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スプレンドールからヒタチへ

2020.06.27.15:50



先日ヴィッケス・スプレンドールのマイヨを手に入れたので、スプレンドールって幾つになったかな、と数えだしたらスプレンドールの後継チームベルギー・ヒタチチームのマイヨもいくつか出てきました。額に入っているクリケリオンのサイン入りの袖口と襟にアルカンシェルの入ったのも入れると全部で10着。写真左端はヒタチのレーサーパンツですが、これは市川さんからの頂き物で、サイズが小さすぎて入らないので履いたことはないんですが、もう20年も前のものなので裾のゴムなどが劣化、生地自体もかなり劣化してます 笑)

他にも真ん中あたりのオレンジのヒタチ、これも86、7年のものですが、これはもうとっくに入らなくなってます 苦笑)

スプレンドールは自転車メーカーだと思っていたんですが(ウィキのオランダ語版では電球などのメーカーと出ているけど、多分これは間違いでしょう)、よくわかりません。市川さんがヒタチに入った時はすでにスプレンドールはスポンサーを降りているので、聞いたことがありません。スプレンドールという自転車が存在していたことは確かなんだけど、こんなマイナーなメーカーが8年間もプロチームのスポンサーなんかできたのかどうか。。。

CYPRESSさんが教えてくれたスプレンドールの自転車の写真はこちら

まあ、それはともかく、1979年(写真の右から2着目の肩が紺色のもの)から86年までチームスポンサーになっていました。お腹が格子模様になっているのがそのマイヨです(右端のアルカンシェルも)。ヒタチの1年目までですね。2年目からヒタチはロッシンに、そしてエディ・メルクスになってしまいました。

しかし、やっぱりスプレンドールの肩が青い奴がやっぱり一番綺麗かな。

追記
ウィキのイタリア語版に79年から89年までの年別のこのチーム(スプレンドールからヒタチ)のスポンサーが列記されてますね。こちらから


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ついにゲット! ヴィッケス・スプレンドール

2020.06.23.19:01

スプレンドールというチームとマイヨについては以前も書いたことがありました。
「スプレンドールのマイヨ」へ

あの時に書いたヴィッケス・スプレンドールのマイヨ、ついに手に入りました 笑)
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これはスプレンドール・ヴィッケス・バウマルクト。以前紹介した83年のスプレンドール・ユーロ・ショップの前の82年のマイヨです。以前のやつはこれ。

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あとは80年のスプレンドール・アドミラル、81年のスプレンドール・ユーロデコール、84年のスプレンドール・モンディアル・モケットの3つがどこかで出ないかなぁ。。。ネット検索すると古着屋で81年のユーロデコールは出てたことがありますね。すでに在庫なしになってるけど。。。残念。


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メルクス、75歳。

2020.06.19.09:43

一昨日ですね。メルクスの誕生日は。ツール・ド・フランスで5勝、ジロ・ディ・イタリアでも5勝、ツールのステージ優勝34勝、マイヨ・ジョーヌを着た日数96日。「人食い人種」(カンニバーレ)と呼ばれた史上最高の選手エディ・メルクスが一昨日75歳になりました。

メルクスは誰にも勝たせようとしない、と言ったチームメイトのクリスチャン・レイモンの言葉を耳にした彼の娘が、まるで人食い人種ね、と言ったのが、そのまま彼のニックネームになったそうです。

確かにメルクスが最初にツールに出場した1969年には、総合優勝だけでなく山岳賞もポイント賞も独り占めですからね。プロとして走った1966年から78年までの間で、世界戦3勝、5大クラシック(ミラノ〜サンレモ、ツール・ド・フランドル、パリ〜ルーベ、LBL,ジロ・デ・ロンバルディア)19勝、ダブル・ツール4回、1974年にはツール、ジロ、世界戦のトリプルクラウン達成、とまあ誰もが認める史上最高の選手でしょう。

去年の秋に友人たちとのサイクリング中に落車して病院に運ばれたんですが、それも完全回復しているようで、現在は週に2、3回、一回に50〜70キロぐらい走っているとのことです。うーむ、週に100〜150キロぐらい走っているってわけですね。10以上年下の僕もそれを目標にしようと言っておきます 笑)


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ジャモリダン・アブドジャパロフのこと

2020.06.14.15:13

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オラフ・ルートヴィヒの時に紹介した1988年のソウルオリンピックの映像で、ルートヴィヒが逃げた後、一瞬の躊躇の後に後ろから追いかけたそうに画面に入ってくる赤いマイヨの選手がアブドジャパロフですね。結果的には5位に終わってしまいましたが、この選手はルートヴィヒより4歳若く、ピースレース(クールス・ド・ラ・ペ)デビューは87年からですね。

初登場のこの東ヨーロッパナンバーワンステージレースで3勝を挙げ、すでに1980年以来30勝以上していたルートヴィヒの最大のライバルになります。

翌年1988年のピースレースでは第1ステージで1位アブドゥ、2位ルートヴィヒ。第4ステージ、第8ステージ、第11ステージでは1位ルートヴィヒ、2位アブドゥと熾烈ですねぇ。多分後輩のアブドゥがルートヴィヒを徹底的にマークしていたんでしょうね。

1990年に両者ともにプロ入りし、アルファ・ルムという旧共産圏からプロ入りした選手たちで構成されたチームに加入したアブドゥは、ツールに参加するも、パリで4位が最高順位で、そもそもスプリントにもなかなか参加できず、パナソニックという強豪チームに入ってポイント賞を獲得したルートヴィヒとは大きく水をあけられてしまいます。4位に入ったパリのスプリントも3位にルートヴィヒがいるし、ここまではルートヴィッヒを超えることができないという印象だったんですが、強豪チームのカレラに移った翌年のツールで一気にブレークします。



第一ステージ(33分ぐらい)で勝つと第4ステージでもボンテンピのアシストを使って優勝(2時間前後)。かなり危なっかしいコースどりですが、何しろ小柄なので腰を上げながらハンドルを大きく降って必ずどちらかへ寄って行くスプリントで、ゴール後にムセウが怒り狂ってます。今だともしかしたら降格処分かもしれないですね。

まあ、私も当時見てて、何しろスリリングだし、きったねえスプリント、と友人らと話してましたね。で、案の定、クライマックスでやってくれますね。パリの最終ステージです。


これは衝撃的でした。でも一応この後ゴールしてスプリント賞獲得でしたからね、超注目選手になったのでした。まあ、おかげでタシケントの恐怖とかタシケントのカミカゼとか、そんな勇名を馳せることになりました。翌年はツールはトラウマになったか、パッとしなかったけど、ブエルタで4勝してます。

