秒とか3秒の差でトップタイムを出し合っていますが、ゴールでは結局2秒差でマーニが優勝です。コッピは休息日 笑)で3分遅れの14位でした。

そして最終ステージ。23ステージはヴィシーからパリまで。距離はなんと最終日にして354キロって、これ何やねん? 嫌がらせ? 完走した選手へのご褒美でしょうか 苦笑) レースは結局15人ぐらいの集団が80キロ地点から逃げて、280キロ近く逃げ続けてスプリントとなり、フランス人のアントナン・ロランという選手が優勝でした。

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これは表彰式前後のコッピの百面相。表紙の写真もこのシリーズの一つでしょう。

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こちらは表彰式と凱旋周回の様子ですね。当時は最終日はパリのパルク・ド・プランスという自転車競技場がゴールになっています。

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こちらは総合2位のスタン・オケルスと3位のベルナルド・ルイス。まあコッピがオケルスに28分差をつけてぶっちぎっちゃったので、2位や3位は影薄いです。ちなみに4位はジーノ・バルタリ、5位に大口叩きのジャン・ロビック、6位に第三の男フィオレンツォ・マーニとなってます。

というわけで5回に渡って1952年のツール・ド・フランスをBut et Club. Le Miroir des Sportsというスポーツ専門写真週刊誌を元に見てきました。最後までお付き合いくださった方にお礼申し上げます。この週刊誌はまだまだたくさんあるので私としても見切れてないし、少しずつ今回のような形でまとめておきたいと思っていますが、果たしていつになることやら。。。何しろフランス語はね、自動翻訳と辞書とで格闘しなけりゃならないので 苦笑)


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1952年のツールを古雑誌で(4)

2021.02.17.15:17


But et Club. Le Miroir des Sports の7月14日号です。表紙はコッピとジェミニアニです。ピレネーのペイルスールド峠の写真。自転車のパーツ関連はどうも知識不足ですが、ジェミニアニのブレーキはマファックのセンタープルでしょうか?写真で見ると結構これ使っている選手が多いですが、コッピは私の世代では見慣れたサイドプルのカンパでしょうか。

胸のポケットにチューブラータイヤ襷掛けで鬱陶しいだろうなぁ。胸のポケットも便利そうだけど、いろいろ入れるとかなり邪魔そうでもあります。

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第15ステージはアヴィニヨンからペルピニャンへの255キロ。上はニームにあるローマ時代の遺跡の前をサイクリングペースの集団。下は先頭を逃げるジョルジェ・デュコーと、バルタリのアシストとして有名なジオヴァンニ・コッリエリ。結果的にはフランス人デュコーがアタックして、ゴールではコッリエリを9分近く引き離して優勝ですが、後ろの追走集団はほぼ25分遅れっていうのが、まあ、今日の目からするとびっくりですね。

16ステージはペルピニャンからトゥールーズへの平坦な200キロで、スタート前のインタビューでロビックだけは相変わらず敗北を認めず強気の発言をしていたようです。最近はこういう破天荒な選手っていなくなってしまって、みんな優しく穏やかで慎み深くなってしまったような気がしますね 笑)

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このステージも暑かったようです。上の写真には、選手たちは泉の誘惑に耐えられなかったと表題がついてます。しかし得体の知れぬ泉の水なんか飲んじゃって大丈夫なんでしょうか 笑) よく旅行ガイドブックなんかではヨーロッパの水道水はそのまま飲まないほうがいいと書いてあるし、実際私の友人は水道水飲んで下痢になったと言ってましたがね 笑)

このステージの勝者はアンドレ・ロッセール。第二ステージに続いてこのツール2勝目です。このステージは10人以上の集団スプリントで決着したようです。

で、休息日。選手たちの様子です。
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コッピ(左上)とバルタリ(左下)は別格で一人ベットに横になってますが、アシスト選手たちは相部屋なんでしょうか。右上は当時の有名な歌手のティノ・ロッシからインタビューを受けるロビック。右下はジェミニアニが夫人と少し前の But et club 紙を見ているところです。