そして1993年のツールでは3勝して2度目のスプリント賞を獲得。特に最終パリのステージで2勝目をあげてます。最終的にツールのステージ優勝9つとスプリント賞2回。プロ入りしてからの成績ではルートヴィヒを上回ったと言えるでしょう。

この後も斜行で失格になったり、派手にチポッリーニを引っ張ったりして、いろいろ話題になったのでした。


しかし、こういう怖いもの知らずのスプリント、最近はゴールスプリントでの斜行や蛇行の判定が厳しくなったから、あんまり見なくなりました。昔の写真なんか見ると自転車を大きく振ってスプリントするシーンがよく見られますが、今、アブドゥが集団の中にいたら3回に1回は失格かも 笑)

だけど、最後は97年のツールの期間中に興奮剤の服用によりドーピング違反で失格になり、そのまま引退してしまいました。この選手アマチュア時代にも興奮剤で引っかかってるんですよね。あのカミカゼスプリントで怖いもの知らずになるために服用していたんですかね。


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オラフ・ルートヴィヒのこと

2020.06.07.15:17

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東欧圏には2週間以上のステージレースがあるらしいということを知ったのは80年代の後半だったと思います。なんで知ったのかは全く思い出せないんだけど。

僕がヨーロッパの自転車レースについて明確に意識したのは1984年の秋だったと思う。以前にも書いたように、池袋の西武か東武のスポーツ用品売り場でエンドレステープで5分ぐらいのツール・ド・フランスの映像を流していて、それに魅入られてロードレーサーが欲しくなったのでした。その後トントン拍子でホビーレースチームに加わり、いろんな情報を得て、どこでどうして知ったか、この東欧のピースレース(クールス・ド・ラ・ぺ)のことを知ったのでしょう。

(のちに1991年初頭にチェコのプラハへ旅行した時、おもちゃ屋で大きな箱に手書きの自転車の絵が描かれたクールス・ド・ラ・ペと表記された、おそらくすごろくみたいなものだったのでしょう、ゲームが置いてありました。)

そんな東欧の自転車レースを知る中で気になったのは、どうやらこのピースレースではとんでもない怪物選手がいるらしいということでした。ルートヴィヒという、いかにもドイツドイツした名前の東独選手で、ステージ勝利数が38ということでした。ちなみに2番目の選手は16勝で桁外れです。

そんな選手の映像をとうとう見られたのはソウルオリンピック。NHKの放送はリアルタイムではなかったし、適当なブツ切れでしたが、ビデオで繰り返し見たものでした。YouTubeにもありますね。



すごいよね。ゴールスプリントを開始したら全く後ろを確認しないまま両手を上げてますからね。スプリントには相当の自信があったのでしょう。

2位になった巨漢選手はベルント・グレーネは91年になってプロ入りし、チーム・テレコムで2年ほど走った後の1995年、本人の言によれば、監督に命じられたEPOを拒否して引退しました。

3位に入ったクリスティアン・ヘンはオリンピック終了後すぐにカレラに入り、さらに92年からテレコムへ。で、そこで1995年から1999年の引退までEPOを摂取していたことを告白しています。

さて、優勝したルートヴィヒの方は翌年のベルリンの壁崩壊のおかげでついにパナソニックへ。すでにこの時30歳。前年は怪我続きでパッとしなかったので、そろそろ辞めどきかなと、本人も考えていたそうですが、ツール・ド・フランスに参加すると第8ステージでスプリントでステージ優勝します。


この時は第3ステージからポイント賞の緑のマイヨを着続け、最終的にポイント賞獲得でした。その後も92年には最終日のパリ・シャンゼリゼでも優勝、結局ツールのステージは3つでしたが、もうあとせめて5年早くプロ入りしていたらなぁ。若い頃にケリーやファンデラールデンとのスプリント合戦が見たかったですねぇ。

90年の世界選手権は宇都宮で、個人的にはルートヴィヒを見たかったんですが、怪我で来日しませんでした。

タイプとしてはデーゲンコルプみたいなタイプだったんだと思います。個人的にはパリ〜ルーベに勝つんじゃないかと思ったんですがねぇ。結局プロになってから6年連続でこのレースに参加し、92年から2位、3位、4位と3年連続で惜しいレースでした。

92年の2位は優勝したデュクロ・ラサールを単独で追い、ソロで2位になったんですが、カメラはデュクロ・ラサールを映しっぱなしで、どうも記憶に残りません 苦笑)


翌年も3位争いのスプリントではムセウやファン・デル・プールらに対して先頭に立ってそのままスプリントで勝つという強さだったけど、何しろ、この年はデュクロ・ラサールとバレリーニの、色々物議を醸したタイマンスプリントですから、やっぱり3位なんか忘れられてます。


ルートヴィヒも1993年からテレコムに移籍しています。ただ彼の場合はドーピングについては何も発言していないようですが。


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ピーテル・ヴィネンのこと

2020.05.31.15:09

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この選手は1980年代、日本でもシマノやコガミヤタの広告でよく写真を見たのではないでしょうか。
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他にも私は当時のビジネス雑誌の表紙になぜかヴィネンがダンシングして登っていく写真が使われていたのを記憶しています。

この選手、私の友人はよくサンダーバードと呼んでました。なんとなく眉毛まで金髪なところが当時の人気人形劇サンダーバードに出てくる兄弟の誰かに似ている感じがしたからでしょう。
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でも並べると流石に無理があるなぁ 笑)

でも実はこの選手はかなりの変り種です。14歳から18歳ぐらいまで自転車競技に夢中になり、常に上位に入るような成績だったけど、教員になりたくて大学へ進学し、18〜21までは全く自転車のトレーニングはしないで勉強一筋。教員免許も取ったものの、地元の学校の教員の職が空いてなくて、就職浪人中に体力づくりも兼ねて、昔取った杵柄、自転車にでも乗ってみようかと自転車トレーニングを再開したというわけです。そしたら翌年の、当時アマチュアのツールと言われていた東欧圏縦断レース、ピースレースに参加し総合2位。そのままオリンピックモスクワ大会のメンバーになり、終了後23歳でプロ入りすると、81年のツール、ラルプ・デュエズで優勝して新人賞も獲得してしまう。

1981年のラルプ・デュエズのYouTubeが見つからなかったので、ゴールシーンだけですがこちらの30秒過ぎから。


独走でイノーらの追走集団を尻目に優勝です。

さらに2年後の同じラルプ・デュエズで、今度はベルノドゥと1対1のスプリントになり、2勝目。こちらのYouTubeは40分ぐらいありますが、画面が横に潰れているのが残念。


ラルプ・デュエズを2勝しているのは他にはヘンニ・コイペルとズーテメルクとブーニョとパンターニ(アームストロングもそうでしたが剥奪)だけですから、大変な名誉でしょう。現在ラルプ・デュエズのコーナー13番と15番に彼の看板が掲げられているそうです。

また、最近は名前が出てこないけど、ウィナー・アナコナ、何年か前のブエルタで結構活躍した選手の名前がこのヴィネンから取ったと言っていましたね。ただ、なんでウィナーなんだ?と思ってヴィキをちょっと探したら、英語のアナコナのところで確かにヴィネンから取ったけど間違えてウィナーになったと出てました 笑)

何しろ好きなものと聞かれて読書と音楽と言い、どんな?と尋ねられると即座にロシア文学とクラシック音楽と答えるそうで、本も2冊出しているそうです。一冊は以前私も種本として 笑)拾い読みしました。
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マリノ・レハレッタのこと

2020.05.08.01:52

日本でも自転車ロードレースが少しはTV放映されたり人々の話題になったりし始めた1990年ごろ、この選手は三大ツール全てに出場する選手として話題になっていました。同時に90年のツールではステージ優勝もしていました。僕としては先に書いたクリケリオンとなんとなくかぶる印象でした。つまり、山岳に強く、そこそこ名前を見かけるし、ツールでは上位に入るけど、ちょっと地味目。

ちょっと調べたらブエルタで82年に総合優勝しているんですね。ただしこれは一旦総合優勝が決まったアンヘル・アローヨがドーピングで引っかかって失格、繰上げでの優勝という、まあ、名前だけ残ったというやつでしたが。

バスクの選手らしく、何しろクールでした。2000年ごろに活躍したロベルト・ライセカというバスクの選手がいましたが、この人も怖い顔してて、優勝してゴール越える時にも怖い顔のまま十字をせわしなく切って、インタビューでも笑顔を見せないというどっかのラグビー選手みたいでしたが、このレハレッタもそんな感じでしたね。

私の印象は1982年のサロンニが勝った世界選手権でのレハレッタが一番最初の印象です。無論リアルタイムで見たわけではありません。1985、6年ごろにダビングにダビングを繰り返してほとんど輪郭が雨の中の水彩絵の具の絵みたいになったアメリカのビデオを見たのでした。この年の世界選についてはサロンニのものすごいアタックについて以前紹介したことがありましたが、その時のYouTubeはすでに見られなくなってますね。残念。

優勝したサロンニもすごかったけど、同じぐらいびっくりしたのがレハレッタ。ラスト1周のジャンが鳴ると集団からアタックして半周ぐらい一人で逃げ続けます。

当時のダビングにダビングを重ねたビデオがまだ残ってました。45分強。久しぶりに見ました。ただ、あまりに画質がひどいのでYouTubeにあるかと探したけど上記のようにすでになく、ラストの1、2分の映像しかヒットしませんねぇ。なのでTVの画面をスマホで撮りました。

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一人逃げ続けるレハレッタ。当時ホビーチームのみんなで日曜の早朝6時に皇居の半蔵門に集まって練習し始めたばかりで、集団の中にいると楽チンでそこから飛び出すなんていうのは夢のようなことだったし、正直理解できなかったから、すげえ!と思いました。しかし半周以上逃げたところで捕まります。

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ところがラスト2キロぐらいでしょうか、ここで再びレハレッタがアタックするんですよ。左端が彼。

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画像がすごくてなんだかわかりませんね 笑) 

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しかしこのアタックもアメリカのジョナサン・ボイヤーに追いつかれて潰されます。

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ちょっと見えづらいですが、後ろの青い星条旗がボイヤーですが、この時はボイヤーがものすごい勢いで逃げ切っちゃうんじゃないかと一瞬思ったところへ、同国人のレモンがサロンニを連れてアタックして、終わってみればサロンニのアシストをしたみたいになって、一部非難を食らったようですが 苦笑)

まあ、ラストのサロンニのアタックはこちらのYouTubeをどうぞ。



レハレッタは結局5位でゴールしました。この選手って僕の第一印象は、これも以前書いたけど、白土三平の「カムイ伝」で抜忍カムイを追うカラミの手風(てぶり)という冷酷な追忍のがいましたが、その印象でしたね。

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ちっとも似てない? ではこんな表情だったらどうでしょう 笑)

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ちょっとはカラミの手風っぽくなったでしょう? 笑)


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88年世界選手権、クリケリオ〜〜ン

2020.04.14.15:47

(クリケリオンというと地元のクラシックLBLでモレノ・アルジェンティンにどうしても勝てなかったということでも有名ですが、こちらは以前書いたのでそちらをご覧ください。)
思い出のLBL

さて、クリケリオンといえば、世界チャンピオンになったことより、地元で2度目の世界チャンピオンになり損ねたことで有名かもしれません。

この時の舞台ロンセという街はすでにベルギー人に取っては非常にビミョーな過去のある街だったんですね。63年の世界選手権、それまで2度の世界チャンピオンになっていたリック・ファン・ローイが地元で3度目の世界チャンピオンを目指し、ゴール直前で無名のチームメイトのベノニ・ベヘイトに差されてしまう。
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ベルギー人が優勝したのはいいけれど、英雄ファン・ローイではなく全く無名の若造が、あろうことか英雄を後ろから差すなんて! というわけで表彰式は誰も嬉しそうではありません。
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さて、そのロンセで2度目の世界チャンピオンのチャンスだったのに、ゴール75メートル前でバウアーが肘を出して、クリケリオンは落車。ゴールまでを歩きながら抗議しました。



まあ正面から見るとよくわからないんですが、こちらの28分ぐらいからを見ると、クリケリオンのアタックに反応できそうにないと思ったか、とっさに肘が出たんでしょうね。コースを塞ぐタイミングではなかったですね。


このドキュメンタリー番組は三人の当事者だけでなく、当時の選手たちも出てきて面白そうなんだけど、全編オランダ語 苦笑) ついでながら、上に書いたベヘイトがファン・ローイを差してしまう映像も11分過ぎぐらいからあります。

この後の経緯は、バウアーがTVであれは俺が悪いのではないと発言、それを聞いたクリケリオンは、本人の言うところでは、レースから2日後にはもう忘れていたそうですが、チーム監督の後押しもあってバウアーに損害賠償を請求する裁判闘争になりました。無論こんな訴えが通っちゃったらスポーツの世界が大変なことになるだろうから敗訴しましたが 苦笑)