で、いよいよ17ステージはトゥールーズからバニエール・ド・ビゴールまでの山岳コース204キロ。
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左の教会の前を登るのはアレス峠でアタックしたドットという選手。右下はペイレスールド峠で先行する有力選手たちです。左からコッピ、ジェミニアニ、オケルス、ジェラベール、ロビック。

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上記の5人からペイレスールドの頂上でジェラベール(右)がアタック、ロビックがそれに反応しますが、山岳賞はジェラベールです。後ろに小さく見えるのがコッピですね。

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しかしこの下りでアタックしたのはジェミニアニでした(左)。そのまま次のアスパン峠では後続に1分ほどの差をつけ、ゴールのバニエール・ド・ビゴールでは1分以上の差で単独ゴール。2位争いは20人弱の集団ゴール(右の一番下)。

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ゴール後はさしものラファエル・ジェミニアニといえども食前酒サン・ラファエルというわけにはいかず、ペリエです 笑) 第8ステージに続いて2勝目。 つづく


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1952年のツールを古雑誌で(3)

2021.02.16.14:34

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But et Club. Le Miroir des Sports の7月10日号です。表紙は強気の発言で人気者だったジャン・ロビック。戦後再開第1回目の47年のツールで最終日に逆転優勝した選手です。最終日に逆転というのはTT以外ではこのロビックだけ。

何しろ言いたい放題で、この次の年から3連覇する同郷のルイゾン・ボベをガキ扱いして「俺が面倒見てやらあ」と馬鹿にし、コッピもバルタリもちっとも怖くねえ、とホラ吹きまくり 笑) そのくせ走り方は顔を歪めて体を振りながらスピードを上げ下げさせるインターバル的な走り方だったようで、写真からもわかるように悲壮感あふれる魅力的な雰囲気を持っています。大変な人気者だったようです。

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第12ステージはセストリエールからモナコへの山岳ステージ251キロ。ですが、表紙を開くと出てくるのがジノ・バルタリがファウスト・コッピにホイールを渡したという文字と写真。マイヨ・ジョーヌのコッピ(真ん中カスクの選手)がパンク。すると10年来のライバル(「良き」ライバルでは決してなかったわけですが)だった老バルタリ(右・背中を見せている)が止まって自分のホイールを差し出します。

このステージでは砂利道でコッピはチェーンを外したり(下左)、ゴール6キロ手前で再びパンクしてフィオレンツォ・マーニからホイールを受け取ったり(下右)。

このステージで優勝したのはオランダ人ヤン・ノルテン。この選手はこの年6月にプロ入りしたばかりで、まだプロのキャリア1ヶ月という選手でした。このオランダ人、この後も大注目を浴びる若手選手となります。ちなみにこのステージも1位は単独逃げきりで2位にほぼ1分半の差をつけてます。
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伴走車が時代を語りますね。

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13ステージはモナコからエクサン・プロヴァンスの平地ステージ214キロ。左の写真はモナコをバックに海岸沿いを走る集団。白黒ですが、なんとも華やかな感じです。右ページ上左はゆっくり走っていた集団の中でコッピが落車し、すかさずアシスト(ゼッケン31)が自分の自転車を差し出しているところです。自転車を直したらこのアシスト選手が乗って追いかけ、追いついたところで改めてコッピと自転車を交換したとあります。このステージの優勝はフランスのラウル・レミイという選手。3人のゴールスプリントだったようです。

14ステージはエクサン・プロヴァンスからモン・ヴァントゥを超えてアヴィニヨンへの178キロ。この号の表紙がロビックだったのはこのステージの勝者だからです。

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写真はヴァントゥへ向かう途中のようです。ピストバンクのような傾斜したコーナーの下方をいくのがロビックです。チェーンの様子からかなりの凸凹道のようですが、上も完全に砂利道ですね(写真をクリックすると大きくなるはずです)。

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こちらはコッピとバルタリを含む追走グループがヴァントゥを登るところです。結局ロビックが2位のバルタリたちに1分半以上の差をつけてゴール(下右)。