まあ、たらればは観戦する側につきもの。もしあそこでクリケリオンが落車しなかったらどうなったか? フォンドリエストはスプリントはあまりないですから(何しろこの年のミラノ〜サンレモではフィニョンとタイマンのスプリントで負けてるぐらいですし)、バウアーは後ろから追いついてきたばかりですからねぇ、とベルギー人は考えるでしょう 笑) ちなみに市川さんは、あれはどっちにしてもずっとツキイチだったフォンドリエストが勝ってましたよ、と言ってましたっけ。

さて、この次の年のアムステルゴールドレースではエリック・ファン・ランカーが単独で逃げ切り優勝するんですが、追走集団でクリケリオンとバウアーの直接対決が実現します 笑) 上のドキュメンタリーでも最後の方に出てくるんだけど、改めてYouTube貼っておきます。


この時のマスコミはファン・ランカーの優勝そっちのけでクリケリオンがバウアーに勝ったことを見出しにしたのでした。というわけで、裁判は無茶でしたが、ここでバウアーにスプリントで勝ったことでクリケリオンとしては溜飲を下げた、と言えるでしょう。

上のドキュメンタリー番組の最後にクリケリオンはこう言っています。

「クリケリオンという名前が出ると、人々は1988年のロンセを連想するだろうけど、それは辛いことだ。1984年の世界チャンピオンだと思い出して欲しい」


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もう一つクロード・クリケリオン

2020.04.13.12:30

いやはや、自宅からなれないことをやらなければならず、結構な負担ですわ。やってみれば、きっと思うほど大変ではないのかもしれないけど。。。

昨日後半を紹介した、クリケリオンが優勝する87年のツール・デ・フランドル(ロンデ・ファン・フラーンデレン)の前半も面白いです。



すっかり忘れていたけど、この時のコッペンベルフは伝説になっているシーンがあったのでした。上のYouTubeで36分ぐらいからのコッペンベルフ、一人で逃げてきたイェスパー・スキビーがここで落車して審判車に自転車を踏んづけられてしまうんですね。このシーンは日本のTVでも放送されたことがありました。

次の年からかなり長い間、ここは危険すぎると言ってコースから外されてしまったのでした。今のコッペンベルフは道幅を広げ、勾配も少し緩くなっているそうです。

実際この年も後ろの方では落車で、例年通りのカーニバル状態。結局ここで前にいて落車せずに済んだ10人程度が先頭集団を形成して、その後三人ほどが後ろから追いつくけど、結果としてこの逃げが決まってしまったのでした。

しかし、踏んづけていった審判車、自転車踏んだだけでなく警備の警官?にもほとんどぶつかってますね。そしてその後も素知らぬ顔で立ち去って行きます。まあ審判ですから止まっちゃまずいんでしょうけど、マスコミ関係の車だったら翌年度から出入り禁止でしょうね。10年ぐらい前にフーヘルラントがプレスの車に吹っ飛ばされて鉄条網に引っかかってビリビリの血まみれになった時は、そのドライバーは出入り禁止になったんでしたけど、審判車だからねぇ 笑) タイミング的に後ろから追走集団が迫ってきたし、スキビーと集団の間にいるわけにはいかなかったんでしょうけどね。

さて、年代順に行くと、クリケリオンといえば88年の世界選なんですが、それは次回に回して、次の大きな勝利、89年のフレッシュ・ワロンヌをみてみましょう。
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これは41分ぐらいのところ、七人ぐらいの先頭集団からロークスのアタックに乗ったクリケリオンが、最後の登り、有名なユイの壁で、ゴール前100メートル強というところでしょうか、ジリジリとロークスを引き離して勝つという堂々たる勝利でした。

僕はこのレース、当時、まだBSの放送もなかったか、ほぼ普及してなかった頃、朝のNHKのニュースで映像を見ています。7時前のニュースで、時々海外のスポーツを話題にしてたんですね。ツール・ド・フランスの期間は前日のステージの映像(ところが、この映像は実はかなり編集して別の日の映像などを混ぜていたことがのちにわかります 笑)なんかを、毎日ではなかったけど流してました。

その日、眠ボケまなこで、突然クリケリオンとロークス(前年の88年のツールで総合2位でした)が映る映像が流れ、呆然と見ていました。

しかしこの時代、ベルギーのレースはカスク着用が義務付けられていたけど、頭が軽そう。サングラスもしてない選手の方が多いから誰だかわかりやすいです。自転車もこの時代の方がフレームが華奢な感じで、好みもあるかもしれないけど、綺麗です。

というわけで、次回はいよいよ88年の曰く因縁つきの世界選手権をみてみましょう。

(後記 4月14日11時20分、YouTubeをリンクから貼ることができたので差し替えました。)


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さらにクロード・クリケリオン

2020.04.11.14:56

昨日、クリケリオンについてちょっと書いたんですが、この選手は1984年に世界チャンピオンになっていて、以前YouTubeをリンクしておいたら、それが切れているようなので、新しいのをリンクしておきます。


見ての通り、この8分余りの映像の中では最初からクリケリオンが単独で逃げていて、後ろも単独でコンティが追いかけているだけ。実はゴール前20キロぐらいから4、5人のグループからクリケリオンがアタックし、そのまま逃げ切ったんですね。その逃げる瞬間の映像はこちら、4分30秒過ぎぐらいから、ちらっと映ります。


これには前半もあって、クリケリオンが亡くなった直後にアップされたもので、効果音がマーラーの暗い音楽が付いてたりしますが、TV放送されたのはクリケリオンが引退した直後の92年のようです。

この世界選手権はスペインのバルセロナ、モンジュイックの丘を越えるきついコースで、以前紹介した1973年の疑惑の世界選、ジモンディが4人のスプリントを制するのと同じコースだったようです。

今回84年は優勝候補はツールの優勝者フィニョンやイノー、ジロを制したモゼールや前年度のチャンピオンレモンが有力視されていたんですが、日陰でも40度を越える猛暑で、有力選手はみんな途中でやめてしまいました。クリケリオンはこの時点まで、ツールの総合でトップ10には何度か入っていたり、クラシカ・サンセバスチャンで優勝したりしてたんですが、期待度が高すぎで、結果はまだまだという選手でした。まあ、世界選手権ってこういう選手が勝って、その後名選手になるっていうパターンはよくありますね。

で、クリケリオンも昨日写真で見たように、アルカンシェルを着てフレッシュ・ワロンヌに優勝したり、ツールでは総合5位になったり、さらにツール・ド・ロマンディやミディ・リーブルで総合優勝したりして、87年のフランドルで優勝します。これが一番大きな成績でしょうね。
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YouTubeもあります。


1時間以上の長尺ですが、こんなご時世だから、最初から最後までのんびり環境ビデオみたいに流しておくのも良いでしょう 笑) そんな暇じゃない、という方は44分半のクリケリオンの平地でのアタックと59分ぐらいからの追走集団内でのアタックと牽制、そしてクリケリオンのゴール、追走集団でのケリーとファンデラールデンの2位争いスプリントをどうぞ。

終盤一番の難所ヘラールツベルヘンの壁を越えて、残り15キロを切ったぐらいですかね。完全な真っ平らの区間で十人の逃げ集団からスルスルとアタック、一瞬先頭を走っていた黄色いマイヨのケリーが躊躇しますね。そのあとファンデラールデンらが追走に入るけど、本当にこの一瞬の間が命取りでした。

先頭の十人の名前を挙げておきます。さあ、何人わかりますかね? 笑)
ショーン・ケリー
エリック・ファンデラールデン
スティーヴ・バウアー
マルク・セルジャント
スティーヴン・ロークス
ロニー・ファン・ホーレン
アドリ・ファン・デル・プール
ルド・ペーテルス
アラン・パイパー

正直、私はファン・ホーレンという選手は知りませんでしたが、他は結構印象に残っている選手たちばかりです。ルド・ペータースはNHKで86年のツールの総集編の時にバカンスを利用してツールをキャンピングカーで追いかける一家が出てきましたが、その時彼らが追っかけをしていたのが、字幕の中ではルド選手と言ってましたが、このペーテルスでした。アラン・パイパーはプジョーチーム時代のマイヨが我が家にあります。まあ、サイン入りではないので、真偽のほどは定かではないのですが 笑)詳しいことは書けませんが、知り合いがそのまた知り合いから、さらに。。。と、色々巡り巡って私の手元にやってきたのでした。バウアーは次回きっと大きく触れるでしょう 苦笑)

しかし、映像の荒さは仕方ないとしても、乗り方が今とは全く違いますね。登りでも重いギアをワシワシ踏んづけてます。逃げてる時のギアもかなり重いです。どこでだったか、登りでアタックする時には左手を伸ばしてアウターへチェンジしてますからね。この時代、スピードをあげる時には原則としてペダルを速く回すのではなく、ギアを重くしたのですね。

しかし、これやってると、あちこちいくらでも寄り道して仕事になりません 笑) というわけで、クリケリオンについてはまだ書きたいことが色々あるので、この項つづく、ということでまた次回。


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クリケリオンのこと

2020.04.10.14:55

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ヤフオクで懐かしいものを見つけ、思わず落札してしまいました。クリケリオンの名前が入ったグラブ。これ同じものを使っていました。手のひら側はセーム革で、なかなかいい作りで、当時は手袋の中でも高額な方だったと思います。以前のは探しても見つからないので、もうすでに廃棄したんだと思いますが、クリケリオングラブはもう一つ別のタイプが残ってました。こちらはレース以外ではしなかったんですよ。ホビーレースに出るときは必ずこの手袋をしましたが、普段では絶対しないで大事に使っていました。まあだいぶヘタってほつれてますが。
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クリケリオンについてはこれまでもなんども書いてきました。主なものだけでもリンク貼っておきます。
クリケリオンとヴァン・ポッペル
懐かしのスーパークリテリウム87 サイン会篇
思い出のリエージュ・バストーニュ・リエージュ
スプレンドール
買い物用駅までロード
スプレンドールのマイヨ
元世界王者クリケリオン、危篤か?
クリケリオン、逝去

この選手に気が付いたのは1985年だろうと思います。伝説となっている(?)NHKのツール放送があったのがこの年でした。例えば栗村さんはこの放送を見て自転車を始めたと言っていましたし、そういう人は多かったのではないでしょうか? (ついでながら、栗村さん、だいぶ以前の放送で、好きだった選手にクリケリオンを挙げていましたっけ) この放送で、集団の中で一人だけ白い爽やかなマイヨの選手がいたんですね。顔がなんか随分渋くて格好良かった。そのときはなぜ一人だけ白い爽やかなマイヨなのかわからなかったんですが、その後これが世界チャンピオンが着るアルカンシェルマイヨだと知り、ますますこの選手に興味が湧いてきました。

まあ、情報などほとんどない時代のことですから、ミロワール誌やウィニング誌で写真を見るだけでしたが、当時は結構映ってたんですね。どちらも85年のウィニング誌です。
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ミロワールではクリケリオンがツール・デ・フランドル(ロンデ・ファン・フラーンデレン)の名物の坂ヘラールトヴェルヘンを冬場のトレーニングコースとして紹介している記事もありました。
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リンク貼ったエントリーにも何度か写真を挙げてましたが、長年この選手のポスターを壁に貼っていたんです。で、今はどうなっているか、というと額入りです 笑) サイン入りマイヨも額入りで 苦笑)
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エリック・ファンデラールデン

2020.03.31.12:56

なんとも重苦しい雰囲気が日本を、いや、世界を覆っています。こんな時は昔の選手の話題でも書いておきましょう。この冬の間に、拙ブログではショーン・ケリーアドリ・ファン・デル・プールという80年代に活躍した選手のことを取り上げました。その延長で、今回もケリーやファン・デル・プールと熾烈なスプリント争いをしたエリック・ファンデラールデンのことを書いてみます。

いやあ、格好良かったんですよ。表彰台の顔が、なんとなくアラビアのロレンスのピーター・オトゥールを思わせたんですね。当時あまり情報が多く無い時代、サイスポでもポスター付きで記事になっていましたが、なんども読みましたね。そういえば一番最初に買ったマイヨはパナソニック・ラーレーの長袖でした。

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特にこの上でゴールで自転車を投げている写真。ゆっくり走りながらなんども前へ自転車を投げる練習しましたね 笑) ホビーレースでも一度だけ10位争い 笑)でやったことがあり、9位になりました 苦笑) アップにしてみます。

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この選手、何しろ若い頃からものすごい才能と言われていて、ジュニアの15歳のときの年間勝利数が16勝。まあ、ジュニアのレースがどのぐらいの数あるのかわかりませんが(CyclingArchivesでは上位に入ったらレースが30掲載されています)、ジュニア時代のレムコ・エフェネプールが年間25レースに出て20勝でしたから、ファンデラールデンも勝率は結構高かったのでは無いかと思います。何れにしてもこの年ジュニアのベルギーチャンピオンになってますね。