総合は相変わらずコッピが2位のスタン・オケルス(上の追走グループの真ん中小柄な選手)に25分以上の大差をつけています。(つづく)


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1952年のツールを古雑誌で(2)

2021.02.15.10:56

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But et Club. Le Miroir des Sports の7月3日号です。表紙は第8ステージで勝ったフランスの人気選手ジェムことラファエル・ジェミニアニ。

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さて前日に続き、第6ステージはナムール〜メスの228キロ。このステージも山岳ではないのに2位に5分半以上の差をつけてイタリアの第三の男と呼ばれたフィオレンツォ・マーニ(右上 この年のイタリアチャンピオン)が逃げ切り優勝です。この選手については書いたことがありました。これによってマーニがマイヨ・ジョーヌとなります。

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このステージは熱い日で、第1ステージ優勝のファン・ステーンベルヘンは途中の水飲み場で水浴びを始めてそのままリタイアしました。このファン・ステーンベルヘンという選手、クラシックを得意としていて、当時のベルギーでは人気ナンバーワンだったそうですが、その年のクラシックに一つでも勝てばあとはどのレースに出るかは自分で決められるというような契約だったと言われていて、この年もパリ〜ルーベに勝っていたので、暑いし辛いし総合上位無理のツールは顔見せでさっさと辞めちゃったようです。今では考えられない契約です 笑)

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また後ろの集団で落車やパンク、メカトラが多かったようで、コッピもパンクしています。

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第7ステージは個人TT。メス〜ナンシーの60キロで、これはコッピの圧勝でした。

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途中前輪のパンクがあって大きくタイムロスしたにも関わらず、最終的には2位に30秒以上の差をつけています。

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第8ステージはナンシー〜ミュールーズの252キロ。このステージはアルザス地方の小さな山をいくつか越えるステージでしたが、ジェミニアニがやっぱり5分以上の差で単独逃げきりに成功です。

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彼が勝ったことを伝える紙面の端にはちゃっかりコマーシャルが 笑) サン・ラファエル・カンキナという食前酒です。スポーツマンのための食前酒だそうです 笑) ジェミニアニのファーストネームがラファエルなので、55年からこのメーカーをスポンサーにしたチーム、サン・ラファエル・ジェミニアニというチームができ、もちろんそのエースが彼となります。彼は自転車のプロチームが一般企業をスポンサーにした最初の選手の一人です。

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続いて7月7日号はもちろんコッピが表紙ですが、隣でフランスのクライマー、ル・ギュイが頑張ったことも。

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第9ステージはミュールーズからローザンヌの238キロ。9人の逃げが決まって、そのままゴールスプリントでスイスのヴァルター・ディッゲルマンが優勝しますが、普段はトラックの、しかもドミフォンを専門とする選手だったようです。

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そしてとうとう、ツール初登場、今ではツールのきつい登りの代名詞にもなっているラルプ・デュエズ山頂ゴールステージの第10ステージです。上の右側はスタート前のバルタリとコッピ。真ん中右側はこの時代のツール名物のホースによる水掛けですね。カスクの選手はビックマウスで有名な自信屋ジャン・ロビック。下の写真が面白いです。今ではありえないけど、道端にコカコーラのトラック(キャラバン隊の一台だそうです)が止まって選手たちが殺到しているシーンです。まだ缶ジュースがない時代でコーラもビンですね。栓抜きはあったんだろうか? いずれにしてもかなり熱い日だったようです。

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左端からちょっと切れちゃったけど、このステージで勝負するぜ!と大言壮語のロビックが登りに入り、トレードマークのカスクをかなぐり捨ててアタック。後ろではコッピやバルタリをはじめクライマーたちがサバイバルレース。右ページの上は逃げていたロビックにコッピが後ろから迫ります。そしてゴールではコッピがロビックに1分20秒の差をつけてゴール。とうとう本命コッピがマイヨ・ジョーヌとなりました。右側の二つの写真をちょっと大きくしておきます。
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休息日を挟んでの第11ステージもブール・ドワザン〜セストリエールの上りゴールステージ。

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ガリビエ峠の上りでアタックしたコッピ(上)は頂上を2位に3分近い差をつけて通過し、その後もモンジュネーブル峠では2位に4分半、ゴールのセストリエールでは7分以上の大差をつけてゴールです。一方コッピがアタックした直後にパンクに見舞われたジャン・ロビック(下)は、モンジュネーブル峠ではコッピとの差を2分ほど縮めたのですが、ゴールでは11分以上遅れて万事休す。

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コッピはキャプションによれば、ほとんど全力を出すことなく淡々と昇り続け、ライバルたちには彼を止める力はなかったとあります。

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ちなみにジェミニアニとサン・ラファエル・カンキナのコマーシャルがありましたが、今度のこれもコマーシャルなのか? ゴール後のコッピが「俺のペリエを!」を言ったそうです。(隣はイタリアチーム監督で伝説の選手ビンダ)

さて、この時点で総合2位に20分近い大差をつけてますから、ほぼ52年のツールの総合争いはコッピで決まってしまったわけですが、まだやっと中盤です。この後も最後まで見ていきましょう。(続く)


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1952年のツールを古雑誌で(1)

2021.02.14.16:53

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   1952年ツール・ド・フランスコース

オークションなどで大量に手に入れた昔の自転車雑誌、そろそろ少し整理したいと思いながら、号数順に並べるぐらいしかできてません 笑)

今回は But et club, Le miroir des sports という1920年に創刊され、いろいろ名前を変えながら1968年まで続いたスポーツ専門の写真週刊誌をご紹介。まあこれもたくさんあるんですが、今回は1952年のツール・ド・フランスの期間中に出た7冊です。週刊誌といいながら、発効日付が4日に一回ぐらいの割合で出ているようで、この辺りどうなっているのかよくわかりません。いずれにしても、TV放送がなかった時代、速報はラジオとレキップ紙が頼りで、数日遅れでこうした写真週刊誌でレースの細かい状況を反芻するというのが正しいスポーツファンのあり方だったのでしょう。
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6月25日から始まったこの年のツール、雑誌の方は6月30日号が最初でその前の号が欠けているのでツールの下馬評などは見られませんが、この号では第1ステージから第5ステージが詳しく紹介されています。表紙は第5ステージで2位に入ったコッピ。キャプションにはコッピ早くも牙を剥く、みたいなことが出ているので、この年のツールはジロでも総合優勝したコッピが49年についで2度目のダブルツールを達成するかが注目の的だったのは間違いありません。
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最初のステージはブレスト〜レンヌの246キロ。グランデパールのブレストのお祭り騒ぎは今も変わらないですね。左の方で選手たちがいろいろふざけあっている写真が載っています。
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でレースが始まります。
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集団の先頭にはコッピも時々顔を表すけど(真ん中の右側の写真の左端がコッピです)、3人の逃げが決まって、結局レンヌの競技場でのスプリントはリック・ファン・ステーンベルヘン(リック1世)が圧勝(一番下の写真)。まあ、ファン・ステーンベルヘンは2回世界チャンピオンになっているスプリンターですから、「大した努力もせずに快適な勝利を収め、今年最初のマイヨ・ジョーヌ」とキャプションにはあります。ちなみにコッピは6分半遅れの大集団ゴールですね。

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第2ステージはレンヌからル・マンまでの181キロ。ここでは6人ほどの逃げが決まって、ベルギーのロッセールという選手がステージ優勝ですが、後ろの大集団で頭をとったのは、やっぱりファン・ステーンベルヘンでした(下の左側)。

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第3ステージ、ル・マンからルーアンはフランス人のロールディ(ゼッケン37 )とゴーティエという二人が逃げてロールディが優勝し、ボーナスタイムもあって総合トップになります。