何しろその後のジュニア時代は毎年常に30勝以上、特に18歳の時は50勝以上上げてますね。こりゃあメルクスだわ。

で、83年に21歳でプロ入りするわけですが、まずプロ入り最初の年で14勝。今なら年間14勝だと最多勝になれますね。内容もすごい。ツールのプロローグでまず優勝です。他にもブエルタで2勝ですからね。翌84年も年間19勝。ツールのステージ2勝で、ベルギーチャンピオンにもなりました。85年は24勝でツールのステージはまたしても2勝。特筆すべきはロンデ・ファン・フラーンデレン(ツール・デ・フランドル)。豪雨のレースでコッペンベルフは今よりずっと狭く、例によってカーニバル状態になります 笑) 最後グラモンの壁でフィル・アンダーソンとヘンニ・コイペルをちぎって独走勝利。いやあ、格好いい。



86年も13勝して、ツールでは緑のマイヨを獲得してますが、区間勝利はなしで、ちょっと不満が残ったかもしれませんが、翌年にはパリ〜ルーベに優勝します。これもドロドロのレースでした。



ミロワールの写真のキャプションは「パラダイスの恐るべき子供」とかいうような意味ですかね。夢見心地の恐るべき子供かな? この持ち方、人差し指と中指の間にブラケットを挟むのも、ハンドルを引きやすかったんですよね。さすがにレースでやったことはないけど。

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ただ、ここまででしたね、黄金時代は。この後2、3年は年間勝利は10勝以上しているんですが、ビッグレースの勝利がぱたっと止まっちゃうんですね。21歳でプロ入りして25歳でパリ〜ルーベに勝つまでの83年から87年までがピークですね。この間にパリ〜ルーベ、フランドル、ヘント〜ヴェフェルヘム、パリ〜ブリュッセルに勝ち、ツールでステージ5勝、スプリント賞も獲得しているのに、88年以降はツールも春のクラシックもほとんど名前が出てこなくなってしまいます。まあ、細かく見ると、一週間以内のステージレースで勝利をあげたり、他のレースでも上位に入ったりしているんですが、ツールの場合、88年以降7回出場6回リタイアですからね。

当時の日本では情報は大きなレースぐらいしか入ってこないし、それまでの活躍が派手だっただけに、どうしちゃったんだろう?の時代が終わり名前も忘れた頃、1996年、サイスポにファンデラールデンの小さな記事が載っていて、パールマンという小さなチームで、ステージレース中宿泊先のホテルで酒盛りをしてレース追放、その後引退発表したというニュースが出ていたのでした。


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昔の BRUTUS

2020.01.25.23:40

色々整理していたら、1980年代の BRUTUS 誌が出てきました。表紙のモデル氏、すね毛がちょっとナンですが、当時の一般的な意識としてはすね毛を剃るなんていうのは知らなかったでしょうからね 笑)
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1982年の10月15日号とあります。この時代、僕は自転車のことなんか何も知らない頃ですから、おそらく誰かからの頂き物でしょう。中を見るとクアーズ・クラシックの紹介とともにアメリカの自転車事情について書かれています。
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写真の配置がなんとなく現在とは違ってゴミゴミした印象です 笑)

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特にアメリカ人としてヨーロッパのロードレース界に参入して活躍したジョナサン・ボイヤー(記事ではジャック・ボイヤーとなっています)が大きく扱われていますね。

ジョナサン・ボイヤーはこの年の世界選手権で最後の最後にアタックして、よもやと思わせた選手でしたが、この時は何しろサロンニがモーターバイクに乗ってるみたいな桁違いのスピードでアタックしてぶっちぎり優勝してしまったのでした。


このビデオで見てもわかるように、グレッグ・レモンもすでにイノーのいるルノーチームに所属していて、ボイヤーの逃げを結果的に潰してしまったわけですが 苦笑)、前年度のクアーズの総合優勝者だったからボイヤーよりビッグネームだったと思うんだけど、この年のクアーズには出てなかったようです。なので自ずとボイヤーに焦点が当てられたわけでしょう。


もう一冊、これは1986年8月1日号。これは自分で購入したものだと思います。82年にはアメリカンでしたが、この年になるとバブル経済直前で、ヨーロッパまで足を伸ばせるようになったんでしょうか。ジロ・ディ・イタリアが特集です。しかし、この表紙の自転車、ボッテッキアのTT用というわけで、いろんなメーカーやビルダーがこの手の最先端未来型・エアロ型のヌメッとした自転車を出してました。
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当時は珍しかった口ひげを蓄えたウルス・フロイラー。モゼールのアワーレコードでブームになった前後ディスクのファニーバイク、アタラのマイヨとともに懐かしいですねぇ。街道の囚人と呼ばれたロード選手たちを意識した囚人服のようなマイヨです。
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この年のジロはロベルト・ヴィセンティーニが優勝でした。ヴィセンティーニはこの優勝よりも、翌年のチームメイトのロッシュとのいざこざの方が印象に強く残ってます。
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さらに1986年というと、前回紹介したバルタリもまだ存命で記事になっています。
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右下の写真が表彰式に出てきているバルタリです。


この雑誌にはさらに86年5月に行われたホビーレース、ツール・ド・ジャパン第一戦の所沢ステージが紹介されています。
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この写真には思い出深いものがあります。私のチームメイトが二人写っています。特に一人は私がチームに入るきっかけを作ってくれた方です。

すでに以前どこかで書いたように、84年の秋、池袋のデパートのスポーツ用品売り場でエンドレスで流れていたツールのビデオに魅了され、それから半月も経たないうちにロード自転車を購入、一人で奥多摩などへ遠乗りしていたんですが、当時まだ創刊直後だったバイシクルクラブ誌にあったトレーニングの記事などを読んで、家のそばでまだ未完成状態だった光が丘公園の周回路でタイムアタックなどしていたのでした。そんなこんなでちょっと持久力がついた頃、2週間続けて奥多摩でお会いした方から練習に来ませんかと誘われて、日曜早朝の皇居周回の練習に参加するようになったのでした。

さて、私自身はこのレース抽選で外れて、この次の第二戦、千葉ニュータウンのステージが人生初レースでしたが、それはまた別の機会に。


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捨てられないカレンダー(おまけ)

2020.01.23.11:23



このシリーズ最終回 笑)これは最近のいただきものです。ちょっとヨレてますが、1989年のバルタリのカレンダー。昨日のメルクスと違って、こちらは日本にはほぼないでしょうね。

表紙はご覧のようにコッピがバルタリにボトルを渡す有名な写真なので、一瞬コッピのカレンダーか?と思いますが、中を開くと、主に晩年のバルタリの写真です。

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1952年、未舗装路のイゾワール峠です。バルタリの頭もかなり後退していて、さもありなん、バルタリ最後のツールですね。あるいはこんなの。

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これは1948年のツールで優勝した時。ただ、拙ブログの最初の頃に書いたことがありますが、バルタリって戦前の若い頃の写真を見ると格好いいんですよね。晩年の写真だと、どうも老練で頑固な大ベテランが若者コッピをいぢめたというイメージが日本では定着しているようですが 笑)