第4ステージはルーアンからルーベへの232キロ。無論北の石畳が見どころです。
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優勝はモリネリスという選手(右上横向き)で2位に2分半の差をつけて独走ゴールです。この時代、ライバルチームの逃げを、身を粉にして追いかけ、追いついたらそこで役割終わりという現在のアシストのシステムはないですから、結構簡単に逃げが決まります。しかもタイム差は審判や監督の車が頼りだしね。

第5ステージはルーベからナムールの197キロ。ここでも逃げが決まって、最後は一人独走でルクセンブルクのディーデリヒ(下の写真の左上真ん中の小柄な選手)が2位に5分以上の大差をつけてゴールですが、総合は相変わらずロールディのままです。
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ただ、表紙でも見たようにこのステージ2位はコッピで、上の写真の右上のコッピの写真のキャプションは、後半でカウンターアタックを決めたコッピは先行する選手たちを一人、また一人と追い抜いていくが、ディーデリヒには追いつかなかったというようなことが書いてあります。そして、コッピの総合は一気に6分差の5位へジャンプアップ。

この年のツールの最大の見所はツール史上初の山頂ゴールとなった第10ステージのラルプ・デュエズ、11ステージのセストリエール、21ステージのピュイ・ド・ドームの三つのステージで、コッピが果たしてこの三つのステージでどう戦うか、だったわけですが、山が始まる前にすでに総合で上位に位置されてはね。というわけで次は2冊まとめて第11ステージのセストリエールまで見てみましょう。(つづく)


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1969年ミロワール、ホーデフロート

2021.02.01.12:40



古いミロワールの話題です。69年4、5月号の表紙はヴァルター・ホーデフロートという選手です。20世紀からのファンなら、あのビヤルネ・リースやヤン・ウルリッヒのチーム・テレコムの監督だと思い浮かぶでしょうか?

何しろ69年はメルクスの全盛時代で、毎年のように年間50勝しちゃうようなとんでもない選手と一緒にレースを戦わなくちゃならないなんて、まあお気の毒ですわなぁ。そんな中にもメルクスをやっつけた選手が何人か、名前を残します。ヴァルター・ホーデフロートもそうしたうちの一人です。

69年のメルクスは前に書いたようにツール・ド・フランス初出場で六冠王 笑)でしたが、五大モニュメントもミラノ〜サンレモとツール・ド・フランドル(ロンデ・ファン・フラーンデレン)、リエージュ・バストーニュ・リエージュの三つで優勝、パリ〜ルーベは2位(ジロ・デ・ロンバルディアは不出走)という成績ですからね。今ではちょっと考えられないですねぇ。

そんな中でパリ~ルーベでメルクスを破ったのがこのホーデフロートでした。写真の自転車のサイズからも分かるように、比較的小柄なスプリンターでプロのキャリアはぼほメルクスとかぶっていますが、プロ15年間で163勝してますね。日本人としてはアマチュア時代の64年の東京オリンピックのロードの銅メダリストだという点が重要かな 笑)あ、モニュメントには4勝してます。それから、ツールの最終ステージがシャンゼリゼになったのは75年からなんですが、その映えある第一回シャンゼリゼの優勝者でもあります。やっぱりロードレースの歴史に名を残す選手の一人でしょう。

さて、ページを開くとメルクスやジモンディがいたにもかかわらず、ホーデフロートが凱旋!というキャプションとともに単独で逃げる写真です。

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左のページではフランスの人気者プリドールがリタイアするのと、最終的にトップ5が出る逃げ集団の様子が写ってます。この集団もホーデフロートのアタックででき、この集団から単独アタックを決めて勝利するわけです。調子も良かったしモチベーションも高かったのでしょう。

表紙のカラー写真でもわかりますがバーコン使ってますね。この人の他のレースでの写真を見るとノーマルなダブルレバーなので、これはパリ〜ルーベに特化した仕様ですね。

ホーデフロートは独走で2位のメルクスらに2分39秒の大差をつけてゴール。追走集団には他にもジモンディ(1965年優勝)とデ・フラーミンク(4回優勝)がいて、このメンツで優勝は孫子の代まで誇れるでしょうね。