さて冒頭に書いたようにこれはいただきものなんですが、問題はもう貼る壁がないってこと 苦笑)


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捨てられないカレンダー(その4)

2020.01.22.22:10

これは持っている人も結構いるかも。2005年のエディ・メルクスカレンダー。深谷さんで売っていたものです。
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ちょっと大きいのが問題ですが、時々ページを変えて掛けてあります。お気に入りはこれ。
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パリ〜ルーベ です。世界線の初優勝の時のメルクスもいいですね。

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ショーン・ケリー

2020.01.13.19:01

このところ昔の自転車雑誌の整理を少しずつしています。ミロワールはある事情から1980年代の最後の方を失くしてしまったのですが、それでも整理しだすとパラパラと中をチェックしたりして、あっという間に時間が過ぎていきますね 笑)

で、1985年前後の雑誌の表紙に頻繁に登場するのがショーン・ケリー。ウィニング誌やヴェロ誌だとこんな具合。
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こちらは我らが 笑)自転車競技マガジン。ケリー、多いですね。
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さすがにミロワールやビチスポルトになると自国の選手が多く、ケリーがミラノ〜サンレモに優勝した時のビチやルーベ優勝の時のミロワールに限られますね。
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この人のことを網羅的に書くとなると本を一冊書かなければならない 笑)ので、ここではモニュメントと世界選についてだけ。


ところで、1989年だったと思いますが、立川の昭和公園で2度目のスーパークリテリウムが開催されました。その時TV放送もあったんですが、解説の方はアマ車連の偉い人でしたが、解説で「このケリー選手っていうのはどういう選手なんでしょう?」と聞かれて、「ケリー選手は若手ですね、まだまだこれからの選手です」と堂々と言ってのけたりしてましたっけ 笑)この人の悪口はいっぱい言えます 笑)当時教育テレビでやっていたテレビスポーツ教室という番組で「自転車競技」の時に出てきて、下りの走り方は「車と同じです、だんだんシフトダウンしていくんです」と目が点になるようなことを言っちょりました 苦笑)

まあ、当時の日本のアマ車連の指向性がはっきり見えますね。ロードなんか興味ないんでしょう。この時代、日本のロードレース界は、海外へ出て行こうとしたらアマンダの千葉さんがバックアップしたチーム・ミチホとか個人で行くしかなかったんでしょう。


さて、このケリー、昨日のアドリ・ファン・デル・プールでも書いたように、5つのモニュメント(ミラノ~サンレモ、ロンデ・ファン・フラーンデレン、パリ~ルーベ、リエージュ~バストーニュ~リエージュ、イル・ロンバルディア)全制覇を惜しいところで逃しています。

モニュメントを全制覇したのはリック・ファン・ローイとメルクスとデ・フラーミンクの3人だけで、5つのうち4つまで取ってるのがやっぱり3人、フレット・デ・ブライネ(ウィキではフランス語読みしてデ・ブリュイヌと表記されてますね。オランダ語の正確な発音ではデ・ブロェイネが近そうですけど、Forvoで聞くとデ・ブライネと聞こえます)が、ロンバルディアが勝てず、ケリーがフランドルに勝てず、そして去年パリ〜ルーベを取ったフィリップ・ジルベールが、あとはミラノ〜サンレモを残しています。

ジルベールは現役だから、ひょっとしてひょっとしたら今年のミラノ〜サンレモを勝ったりするかもしれませんが(まあ、99%ないでしょうけど 苦笑)、デ・ブライネとケリーはそれぞれ勝てなかった一つで2位になっているという惜しさです。

この辺りは興味のある人はウィキペディアの「クラシック(ロードレース)」という項目にとてもわかりやすい表になって出ていますので、ぜひご覧になってください。

さて、デ・ブライネはさすがにもう60年以上前の選手なので、あまり詳しいことはわかりませんが、ショーン・ケリーの方は私が自転車に乗り始めた頃に全盛期でした。そのケリーが惜しくも2位になったフランドルの優勝者は、昨日書いたように、今をときめくマチュー・ファン・デル・プールのお父さん、アドリでした。ケリーとのスプリントではほとんど勝ててなかったという印象なんですが、この時はケリーが強引なスプリントを仕掛けて大失敗。この映像は昨日の記事をご覧ください。

この失敗レースの1週間後のパリ〜ルーベではケリーが見事にアドリの早駆けを切り返して余裕で優勝してます。


ケリーは世界選手権でも惜しかったのがありました。89年のレモンの復活した年、少人数の逃げが決まってのゴールスプリント、全盛時代のケリーが最も得意としたパターン、しかも絶好のポジションでのスプリントでしたが、すでにスプリント力が落ちていたか、レモンとコニシェフに破れて3位止まりでした。


またクラシックスペシャリストに見られてますが、グランツールのブエルタで総合優勝しているし、ツールも総合トップ10が4回もありますからね。短いステージレースでは春先のパリ〜ニース七連覇なんていう記録も持ってます。


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アドリ・ファン・デル・プール

2020.01.12.22:27

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昨日昔の雑誌をゴソゴソ引っ張り出してたら、1986年のツール・ド・フランドル【ロンデ・ファン・フラーンデレン】の写真を見つけました。勝ったのは今をときめくマチュー・ファン・デル・プールのお父さんで、先日なくなったレイモン・プリドールの義理の息子、アドリです。

この選手、1981年にプロ入りし19年間プロ生活を送りますが、最初からシクロ・クロスとロードの両方で好成績をあげていますね。クロスの方は世界戦での優勝は1回だけですが、ほとんど常に上位に入ってます。2位が6回、3位、4位、5位が各2回ずつ。優勝したのは、すでにプリドールの娘と結婚した後の96年で、息子のマチューが1歳の時です。義父のプリドールが万年2位と言われ、アドリもクロスの世界選はここまで万年二位状態だったので、ついに二代にわたる呪縛を破ったと言われたものでした。

いや、でもアドリはクロスよりロードの方が印象的な成績を残しているのかもしれません。確かにプロ生活でほぼ毎年クロスの世界選に出場してますが、ロードの方でもモニュメント(ミラノ〜サンレモ、ツール・ド・フランドル、パリ〜ルーベ、LBL、イル・ロンバルディアの5レース)のすべてで上位に入り、最初に書いたようにフランドルで、そしてLBLでも優勝しています。また、ロードの世界選でも2位になってます。

ミラノ〜サンレモ 7位2回
フランドル 優勝1回、3位1回
パリ〜ルーベ 3位1回
LBL 優勝1回、2位1回
ロンバルディア 2位1回

特に86年のフランドルの優勝は、上の写真のように、スプリントになるとほとんど分が悪かったショーン・ケリーに対する勝利でした(1週間後のパリ〜ルーベでは同じくケリーとのスプリントになりますが、あっさり負けてます)。しかも、フランドルだけが、ケリーが勝てなかった唯一のモニュメント。パリ〜ルーベに2回優勝しているケリーの立場に立てば、今回のパリ〜ルーベはアドリにやるからフランドルをくれ、という気持ちだったのではないでしょうか。


しかし、アドリが勝った二つのモニュメントのフランドルとLBLですが、コースの性格が違い、最近ではフランドルクラシックとアルデンヌクラシックに分けられて、両方に勝つことは難しいどころが、両方に出走する選手も少なくなってます。21世紀になってからは両方勝ったのはジルベールだけですね。

こうしてみると、去年のアムスでものすごい衝撃的な勝ち方をしたマチューですが、残している成績だけを見れば、お父さんを越えるのはまだまだ大変そうです。ただし、おじいちゃんのプリドールは生前、マチューの才能は俺をはるかに凌ぐと言っていたそうですが。


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1985年のパリ〜ルーベ

2020.01.11.21:51

FBで昔のレースのビデオの話になって、そういえば、ツール以外で初めて見たヨーロッパのレースは85年のパリ〜ルーベだったな、と思い出しました。当時所属していたホビーレースチームには有名な人が多く 笑)アメリカのTVで放送されたビデオを持っている人もいて、みんなで見たのでした。いや、びっくりしましたね。泥の中でパンク落車が相次ぎ、泥の石畳ではパンクで一度自転車を止めちゃうともう滑って走り出せない。選手の顔も泥で判別つかない。パリ〜ルーベっていうのは常にこんなレースなんだと思っていたけど、実はこの年のパリ〜ルーベってのが特殊だったのでした。

当時のミロワール誌です。表紙は無論優勝したマルク・マディオ。この選手いかにもフランス人っていう感じの悪党系二枚目でした 笑)
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(追記)マディオの顔が表紙になっているミロワールもありましたので貼っておきます。
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同じアメリカのウィニング誌の表紙は、特集がモゼールだったこともあって、パリ〜ルーベのモゼールです。モゼールは第一次大戦まえのオクターヴ・ラピーズに次いで二人目のパリ〜ルーベ三連覇をしてます(現時点で二人だけ)。
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中はミロワールはいかにもフランス! 笑)というか、とても洗練された切り取り方です。
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一方のウィニングは泥人形のようなレモン。
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YouTubeで探してみたらありました。まさに当時見た番組です。


マディオ、上半身を上下に揺すって、思いっきり重いギアを踏んでますね。全体的にみんな現在より上体が高くサドルの後ろに座っているという印象です。

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レイモン・プリドール頌

2019.11.14.10:08

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我が家にあった当時モノのキーホルダー。プリドールが二つありました。無論オークション 笑)

さらに我が家にあるミロワール誌で一番古い1976年のものから。この年がプリドール最後のツールで、一方、この後一世を風靡するフレディ・マルテンスがツール初出場となったのでした。この歳プリドールは40歳で総合3位になってます。マルテンスの方は総合8位でスプリント賞獲得。

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しかし主なレースの記録を見ると、プリドール、やっぱり2位とか3位が目立ちますね。世界選手権では74年の2位は昨日も書きましたが、61、64、66年と3回3位になってます。

ツールでは3回の2位と5回の3位。大きなレースで優勝がないのか、と言われれば、そんなことはありません。ブエルタでは64年優勝、パリ〜ニースも2勝しているし、クラシックではミラノ〜サンレモやフレッシュ・ワロンヌも優勝してます。フランスのナショナルチャンピオンにもなってますね。

何しろ人気があった選手で、ある時期のフランスの人気投票で好きなフランス人ナンバーワンに輝いたそうですし、惜しいところで勝てなかったことが、さらにその人気をヒートアップさせていったのでしょう。そして1960年にプロ入りしてから77年の引退まで、一貫してメルシエ・チームで走り続けたことでも有名です。無論メルシエはサブスポンサーが次々変わるので、メルシエXXに名称が変わったり、逆にサブスポンサーになってXXメルシェになったりするんですけど、より良い待遇を求めてチームを変えるのが常識の世界で、こうした一本気なところも、そして何より、愚直で誠実であまりベラベラホラを吹かないところも人気の原因だったのかもしれません。


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プリドール死去

2019.11.13.22:53

と言うわけで、最近は往年の名選手の死や病気ばかりが拙ブログのニュースになっております。

最近ではクロスの世界チャンピオンでロードでも参戦すれば台風の目になっているマチュー・ファン・デル・プールのおじいちゃんとして有名ですが、フランスではある時期、間違いなく一番愛されたフランス人の一人だったはずです。

アンクティルの全盛期、そしてそのあとにはメルクスが登場と、ツールに5勝する二人を前に、とうとうマイヨ・ジョーヌを一度も着ることができず、彼ら最大のライバルたちがいなかった時には落車でリタイア(1968年、73年)したり、ジモンディやエマールにマイヨ・ジョーヌをまんまとかっさらわれたり、運がなかったと言われる選手。15年に渡りツールに出場し、その間8回3位以内に入りながら、とうとう1位はなかった選手。

まあ、本人は自分はブエルタにも勝ってるし、プロで200勝近くあげているんだ、と胸を張っていたようですが。世界選手権でも74年にメルクスに次いで2位。そしてツール100年の時のアンケートで史上最高のツールとされた64年、もうツールのコースになることはないであろう、ル・ピュイ・ド・ドームで、総合優勝するアンクティルと肘をぶつけ合う激しいバトルを見せながら、55秒差でやっぱり2位。ツールの歴史には万年2位とか、不運を絵に描いたような選手が何人もいますが、そんな中でも最も印象的な選手の一人だったと思われます。

前にも何度か書いたことですが、プリドールにとって最大のライバルだったアンクティルが53歳で亡くなる時、プリドールは死の直前(前日と書いてある資料もあります)にアンクティルを見舞いに行くと、アンクティルはこう言ったそうです。

「レイモン、悪いな、また君は僕より後だ」

今、アンクティルに遅れること三十年以上遅れてゴールしたプリドール、先にゴールしたアンクティルは彼を笑顔で迎えてくれた、と願ってやみません。

合掌。


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プロフィール

アンコウ

アンコウ
**********************
あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

* 時々コメントが迷惑コメントとしてゴミ箱に入れられることがあるようです。承認待ちが表示されない場合は、ご面倒でも書き直しをお願いします。2017年8月3日記す(22年3月2日更新)

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