結果を見ると、メルクスはこの次のモニュメント、LBLでも優勝しますからもし仮にこのゴーデフロートがいなかったら、メルクスのモニュメント4連勝なんてとんでもないことになっていたところでした。

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途中では雪の舞い散ることもあったようです。最近のパリ〜ルーベでは雪はおろか雨もほとんど降らないですね。

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右はホーデフロートのゴールシーン、左は第二集団(2位争い)と第三集団(6位争い)のゴールシーンです。で、YouTube を検索するとありました。残念ながらちょっと上下に潰れ気味の画面と無音ですが、雰囲気は感じられますね。




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1969年ツール直前のミロワール

2021.01.27.17:02

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古いフランスの自転車雑誌ミロワールの話題です。69年6月号。表紙はプリドール、ジモンディ、パンジョン、メルクスの4人がカラーですが、中は藁半紙みたいな紙に白黒写真。1969年というと僕は中学2年か?あんまり思い出したくないですねぇ 笑)

「誰も彼も青春を失敗したのだ」(友川カズキ)

あの個人的にはとても恥ずかしい時代に地球の裏ではこんなことで盛り上がっていたんですねぇ。無論私はまだ自転車ロードレースの存在など知らず。ネットで調べると、アポロ11号の月面着陸の年ですね。夜中に起きて一家でTVの前に座ってましたが、別に月の表面にアポロが着陸する画面が映るわけでもなく(当たり前ですね 笑)到着しましたとアナウンサーが言うだけ。翌日に同時通訳付きで月面を動くアームストロングとオルドリンの映像を見たのでしたっけ。

ヒット曲を見ると由紀さおりの「夜明けのスキャット」! 映画は洋画では「空軍大戦略」を父と一緒に観に行ったのでした。

というわけでミロワールに戻って中をパラパラ見ると、優勝予想です。
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左からメルクス(初出場)、ジモンディ(65年優勝)、ヤンセン(68年優勝)、ファン・スプリンゲル(68年2位)、プリドール(万年2位)、パンジョン(67年優勝)、エマール(66年優勝)、アンクティル(5勝)、上から山岳、TT、スプリント、レースへの情熱、肉体的耐久性、精神的耐久性、経験、アシスト、トータルと20点満点で点数がつけられてます。

数字的にはメルクスが150点で2位はアンクティルが149点。ただし、表の上の説明によると、このアンクティルに関しては5勝した当時の数値のようです。69年当時のアンクティルではなく、全盛時のアンクティルも含めることで、それにも1点勝っているメルクスの強さがわかるようにしたわけでしょう(アンクティルはこの年のツールに出てないし、この年を最後に引退します。)。

まあ、結果はこの通りで、この年ツールに24歳でデビューしたメルクスは総合で2位のパンジョンに18分近い大差で優勝し、チーム賞、山岳賞、ポイント賞、それとこの年にあったコンビネーション(ポイント+山岳)も獲得。まあ、上の表でいくと、メルクスだけ全部25点だったって感じですかね 笑)

さらに、この年にはなかったけど、25歳以下の新人賞があればこれも取ってましたね。実質6冠王 笑)ステージも6勝し、11のステージで3位以内。無茶苦茶ですね。それ以上に特筆されるのが17ステージのピレネーの名だたる山岳コースでの独走勝利。YouTube に1分半程度ですがありますね。


いやあ、アナウンサーならずとも、ブラボー、メルクス、ブラボー、メルクスです。後ろで総合2位と3位のパンジョンとプリドールらが追いかけるけど、もう諦め気味ですね。このステージの前の時点ですでに2位に8分差だったんですけど、このステージでさらに8分の差をつけてますからね。ものすごいわ。

というわけで最後にアンクティルとマイヨジョーヌのメルクスのツーショット。
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キャプションは象徴的な握手であるとともに二つの世代間の権威移譲でもあるというようなことが書かれています。しかしメルクス、マイヨジョーヌをズボンにインしてますね 笑) 今では絶対に誰もやらないスタイルです。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとしてゴミ箱に入れられることがあるようです。承認待ちが表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す(22年3月2日更新)

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